町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

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>TOMYさん、よう…
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町田さんこんにちは。…
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世界中に5億人を超え…
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町田さんご無事で何よ…
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町田さん。ご無事でし…
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町田さん、今日は。…
マッキー旅人 03/03 16:23
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オールドマン

 午後のスタンドカフェで、ぽつねんと、外の景色を見ている老人がいた。
 喫煙席だった。
 人がまばらに座った客席から、いく筋かの紫煙がのぼっていた。

 老人はタバコを吸わないようだ。
 間違えて入ってきたのかもしれない。
 あるいは、そんなことに頓着していないのかもしれない。

コーヒーカップ0011

 白いヒゲをゆったりと垂らし、ハンチングを目深にかぶった老人の姿は、セピア色の写真で見る明治の軍人のようだった。
 ひとつ時代を間違えば、馬上傲然 (ごうぜん) と敵陣をにらみ、三軍を指揮する人のようにも見える。

 でも、今の老人の目は、動くものには何ひとつ反応していない。
 灰色がかった瞳の視線が、歩道を行き交う人々を避けるように、道に落ちた木の影だけに注がれていた。

 陽の差し込む窓際の席で、空いているのはその老人の隣だけだった。
 私はその椅子を引き出し、背もたれにコートをかけた。

 セルフサービスの店だから、テーブルが汚れていればお客がダスターを手にとって拭くしかない。
 老人のティーカップの周りが汚れていた。

 「よかったら、拭きましょうか?」
 私は、自分のテーブルを拭いたついでに、老人の前のゴミを軽く払った。

 「ご親切に…」

 老人は、はにかんだような笑いを浮かべ、ちらりとこちらを見た。
 「あんたは優しそうな人だね」
 言外に、そんなメッセージがこめられたような目だった。


 それがきっかけで、会話が始まった。

 「今日は歩きすぎて…」

 まるで暖でも取るように、両手でティーカップを抱え込んだ老人は、 「…疲れました」 という言葉を内に秘めながら、ゆっくりと語りだした。

 私は、カフェで読むために買ってきた週刊誌をあきらめ、それをテーブルの上に伏せて、老人の言葉を待った。

 「大名屋敷がとぎれた辺りで引き返せばよかったんでしょうけれど、花街のあたりも歩いてみたくてね」

 いつの時代の話なのだろう。
 この辺りでは、大名屋敷も、花街も聞いたことがない。

 「町名も変わり、町の景色も変わってしまいましたから、どこを歩いているのか、もう分からないようになりました」
 そう笑う老人の頬に、深いシワが刻まれる。

 いくつぐらいなのか。
 80には手が届くのだろうか。それともその上か…。

 「この近くに住まわれていたんですか?」
 尋ねる事もことさら思い浮かばなかったので、場当たり的な質問を投げかけてみた。

 「ここからは少し歩いたところです。テラマチです」

 テラマチ……

 「寺町」 という地名なのか、それとも、単に “寺が多いところ” という意味なのか。

 「釣りもできたですよ。祠 (ほこら) の裏に寝ているミミズをエサによ~釣ったものです」

 いつの時代の、どこの話だろう。
 祠って、なんだ?

 老人のしゃべる話は、遠い世界を舞台にした昔話のように聞こえた。
 相槌を打つタイミングも見つからないまま、私は、黙って老人の話の流れに身を任せた。

 「このあたりは路面電車が走っとったですよ、昔はね…」

 少しだけ、華やいだ声になった。
 「路面電車の時代の方がにぎやかでしたね。今の方が人通りは増えたけれど、にぎやかさは感じられんです」

 路面電車が走っていたのは、私も覚えている。
 一ヶ月だけだったが、それに乗って通学した記憶もある。

 町の中を電車が走る風景は、自動車が走るよりも “都会的” に思えた。
 だから、老人のいう 「にぎやか」 という意味が分かるような気がした。

 ようやく共通の話題が出たと思った矢先、老人は不思議なことをしゃべり出した。

 「週末に一本だけでしたけど、夜ね、無人の路面電車が走るんですよ。
 実験だったんですね。
 遠隔操作というのか、自動操縦の試験なんですね。
 それを土曜の深夜だったか、会社が実験するんでしょうねぇ。
 もちろんお客さんは乗せないですよ。
 私は二度ほど見たことがありましたけれど、怖いもんですよ、幽霊電車みたいで…」

 そう言いながらも、老人は面白そうに笑った。

 「へぇ~!」 と、私は驚くふりをするしかなかった。
 そのようなことがありえるはずがない…と私の理性はこっそりとささやいていた。

 …からかっているのか?

 老人の横顔は、おだやかな冬の陽射しを跳ね返して、白い鑞 (ろう) のように光っていた。

 会話はとぎれたが、私たちは、冬の陽だまりでまどろむ二匹の猫のように、じっと外を見ていた。 
  
スタンドカフェ

 「さて、とんだお邪魔をしてしまって…」
 老人はハンチングをかぶり直して、私に笑った。

 「いえいえ、面白いお話を…」
 私は、立ち上がった老人を見上げて、微笑み返した。

 両足を引きずるように去っていった老人のテーブルには、ティーカップが置き去りにされていた。
 セルフサービスのルールを知らなかったのだろう。

 ……やれやれ。出るときに、それも一緒に下げるか。

 ガラス窓の向こうに広がる街の景色は、師走の残照を浴びて、メタリカルな蛍光色に輝いていた。

 ドアを出て、間もないというのに、老人の姿はもう見えなかった。

▼ 「オールドマン」 ニール・ヤング

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 18:53 | コメント(2)| トラックバック(0)

好奇心の力

 今の時代、人間が必要としているのは、 「人間に対する好奇心」 なのかもしれない。

 好奇心は、余裕を持った心からしか生まれない。
 好奇心は、先入観にとらわれていると、生まれない。
 好奇心は、謙虚な気持ちにならないと生まれない。

 だからこそ、好奇心を軸とした 「人と人とのつながり」 は、どこか温かく、安らかで、スリリングだ。

 つまり、相手に対して自分から心を開き、そして相手の心も開かせる最も有効な方法は、すなわち 「相手に対して好奇心を抱くこと」 なのだ。

 好奇心は、なまじっかの 「思いやり」 とか、観念的な 「愛」 などより、はるかに相手に伝わりやすい。
 人は、自分に対して 「尊敬」 の念をもって近づいてくる人間よりも、 「好奇心」 を持って近づいてくる人間の方に、心を開くものである。

 なぜなら……

 「好奇心」 を寄せられるということは、相手からボールを送られたようなものだから、それをキャッチし、どういうボールを送り返すかという、 “試される” ことの 「ときめき」 が生まれるからだ。

クッキー0612
 ▲ 「クンクン……これは何だろう?」
   犬にも好奇心はある


 古来より、人はみな、見ず知らずの他者と知り合うことに 「ときめき」 を感じて生きてきた。

 この人はどういう人なのだろう?
 この人は何を考えている人なのだろう?
 この人と話してみたい……

 それが、人と人の心を結びつける大きな力になってきた。

 ところが現代社会は、人間から 「他者に対する好奇心」 を奪い去った。
 「好奇心」 を持つ余裕が保てないような社会が訪れたからだ。

 有史以来、人間の生理と歩調を合わせていた 「文明」 は、徐々にスピードを上げ、20世紀には 「人間の生理」 に追いつき、21世紀になると、ついに 「人間の生理」 のリズムを超えた。

 その理由は、20世紀後半から、各分野におけるテクノロジーが幾何級数的に進化を遂げたためである。
 最も顕著な例が、情報工学の世界。
 情報の流通が、ネットの速度を基準とするようになったため、個人が情報を整理する余裕がなくなったのだ。

 そのため、人々は物事を判断するときも、瞬時に 「○」 か 「×」 か、 「Yes」 か 「No」 という2進法 (デジタル) で答えざるを得ず、どちらでもないような 「ニュアンス」 や 「情緒」 といったアナログ的なものは 「ノイズ」 として捨象するようになった。

 そのような 「あわただしい世界」 に、もう人間はついていけない。

 だから、大人も子供も、頭の中に常に去来する思いは、次の三つ。

 忙しい
 気ぜわしい
 面倒くさい

 未知の 「他者」 に関わらなければならなくなったとき、多くの人は、それを 「忙しいし、気ぜわしいし、面倒くさい!」 と感じ、できれば避けたいと思うようになった。
 だから、現代社会では、家族や友人・知人、仕事関係者以外の人間は、すべて 「邪魔モノ」 になってしまった。
 それも、 「邪魔者」 ではなく 「邪魔物」 に…。


 「あわただしさ」 は、 「好奇心」 の大敵である。

 あわただしいと、人は、人に対して 「好奇心」 を抱くような余裕が生まれないため、相手が自分に対していかなる価値を持っているかだけを “効率的” に測ろうとする。

 ニュースを読み解く力はあるか?
 インターネットリテラシーは高いか?
 オリジナル性のある企画を打ち出せるか?
 それをプレゼンできるノウハウがあるか?

 たとえば、そんな感じで、自分 (あるいは企業) が求める価値基準だけで、相手を値踏みする。

 でも、そこから得られる結論は、
 「たいしたヤツじゃないな」
 か、
 「お、利用できそう」
 …の二つだけ。

 好奇心というのは、その二つの答の “すき間” に隠されているものに対して視線を向けようとする 「心」 をいう。

 この 「好奇心」 に近いけど、決定的に違うもう一つのものが、 「ヤジウマ根性」 。
 これは、自分の立場を安定させたまま、 「人の不幸を覗き見してやろう」 という心理を指し、自分の価値観 (先入観) をいったん捨てて相手に臨もうとする 「好奇心」 とは似て非なるものだ。

 自分に被害が及ばない高みで、世の悲惨を見物しようとする 「ヤジウマ根性」 は、まさに今のテレビ文化を象徴するようなもの。

 それが、 「好奇心」 の代用品になっているとしたら、ちょっと悲しい。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 14:28 | コメント(6)| トラックバック(0)

「孤独死」の原因

 年末になると、テレビでも、新聞でも、雑誌でも、まず 「1年の総括」 みたいなものから始まって、 「来年はどうなる?」 式の未来予測で締めくくることが多くなる。
 だからこの時期は、1年で最も 「日本の未来像」 みたいなテーマがマスコミの話題となる時期ともいえる。

 その中でも、一番 「悲観的な未来像」 を訴えたのは、朝日新聞であった。
 12月26日 (日曜) の朝刊では、日頃政治・経済記事で埋めるはずの一面をほとんど使いきり、 「孤族の国の私たち」 という大見出しで、いま日本で急増している “孤独死” というテーマを真正面から扱っていた。

 新聞の一面というのは、慣例的に政治・経済のトップニュースが来るものであるから、朝日新聞はよほど 「孤独死」 というものを大きな社会問題として捉えたかったのだろう。

 そこで使われた 「孤族 (こぞく) 」 という言葉は、どうやら朝日が思いついたオリジナル用語らしい。
 個人の自由を謳歌したいと願う戦後世代の生態を “個族” と表現するならば、その彼らが、いま直面しているのは、血縁・地縁の絆を失って 「孤独」 と向かい合うことを余儀なくされた “孤族” である。

無人の公園風景

 今年は国勢調査が行なわれた年で、その結果は来年公表されることになるが、記事によると、研究者たちはすでに1人暮らしの 「単身世帯」 が 「夫婦と子供からなる世帯」 を上回ることを確実視しているらしい。
 このまま進めば、20年後には、50~60代の男性の4人に1人が 「1人暮らし」 になることが予測されるとか。

 今まで 「普通の家族」 といった場合、誰もが思い浮かべるのは、父親、母親に子供2人という 「標準世帯」 だった。
 しかし、 「単身世帯」 が急増する時代がすぐそこまで近づいてきた今は、もう 「普通の家族」 という表現が成り立たないと、記事は指摘する。

 この場合、注目されるのは、単身世帯の未婚率の増加だ。
 現代社会は、未婚であることが恥でも何でもなくなり、それも 「ひとつのライフスタイル」 (おひとりさまブーム) として提唱されるようになった。そして、そのことが経済的理由で婚期を逃した人たちの心理的負担をも軽くした。

 確かに、外食産業、コンビニ業界、インターネットなどの普及により、昔と比べて一人暮らしは、はるかにたやすくなった。
 そのため、個人の自由を抑圧するような旧来の人間関係から解放され、 「個」 を満喫する人たちの地平は広がった。

 しかし、その 「個」 を謳歌する単身生活者たちにも、 「加齢」 は容赦なく降りかかる。
 高齢になって、身体能力などが衰えとき、職も失い、病気になったりした単身生活者は、血縁や地縁というセーフティネットを持っていない分、 「孤独死」 の不安と向かい合うことになる。

 それでも、女性の場合は、同性同士のネットワークを強化している人たちが多いので、いざとなったら日頃連絡を取り合っている相互扶助的なコミュニティからの応援が期待できる。

 しかし、働くことしか知らないまま退職を迎えた男性たちは、退職したら家に閉じこもり、 「あいさつしない、友人いない、連絡しない……」 という “ないないづくし” の生活にこもってしまう。
 特に、妻に先立たれた男性の老人は、そういう傾向を強めがちだという。

 そういう人たちが孤独死を迎えたとき、病気のために衰弱して死んだのか、自殺したのかという見分けがつかない場合もある。
 特に、妻に先立たれた男性の老人は、 「自分も死んでもいい」 という諦念を抱きがちになり、身体を動かす気力を失い、食べる気力を失い、結果的に 「緩慢な自殺」 を遂げてしまう人が多いらしい。

