町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

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町田さんこんにちは。…
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町田さんご無事で何よ…
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町田さん、今日は。…
マッキー旅人 03/03 16:23
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「個性化」のワナ

 昨日、ホリエモンの言動に対して、ちょっとだけ触れたけれど、確かに “I T産業のヒーロー” としてブイブイ鳴らしていた時代 (2005年頃) のホリエモンは、人の神経を鮮やかに “逆なで” する凄いことを次々と発言していた。

 これは、過去にもブログで書いたことがあるけれど、当時ある雑誌の対談で、ホリエモンは田原総一郎を相手に、次のようなことを言ってのけている。

…………………………………………………………………… 

 【堀江】 仕事になぜオリジナリティが必要なのか? 仕事は儲かればいいのではないか。みんな 「オリジナリティ」 というものを、すごく大事に思っているようだが、アホだと思う。
 オリジナリティに訴えなくても、差別化する手段などはいっぱいある。資本力とか技術力で、きちっと差別化していけばいい。
 オリジナリティなんか何一つ必要ではない。良いものをそのままパクればいいだけだ。
 誰かが 「すごいアイデアを思いついた!」 というとき、世の中では少なくとも3人が同じことを同時に思いついていると昔から言われている。
 今の情報社会は、アイデアのもとになる原料みたいなものがインターネットで一瞬にして手に入る。
 だから、いいアイデアは同時に100万人が思いついているかもしれない。違いは実行に移すか、移さないかだけ。オリジナリティそれ自体には価値がない。

……………………………………………………………………

 過去のブログで、私はこの言葉を引用してから、次のようにコメントしている。

 「この堀江貴文氏の発言を最初に読んだとき、その合理性に舌を巻いた。
 続いて、そういう時代が来たということが、そら恐ろしく感じられた。
 この 『殺伐とした小気味よさ』 の正体がつかめずに、それ以降、ずっと居心地の悪い気分が続いた」

 …なんとも、微妙な言い回しである。
 肯定してんだか、否定してんだか…。

 つまり、 「時代」 が大きな変換点を迎えていることは理解できるのだが、それがどういう変化なのか。それをつかめずに戸惑っている自分の気持ちが、そこに正直に吐露されていたように思う。

 しかし、戸惑いながらも、心のどこかでは、堀江発言の重要性を見逃すわけにはいかないという気がしていた。
 そこには、 「オリジナリティ」 という言葉の意味を問い直す契機が含まれているように思えたのだ。

 戦後、日本の産業社会が急成長を遂げてきたのは、欧米文化の 「猿マネ」 から脱却し、日本製品の 「オリジナリティ」 を確立してきたからだという神話は、2000年代に入ってなお根強く浸透していた。

 だが、そのような 「オリジナリティ神話」 というものは、もう通用しないと、このときホリエモンは言ったのだ。 (当時のあらゆる産業界から叩かれるわけである)

 この堀江発言が、なんで自分にとってもショックだったかというと、 「オリジナリティ」 というものが、製造業のみならず、あらゆる文化領域においても絶対的な 「価値」 であるという信念を “逆なで” されたからだと思う。

 「オリジナリティ」 、 「個性」 、 「差異化」 というのは、近代的 「自我」 を確立する上での大前提となる。
 戦後教育は、子供たちをずっとそのように教育してきたし、特に90年代に入ってからは、文部省 (現・文科省) が堂々と 「生徒の個性化」 を教育行政の根幹として位置づけるようになった。

 そこには、欧米の産業構造をずっと支え続けてきた 「生産至上主義」 が反映されていたと思う。
 つまり、個人の 「自己実現」 は、モノを生産する場において発現されるという欧米流イデオロギーが、グローバル経済の一翼を担おうとしていた当時の日本社会にもようやく浸透してきた結果が、 「個性化教育」 だったのだ。

 これは考えてみれば当たり前のことである。
 「資本主義」 をドライブする原理は、徹頭徹尾、 「差異化 (差別化) 」 にあるからだ。

 他の競合商品との 「差異化」 、同社の過去の同製品との 「差異化」 。
 その 「差異化」 を生み出すイデオロギーが 「オリジナリティ」 であり、その 「オリジナリティ」 を形成するのが、個々人の 「個性化」 であるからだ。

 そう考えると、 「オリジナリティ神話」 を否定したホリエモンは、 「資本主義」 をドライブする原理というものを、従来の発想とは別のところに求めていたということになる。
 それは、 「オリジナリティ」 を生み出すための 「人間の個性」 なんて意味がない、と言っていることに等しい。

 自分が感じた 「殺伐とした小気味よさ」 というのは、たぶんそのことを指していたのだと思う。
 「良い物があれば、パクればいい」 というホリエモンのエゲツなさを嫌悪しながらも、同時に、そこに 「オリジナリティ神話」 の呪縛から逃れることの解放感も感じていたのかもしれない。

 「オリジナリティ」 を創出させるためのものとして、人間の 「個性」 が要求されたのが近代社会。
 しかし、その 「個性」 は、誰を豊かにするものだったのか。
 
 それは、ひょっとして、 「個人」 を豊かにするものではなく、単に、近代の産業構造を支えるためのものでしかなかったのでは?

 その証拠に、 「個性教育」 が浸透しても、教育行政が望む 「個性的人間」 が出たためしがない。
 むしろ 「個性教育」 が重視される時代になってからの方が、逆に、 「突出した個性」 を忌避する若者たちが増え続けている。
 今は、他者より目立つと浮いてしまうため、それが 「いじめ」 の対象になるということで、誰もが 「横一線に並ぶ」 ことに気をつかう時代になっている。 「個性的だね」 という言葉は、周囲から浮いた人間を揶揄するときの 「ギャグ」 でもあるわけだ。

 なんという 「時代の逆説」 か!

 最近では、 「90年代の教育行政から出てきた 『個性化』 、 『多様化』 というのは、今の階層格差を正当化する教育イデオロギーだった」 という説すら登場してきている。
 つまり、国家財政が破綻し、企業収益も減少する社会が到来することを見越した当時の政府が、 「個性化」 というイデオロギーを浸透させることで、 「どんな生活状態でも、今のままの自分に文句はない」 という人間を増やすための政策だったというのである。
 真偽のほどは別として、 「個性」 というものを考えるときのヒントになる説だ。

 「個性の獲得」 を 「自己実現」 の証しに求める発想は、そろそろ賞味期限が切れかかっているのかもしれない。人間の豊かさを意味するための 「新しい概念」 が要求されているようにも思う。

昭和記念公園風景0012
 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 04:13 | コメント(0)| トラックバック(0)

戦うブログ

 「戦うブログ」 が好きだ。
 まぁ、自分もこうやってブログを書いているわけだけど、やっぱり書きながら、 「この人の書いているブログにはかなわないなぁ…」 とか、 「面白いなぁ」 とか、 「どうしてこんな発想ができるんだろう?」 とか、手本になるようなものがいくつかあって、時間がある限り、そういうものはチェックしている。

 で、分かったことがひとつ。

 みんな戦っている。

 「炎上」 を恐れていない。
 つぅか、炎上しないように繊細な気配りをしながら、ずばずば人の神経を “逆なで” している。
 そういう人々は、当然、反発、反論、批判、非難が殺到することは自分でも承知しているだろうけれど、それを恐れず、堂々としている。

 そういうものは、案外、炎上しないのだ。

 人間って面白いもので、 「気にくわねぇ!」 とか、 「嫌なやつだ」 とか思いつつも、あまりにも鮮やかに自分の神経を逆なでされてしまうと、逆に小気味よく感じてしまうところがある。
 
 だから、 「あのいけすかない野郎! 今晩は何を書いてやがるんだ?」 ってな興味で、けっこう足しげく覗きに行って、 「クソ! あのバカまた性こりなく、けったクソ悪いエントリ起こしやがって」 とか悪態つぎながら、わりと楽しく読んでしまうことがある。

 これはブログに限らず、広い世界に向けてモノを発信していくときの一つの戦略であるかもしれない。
 「挑発する」 というスタイルをとることで、自分の主張を鮮明化させるという戦略である。

 一時のホリエモンなどがそうだった。
 彼は、球団買収騒動とか、テレビ会社合併問題などで、メディアに叩かれ続けていたときの発言の方が、今より数倍面白かった。
 人に 「いけすかねぇ」 と思わせながら、来るべき社会の明確なビジョンを展開していて、 「あいつの言っているような世の中になったら嫌だなぁ」 というプレッシャーを与えながら、けっこう閉塞社会に風穴を開けていたように思う。

 彼はその後見事に失墜してしまったけれど、現在、面白いと思えるブログを更新している人たちは、みんなしぶとい。
 政治を語っても、経済を語っても、風俗を語っても、 「お前、そこまで書いちゃヤバくねぇ?」 というギリギリのところで、きわめてスリリングな論旨を展開していて、颯爽としている。

 そういう人たちに共通しているのは、まず、よく 「勉強」 している。
 何が職業なのかよく分からない人もいるけど、テーマとして語る対象に関しては、専門分野の人も顔負けというくらいの突っ込んだ情報を持っていたりする。

 それと、やっぱりみな文章がうまい。
 時に “自虐ネタ” をポロッと見せたりしてバランスを取りながら、 「100パーセントの憎まれ者」 にならずに、きっちり言いたいことを言ってのける技量を持っている。
 「自分のような人間が批判されている」 と分かりながらも、読んでいる読者が、つい笑ってしまうような文章テクニックを心得ている人が多いのだ。

