町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

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ノスタルジー

 ノスタルジーは、「郷愁」 と訳される。
 故郷の風景などを思い出したとき、鼻腔をツゥーンとかすめていく、あの “懐かしい空気” のようなものを指す言葉だ。

 故郷の風景でなくても、その時代によく聞いていた音楽。
 あるいは、よく食べていた食べ物。

 そういうものに接したとき、私たちは、センチな気分で胸がいっぱいになったり、不思議な高揚感に満たされたりする。

 そういった意味で、すべてのノスタルジーは 「対象」 を伴っている。
 
 懐かしい 「風景」
 懐かしい 「音楽」
 懐かしい 「味」
 
 ノスタルジーは、常に “懐かしさ” を呼び出すための 「対象」 とセットになっている。

 この 「対象」 という言葉を、 「記号」 と表現し直してもいい。

 『ALWAYS 三丁目の夕日』 という映画は、団塊世代の人々が感じる 「懐かしさ」 を、すべて 「記号」 に置き換えた映画だった。

ALWAYS三丁目の夕日

 映画の舞台となったのは、昭和33年の東京。
 そこに登場する 「完成前の東京タワー」 や 「オート3輪」 、あるいは 「お下げ髪の少女」 などという映像は、すべて昭和33年の “記号” といってよかった。

 これらの “記号” は、釣り針が魚の口を捕らえたかのように、半ば強引に、人の記憶の底に眠っていた 「当時の気分」 を浮上させる。
 不意に耳を襲ったナツメロが、一瞬にして、人を過去の世界に連れ戻すように。

 深海から突然釣り上げられた記憶は、鮮度がいい。
 それは、まだ汚れを知らない記憶であり、可能性を保持したままの記憶であり、生きることのほろ苦さを知らない記憶である。
 だから、心地良い。
 それがノスタルジーの正体だ。

 しかし、この世には、もうひとつ 「記号」 を持たないノスタルジーというものが存在する。
 懐かしいんだけど、その “懐かしさ” の理由が分からないというやつ。

 どこかで見たような……、だけど記憶がない。
 記憶がないけど、何か懐かしい……

 私たちは、ときどきそういう気分に襲われることがある。
 デジャブ (既視覚) というのも、その一つかもしれない。
 
 しかし、デジャブでなくても、私たちは、はじめて接した風景や、絵画、音、匂いのなかに、
 「遠い昔、どこかでこれと出会っている」
 という不思議な感覚を味わうことがある。

 たいていの 「懐かしさ」 には、それを 「懐かしい」 と感じる根拠があるはずだが、その手の 「懐かしさ」 には、根拠……すなわち 「対象」 がない。

 対象のないノスタルジーには、どこか 「不安」 の影が忍び寄る。
 「懐かしい」 と感じながら、 「懐かしさ」 を感じているはずの “自己” をその場に見出すことができないからだ。

 「その場にいなかったはずの自分が、なぜその光景に懐かしさを感じるのか?」
 あるいは、
 「もし、自分が懐かしいと感じるのだとしたら、そのとき自分はどこに立っていたのか?」

 ノスタルジーが、やわなセンチメンタリズムを離れて、虚無の深淵を見せるのはこのときだ。

 すべての人間は、みな自分が原初の光景として見た 「荒野」 を抱えている。
 ノスタルジーとは、実は、この原初の荒野のことをいう。

 そこには誰もいない。
 何もない。
 だから、そこがどこなのか、そこには、どんな風が吹いているのか。
 それは、誰も言葉にできない。

 多くの学者や宗教家が、なんとかその 「荒野」 に解明のメスを入れようとした。

 生物学者たちは、この人間が共通して持っている 「荒野の原像」 を 「DNAに書きこまれた “生命情報” 」 などと説明するかもしれない。

 精神分析学者たちがいう 「集合無意識」 などというのも、その一つかもしれない。

 東洋の説明体系においては、この 「対象を持たないノスタルジー」 のことを 「前世の記憶」 などと説明することがある。

 だけど、人間が抱いている 「原初の荒野」 は、科学や、哲学や、宗教では解明することができない。
 
 私は、この 「荒野」 の感覚こそが 「文学」 の原点だと思っている。
 それは、 「絵画」 の原点でもあり、 「音楽」 の原点でもある。

ハンマースホイ 居間に射す陽光0005

▲ ハンマースホイの描いた 『居間に射す光』
 彼の絵は、まさに 「対象とつながらないノスタルジー」 を表現している。
 この絵が、誰にとっても懐かしく感じられるとしたら、その温かそうな陽射しを、誰もがどこかで経験しているからだ。
 しかし、その経験がいつ、どこのものであったかは、誰も特定できない。
 特定しようとすればするほど、逆に自分と、自分の記憶が乖離していく。
 だからハンマースホイの絵からは、懐かしさと同時にかすかな 「不安」 と 「寂寥(せきりょう) 」 が忍び寄ってくる。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 05:23 | コメント(0)| トラックバック(0)

夫婦の会話の危機

 あるテレビ番組で、 「現代の夫婦の間には、会話が本当に成り立っているのか?」 という実験を行っていた。
 街を歩いていた何組かの夫婦を実際にスタジオに連れ込み、ある一部のテーマだけを除いて、いったい何分会話が持つのかを実験したのである。

 この実験のカギは、 “ある一部のテーマを除いて” というところにあった。
 それは、 「子供と実家の話題」 だったのである。

 すると、この 「子供」 と 「実家」 という話題を除くと、ほとんどの夫婦は会話が10分も持続しないことが分かった。

 番組はこれを、 「熟年離婚」 へ至る “落とし穴” という方向に視聴者をリードしていく。
 すなわち、 「子供とそれぞれの実家」 に関わること以外では、今の一般的な夫婦は、お互いに対する関心を失っていると指摘する。

 会話がないのは、関心がないことの証拠。
 夫婦の間から会話が消えたとき、それはお互いの関係が切れたことを意味する…という、ひとまずの推論がそこで立てられる。

 そこで、レギュラーコメンテーターたちの意見が入った。
 ある中年の男性キャスターはいう。

 「だって、妻の話はまどろっこしいんだもん。まず結論がすぐに分からない。どうでもいいような人のうわさ話が延々と続く。
 で、それでどうしたの? …と質問しようと思うと、もう話が別のテーマに移っている。
 こっちが忙しいときは、まず結論をはっきり出すような会話を選んでほしい」

 それに対する女性キャスターの反論。

 「女は話しながら筋立てを構成していく。女同士はそのプロセスとスピード感に慣れているから、その方が会話が盛り上がる。
 なのに、男性はいちいち “論理” だの “結論” だのというので、話がブツブツ切られてしまう。
 それに、女は自分の話を聞いてくれるだけで、ストレスが解消できる。
 女のうわさ話とか愚痴というのは、実はストレスを解消したいときのSOSなのだ。
 女同士ならそれが分かるが、それを理解できない男がいる。
 そういう男に対しては、たとえ夫であろうとも、優しさの欠如を感じてしまう。
 夫婦というのは、 “無駄な会話” が許される関係のことをいうのではなかろうか。
 だから、妻の会話を “無駄だ” と一言で切り捨てる夫からは、やがて気持ちが離れていくと思う」

 なるほど。
 ここには、熟年離婚に傾いていく妻の気持ちが簡潔にまとめられているような気もする。

 要するに、夫婦の会話のギクシャク度が増すと、二人の関係が疎遠なものになっていく…ということなのだろう。

 なにもこれは、 「夫婦」 に限ったことではない。
 広く 「男と女」 の問題と言い換えてもいいだろう。

映画マンハッタン複写

 なぜ、男と女の会話は、それぞれ別の原理によって支えられているのか?

 これに関して、斎藤環さんという人が 『関係する女、所有する男』 (講談社現代新書) という本のなかで面白いことを書いている。

 要は、男は 「所有すること」 を求める動物である。
 それに対して、女は 「関係すること」 を求める動物である。
 …と、彼はいうのだ。

 (もちろんこのような差異は、動物としての生理学的な性差から生まれるものではなく、あくまでも文化概念に由来するものだが、その原理を説明していると長くなるので省く)

 で、 「所有」 を求める男性は、常に 「対象を視覚化し、言語化し、さらに概念化してこれを意のままに操作しようとする」 。

 それに対して女性は、
 「言葉を世界と関係するためにだけ使用する。男の言葉はしばしば独り言に近くなるけれど、女の言葉は常に相手を必要とする。
 男は言葉からできるだけ情緒的なものを取り除こうとするが、女は言葉を情緒の伝達のために使う」 。

 で、斉藤さんは、次のように話を進める。

 「女性は、語るべき対象を分析などしない。むしろ対象をまるごと受け入れる。受け入れることで十分な満足を得られるので、欲望の対象を言語化したり、概念化したりしようとは思わない。
 それよりも、相手が感じたり考えたりしていることを察知し、それに反応して、適切な感情を催すことを優先する」

 で、そこから得られる教訓を、斎藤氏は次のようにまとめる。

 「男が会話するのは 『情報伝達』 が目的である。
 だから男は、いつも会話の結論を急ぐ。
 いっぽう女は、結論を出すことよりも、 『会話そのもの』 を楽しむことを目的とする。
 女性からみれば、男性の会話はしばしば殺伐とした味気ないものに見えるだろう。
 だから男性は、女性の愚痴に、すぐに答を出してはいけない。
 なぜなら女性の (会話の) 目的は、 『答を出してもらう』 こと以上に、 『話を聞いてもらう』 こと、そして 『言うことだけ言ってすっきりする』 ことにあるからだ」

 熟年男性の 「キャンピングカー1人旅」 が増えているという話がある。
 「今まで旅行に付いてきてくれたカミさんが、だんだん行動を共にしてくれなくなった」
 と訴える男性がちらほら現れるようになった。

 それはそれで、今後は新しい 「旅行文化」 を形成していくように思う。
 そして、そういう 「1人旅」 も旅行のひとつの楽しみ方になっていくだろう。

 しかしその前に、旦那さんは、まず夫婦の会話の成り立ちを勉強し直すのもいいかもしれない。
 だって、せっかく長く連れ添った夫婦なんだから、 「話していて楽しい」 ってことは、やはり大事なことだと思うのだ。



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 23:58 | コメント(8)| トラックバック(0)

その一服は必要か

 「ちょっと待て、今その一服は、必要か?」

 タバコを一本数前に、そういうおまじないを唱えるようになった。

セーヌ左岸の恋よりスキャナ

 結局、いまだ禁煙には至っていない。
 ただ、 “節煙” は進んでいる。

 今までは、一日に一箱以上。
 酒が進んだりすると、二箱ぐらい消費していたけれど、値上がりもあって、一日に一箱以上は買わないようにした。

 ないものは吸えない。

 だから、最初からなければいいのだろうけれど、やはり、いろいろな作業の節目を自覚するときの “区切り” として、あの 「一服」 は欲しい。

 実際に、ものを書いたりすると、その一服の合間に、新しい発想が浮かんで次の文章が生まれたりする。
 だから、自分の健康を損なうにせよ、 「小さな気分転換」 の効果はあると信じている。

 しかし、喫煙というのは 「無意識の習慣」 だから、 “区切り” が次第にアイマイになっていく。
 いつの間にか、意味もなくダラダラと吸い続けるようになる。

 そういった意味で、
 「ちょっと待て、今その一服は、必要か?」
 と自分で問うことはいいことだと思う。

 結局そう問うことで、取り出したタバコを、またもとのケースに収めることが多くなった。

 タバコなんかなくたって、生きていける。
 実際に、そうだ。
 現に、今の会社は指定場所以外は禁煙なので、仕事中にタバコを吸うことはない。
 家にいても、リビングでは吸わない。
 正月はテレビの前で、一日中ダラダラと酒を飲んでいたが、タバコなど一本も吸わなくても平気だった。

 問題は、自宅のパソコンの前に座ったとき。
 結局、このときに集中して吸っている。

 いっとき電子タバコにトライしたことがあったけど、味に対する違和感が払拭しきれなかったことと、充電が面倒だったので、止めてしまった。
 携帯電話などの充電は面倒に感じないけれど、電子タバコの充電が面倒だと感じるのは、やはり 「必需品」 と 「嗜好品」 の違いがあるからだろう。

 嗜好品ならば、止めることはできる。
 
 「ちょっと待て、タバコは、人生に必要か?」

 その心境になるには、あとどのくらいかかるだろう。

 …とか、いいながら、この原稿…タバコを吸いながら書いてしまった (汗) 。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 23:40 | コメント(6)| トラックバック(0)

荒野の炎

 「荒野の炎」 という訳が合っているのか、どうか分からない、
 原題は、「Wildfire (ワイルドファイアー) 」 。
 「野生の炎」 というのが、正しいのかもしれない。

マイケル・マーフィージャケ

 1945年生まれのカントリー・シンガー、マイケル・マーフィーの歌った曲で、70年代に全米トップ3位になったという。

 70年代というのは、いちばん洋楽にのめり込んでいた時代なのに、この曲をリアルタイムでは聞いていない。

 だいぶ経ってから、たぶん、ラジオのFMか、FEN で聞いたのだと思う。
 良い曲だと思って、すぐにテープに落とした。



 YOUTUBEで、この曲を拾うまで、てっきり 「焚き火」 の歌かと思っていた。
 歌詞をたどると、 「ワイルドファイアー」 というのは、馬の名前であることが分かった。
 
 吹雪の夜、ワイルドファイアーと名付けた馬が、馬小屋から失踪した。
 飼い主の少女が、その馬の名を呼びつづけながら、荒野をさまよい続けた。
 そして、地上から姿を消した。

 しかし、雪の季節になると、彼女がその馬の背に乗って、イエロー・マウンテンを下って、 “僕” を迎えに来る。

 そんな幻想的な情景を綴った歌だという。

 しかし、この曲はずっと私にとっては、 “焚き火” の歌なのだ。
 人知れぬ山奥で、そっと焚き火に手をかざすときの曲。

 頭上には、星が舞い、地には風が這う。
 そのような、大自然の中で孤絶した人間に、いっときの温かさを与えてくれる焚き火。
 そこに手をかざすとき、いつも耳の中で、マイケル・マーフィーの 『ワイルドファイアー』 が鳴っている。

 イントロのアコースティックギターが、まるで、虚空をくるくると舞う火の粉の回転を思わせる。
 その火の粉が、静かに空に舞い上がり、そのまま星に昇華する。
 
 人の耳に届く “音楽” でありながら、自然の 「沈黙」 を歌っている。
 そんな曲に思えるのだ。

 
音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 19:43 | コメント(0)| トラックバック(0)

山口冨士夫の精神

 ちょっとだけ知り合いの人が作っている音楽系ブログを眺めていたら、そこに 「山口冨士夫」 という名前を見出して、懐かしい気分になった。

 ロックギタリストである。
 70年代に、 「村八分」 というバンドで活躍し、その音とパフォーマンスが神話として残った伝説の人だ。

 ▼ 一世を風靡した時代の山口冨士夫
山口冨士夫001

 が、その後…というか、全盛期においても、気分屋で、演奏にムラがあり、しかも、バンド解散後は刑務所暮らし (ドラッグ系犯罪) が多く、そして身体を傷めて闘病暮らし。
 人生の 「- (マイナス) 」 部分をすべて背負って生きてきたような人だった。

 ▼ 村八分
村八分002

 だけど、 「村八分」 の音楽はすごかった。
 ベースとなっているのは、ブルース、R&B、ロックンロールで、しかもそれを極めてオーソドックスなスタイルで演奏する。

 にもかかわらず、それがステージ上のパフォーマンスとなったときは、地獄のカマが開いたような亡者たちの饗宴となる。

 それは、どんな世界か?