 日本では、12年連続で自殺者が3万人を超えたが、それは警察が定義した 「自殺」 の数であって、定義にハマらない “緩慢な自殺” を図った人々の数も加えると、自殺者の数は、警察の発表よりもさらに多くなる可能性がある。

 同新聞では、このような時代を、 「家族に頼れる時代の終わり」 と表現して、精神科医の斎藤環氏の談話を紹介する。
 斎藤氏は、 (現代の) 「日本は、家族依存社会だ」 という。
 本来ならば国が担うべき仕事であるはずの 「社会保障」 などを、国が家族に押し付けてきたという意味だ。

 介護でも、育児でも、 「家族の面倒を、家族がみる」 比重は、昔に比べてものすごく増えた。
 それが国策であるならば、当然かもしれない。

 伝統的に “小さな政府” をめざす政権は、市場原理主義的な経済の流れが社会保障にせき止められることを嫌い、国民が自助努力によって介護や育児などの難問を解決することを奨励する。

 日本の場合は、社会保障をシステムとして構築しようにも、まず財源の確保でつまづいている。
 現在、さまざまなところで展開されている “家族愛キャンペーン” は、実は、そういう 「国家的な思惑」 と連動したものであり、結果的に、国家が行うべき仕事を家族に転嫁しようとするときの “言い訳” に加担することになる。
 ……たぶん、斎藤環氏がいおうとしていることは、そういうことなのだろう。


 期せずして同じ日に、TBSの 『サンデーモーニング』 という番組でも、この 「孤族の増大」 というようなテーマが討議されていた。

 途中から観ただけで、しかもメモを取ったわけでもないから記事の書きようもないのだけれど、司会の関口宏氏を筆頭に、コメンテーターの岸井成格氏、田中優子氏、寺島実郎氏、金子勝氏らが、
 「無縁社会の広がりのなかで、人と人がつながる契機はどこに求められるべきか」
 というようなテーマを語り合っていたように思う。

 番組のタイトルは、 「豊かなのに幸せになれない、なぜ?」 。

 日本は、今も世界第3位の経済大国であり、国民1人あたりGDPでは中国の10倍という富裕国である (…らしい) 。
 その日本人の平均収入を換算すると、フランス革命前にベルサイユ宮殿で遊び暮らしていた貴族よりはるかに金持ちなのだとか。

 それほど “豊かな国” であるはずの日本で、なぜ 「無縁社会」 が広がり、 「孤独死」 が増えているのか。

マネキン001

 ここでも現状認識として、まず 「今の社会の崩壊は、もう 『家族』 では支えきれない」 (寺島実郎) という見方が提示されていた。

 確かに、老いたる親を介護する子供たち自身が 「老人」 になりつつある時代。親子の精神的・経済的負担は大きくなる一方だ。
 また、長引く不況や広がる格差などによるストレス社会の重圧が、母親たちの育児放棄や、父親たちの幼児虐待という問題に影を落としている。

 番組の中で、寺島氏は、そのようなストレス社会が訪れてきたのは、
 「相変わらず、経済的に豊かであることが、人生をも豊かにするという幻想から政府や企業が逃れられないからだ」
 という。

 つまり、 「お金によって保証される便利な生活こそ幸せ」 という洗脳に人々がさらされているために、それに至らない生活は、すべストレスに感じられてしまう。
 …ということを、寺島氏は言いたいのだろう。

 日本は “豊かな国アメリカ” を目指してここまで来たが、追いついた時点で、アメリカ経済も失速し、日本の手本となるような 「力」 を失った。

 それなのに、日本の企業経営者たちの多くは、 「アメリカ経済さえ立ち直れば、日本経済も復活する」 と他力本願の望みを捨てきれないでいる。
 しかし、そろそろ日本人は、 「経済的強者が人生の強者でもある」 というアメリカ流の発想から卒業しなければならないのではないか?
 ……というのが、寺島氏の意見だったと思う (うろ覚えだから、別の人の発言だった可能性もある) 。

 「無縁社会 → 孤独死」 の問題は、そこに結びついてくる。
 「経済的強者が人生の強者である」 という発想は、 「弱者は、自己責任において、自己救済しなければならない」 という考え方につながっていく。

 「 “孤独死” に至る生活しか持ち得なかったのは、その本人の責任であり、競争原理社会では、それは当たり前のこととして、誰もが覚悟しなければならない」

 極端にいうと、市場原理社会というのは、そういうことなのだ。

 無縁社会を生きる “孤族” たちは、そういう 「弱者は切り捨てご免!」 に傾きがちな現代社会の中から、追い立てられるように生まれてきた。

 そのことに対し、番組の中で、慶応大学の金子勝教授は、やはり 「家族という最小単位の共同体」 にすべてを預けるのはもう無理だ、という見解を示す。

 家族や地縁共同体の良さは、確かにある。
 そこには、多くの都市生活者が失ってしまった 「互助精神」 や 「励まし」 、 「温かいもてなし」 などがある。
 しかし、一方では 「抑圧」 も 「集団的強制力」 もあり、逆らったときの “村八分” もある。

 だから 「古い共同体を復活させるのではなく、 “人と人との紐帯 (ちゅうたい) ” を実現する新しい組織を社会工学的に建設することが必要」 と金子氏はいう。


 面白いのは、 “江戸学” で名を馳せた法政大学教授の田中優子氏のコメントだった。

 「人と人が出会って、心の交流を図るためには、お互いの心を共振させる “媒介” が必要だ」
 と彼女はいうのである。

 媒介

 むずかしい概念だが、 「共通の話題」 とか 「共通の目標」 とでも考えておけばいいのかもしれない。

 今や日本人の生活感覚の中で色あせてきた数々の年中行事。
 その中に、 「媒介」 を探し出すヒントがある、と田中氏はいう。

 正月行事、お盆の行事などを含め、節分、ひな祭り、節句……。
 日本の伝統行事というのは、すべて 「自然」 と因縁が深い。

 そのような自然の移り変わりのなかで、豊穣への感謝や、子供が生育することへの祈りといった感情を共に祝い合うのが、日本人の年中行事だった。
 そのとき、お互いに 「自然の変化」 を確認し合うことが、日本人の心を結びつける 「媒介」 となっていたのである。

 だから、日本の風土から 「自然」 がどんどん消滅していけば、日本人の心を結びつけていた 「媒介」 も失われてしまうのは当然のこと。
 そして、 「媒介」 を失った現代人たちは、心と心を通い合わせることなく、互いに孤立し、 「無縁社会」 の奈落に落ち込んでしまう。
 …というのが、田中優子氏の見立て。

 用事があったので、その先は観ていないけれど、 「孤独死」 が多発しているのは都市部のアパートが多いという事実からも、 「自然」 を失ってしまうと人と人との絆が切れるという田中氏の指摘は、なにやら暗示的でもあった。

古い集合住宅

 番組の中で、毎日新聞主筆の岸井成格氏が、石川啄木が100年前に執筆していた童話がつい最近発見されたことに言及していた。

 それは、山の猿たちが人間に願いごとをする話だという。
 「どうか山の木をむやみに切り倒したりして、自然を破壊しないでほしい。自然を破壊してしまうと、自分たち猿も困るけれど、あんたたち人間だって困ることになる」
 と、猿が人間に忠告するのだとか。

 「そういうことを、石川啄木はすでに100年前に警告していた」
 と、岸井氏は驚く。

 「孤独死」 の話が、 「自然破壊」 の話と結びついた瞬間でもあった。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 20:17 | コメント(1)| トラックバック(0)

廃墟のある島

 廃虚ブームで、長崎県の “軍艦島 (端島) ” がよく話題に取り上げられる。
 そんなこともあって、この前、書店の 「旅行本コーナー」 に行ったとき、軍艦島の写真集があったので手に取ってパラパラと眺めてみた。

軍艦島001

 一度も行ったことがないのに、どこかで似たような光景を見たという思いが脳裏を駆けめぐった。

 どこで、だろう…
 と気になっていたが、ふと、下の絵であることが分かった。

アーノルド・ベックリン「死の島」
 ▲ アーノルド・ベックリン 『死の島』 。

 別に軍艦島が “死の島” であるというような、不吉な照合を示そうというわけではない。

 だが、似ている。
 この両者には、何か共通した気配がある。

 まず、アーノルド・ベックリンの絵から見ていこう。

 鏡のように平らな海に浮かぶ小さな島に、小舟に載せた棺が運ばれていく。
 その先には、岩をくり抜いた古代風デザインの廃虚が島いっぱいに広がり、島の中央には、黄泉 (よみ) の国から来た使者がたたずむように、糸杉が並んでいる。
 まるで島全体が、死の静寂に包まれた巨大な 「墳墓」 のようにも見る。

 糸杉
 乾いた岩におおわれた島
 古代世界風の廃虚

 そのような地中海世界の特徴をふんだんに採り入れながら、この絵からは、地中海世界の明るさが伝わってこない。
 むしろ、ドイツロマン派にも通じるような、暗さと、神秘性と、メランコリーが画面全体を支配している。

 異様なのは、芝居の書き割りのような、島の “人工性” だ。
 島の面積に不釣り合いなくらい、糸杉と廃虚が大きい。

 生物学的に判断しても、立派な糸杉が根を生やすほどの地味ある土地とは思えない。
 見る人間は、まずそこで現実的な判断力を削ぎ落とされてしまう。


 同じようなことが、海上から眺めた軍艦島の廃虚にもいえる。
 ベックリンの絵画同様に、建物の大きさが、島の面積に不釣り合いなくらい大きい。

軍艦島001
▲ 軍艦島

 建物の質感があまりにもどっしりとしているため、それを支える島の頼りなさのようなものが、逆に浮かび上がってくる。
 つまり、海上に蜃気楼の街が浮かんだような、どこかこの世ならぬ気配が漂ってくるのだ。

 ベックリンの 『死の島』 と 「軍艦島」 の光景に共通していえることは、ともに、
 「自然界のバランスが無視されている」
 ということだ。

 つまり、 “極度に人工的” である…ともいえるのだが、その人工性が、 「人間の管理できない超自然の世界」 にもつながっているという “不思議な気配” を両者は持ち合わせている。

 ベックリンの描いた 『死の島』 は、そのような人間の管理できない “あの世の世界” を見事に映像化したものだといえる。
 同じように、軍艦島の廃虚も、人間の管理を超えた世界の存在を伝えてくる。

 では、人間に管理できない世界とは何なのか?

 それは 「過去」 である。

 そもそも 「廃虚」 とは、 「現在」 に突き出た 「過去」 である。

 「過去」 は常に 「現在」 を規定しているが、だからといって人間は 「過去」 に遡って 「現在」 を変えることはできない。
 「廃虚」 とは、その人が触れることのできない 「過去」 が、 「現在」 という場に姿を現している場所のことを指す。

 「軍艦島」 は、かつて炭鉱の島として栄えた 「過去」 そのものが 「廃虚」 として残存したものだが、ベックリンの 『死の島』 も、 「過去」 の視覚化がテーマになっている。

 この絵の主題が、 「棺 (ひつぎ) を納める島」 であることに注目していいだろう。
 「死者が誰であるか?」
 と問うことは、意味がない。
 ここでは、絵全体が 「すでにこの世に戻らないもの」 を表現していると見るべきであろう。

アーノルド・ベックリン「死の島」

 そういった意味で、 『死の島』 と 「軍艦島」 は似ている。
 ともに、 「廃虚」 の横たわる島として。
 「戻らないはずの過去」 が、そこにヌッと顔をさらしている島として。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:48 | コメント(2)| トラックバック(0)

遠いクリスマス

 クリスマスですねぇ。
 小さい頃は、けっこう胸がときめいたりしましたが…。
 今じゃ、365日のうちの、ただの1日ですなぁ。

 キリストの
 生まれた日とか
 ピンと来ず


 昔は、それでも人並みにプレゼントなんか買ってたんですけどね。

 クリスマス
 サンタを辞めて
 50年


サンタ人形06

 「バブル」 とかいう時代になると、夜中まで遊びまくってました。
 この季節、にぎやかなパーティばっかり続きましたから。 

 朝帰り
 とっさにサンタに
 早変わり 


 酒くさい
 サンタは要らぬと
 足げりに


 今じゃこんな感じですよ。 

 メシはない
 自分でチキンを
 買って来い


 それなりに平和なクリスマスを送るようになりました。

 ジングルベル
 聞きながら
 書く年賀状


 うさぎ年?
 そんなの干支 (えと) に
 あったっけ?