 斬られた人間ですら、それを小気味よく感じられる文章を書ける人。
 そういう人を 「戦っている人」 だと思う。

戦うゴジラ
 ▲ 戦うゴジラ

 で、一見戦っているようでいて、世の中のブログはほとんど戦っていない。
 特に政治系ブログなどに多いのは、舌鋒鋭く、時の政権や近隣諸外国を一方的に批判するようなやつ。
 本人は 「戦っている」 つもりなんだろうけれど、よく読むと、すでに誰かがどこかで言っているような主張ばかりで、読んでいて何の新味もない。

 今の時代、これほど情報が溢れていれば、誰だって、少しは気の利いた “時事放談” ぐらいできるさ。
 飲み屋や床屋でしゃべっていればいいだけの議論を、堂々とネット上で公開するから、炎上したり、2チェンネルのエジキになったりするわけ。

 本当に 「戦うブログ」 はけっこう難しい。
 でも、それをこなしている人は尊敬してしまう。


 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 04:09 | コメント(0)| トラックバック(0)

子供の自然体験

 子供を伴ってキャンピングカーでキャンプ旅行を重ねたり、テントキャンプを経験させることが “子供の感性を伸ばす” ということは、映像ジャーナリストの坂田和人さんが 『キャンプに連れて行く親は、子供を伸ばす!』 などの書籍で指摘している。

キャンプに連れて行く親は子供を伸ばす表紙

 また、アウトドアジャーナリストの中村達さんも、 「自然は、子どもたちの好奇心を育て、発見する力、チャレンジする力をはぐくむ」 という説 (町田の独り言 2010/04/06にて紹介) をいろいろな講演、インタビュー、著作などを通じて展開されている。

中村達氏003
▲ 中村達 (なかむら・とおる) さん

 これらの説を裏付けるように、 「子供時代に自然体験や動植物との関わりを多く持った人ほど、他者との共生感を持ちやすく、人間関係力も身につく」 というデータが発表された。

 これは、独立行政法人 「国立青少年教育振興機構」 が、平成22年10月14日に発表した 『子どもの体験活動の実態に関する調査研究 報告書』 というもので、全国の小学校100校、中学校150校、高等学校150校の児童及びその保護者を対象にした調査に基づいたもの。
 資料を読むと、なかなか大規模な調査のようで、調査票の回収数は、 「子供」 を対象としたものが18,878数 (回収率92.9%) 。 「保護者」 を対象としたものが16,718数 (回収率92.0%) だったいう。

 調査項目には、 「自然体験」 、 「動植物との関わり」 などのほか、 「友達との遊び」 、 「地域活動」 、 「家族行事」 、 「家事手伝い」 などのさまざまな “体験” が盛り込まれているが、やはり 「自然体験」 の調査結果が興味深い。

 この自然体験調査に関しては、以下のような設問が用意されたという。
 ● 「子供の頃、海や川で貝を採ったり、魚を釣ったりしたことがあるか」
 ● 「海や川で泳いだか」
 ● 「米や野菜などを栽培したか」
 ● 「チョウやトンボ、バッタなどの昆虫をつかまえたか」
 ● 「夜空いっぱいに輝く星をゆっくり見たことがあるか」
 ● 「太陽が昇るところや沈むところを見たことがあるか」
 ● 「湧き水や川の水を飲んだことがあるか」……等々。

 このような設問を、
 ① 「何度もある」
 ② 「少しある」
 ③ 「ほとんどない」
 というような形に分類して集計してみると、 「成人検査」 (保護者) の場合は、次のような結果が得られたという。

 ● 「子供の頃の体験が多いほど、最終学歴が高い」
 ● 「1ヶ月に読む本の冊数が多い」
 ● 「コンピューターゲームやテレビゲーム遊びが少ない」
 
 他に、 「年収が多い」 、 「結婚している率が高い」 、 「子供の数が多い」 、 「丁寧な言葉を使うことができる」 などという傾向も見られたという。

緑の中を走る子供たち

 同様の傾向は、子供たちを対象とした 「青少年調査」 においても見られ、幼少期から中学生期までの体験の過多が、高校生になったときの総合的な 「体験の力」 として表れていると同調査は指摘する。

 この調査結果を分析した 「国立教育政策研究所生涯学習政策研究部総括研究官」 の岩崎久美子氏は、 「真っ赤な太陽、きらめく星、川のせせらぎ、冷たい水、草の匂い、鳥の鳴き声などは、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚を通じて鮮やかに子供の記憶に刻み込まれ」 、…その結果として、 「長い人生の中で一定年齢を越えたときに、懐かしい思い出や人生の知恵として、それぞれの人生に豊かさをもたらす」 と総括している。

 さらに、同研究官は、今回の調査における 「家事手伝い調査」 に対しても言及。

 「ナイフや庖丁で、果物の皮をむいたり、野菜を切ったこと、家の中の掃除や整頓を手伝ったこと、ゴミ袋を出したり、捨てたこと…などの体験が、親子のコミュニケーションを促進するとともに、子供の将来の自立を助ける契機となる」 と結論づける。

ぺグ打ちをする子供
▲ ぺグ打ちを手伝う子供

 キャンプなどでは、親子が一体となって、野外生活をクリエイトする機会が得られる。
 野外生活を親子で体験することは、子供の生活する 「意欲・関心」 を高め、人や自然との 「共生感」 をはぐくむ大きなチャンスになるのかもしれない。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 04:50 | コメント(2)| トラックバック(0)

RV好きの芸能人

 キャンピングカーに興味を持っている芸能人は多い。
 タレントの 「劇団ひとり」 さんが、週刊文春の連載エッセイ 『そのノブは心の扉』 で、こんなことを書いている。

劇団ひとりさん

 「キャンピングカーが欲しい。 『金を稼いで、いつか買ってやる』 。
 ずっと昔から抱いていた夢である」

 劇団ひとりさんが欲しいのは、取り回しのよい小型キャンピングカーだという。

 「アメリカのお金持ちたちが乗っていそうなバスみたいに大きいキャンピングカーも悪くないが、僕が欲しいのは日本の道路事情に合わせて造られたコンパクトなキャンピングカー」
 
 その中にベッドやキッチンなどが計算されて設置されているのを見ると、 「子供の頃に押入れの中にライトやテーブルを持ち込んで作った自分だけの城や、野原に仲間とダンボールで作った秘密基地を思い出す」 そうだ。

 ところが、悩みがひとつ。
 「嫁はまったく興味がない」

 そこで、もらってきたキャンピングカーのカタログを見せて、何度か打診してみるのだが、奥様の答は、いつも 「ふ~ん」 でおしまいだとか。

 ある! ある!
 そういうことって。
 きわめて、よくある光景に接したような気がして、読んでいて、とても親近感を感じた。

 そこで劇団ひとりさんは、何をたくらんだのか。
 
 「苦肉の策で、普段乗っているステーションワゴンを使ってキャンピングカー気分を出すことにした」 という。

 リヤ席のシートを倒し、そこにキャンプ用マットを敷き、布団を置いて寝る。
 フロントシートとリヤシートの間をカーテンで仕切る。
 エアコンの効きを補助するために、小さな扇風機を設置。
 読書用のLEDライトをつける。

 要は、 “車中泊仕様” をご自分でこさえたらしい。

 「まさに子供の頃に作った秘密基地さながら。この狭いカプセルホテルのような空間が無性に落ち着く」

 で、 「いつかはこれに乗って遠出して、何泊かしてみたい」 と思っていたのだとか。

 しかし、 「その願いも叶わなくなった」 という。
 お子さまが生まれて、秘密基地もベビーシートにその座を奪われ、その他の部品も 「泣く泣く撤去せざるを得ないはめに…」

 ご同情申しあげます。

 でも、最後の文句がふるっている。
 「まぁ、いいさ。もう少し子供が大きくなったら、今度は一緒に秘密基地を作ればいいんだからさ」

 いいパパだな。

 男のお子さんなんだろうか。
 きっと、一緒に “秘密基地” を作ったら楽しいと思う。

 でも、劇団ひとりさんに言いたい。
 「シンプルなキャンピングカーを買って、そこから秘密基地を作るのも楽しいよ」

 ステーションワゴンに “寝床” を作っても、やはりキャンピングカーのフルフラットなベッドの寝心地にはかなわない。
 また、室内で立って移動できるようなクルマの方が、長距離旅行するのなら楽。
 
 いつかはキャンピングカーを買った劇団ひとりさんのレポートを読んでみたい。 

 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:01 | コメント(8)| トラックバック(0)

胃の中にヘビ

 「胃の中に異常がある!」 というので、 「胃カメラ」 を呑んできた。

 正確には、カメラを 「胃」 の中に入れたとしても、胃がカメラを消化する前に引き出しちゃうわけだから、 「呑んだ」 ではなく、 「差し込まれた」 というべきか。

 もっとも、いくら暴飲暴食に慣れた私の胃だって、カメラまで消化する力はないように思う。

 「胃の異常」 を知らせる通知が来たのは、1週間ぐらい前だった。
 先月行われた健康診断のとき、バリウムを飲んでレントゲン撮影をした結果、
 「胃の上部に怪しき影あり!」
 ということで、再検査通知をもらっていたのだ。

 そろそろその日が近づいてきただろう…と思って、通知をもう1回確認したら、今日が、その当日だった。
 あせった。
 でも、たまたま朝食を抜いていたから良かった。

 さて、「胃の中の怪しき影」 。

 疑われるのはまず潰瘍であり、その潰瘍の中でも、特に知名度が高いのは、 「ガン」 だ。

 ついに俺もガンかよ…。
 と思うと、検査に向かう電車の中から居ても立ってもいられなくなった。

 余命あと3ヶ月とか診断されたらどうしょう?