 唯一のアルバムといわれる京大西部講堂でのライブを収録したときの曲名を拾ってみる。

 「あっ !!」
 「夢うつつ」
 「鼻からちょうちん」
 「のうみそ半分」
 「水たまり」
 「にげろ」
 「馬の骨」
 「ねたのよい」
 「んッ !!」
 
 こういう曲名を見ただけでも、彼らが何を追っていたかが分かるだろう。

 カッコいい英語とお洒落な日本語が混ざった耳ざわりのよい和製ロック。小粋なフレーズでヒット狙いをする和製ポップス。
 そんなものから、いったいどこまで遠ざかって行けるのか?
 それが、彼らのロックだったように思う。

 だから、村八分の音には、時代のメインストリームを歩むもの総てに向けられた 「嫌悪」 と 「軽蔑」 が感じられたし、 「血」 と 「退廃」 の匂いがした。

 女性器を、びくびくしながら、そぉっと開いてみたら、その奥に広がっていたのは 「暗闇」 ではなく、真っ赤に燃えさかる 「溶鉱炉」 だった、という感じの衝撃。
 そんなものが、心臓を直撃してくる音楽だった。

 「村八分」 の目指したものを、もっと分かりやすい形にしたものがパンクだ。
 彼らから数年遅れて、イギリスではセックスピストルズがデビューした。

 だから、村八分のことを 「パンクの先駆者」 などと表現をする人がいるかもしれない。
 しかし、あの頃の彼らだったら、パンクという “くくられ方” をされること自体に反発しただろう。

 実は、私自身は、そのライブを見たことがない。
 学生時代に、ちょっとバンドを組んでいた男が、そのおっかけをやっていて、そいつから聞かされた話がメインとなっている。

 一度はその伝説のライブを見たいと思っていたけれど、それもかなわぬうちに彼らは解散。
 結局、 “唯一のアルバム” と後にいわれることになる 『村八分 ライブ』 を買って、それをターンテーブルに載せて聞くしかなかった。

 やがて、レコードプレイヤーも家から消えて、彼らの音も身辺から遠ざかった。

村八分ライブジャケ

 そんな状態が、もう30年以上続いたのかな。
 だから、その音楽系ブログを読むまで、 「山口冨士夫」 という名前も忘れていたし、 「村八分」 というバンドの音も忘れていた。

 しかし、その音楽ブログを開き、そこに 「山口冨士夫」 の名を見出したとき、
 「ああ、生きてたのか」
 って感じのため息が漏れた。
 彼の公式ブログへのリンクが張ってあったので、さっそく飛んでみた。

 「復活ライブ」
 そんな見出しが踊っていた。
 長い闘病生活から抜け出し、最近また音楽活動を再開したらしい。

 1949年生まれというから、いま61歳。
 最近の写真を見て、深く刻まれたシワに、一種の凄みを感じた。

 「これがロッカーの顔だ」
 そう思った。

山口冨士夫002

 YOUTUBE経由で張られたライブを見て、さらに凄みを感じた。

 「これがロックだ」
 そう思った。

 ちょっと、往年のルー・リードを思わせる、気怠い立ち居振る舞い。
 出す音も、昔のパワーみなぎる音ではない。
 しかし、ロックというのは、
 「音楽形式のことではなく、生き方だ」
 という主張が伝わるような演奏だ。

 いい意味で、へろへろ。
 いい加減。
 だけど、なんか怖い。

 表面は、ミズスマシが浮いているような涼しげな池なんだけど、ちょっと足を踏み入れると、ドロドロした藻が足に絡みつき、奥へ奥へと引っぱられる感覚。

 そんな音だ。

 ▼ いきなりサンシャイン


 山口冨士夫のギターからは、まさにロックを感じる。
 言葉でそれを伝えるのは難しいけれど、自分が 「感覚として知っているロック」 というのは、こういうものだ。

 つまり、永遠に 「未完の音楽」 。
 完成形を目指すために演奏するんだけれど、演奏し終わった時点で、完成形がさらに先延ばしになっちゃう音楽。
 追いついたとたんに遠のいていく “陽炎 (かげろう) ” のような音楽。
 ロックってのは、そんなもんだと思う。

 だから、その “陽炎” を生涯追い続けてきた人間には、凄みが出るのだ。
 彼の人生は、死ぬまで完結しないわけだから。

 で、山口冨士夫のブログには、最近の記事として、こんなことが書かれていた。
 タイガーマスクの主人公 “伊達直人” の名で、児童養護施設にランドセルを寄付した人のニュースに触れたものだ。

 …………………………………………………………………

 この所のタイガーマスク (伊達直人さん) のように、生きたいなあ……。
 俺も、60年以上前の第二次大戦の、犠牲者なのです。 (※引用者註、彼には黒人の血が混じっており、孤児院で育った)
 差別され、馬鹿にされて、辱めばかりの小学生だったんだ。
 小学校2年の時には、ナイフまで突きつけられたんだよー。
 今ではハーフとか言われてもてはやされてるが、当時は、ヤバかったなあ……。
 何しろ敵の子。
 いじめな~んてものではなかったんだ。
 殴られ、ユメを奪われて、差別もすごかった。
 俺たちが入ってゆくだけで、ラーメン屋の客が、まるでゴミを見るみたいに、黙って皆なが、出てゆく……。
 そんな世の中だったんだ。
 ブルースだなあ。
 学校では、ボロ服着てさ、ランドセルも、ぼろぼろ。
 だから毎日ないていたんだ。
 だから、ロックンロールによけいハマッていったんだ。
 今の子たちも、事情はちがっても、にたようなものだろうな。
 皆んなが大変な思いをしていることは、とても、辛いな。
 そこに、タイガーマスクが、あらわれた。
 すごいよー! だから、昔からのみんな出ておいでよー! 感謝しようよ。
 最近のヒドイニュースの中で、もし、これが、本当なら、すごいことだと思ってます。
 堂々と生きようよなあ。タイガーマスク有難う。

 …………………………………………………………………

 ところが、このランドセル寄付騒動は、一部のメディアからは批判や揶揄にさらされている。

 「昭和の感性を脱しきれない、時代錯誤的な偽善」
 とか。

 でも、そういうことを言ってるヤツらの方が、よっぽどアタマの中が “昭和” しているよ。

 どうして、メディアの中枢で発言する人たちは、ちょっと斜 (はす) に構えた見方をカッコいいと思ってしまうのだろう。
 そんな斜めに構えたスタンスは、偏差値秀才が、 「庶民にモノの見方を教えてやろうか」 と、その “優秀なアタマ” で思いついただけのこと。
 ボロボロのランドセルしか持たされず、差別され続けてきた山口冨士夫の心境などには思い至らない。

 だけど、本物の 「血」 と 「退廃」 を知っている山口冨士夫は、タイガーマスクにストレートな賛辞を送る。

 遊戯的な語り口で社会を斜めに見るインテリたちには、その彼の凄さが分からない。

 山口冨士夫、そのうちライブに行くからな。

 ▼ 伝説の 「村八分」 時代の演奏 『水たまり』
   こういうオーソドックスなミディアムテンポのブルースもカッコいい。




音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 03:11 | コメント(6)| トラックバック(0)

焚き火で育つ感性

 一般社団法人 「日本RV協会」 (JRVA) のHPに掲載されているプレスリリースを読むと、
 「親子でキャンピングカー旅行することで、子供の情操を高めたり、しつけを学ばせることができる」
 と思う親たちが増えているという。

 これは、同協会が運営しているHPを閲覧するキャンピングカーユーザーを対象に行ったアンケート調査から判明したもの。
 それによると、全体の75.3%の人が、 「キャンピングカーは子供の情操教育やしつけに有益」 と考えている様子が浮かび上がってきたと伝えている。

 その理由としては、
 「1台のクルマの中で話す機会が作れたので、家族の団らんが得られたから」 。
 あるいは、
 「旅先で自然に接し、自然に対する理解が深まったから」 という回答が寄せられている。

大野路キャンプ場

 キャンピングカーは、必ずしも自然を求める旅ばかりを得意とするわけではないが、それでも、普通の乗用車旅行に比べると、自然とのマッチングはいい。
 実際に、子供を自然の中で遊ばせるためにキャンプ場を利用しているファミリーは多い。

 そういう親たちに話を聞いてみると、たいてい 「自然と接することの楽しさ、面白さを学ばせたい」 という答が返ってくる。

 その理由というのが、まさにRV協会の調査で分かったととおり、
 「子供の情操が高まるから」
 というものだった。

 こういう話を聞くたびに、私はある映像ジャーナリストの人が話してくれた 「焚き火の話」 を思い出す。
 まさに、キャンプを楽しむ親子でなければ得られないような体験だと思うからだ。

 話してくれたのは、坂田和人さん。
 以前、このブログでも紹介した 『キャンプに連れていく親は、子供を伸ばす!』 という本を書かれた方である。

坂田和人氏
▲ 坂田さん近影

 坂田さんは、キャンプライフを繰り返すたびに、焚き火というものの “不思議な力” にますます心を奪われてきたという。

 焚き火には、人間の心を開かせる力がある。
 家族同士でも。
 友達同士でも。
 あるいは、見知らぬ人同士でも。
 炎を見つめる瞳を通じて、心と心が共振していく。

焚き火043

 実際に、直火を禁止するキャンプ場でも、 「焚き火台」 を使う焚き火はたいてい許可されており、近年のキャンプ場では、その焚き火が静かなブームとなっている。

 焚き火のいったい何が、人の心を捉えるのか。

 坂田さんは、大勢の子供たちを連れてキャンプを楽しんでいたとき、焚き火の中を双眼鏡で覗き込んでいた子供が、 「あっ!」 と叫んだときの声を聞き逃さなかった

 「私、火の中に入っちゃったぁ!」
 と、その子はいった。

 それをきっかけに、子供たちが割れ先にと、次々と双眼鏡を回して、焚き火の中を覗き込んだ。
 「すっげぇ、火の国の探検だぁ!」
 どの子も、感嘆の声をあげた。

焚き火068

 その光景に接した坂田さんは、それを思い出しながら語る。

 「焚き火の中で発見した世界は、きっとテレビゲームのバーチャル世界をも凌駕する光景だったんでしょうね。
 僕も覗いてみて、テレビを見るより面白かったですから。
 つまり、自然の中には、どんな映像文明よりも人間を感動させるヴィジュアルが潜んでいるはずなんですが、われわれがそれを見つめる目を曇らせているだけなのかもしれません」

 そう語った後で、坂田さんは、
 「キャンプをすると親子の対話が生まれるということは、焚き火をするとよく分かるんです」
 とも。

焚き火と子供(塩原GV)

 実際に、キャンプ場で焚き火を囲んでいるうちに、いつのまにか、家庭で話さないような会話を交わしていた、と述懐するファミリーは多い。
 子供は、焚き火を囲むことによって、親に対するわだかまりが消えていくことを感じ、親は親で、子供を支配して説得しようという気持ちを忘れる。

 「やっぱり、焚き火は人類が最初に手に入れた “文明” なんでしょうね」
 と坂田さんはいう。

 「人類は、火を確保し、それをコントロールすることによって、はじめて野生動物の恐怖などから逃れることができたわけですね。
 そのとき人間は “温かさ” や “明るさ” と同時に、はじめて “安全” 、 “安心” などという概念を手に入れたのかもしれません。
 だから、焚き火には、人間同士の緊張を解いて、お互いにホッとさせる力があるんです」

 だから、
 「話さなくてもいい」
 という。

 つまり、焚き火をしていると、普段は 「気まずいもの」 でしかない沈黙が、黙っていることの心地よさも教えてくれる 「豊かな沈黙」 に変わっていく。

 「炎を見つめながら、同じ空間を共有しているだけで、言葉では表現できない気持ちを伝え合っていけるのが、焚き火なんです。
 そういうことは、むしろ大人よりも、子供の方が敏感に感じるでしょうね」

 坂田さんは自信を持って、こう言い切る。

 RV協会のアンケート調査の結果も、このようなことを反映しているのかもしれない。


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campingcar | 投稿者 町田編集長 19:55 | コメント(4)| トラックバック(0)

キャンカー1人旅

 「まもなく定年を迎える夫が、 『長いこと苦労をかけたから定年後はキャンピングカーで全国を回ろう。楽しい旅行をしような』 と言うんです。どうやって断ったらいいんでしょう?」

 いきなりそんな主婦の会話から始まる記事があったので、ギョッとした。
 『週刊朝日』 の1月28日号に掲載されたもので、シニアルネサンス財団事務局長の河合和さんという方に取材した記者が、それをまとめたものだった。