 クリスマス
 老いたる家内と
 ケーキ食べ


 まぁな……

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:06 | コメント(0)| トラックバック(0)

ロビン・フッド

 リドリー・スコット監督の 『 ロビン・フッド (ROBIN HOOD) 』
 良かったなぁ! 
 堪能したし、感動したし、涙も出た。

ロビン・フッド001

 でも、リドリー・スコットは、結局 『ブレードランナー』 を超える映画を、もう創れないんだな…ということも分かった。

 それでもいい。
 この路線のリドリー・スコットも支持するし、応援するし、共感する。

 ここでメガフォンを採る彼は、もう特異な美意識を持ったアクの強い “芸術家” でもなければ、人間存在を根源から問うような “哲学者” でもない。
 代わりに、大衆娯楽としての映画を、極めて洗練されたテクニックで磨き上げた “職人” がそこにいた。

 この映画は、黄金期の 「ハリウッド史劇」 に対する彼のオマージュであるかとも思う。

 スペクタクルな戦闘シーン、ハッピーな結末を迎える恋愛、庶民を苦しめる国王や悪代官、冷酷非道の裏切り者、主人公を助ける陽気な男たち。

 そういったハリウッド史劇の構成要素をふんだんに使って、映画が 「大衆の娯楽」 として君臨していた時代の華やかさを再現して見せたのが、この 『ロビン・フッド』 だ。

ロビン・フッド002
 
 だから、安心して観ていられる。
 とにかく観客が、監督の意図を図りかねて、戸惑うということがない。
 
 悪いヤツは最初から悪役顔で出てくるし、主人公のことを最初は侮蔑していたヒロインが、やがて愛に目覚めるというベタな心理プロセスを忠実にたどっちゃうし、何から何まで娯楽映画の “お約束ごと” で貫かれた構成なんだけど、それを承知で堂々と押し切ってしまったところに、リドリー・スコットの円熟味を感じる。 

ロビン・フッド003

 もちろん凝り性のリドリー・スコットだけあって、ディテールの作り込みはハンパじゃない。
 城攻めのシーンに使われる古風な城も、ケルト的なデザインを盛り込んだ北イングランドの村も、すべて丹念に仕上げられたセット。

 彼の歴史劇では、そのようなセットを組んだとき、どこか “アート” を意識したエキゾチックな映像美が追求されるのだけれど、今回は、驚くほど写実重視。
 神経のつかい方が、絵画的表現にこだわるよりも、リアリティの追求に向かった感じだ。

 だから、 『ブレードランナー』 の陰鬱な未来都市や 『エイリアン』 のグロテスクな宇宙船、 『ブラックレイン』 のシュールな大阪の街、 『グラディエーター』 の背徳的なコロッセウム、 『キングダム・オブ・ヘブン』 のエキゾチックなエルサレムといった映像美にこだわるデザイン造形は影をひそめる。
 代わりに、観客をそのまま中世の時代に誘い入れてしまったような、 “歴史の手触り” が獲得されている。

 ロビン・フッドを主人公にした映画は、今までも数多くつくられてきたが、今回の主人公設定は、いわば異色。
 映画が終わるまぎわになって、ようやく 「ロビン・フッド」 が誕生する。
 つまり、伝説のヒーローは、どういう経緯で生まれてきたかを語る物語で、いわば “ロビン・フッド前史” 。

 だから、シャーウッドの森に仲間とともに住み、悪代官と戦う 「義賊」 という昔ながらのイメージを抱いていると裏切られる。
 それをもって、 「こういう筋書きなら、別にロビン・フッドを主人公にする必要もないんじゃないの?」 と思う人が出てくるのも予想できる。

 でも、私にとっては、きわめてオーソドキシーなロビン・フッド物語に思えた。
 どっちみち、伝説上の人物なんだしさ。
 ショーン・コネリー主演の 『ロビンとマリアン』 みたいな、よぼよぼジジイのロビン映画だって成り立っているわけだから。
 これはこれで、ひとつのロビン像を確立したのではないかしら。

ロビン・フッド004

 上映時間は2時間20分。
 それでも時間が足りないと思った。
 続編が観たくなる、娯楽映画の金字塔。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 03:48 | コメント(0)| トラックバック(0)

地獄の電車

 この季節の終電まぎわの駅のホームは、断末魔の悲鳴でいっぱいだ。
 忘年会シーズンなので、2次会、3次会と浮かれまくっていた人々が、家路に急ぐために、目の色を変えてホームに殺到する。

 午前0時半の新宿駅プラットホーム。
 わずか幅10メートル程度の場所に、国立競技場を埋め尽くすほどの大観衆が集中する。
 あっちこっちで怒号。 
 一方では、華やかな歌声。
 戦争と祭りがいっしょに訪れたみたいだ。 

 俺、仕事で遅くなっているわけだから、酔っ払っていない。
 だから、ホームの混乱ぶりも冷静に観察できる。

 人が溢れて地面が見えないんだわ。

 駅員が、
 「危ないですから黄色い線の内側にお入りください」
 …って叫ぶけど、その “黄色い線” というものが、もう視界に入らない。

 もともと容量がないホームの上に、さらに人だけ増え続けるから、線路に落ちそうになる人間だって後を断たない。
 それを駅員が押しとどめるのだけど、駅員に助けられた人はいいとして、酔っ払った仲間なんかに助けられたりしたら、その仲間といっしょに線路の上に転落しかねない。

 そこに入ってくる電車も慣れたもんで、ガラパゴス島のウミガメみたいに首をすっこめながら、恐る恐ると入ってくる。
 そりゃそうだよね、危ないもんね。
 だから、この時間帯、ダイヤが大幅に遅れるわけだ。

 ドアが開いたって、降りる人も降りられない。
 だって、ホームにそれ以上の人間を立たせる場所なんてありゃしないんだから。
 
 「降ります。降ろしてください。降ろせよ。どいてよ、どけよ、この野郎!」
 哀願は、即座に怒号に変わり、
 「ばっきゃろー、どきやがれ!」
 最後は恫喝 (どうかつ) 。

 それでも、乗り込む人たちの勢いに呑まれ、再び車内の奥まで押し戻されるOLさんもいた。
 その人の絶望的な顔が、あっという間に人々の頭にかき消される。
 虚しく次の駅まで行った人が、いったい何人いるのだろう。

 一方、乗る方も必死だ。
 前の人に続いて整然と、…なんていう意識を保てる余裕は、誰にもない。
 体を半身に構え、腰を落として、重心を下げ、 「えいや!」 と気合もろとも、肩の力で人の壁をこじ開ける。
 誰もが、ラグビーのフォワード気分だ。

 俺も一生懸命スクラムを組んでみたけれど、それでも、一つ目の電車に乗れなかった。

 「後の電車が続いております。無理をせずに、次の電車をご利用ください」
 って、駅員がアナウンスするんだけど、ウソばっか。
 
 次の電車なんて、待てど暮せど、きやしない。
 ようやく、次の電車が来たのは、定刻を大幅に遅れた15分後。

▼ 普段はすいてる路線なんだけど…
電車の車内002

 で、また押しくらまんじゅうの繰り返し。

 ようやく車内に身を収めても、一度体が浮き上がってしまうと、もう地面に足が届かない。
 俺なんか足が短いから、次の駅まで、宙に浮いたままだ。

 立ったまま寝ているヤツもいる。
 人同士が支え合うから、倒れる心配がないのだ。

 どこを見回してみても、顔、顔、顔。
 その顔が、お互いにくっつき合ってしまうから、あちらこちらで悲喜劇が起こる。

 「こんな可愛い娘と、頬を寄せ合えるなんて…」
 と笑いをこらえる旦那さんもいるかもしれないけれど、当然、その逆もあるわけで、泣くハメになった人の方が多数派のような気がする。
 
 悲惨なのは、カツラのお父さん。
 申しわけないけれど、見てしまった。

 頭からカツラ飛んでしまって、…それが全部外れたのなら、まだごまかしが利くけれど、外れた人工毛髪が頭半分のところでとどまってしまったから、泣くに泣けない。
 もちろん、手なんか動かす透き間もないから、そのままの格好で耐えるしかない。

 ご本人は、ひたすら目をつぶり、沈思黙考のポーズを取るんだけど、周りの人たちは笑いを抑えて苦しそうにむせぶだけ。

 なんていう地獄だ。

 運よくシートに座れた人にも、悲惨な境遇が待っている。
 自分の前に立っている人たちのお腹を、それぞれ顔で支えてあげなければならないからだ。
 メタボ腹の前に座っている人は、事故で開いたエアバッグで顔をふさがれた心境かもしれない。
 
 今回は見なかったけれど、以前、酔って気持ち悪くなった人の嘔吐物を、自分のバッグに受けてしまったOLさんを見たことがある。
 もしかしたら、今回もほかの車両でそういう悲劇が起こっているかもしれない。

 人々の不幸をいくつも乗せた 「地獄の深夜便」 は、ひたすら終着駅へ向かっていく。 

 「俺、その前に、降りられるんだろうか…」


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 11:35 | コメント(0)| トラックバック(0)

バッグス・バニー

 来年は 「うさぎ年」 だから、 “うさぎキャラクター” の年賀状を探していたのだが、コンビニ系の年賀状カタログを見ても、お目当てのものがなかった。

 お目当ては、バッグス・バニー。

バッグス・バニー

 けっこう有名なアニメキャラだと (自分では) 思い込んでいたので、年賀状サンプルには当たり前に登場するだろうと思っていたのに、意外とないんだね。
 ピーター・ラビットならあったけど。

 探し方が悪かったのかもしれない。
 どこかにはあるんだろうな。

 それにしても思うのは、もう 「ディズニー」 の一人勝ちなのね。
 1940年から50年ごろに生まれたアメリカン・アニメで、今も猛威を奮っているのは、ディズニー系キャラのみという感じだ。

 どこにいても 「ミッキーマウス」 は溢れていて、 「ドナルド・ダック」 もちょこちょこ登場するけれど、そのほかを見回してみると、 「ベティちゃん」 もいない、 「ウッド・ペッカー」 もいない、 「フィリックス・ザ・キャット」 もいない、 「マイティ・マウス」 もいない、 「ヘッケルとジャッケル」 もいない…。ときどき 「ポパイ」 を見る程度。

 特に、 “いじわるキャラ” は全滅みたいだ。

 バッグス・バニーというのは、その “いじわるキャラ” の代表選手みたいなもので、とにかく、おちょくり、からかい、いたずらだけが趣味という小生意気な野ウサギで、人を食ったような動作とセリフで群を抜いていた。

 もちろん、いじわるキャラのアニメヒーローは他にもいっぱいいて、ヘッケルとジャッケルという2羽のカラス (正確にはカササギらしい) の悪さなんて、ハンパじゃなかった。
 ウッド・ペッカーも凶暴だったし、一見、無邪気でひ弱そうなトゥイーティー・バードの底意地の悪さったらなかった。

 ディズニーが一人勝ちする前のアメリカン・アニメには、子供の教育上よくないキャラが跳梁跋扈 (ちょうりょうばっこ) していたんだね。

 だけど、その “おちょくり” と “からかい” の精神が、高貴な色気にまで昇華していたのは、バッグス・バニーだけだったように思う。

バッグス・バニー002

 今から思うと、よくあんなにセンスのいい “いたずらウサギ” のキャラクター造形ができたもんだと関心する。
 小生意気だけど、どこか間の抜けたところもあって、哀愁があるんだよね。
 初期のミッキーマウスが持っていて、後のミッキーから失われたものを、バッグス・バニーはみんな持っている。

 今のミッキーマウスは、初期の精神を忘れて、ひたすら従順で、正義と友愛をモットーにして、誰からも嫌われない退屈なキャラをひたすら演じているけれど、でもそれは 「大人が喜ぶ子供キャラ」 だから、なんかかわいそうだ。

 ディズニーキャラが、 「ディズニーランド」 という一大エンターティメント王国を形成するようになってから失ったものが、バッグス・バニーのいたワーナーのルーニー・テューンズにはある。

 からかいと、おちょくり。
 それって、子供が大人に対して “一矢報いる” ときの、唯一の武器なんじゃないか?

 バッグス・バニーやヘッケルとジャッケル、ウッドペッカーなどが、ディズニー人気の陰に追いやられて、ひっそりと舞台のソデでたたずんでいるのは、 「いい子」 を求める大人の陰謀だ。

 来年はうさぎ年だ。バッグス・バニーを応援しよう!


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 02:59 | コメント(0)| トラックバック(0)

正義の話をしよう

 マイケル・サンデル氏の著作 『これから 「正義」 の話をしよう』 が今年の下半期はかなり話題になった。
 私は読んでいない。
 食わず嫌いかもしれないけれど、 『正義の話…』 っていうタイトルだけを見て、ちょっと腰が引けそうに思えたからだ。

 ところが、この講義内容がテレビ (ハーバード白熱教室) で放映されたのをきっかけに、巷のちょっとしたブームになったようである。

マイケル・サンデル「ハーバード白熱教室」表紙

 で、うちのカミさんが、最近しきりと、このマイケル・サンデル氏のことを話題にする。
 そういう “知的な感触を持つもの (?) ” に対して、さほどの関心を示さない人だと思っていたが、なんかの主婦同士の会合があったときに、マイケル・サンデル氏のテレビ放映がひとしきり話題になって、 「あれって面白いよね」 という感想が飛び交ったのだとか。

 驚いたよな。
 日頃、 「韓流ドラマのスターでは誰が好き?」 ってな会話を交わしていた人たちだと思っていたからさ。

 やっぱりテレビの影響というものは大きい。
 私もチラッと見たことがあるけれど、日本の学生たちを集めて、互いにディベートをさせながら、 「さぁ、みんなで考えよう」 的な講義をしていたような気がする。

 講義の内容も、今までのアカデミックな授業のテーマとはおよそかけ離れたものだった。
 「マリナーズのイチローの高額な年俸は道徳的にフェアか」
 とか、
 「過去の世代が犯した過ちの責任を、今の世代が負うべきか」
 といったような、身近な疑問をとっかかりにして、結論を出すことよりも、講習者に考える機会を与えることの方に主眼を置いているように思えた。

 同氏の著作 『これから 「正義」 の話をしよう』 という本がベストセラーになったのも、たぶんに、そういう新しい 「知の在り方」 の提示がインパクトを与えたからかもしれない。

これから正義の話をしよう表紙

 で、マイケルさんって、どういう哲学者なの?
 …という興味で、Wikiなどを開いてみたら、 「フランクフルト学派」 「コミュニタアリズム」 「ベンサム」 「カント」 「ロールス」 とか、極めて難しい政治哲学の潮流や哲学者たちとの関連において位置づけられる人らしい。

 しかし、マイケル氏のテレビゼミを楽しみにしていた人たちや、その著作を買った人たちというのは、学術的な関心があったからではあるまい。
 
 ベストセラーというのは、今まで本など買ったことがない人が買うことによって、はじめて実現するものである…という話はよく聞くが、たぶん、この本がベストセラーになったのも、教養主義を自認する従来の知的エリートではない人たちを巻き込んだからだろう。