 最近ウナギを食っていないので、まず夕飯は、少し贅沢してウナギを食うことになるだろう。

うな重_photo

 天ぷらも、食いたい。
 「車海老1尾200円」 とかいうスーパーで売っているヤツでなくて、白木のカウンターの向こうで、しっかりした職人が一個ずつていねいに揚げて、 「こちらはメゴチになります」 などと差し出してくれるヤツ。

 親子丼なんてのも、いいかもしれない。
 ふんわりした溶き卵と、柔らかい鳥肉のマッチング。
 そんなに派手派手しく “ゴチソーしている” 食べ物ではないけれど、余命3ヶ月という身になってみれば、こういうさりげないメニューのありがたさが、案外身にしみてくる。

親子丼_photo

 さて、腹がいっぱいになったらどうするか。

 食後はコーヒーというのが順当なところだろうな。
 ただ、 「Sサイズ200円」 のドトールではなくて、 「ブルーマウンテン 1、200円」 ぐらいのホテルのロビーで飲むようなヤツ。

コーヒー_photo

 1,200円なんていうと、一見高そうでビビるけれど、こういう場合、ポットごと出てくることが多い。
 ポットには、たいていカップになみなみ注いで2杯分ぐらい入っていることが多く、それを飲み干しても、あとカップに3分の1ぐらい残るサービスをしてくれるところがある。
 そうなると、仮に3杯と計算して、1杯分400円。
 街の喫茶店とそんなに変わらないので、ノドが渇いたときは元が取れる。

 さて、コーヒーも飲んだ。
 余命3ヶ月だ。
 残り時間は少ない。

 次は散歩だ。
 秋の夕陽が並木道を照らし、イチョウの影がどこまで遠くまで伸びているような遊歩道の景色を、カンオケに持ち込む最後の 「宝」 のように、記憶にしっかり焼き付けておくことにしよう。

枯葉の歩道001

 散歩が終わる。
 日が沈み、残照が西の空を赤く染めている。
 自動車のヘッドライトと街路灯が、やけに鮮やかに光り始める。

 今までそのケバい人工性がうっとうしく思えた街の明かり。
 それが、末期の眼を通して眺めると、まるでシベリアの夜空を飾るオーロラのように美しい。

街の赤提灯_photo

 そうなると、やっぱり赤提灯でしょう!
 この季節、まだ屋台なんかもいい。
 コートの襟を立てて、ちょっと風をしのげば、風の冷たさも我慢できる。

 そろそろ熱燗のうまい季節だ。

 しみ~るぅ!
 やっぱり余命3ヶ月というわびしい気持ちが成せるワザか、今まで何気なく飲んでいた日本酒がこんなにうまいとは知らなかった。

 ふと視線を上げると、目の前に、ぼんやりした表情で客待ちをしている屋台のマスターの頬に刻まれた “深いシワ” 。

 「ああ、美しいなぁ…。彫刻みたいだ」
 とか、つぶやいて、
 「今夜の俺は、どうかしてるぜ」
 と苦笑いを浮かべ、
 「マスターもう一本ね」
 と告げる。 

 …みたいなことを想像しながら、検査室のベッドに寝転がった。

 目の前に、黄色と黒のウロコを光らせた小柄なニシキヘビみたいな管が、ウネウネとぐろを巻いている。
 検査技師 (…あとでお医者さんと判明) が、やにわにそのニシキヘビの首ねっこをキュっとつかむと、
 「さぁ、リラックスしてください」
 と言いながら、口の中に差し込んできた。

 「冗談じゃねぇよ、こんなヘビ呑み込めるかよぉ!」
 と抗議しようと思ったが、口にはマウスピースがはめられているので、しゃべることもできない。

 ヘビの頭がノドチンコのあたりをかすり、徐々に食道の奥に入っていく。
 苦しいの、なんの!

 一方、ヘビの方も、いきなり狭い食道に押し込められたせいか、苦しそうにもだえる。
 「静かに!」
 とヘビ使いの先生が、暴れるヘビをたしなめる。

 つぅかー、今のは俺に言った言葉?

 苦しくて、涙も出てきて、汗も出てきて、ヨダレも出てきて、鼻水も出てきて、いちおう 「顔から噴き出すことになっている水分」 が一斉にほとばしった。
 いい年こいて、 「お母さん痛いよぉ!」 状態だ。

 あと20分も続いたら、このヘビ、胃を食い荒らして腸にまで達するぞ…と覚悟を決めた瞬間、
 「はい終わりです。お疲れさま」

 え?
 これから2~3時間は耐え抜くという長期戦の覚悟を決めたというのに…。

 5分後に、判決の言い渡しがあるという。

 「今回は無罪ですね」
 と、先生。
 「胃の上部に奇妙な盛り上がりがあったのですが、今見たら、特に異常はないようです。健康で、丈夫そうな胃ですよ」

 命拾いをした。
 「健康」 とはありがたいものだ。

 さて、疑いが晴れたお祝いに、何をするか。

 そういえば最近ウナギを喰っていない。
 天ぷらもいいなぁ。
 仕上げはラーメン。

ラーメン_photo

 食後は1,200円のコーヒー ……。 


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 16:12 | コメント(2)| トラックバック(0)

消えた秋

 今年は 「秋」 が来なかった。

枯葉の歩道001

 12月が近づいてきた今、そんな風に思っている。
 椎名誠さんがどこかで書いていたけれど、
 「今年の天候は、後半 “手抜き” をした」
 …というのは、当たっている。
 夏から一気に冬だ。

 なにしろ、この夏の暑さったら、なかった。
 しかも、夏が9月いっぱいまで “残業” していた。

 で、10月にはようやく暑さが収まったけれど、夏の猛暑に対応して改造された 「生理」 が、寒暖の温度差を的確に図るセンサー機能を鈍らせ、暑いんだか寒いんだか分からないような身体をつくりあげてしまった。

 そのため、ウロコ雲とか紅葉など、秋の風物を眺めても、身体が 「秋」 を感じなかった。
 で、ようやく身体感覚が気温とシンクロしたときは、もう冬が近づいていたわけ。

うろこ雲001

 今年の冬は寒いらしい。
 「暑い夏を迎えた年の冬は寒い」 というのは “定説” らしいのだが、地球が温暖化に向かっているというのに、なぜ 「寒い冬」 が来るのか、不思議だ。

 この 「地球は温暖化に向かっている」 という説に、しっかりと反論する学者もいる。
 地球は、これまでも、暖かくなったり寒くなったりすることを繰り返しており、人類の比較的新しい歴史をみても、 「10世紀半ばから300年ほどは温暖期で、13世紀末から19世紀半ばまでは寒冷期だった」 というのだ。

 寒冷期といっても、 「氷河期と」 いうほど大げさなものではなく、強いていえば 「小氷河期」 。
 しかし、その 「小氷河期」 が訪れた13世紀末になると、冷害による大飢饉や人口減が起こり、ペストの流行、戦争や暴動が頻発したという。

 そういう世界では 「世も末」 という空気が蔓延し、人々は将来の不安と現在の閉塞感に打ちのめされたはずだ。

 いま地球上を包んでいる空気も、その時代と同じような 「終末感」 に彩られているようにも思える。
 『2012』 とか、 『ノウイング』 、 『ザ・ウォーカー』 みたいな人類滅亡映画がやたらつくられるのも、そんな空気を反映しているのかもしれない。

 で、話しを戻すけど、
 「地球は、温暖化と寒冷化を繰り返す」
 と主張する学者によると、温暖化傾向が強まるか、寒冷化傾向が強まるかの分岐点になるのは、太陽活動だという。
 太陽から黒点がほとんどなくなる時期は、太陽活動が衰退している時期と見てよいのだとか。
 そうなると、地球の温度も低くなる。

 その太陽の黒点が、現在は極端なほど少なくなっており、地球は再び 「小氷河期」 に突入すると予想されるらしい。

 本当なのだろうか?