 河合さんは、定年後のライフスタイルをコンサルティングする仕事に携わる方で、各地でいろいろな講演する機会があるらしい。
 ある講演が終わった後、一人の主婦が河合さんに質問した内容が、上記のものであったという。

 先を少し読んでみると、どうやらその主婦の方は、 「キャンピングカー旅行」 そのものを拒否しているのではないらしい。
 旅行に付随する料理や洗濯。
 そのような家事を、旅行先でも自分が負担しなければならないことを危惧しての発言だったようである。

 だから、それに対する河合さんの反応も、
 「家庭において、一切の家事を妻に任せていた夫の方に問題がある」
 という常識的なコメントで結論をまとめていた。

 しかし、家族に協力しながらキャンピングカー旅行を楽しんできた夫族においても、 “妻の離反” は進んでいるようだ。
 それが、昨日のカッチさんのコメント。

 家族が次第にキャンピングカー旅行に付いてこなくなり、一人旅をしては、夜は独りで酒を飲むことが多くなっているという。
 「さびしい~」 といいながら、でも、カッチさんの文面からは、それはそれで味わいがある…というニュアンスが伝わってきた。

 たぶん、そういうことはこれからは増えていくだろう。
 家族単位で旅を楽しむことが理想であるかもしれないが、家族の構成員にもそれぞれの考え方があり、それぞれの価値観があり、それぞれの生活がある。

 さらに、ある程度の年齢になると、伴侶の死別や離婚という問題を抱えることもあろう。
 だから、 「おひとりさまライフ」 は、今後キャンピングカー乗りの間でも大きなテーマになりそうな気がする。

 大事なことは、 「それでもキャンピングカーに乗り続ける」 ということなのだ。

 一人旅がさびしいというのであれば、そのさびしさの中にも新しい楽しみを見つけてくれるのがキャンピングカー旅行だと思うし、また、同じ境遇にいるキャンピングカー乗り同士がどこかで出会い、他者と交わることから新しいライフスタイルを見つけ出すこともあるだろう。

 むしろ、 「一人でいることにも耐えられる文化」 をキャンピングカーがつくり出していくという、そのポテンシャリティに注目すべきだと思う。
 そして、そういう 「一人」 同士が集まって、今までとはまったく異なるコミュニティを形成する可能性だってある。

ハイマーキャンプ風景……

 キャンピングカーの家族旅行というと、いつもハイマージャパンの安達二葉子社長が話していたことを思い出す。
 安達さんは、家族というものが必ずしも 「妻と夫と子供二人」 という標準世帯の形態をとる必要がないことを、ヨーロッパ旅行の体験から悟ったという。

ハイマーJ安達社長

 ドイツのハイマー社のキャンピングカーを25年間輸入してきた安達さんは、若い頃、今は亡くなられたご主人と一緒に、ハイマー社のモーターホームを使ってヨーロッパのキャンプ場を回った。

 そのとき驚いたのは、屈託のない表情で、子供たちをキャンプ場に連れてきて楽しませているシングルマザーたちの多さだった。

 「向こうでは、親がシングルでも “家族は家族” なんです。
 親が一人欠けていても、キャンプ旅行そのものが楽しければ、子供は幸せなんです。
 そのことをヨーロッパの人たちはよく理解しているから、そういう家族に対しても、周りの人の目が温かいんです」
 安達さんは、そういう。

 たった一人でキャンピングカー旅行をしている男の人たちは、さらに多いという。

 「日本では、一人でキャンピングカー旅行をしている男の人に対して、 “奥様にフラれたのかな?” 、 “ずっと淋しい独身生活をしているのかな?” などと要らぬ目で見る人たちが多いのですが、ヨーロッパ人はそうは考えない。
 向こうでキャンピングカー旅行を楽しむ人たちは主にシニア層ですが、そうなると奥様に先立たれる旦那さんも増えてくる。
 そういう人たちが、一人になってもキャンピングカーを捨てなくてすむ風土が形成されているということは、私は素晴らしいことだと思う」

 そう語る安達さんの心には、すでにご主人を亡くされたという切ない気持ちが去来しているのかもしれない。

ハイマーキャンプ風景2

 もちろん安達さんも、キャンピングカーが家族同士で楽しめる格好のアイテムであり、それによって家族間の絆が深まることを前提として話している。
 
 しかし、家族の形態は、ずっと不変であるとは限らない。
 父親と母親が二人ともしっかりそろい、そこに子供たちが配されるという 「標準世帯」 の構造が絶対的に正しいものであるのかどうか。

 それが 「家族」 のスタンダードだとしたら、たとえば両親のどちらかを亡くしたり、あるいはやむを得ない事情によって離婚してしまった家庭は 「家族」 ではないのか?

 どうやら、ヨーロッパ人たちは、昔からそのような固定的な家族観から脱出していたようなのだ。

 安達さんはいう。
 「日本には “片親” などという差別的な言葉が残っており、夫婦のどちらかが亡くなったり、離婚したりした親は、まるで自分が “家族の幸せ” から取り残されてしまったような思いを抱く人たちがけっこういると思います。でもヨーロッパのキャンプ場では、シングルたちへの眼差しがとても温かい」

 もし、シングルマザーが、自分の子供たちを連れて楽しくキャンピングカー旅行ができるような世の中が来れば、 「日本も確実に変わる」 と彼女はいう。

 これから高齢化社会を迎える日本において、シングルのキャンピングカー旅行を快適にするための精神風土をつくっていくことは、避けて通れない課題であるとも。

 一人で旅行していても、その思い出の中に 「家族」 が生きていれば、それは立派なファミリー旅行である。

 誰もがそう思えるキャンピングカー文化が形成されたとき、はじめて 「成熟」 という言葉が使えるのかもしれない。

関連記事「ひとりのくるま旅」/a>


campingcar | 投稿者 町田編集長 01:37 | コメント(6)| トラックバック(0)

車中泊の社会実験

 「道の駅」 などにおける車中泊が急増し、トラブルなども表面化したことを踏まえ、 「車中泊利用者のニーズ」 と 「道の駅としてできるサービス」 の共生点を探ろうという動きが昨年から活発になっている。

 このような研究を進めている団体の一つに 「東北 『道の駅』 車中泊研究会」 がある。

 同研究会の目的は、 「車中泊」 を、利用者側と管理者側に分けて考えることにより、利用者側には守るべきマナーやルールづくりための啓蒙を行ない、受け入れる側には、 「車中泊」 をきっかけに地域の観光産業を活性化させる可能性を提案するなど、両者の利益が合致するポイントを探るところにある。

 構成メンバーも、アカデミズムと行政のバランスを巧みにとり、大学教授、特定非営利活動法人 「東北みち会議」 、東北各県自治体の土木課、道路整備課、観光産業振興課などのスペシャリストたちが顔を揃えるという “厚み” を持ったもの。

 行動としては、まず車中泊利用者の実態調査が必要であるという考えに立ち、昨年秋に、東北の 「道の駅」 における車中泊利用者の実態調査を行なっている。

▼ 聴き取り調査の行なわれた東北の道の駅 「いいで」 (上)
  と 「よつくら港」 (下)

道の駅いいで

道の駅よつくら港

 この新春、その結果を紹介するプレスリリースが発表されたが、そこから、車中泊利用者たちのニーズや行動形態、さらに 「道の駅」 管理者たちの希望や心配事など、日本の 「車中泊」 ブームを支えるさまざまな興味深いデータが浮かび上がってきた。
 
 具体的な調査方法や数値の解説は、同研究会のリリースに任せるとして、ここでは、おおまかな傾向だけを紹介する。


 ● 熟年層の利用者が6割

 まず、車中泊利用者の年齢では、50代~60代の熟年層が6割を占め、その同行者のほとんどは夫婦で、それが全体の5割に達することが分かった。

 一方、 「同行者なし」 という単独旅行者も24パーセント存在したが、その場合は、車中泊の目的もはっきりしており、登山、釣りなどの趣味を極めるための宿泊であることが明白で、旅の日程も長くなる傾向があるという。
 職業では、会社員が38パーセントと最も多く、次が自営業の22パーセント。3番目は自由業の17パーセントであった。

 また、比較的最近になって始めた人が多く、車中泊歴としては 「5年以内」 と答えた人が47パーセントに達した。
 それを見ても、車中泊という旅のスタイルがここ数年内に急速に確立されてきたものであることが見て取れる。


 ● 最も多いのは車中泊用の改造車両

 宿泊に利用している車両に関しては、 「車中泊用に改造された車両」 というものが大きな比重を占め、それが全体の34パーセントに達した。

 “車中泊用の改造車両” というのは、オーナーが車中泊用に自分で室内改造を施したもので、いわば 「乗用車以上・キャンピングカー未満」 といったもの。作り込みは個人によって差が出るが、いずれもその1台で 「継続して車中泊を行える」 仕様になったものを指す。
 車種としては、ワンボックスカー (48パーセント) を主体としながらも、ミニバン、ステーションワゴン、軽自動車など多岐にわたるという。

 2番目に多かったのは、やはりキャンピングカーで、これが全体の32パーセントに及んだ。
 種類別に見ると、キャブコンが多く、キャンピングカーのなかでは46パーセントを占め、次がバンコンの24パーセントだという。軽キャンパーは9パーセント、フルコンは6パーセントであった。 (※ キャンピングカーの種類別調査では、特にお願いして詳しい調査結果を別に用意してもらった)

▼ 湯YOUパークのキャブコン
湯YOUパークのキャブコン

 3番目は、 “ノーマル普通車” 。
 これが29パーセント。
 リリースでは、単に 「普通車」 としてしか書かれていないが、一般の乗用車のシートをリクライニングしたぐらいの形で仮眠を取った人々のことが想定される。

足柄山SA車中泊の朝

 ● 観光・温泉などの目的が目立つ

 車中泊をすることの目的としては、リリースでは次のような結果が報告されている。
 「観光」  31パーセント
 「温泉・保養」  17パーセント
 「レジャー」  11パーセント
 「ドライブ」  8パーセント
 「食事」  7パーセント、
 「祭り・行事」  7パーセント
 「ビジネス」  3パーセント
 「ショッピング」  2パーセント

 やはり、 「観光」 と 「温泉」 が目立つが、それ以外は個別の目的が僅差で並び、突出したものを探し出すのは難しい。ここからは自動車旅行の目的が多様化しているということを読みとればいいのかもしれない。

車中泊中国自動車道

 ● 最大の理由は “自由な旅” の実現

 「車中泊による旅行の理由」 を尋ねたところ、 「自由な旅のプランを求めるため」 という回答が全体の29パーセントを占め、2番目の 「宿泊費の節約」 (27パーセント) をわずかだが上回って、一番の理由として挙がった。
 さらに 「趣味として」 という回答も21パーセントを占めて3番目になった。この中には 「クルマの中で寝ること自体が趣味」 という答も含まれるという。

 「車中泊」 という言葉の響きから、 「ホテル代を節約するため」 というイメージを浮かべる人が多いだろうが、この調査を見るかぎり、必ずしもそうとは言い切れない。
 「節約」 よりも、むしろ 「パック旅行とは違う自分だけのオリジナル旅行をしている」 という満足感の追求みたいなものが、ここからは浮かび上がってくる。
 これに 「趣味として」 という答を合わせて考えると、今までの自動車旅行とは全く異なる、新たな旅のスタイルが生まれつつあるようにも思う。 


 ● マナーについては温度差が

 「車中泊」 においては、マナーの問題がよく採り上げられる。
 今回の調査でも 「道の駅利用でマナー違反と思う行為は?」 という設問を設け、利用者のマナー意識を調査している。

 それによると、 「ゴミの投棄」 と答えた人が最も多く、19パーセントに達した。
 以下、次のようになった。
 「 (洗面所等での) 炊事」  15パーセント
 「 (洗面所等での) 食器洗い」  13パーセント
 「 (洗面所等の) 電源の利用」  12パーセント
 「 (洗面所等での) 洗濯」  10パーセント
 「発電機の利用」  11パーセント
 「給水」  9パーセント
 「バーナーの使用」  7パーセント

 これを見る限り、車中泊利用者のマナー意識はけっして悪くない。特にキャンピングカーユーザーの場合は、日本RV協会などが鋭意 「マナーキャペーン」 などを行っているため、そのルールを熟知しているユーザーが多いからかもしれない。

 もっとも、 「道の駅」 側から見ると、必ずしも利用者のマナーは及第点に達してない。
 道の駅の駅長さんたちから寄せられたアンケート調査の回答では、 「車中泊利用による問題点」 として、次のようなものが挙がった。

 「ゴミの投棄」  27パーセント
 「テーブルを車外に持ち出したりする駐車場の占有」 22パーセント
 「洗面所での炊事、洗濯、給水等」  19パーセント
 「火気の使用」  15パーセント
 「電源の無断利用 (盗電) 」  15パーセント

 マナー問題に関しては、まだまだ両者の間には開きがある。
 「車中泊」 のルールやマナーをどう擦り合わせていくか。これは今後の大きな検討課題となりそうだ。

 それでも、今後 「車中泊を積極的に受け入れていきたい」 と答えた道の駅が9パーセント。 「受け入れることができる」 という道の駅は31パーセント。 「条件付きで受け入れる」 という駅は44パーセントとなり、回答駅の8割は、受け入れに好意的な姿勢を示した。

 その理由は、下記のような答に代表される。
 「駐車場・トイレを24時間使えることが道の駅の条件なので、積極的に利用して満足していただきたい」
 「道の駅には、安全、安心のイメージがあり、夜間の防犯を考えても、駐車台数が多い方がよい」
 「道の駅が地域の (観光の) 拠点となるように、積極的に考えていきたい」

 現状では問題があることを認めつつも、 「車中泊」 が地域の観光産業を活性化してくれるかもしれないと期待する各管理者たちの願いが反映されているように思う。

車中泊の朝三重県

 このほかにも、車中泊利用者たちがつかう 「交通費の額」 、 「食事、お土産などに使う費用」 、 「食事形態」 などの面白いデータが数々アップされたリリースだが、長くなるので割愛する。


 ● 生まれつつある新しい観光スタイル

 このような調査結果から、いったいどのようなことが分かってくるのだろうか。
 リリースを精査したある専門家は、こう語る。 

……………………………………………………………………………… 

 「車中泊」 というブームを、単なる表面的な現象として捉えることは、もうできないのではないか? これは、もっと大きな流れの中で見なければならないものかもしれない。
 つまり、いま 「車中泊」 という現象の中で起こっていることは、日本の経済や文化、社会制度などがドラスティックに変化していることをそのまま忠実に表現しているともいえそうだ。

 具体的には、 「失われた20年」 といわれるような経済的停滞が長く続いたために、人々の意識の中に 「節約はカッコよく、浪費はカッコ悪い」 という価値観が育ってきたことも反映されているだろう。

 さらに、 「情報氾濫社会」 の中で、メディアから垂れ流される情報に飽きたらず、情報を主体的に獲得し、さらに自分自身が情報発信元になりたいという人々が増えてきたことも要因となっているように思う。

 道の駅における車中泊利用者たちの目的を尋ねると、 「同じ嗜好を持った人たちと情報交換することが楽しい」 という声がけっこう挙がっている。
 これは、メディアを経由した既成の情報に飽きたらなくなった人々が、 「車中泊グループ」 を中心に “生きた旅の情報” を求め始めたということを意味するのではないか?