 この本と同じように、やはり “難しい” といわれた西欧の哲学者ニーチェの本も、今年は売れた。
 『超訳ニーチェの言葉』 (白取春彦・編訳) という本のことだが、これは難解だといわれるニーチェの哲学を、ものすごく簡単な言葉に訳して読みやすくしたものらしい。
 で、これが、比較的若い世代に売れたという。

 こっちは賛否両論で、昔からのニーチェ哲学に親しんできた人たちからすると、 「ニーチェが言ってもいないようなことを勝手にでっち上げたトンデモ本で、ニーチェを冒涜するもの」 と厳しく批判する人もいる。
 しかし、これもニーチェという人名すら知らない若い世代の好奇心をくすぐったらしく、ベストセラーになった。

 何かが変わってきたのかもしれない。

 すでに、いろいろなところから指摘されていることだが、こういう書籍に対する一般人の関心が高まったのは、今の時代に対して、誰もが、どういう立ち位置を保つかということを真剣に考えざるを得なくなったからだという。

 経済は、不況から脱出できない時代が長く続いている。
 今までは 「不況 → 好況 → 不況 → 好況」 というように、経済には景気循環があると信じられてきたが、最近は、人口問題とか、雇用形態の変化といったような、不況を構造的に捉える認識が浸透し、 「どうやらこのまま待っていてもダメみたいよ」 という感想を抱く人たちが増えてきた。

 その解決手段を政治に求めても、今の政権与党はそれを解決する能力を持たないようだし、それに、 「どこの政党が担当しても、事態はそんなに変わらんだろう」 という諦念も蔓延している。

 本来ならば、国民の生活をどう守るかというテーマに関しては、時のメディアが 「政治や経済の弱点」 を突いて、時代の進むべき道を説かなければならないはずなのに、メディアもまったく機能していない。

 経済評論家が口々に、 「ああした方がいい、こうした方がいい」 と提案しても、その予見はことごとく外れてしまうし、政治家たちの訴える政策論はブレブレで、一貫した方針が打ち出されたためしがない。

 だから、
 日本はどうなっていくのよ?
 世界はどう変化していくのよ?
 自分たちの生活はどう守ればいいのよ?
 正義って、何なのよ?
 人間って、何なのよ?

 …みたいな疑問に、誰もが、自分自身で解答を見つけなければならなくなったのではなかろうか。

 自分たちが、現在どこに立っているのかを教えてくれる 「羅針盤」 とか 「座標軸」 みたいなもの。
 それを、誰もが自分の内に抱え込むしかないという気持ちの高まりが、今の 「知的ブーム」 のようなものを支えているんではないか、という気がしている。

 今まで、その 「羅針盤」 の役目をしていたのは、自己啓発本やノウハウ本だった。
 そこには、社会で成功を収めるための方法がたくさん提示されており、まさに、競争社会の海を漕ぎ行くための 「羅針盤機能」 を果たしていた。
 
 ところが、ここ4~5年ブームとなっていたそのような書籍が、一時の勢いを失ったという。

 「人を押しのけても自分の成功をつかもう」 という自己啓発本のスタイルは、アメリカ流の市場原理主義的な考えを背景にしている。
 だが、誰もが競争の 「勝者」 になれるわけではない。
 一握りの 「勝者」 の影には、それに倍する 「敗者」 が存在することになる。

 現在の新しい知的ブームというのは、そのような 「勝ち負けの理論」 とは違うところで、人の立ち位置を模索しようという気運から生まれてきたように感じる。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 23:46 | コメント(0)| トラックバック(0)

空気人形

 2009年に公開された、是枝裕和監督の 『空気人形』 。
 テレビの深夜放送で流れていたので、やっと観ることができた。

空気人形009
 
 「空気人形」 、すなわちラブドール。

 なにしろ、自分には変態的なところがあって、この 「ラブドール (高規格型ダッチワイフ) 」 というものに、昔からちょっと関心があるのだ。
 もちろん買ったことはない (高い! そしてカミさんに誤解される) 。
 カタログを取り寄せたこともない。
 でも、ときどきネットで、そういう商品を開発している会社のHPを無心に眺めたりすることがある。

 でも、エロスを求める…ってのと、ちょっと違うんだなぁ。
 “物” と交信することへのアブナイ期待 ?? つぅか…。
 相手はただの無機質な 「玩具」 なんだけど、話しかけているうちに、自分の脳内に 「交信回路」 が生まれて、玩具との 「会話」 が始まるんじゃないかという妄想。
 そういう妄想の誘惑に勝てないことがあるのだ。

 だから 『空気人形』 という映画には、以前から興味があった。

空気人形003

 で、観ていて、
 「あ、これは俺の思い描いていたとおりの映画だな」
 と思った。
 なにしろ、人形が 「心」 を獲得して、人間に語りかけてくるのだから。

 言ってしまえば、メルヘン。

 メルヘンというのは、
 「人形が意識を持つことの科学的な根拠が乏しい」
 …なんていう突っこみを無用とするジャンルだから、観客はノーテンキに画面の流れに身を任せていればいいのだけれど、創る方は大変だ。
 手を抜くと、 「荒唐無稽じゃねぇか」 とか突っ込まれるからね。
 突っ込まれないメルヘンに仕立てるには、やっぱり創り手に 「美意識」 が必要とされる。
 この映画は、そこでまず成功している。

 あらすじをひと言でいうと、中年独身男の性欲の “はけ口” として買われたダッチワイフ (空気人形) が、あるとき 「意識」 と 「運動能力」 を獲得し、持ち主が仕事に出ている昼間に勝手に家を飛び出し、いろいろな人に会うという話。

 そして、出会う人たちの 「心」 に触れるうちに、体の中には空気しか入っていない人形にも、 「心」 というものが形を取り始める。

 すでに幾多の苦渋を経験している人間たちの 「心」 は、幾重にもガードがかけられ、屈折している。
 しかし、生まれたばっかりの人形の 「心」 は、屈折を知らない。
 彼女には、人間たちの 「心」 の奥深いところに隠された悲嘆も、悔恨も、憎悪も見えない。

 彼女は、出会う人たちに、みな無垢な自分の姿を投影する。
 出会う光景にも、新鮮な驚きを感じる。
 太陽はどこまでも暖かく、優しい。
 道ばたの花は、限りなく美しく、愛らしい。

空気人形004ぺ・ドゥナ 
 ▲ 空気人形のぎこちなさと愛らしさを見事に演じたぺ・ドゥナ

 そんな真っ白な人形の 「心」 に、あるとき、インクのシミが一滴だけこぼれ落ちる。
 ある青年に恋心を抱くことによって、彼女の 「心」 に、はじめて痛みが走ったのだ。
 
 彼女が好きになった青年には、かつて愛した人間の女性がいるらしい。
 「まだ、その人のことが好きなのだろうか?」
 「自分はやっぱり代用品 (ダッチワイフ) なのだろうか?」
 「あの人は、私の正体を知ったら逃げ出すだろうか?」

 人形は 「痛み」 を知ることによって、 “痛みを痛みとして受け取る” 「心」 の存在を意識するようになる。

 ま、そこで、その人形が接する人たちのサブドラマが展開されるわけだけど、みんな何かしらの屈折した心情を抱えているんだよね。
 それは、 「人生相談」 以前の取るに足らない悩みだったり、煩悩だったりするんだけど、その人たちにしてみれば、その “取るに足らない悩み” が、けっこう 「やるせない人生」 としてのしかかっているわけ。
 純度100パーセントのイノセンスに輝いていた人形の 「心」 にも、次第に、人間というものが抱え込んでしまう 「やるせない人生」 がひたひたと足元を浸していく。

 そして、人形は、「心」 を持つことは、 「孤独」 を知ることだということを、理解するようになる。

 「私は、 その 『孤独』 を理解してくれる伴侶を持つことが出来るのだろうか……」
 後半は、そういうドラマなんだね。

 で、そのいちばんの伴侶であった恋人の青年を、彼女はなくしてしまう。
 なんで、なくしたのか…ということは、この映画のカギだから、ここでは書かない。

空気人形005
▲ 空気が抜けてしまうと、ただのビニールの塊り

 薄幸の人形は、最後に、自ら 「燃えないゴミ」 になることを選ぶ瞬間、まるで 『マッチ売りの少女』 のような夢を見る。
 自分に関わったすべての人たちが、 「ハッピーバースデー」 の歌を唄いながら、人形の最初の誕生日を祝ってくれるのだ。

 人形が 「心」 を持った 「人間」 であることを、みんなが認めてくれた 「最初で最後のひととき」 。
 あくまでも一瞬の幻想にすぎないが、それは、自分の周りにいた人たちに祝福される唯一のシーンなのである。

 概要を語るのはこれでとどめるけれど、何が印象的かというと、全編に漂っている 「透明な空気感」 。
 もうこれだけ!
 それがすべて。

空気人形002湊公園

 舞台として選ばれた東京・隅田川寄りにある湊公園のシュールな空虚感。
 高層ビルと、うらさびれたアパート街が雑居した光景のかもし出す淡い寂寥感。

空気人形001

 それらの生命力が乏しそうな 「空気感」 が、逆に、中身が空気でしかない人形をそっと抱きすくめて守っている。
 この 「人間の厚かましい圧力」 を除去した静かな街だけが、人形のかぼそい 「生命」 をかろうじて支えている、という感じで、なんとなく切ない。

 「爽やかで、明るい、さびしさ」
 強いていえば、そんな空気が流れる風景が随所に挿入される。


  街のはずれの背伸びした路地。
  がらんとした防波堤には、緋色の帆を掲げた都市が停泊し、
  摩天楼 (まてんろう) の衣ずれが、舗道をひたす。

 はっぴいえんどが 『風街ろまん』 のアルバムで歌っていた 「風をあつめて」 という曲が思い出された。



音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 13:10 | コメント(6)| トラックバック(0)

ジジイ同士の酒

 ジジイ同士で酒を飲んだ。
 定年になって仕事を辞め、年金暮らしをしている知り合いが、久しぶりに街まで出てくるという。

 「街に出る」 …といっても、別に山奥に住んでいるわけではない。
 ちょっとした 「郊外」 というぐらいの場所で、小さいながらも駅ビルがあり、コンビニがあり、CD・DVDのレンタルショップもあるらしい。

 「たまに街に出たら、 “時代” というのを感じたよ」
 …と、ヤツは、ウィスキーのロックグラスをかざしながら、皮肉っぽい笑いを唇に浮かべて、つぶやいた。

ウィスキーグラス

 【オレ】 なんだよ、 “時代” って。
 【ヤツ】 今、昼間の街って、まったく新しい人種が湧き出ているのな。
 【オレ】 新しい人種?
 【ヤツ】 デイバック背負って、ハンチングみたいなのかぶって。目的もなく街をふらついている老人たち。何をしてヒマをつぶしてやろうか…っていう目つきで、けっこうみんな精力的な顔でさ。
 連中、本屋に入ると、そば打ちとか、陶芸とか、田舎暮らしみたいなムックを置いてあるコーナーに立ち寄って熱心に拾い読みしてたりしてよ。いよいよ日本も “老人大国” だな。
 【オレ】 で、お前のことだから、そこからなんか新しいマーケットでも思いついたの?
 
 ヤツは、現役時代に広告代理店の周辺でうろうろしていた人間で、 「プランナー」 とか 「マーケッター」 とかいったいかがわしい横文字を名刺に刷り込んでいた男だ。

 【ヤツ】 バカいうな。俺はもう 「隠居」 、 「引退」 、 「インポテンツ」 の “3イン” だ。そんなシャバっ気はもうないの。
 だから、俺たちの同類がまだ脂ぎっているのを見ると、鬱陶しいのよ。
 俺なんか、最近もうテレビも見ないし、パソコンも開かないよ。
 いい年こいた老人が、 「時代」 についていこうっていう態度が、なんかしゃらくせぇよな。
 【オレ】 変われば変わったもんだな。新聞3紙も買い込んでメモ取って、テレビ局の連中と飲み歩いて情報を仕入れ、新宿ゴールデン街あたりで、作家先生たちに議論をふっかけていたお前がな。
 【ヤツ】 だから、バカバカしさに気づいたんだよ。 「時代についていく」 ことのバカバカしさにね。
 
 【オレ】 今のお前が、もう一度CMプランナーになったら、どんなものつくるつもりなのよ? 
 【ヤツ】 もう、こんな時代にCMなんかやる気はないよ。
 最近のCMって、ますます抽象度を増しているよな。何を訴えようとしているのか、それが分からないもの。
 不況になったから、イメージ広告ってのが影をひそめ、商品訴求を具体的に追求するようになったって、みんな言うけど、逆だな。
 今のCMの方が、昔より “幻想広告” が増えた。今はとんでもないイメージ広告の時代さ。
 【オレ】 言っている意味が分かんねぇ。
 
 【ヤツ】 最近どんなCMが増えているか、お前知ってる? 
 まずサプリメントみたいな健康食品。それとダイエット医療用品。
 後は、抗菌グッズとか消臭剤みたいな清潔志向商品。それと、老人対象の生命保険とかのたぐい。

 【オレ】 テレビなんか見ているのはもう老人だけなんだから、そこにターゲットを当ててるんじゃないの?
 【ヤツ】 だけど、 「健康」 って、 「幻想」 なんだよね。で、今のCMはみんな老人たちに 「幻想」 を振りまくだけのものにどんどん特化してきているわけ。
 たとえば、そのサプリメントがどういう作用で、身体のどこに効くのか、抗菌グッズなんかでも、どんな菌を除去できるのか、そんなものは何もいってねぇのよ。
 もちろん “とってつけたような” 解説はするんだけど、具体的であるようでいて、最後の最後は抽象的なの。
 要するに 「イメージ」 。
 結局、何もいってないのに等しい。
 その度合いはますます進んで来ているよね。

 【オレ】 だけど、 「イメージ」 っていうことだけを取り出せば、80年代あたりのパルコのCMとか、あんな方が 「イメージ広告」 としての純度は高かったろ?
 【ヤツ】 イトイ先生の 「不思議大好き」 とか、 「おいしい生活」 とかいうヤツだろ。でも、あれはあれで、狙いがはっきりしていたわけ。
 パルコあたりのCMって、具体的商品名が出てこないっていう意味で、社会学者たちも興味を持っていたけれど、あれはきわめて正直な広告戦略でね。
 つまり、具体的な商品訴求をしないということで 「ブランド」 をつくろうとしていたわけよ。
 「ブランド」 ってさ、具体的な商品からどれだけ距離を取れるかで、価値ってものが決まるわけ。
 要は、 「ブランド」 って、実体があっちゃいけないのよ。実体のないものに価値を盛り込むから 「ブランド」 なの。

 【オレ】 それと、今のサプリメントのCMとどう違うわけよ?
 【ヤツ】 「ブランドなき幻想」 なんだよ、今のCMは。
 具体的な訴求をしているように見せかけて、その中味が空疎なんだから、消費者を欺いているよね。
 【オレ】 そういうのって、自分が第一線にいた頃のノスタルジーなんじゃないの?