 この夏の異様な暑さは、日本だけに限らず北半球全体を襲った。
 しかし、南半球のペルーなどは、国家が非常事態宣言を行うほどの異常な寒さが襲っていたという。

 いったい地球はどっちの方向に進むのか?
 (いずれにしても、そこからビジネスチャンスをつかもうとする人々の必死な形相も浮かんでくるけど…)。

 温暖化を唱える説も寒冷化を唱える説も、ともに仮説なのだから、本当のことは分からない。

 ただ、近代社会が成立して、それまでとはまったく異質な産業構造ができあがってしまった今となっては、 「人間の文明」 が気候を変えたという事実は厳然としてあるように思う。

 仮に、温暖化・寒冷化のサイクルが自然現象によるものだとしても、 「地球温暖化の要因を二酸化炭素の放出による温室効果」 に求める説の方が、少なくとも、現在の 「人間の文明」 を見直すきっかけにはなるはずだ。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 14:14 | コメント(6)| トラックバック(0)

歌謡ブルースの謎

 「ブルース」 というものが、黒人音楽のジャンルを意味する言葉だとは知らなかった時代が、自分にあった。

 歌謡曲のタイトルにつく、なんかの記号。
 例えば、 「フォルテシモ (ごく強く) 」 とか、 「アレグロ (陽気に) 」 とか 「アダージョ (ゆるやかに) 」 みたいなものだと無邪気に思い込んでいた。

 そんな時代に聴いていたブルースには、次のようなものがある。

西田佐知子ジャケ002
▲ 西田佐知子

 西田佐知子 『東京ブルース』
 美川憲一  『柳ヶ瀬ブルース』
 藤圭子    『女のブルース』……

 つまりブルースとは、
 「この楽章を歌い込むときは、フラれた気持ちで…」
 …ってな感じで、作家が演奏家に指示を出すときの言葉であって、それがいつしか歌謡曲用語に転化したものだと思ったのだ。

 恋人とか、愛人とかにフラれた歌だから、メロディは哀しい。
 去っていた人を、遠いところでしのぶわけだから、歌い方は、ちょっと物憂い。

 ブランデーグラスを置いたカウンターに座り、お客が来るまでの時間をつぶしているドレス姿のママさんが、頬杖をついてつぶやく鼻歌。
 それが自分の原初の 「ブルース」 像だった。

 だから、高石ともやの 『受験生ブルース』 (1968年) を聞いたとき、ギャグだと思った。
 全然、 “酒場っぽくねぇ” と感じ、しかも “夜っぽく” もねぇし、これは、作者が確信犯的に 「ブルース」 の用法をわざと間違えた例だと解釈した。

高石ともや「受験生ブルース」ジャケ
▲ 受験生ブルース

 しかし、そのうち岡林信康が 『山谷ブルース』 を歌うわ、ジャガーズが 『マドモアゼル・ブルース』 を歌うわ、ゴールデン・カップスが 『本牧ブルース』 を歌うわで、訳がわからなくなった。

ジャガーズ「マドモアゼル・ブルース」ジャケ
▲ ジャガーズ 「マドモアゼル・ブルース」

 ところで、本来の 「ブルース」 とは、どんなものであるのか?

 あえて、詳しくは説明しないけど、一言でいうと、
 「一定の音楽形式を持ったアメリカ黒人音楽の一種で、ロックンロール、R&B、ジャズなどの母体となった音楽スタイル」
 とでもいっておけばいいのだろうか。

 B・Bキング、アルバート・キング、オーティス・ラッシュなどのメジャープレイヤーは、世界的な人気を誇っているし、日本人でも大木トオル、ウエストロード・ブルース・バンド、憂歌団といった黒人ブルースを根幹において活躍するミュージシャンがいっぱいいる。

BBキング001
 ▲ B.Bキング

 ロックの分野では、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトンなども、初期の頃はこぞってブルースの演奏スタイルを採り入れていた。
 そういった意味で、世界のポピュラーミュージックの原点には、 「ブルース」 があるともいえる。

 しかし、日本の歌謡ブルースは、黒人ブルースとはリズムもテンポも違う。
 歌われる歌詞の内容も違う。
 日本の歌謡ブルースは 「ロマン的」 「詠嘆的」 「未練たらたら的」 だが、黒人ブルース…特にシカゴなどのアーバンブルースは、 「現実的」 「能動的」 「脅迫的」 である。

 「俺の可愛いベイビーちゃん、ベッドでたっぷり楽しませてくれれば、いつかはキャデラックを買ってやるからよ」
 ってな歌詞を、ンチャチャ ンチャチャ…というギターの小気味いいカッティングに乗せて軽快に歌っていく。

「キャデラックレコード」よりマディ・ウォーターズ

 黒人ブルースというと、 「人種差別で虐げられた黒人たちの嘆き節」 という解釈が浸透しているけれど、もちろんそういう歌も多いけれど、けっこうヤケクソ的に明るい歌も目立つ。
 男が、ちょっとマッチョに自分の性的魅力を誇示するなんて歌も多いのだ。
 そうなると、同じ “ブルース” でも、ブルース・リーとか、ブルース・ウィルスの世界に近くなる。

 いつの時代でも、開き直ったビンボー人は明るい。
 黒人ブルースには、差別社会や格差社会の底辺を生き抜く人間たちの苦渋がベースにはあるけれど、 「そんなことで、くよくよしてもしょうがねぇじゃねぇか」 という開き直りのたくましさと優しさも備わっている。

 そういうことが分かってきて本場モノのブルースを聞き出すと、もうあっさり、そっち一辺倒になったけど、ふと 『港町ブルース』 (森進一) って何だろう? と思い始めると、これもなかなか興味深いテーマに思えてくる。

 「ブルース」 という名前で、日本人の頭の中に刷り込まれた歌謡曲は、実にたくさんある。

 美川憲一 『柳ヶ瀬ブルース』 (1966年)
 青江三奈 『恍惚のブルース』 (1966年)
 青江三奈 『伊勢崎町ブルース』 (1968年)
 森進一  『港町ブルース』 (1969年)
 平和勝次とダークホース 『宗右衛門町ブルース』 (1972年)
 クールファイブ 『中の島ブルース」 (1973年)

 これらの曲は 「ブルース」 という言葉で飾らてはいるけれど、黒人ブルースの楽曲スタイルや歌詞の指向性とはまったく交わらない。日本人独特の感性と情緒感に彩られた、純度100パーセントのドメスティック歌謡曲だ。

 では、なんでそういう純和風の歌謡曲に、 「ブルース」 と名づけられる歌が登場するようになったのか。

 これに関して、自分はまったく素人なので、突っ込んだところまでは何も分からないが、Wikiなどを読むと、
 「日本の歌謡曲のスタイルとして 『ブルース』 と呼ばれるものもあるが、それは 『憂鬱=Blueな気持ちを歌った曲』 という意味合いが強いため、音楽形式としてのブルースとは関係ない」
 という説明がなされている。

 これだけでは、まだよく分からない。
 詳しそうな解説がなされているいくつかのサイトを覗いてみると、多くの人が挙げているのが、淡谷のり子 (1907年~1992年) 。

淡谷のり子001
 
 彼女はもともとはシャンソン歌手で、クラシック音楽の素養もあり、 「10年に一度のソプラノ」 などと評された実力派シンガーだった。
 彼女に 「ブルース」 を歌わせたのは、服部良一という稀代の作曲家。
 服部の念頭にあったのは、アメリカの 『セントルイス・ブルース』 だったという。

 その曲をヒントに、 「ブルースの小節の数や長さをきちんと勘定して」 作られたのが、 『本牧ブルース』 (後のゴールデンカップスの曲とは別物) だった。
 ところが、これを淡谷のり子に歌わせようとしたところ、ソプラノの音域で歌っていた淡谷のり子には難しく、アルトの音域にまで下げるため、彼女はそれまで吸ったことがなかったタバコを一晩中吸い、声を荒らしたままレコーディングに臨んだとか。 (Wiki 「別れのブルース」 より)

 この 『本牧ブルース』 が、タイトルを変えて 『別れのブルース』 (1936年=昭和12年) になり、大ヒットする。
 淡谷のり子は、その後 『雨のブルース』 (1938年) 、 『思い出のブルース』 (1938年) 、 『嘆きのブルース』 (1948年) など、立て続けのヒットを飛ばし、 「ブルースの女王」 という異名をとる。
 これが、いろいろなサイトから集めた情報による 「歌謡ブルース」 の誕生である。

 もちろん、淡谷のり子以前にも 「ブルース」 を名乗る歌謡曲がけっこうあったらしいが、日本人の脳裏に 「ブルース」 という呼び名がしっかり刻み込まれたのは淡谷のり子から、というのが定説のようだ。

 ただ、これらの曲を聞くと、やはり黒人ブルースの影響を受けたという感じはしない。
 それよりも、社交ダンスの 「ブルース」 がヒントになっているのではないか、という人もいる。

 社交ダンスの世界には 「ブルース」 というステップがあり、それは 「フォックストロット」 のテンポを遅くしたものだという。 (ブルースもフォックストロットも、社交ダンスを知らないので、どんなものかよく分からない) 。

ダンスイラスト

 『別れのブルース』 を吹き込むとき、淡谷のり子は、ディレクターから 「ブルースらしく歌わないでフォックストロットみたいに歌うように」 と指示されていたという記述をどこかで読んだことがあるから、 「歌謡ブルース」 が、ダンス経由のブルースだったという説は正しいのかもしれない。

 ダンスにおける 「ブルース」 は、チークを踊るためのステップだったから、スローテンポで、情感たっぷりのマイナーコードの曲が演奏されることが多かったという。
 たぶん、ここらあたりで、その後の 「歌謡ブルース」 の方向性が定まったようだ。

 1960年代に入ると、いよいよその 「歌謡ブルース」 が全面開花する。

 この時代、個人的に好きだったのは西田佐知子。
 彼女は、 『メリケン・ブルース』 (1964年) 、 『博多ブルース』 (1964年) 、 『一対一のブルース』 (1969年) など、 「ブルース」 を語尾に持つ曲をけっこう歌っているが、最大のヒット曲は 『東京ブルース』 (1963年) だった。

西田佐知子「東京ブルース」ジャケ

 この曲にみるようなビブラートを押さえたクールな歌い方は、なかなかお洒落で、ちょっとしたアンニュイも漂っていて、歌謡ブルースが “都会の歌” であることを印象づけるには十分だった。

 その後、 「新ブルースの女王」 となったのは、青江三奈。
 なにしろデビュー曲が 『恍惚のブルース』 (1966年)
 「あとはおぼろ、あとはおぼろ…」 と、恋におぼれた女性の官能の極致を描いた歌だった。