車中泊の朝山口県

 車中泊利用者のインターネットリテラシーは高いといわれている。
 多くの人は自前のブログ、ツィッターなどで、車中泊で泊まり歩いた場所などを質の高い情報に加工して発信している。
 そして、お互いのネットワークを密に保っているから、 「口コミ」 の浸透度も早い。車中泊情報はネット空間においても、そうとう浸透してきたといわねばならない。

 こう考えると、彼らの求めているものは 「道の駅」 ではない、という言い方も成り立つ。

 彼らが欲しているものは、雑誌などには載っていない 「中身の濃い情報」 であり、 「新しい人間関係の構築」 であり、従来の旅では実現できなかった 「新しい刺激の獲得」 である。

 だから、道の駅の利用規約を厳密に法定化したり、魅力ある設備づくりを怠ったりすれば、彼らは別のところに行くだけかもしれない。

 「車中泊」 とは、そういう激しい流動性をはらんだ旅行スタイルであり、施設提供者には多大な緊張感をもたらすと同時に、フレキシブルな旅の提案を可能にするものである。
 だから車中泊は、新しい観光のスタイルを創造するかもしれない。

………………………………………………………………………………

 このように、専門家の中には、 「車中泊」 を新しい旅のスタイルとして見ようとする人たちが現れている。
 もしそのような仮説が正しいのならば、ますます利用時のマナーやインフラ整備、地域の観光資源とのリンクなどが討議されなければならなくなるだろう。

 「東北 『道の駅』 車中泊研究会」 の今後の研究成果を期待したい。

 参考記事 「車中泊研究会」
 参考記事 「NHK車中泊報道」

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 15:40 | コメント(6)| トラックバック(0)

個人の時代

 チュニジアの独裁政権が倒れたのは、多くの市民がフェイスブックなどのインターネットを通じて、デモ開催や警察の取り締まりをめぐる情報を共有し、その隙間をぬって大衆行動に移ったからだという。
 つまり、国家が情報管理を徹底させることができなくなったわけだ。

 このところ、そのような話題に事欠かない。
 昨年の “尖閣ビデオ” しかり。
 ウィキリークスのようなサイトの登場も、もうどこの国の国家機密も白日の元にさらされる時代になったことを告げている。

 日本でも、国会中継をYOUTUBEなどの動画で見る人が増えているらしい。
 今まで、テレビの一部でしかチェックする機会のなかった国家の運営を司る重要な討議を、もう四六時中国民がチェックする時代になったわけだ。

 今まで 「隠蔽すること」 によって権威づけられたようなものが尽く崩壊し、従来のような形で権威や権力を維持できる機関など、どこにも見当たらないような時代が訪れようとしている。

 アカデミズムに世界においても同様のことがいえるだろう。
 研究成果や情報を独占することによって、権威を維持してきた研究機関や学者たちの地位も、もう今までのようには保てない。

 よほど特殊な専門研究以外、今や一般の人がネットにアクセスして “ググる” ことによって、どのような研究が進められているかということも、大体の概要がつかめてしまう。その精度ははなは低いものであったにせよ。

 ネット社会というのは、そういうものだ。

 このことと、政治家や、学者たちや、マスメディアの論客たちの社会的地位の低下とは連動している。
 政治家、学者、メディアの専門家への誹謗中傷が簡単に起こることも、もう防ぐことはできない。

 素人のネット上での誹謗中傷には、単なる感情的な反応も多く含まれるが、内部を熟知している者が匿名でその内幕を暴くことも可能になったし、素人でも、知的レベルが高く、問題意識を深く掘り下げている人間の発言は、時として、専門家の知見を凌ぐことがある。
 むしろカネや社会的身分の保証とは無関係に発言する人の方が、しがらみのない分だけ、自由で大胆な発言が可能となる。

 こういう時代になると、 「信頼性のある情報はどこにあるのか?」 ということが問題となる。

 最後は、その情報を発信する 「個人」 だ。
 本当の意味での 「個人主義の時代」 が訪れようとしているのではないか。

 「○○省」 の誰か
 「○○新聞」 の誰か
 「○○大学」 の誰か
 「○○研究機関」 の誰か

 ……ではなく、最後の 「誰か」 の方の意味が、重くなってくる。

 時代がグルッと一巡し、手垢にまみれた言葉になってしまった個人の 「人間性」 とか 「人間力」 といったものが、別の視点で重要視されるような時代が訪れそうな気がしている。

お面1007

 1980年代、 “人間” がいったん消滅した時期があった。
 あの時代、日本にも “フランス哲学” が導入され、 「 “人間” とは近代の虚構だ」 とか 「 “人間” とは制度にすぎない」 というシニカルな言説が、インテリたちの間で流行った時期があった。
 だから、 「人間性」 とか 「人間力」 などという言葉を口にするのが恥ずかしい時代がしばらく続いた。

 この言葉は、今でも少し恥ずかしい。
 しかし、もう一度 「人間」 が試される時期が来ているように思う。
 「人間」 という言葉にあぐらをかくのではなく、常に自分自身を問い直す存在としての 「人間」 が。

 つまり、 「自分が “人間” として発信する情報」 に、どれだけ体を張っているかとか、真摯に向き合っているかとか、そういう責任感とか誠意みたいなものが、人の耳に届く時代になってきたように思う。

 どっちみち、今の世界を動かしているような情報は、すでに周りに溢れている。
 だから、そのような情報を、個人の範囲で責任を取れるような誠意あるものが評価される。

 個人が単位となれば、当然間違った判断も、思慮の足りなかったことも出てくるだろう。
 そういうときに、 「自分は間違っていました」 と正直にいえるかどうか。
 過去の自分をいったん清算する勇気があるかどうか。
 そこが、評価の対象になる。

 そんな簡単なことだって、今までの政治家やマスコミはやってこなかったのだ。
 たとえば、他者の発言の間違いばかりあげつらってきたマスコミで、一度足りとも、 「自分は間違っていた」 と告白したものはあったか。
 
 組織内の個人の発言を組織ぐるみで守ってきたマスコミが、ほんとうの意味での 「個人の時代」 になった今、人々の信頼を勝ち得なくなってきたのは、至極当たり前のことであるかもしれない。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 11:50 | コメント(0)| トラックバック(0)

細くなるネクタイ

 ネクタイがどんどん細くなっている。

 自分自身は、もうネクタイを締めない生活を続けて10年以上経つが、街中に細身のネクタイが現れてきたことは、去年あたりから気になっていた。

 ネクタイ幅の変化は、これまでも周期的に繰り返されている。
 1930年代は広かったらしいが、50年代末から、60年代初期にかけては、それがどんどん細くなっていった。

 下の写真はレコードデビューを果たした頃 (1962年当時) のビートルズだが、全員が細目のネクタイにダークスーツといういでたち。
 今みると、最近の日本の若いサラリーマンという感じがしないでもない。

細身のネクタイを締めたビートルズ

 1970年代に入ると、逆にネクタイ幅はどんどん広がり始めた。
 バブル時代になると、最大幅12㎝を記録するという、まるで赤ちゃんの “よだれ掛け” のようなものも登場したという。

 ▼ ワイドタイ
ワイドタイ

 それが、再び細くなり始めたのは2年ぐらい前からで、今は最盛期の半分の細さだとか。

 幅の変化は、スーツのエリ幅の変化と連動している。
 エリ幅が広がるとネクタイも広くなり、エリ幅が細くなると、ネクタイもそれに合わせて狭くなる (…らしい) 。


 「景気が悪いとネクタイ幅が細くなる」
 という説もある。

 好景気のときは材料もたくさん使えるので、ネクタイ幅が広くなり、景気が悪くなると、生地のコスト下げるために細くなる。
 そんな解説をする人もいる。

 そうかなぁ…?

 あまりにもベタな解釈なので、現実味に乏しい。
 ファッション業界が仕掛けた “流行” に、 「生活全般をスリム化したい」 という人々の要望が合致したというべきかもしれない。


 で、私は、この細身のネクタイをカッコよく締めている男性に出会うと、 「粋!」 とか 「クール!」 という言葉が浮かんでしまうクセがある。

 下は、日本のブルースシンガー大木トオルさんのファッション。
 タブカラーの白シャツにナロータイが見事に決まっている。

細身ネクタイの大木トオル

 細身のネクタイがカッコいいというのは、もちろん単純な “刷り込み” にすぎない。
 若い頃に、大人たちの間では、細身のネクタイが流行っていたからだ。

 ちょうど、1950年代の終わりから、60年代の中頃までのことだったろうか。
 この時代、レコードジャケットや音楽雑誌に登場する黒人ミュージャンは、ジャズ畑においても、R&Bの世界においても、みな白いシャツと、黒い細身のネクタイで身を固めていた。
 それも、エリには糊をうんと利かし、時にタブカラーやピンホールなどで締め上げるスタイルだった。

 ▼ タブカラーシャツ
タブカラーシャツ

 そういう彼らの姿を、音楽雑誌などで見ているうちに、黒い肌と白いシャツ、そして細身のネクタイというのが、 “男のお洒落” のスタンダードだという感覚が刷り込まれた。

 ▼ アート・ブレイキー
アート・ブレーキー

 ▼ テンプテーションズ
テンプテーションズ

 ▼ ウィルソン・ピケット
ウィルソン・ピケット

 黒人の “黒い肌” ってのが、決め手だった。
 白いシャツと、黒い肌の対比が美しいと思えたのだ。

 下の写真は、2007年に公開された映画 『アメリカン・ギャングスター』 に使われたポスターだけど、顔が半分切られてしまったデンゼル・ワシントンの首元がすっごくセクシーに見える。モノクロ映像の美学だと思う。

アメリカン・ギャングスター

 肌の色が白い人が、白シャツに黒ネクタイを決めても、上の写真のような雰囲気は出ない。

 ビートルズと同じ頃にデビューしたその他のビートグループも、初期の頃はみんなネクタイにスーツだった。
 これ (↓) は、キンクス。
 細身のタイをタブカラーで締め上げても、入社したばかりの新入社員という雰囲気…。

キンクス・ジャケ

 やっぱ、エディ・マーフィーなんか、細身のタイが合う。

エディー・マーフィー

 黒人ミュージシャンの白いシャツと細身のタイがカッコよく見えたというのは、単純に、それを眺めていた自分がまだ若かったということにすぎない。

 大人のファッションへの憧れがあり、そこに大人の美学があるように思い込んでいた。 

 その時代、多くの映像はモノクロだった。

 だから、細身のタイのイメージは、モノクロ映像と結びつく。
 下は、一昨年亡くなったエディ・ヒギンズのジャズアルバム 『DEAR OLD STOCKHOLM』 のジャケット。
 ここにも、ナロータイを締めた男が、美女の横でくつろいでいる姿が見える。

 こういうジャケットを眺めながら、メローなスタンダードジャズを聞くと気分が落ちつく。 

エディ・ヒギンズアルバムジャケ


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 20:32 | コメント(0)| トラックバック(0)

映画アバター

 一週間ぐらい前だったかな…。
 どのくらい経ったか忘れちゃったけれど、3Dで話題になった映画 『アバター』 をテレビで見た。

 ものすごく魅せられている自分と、失望していく自分に引き裂かれていた。

映画アバター001
 
 結局、語るべき言葉も浮かばなかったので、そのときはブログの記事にまとめる気にもならなかったけれど、この映画を受け入れるか否かで、その人の感性が 「時代に合っているか、いないか」 が試されそうな気がしている。

 で、今の気分をいうと、 「時代の感性に合っていない自分」 の方を選ぶ方向に傾いている。

 判断留保のニュアンスを残しているのは、これを3Dで観ていないからだ。
 
 3D…。
 あいかわらず、私はこれを 「サンデー」 と発音してしまうので、いつもカミさんにバカにされるのだけれど、 「スリーディー」 とかいうと、舌を咬みそうなので、まぁ 「サンデー」 で通しているんだけど、…で、サンデーで観ても、あまり印象は変わらないんではないか、という気がしている。

 「魅せられた自分」 というのも、確かにあった。

 特に、 「うまく計算されているなぁ!」 と感心したのは、ポスターなんかでは気持ち悪い印象しか持ち得ないパンドラの住人の顔が、見ているうちに、みるみるチャーミングになっていくところ。
 最後なんかは、すっかり感情移入して、涙が出そうなくらい応援しちゃったりしたわけ。

 そういった意味で、最近のハリウッド映画は、観客の 「視覚の慣れ」 みたいなものまで巧妙に計算しているな、と思った

 パンドラの風物もみな映像的には美しく、映画的リアリズムよりも、ゲーム的リアリズムのようなものに貫かれていて、それが 「アート」 になっていると感じた。

 しかし、 「じゃ、その映像は新しかったのかい?」 と問うと、まったく NO。
 どこを観ても、既視覚感 (デジャブ感?) でいっぱい。

 どの映像を切りとってみても、古典絵画から近代美術、現代アートでさんざん見尽くした世界ばかり。

 結局、この映画は、その映像表現に 「ワンダー!」 を感じなければ、意味のない作品であると思った。
 だって、ストーリーは、これまでも何度も描かれたきた 「白人帝国主義」 と 「土着原住民」 の争いをテーマにしたもので、侵略するものを告訴する勧善懲悪ドラマに過ぎないわけだから。