 【ヤツ】 まぁな…。だけど、俺そんなこと他の誰にもいったことないものね。ここだけの話。
 ノスタルジーってのは、誰でも持っている。年齢には関係ねぇ。
 だけど、そのノスタルジーを人に押し付けるようになったら、それが 「老化」 なんだよね。
 年取るとさ、ついつい 「昔の人間は気骨があった」 とか、 「昔の映画は風格があった」 とか、やたら自分が若い頃に接していたものを基準に語りたがるだろう? それを 「老化」 っていうんだよね。
 で、お前、ブログ書いているんだって?
 【オレ】 まぁな。

 【ヤツ】 で、相変わらず、昔のロックは良かったとか、ビートルズは良かったとか書いているんじゃねぇの?
 【オレ】 読んだことあんの?
 【ヤツ】 ないけど、分かるさ。ブログなんて止めたら?
 【オレ】 どうして?
 【ヤツ】 ネタを探すために、どうしても 「情報」 ばっかりあさるだろ?
 【オレ】 そりゃ。ネタは大事だもん。
 【ヤツ】 ヘタに 「時代についていこう」 なんてことばっかり考えていると、かえって 「老化」 を早めるよ。
 「老いる」 ってのはね、達観することじゃないの。 「時代を追いかけようとする」 ことなんだよ。だって、若者を見てみな。 「時代を追いかけよう」 なんて思っているヤツなんか一人もいないぜ。
 

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 04:32 | コメント(5)| トラックバック(0)

世界ゲーム革命

 「時代は、いま大きな転換期に差し掛かっている」

 そういう言い方が、いろいろな領域で言い交わされるようになってきた。
 成長経済から縮小経済への 「転換期」
 人口増大から人口減少への 「転換期」
 紙の書籍から電子書籍への 「転換期」
 固定インターネットからケータイへの 「転換期」

 メディアの方もそのあたりはよく心得ており、 「転換期」 という視点でモノを論じると、人々の危機意識を煽ったり、期待を高めたりすることができるため、やたらと 「転換期」 という言葉を連発する。

 NHKが日曜の夜に放映する 『NHKスペシャル』 は、毎回この “転換期” に焦点を当てた番組といっていいだろう。
 
 週が変わって、テーマが変わるごとに、当然さまざまな “転換期” が登場するわけだが、そのどれもが、 「これぞ世紀の大転換期!」 と視聴者をあわてさせるような作りになっている。

 その手法たるや、芸能スポーツ新聞も顔負けの巧さ。
 話題がハイブローというだけで、視聴者の不安を煽ったり、期待感を持たせたりするうまさにおいては、芸能スポーツ新聞などの比ではないかもしれない。

 で、12月12日の夜に放映されたNHKスペシャルは 「世界ゲーム革命」 という企画。
 ここにも、さまざまな 「転換期」 が散りばめられていた。

 ゲームといえば、 「クールジャパン」 を代表する日本のお家芸的な産業だと思われていたが、ところがドッコイ。
 1995年には世界のゲームシェアの7割を占めていた日本のゲーム産業も、新興のアメリカゲーム産業に追われて、今や3割程度に落ち込んでいるとか。
 番組では、そういった世界のゲーム市場における 「転換期」 が、まず報告される。

 次に、日本よりゲームの売上げで優位に立ったアメリカでは、ついにゲーム産業が映画産業を上回る市場規模を実現し、文字どおりエンターティメント産業の頂点に立ったことも報じられた。
 つまり、映画からゲームへの 「転換期」 。

 で、いちばん大きな 「転換期」 だと強調されたのが、 「現実逃避からゲーム的な現実参加への転換期」 。

 番組の中では、あるゲームディレクターが、ゲームが現実逃避であることを認めつつも、それを “肯定的に” 語っていたことが印象的だった。
 つまり、ゲームに熱中することは、今までは “辛い現実” を忘れるための 「現実逃避」 であったが、これからのゲームは 「逃避」 ではなく、それこそが 「新たな現実」 の獲得になってきたということなのだろう。

 今までは、どんなにゲームがリアルな感触を実現しようが、しょせん 「現実は現実。バーチャルはバーチャル」 という2分法を超えることはなかった。
 ところが、いま世界で繰り広げられているゲーム開発の狙いは、リアル世界よりももっと “リアルなゲーム” 、すなわち人間の感覚機器そのものを改変していくようなゲームを開発することなのだとか。

ゲーム004

 その “リアリティ” を獲得するために、アメリカで戦争ゲームを開発している会社は、銃の撃ち方、弾丸の装填の仕方、さらに撃ったときの衝撃、反動などをリアルに再現するため軍事コンサルタントを招へいして、徹底的な指導を仰いでいたり、別の会社では、ゲームプレイ中の人間の脳波を測定し、ゲームが与える刺激や人間が飽き始めるポイントなどを徹底分析してゲームへの集中度を高めるノウハウを追求しているという。

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 さらに、ゲーム世界とリアル世界への 「壁」 を取り除くため、キーボードやマウス、コントローラーから人間を解放し、腕そのものを入力装置にしたり、人間の動作を赤外線カメラが読みとることによって、ゲーマーの一挙手一投足がそのままゲームをコントロールするシステムなどを開発しているとか。

 ロシアでは、脳化学を研究する科学者が、政府の研究補助金の減額を理由に、その研究成果をゲームメーカーに売った。
 そこから、脳のどのような部位を刺激すれば、人間がバーチャルな世界で 「リアル」 を体験できるかということが研究されることになったという。

 つまり、今までディスプレイで隔てられていた向こう側の世界に、人間をそのまま送り込んでしまおうという計画が、いま世界で同時進行しているらしい。

 当然、 「こちら側」 に帰って来れない人も出てくるだろう。

 しかし、あるアメリカのゲーム開発者はこういう。
 「ゲームは電源が切れるまで続けられなければならない」

 あたかも、それこそが 「人間の究極の幸福だ」 といわんばかりに。

ゲーム002

 このように、アメリカでは、脳化学や生態学、生理学などのすべての科学を応用し、人間が 「飽きることなくゲームに熱中し続けられるシステム開発」 にあらゆるエネルギーが投入されるつあるのだが、それには理由がある。
 ゲーム産業が巨万の富をもたらせる 「宝箱」 だからだ。

 そのためゲーム開発会社は、企画中のゲームを成功させるために、開発費の1割から2割という高額な予算を割いて、ゲームをテストする専門会社のアドバイスを仰いでいる。

 そこでは、世界の各国から集まってくるゲーマーたちが、真剣な眼差しで企画中のゲームの出来映えを審査する。
 ストーリー性があるかどうか。
 途中で飽きてくる要素はないか。
 キャラクターに感情移入できるか、できないか。

 厳しい審査基準が設けられ、一定のレベルに到達できないゲームは、容赦なく批判を浴び、つくり直しが要求される。

 これらのゲームテスターたちが各国の若者たちで構成されるのは、世界マーケットを考えた場合、その国民性による文化概念の差を把握するためであるという。
 現に、戦闘ゲームの場合、アメリカ人は派手に血しぶきが飛び、腕や首が宙に舞うような構成を好む。
 しかし、日本人はあまり残虐なヴィジュアルを好まないため、戦闘場面はソフト化されて再構成される。 

ゲーム003

 そのような海外の動きに対抗して、日本では、経済産業省の 「クールジャパン室」 が年間予算20億円をかけて、日本製ゲームやアニメの振興に力を入れるようになったらしい。
 さらに、スタジオジブリとゲームメーカーのコラボによって、アニメとゲームを融合させた作品 ( 『二の国』) の制作を進めている日本人クリエーターにも取材が入った。

 いやはや、大変な時代になったなぁ…と、見ていてため息が出てしまった。

 初期ファミコンで 「ドラクエ」 を知って以来、スーファミ、プレステ、セガサターンなどを次々と買い込んで、 「信長の野望」 やら 「大航海時代」  「チンギスハーンⅣ」 などで遊んだ私には、とても他人事とは思えない。

 私は、そういうものにハマったときの 「地獄」 と 「快楽」 を知っている。
 だから現実を凌駕する 「第二現実」 の登場に対しては、それにハマりこんだときの恐ろしさも想像できる。 

 たぶん、そこでは今までのゲームにはなかったような新次元の 「スリル」 や 「刺激」 や 「快感」 が誕生しているだろう。
 しかし同時に、リアルな 「恐怖」 や 「不安」 や 「嫌悪」 も生まれてくるだろう。

 現実生活では、 「恐怖」 や 「不安」 の先には、 「身体の痛み」 や 「死」 が待ちかまえている。
 だが、ゲームの場合、あらゆる感情が喚起されても、そこに 「死」 だけはない。
 「死」 のない 「恐怖」 や 「不安」 が、終わることなく永遠に繰り返されるというのは、それこそ 「悪夢」 なのではなかろうか。

 でも、人類がそれを求めているのだとしたら、もう止められないのかもしれない。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:47 | コメント(10)| トラックバック(0)

ハイマー懇親会

 この11日~12日、栃木県の塩原グリーンビレッジで行なわれたハイマージャパンの 「オーナーズキャンプ」 を取材してきた。

ハイマーミーティング008
 ▲ ▼ トレーラーから自走式までハイマー車が勢ぞろい
ハイマーミーティング022

 参加したキャンピングカー関連のメディアは、うちのほか 『オートキャンパー』 さん、 『キャンプカーマガジン』 さん。

 今回のオーナーズミーティングは、ハイマーユーザーの懇親を深めるためのものなので、取材に参加した記者・カメラマンの方々も、キャンピングカーショー会場で新車を撮るときのような忙しさもあわただしさもなく、顔を見合わせてニコニコ和気あいあい。

 私なんかは、イヌ連れ、クマ連れ (← 要説明) で、最初から完全に遊びモード。
 着いたとたん、椅子・テーブルも出すヒマもなく、さっそくスタッフの方々から八海山の糟を贅沢に使った甘酒を振る舞われ、もう一気に酩酊気分。
 そのまま、マグカップに買ってきたばかりの日本酒を注ぎ、日の沈まぬうちから、だらしなく自分だけで宴会状態に突入してしまった。

 夜のとばりが降りると、あちこちで、酒宴が開かれ、酔った足どりで、あっちへのサイトへフラフラ、こっちのサイトへフラフラ。
 オーナーの方々は、とてもフレンドリーで、話上手。そして、知的。
 話す内容も多岐にわたり、関心領域がとても広いことが印象的。

 中には、RV業界に関わっている人たちよりも業界内部の昔話に精通されているユーザーさんもいらっしゃって、聞いていて、たいへん勉強になった。


▼ トレーラーではツーリングの系統がとても多かった
ハイマーミーティング018

▼ 8m越えのインテグレィティッドモデル (クラスA) なども加わってくると、サイトにも華が添えられる
ハイマーミーティング007

ハイマーミーティング055
▲ ▼ ハイマージャパン安達社長 (中央) の挨
この後、参加したユーザー全員にプレゼントが手渡される
ハイマーミーティング057

▼ ハイマージャパンの正規代理店も務めるフィールドラフの福島社長 (右) も挨拶
ハイマーミーティング福島

▼ 福島さんのプラッツ前が “ハイマーバー” として、ユーザーや取材陣に解放され、寄ってきた人には、福島家自慢の“極うま豚汁”ほか、甘酒、日本酒、ワイン、焼酎が振る舞われた

ハイマーミーティングプラッツ前

▼ 仲の良いファミリー同士が集まって、個々に繰り広げられたパーティ
ハイマーミーティング097

▼ 子供たちは “火遊び” = 焚き火台を使った焚き火が好きだ
ハイマーミーティング112

▼ 集合写真
ハイマーミーティング集合写真

 お世話になった 「ハイマージャパン」 の安達社長様、鈴木様、福島様、佐久本様、フォールドライフの福島社長様・奥様、 『オートキャンパー』 の鈴木様、 『キャンプカーマガジン』 の安中様、塩原グリーンビレッジの矢口様、辻野様、ハイマーのユーザーの皆様、 “さすらいの駒ちゃん” 様、本当にありがとうございました
 この場を借りて、御礼です。


旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 16:11 | コメント(0)| トラックバック(0)

ガールズキャンプ

 ハイマージャパンさんにお声をかけていただき、栃木の 「塩原グリーンビレッジ」 で開かれたユーザー・ミーティングの取材をしてきた。

塩原グリーンV野天風呂表
▲ ▼ 塩原グリーンビレッジ 「野天風呂」

塩原野天風呂中

 …といっても、夜はスタッフの方々やユーザーさん、キャンピングカー専門誌のメディアの方々と一緒にお酒を酌み交わしただけで、取材らしい取材は何もしなかったんだけど、楽しい時間を過ごさせてもらった。

 ユーザー・ミーティングのレポートは、画像をパソコンに取り込んでから改めて行いたいと思うけれど、ここでは、グリーンビレッジのマネージメントに携わっていらっしゃる辻野靖樹さんより面白い話をうかがったので、先にそれをちょっと紹介したい。
 日本のキャンプ場に、今 “新しい変化” が起こっているという話である。

 今年、社団法人日本オート・キャンプ協会が発行した 『オートキャンプ白書2010』 によると、日本のオートキャンプ人口が13年ぶりにプラスに転じたという報告がなされていたが、辻野さんが観察したところ、塩原グリーンビレッジにおいても、それを裏付けるような動きが出てきているという。

 日本のオートキャンプ人口は、1996年の1,580万人をピークに、その後は減少傾向を示し、08年では隆盛時の半分にも満たない705万人まで落ち込んでいたが、09年度の調査によると、08年よりも45万人増え、750万人にまで盛り返したらしい。
 同白書によると、その理由にはいくつかの複数要素が考えられるが、とりわけ 「ビギナーの参入」 が大きいという分析がなされていた。

 グリーンビレッジの辻野さんも、それを認めている。
 来場する客層を見ていると、明らかに30代~40代くらいの “子育てファミリー” が目立って増えているというのだ。
 この世代というのは、オートキャンプが爆発的なブームを迎えた1990年代に、親と一緒にキャンプ場を訪れた世代。
 つまり、小さい頃にキャンプの面白さ・楽しさを“肌で感じた”人たちが、ようやく自分の子供をともなって、キャンプ場に復帰したという見方が成立する。

 面白いのは、その子育て世代よりも、最近はさらに若い世代が台頭しているということである。
 私自身も、いろいろなキャンプ場を見ていて、ここ数年、若者たちの集団がコテージなどを借りて遊んでいる情景を見る機会が増えたと思っているが、同キャンプ場においても、若者集団が増えているらしい。

塩原グリーンVコテージ
▲ 塩原グリーンビレッジのコテージ

塩原グリーンVレストラン入り口
▲ キャンプ場内にあるレストラン
▼ メインメニューのひとつバーベキューは絶品

塩原グリーンVレストランバーベキュー

 キャンプ場を訪れる若い世代は、コテージなどで宿泊する頻度が高いが、一方ではテントキャンプにチャレンジし、バーナーなどを使ってバーベキューなども楽しむ。

 ところが、その大半は自前のテントなどではない。
 乗用車だけでキャンプ場に乗り付け、テントをはじめ、グリルや焚き火台、鉄板、皿などもすべてレンタル。
 それを 「お手軽キャンプ」 、 「手抜きキャンプ」 などと見る向きもあるが、辻野さんによると、用品を買う前に、まず 「その使い勝手を試してみよう」 という彼らの合理性を、そこに感じるという。

塩原グリーンVレンタル用具コーナー 
 ▲ レンタル道具が豊富な同キャンプ場の売店コーナー

 なかには、女の子だけのグループもいるそうだ。
 格好を見ると、今話題になっている 「山ガール」 、 「旅ガール」 。
 最近盛り上がりを見せているファッション系のアウトドア雑誌があるが、まるでその写真から抜け出てきたかのようだという。
 
 しかし、中には、単なるファッションを遊ぶというものから一歩踏み込んで、より実質的な、…つまり地味な服装の女の子もちらほら現れるようになり、同キャンプ場の辻野さんは、そこに新しい “ガールズキャンプ” の可能性を見る。

 「最初はファッションから入るのは大いにけっこう。だけど、実際にキャンプの面白さに目覚めてくると、ファッションだけのアウトドアには飽き足らなくなるのではないでしょうか。
 そういう女の子は、むしろ実用性の高い衣装の方を “カッコいい” と感じるようになるのではないかと思っています」
 …と、辻野さんは語る。

 さらに、こんな話も。

 最近、女の子たちの間では、 「気に入った彼氏を見つけたら、まずキャンプに誘ってみるといい」 という会話が交わされているとも。

 キャンプというのは、 「男の出番」 が多い遊びである。
 焚き火をするのなら、まず火熾しは男の仕事。
 料理をしたり、それを盛り付けるのも、男が関与する率が高くなる。

 だから、
 「キャンプに連れ出すと、その男の子の家庭のしつけぶり、女性対する優しさや気づかい、そんなものが一発で見抜ける」
 …という女の子がいるというのだ。

 いくら、日頃カッコいいことを言っているイケメンの男の子も、キャンプ場で遊ばせると、その素性が瞬時において分かる。
 都会の生活では、女性への気づかいを見せるような子も、フィールドに出てくると、家事ではまったく女に協力する姿勢がないことが分かったり、男としての生活適応力がないことも見えてしまう。

 「キャンプに連れ出すと、男の子の本性が分かる」
 ガールズキャンプを楽しむ女の子には、そう言い放つ人もいる。

 一方、 「女の子にカッコよく思われるようになるためには、まずキャンプでカッコいいところを見せること」 と、キャンプ場で張り切る男の子たちも出てきたらしい。

 まだ、一部の現象なのかもしれないが、でも、何かが変わってきた。

 日本のアウトドア文化を、若い女性たちが切りひらく時代が来ているのかもしれない。


旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 23:48 | コメント(4)| トラックバック(0)

イタリアをめざせ

 ちょっと評判になっているブログで、知っている人はかなり前からチェックしていたのだろうけれど、最近、人から 「面白いよ」 と教えてもらって、 「あ、なるほど…」 と思ったのは、 「ちきりん」 という人が書いている 「Chikirinの日記」 なるブログ。

 その中の 「日本はアジアのイタリアに」 (2010年7月30日) という記事が、有名な経済評論家などにも好意的に評価されて、かなり評判になっているらしい。

 で、読んでみた。
 確かに面白い。

 ま、要するに、政治はグチャグチャ、経済はアップアップ、人々の生活はドロンドロンである今の日本ではあるが、Chikirinさんという人は、 「…んなの、イタリアと別に変わらんよ」 といっているわけだ。

イタリアの地図

 で、承諾も得ぬまま勝手に一部引用してしまうけれど、チキさんは、イタリアと日本を比較した上での共通性を次のように書く。

 (経済) 世界で10から20位くらいの間 (先進国のしっぽのあたり)
 (政治) ぐちゃぐちゃ。こんな奴が首相でいいのか? と言いたくなるレベル。
 (国際社会でのプレゼンス = 存在感) 特になし。
 (歴史) 現代より、歴史 = 過去に栄光あり!
 (首都) 世界の人が憧れる大都市。ユニークに熟れた都市文化が存在。
 (田舎) 訪ねるのは不便だが、すばらしく美しい。地元ならではのおいしいモノがたくさんある。
 (教育) この国の教育レベルが高い、などという人は世界にいない。
 (英語) みんな下手くそ。
 (企業) ごく少数の国際レベルの企業あり
 (闇社会) マフィアもやくざもそれなりのプレゼンスあり、クスリも蔓延。
 (失業率) 常にそこそこ高い。
 (格差) わりと大きい。田舎に行くと都会とはかなり生活レベルが違う。都会にも貧しい人が多い。
 (出生率) 低い。少子化が止められない国家。
 (国家ブランド) 強い。 “イタリア製” 、 “日本製” という言葉には独特の付加価値がある。
 (食事) 世界トップレベルの美味しさ。世界中でブームが定着。
 (ファッション) 食事と同様、独自のスタイルが世界の注目を集める。
 (観光産業) 海外から、特に圏内 (日本の場合はアジア) から多数の人が押し寄せる。
 (文化) 世界にはない (アメリカのエンターティメント産業の真似ではない) ローカルカルチャーが花開いている。イタリアと日本は、あのフランスが文化面で憧れる国。
 (まとめ) グローバル国家ではなく、超ドメスティック志向。 “オレの国が一番いいじゃん系” 。

 …って感じで、イタリアと日本の共通点を羅列した後で、チキさんは 「最大の違いがあるとしたら、イタリア人の多くが “これでええねん” と思っているのに対し、日本人は “これじゃあかん!” と思っていること」 だという。

 要は、同じひとつの現象を取り上げても、それを楽観的に見るか、悲観的に見るか。
 そこにチキさんは、 「イタリアの幸せ」 と 「日本の不幸」 を読みとっているようだ。

古代ローマの遺跡

 ま、上記の比較は、 “読み物” を意識した相当ランボーな比較なので、実証的に検証していくと、また違った観察が生まれるだろうと思うけれど、少なくとも、イタリア人の持っている “ラテン気質” というものをうまく要約する見方だと思った。

 ここには、人間の活力が生まれるヒントが描かれている。
 「ノーテンキさ」
 「気楽さ」
 「いい加減さ」 

 日本人が忌み嫌う、そのような気質こそ、逆に人の 「活力」 を取り戻し、現世的な幸福を実現する力となる。それをチキさんは、 “イタリア人気質” というものに代表させて語ったんだろうな…と思うのだ。

 で、 「泥沼の不況」 、 「格差の拡大」 、 「長期的な低迷」 などという負のムードが国全体を覆う時代になると、 「刻苦勉励 (こっくべんれい) 」 、 「努力」 、 「克己」 、 「奮起」 、「挑戦」 などという国威発揚的なモチベーションを掲げることは、あまり意味をなさなくなってくる。

 ただでさえ、相当疲れちゃった人が多いのだから、人はもう進軍ラッパや、軍楽隊の太鼓にはついていけなくなっている。

 「刻苦勉励」 や 「努力」 や 「奮起」 などという標語が人々を動かしたのは、高度成長が期待できた時代だったからだ。産業構造でいうと、 「大量生産、大量販売、大量消費」 が約束された時代だ。

 今は産業構造が変わってきて、人間同士を競争させて生産性を上げても、それが供給過剰になって在庫の山と化すような時代だから、多くの人は、社会や企業から 「やる気を出せ!」 と言われても、かえって 「徒労感」 、 「消耗感」 、 「喪失感」 を感じてしまう。

 特に、日本人は、 「手抜き」 を忌み嫌う民族だから、 「奮起せよ!」 と尻を叩かれて 「奮起できなかった」 ときは、“誠実に” 反省しちゃうために、抱えるストレスも大きくなり、人間関係はギクシャクし、鬱病も、自殺も、ケンカも増えていく。

 で、重要なのは、チキさんの “イタリア謳歌” が、図らずも、今後の日本産業の進むべき方向性も示唆しているということなのである。

 結局、安価なコストで大量生産するような商品は、もう中国、インド、東南アジアなどに太刀打ちできない。
 だって、労働力の厚みと人件費が違いすぎるんだから。

 そういうのはアジアの途上国にまかせ、では日本の進むべき道は? …というと、一にも二にもブランド力の強化しかない。

 商品の価格を下げて、アジアの途上国と争うなどは愚の骨頂。
 日本が世界マーケットに向けて勝負をかけるとしたら、必要なものは、プレミアム、ハイクオリティ、ハイセンス、エキゾチックである。
 これが、私の考える 「ブランドの4原則」 。

イタリアンエキゾチック

 チキさんはすでに、ファッション、フード、エンターティメント (観光とかアニメ、ゲームとか) などの領域で、日本とイタリアは、世界に通用するブランドを確立していることを示唆している。

 ファッション、フード、エンターティメント。
 いずれも、 「現世的な快楽」 というものが、身体に刻印されるように身に付いていないと、追求できないものだ。

 「付加価値」 ってのは、有用性から導き出されるものではない。
 遊んだ人間が思いつくものだ。
 要は、 「センス」 なんだね。
 ファッションやフード、エンターティメントというのは、まさにそれが凝縮したような世界。
 その 「センス」 がないと、世界のアタマは取れないようになっている。
 だから、こういう動きは、やがて家電、自動車といった、 「量産・量販型」 の産業にも影響を及ぼしていくだろう。

 イタリア的な、 「ノーテンキさ」 「気楽さ」 「いい加減さ」 。
 それを是とする姿勢は、今の日本人が、新しい価値観に目ざめたり、発想を転換させたりするためには、案外必要なことかもしれない。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 15:15 | コメント(4)| トラックバック(0)

外来種の驚異 Ⅱ

 前回、野生動物における 「外来種の脅威」 っていうのに触れたけれど、日本にはもっと “凶暴な (?) ” が外来種が大手を振って暴れ回っているのに、そっちに関しては、わりとみんな寛容だな…と思うことがある。

 どんな 「外来種」 か。

 ガバナンス
 アウトソーシング
 アクセシビリティー
 ソリュージョン
 インタラクティブ
 インフォームド・コンセント
 キャピタルゲイン
 ガイドライン
 コンプライアンス
 スキーム
 デフォルト
 ネグレクト
 ノーマライゼーション
 ポートフォリオ……

 ね! 今にもかみつかんばかりに牙をむき出して、 「オマエラ知らねぇのか、遅れてるぜぇ!」 って吠えているような凶暴な感じでしょ?