青江三奈「伊勢崎町ブルース」ジャケ
 
 彼女の歌で有名なのは、 『伊勢崎町ブルース』 (1968年) 。
 青江三奈は、これでその年の日本レコード大賞歌唱賞を獲得する。

 その後も、彼女の歌謡ブルースは快進撃を続けた。
 『札幌ブルース』 (1968年)
 『長崎ブルース』 (1968年)
 『昭和女ブルース』 (1970年)
 『盛岡ブルース』 (1979年)
 最後は、清水アキラとのデュエットで、 『ラーメンブルース』 (1991年) なる歌までうたっている。(残念ながら聞いたことがない)

 歌謡ブルースが、歌謡曲シーンの中で決定的な存在感を持ったのは、美川憲一の 『柳ヶ瀬ブルース』 (1966年) だったかもしれない。120万枚を記録する大ヒットだった。
 「雨、夜、ひとりで泣く女、酒場のネオン」
 歌謡ブルースの定番となるシチュエーションは、すべてここに出尽くしている。

美川憲一「柳ケ瀬ブルース」ジャケ

 美川憲一はその1年前に、 『新潟ブルース』 を発表している。
 この頃から、歌謡ブルースは 『伊勢崎町ブルース』 (青江三奈) 、 『宗右衛門町ブルース』 (平和勝次とダークホース) などのヒット曲に恵まれ、ご当地ソングの代名詞のようになっていく。

 鳥羽一郎 『稚内ブルース』
 ロス・プリモス 『旭川ブルース』
 小野由紀子 『函館ブルース』
 森雄二とサザンクロス 『前橋ブルース』
 扇ひろ子 『新宿ブルース』
 北島三郎 『湯元ブルース』
 ロス・プリモス 『城ヶ崎ブルース』
 小松おさむとダークフェローズ 『庄内ブルース』 ……

 まだまだ地元の観光業とタイアップしたようなローカルブルースがいっぱいあると思うが、以上挙げた曲は、しっかりレコード化・CD化されているようだ。

 演歌歌手の森進一をいちやくスターダムに伸し上げたのも、ブルースだった。
 『港町ブルース』 (1969年) 。
 演歌ではあるが、クールファイブにも共通するような、奇妙な “洋楽性” があって、非常にしゃれた、あか抜けしたメロディラインを持つ曲だった。

森進一「港町ブルース」ジャケ

 森進一は、その後もブルースをタイトルにつけた歌をいくつか歌っている。
 『波止場女のブルース』 (1970年)
 『流れのブルース』 (1971年)

 内山田洋とクールファイブといえば、 『中の島ブルース』 (1975年) が有名。
 これは、秋庭豊とアローナイツが自主制作した同名曲 (1973年) と競作になったが、前川清のなじみやすい唱法がウケて、クールファイブ版の方がヒットした。

クールファイブ「中の島ブルース」ジャケ

 なんといっても、歌謡ブルース最大のヒットは、平和勝次とダークホースが歌った 『宗右衛門町ブルース』 (1972年) ではなかろうか。
 200万枚という大ヒットを記録し、いまでも中高年が巣くうカラオケスナックでは、必ずこれを歌いたがるオヤジがいる。(私もそのひとり)

ダークホース「宗右衛門町ブルース」ジャケ

 マイナー (短調) を条件とした歌謡ブルースが、メジャー (長調) の曲調でもぴったり合うことを実証したのが、この曲だった。

 覚えやすいメロディ。
 たわいない歌詞。
 歌う人間に解放感をもたらすノーテンキ性。

 まさに鼻歌として楽しむ歌謡曲の極北に位置する歌ではないか!
 事実、 「日本フロオケ大賞」 (風呂場で歌う鼻歌の1位) を受賞した曲らしい。

 フォーク系から出た歌謡ブルースのヒット曲としては、岡林信康の 『山谷ブルース』 (1968年) がある。
 楽曲形式は黒人ブルースとはほど遠いが、初期のデルタブルースのような素朴さと切実感があり、労働者目線に徹したところが歌謡ブルースとは一線を画したリアリティを獲得していた。

岡林「山谷ブルース」ジャケ
▲ 岡林信康 「山谷ブルース」

 グループサウンズ (GS) も、歌謡ブルースに乗り遅れまいと、いろいろトライしたようだ。
 ジャガーズの 『マドモアゼル・ブルース』 (1968年) 。ゴールデンカップスの 『本牧ブルース』 (1969年) などがその代表曲。

ゴールデンカップス「本牧ブルース」ジャケ
 
 カップスといえば、横浜・本牧で黒人兵たちも唸らせた実力派バンドだったから、ブルースのなんたるかも当然分かっていただろうが、この曲は、完全に日本マーケットを意識した作りになっている。
 デイブ平尾が、もう少しこぶしを利かせれば、演歌の方にも近づいたかもしれない。

 最後に、あまり有名ではないかもしれないけれど、個人的に好きなブルースを挙げれば、次の二つ。

 荒木一郎 『君に捧げるほろ苦いブルース』 (1975年)
 高山厳  『握りこぶしのブルース』 (1993年)

荒木一郎「君に捧げるほろ苦いブルース」ジャケ
 ▲ 荒木一郎 「君に捧げるほろ苦いブルース」

 荒木一郎の歌には、 「都会の片隅に住む人間の喪失感」 のようなものがあって、夜明けの酒場のカウンターで、半分眠りながら聞いたりしていると、けっこうジーンと来るものがある。
 特に、 『君に捧げるほろ苦いブルース』 は、女が去っていった後の部屋で、コーヒー豆をひきながら聞いたりしていると、ジワジワっと心がうずく。詩人が作った歌だなと思う。

 高山厳の 『握りこぶしのブルース』 を知っている人は少ないだろう。
 しかし、大ヒット曲の 『心凍らせて』 のカップリング曲だから、CDを買った人は、この曲も聞いているかもしれない。

高山厳
 ▲ 高山厳

 もうほんと、元祖 “負け犬” の歌。
 うだつの上がらない独身サラリーマンの日常生活が克明に描かれていて、身につまされるときがある。

 このように、探してみたら日本の歌謡曲には、 『○○ブルース』 という歌が、けっこう多いことに驚く。
 しかし、その大半は1960年代の中頃から後期に集中し、70年代になると下火になり、75年以降はほとんど消え去っている。

 何が起こったのか。

 歌謡ブルースが消えていった時代は、 「ニューミュージック」 の台頭期と重なる。
 たぶん日本人の多くが、この頃から、黒人ブルースでもないのに 「ブルース」 を名乗る歌謡曲に、ちょっと違和感を感じ始めたのではないかと思う。

 タイトルに 「ブルース」 をつけることによって “都会性” やら “おしゃれ感” を盛り込もうとした曲作りが、荒井由実 (松任谷由実) のような本格的な都会志向を持つ歌の前で、急激に古びたものなってしまったのだ。

 「ニューミュージック」 ムーブメントは、日本の都市や郊外が、あっという間に乾いた抽象的な空間になっていった時代に呼応している。

 そのような新しい都市空間では、新しい美意識を求める人たちが育ち、変貌を遂げていく現代都市を埋める新しい音楽が求められるようになっていた。
 どこの都市も、おしゃれで清潔な意匠に装われるようになり、いかがわしい面白さを秘めた 「裏町」 とか 「場末」 といわれるような空間がどんどん消えていった。

みなとみらい

 そういう変貌の時代に、歌謡ブルースは、もうそのタイトルだけで、古くて泥臭い音楽のレッテルを貼られることになり、商業的な音楽シーンから脱落していかざるを得なかった。

 そういった意味で、歌謡ブルースは、 「昭和の頂点」 を示す音楽だったのかもしれない。
 昭和の高度成長が終わり、昭和の停滞が見えてきたときに、歌謡ブルースは眠りについた。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 04:29 | コメント(4)| トラックバック(0)

おひとりさま時代

 「おひとりさま」 ブームがじわじわっと拡大している気配がある。
 
 おひとりさま

 もともとこの言葉は、上野千鶴子さんの書いた 『おひとりさまの老後』 (法研) という本から生まれた言葉である。

おひとりさまの老後表紙

 その本自体は、 「独身女性がいかに老後を安心して迎えることができるか」 を説いたものだったが、その言葉の適用範囲が少しずつ広がりはじめ、中高年の独身者のみならず、いまや配偶者のいる主婦に対しても、 「ひとりで楽しむライフスタイル」 を表現するときに、この 「おひとりさま」 が使われるようになってきた。

 このことは、女性の 「おひとりさま」 状態をポジティブに評価する傾向が生まれてきたことを物語っている。

 その昔、適齢期を過ぎた独身女性は、世間から 「行かず後家」 などという、そうとう侮蔑的な言葉を浴びせられた時代があった。

 その後、晩婚化傾向も進み、非婚率も高まったので、ようやくこの理不尽なバッシングが収まるかと思いきや、今度は非婚女性に 「負け犬」 とか 「負け組」 の烙印を押すような風潮が生まれてきた。
 さらに、最近では 「婚活」 ブームがあり、それも独身を続ける女性にプレッシャーをかける一因になったのではないかという気がする。

 しかし、それにもかかわらず、 「おひとりさま」 志向は増えている。
 つまり、そこにひとつの “価値” を見出そうという動きが顕著になってきたのだ。

 すでに、昨年3月に発行された 『週刊朝日』 では、 「現代に流行する女性の “ひとり上手” 」 という特集で、ひとりカラオケで汗を流す女子大生や、彼氏を置いて、年末にホテルのスイートルームに一泊し、ワインを飲み、泡風呂に入ってひとりで優雅に過ごすOLの例などがレポートされていた。