 これと、つい対比したくなってしまうのが、リドリー・スコットのつくった 『エイリアン (Ⅰ) 』 である。

エイリアン002

 あそこに出てくる 「人間にとって未知なる生物」 には、心がない。意志もない。
 映像的には “恐怖の大魔王” として登場するけれど、実は、 “彼” は暴力をむさぶる快楽も知らない。

 つまり、それと対峙する人間にとって、彼の 「生きる意志」 というものが何に由来するのか分からない存在として登場する。

 「きっとあの生物も本能に従って生きているのだろう」
 などと思うのは、人間の勝手な想像にすぎない。

 そういうのが、私にとって 「ワンダー!」 なんである。

 「未知との遭遇」 とは、そういうことであって、人間の 「存在理由」 とか、人間の 「倫理」 とか、 「愛」 とか、そんなものを “もの凄い風圧” でなぎ払ってしまうモノと出遭うことである。

 『アバター』 と 『エイリアン (Ⅰ) 』 では、どっちが映画の醍醐味を教えてくれるかというと、もう圧倒的に 『エイリアン』 の方に (あくまでも個人の趣味だけど) 軍配が上がる。

 最近のハリウッドSF映画は、 「視覚のワンダー!」 を過剰に追求する方向に舵を切った。
 それはそれで、意味のあることかもしれないけれど、肝心の 「視覚のワンダー!」 が通じない人には何を訴えるのだろう。

 「アバターの美学が分からない人は時代に取り残された人」 と言われるとしたら、それでもけっこう。
 
 映画というのは、 「言葉で表現できないもの」 を語るもんだと思うし、パンフレットの解説とか、映画評論とか、ネット上の言論で言い尽くされないものを突きつけるもんだと思う。

 私はそういう映画が好き。
 ちなみに、 『エイリアン』 に登場するあの異星の生物がいったい何なのか。
 それを 「比喩」 とか 「象徴的言語」 などを使わずに語れる人っている?

 私は語れない。
 だから、一生気になってしまう映画になっている。



音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 20:07 | コメント(0)| トラックバック(0)

若者の考える商売

 昨日は成人式だった。
 いよいよ 「昭和」 を知らない人たちが、これからの社会の中軸を担っていることになる。

 「昭和」 のまっただ中に生まれた自分などは、自分の生まれた時代が遠くなったことを実感しつつも、ようやく今頃になって、若い人たちに教えられるということがますます増えているように思っている。
 
 最近のことだが、何気なくテレビを見ていて、現役の学生たちが経営しているという居酒屋をレポートしている番組があった。
 レポーターが入って、その店のスタッフや、お客として通っている常連の若者に取材している光景が放映された。

 「店に立ち寄る中高年の人々をどう思っていますか?」

 そういうレポーターの問いに対し、彼らは 「心配になるぐらい今の中高年の方は元気がないですね」 と答える。
 だから、この店に来た中高年には、元気をつけてもらいたいと話す。

 まず、そこで、 「え?」 …っと思う。

 マスコミが報じる “若者像” は、いま悲惨の極みに達している。 

 未曾有の就職難。雇用制度の崩壊。年金制度の破綻など、今の若者たちが将来の不安を意識せずに暮らしていける条件は何一つそろっていない。
 だから、たいていの大人は 「元気を失っているのは若者の方だ」 と単純に決めつけてしまう。
 その若者たちが、逆に元気を失った中高年の方を心配しているという状況が、よく飲み込めない。

 若者たちは、この悲惨な時代を恨んではいないのか。 
 
 ところが、彼らは、物心がついた頃から 「そんなもんだ」 という意識で暮らしてきたという。
 つまり 「バブル時代」 というものを知らない。
 知らないから、そんなものに憧れる気持ちもないし、同時にそれをバカにする気持ちもない。

 「失われた10年」 とか、 「失われた20年」 などという言葉がマスコミ報道の中では毎日踊っているが、 “失われた” と感じているのは 「贅沢の味」 を知っている中高年だけ。
 彼らにとっては、最初から “ない” のだから、それをとやかく言っても始まらない。

 それよりも、自分たちは、 「無駄なお金をつかわず、日々つつましく暮らし、みんなで助けあうのが当たり前という気持ちで生きている」 というのだ。

 だけど、彼らは有効だと思える消費をためらっているわけではない。
 たまの贅沢を味わいたいときは、恋人と、少しリッチな店に入って外食を楽しむ。
 代わりに、恋人の誕生日などに贈るプレゼントは、自分たちが手作りでこしらえたジュエリー。

 そういうメリハリを持っていた方が、人生にアクセントがついて楽しいという。

 「ほら、贅沢って、一度味わってしまうと、それを捨てるのは難しいじゃないですか」

 若者の一人は、レポーターにそう伝えて、レポーターの方をぎゃふんと言わせた。

 ▼ キャンプ場でも屈託なく遊ぶ現代の若者
キャンプ場の若者

 もちろんテレビというのは、捏造番組を作ってしまうのが得意だから、そこで映し出された若者像が、今の日本の平均的な若者を代表しているとはいえないかもしれない。
 しかし、若者たちが、新しい仕事意識やら倫理観などを身につけている様子は、いろんなところで目にする機会が増えた。

 もちろん、若い人たちが不安に感じているいちばんの問題は、将来の先行き不透明感で、そのなかでも最も深刻なのは雇用問題であることには変わりない。

 しかし、この 「就職氷河期」 の時代に、あえて会社にしがみつく必要もないと考え始めた人も増えているようなのだ。
 つまり、自分で会社を起こして、自分のビジネスを始めることを真剣に考えている人たちが出てきた。

 テレビに出ていた若者の一人も、 「30歳ぐらいに自分の (仕事の) ピークを持っていきたい」 と答えていた。どういう仕事を始めるかという戦略は、すでに立てているらしい。

 彼らは、高度成長やバブルを知らないから、資源も資金も無尽蔵につぎ込むようなビジネスというものを最初から考えない。
 むしろ、 「限られた資源をどう分配するか」 という観点からビジネスを始める。

 ある雑誌 (BRUTUS) を眺めていたら、
 「世の中はハイテク、ハイテクと騒ぐけど、中小企業の町工場で眠っているような “使い古された” 技術にこそ、日本型ビジネスモデルを立ち上げるヒントがある」
 と考えている若者がいることを知った。

 本村拓人さんという企業家で、いま27歳。

 彼は、アジアマーケットを広く観察して、次のような感触をつかんだ。

 「日本の産業製品は、途上国ではその価値が薄れ始めている」

 もちろん日本企業のブランドは相変わらず有名で、発展途上国では憧れの的であることには変わりはない。
 しかし、実際には日本製品を買う人は減り続け、信頼性は低いが安価な製品やコピー製品の方が買われるようになってきた。

 確かに、日本製品は多機能や高品質を追求するあまりコストが高くなりすぎて、世界マーケットでは後退現象が出てきたことは、あちらこちらで指摘されている。

 ところが、大人のマーケットプランナーの中には、それでもハイテクを駆使して付加価値を高める商品開発を目指せ! と檄 (げき) を飛ばす人たちが多い。

 その理由は、日本が得意としてきた 「一定の品質を維持した製品を大量に作って低価格を実現する」 というプロダクトモデルが通用しなくなったからだという。
 大量生産によって可能となる 「低価格競争」 においては、もう日本は韓国や台湾、中国、インドにかなわない。

 だから、
 「これからの日本は、ミドルクラスの市場も捨てるくらいの覚悟で、富裕層向けのプレミアム商品で勝負しなければならない」
 という。

 しかし、若い本村拓人さんの発想は、これとは違う。

 マーケットとして、富裕層を考えている限り、 「限られた資源を分配する」 という思想とは相容れないと、彼は感じているようなのだ。

 それよりも、食糧難の解決や、公衆衛生の改善といった目に見える課題を解決するビジネスの方が 「分配の思想」 とも合致するし、第一マーケットそのものが無限大に広がる。

 現在、中国の人口は13億人。
 インドは12億人。
 2050年には、世界の人口が90億人を超える。

 その時代の商業圏はどこにあるかというと、もう日本、ヨーロッパ、アメリカではない。
 現在、 「世界の工場」 となっているアジア圏の発展途上国が、今度は一大  「消費地帯」 に変わる。

 そのときの消費の担い手は、途上国の一部の富裕層ではなく、膨大な人口を擁する中間層と貧困層である。

 本村氏は、
 「具体的には、1日5ドルから8ドル未満の所得層が抱える社会課題を汲み取って製品を考えている」
 という。
 「例えば、インドの喘息患者は世界の3分の1を占めるが、大気の汚れた都市でもマスクをする習慣がない。そこに届けられるマスクを考えるとか…」

 そうなると、必ずしも大手企業が力を入れて開発しているハイテクノロジーだけが製品開発を決定するわけではなくなる。

 「逆に、日本の中小企業の町工場で “使い古された” と思われている技術を、違った文脈でとらえ直し、新しい価値を付与するという手もあるのでは?」
 という。
 「途上国の貧困層が抱えている問題に焦点を定めてみると、これまで顕在化しなかった途上国のニーズが見えてくる」 とも。

 私は素人だから、こういう考え方が正しいのかどうか、またそれが既にどこかで実行されているのかどうかは知らない。
 また、産業にもさまざまなものがあるから、それぞれの分野で世界マーケットに向けた戦略が個別に並立することも理解している。

 だけど、途上国の 「貧困層」 に焦点を合わせ、彼らの社会課題を解決する形でこれからのビジネスを考えようとする若者の姿勢には、とても共感が持てた。

 これは、企業のブランド戦略というものに、根本的な修正を迫るものかもしれない。
 確かに、富裕層をターゲットに合わせた商品開発の方が、効率よく高付加価値を実現できるし、ブランド化も図りやすい。

 しかし、これまでの 「ブランド戦略」 というのは、消費者に 「さらに上の生活を目指す」 ことを訴える 「差異化による自己満足」 を中心としたものであり、どうしても経済成長を前提とした発想から逃れることができなかった。

 たぶん次の時代のブランド戦略は、今以上に 「安全」 、 「安心」 を訴求する傾向が強まるだろう。

 若者の話を聞いていると、相変わらず勉強させられることが多い。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 14:36 | コメント(2)| トラックバック(0)

パリッシュの絵画

 マックスフィールド・パリッシュという画家の絵が好きになったのは、1枚のアルバムャケットがきっかけだった。

 昔、アメリカのサザン・ロックをアルバムを集めていた時代があって、 『THE SOUTH’S GREATEST HITS (サザン・ロックのすべて) 』 というオムニバス盤を買たことがある。
 オールマン・ブラザーズ・バンドをはじめ、レナード・スキナード、アトランタ・リズムセクションなどのヒット曲がずらりと並んだ “お買い得盤” だった。
 
 収録された曲もさることながら、レコードジャケット (▼) が気に入った。

ボブ・ヒクソン「サザンロック」ジャケ

 泥臭いパワーをみなぎらせた南部野郎たちのロックアルバムにはおよそ似つかわしくない、なんともお洒落でクラシカルなイラストをあしらったジャケット。
 そのミスマッチ感覚に惚れた。

 誰が描いたのか?

 ジャケット裏には、 「Cover illustration Bob Hickson」 というクレジットがあるだけ。

 ボブ・ヒクソン

 どういうイラストレーターなのか? ほかに作品はないのだろうか? と、いろいろ当たってみたが、当時、今のようなネット情報にすぐにアクセスできるわけもなく、結局手がかりがなくて、諦めた。

 そうしたら、しばらく経って、この絵のタッチとよく似たイラストを集めた輸入カレンダー (▼) を見つけたので、喜んで買った。

マックスフィールド・パリッシュカレンダー表紙 

 でも、画家の名前が違う。 
 こっちの名前は、Maxfield Parrish (マックスフィールド・パリッシュ) 。

 どういうことだ?