 さて、あなたは上の “外来種” に関して、いくつご存知でしたか?
 正直にいって、自分には満足に説明できる言葉はひとつもない。

 だけど、この種の外来種用語をガンガン使う風潮はますます盛んになっている。
 まるで、肝心な歌詞を全部 「Love」 とか 「Baby」 に置き換えちゃうJポップみたいなもんだな。

 昔、大手の広告代理店の人たちに混じって仕事をしていた頃があったけど、そんときの彼らの会話もすさまじかった。

 「今回のコンファレンスで確認したいミッションは、まずコアターゲットへのリテラシーに期待して、魅力あるコンテンツをどう彼らのイメージどおりにキャッチアップしていくかということだと思うんです」

 細身のアルマーニなんか着込んで、小粋なチョビヒゲを生やした若い営業マンが、そんな感じでとうとうとまくしたてるんだけど、コンファレンスの席上でそんなプレゼン受けても、こっちの頭はまったくコンフュージョンなんだよな。

 最近は政治の世界でも、外来種がはびこっていて、 「マニフェスト」 の次は 「アジェンダ」 だとか、少しでも人の知らない言葉を使った方がアドバンテージが取れるとばっかりに、舌をかみそうな言葉をどんどん量産し続ける。

 なんで政治家たちが、そんなに外来言葉を使いたがるかというと、やっぱり 「知らない人間」 に対して優位に立てる…ってのが、いちばん大きいんではないかな。
 それに、いかにも 「自分は専門家だ」 というポーズが取れるしね。
 早い話が、 「カッコつけ」 だよな。

 外来種の言葉を容認する説というのもないわけではない。
 
 「最近は、情報通信網の発達が著しく、従来の日本語に該当しない概念がどんどん流入するようになってきた。
 だから、国際政治やワールドワイドに経済を語るときは、どうしても世界で流通している最先端の用語を使わざるを得ない」
 …って擁護する人たちもいる。

 だけど、それって、 「お前たち遅れているぞ」 って脅迫するようなもんだよね。
 そういう知識人に限って、それを日本語で言い直すときには、しどろもどろになっちゃうんだよね。

 そういう人たちは、まるで人間を化かすキツネのように見えてくる。

きつねちゃん

 キツネたちが好んで使う用語には、次のようなものがある。

 コンプライアンス
 コンセンサス
 コンテンツ
 コンセプト
 コンファレンス
 コンプレックス
 コンサバティブ
 コンベンション……

 まさに 「コンコン」 いうやつばっかりだ。

 彼らは、普通の日本語で十分なものも、わざわざ外来種を使う。

 「計画」 「構想」 「要約」 「存在感」 「枠組み」 「外部委託」……
 そんな言葉も、彼らが使うと、
 「スキーム」 「グランドデザイン」 「サマリー」 「プレゼンス」 「フレームワーク」 「アウトソーシング」……
 という風になる。

 こういう言葉を使ってレポートを書いている連中ってのは、たぶん、少しの文字数で、いっぱい書いているように見せかけているんだね。
 「字数泥棒」 だ。

 で、私は…というと、かろうじて自分で理解できるものしか外来種用語は使わないようにしている。

 たとえば……、
 スケールメリット
 タスク
 インタラクティブ
 プライオリティ
 ブレークスルー
 ボーダレス
 グランドデザイン
 ドメスティック
 コラボレート
 モチベーション……

 ひゃひゃひゃ!
 俺って、けっこう 「俗物」 だな。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 00:41 | コメント(0)| トラックバック(0)

外来種の脅威とは

 在来のフナとかワカサギを捕食し、日本の湖の生態系を破壊している “犯人” とされているブラックバスやブルーギル。
 その生命力の強さによって、日本の在来リスを駆逐してしまったといわれるタイワンリス。

 ま、とかく 「外来種」 が、在来の野生生物を “いじめている” という報道が最近やたらと多い。

 本来、外来生物は、それが人為的に放逐されたり、人や物の移動にともなって付着してきたりしたとしても、そのほとんどは、新しい環境に適応できずに死んでしまうものらしい。
 しかし、まれに繁殖してしまうものがある。新しい環境になじめる適応力とか、苛酷な状況でもたくましく生き抜く生命力に恵まれた連中だ。
 そういうタフな連中が棲みつくと、一気に “広域暴力団化” するらしい。

 近年は、特に深刻な影響をもたらす 「外来生物」 を 「侵略的外来種」 と名づける風潮もあるようで、最近の 「外来種駆除」 を訴える報道は、まさに 「地球征服を企むエイリアンがやってきた」 というイメージで統一されている。

エイリアン画像
▲ エイリアン

 しかし、この 「外来種排除」 というのは、私には、ある種の 「思想運動」 のように感じられる。

 つまり、生物学的な危機感から来るものというよりも、その根底にあるのは  「異人種/異文化」 に対する 「人間的怯え」 、…いってしまえば、グローバリズムに対する 「不信感」 とか 「抵抗」 。
 なんか、そんなものが深層心理的に働いているように感じる。

 その証拠に、 「外来種の脅威」 として取り上げられるものは、ブラックバスやタイワンリスのような、在来種が持たなかったような 「たくましさ」 や 「生命力」 を持ったものが中心となっている。

 しかし、ニジマスだってカワマスだって外来種なのだ。
 さらにいえば、イネ、コムギ、トウモロコシ、サツマイモ…。
 これ、みんな外来種だ。
 400年前に朝鮮半島から移入されてカササギは、今では天然記念物とされている。

 要するに、日本の穏やかな風土になじみ、従順に生育していく外来種は、そんなに “悪者” にされない。

 ところが、ブラックバスのように、やたら 「強いヤツ」 は目の敵 (かたき) にされる傾向にある。
 ちょうど、軍事大国・経済大国の道をひた走る中国や、近年めきめき日本の産業社会を圧迫し始めた韓国に対し、それを 「脅威」 として感じる日本人が増えたように。

 だから、生物の外来種に対する 「怯え」 というのは、生態系の破壊という問題を超えて、 「文化的」 「人種的」 な面における日本人の潜在意識が反映されているように思える。

 このような 「異人種・異文化」 に対して脅威を抱くという現象は、実は今、世界的な傾向になりつつある。

 近年どこの先進国においても、異民族の流入を制限したり、排斥しようという傾向が出てきた。
 フランスのサルコジ政権は、 「治安が安定していない地域には移民が多い」 と言い放ち、移民のことを 「社会のクズ」 、 「ごろつき」 と呼び、排斥的な言動を煽りつつある。

 ドイツに関しても同様で、昔労働力不足を補うために受け入れたトルコ系移民が、相変わらず 「社会にとけ込めていない」 ということを理由に、移民に対しては消極的な姿勢を示すようになってきた。

 「移民の国」 のアメリカにおいても、反移民感情は日増しに高まっている。
 現在アメリカでは、 「アメリカで生まれた者はどこの民族であってもアメリカ市民」 という憲法の項目を修正しようという動きがあるらしく、 「アメリカで生まれた不法移民の子供には市民権を付与しないようにしよう」 という世論が高まりつつあるという話を聞いた。

 このような世界的な 「移民排斥運動」 の背景には、長引く不況の影響による自国労働者の失業率の増大などがある。つまり 「外国の移民」 が増えたから自国の労働者の仕事がなくなった…というわけだ。
 また、それと連動して、移民が犯罪に加担する率の高まりも見逃せないとされる。

 先進国の経済成長が著しい時代には、安価な労働力として歓迎されていた移民。
 それが今、排除の対象になりつつあるのは、ひとえに長引く世界的な不況と、経済のグローバル化が作用しているように思う。

 特にグローバリズムの問題は大きい。
 市場が地球規模に広がった21世紀の資本主義社会では、産業資本、製品、労働力などが、めまぐるしいほどの流動状態に置かれる。
 どこの国においても、地方の工場地帯の周辺には、諸外国の労働者が民族単位で集まるコミュニティが形成されつつある。

 企業においては、安い労働力が確保できるのなら、民族・人種を問わないだろうし、労働者にしてみれば、自国より高い給料が保証されれば、どこの国で働いてもかまわないようになる。

 そうなると、言語も、生活習慣も、文化も、宗教も異なる異人種たちが、世界中を行き交うことになる。
 「理解できないもの」 は、誰にとっても怖いから、必要以上に警戒するし、ちょっとした生活感覚の違いが 「好悪」 の感情で判定され、やがてそれが 「善悪」 の価値判断につながっていく。

 そして、異文化、異民族に対して脅威を煽ることは、とりあえず在来型コミュニティを、つかの間の “安定” に向かわせる。

 でも、そんなことでいいの?
 …と思ってしまう。
 そういう 「内向き」 の思想からは、本当の意味での強さも、たくましさも、優しさも生まれない。

 「外来種を排除し、純血種を守れ」 という主張が台頭するときというのは、たいてい、その国の経済や文化が衰退の兆候を示したときだ。
 そういう声が、欧米先進国で同時に起こったということは、彼らが、経済や文化領域での活力を失ってきたということなのかもしれない。

 「自分とは異なるもの」 を理解しようとする意志から生まれる力こそが、国家や民族の活力になると思うんだがな…。

 で、在来生物を守るための 「外来種の排除」 というのも、そこにはイデオロギー的な背景がありそう…と思ったわけ。

 あ、言っとくけど、俺、ブラックバスやタイワンリスたちから一銭ももらってないからね。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 20:46 | コメント(0)| トラックバック(0)

Kポップの台頭

 このところ、テレビなんぞ見ていても、KーPOP (韓国製ポップス) の露出度が日増しに高まっている感じがする。
 あんまり興味がないので、気にしていなかったのだが、カミさんが、 (もう空中分解してしまった) 「東方神起」 がいいっていうんで、TUTAYAまでCDを借りに行って、ついでに聞いてみたけれど、なんかノリがいいんだよね。

東方神起001

 日本語と英語のチャンポンで歌っているんだけど、Jポップのミュージシャンが歌っている 「日本語 + 英語」 曲よりも、本場モンって感じがしたのだ。
 90年代のJポップで育った長男も、それを聞いて、 「洋楽とJポップのいいところをうまく混ぜている」 風の批評を下していた。

 お尻フリフリ歌って踊る 「KARA」 なんかも、ビジュアル的にセクシーとか、そんなもんとは関係なく、しゃきしゃきとエッジの立ったダンスビートが小気味よくて、あと30歳ぐらい若ければ、腰が浮く…って感じがした。

KARA0001

 なにが違うんだろう?

 そう思っていたところ、音楽評論家の近田春夫が、Kポップに関して、こんなことを言っていた。

 「家電量販店を散策しているとき、偶然、 「少女時代」 の 『Gee』 のミュージッククリップがかかった。
 バックで使われている音が良くてビビっときた。
 その電子音 (たぶんシンセベース?) がさりげなくも効果的に聴こえてきた途端、それが一種トリガーとなって、アタマのなかで事件が起こった。
 『あ、今、日本の商業音楽が韓国に抜かれようとしている!』
 まさにその瞬間に立ち会ったような気がしてしまったのである。理屈じゃない、直感てぇヤツだ」 (週刊文春 2010 11/11号)

少女時代002

 近田さんは、あいかわらず表現がうまいんだけど、それを読んでいて、 「あ、そういうことなのか」 と、自分もなんとなく納得した。

 近田さんは続ける。

 「この場合、まず何をもって <抜かれる> 根拠とするのか? そこから片づけると、J といい K といい、ポップすなわち “POP MUSIC” なのだから、 『本場アメリカ』 マーケットでの評判が、最終の評価である。
 その (マーケットとの) 親和性の部分で、すっかり J は K の後塵を拝すポジションに収まってしまったのでは? と感じたということだろう。
 韓国のポップスには、いつかインターナショナルな成功を! といった逞しい気合いが感じられる半面、わが J といえば、内向きに閉じた…ドメスティックな…満足に終始している感がますます強く、もはや “世界” など考えるだけで無駄、みたいなことなってきているように思えたのだ」

 これを読んで、なるほど…と感じたのは、自分もケミストリーとKARAが競演するテレビを見ていて、同じようなことを感じたことがあったからだ。

 KARAは臆面もなく、腰ふりディスコビートで、体力まかせのパフォーマンスを演じていた。
 それに対し、ケミストリーはオリジナル曲をハングルで歌ったのだけれど、迫力で負けているのだ。
 もちろんバラードと、ダンスミュージックを比較対照することはできないかもしれないが、 「技術と洗練度」 のケミストリーに対し、 「ノリと強引さ」 のKARAという感じだった。

 「体育会」 的なパワーを押し出すKポップと、 「文化会」 的なニュアンスで勝負するJポップ。
 この先、両者の関係はどうなっていくんだ?

KARA003

 多くの人が言うように、技術的にはJポップの方があいかわらず先を行っているのかもしれない。
 だけど、 “分かりやすさ” という面では、今やKポップの方が数段上。
 ポップスは、理屈ではなく、 「身体が反応するもの」 だという立場に立てば、Jポップは洗練度を高めた分だけ、分かりづらくなってきている。

 80年以降、さまざまなJポップを育ててきた “耳の肥えた” 日本人はその微妙さ加減が理解できるのかもしれないが、台湾、東南アジアなどを射程においた世界マーケットには通用しなくなってきているのではないか?