 そこでは、あるOLの談話として、こんな意見も載せられていた。

 「興味を抱いたレストランを見つけたら、ひとりで行ったほうが早いし、自分のペースで食べられる。
 寂しいなんて思ったことはない。
 ひとりの方が味に集中できるし、気兼ねもいらない。
 好きな時間は、友だちや恋人とではなく、自分のためだけに使いたい」

 どうやら 「おひとりさま」 は、いまや “負の記号” ではなく、女性が自分自身の充実した時間を取り戻すためのプラス志向の “キーワード” になりつつあるようなのだ。

 事実、2010年11月15日号の 『AERA (アエラ) 』 では、ついにその 「おひとりさま志向」 が主婦層にまで広がっているというレポートが掲載された。

 その記事の書き出しは、こうだ。

 「夫や子供から解放されてひとりになりたいという、 『おひとりさま』 ならぬ 『おひとり妻』 欲求が、いま妻たちの間で高まっている。
 博報堂生活総合研究所の調査 (2008年) でも、 『一番充実させたい時間は?』 の問に、妻の回答でもっとも多かったのは 『自分のプライベートな時間』 で、20年前と比べて10パーセント以上増え、約65パーセントにのぼった」 (特集・おひとり妻の反乱)

 同誌によると、
 「リーマンショック以降、夫たちは不況の影響もあり、 『早く家に帰りたい』 『妻や子供と過ごしたい』 と訴えるが、妻は多少時間があれば自分だけで 『おひとり妻』 をして、ひとりの時間を楽しみたいのだ」
 ということらしい。
 
 では、彼女たちは、そのような時間を、どう活用しているのだろうか?

 記事によると、
 「ひとりでファミレスやカフェに行って 『お茶』 したり、大型二輪の免許を取ったり、印象派の美術展に行って美術などを見たり…」
 …して、自分を取り戻すための時間を確保しているらしい。

 実は、そのあたりの記事を読んでいて、ハッと思った。
 思い当たるフシがあったのだ。

 この11月初頭に開催されたキャンピングカーショー 『お台場くるま旅パラダイス』 の会場で、キャンピングカーユーザーの間に広がりつつある女性の 「おひとりさま」 傾向を (たまたまかもしれないが…) 集中的に見てしまった。

 ひとつは、あるブースで、販売店スタッフのお手伝いをしていた若い女性。
 本業はウエブデザイナーで、ホームページ、ブログなどのデザイン、コンセプトメイク、コンサルティングを手がける方なのだが、その “仕事場” がアメリカン・クラスCモーターホーム。

 そこにPCなどの仕事道具をいっさい積み込み、愛犬とともに、日本を放浪しながら泊まる先々で仕事をこなしているのだという。  

 その方の書いているブログを読むと、
 「旅の目的地は行き当たりばったりで気に入った土地に長居することもある」
 という。
 「危険な目に遭ったりしないの?」
 と聞かれることもあるが、
 「今のところ平穏無事に過ごせている」
 とのこと。
 しかし、 「こんなご時世なので…」 いくつかのセキュリティ対策は考えているそうだ。 

 さらに、別の女性の話。
 こちらは小さいお子様が3人もいるご夫婦だった。

 つい最近、キャブコンタイプの軽キャンパーを購入した。
 もちろん、家族で旅行するために買ったクルマなのだが、旦那さまが長期の仕事に関わるような季節になったら、お子様は旦那さんやら実家に預け、その奥様は 「ひとり旅行」 を楽しむつもりなのだという。

 軽サイズを求めたのは、奥様が運転するときの取り回しを考えて。
 キャブコン型を選んだのは、
 「ひとりで泊まるとき、ポップアップルーフでは、テント地を切られたら怖いから」
 …という理由による。

 また同じ日、愛犬3匹をカートに乗せて、キャンピングカー見物をしている顔見知りの女性と会った。
 あるキャンプ大会で知り合った方で、ペットとともに 「おひとりさまキャンピングカーライフ」 を満喫されている人だった。
 もともと、若い頃からひとりでバイク旅行を楽しんでこられた人らしい。
 「バイクに比べると、キャンピングカーははるかに安心」
 そう語っていたのが印象的だった。

 日本RV協会が発行している 『キャンピングカー白書2010』 によると、全国の4,159人の女性ユーザーのうち、 「たまに家族から解放されて、ひとり旅をしてみたい」 と答えた女性は、全体の5.7パーセント。
 これに、 「いま持っているキャンピングカー以外の別のキャンピングカーならひとり旅をしてみたい」 、 「すでにひとり旅を楽しんでいる」 という答を加えると、全体の14パーセントの女性が、ひとり旅に関心を持っているというデータがある。

 同白書によると、ひとり旅に関心を持っている女性からは、次のような意見が上がっているという。
 
 ① 「キャンピングカーは男性が主流というイメージが強いが、これから女性キャンパーがたくさん増えていってくれることを願いたいし、 (そういう) 友だちをどんどん増やしたい」
 ② 「女性でひとり旅をする人があまりいないのは、安全面やトイレ面で安心できる宿泊施設がないから。そういう旅の施設が多くできればいいと思う」
 ③ 「防犯のしっかりしたクルマがあり、女性専用の駐車場などがあれば、女性のひとり旅も増えるのでは」
 
 つまり、セキュリティの問題が解決され、しかも 「仲間が増えれば」 、女性だけでキャンピングカーライフを楽しみたいという人たちが潜在的に相当数いるという憶測が成り立つ。

 このように、夫や恋人に頼らずに、自分だけの時間を大切にしたいと望んでいる女性たちが増えてきた背景には、どんな事情が隠されているのだろう。

 先ほど紹介した 『アエラ』 (2010年11月15日号) には、次のような解釈が載せられていた。
 若い主婦層への 「おひとりさま」 ニーズが増えてきたことへの分析だ。
 
 「いまの30代ママ (団塊ジュニア) の多くは、心身ともに疲れている。その5割が子供を育てながら働き、大黒柱の一端も担っている。
 そのストレスは計り知れない。
 特に、30代の多くが核家族に育ち、子供時代から 『個室』 を与えられ、兄弟の数も少なく、自分の時間や空間を大事にしてきた世代である」

 だから、それ以前の既婚女性たちよりも、人一倍 「ひとりになりたい」 願望が強いのだという。

 また、最近とみに強くなっている “同調圧力” への反発もあるという。

 「団塊ジュニアの中には、中学時代にイジメに遭った経験を持つ人も多くいる。
 子供のころに、陰湿なイジメに直面した世代は、ママになっても、特定の集団やコミュニティーで、自分だけが浮いてしまわないように行動する傾向が強い。
 そのため、みな “空気” を読み合い、周りのママ友と同じように動くことに腐心する。
 だから、誰にも気をつかわない 『おひとり妻』 の時間をよけいに持ちたいと思うようになる」

 このような、周囲の 「同調圧力」 から解放されるために 「自分だけの時間を確保する」 というのは、非常に分かりやすい解説になっている。

 しかし、はたしてそれだけなのだろうか。

 『おひとりさまの老後』 を書いた上野千鶴子さんは、女性の 「おひとりさま」 ブームの背景にあるのは、根強い 「ミソジニー」 社会の影響もあることを示唆している ( 『サンデー毎日』  2010年 11月28日号) 。

 「ミソジニー」 とは聞き慣れない言葉だが、分かりやすくいうと 「女ぎらい」 。
 つまり、女性を尊重するようなタテマエをとりながら、実は、巧妙に女性を社会から排除し、男同士の精神的な安定性を確保しようとする思想を指す。
 
 要は、 「セックスは好きだが、女はきらい」 というような男たちが生み出す風潮のことをいうらしい。

 この 「ミソジニー」 は、男においては 「男尊女卑」 という形をとり、女においては 「自己嫌悪」 という形を取るのが特徴で、それが現代社会を生きる女性のストレスの大きな要因になっている。
 …というのが、上野さんの主張である。

 「男尊女卑」 などという言葉は、いまや死語化しつつあるように思える時代だが、実際には、それが巧妙に隠ぺいされ、形を変えて強化されているのが現代社会。
 彼女に言わせると、 「育児放棄をした女性を “鬼母” と形容してはばからない世論や、国会の施設を背景にファッション誌のモデルを務めた女性議員を過度にバッシングするメディアの例などが、なによりも現代の男尊女卑を露骨に体現している」 …ということになる。

 「草食系男子」 という言葉をつくり、それを一躍時代のキータームにまで押し上げた深澤真紀さんは、こう語る。

 「そもそもこの言葉は、女を嫌悪や蔑視の対象から外し、欲望の対象として見るのではなく、ひとりの “人間” として見ようとする若い男子のことを肯定的に表現する言葉のつもりだった。
 しかし (皮肉にも) 、 『女に対してガツガツしない男なんて情けない』 という男性たちのバッシングによって、逆に注目を浴びるようになった。
 それほど、草食男子の出現を不快に思った男がたくさんいたということである。
 この反応こそ、まさにミソジニーなのだ」 (週刊文春 2010年11月25日号) 。

 いきなり硬い話になってしまったが、女性の 「おひとりさま」 志向が強まってきた背景には、そのような女性蔑視の社会風潮をストレスと感じる女性たちが増えてきたという事実が反映しているともいえる。

 女性の 「おひとりさま」 ブームが、男に対する幻滅に端を発するというのであれば、男たちはどうすればいいのか。
 案外これは、世のパパたちに、改めて 「男と女の問題」 を考えることを迫る風潮なのかもしれない。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:33 | コメント(2)| トラックバック(0)