 …と疑問に感じて、ちょっと調べてみたら、こっちのマックスフィールド・パリッシュさんの絵の方が本物で、サザン・ロックのアルバムジャケットは、そのパロディであるらしい。

 ▼ Maxfield Parrish 『Day break』 (部分)
マックスフィールド・パリッシュ「夜明け」(部分)

 ▼ Bob Hickson 『The South's Greatest Hits』 (部分)
bobhickson00006

 いやぁ、それにしても、このジャケットデザイン (▲) 。
 本家本元のパリッシュのタッチをよく生かしている。

 涼し気な樹の葉。
 赤茶けた岩肌を持つ山。
 ギリシャ風円柱を染める樹木の影。

 まさに、同じ画家が描いたとしか思えない。
 こういうのは、 “盗作” にならないのだろうか?
 それとも、アメリカはパロディを大歓迎する国なのか。

 本家の方のマックスフィールド・パリッシュは、1870年にアメリカのフィラデルフィアに生まれ、1910年代から1920年代にかけて活躍した画家。
 ネット情報によると、1930年代には、 「アメリカで最も有名なイラストレーター・画家であった」 らしい。1966年に94歳で亡くなっている。
 たぶん幸せな生涯を貫いた人なのだろう。

 そのせいか、絵に暗さがない。

 ▼ 『Day break』 (全景)
マックスフィールド・パリッシュ「夜明け」(全景)

 どこか牧歌的で、のどかで、平和な雰囲気が横溢していて、それでいて、一抹のメラコリー (憂愁) が漂う。
 
 ヨーロッパ古典絵画のようであり、それでいてアメリカン・コミックに通じる軽さがあり、芸術作品と商業デザインとの不分明な隙間を漂うような、不思議な画風だ。

 ヨーロッパ画壇の 「ラファエロ前派」 の影響を指摘する人もいれば、アメリカ画壇の 「ハドソンリバー派」 の流れを汲んでいると見る人もいる。
 確かに、人物造形には前者の雰囲気が漂い、自然描写には後者との類似がある。

 両者のエッセンスを統合して、それにポップな味付けをしたといえばいいのか。
 かすかに漂う 「俗っぽさ」 が、独特のエキゾチシズムを醸し出しているところが面白い。

 特徴的なのは 「光」 だ。
 常に横から射している。

 夜明けか、夕暮れ。

 いずれにせよ、1日のもっとも光の変化が激しい時間帯を狙って、それをタブローの中に 「永遠の時間」 として凍結させている。

 最も “移ろいやすいもの” が、止まったまま動かない。
 それは、言ってしまえば、 「はかなさ」 の凍結である。

 パリッシュの絵に漂うメランコリーの秘密はそこにある。 
 
 ▼ 『Aquamarine』
マックスフィールド・パリッシュ「アクアマリン」
 
 荒涼とした岩肌に当たる残照の、むごいような美しさ。
 涼しげな風を宿す樹木のシルエット。

 この世の 「快楽」 と 「寂寥 (せきりょう) 」 が同一平面に混在する神話的な空間。
 アメリカが、ヨーロッパ人にとって “新大陸” であった時代の 「ワンダーランド」 の気配が息づいている。



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 04:00 | コメント(0)| トラックバック(0)

300万アクセス

 …をついに達成した。
 ページビュー (PV) とか、ユニークユーザーとかいろいろな分類方法があって、それによってカウントの仕方が変わるらしいのだが、不勉強なもので、詳しいことは分からない。
 ただ、このブログサービスを運営しているホビダスの “アクセスログ” で、
 「Total:3,000,000」
 という数字が出たので、それを素直にここに書いた。

ホビダスアクセスログ画面

 この数字が、多いのか、少ないのかよく分からない。
 確かに、平均的なブロガーのアクセス数よりは多いのかもしれないけれど、このまえ、日本で 「最大規模」 を豪語するブログ検索エンジンで、自分のブログを調べてみたら、ランクインしているブログ内での順位が63,737位とのことだった。

 6万位というのは、別に “順位” などと言えるようなものではないように思う。

 世にいわれる 「アルファーブロガー」 なる人たちのアクセス数は、1日で1~2万。さらに3万件を超えるブログもあるらしい。前記のブログ検索エンジンでみると、そういう人たちのブログは100位以内に入っているようだ。

 しかし、ブログの価値は、ランキングやアクセス数では決まらないと思っている。

 むしろ、そういうランキングに入ってこない人たちがひっそりと書いているブログの方に、とんでもない滋味を持った素晴らしいものが潜んでいる。

 人のブログを読むことの愉楽は、どこからでもアクセスできる有名人ブログを読むのではなく、どこに潜んでいるか分からない “珠玉のブログ” を探り当てることだと思う。

 自分の 「お気に入り」 にも、そういう隠れた名ブログのリストがだいぶ溜まった。

 なかには、読むたびに、まるで真冬に冷たい水で顔を洗ったときのような、爽やかさと緊張感に震え上がってしまうブログがある。
 文章がうまいというわけでもなく、扱うネタが新鮮というわけでもなく、その人が昔から好きだったもの、感心したもの、嫌な気分になったものなどを淡々と綴るブログなのに、同じようなことをテーマにした自分のブログが恥ずかしくなってしまうようなものがあるのだ。

 ネタがかぶったりすると、一瞬、 「やられた!」 とか、思う。
 だけど、いつもそのあとに、 「この人についていきたい」 と、思い直す。

 やっぱり世の中には、すごいブログというものがけっこうある。
 なまじっかのプロが書いたものよりも、迫力のあるものはいっぱいある。
 そういうものに触れると、ホント、 「エリを正す」 という古風な言葉を思い浮かべて、背筋が真っ直ぐになってしまうことがある。

 そういうのを一つ見つけると、宝物を探り当てた気分で、また 「お気に入り」 にコソっと加える。

 なんとなく応援したくなってしまうブログというのもある。
 もう2年以上フォローしているブログで、これもその人の日常を淡々と綴ったもの。
 最初の頃はマンガが主体だったが、ほのぼのとした脱力系の絵のタッチが印象的で、欠かさず見ていた。
 ところが途中から (ときどき写真が入るけど) 文章主体になった。

 そうなってからの方が、逆にその人の持っている “味わい” みたいなものが出るようになった。ユーモアの裏側に、言葉の形を取ることのないヒリヒリするような孤独がにじんでいるのだ。

 シャイな人らしく、コメントを出しても反応がにぶい。
 だから、こっちもコメントの返信を期待せず、久しぶりに更新があったときなどは、 「待ってたよ~」 ぐらいの短文を入れる。

 すると、 「ありがと~」 という短い返信がある。

 もうこれだけで十分なのだ。
 お互いに、何かが伝わっているという感触が得られるだけでうれしい。

 なかには、ほとんど私しか見ていない (…というのはちょっと失礼な言い方かもしれないけれど) ブログというものがある。カウンターを見ると、1日の閲覧者が毎回ほぼ一人。きっと私だ。
 そうとう前に一度だけ私のブログにコメントをくださった方で、そのとき入力されたURLをたどって訪問してからのファンになった。

 子育てに力を入れているシングルマザーのブログだけど、子供を寝かせてから、テレビの前で一人酒を飲んでいるときの “ため息” が、なんとも切なく、さびしく、妙に何かを訴えかけてくる。
 コメントは入れたことがないけれど、心の中で応援したくなるのだ。

 まだまだ思いを寄せるブログ、応援したくなるブログというのはたくさんあるけれど、私がお気に入りにしているブログというのは、みなどこか共通した特色を持っている。

 それは、 「言葉にならないもの」 への眼差しを持っていること。

 つまり、言葉では表現できないような “未知なるもの” に触れていること。

 そういう不透明感…というか、理屈の届かない “部分” を持った文章というのが自分は好きで、結局そういうブログを好んでしまう。

 たとえば、シングルマザーのお母さんが、深夜までテレビを見ながら家飲みしつつ、テレビの内容を紹介してから、2行空けて、唐突に 「笑ったわ…」 と書く。
 それはテレビの内容を笑ったのか、それとも、自分の境遇を自嘲したのか分からない。
 どちらとも取れる。

 だけど、前文との脈絡を欠いたまま突然くり出されたその言葉に、なんだか万感こもごもの感情が凝縮しているように思えるのだ。
 物書きのプロが計算してつくり出した “間合い” とは異なる、人間の真実が生み出す 「濃い空白」 が感じられる。

 で、私が気にしているブログの書き手たちは、 「言葉」 が成立する前の “空白の重さ” を大事にしている人たちだという気がしている。

 「言葉」 という形をとっていなくても、抱えているものの密度が濃ければ、それは言葉と言葉の間に横たわる 「余白の力」 となって、こちらに伝わってくる。

 密度の高いイメージを持っている人の文章の方が、洗練された言葉をいっぱい知っている人の文章よりも読者の胸を打つ。

 人気ブロガーの書いたブログでも、ある時から急につまらなくなってくるものがある。
 そういうとき、何が起こっているかというと、たいていの場合、人を説得する口調が多くなっている。
 たぶん、イメージが枯渇してきて、書き手である自分自身を説得せざるを得なくなったからだろう。

 ……ま、自戒もこめて。

 とにかく 「300万アクセス」 。
 これまでお立ち寄りいただいた方々に、あらためて御礼申し上げます。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 12:15 | コメント(6)| トラックバック(0)

不思議な青空

 毎年この季節、私の住んでいる関東地方は、他の地域に住む人たちには申し訳ないような晴天に恵まれる。

 だけど、それは “不思議な晴天” だ。

 雲ひとつない青空がどこまでも続く。

雲のない空の都会風景
 
 私はそれを見ていて、まるで 「空」 という感じを持てないでいる。
 空は、雲が浮かんでいてこそ、 「空」 だと思うからだ。
 
 真夏の入道雲。
 秋のうろこ雲とか、いわし雲。

 そういう四季の風物詩ともいえる雲が空に浮かんでいるのを見て楽しんでいる私に、この季節の澄み切った青空は、どこか異様に思える。
 
 端的にいうと、現実感と距離感がない。
 まるで芝居の書き割りとして描かれた空のようにも感じられるし、 「そもそも空なんて最初からなかったんではないか?」 という気分にもさせられる。

 もともと青空の 「青」 という色は、距離感を喪失させる色である。
 自然のなかで、圧倒的に 「青」 に染め上げられた空間というのは、空か海かのどちらかでしかない。
 ともに、あまりにも遠大な距離を感じさせる空間なので、逆に、実生活で感じられる人間の距離感を危うくさせる。

 だから、わい雑な都会のなかで 「青」 を見ると、とてもみすぼらしく見える。
 商店のエクステリアデザインなどで、幅の狭いストライプのように面積が限定された 「青」 ならば違和感はないけれど、ある程度のボリュームを持った  「青」 が街のなかに登場すると、とても貧相だ。
 「零落した神がそこにいる」 という感じに思えてくる。

 工事現場で使われるブルーシートがみすぼらしく見えるのは、そもそも空とか海といった無限大の彼方に存在するはずの 「青」 が、至近距離に現れているからだ。

 あまりにも鮮明な青空というのは、どこか非現実的で、ちょっと夢のよう。
 ほんのこの一時期だけの現象かもしれないけれど。 


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 21:04 | コメント(2)| トラックバック(0)

TV・新聞の凋落

 「新聞を読む人が減ってきた」
 「テレビCMに出資するスポンサーが減ってきた」
 「週刊誌の売上げが落ちてきた」

 ……というふうに、ここ10年ほど、既成のメディアの凋落ぶりを指摘する声をよく聞くようになった。

 その理由を聞くと、ほとんどが、
 「ネットに流通する情報の方が、既成のメディアの流す情報よりも、質・量とも優れてきたから」
 という答が返ってくる。

 どうやら、
 新聞・TV (旧メディア) → 没落
 ネット情報 (新メディア) → 隆盛
 …という図式が、メディアを論じるときの “前提” になりつつあるようだ。

 この元日の深夜に行われた 『朝まで生テレビ』 においても、テーマのひとつとして 「メディア論」 が採り上げられ、日本のマスメディアがいかに時代に取り残されているか、世界から孤立しているかということが論議された。

 たとえば、政治ジャーナリストの上杉隆氏は、
 「ウィキリークスのアサンジ氏逮捕を世界中のメディアが報じ、どこの国でも世界情勢がどう変わるかを真剣に見守っているときに、日本のテレビは、海老蔵報道だけを流していた」
 と、既成メディアの低俗さを舌鋒鋭く糾弾した。

 また、批評家の東浩紀氏は、
 「この番組自体が遅れているということは、ここで議論しても始まらない。
 それよりも、視聴者から発信されるツィッターの “つぶやき” をスクリーンで表示するだけでいい。
 そうすれば、多くの人がこの番組自体をどう見ているかが、即座に分かる」
 と、自分の意見をいうよりも、番組の構成自体に問題があると迫った。
 つまり、最もラディカルな “テレビ批判” を挑発的に行なったわけである。

上杉隆氏 東浩紀氏
 ▲ 上杉隆氏     ▲ 東浩紀氏

 この場合、彼らの 「既成メディア」 に対する不信感の表明には、二つの表情がある。

 ひとつは 「既成メディアに関わっている人間」 に対して。

 上杉氏も、東氏も、別にテレビや新聞というシステムそのものが時代遅れになったと言い切っているわけではない。
 それを管理する企業の責任者たちの 「意識が古い」 ということを強調する。

 要するに、今のマスメディアの中枢に居座っている人たちは、今の時代がどんなふうに変化しているのかもつかめず、古い価値観で世の中を見、結果として若い人たちや、問題意識の高い人たちのニーズを拾っていない。
 にもかかわらず、古い意識の管理者たちが、画面や紙面に登場する人たちも選んでしまうから、若者の意見を汲み上げるような人物が出てきたためしがない。

 そのように語る彼らの 「旧メディア弊害論」 は、かなりの部分、人間の問題であるように感じた。

 一方、システムとしての問題もある。
 現在のテレビや新聞は、 「情報の速報性」 「双方向性」 「ローコスト性」 「情報量の幾何級数的な広がり」 などにおいて、すでにネットのライバルではない。

 そのため、テレビ・新聞は、ネットを使いこなせる世代から完全に見離されて老人だけのものとなり、その老人たちが亡くなるにしたがって、やがて地上から姿を消すという 「終末論的な光景」 を予言する人もいる。

 そういうことは、番組を見ていてよく分かったんだけれど、しかしなぁ……と思った。

 上杉氏も東氏も、そういう 「既成メディア」 への不信感を発表している場そのものが、すでに 「テレビ」 という既成メディアによって用意された椅子の上なのである。
 彼らの発言で、議論全体はものすごく盛り上がったんだけれど、なんか矛盾してねぇ?
 それって、昔流行った 「脱構築」 ってやつかい?