 ある音楽サイトによると、 「市場規模の小さい韓国製ポップスは、海外に出ることにしか活路を見出せなくなっている」 という。
 そのため、韓国系アイドルたちは、パフォーマンスを磨くために、日々過酷なレッスンに明け暮れているとか。
 英語に対する取り組み姿勢も韓国の若者は旺盛で、そのことも、発声におけるポップス的リズム感を身につけるのに役立っているともいう。

 なんか、気合で負けているな…という感じだ。
 音楽に 「勝ち負け」 なんかないと思うけれど、 「Jポップ頑張れよ」 と言いたくなってしまう。
 
 同じようなことが、産業社会でも起こっている。

 家電でも、自動車でも、携帯電話でも、日本以外の国では、韓国製品の方が日本製品より価格も安く、そのためにマーケットへの浸透度が高くなってきて、結果的にメジャーなモノになりつつあるという。

 日本と韓国の家電や自動車を見比べている海外バイヤーの話では、 「日本人は細かいテクニックにこだわりすぎるため、商品の価格が上がる傾向にある。そのため (日本製品には) 買い手がつかない傾向が出てきた」 とも。

 耐久性、信頼性を含めた総合的技術力においては、まだまだ日本製品の方が圧倒的に高いはずだが、そのことを世界市場がどう評価するかは、また別の問題である。

 日本人は、技術と洗練度というものに高い評価を下すけれど、あっけらかんとマスマーケットを狙ったものが近隣諸国から台頭してきたとき、最近はそれをねじ伏せるほどの説得力を持ちえていない。
 KポップスとJポップスの間で起こっていることは、産業社会で起こっていることと連動しているように思う。

 問題があるとしたら、Kポップに対する一部の日本人リスナーの反応。
 音楽サイトなどにUPされる “Kポップ” 批判をざっと眺めたかぎりにおいては、単純な 「反韓感情」 だけで批判しているコメントが実に多い。

 「キムチの臭いのするポップス」 といったたぐいの “批評以前” の罵倒。
 少しマシなものになってくると、「Jポップのモノマネで、パクリに過ぎない」 とか。

 こういう人たちの “危機意識” のなさには唖然とする。
 彼らには、いま何が起こっているのかということを考える基盤がないのだろうか。
 「KポップはJポップよりもダメだ」 というのなら、「Jポップのどこがいいのか」 を “音的に” ハッキリと主張するべきだろう。
 プロモーターだとか代理店の “陰謀” なんか暴いたって、な~んにも意味はないんだ。
 これじゃ 「日本の音楽文化は衰退する」 とマジに思ってしまった。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:19 | コメント(0)| トラックバック(0)

うつろひ

 秋から冬に変わるこの季節。
 1年の中で、景色がいちばん贅沢になる。
 公園を散歩していて、そう思った。

公園201005

 木々の葉が、絵具を盛ったパレットのように、にぎやかになる。
 朱色に輝く紅葉。
 黄色に燃えるイチョウ。
 
 そして地面は、その落ち葉のジュウタンで彩られ、1年のうちでも、もっともゴージャスな大地に変わる。
 
 あとほんの数週間経てば、冬枯れた風景に一変するというのに、初冬の自然は、豊穣な色彩の恵みを謳歌している。

 だからこそ、淋しい。
 空がいちばん鮮明に燃え上がる瞬間というのは、日没の直前であるということを、われわれは経験的に知っているからだ。

 もっとも絢爛 (けんらん) と輝く光景の中に、来たるべき 「滅亡」 の影を読む。

 それは、強盛を誇った政治権力の衰退や、絢爛たる輝きを持った文化の終焉などに 「美学」 を感じる日本人的な感受性のなせるワザかもしれない。

公園の池201002

 『平家物語』 の冒頭には、 「祇園精舎 (ぎおんしょうじゃ) の鐘」 に 「諸行無常の響き」 を感じ、 「沙羅双樹 (さらそうじゅ) の花の色」 に  「盛者必衰のことわり」 を感じる日本的感性が描かれている。
 
 栄えたものは必ず滅びる。滅びた後にまた再生があり、そして、それも滅び……。
 無限のループの終わりなき連鎖。

公園201003
 
 仏教に基づく “東洋的無常観” といわれる哲学をそこに見る解釈が多いが、案外それは、明確な 「四季」 を繰り返す日本的風土に根づいたものだったかもしれない。

 外国人観光客が、日本に長期滞在して、いちばん驚くのは、日本の四季の鮮やかな変わりようだという。

 夏から秋に、秋から冬というように、時が 「色の変化」 をともなって変化してゆく様を、観照的に表現する言葉が、英語文化圏にはないという話を聞いたことがある。

 日本語では 「うつろひ = 移ろい」 。
 その言葉を無理やり英訳した人は、それを何と語ったか。

 a moment of movement (時の流れ中の “瞬間” ?)

 奥深いような…。
 でも微妙に違うような…。

 要するに、時間や季節が、ひとつのグラデーションを描くように変化していく様子を 「文化的」 に表現する言葉というものが、外国の言葉にはない。

 「自然」 を、あたかもアートのように鑑賞し、文学のように解釈する日本人の感性というのは、あまりにも鮮やかな変転を見せる、この国独特の 「四季」 がもたらしたものかもしれない。

 師走の池 もういくつ寝ると お正月

公園の池201001



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:21 | コメント(2)| トラックバック(0)

海老蔵さんの悲劇

 日本人は……つぅか、日本のマスコミは、本当に 「バッシング」 が好きだなぁ。
 この一連の “市川海老蔵バッシング” を見ていて、そう思う。

 亀田親子、朝青龍、そして今回の市川ABZO。
 本当に、日本人は 「ヒール」 をつくりあげて、それを叩くことが好きなんだな。

 まぁ、キャラクターとしてのABさんは (マスコミが伝えることが事実だとしたら) 、自分もあんまり好きじゃない。

 土足のままテーブルに足を投げ出して酒飲んでいるとか、いつも 「俺は人間国宝だ」 とかイキがっているとか、次々と公開される酒乱のABさん像ってのは、本当かどうか知らんけど、本当だとしたら、やっぱ自分的には “嫌なヤツ” だ。

 だから、浅ましいと思いつつも、自分の中にも 「ザマーミロ」 感がないとはいえない。

 でも、かわいそうだとも思うよ。
 
 あれは、才能のない人間が、たまたま歌舞伎界の御曹司として生まれてしまったことの悲劇だと思う。

 だって、フツーの世界に生まれた人間なら、あの演技力じゃとてもじゃないけど、 「役者」 なんか務められないもん。
 昔、NHKの大河 『宮本武蔵』 で主人公の武蔵を演じていたけれど、歴代大河の中で、あれほど “痛い演技” をしていた主役ってのも珍しかった。

 危機に陥ったときも、大事な決断を下すときも、ただ、目をむき出して周囲をにらむだけなんだもの。
 そのむき出した目の奥にあるモノ…つまり“心”ってものが、な~んにもない…ってことがすぐ分かってしまう演技。
 
 徹底的に形式美を追求する歌舞伎ならば、それでいいのかもしれないけれど、少なくとも、 “内面” とかいう世界を表現しなければならない 「近代劇」 には向かない。

 でも、カッコだけはいいんだよね、彼。
 そこは好きだった。
 『宮本武蔵』 だって、ドラマじゃなくて、ポスター写真の1コマぐらいだったら、堂々と通用したと思う。
 確かに、目はきれいなんだよ。
 彼を持ち上げていた時代に、芸能レポーターたちがさんざん言っていた 「オーラがある」 っていう表現は認めざるを得ない。

市川海老蔵さん002

 再起するなら、ひとつの方法がある。
 
 もしケガが治って、次に現代劇のようなものに出るときは、まず 「悪役」 からやってほしい。

 中村獅童だって、あんなに演技が下手だったのに、いろいろバッシングされて、少しは緊張したのか、 「悪役」 をやるようになってからは良かったもの。
 クリント・イーストウッド監督の 『硫黄島からの手紙』 では、絵に描いたような粗暴で残虐な日本の下級将校の役やったら、けっこう迫力あって、見直した。だから、 『レッド・クリフ』 に出演したときも、日本人役者としては、そなりの存在感があった。

 ABさんも、こういうバッシングが続いた後は、しばらくイケメン俳優としての主役の仕事は来ないと思う。
 そういうときは、 「悪役」 から再スタートするのがいい。
 夜の酒場では、だれかれ構わず 「オラ!」 とかいってスゴむらしいけれど、それを劇の中でやったらいい。

 もし、そこに本当の “スゴみ” が漂っていたら、世間は見放さないと思うよ。
 色気のある悪役って、そうめったにいないからね。

 問題は、歌舞伎界の “本流” と自他とも意識している御曹司が、そのプライドをかなぐり捨てて、嫌われ役や汚れ役を引き受けられるかどうかだけどね。
 もし、それができたら、役者として、ようやくスタートできんじゃないかしら。
 俺的には、そこに期待したいね。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:07 | コメント(0)| トラックバック(0)

追悼ジョンレノン

 12月8日は、ジョン・レノンの 「没後30周年」 に当たる。
 同時に、この2010年というのは、彼の 「生誕70周年」 でもあり、さらに 「ビートルズ解散40周年」 なのだとか。
 そういった意味で、今年は、ジョン・レノンファンにとってはメモリアルな年だったのだ。

 自分にとっても、ジョン・レノンというミュージシャンには、特別の思いがある。
 ビートルズの中でも、特に気に入った歌はジョン・レノンが作った曲だし、オリジナルでなくても、彼が歌うR&Bのカバー曲も好きだ。

 ちなみに、自分が恣意的に選んだジョン・レノンのベスト10となると、こんな感じだろうか。

 ① NO REPLY
 ② YOU'VE GOT TO HIDE YOUR LOVE AWAY
 ③ YOU CAN'T DO THAT
 ④ NORWEGIAN WOOD
 ⑤ ANNA
 ⑥ YOU REALLY GOT A HOLD ON ME
 ⑦ MONEY
 ⑧ ALL I'VE GOT TO DO
 ⑨ IF I FELL
 ⑩ I'LL BE BACK

「ザ・ビートルズ」ジャケ

 すべて、 「初期ビートルズ」 である。
 それも、必ずしもジョンのオリジナルばかりではない。
 ⑤ 『アンナ』 は、アーサー・アレキサンダーが作詞・作曲したR&B。 ⑥ 『ユー・リアリー・ゴット・ア・ホールド・オン・ミー』 は初期のモータウンサウンドを支えたスモーキー・ロビンソンの曲。 ⑦ 『マネー』 も、これまたバレット・ストロングの歌ったR&B。

 オリジナルにおいても、 ③ 『ユー・キャント・ドゥ・ザット』 などのように、ブルースコードを使ったブラック・ミュージック系の曲にジョンの真骨頂がうかがえる。
 私は、そういう “黒いジョン” が好きなのだ。
 
 彼のヴォーカルは、野太くシャウトする声に、ちょっと鼻に抜けるようなかすれた音が混じる独特のもので、なんとも色気がある。

 その “鼻に抜けるようなかすれ声” で歌われるミディアムテンポの名バラードに、 ① 『ノーーリプライ』 がある。
 曲のつくりもいいし、歌もいい。
 
 スローなものでは、 ⑥ 『ユーブ・ゴット・トゥ・ハイド・ユア・ラブ・アウェイ = 悲しみをぶっとばせ』 がある。
 これと似たつくりの名曲は ④ 『ノルウェイの森』 。
 ⑧ 『オール・アイブ・ゴット・トゥ・ドゥ』 もお気に入りの曲。

 自分の好きなジョンの曲は以上のような感じなのだが、オリジナルに関しては、いずれも 「レノン=マッカートニー」 のクレジットが入ったものばかり。
 つまり、ジョンとポールという、センスも、好みも、発想も異質な才能がぶつかりあって火花を散らすときに、ジョンの最良の作品が生まれているように思う。

 ポールという稀代のメロディーメーカーに対する嫉妬心や対抗心。
 その劣等感と優越感が交じり合った心の振幅の激しさが、ジョンのつくる曲に一種の異様な緊張感を与えている。

 ところが、ポールとの距離が遠のくにしたがって、ジョンの曲からその 「緊張感」 が薄れていく (…ように自分は思う) 。
 特に、ソロ活動に入って、純度100パーセントのジョンが生まれてから、逆に “ジョンらしさ” がなくなった (…ように自分は思う) 。

 ソロ活動に移ってからの代表作といわれる 『イマジン』 は、確かに、 「聖歌」 にも似た荘重さとクリアな透明感に包まれた曲だが、自分の 「名曲セレクト」 には入らない。
 この曲は、一般的には、アーチストとしてのジョン・レノンが頂点を極めた曲として評価されるが、自分は逆に、ジョン・レノンの 「成熟」 よりは 「衰弱」 を感じる。

 「哲学的なメッセージ性がある」 と評価される歌詞にも、ナイーブさが露呈しているように思う。
 そこにジョン・レノンの 「イノセンス」 があるとしても、それは 「大人の葛藤を知らない」 という仮定のもとに空想された、虚構の 「少年のインセンス」 である。

 早い話、楽になりたかったのだ。

 政治や思想的に激動期を迎えつつある時代だというのに、そういうことに無関心なポールたち他のメンバーへのいらだち。
 「ビートルズ」 というフォーマットをいつまでも求め続ける市場のニーズへの反発。
 衰えゆく自分の声量への懸念。
 「成功」 を達成した者が感じる虚脱感。

 そういった諸々の “負の因子” が幾重にも積み重なってきた環境から、ジョンは 「楽になりたかったのだ」 という気がする。

ジョン・レノン「イマジン」ジャケ

 『イマジン』 に漂うおごそかな静謐感というのは、ジョンが得た安らぎを意味するとともに、精神的な隠遁生活への憧れをも意味している。

 そこには、すでに迫りくる死を予期するようなレクイエムの響きがある。
 この曲が人々の心に沁みわったのは、そこに “終末の調べ” が嗅ぎとれたからかもしれない。

 私には、それが哀しい。 
 私にとっての 「最高のジョン・レノン」 は、 『ア・ハード・ディズ・ナイト』 や 『ヘルプ』 の時代で凍結している。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 04:52 | コメント(0)| トラックバック(0)
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