3行で総てを語る

 不必要なものを削る。

 これはコストカットをもくろむ企業経営にとっては根幹的なことであり、かつ、個人のメタボ対策にも必要なことであり、そして、文章道の極意でもある。

 特に文章をつくるとき、ただでさえ 「長すぎ!」 と指摘されることもあるこのブログで、不必要なダジャレまで盛り込んで、ダラダラと伸ばす性癖のある自分には、キモに銘じておかなければならないことかもしれない。

 文章における 「伝える力」 は、文章の長さとは関係ない。

 短いものの中にこそ、 「命」 が宿る。

 そう思える文章に出合うことがある。
 もともと、俳句や短歌というミニマムな文学形式のなかに、情景描写や、季節感や、作者の詠嘆を盛り込むことに長けている日本人は、感覚的にそのツボを心得ている。

窓の外の景色

 辰濃和男 (たつの・かずお) 氏の書かれた 『文章のみがき方』 (岩波新書) という本の中で、その書き手の人生が凝縮したような、短い文に接する機会があった。

 あまりにも、すごい! と思ったので、思わず筆をとって全文をメモに残した。
 …といっても、わずか3行。

 福井県の丸岡町 (現坂井市) が毎年募集している 「日本一短い手紙コンクール」 に寄せられた投稿者の文章のひとつだという。

  「いのち」 の終わりに三日下さい。
  母とひなかざり。貴男 (あなた) と観覧車。
  子供たちに茶碗蒸しを。


観覧車

 読んで、ちょっと声が出なかった。

 「 『いのち』 の終わり」 という言葉が、すべてのキーになっている。
 作者は、たぶん余命いくばくもない自分の運命と格闘し、最後にこの心境にたどりついたのだろう。

 そして、最後に望んだものが、
 「母とのひなかざり」
 「あなたとの観覧車」
 「子供たちへの茶碗蒸し」
 だったのだ。

 すべて、日々の生活のアクセントにもならないような、日常性の中に埋もれてしまうものばかり。

 ところが、 「それらのもの」 を、もうじき失ってしまう作者の目を通すことによって、そこにスポットライトが当てられ、映画のカメラがスゥーっと寄っていくような衝撃が生まれている。
 そしてこの作者が、これまで、どのような形で家族と接してきたのかということさえ鮮やかに伝わってくる。

 哀しみの中に漂う明るさ。
 冬のひだまりの中にたたずむような温かさ。

 この切ない文章に、いいしれぬ 「なぐさめ」 が感じられるのは、この作者の気持ちを汲み、作者をそっと見守る家族の視線を背後に感じることができるからだろう。

 この文を引用した辰濃和男氏は、
 「いろいろなものを削ぎ落として残ったものが 『ひな』 と 『観覧車』 と 『茶碗蒸し』 だったのだろう。その三つのもので象徴される家族の絆が、読む人の心にしっかりと伝わってくる」
 と締めくくるが、
 「削ぎ落とす」
 という意図的な戦略をとるまでもなく、自然に 「削ぎ落とされた」 名文の例であるように思う

 ほんとうに大切なものを人に伝えようとするとき、人間の書く文章は、3行で足りるのかもしれない。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:15 | コメント(2)| トラックバック(0)

塔の形而上学

ブリューゲル「バベルの塔」
▲ ピーター・ブリューゲルの 『バベルの塔』

 人間は、塔が好きだ。
 古くは、旧約聖書の 「バベルの塔」 (← 本当にあったかは不明) に始まり、エッフェル塔やら、東京タワーやら、プルジュ・ハリファ (プルジュ・ドバイ) やら、スカイツリーやら……。

 何のためか、よく分からないけれど、とにかくみんな塔を建てるのが好きだ。

 だけど、なんで人間は古来よりそんなに 「塔」 を建てたがるのだろう?

 権力者の “権威” の誇示とかいう説もあるけれど、それなら、まずドッシリした安定感が必要で、不安定さを漂わせながらヒョロヒョロ伸びていく建物が必要とは思えない。

 スペース効率を高めるためだという人もいる。
 地価の高い大都市の場合は、フロアを積み重ねていくことで、総敷地面積を増やすことができる。
 まぁ、合理的な説明だね。

 ▼ 高層ビル
ガラスの高層ビル

 確かに、現代の 「高層ビル」 というのは、そう説明することも可能だ。
 だけど、 「塔」 は、 「高層ビル」 とは違う。

 「高層ビル」 には “意味” があるけれど、「塔」 には “意味” がない。
 「塔」 というのは、その 「高層ビル」 が終わり、その上に 「無意味な空間」 が現れるところから始まる。

 プルジュ・ハリファの地上800mとかいう高さって、どんなに高速エレベーターを使ったって、人間が暮らす空間にはならない。
 まず、そんな高いところまで、水道とか、ガスとか、トイレや風呂とか、ライフラインを整備するとなると、とてつもないコストがかかる。
 周りが砂漠で、建物を建てるスペースに困らないドバイでは、そんなコストは無意味なコストだ。

 第一、地震が来たらどうなるだろう? …ってな不安は常につきまとう。
 トレードセンタービルを襲った9・11事件のように、飛行機が突入してきたらどうなるのよ…とか思うと、もう住むなんてことは考えるだけで怖い。

 だから、人間が住む空間として、 「塔」 は意味がない。
 ホテルやオフィスがいっぱい入っているはずのプルジュ・ハリファだって、160階以降206階までは、全部機械室だっていうじゃない。
 一定以上高いところには人間は住めないってことを、建築家もちゃんと分かっているんだろうね。

 スカイツリーは 「電波塔」 として建てられたわけだけど、専門家の中には、 「電波塔なら、別にあれほどの高さなんか必要ない」 っていう人もいるようだ。

 では、もう一度原点に返って、
 「人間は、なぜ塔を建てるのだろう?」

 たぶん、そこには、「重力」 への挑戦という意味があるような気がする。

 ▼ 重力への挑戦…… ホント?
塔0056

 「重力」 ってのは、物理学的には、地球上の物体が地球から受ける力のことで、 「万有引力と地球の自転による遠心力との合力」 なんてよく言われるけれど、象徴的にいえば、 「重力の働く場」 というのは、大地に這いつくばって生きていくしかない人間の性 (さが) を背負った世界のことだ。

 「塔」 とは、その 「人間の性 (さが)」 を超えようとする意志が、 「形」 をとったものだ。 
 要は、 「人間は、どれだけ “神さま” に近づけるのか」 と問う建築なんだね。
 さらに言葉を変えて言えば、 「人間の知恵や技術や文明は、どこまで進化できるのか」 を問う建築のこと。
 
 進化の行く末を見極めたいという衝動に 「意味」 はない。
 生物の 「進化」 に意味がないのと同じように。

 旧約聖書の神さまが、人間による 「バベルの塔」 の建設を恐れたのは、それが 「意味」 を持たない行為だったからだ。

 もし、人間たちが、高い塔を造って、それを集合住宅にしようとか、ショッピングモールに使おうというのだったら、神さまは見逃していただろう。

 しかし、「バベルの塔」 には意味がなかった。

 「無意味なこと」 を追求することは、 「神の秩序」 への冒涜である。
 それは、この世に意味を与えることを使命と考える神さまに放たれた “悪意” にすぎない。

 神さまは、「バベルの塔」 の建設に、人間のニヒリズムをみたのかもしれない。
 (だから、キリスト教原理主義の人たちから見ると、 「進化」 を唱えたダーウィンの教えは、ニヒリズムに感じられるのだろう) 。

 
 この先、 「塔」 はいったいどうなるのだろう。

 現在、世界で最も高いといわれるプルジュ・ハリファを超える高さのビルの計画がすでに進んでいるという。

 きっと、これからもどんどん 「塔」 の高さは延長されるだろう。
 そして、いつかは力学の限界を超えて、破綻するだろう。
 しかし、それまで人間は 「塔」 の高さを伸ばし続けるだろう。

 あたかも、どこで破綻するかを見極めようといわんばかりに。

 関連記事 「塔は淋しい」
 http://campingcar.blog.hobidas.com/archives/day/20080303.html


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:04 | コメント(0)| トラックバック(0)

裕次郎スナック

 “裕次郎スナック” というものに行ってみた。

 もちろん、そんな名前のスナックがあるわけはないのだけれど、そこのママさんが若い頃から熱狂的な石原裕次郎のファンで、店内に張られた映画のポスターから、カウンター奥の色紙、酒瓶、缶コーヒーのデザインに至るまで、今となっては入手不可能な “裕次郎アイテム” に満ちあふれた店なのだ。

 もちろん、カラオケでも、裕次郎の持ち歌を好きな人、熱烈大歓迎。

 う~ん……
 こういう店に入るときの態度は、四つある。

 ひとつは、
 「ああ、裕次郎いいっすね! 僕も大好きです。 『嵐を呼ぶ男』 カッコえかったなぁ! 歌では 『赤いハンカチ』 なんかよく歌います」
 という戦略。

石原裕次郎ポスター

 もうひとつは、
 「いやぁ、裕次郎好きだけど、この店で裕次郎の歌をうたっても、皆さんから下手だってバカにされちゃいそうで、怖いすね! だから、今日はあえてライバルの小林旭の歌うたっちゃいます」
 …って感じのやつ。