 で、個人的に思うのだけど、たぶん、彼らがいうような、旧メディアの衰退はそう簡単には起こらない。マスコミはよく 「終わりの始まり」 という言葉を使いたがるけれど、テレビも新聞も、その 「終わり」 はまだとんでもなく遠いところにある。

 その理由は、テレビも新聞もこれから淘汰が始まるから、本当にくだらないものはどんどん無くなっていくだろうが、世代を超えて見たくなるような良いコンテンツは必ず残ると思うからだ。

 こういう時代になると、既成メディアにも危機感が生まれるはず。だから、視聴者が寄りつかなくなったものは切り捨てざるを得なくなる。
 しかし、良いコンテンツはネットであろうが、新聞であろうが、テレビであろうが、誰かが必ず評価する。

 テレビでちょっとユニークなキャラクターの面白い表現が発信されれば、それはすぐに you tube にアップされる。

 またウィキリークスが、今回の米国の機密をネット上に公開しようと思ったとき、それをまず米タイムズや英ガーディアンといった新聞社に情報提供し、それを通じて 「事前宣伝」 したように、既成メディアと連携しながらネット情報の発信力を高めようとする人たちも、これからは増える。

 結局は、やはりコンテンツ。
 つまり 「内容」 だ。

 メディアとして 「何を選ぶか」 ではなく、コンテンツとして 「何を配信するのか」 が、やはり最後はものをいう。

 良いコンテンツというのは、世界を驚かせるような新しいアイデアとか、新しい思想である必要はない。
 誰もがふと、 「あ! そういう考え方をすれば楽になるのか」 と思える程度の、小さな発見を与えるだけで十分なのだ。

 良いコンテンツというのは、たいてい、その小さな 「発見」 を必ず含んでいる。
 それだけで、人は、現実の苦労に立ち向かっていくことができたりする。

 そして、それは手段としてのメディアを問わない。

 結局ネットが、新聞・テレビを駆逐して、新しいメディアの主役の座につくということは、そんなにすぐには起こらない。

 いまメディアの現場で進行しているのは、ネット、新聞、テレビを結んだ回路を配線し直す “組み換え作業” なのだと思う。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 19:44 | コメント(2)| トラックバック(0)

中国ルネッサンス

 「中国に勝つ」
 というのが、ここのところ、日本の経済誌の大きなテーマになっているようだ。

 政治的には、去年の尖閣問題などがくすぶっているため、日本と中国の関係は良くない。
 軍事大国の道をひたすら歩みつつある中国が、資源獲得と領土拡張の野心に燃え、その野望をあからさまに示しつつある現在、東アジアには新しい種類の脅威が生まれつつある。

 しかし、中国経済の成長と歩調を合わせなければ日本の経済の発展も考えられなくなった現在、日本企業の多くは 「政治」 と 「経済」 を切り離して、フレンドリーなパートナーシップを維持するのにやっきだ。

 だから、経済誌などが特集する 「中国に勝つ」 という企画には、両国の企業間同士の連携や競争を前提に、いかにして日本製品の商品力や日本テクノロジーの優位性を保つか、ということをテーマにしたものが多い。

 このように 「政治」 と 「経済」 の2分野に関しては、 “ねじれ現象” を生み出しつつも、それに対する多くの言論が機能しているから、人々の関心も高い。

 しかし、見過ごすことのできないものが一つある。
 「文化」 だ。

 現在、歴史的な伝統文化を除けば、あらゆる領域で、日本の文化性が中国を圧倒している。
 高い工業技術力を背景にした 「物づくり文化」 、アニメ、ファッション、ゲームなどの 「エンターティメント文化」 、きめ細やかなサービスを売り物にする 「ホスピタリティ文化」 ……。

 そうとう追い上げられてきたとはいえ、まだまだこれらの文化領域においては、しばらく日本の優位性は揺るがないだろう。

 しかし、中国には、今後 「ルネッサンス」 の可能性があるが、日本にはないということをしっかり認識しておく必要はあるかもしれない。
 ヨーロッパ中世を終わらせたイタリア人たちの 「ルネッサンス」 は、まさに今の中国人のようなメンタリティから生まれてきたのだから。

 ルネッサンスというと、日本では 「文芸復興」 という典雅な訳語を与えられているため、それを実現した当時のイタリアでは、上品で知的な文化が華開いたように想像されがちだが、その内実においては、人々が 「我欲」 を貫き、現世的な利益を追求するために詐欺、裏切りも辞さない強欲主義がまかり通る社会が生まれていた。

 当時のイタリアにそのような社会が実現したのは、それまで 「秩序と調和」 という美名のもとに世の変動を抑えようとした中世キリスト教的な締め付けがイタリアでは緩んだからである。
 ローマにはカトリックの総本山である法王庁があったが、その法王自身が、世俗的な欲望の実現にためらいを持たないような時代が訪れたのだ。

 理由は十字軍にある。
 当時、中東遠征に向かうヨーロッパ各国の十字軍兵士たちはみなイタリアに集まり、イタリア海岸部の諸都市が所有する船舶を使って、イスラム領に向かった。
 そのため、イタリア諸都市では海運業が盛んになり、中東貿易のネットワークが整備され、交易品をつくるための工業技術が発達し、他のヨーロッパ世界に先駆けて市場経済が隆盛を極めることになった。

 しかし、数百年にわたって、閉鎖的なキリスト教的秩序のもとに意識形成された人々の頭では、市場経済の 「流れ」 は理解できても、市場経済の 「モラル」 を確立するまでには至らなかった。

 役人たちへのワイロも横行するようになる。
 要人の暗殺も日常茶飯事。
 無能な人間は、山奥に遺棄されるように見捨てられる。
 生きる力のない者はそれだけで軽蔑され、富と力が称賛される。

 ルネッサンス文化というのは、健康で、調和的で、清く、美しく…というイメージとは裏腹に、徹頭徹尾 「人間の欲」 がナマの形を取って吹き出したところから生まれたものといっていい。

 そういうルネッサンス期のイタリアと現代中国が似ているなどというと、即座に 「中国人を侮蔑している」 という非難が殺到しそうだけど、そういうことをここで言いたいのではない。

 イタリア・ルネッサンスは、 「人間の我欲」 をまず素直に肯定することによって、人々の経済的な活力を引き出し、個人の購買力を高めることによって、流通する商品の洗練度を増すことに成功した。
 その “豊かな富” を背景に、本当の意味での 「ルネッサンス」 といわれる多彩な文化遺産がその後に形成されたわけだ。

ヴィーナスの誕生
 ▲ イタリア・ルネッサンスを象徴するボッティチェリの 『ヴィーナスの誕生』

 現代中国も、ちょうどそのような過程にある。

 どちらにも共通点がある。

 まず、社会を律していた “イデオロギー” から突然自由になったこと。
 ルネッサンス期のイタリアは、中世のキリスト教的な呪縛から。
 そして、現代中国は、共産主義の閉塞性から。

 このように、個人の我欲をコントロールしていた社会的イデオロギーの重石が外されると、人の心は一気に我欲の解放に向かう。
 現代中国の躍進を支えているのは、この上昇志向をストレートに肯定する人々の欲望である。

 食べることの欲。
 着ることの欲。
 飾ることへの欲。
 便利さを追求することへの欲。

 そのような上昇志向を秘めた個々人の欲望は、国を支える大きな活力ともなる。
 太平洋戦争が終わった時、疲弊した日本を支えた活力も、そのようなものであったはずだ。

 当然、そのような生々しい欲望は、洗練された消費文化を実現した国の人々から見ると、 “おぞましい” 。

 聞くと、日本を訪れる中国人観光客が増えるに従って、買い物の現場でトラブルが起こるようになったという。

 「行列を守らない」
 「平気で割り込む」
 「商品の封を破って中身を吟味してから買う・買わないを決め、買わない商品は封を破ったまま放置する」

 消費の冷え込んだ日本のマーケットで、大量に物品を買い付けてくれる中国人観光客はありがたい存在だが、その数が増えるに従い、そういった中国人観光客の買い物のマナーの悪さを指摘する声も多くなった。

 商品経済の発展があまりも早いと、そこに組み込まれる消費者の意識が追いつかない場合がある。
 消費の現場におけるルールやマナーの確立は、どんな社会においても、常に一歩遅れる。

 しかし、中国人観光客に買い物のルールやマナーを守ってもらうためには、日中の商習慣の違いを徹底的に広報して、理解してもらえばいいだけの話。
 そしてそれは、そんなに大きな問題ではない。

 それよりも脅威なのは、 「14世紀」 のヨーロッパがルネッサンスを実現したイタリアの時代であったように、 「21世紀」 のアジアは、中国ルネッサンスを実現した中国の時代となって、日本などの周辺文化は一気に色あせてしまうかもしれないということだ。

 中国に、文化的ルネッサンスは来るのか?
 来る。
 確実にそれはいえる。

 ルネサンスが生まれるための絶対的な法則というものがあるからだ。
 まず、ルネッサンスとは、 「復興」 であるということに注目しなければならない。
 つまり、 “栄光ある過去” を持っているから、その 「復興」 が可能となるということなのだ。

 ルネッサンス期のイタリアも現代中国も、ともに 「世界帝国」 を経験している。
 イタリアには、古代ローマがあった。
 中国には、秦、漢、唐、宋、元、明、清とつながる覇権国家の歴史がある。

 かつて世界帝国を実現した国というのは、その 「かつての栄光」 がいざというときに民心を支える強力はバックボーンとなる。それは、よい意味での 「プライド」 を、悪い意味での 「覇権意識」 を国民に植え付ける。

 経済協力という範囲では、日本と中国はこれからも友好的なパートナーシップを築いていけるだろう。
 しかし、 「中国ルネッサンス」 が台頭してくると、その中国文化の威信と華麗さがアジアを席巻し、どこの国からも、日本文化は中国文化の下位概念として扱われてしまうかもしれない。

 それを乗り越えるためには、人間の 「我欲」 が 「文化」 を形成してきたというイタリア・ルネッサンス以来のアメリカと現代中国が形成してきた 「文化概念」 をどう打ち破るかが、カギとなる。

 つまり、 「強者が幸せを勝ち取る文化」 から、 「強者でなくても幸せが得られる文化」 へ。

 たぶん、経済力や技術力だけの 「勝ち」 のみを意識していると、そのためのアイデアは生まれないように感じる。



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 20:19 | コメント(5)| トラックバック(0)

ベルイマン・沈黙

 正月の “お気楽テレビ番組” にも飽きて、買いだめていたDVDをパソコンに読み込んで観ていた。
 そのなかの一つ、スウェーデンのイングマール・ベルイマン監督が撮った 『沈黙』 (The Silence)に接して、驚いた。
 今から40年ほど前に作られた作品なのに、最近の映画にない 「難解さ」 があって、それがすごく新鮮だった。

 「分かりやすいこと」 を一義的に追求してきた最近のドラマにはない、ある種の “生々しさ” といったらいいのだろうか。
 「監督が用意できるのはここまで。後は勝手に考えてくれ」 という “素っ気なさ” といえばいいのだろうか。
 その 「優しくない」 ところが、この映画の美しさにつながっている。

 日本で公開されたのは1964年。
 この時代には、まだこのように、ひたすら神経を研ぎ澄ませて映像の可能性を追求していた監督がいたのだ。

▼ 『沈黙』 が日本公開されたとき、ポスターに採用されたカット
沈黙048

 Wikiを引用すると、次のような映画ということになる。

 「翻訳家で独身の姉とその妹、妹の幼い息子の3人が列車の旅の途上にある。
 病気を抱える姉の体調を考慮して、一行は途中下車し、見知らぬ土地のホテルに逗留することになる。

 冷戦下の共産圏を思わせるその地では、言葉も充分に通じない。
 ホテルで過ごす時間の中で、姉妹がずっと触れることを避けてきた葛藤が、次第にあらわになっていく。

 閉ざされた空間、限られた登場人物、削ぎ落とされたセリフによって、ドラマは進行。
 カフカ的ともフロイト的とも称される思わせぶりな象徴表現も含めて、難解な作品との評がつきまとう。
 ポルノグラフィ以外で、初めて女性のオナニーを映像化した作品としても知られる。日本初公開時には成人映画に指定された」

 一部表現を変えたが、この映画を適切に紹介した文だと思う。

 しかし、このような筋立てが、最初から分かりやすく観客に提示されるわけではない。
 「削ぎ落とされたセリフ」 …と表現されるとおり、上記のようなあらすじを観客が理解するためには、かなりの推理力と想像力が要求される。

 ▼ 常に妹に干渉しようとする姉のエステル (イングリッド・テューリン 左) 。姉に反発して敵意を燃やす妹のアンナ (ヨルゲン・リンドストレム 右) 。二人の心理的格闘を軸にストーリーが進行していく。
沈黙025  

 観て感じたことは、ヨーロッパの 「光」 の無慈悲さと、 「闇」 の深さだった。
 
 実際に、光と影のコントラストを強調したモノクロ映像は対象の明暗をはっきりと際立たせる。
 しかし、そこで描き分けられる 「光と闇」 は、文字どおり人間の 「弱さ」 を光のなかに浮かび上がらせ、人間の 「酷薄さ」 を闇のなかで開花させる。

 その光と影が拮抗する世界で、西欧の人間たちが、何を見て、何を悩み、何を求めているのか。
 そんなことが、観客の意識の底まで碇 (いかり) のように沈み込んでくる映画なのだ。

▼ 二人の女と少年は、言葉も通じない見知らぬ街のホテルに泊まる
沈黙027

 公開当時 「難解」 という言葉がよくレビューに使われたが、こうして改めて観てみると、決して難解ではない。
 ある意味、分かりやすい。
 これは、キリスト教が個人の精神世界を侵食した風土に生きる人たちの葛藤のドラマである。
 その一言で、たぶんこの映画が抱え込んだテーマはすべて解説できる。

 主な登場人物は、3人だが、その3人にすべて “役割” が振られている。
 翻訳家でインテリの姉は、象徴的な表現を使えば、 「キリスト教の教義」 に殉じようとする “司祭” である。
 彼女の心を支えているのは、知性であり、倫理であり、愛である。

沈黙031

 その姉の干渉を嫌い、自由奔放に性欲を満たそうとする妹は、 “悪魔の誘惑” に負けた愚衆である。
 妹が背負わされた役割は、神に救われるべき “哀れな” 人間である。

 そう書いてしまうと、キリスト教の教義を図式化した作品のように思われるだろうが、ところがドッコイ、映画はそっちの方向には収斂していかない。

 「愛」 を説き、 「知性」 と 「倫理」 を他者に強要する姉のエステルは、一方では、不安定な状態にさらされている自分を紛らわすかのように、酒とタバコに溺れ、人の見ていないところでオナニーに耽る。
 彼女は、見知らぬ男と奔放にセックスを楽しむ 「妹」 のことを軽蔑し、嫉妬しながらも、独りで死んでいくことの怖さに耐えられず、心身ともに 「妹」 に依存することで生きながらえようとする。
 
 それを知りながら、妹のアンナは、病に苦しむ姉をホテルに置き去りにして、アバンチュールを求めて街をさすらい、カフェのウェイターを誘惑してセックスを享受する。
 しかし、そのアンナもまた、ひりひりするような孤独地獄にさいなまされている。

沈黙046

 彼女にとっての 「姉」 は、うわべだけの倫理と言葉だけの愛を訴える偽善者であり、自分の精神の均衡を保つためには平気で他者を抑圧するエゴイストでしかないのだが、妹のアンナには、その 「姉」 のように自分を支えるものがない。
 「知性」 と 「倫理」 を失ったアンナの物憂く、けだるい寂しさは、情事のさなかにおいても、紛らわすことができない。

 ▼ 病の苦しさをホテルのマネージャーに訴える姉
沈黙054

 ▼ アバンチュールを求めて街をさすらう妹
沈黙024

 姉と妹は、ともに人間が背負う受苦をたっぷり味わいながら、救われるすべを見失っていることでは同じ境遇にいる。

 はたして、この “哀れな二人” を神は救うことができるのか。

 救えない。
 …というか、神は沈黙を保ったままである。

 それがこの映画のテーマだ。
 だから、公開当時、この映画は 「神の沈黙」 を語る作品だとよく言われた。
 たぶん、キリスト教文化圏に生きる観客は、ストレートにそう解釈するのだろう。

 しかし、私のような非キリスト教文化圏に生きる人間は、そういう図式的な解釈に収まりきれない部分に注目してしまう。


 「神」 という言葉は、日本人にはどこか遠い響きがある。
 「神」 という言語をどう受け止めればいいのか、普通に生きている日本人には、その言葉を “格納” する場所が 「知性」 の中にも、 「感性」 の中にもない。

 ただ、この映画で問われる 「神」 が、 「人間の思考と感覚では理解できない世界」 を意味しているということぐらいは分かる。
 長い歴史過程を通じて 「神」 と向き合ってきたヨーロッパ人においても、神を思うことは (その存在を信じるにせよ、それを否定するにせよ) 、それは 「人間の思考と感覚では理解できない世界に触れる契機」 であったはずだ。 

 もちろん、 「この世には人間に理解できない世界がある」 という思いは、どんな民族にもある。
 それは “宗教” が生まれる前の感覚として、どんな民族も経験的に持っているはずのものだ。
 
 しかし、キリスト教の神だけは、人間の 「理解」 を最初から拒絶した 「沈黙の神」 として、人の前に立ち現れる。
 それを信じるも信じないも、すべて人間側に与えられた課題であり、肯定するも否定するも、人間が背負わなければならない課題だ。

 つまり、それは 「答のない問い」 なのだ。

 私は、そのことを重要と考える。

 「答のない問い」 に直面するとき、人は 「畏れ(おそれ)」 を持つ。
 それは 「神」 への “畏れ” というものとは少し違う。
 むしろ 「人の始原を問うことへの畏れ」 、 「自分が存在することの不思議さに対する畏れ」 ともいうべきもので、いわば 「生きることの不安」 にストレートにつながる感覚だ。

 そこで、この映画に登場する3番目の登場人物が大きくクローズアップされてくる。
 妹アンナの子供として登場してくる少年だ。

 ▼ 少年の目が “子供の目” でないことが強く印象に残る
沈黙034

 女二人が感じる 「人間の受苦」 を、この少年は 「言葉」 として理解できない。
 彼にとって、姉と妹 (叔母と母) が葛藤を繰り広げる背景などを理解する力はない。

 しかし、彼はすべてを見る。

沈黙012

 「散歩に出る」 とウソをついて、街で出会った男をホテルに引きずり込み、廊下でキスをするシーンもすべて目撃してしまう。
 彼には、母が見知らぬ男とキスを交わすことの意味が理解できなくても、 「自分が母に捨てられた子供である」 という寂しさだけは、しっかり感じ取れる。

 そして、優しい言葉で 「生きることの楽しさ」 を説く叔母の心の中に広がる空洞も、直感的に見抜く。

 映画を観ていると、この少年こそ、 「沈黙を守る神」 ではないかと思えるときがある。

 彼は、人間の葛藤を理解する力も持たず、人を助ける力も持たない弱々しい少年に過ぎない。
 だからこそ、 「見る」 ことにおいては、非情である。
 容赦仮借なく人を見る。
 だが、見たものに 「意味 (解釈) 」 を与える力はない。

 もしかしたら、それが 「キリストの視線」 というものではないのだろうか。

 ▼ 少年は、ただ 「見る者」 として存在する
沈黙011

 映画は、姉が少年に渡した短いメモ書きの言葉を、少年が復唱するところで終わる。
 それは、3人が途中下車して泊まった異国の言葉を教えるメモである。
 
 言葉の音は 「シジュク」 。宿泊した異国の地で、 「精神」 を意味する言葉だという。

 「精神」 という言葉を少年に託した姉の意図は分からない。
 だが、その言語には、観客を震え上がらせる響きがある。
 そこに、 「人間には触れ得ない世界」 が暗示されているからだ。
 最後に唐突に出てくる 「精神」 という言葉には、 「畏れを知る心」 というイメージが託されているように思えるのだ。


 では、 「人間には触れ得ない世界」 とは何か?
 何を隠そう、それはこの私たちが生きている 「現実世界」 にほかならない。
 
 「現実」 とは、 「理屈」 とか 「理論」 といった思弁的な世界とは無縁の、ただザラザラした手触りだけが生々しく横たわる世界といっていい。

 人は、 「現実」 を探ることはできない。

 私たちが理解できる 「現実」 とは、すでに整理された 「過去」 か、 「予想」 の範囲を逸脱することのない 「未来」 のどちらかでしかなく、現在起こっている 「現実」 に対しては、人は常に 「知る」 ことから取り残されるようになっている。
 人の目の前で生起する現実は、常にカオス (混沌) にすぎないからだ。
 それは 「手触り」 としてしか感じることしかできないものなのだ。

 この圧倒的な 「現実」 の手触りだけが、ベルイマンの世界を支えている。
 映画に登場する少年は、この 「現実の手触り」 を観客に伝えるために設定された人間であるかもしれない。

沈黙010

 異国のホテルで、退屈な時間を持てあましている少年は、おもちゃのピストルを片手に、ホテル内の探索を始める。
 そして、迷宮のようなホテルの廊下をさまよいながら、次々と不思議な光景に接する。

沈黙009

 そこで見るすべての光景は、少年にとってカオスである。
 彼には、言葉の通じない旅人に親切にふるまうホテルのマネージャーですら、得体のしれない “不思議の国” の住人にすぎない。

沈黙022

 独りで粗末な食事をとるマネージャーの姿を見て、大人だったら、彼の抱える 「やるせない孤独」 を感じ取ることだろう。しかし、少年の目に映るマネージャーの姿は、何かのまじないに興じる呪術師であったかもしれない。

沈黙016

 彼は、同じホテルに投宿している 「小人の旅芸人の一座」 の部屋に紛れ込むのだが、そこでは、この世の者とは異なる人々が住む異世界が口を開けている。
 だが、それはメルヘンでもファンタジーでもなく、少年にとっては、カオスに満ちあふれた 「現実」 そのものの姿だ。


 「この世のどこかに、人間に知りえぬ世界が口を開けている」

 そのような恐ろしさを象徴的に描いたのが、夜の街に突然現れる戦車のシーンだ。

沈黙035

 人が寝静まった深夜。
 ゆくえをくらました妹の影を探すように、姉がホテルの部屋から無人の街路を見下ろしていると、突然、1台の戦車がゆっくりと現れ、静かなうなりをとどろかせながら窓の下を去っていく。

沈黙038

 冷戦下の東ヨーロッパ諸国においては、夜のパトロールに軍隊の戦車が使われたのは珍しくないと聞くが、この悪夢のような戦車の登場は、観客の心に拭いきれない 「不安」 を刻印する。

沈黙041
 
 その 「不安」 こそ、 「人間が知りえぬ世界」 を見た者だけが味わう根源的な不安にほかならない。

 だが、(繰り返しになるが) 「知りえぬ世界」 は、パワースポットのような “神域” にあるのではない。
 日常的に去来する現実世界にこそ、 「知りえぬ世界」 が横たわっている。
 
 そのことを、少年の目を通して描いたのが、ほかならぬこの映画。

沈黙014

 この映画が難解なのは、 「象徴的」 だからでもなく、 「芸術的」 だからでもなく、 「精神分析的」 だからでもなく、まさに 「現実」 を描いたからだ。

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音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 21:33 | コメント(0)| トラックバック(0)

出来事いろいろ

 寝正月、飲み正月、食い正月です。
 
 たわいなくテレビ見て、家飲みして、で、眠くなったら、テレビの前でうつらうつら。
 「ありゃ、もう夕方?」
 …ってな、日々ですな。

 で、この年末から正月にかけて、はて、自分は何をやったんだろう?
 ……ということで、ここ数日、わが家に降りかかった “事件” を書いてみる。

 まず、年末にパソコンが新しくなった。
 「ウィンドウズ7」 だ!

NEWパソコン

 …が、まだ慣れない。
 スピードが上がり、画面もきれいになったけど、なんか操作系の勝手が違うんだよな。
 キーボードも新しくなったから、指もまだ馴染んでいないし。

 だから、面倒なことは後にして…となってしまって、30日の夜は飲みに出た。
 近所に引っ越してきた友だちも呼び出して、2時頃まで歌った。
 
 どこをどう帰ってきたのやら。

 気づいたら、右肩の下あたりに大きな打ち身がある。
 帰るときに、自転車を漕いでて、塀にぶち当たったらしい。

 酔っ払っていたから、そのときは痛みを感じなかったものの、朝起きたらとんでもなく痛かった。


 だから大晦日は自粛して、家飲みに徹した。

 いつも途中で風呂なんか洗いながら観ていた 「紅白歌合戦」 を、今回は珍しくスルーで観た。

 半分くらいは知らない人だった。
 話題になっているAKB48も、じっくり観たのはこれがはじめて。
 ふぅ~ん…と思ったが、特に感想なし。
 時代遅れ風のテクノポップをやっていたパフュームが意外と面白かった。

 そのあと 「朝まで生テレビ」 をやっていたので、途中から観た。
 頭の中をアルコールが駆け巡っていたので、誰が何をしゃべっているのかあまりよく分からなかったけれど、みんなの話を聞いていると、ウィキリークスとか尖閣ビデオみたいな “情報ジャジャ漏れ現象” がこれから当たり前になる時代を、 「いったいどう考えるのか?」 というのが2011年の大きなテーマらしい。

 いくつかの話を聞いて、 「へぇー面白いなぁ…」 とも思ったが、一晩経つと忘れていることから、そんなに大した話じゃなかったのか、それとも酔っ払っていたので、聞いたことが別の思考回路の方に回ってしまったのか。

 記憶に残っているのは、 「経済アナリスト」 という肩書きで出ていた森永卓郎氏と、 「経済学者」 という肩書きで出ていた池田信夫氏が隣り合って座っていて、しょっちゅう声を荒らげてケンカしていたこと。
 両方の言っていることがさっぱり分からない。

 ひとつだけ分かったことは、もう経済の専門家たちにとっても、日本経済の未来予測は混乱しているということ。
 これじゃ、素人の床屋談義が流行るわけだ。
 今、経済問題に関しては、誰もが “専門家” になれるわけだから。


 元日は、つまらない、くだらないとバカにしていた “作りおき” のバラエティ番組をとめどなく観た。
 で、本当に、つまらなかった。
 だけど、チャンネルを変える気力もわかないし、スイッチを切る勇気も生まれない。
 いつのまにか、ワハハハと、たわいなく笑っている自分がいる。

 「1年の最初の日から、このていたらくでは思いやられるぞ」 と口には出してみるものの、全然本気じゃない。
 ワハハハ、ゲハゲハと白痴的に笑っているうちに日が暮れた。


 2日目は、心を入れ替えて、TV tokyo でやっていた 「新春ワイド時代劇 『二人の軍師』 」 という7時間ドラマを観た。
 秀吉に仕えた竹中半兵衛と、黒田官兵衛の話。

 筋書きがすべて頭の中に入っている話なので、酔っ払って途中居眠りしても安心して観ていられる。

 司馬遼太郎などの一連の著作を読んでいると、俗っぽさを微塵も持たない天才的軍師の竹中半兵衛と、生臭い野心家の黒田官兵衛というイメージができてしまうのだけど、ドラマでは、官兵衛が常に半兵衛に教わり、助けてもらい、結果的にその人柄に畏敬の念を持つという設定になっている。

 でも、そういう設定も、それほど不自然な感じがしなかった。シナリオがけっこうこなれていたからかもしれない。

 印象に残るシーンがあった。
 天下をとった晩年の秀吉 (西田敏行) が、夕陽の射し込む大坂城の一室で、ぽつねんと庭を眺めているシーン。
 「安土桃山時代」 の大坂城だから、屏風もすべて金屏風で、秀吉の衣装も絢爛豪華 (けんらんごうか) 。

 なのに、秀吉の表情はうつろだ。

 豪華な落日が秀吉の顔を照らしているにもかかわらず、彼の背中は、すでに部屋の暗い影に溶け込んでいる。

 うまいライティングだと思った。
 その映像だけで、権力の頂点に立った秀吉が 「達成感のあとに来る虚脱感」 や 「権力を失う日の予感」 などにとらわれていることが表現されている。

 カミさんは10時頃から寝てしまったので、そのあと台所の洗い物をして、ゴミをまとめて、紅茶を飲んだ。
 少し酔がさめて、ようやくブログを書く気になった。

 だけど本調子じゃない。
 もう1日こんな生活を過ごしてしまったら、社会復帰できなくなる。
 ……と思いつつ、明日もバカテレビを見て、白痴笑いしている自分が想像できる。


投稿者 町田編集長 02:43 | コメント(0)| トラックバック(0)

謹賀新年

賀正

 明けまして、おめでとうございます。
 
 いよいよブログを始めて、6年目に突入します。

 今まで読んでくださった方々に、改めて、この場を借りて御礼申し上げます。

 励ましのコメントをくださった方々、コメントを通じていろいろと考えるヒントをくださった方々にも感謝です。

 何をどう書き、何をどのように伝えたらいいのか暗中模索のとき、皆様からいただいたコメントが、その後の方向を決める大事な手がかりになることはよくありました。
 ありがたいことだと本当に思います。

 どうぞ、本年もよろしくお願い申し上げます。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 00:48 | コメント(0)| トラックバック(0)
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