 3番目は、
 「好きですけど、歌も映画もあんまり知らなくて…」

 最後は、
 「ユージロ? 誰っす? それ…」

 で、この日、私が取った態度は、2番目のやつ。
 「じゃ今日は、アキラ歌っちゃうかな…」
 ってやつ。
 もちろん、小林旭の歌だってそんなに多くは知らないのだが、旭ファンの友人がいたせいで、若い頃はさんざん歌わされた。
 だから、鼻唄程度には、 『自動車ショー歌』 、 『ズンドコ節』 、 『北帰行』 、 『さすらい』 なんかはすぐ出てくる。

 で、そういうのを歌っていると、面白がってノッてくれるお客さんがいるから助かる。
 「そっちが旭の 『さすらい』 なら、こっちは 『錆びたナイフ』 だ!」
 と、対抗意識をむき出しにして遊んでくれるオヤジがいるから楽しい。

 ところで、石原裕次郎というスターをどう評価するか。

 この大スターの活躍をいちおうリアルタイムでフォローできる世代に生まれた僕としては、ちょっと難しい課題だ。

 正直にいうと、僕自身は、あまり石原裕次郎に肩入れした記憶がない。
 その店のママさんや、常連のお客さん方が示したほど 「不滅の大スター」 として裕次郎を遇する熱意が低い。

 僕の世代は、広義の “団塊の世代” に入るのかもしれないけれど、狭義でいう団塊世代 (1947年~1949年) からは1年下 (1950年生) ということになる。

 わずか1年の差だが、僕らが行っていた東京・都下の小学校などでは、 「裕次郎って、ちょっと上の世代のヒーロー」 …つまり、俺たちの兄さんとか姉さんのアイドルっていう意識があって、すでに世代的なズレが生じていた。

 じゃ、俺たち小学生のアイドルって何さ?
 といったら、それはもう圧倒的にクレイジーキャッツであり、とんま天狗であり、月光仮面であり、少年ジェットであった。
 裕次郎という、ギラギラのオーラをストレートに発揮するヒーローに憧れるよりも、小学生時代の僕たちは、すでにギャグに身をやつすタレントたちや、虚構のヒーローの方を面白がっていた。

 もしかしたら、これは世代的な差というよりも、都会生まれの団塊世代の特徴なのかもしれない。
 都会生まれの団塊世代は、こまっしゃくれた大人の笑いには敏感に反応したが、裕次郎のストレートなカッコよさは理解できなかった。
 そういう言い方もできる。

 たぶん、石原裕次郎というスターは、都会育ちの団塊世代よりも、地方から東京を目指した団塊世代にとって “まぶしい存在” だったのだと思う。

 それなりのブランド大学に籍を置きながら、学校の窮屈さを嫌って、都会で遊び暮らす優雅なお坊っちゃん不良。
 高級外車を無雑作に乗り回し、洋上のヨットで肌を焼き、ケンカは強いし、どこにいても女性の視線を一身に集める “超ド級のスーパーヒーロー” 。
 きっと、昭和30年代に生きた地方の若者にとっては、 「石原裕次郎」 というのは、もっとも都会っぽい記号を帯びたアイドルだったのだろう。

 石原裕次郎が映画デビューを果たした 『太陽の季節』 が公開されたのが、1956年。
 その時代になると、日本列島に高度経済成長の波が押し寄せ、都市部の工場はどこも深刻な労働力不足を訴えるようになっていた。
 裕次郎がデビューして、スターダムにのし上がっていく過程というのは、ちょうど、農村から都市部へと、若者たちの人口移動が活発になっていく時代と重なる。

 この時代、地方の農家に暮らす中卒の若者は、都会の工場では 「金の卵」 ともてはやされ、 「集団就職列車」 という特別仕立ての列車に乗せられて東京、大阪などの大都市に集められるようになった。

 Wikiによると、集団就職列車が運行を開始したのは1954年 (昭和29年) で、修了したのが1975年 (昭和50年) だったという。
 ちょうど、石原裕次郎の主要映画が公開された時代と重なる。

 この時代の歌謡シーンを見てみると、見事に “望郷歌謡曲” が主流になっている。
 『東京だョおっ母さん』 島倉千代子 1957年 (昭和32年)
 『夕焼けトンビ』 三橋美智也 1958年 (昭和33年) ※ これは文句なく名曲!
 『僕は泣いちっち』 守屋浩 1959年 (昭和34年)
 『ああ上野駅』 井沢八郎 1964年 (昭和39年)

 こういう望郷ソングは、言うまでもなく、集団就職に代表される、若者の都市流入現象と呼応している。
 これらの歌では、都市に出て行った家族や恋人と、地方に残された者との愛憎悲喜こもごもの感情のゆらぎがテーマとなる。

 そのような生活の匂いが濃厚な望郷歌謡曲が主流の時代に、石原裕次郎の歌う世界は、とんでもなく抽象的で、都会的に感じられたはずだ。
 『銀座の恋の物語』 (1961年) にせよ、 『夜霧よ今夜もありがとう』 (1967年)にせよ、 『恋の町札幌』 (1972年) にせよ、そこには、田舎と都会に引き裂かれた人間の葛藤は出てこない。どの歌にも、都会の片隅で恋をささやく男女の甘くクールなスマートさが漂っている。

 だから、裕次郎の 「都会的カッコよさ」 というのは、その対比として存在した望郷歌謡曲を背景に成り立つものだった…ともいえるのだ。

 ここのところの案配が、同じ団塊の世代でも、都会生まれの団塊たちには理解できない。
 まず、都会生まれには、望郷歌謡曲の意味が分からない。

 彼らにとって (実は僕もそうなんだけど…) 望郷歌謡曲というのは、単に泥くさい “音” にしか聴こえなかったのだ。

 都会育ちの団塊世代は、いきなり洋楽崇拝に行く。
 団塊世代でも、少し年齢が上の都会派は、 「若い頃好きだった歌手」 などという話題になると、ペリー・コモ、ナット・キング・コールのスタンダード系か、カントリーウエスタン。 (さらに上の世代になると、タンゴなどを聞いていた人が急に増える) 。

 映画の話でも同様。
 都会派の団塊世代は、あまり日活モノなどを見ない。
 で、好きな “映画スター” みたいな話になると、もう一気にゲーリー・クーパーとかクラーク・ゲーブル、ジェームス・ディーンに行ってしまう。

 今度は、都会派団塊世代の下の方。
 こっちは、歌ならビートルズは当然で、後はベンチャーズ、クリフ・リチャード。あるいは、ブラザースフォーかPPM。
 映画の話になれば、 『007シリーズ』 とか、 『ウエストサイドストーリー』 、 『アラビアのローレンス』 。

 彼らのような、洋モノ好きの都会派団塊世代からみると、裕次郎という存在は、評価軸をどう定めたらいいのか分からないエアポケットのような場所にいるスターなのだ。

 逆に、裕次郎を愛する団塊の世代は、裕次郎を評価できない団塊の世代をうとましく感じているように思う。
 同じ団塊世代ながら、そこに目に見えない、小さな反目が渦巻いている。

 “裕次郎スナック” で、小林旭の歌はその場を大いに湧かせるけれど、ビートルズはたぶん無視される。

 旭は、立派な裕次郎のライバルになりうる。
 それは、たとえばビートルズVSローリング・ストーンズとか、聖子VS明菜に似たような対立構造をなす。

 いつも太陽の光りを浴びて、燦然と輝く裕次郎に対し、旭は、夜咲く “月見草” 。
 彼のうたう歌には、 『さすらい』 とか 『北帰行』 に代表されるような正統演歌のセンチメンタリズムがある。
 そうかと思うと、テンガロンハットを被り、ギターを背負って、北海道を馬で走るという、きわめてシュールな映画に、なんのためらいもなく出たりして、謎っぽい人である。

小林旭ジャケ

 スマートな裕次郎と、スマートさが中途半端な旭は、対立構造なんだけれど、それは遊びの形をとり、ゲームとして消化される。

 しかし、ビートルズと裕次郎は、対立構造をなさない。
 それは、同じゲームの土俵に登ることのない永遠に異質な世界だ。

 団塊の世代というと、よく 「ビートルズエイジ」 とか 「全共闘世代」 という言葉でくくられることが多いが、そういう言葉を苦々しい思いで噛みつぶす団塊の世代の方が、実は、数的には 「ビートルズエイジ」 や 「全共闘世代」 よりも圧倒的に多い。
 なにせ、団塊の世代の大学進学率は約15パーセント。
 大学まで進み、学園闘争に明け暮れたのは、ごく一部の裕福なエリート家庭の子弟だけだったのだ。 

 だから、 「団塊の世代問題」 というのはあったとしても、 「ビートルズエイジ問題」 とか、 「全共闘世代問題」 というのは 「世代の問題」 としてはあり得ない。あるとすれば、それは 「時代の問題」 だ。

 圧倒的な多数派を誇るサイレント・マジョリティの団塊人たちから見ると、 「ビートルズ」 一派と 「全共闘」 一派は、親のスネをかじって学校に行かせてもらっているにもかかわらず、勝手に大学を壊したり、ノウテンキにギターを奏でながらナンパにいそしんだ “いけすかない野郎” たちであったに違いない。

 で、そういう “いけすかない団塊野郎” たちは、中年になってからは、恰幅のいい体格を仕立てのいいスーツで包み、お店のママさんにブランデーなんかを奢りながら、ポール・アンカの 『マイウェイ』 を、英語で朗々と歌いあげて、拍手されてしまう。

 それを、うとましく思う人たちの中には、口には出さずとも、 「やつらになんか、石原裕次郎のカッコ良さが分かってたまるか!」 という思いを秘めている人たちもいる。

 もちろん、こういう観察は、ごくごく自分の私的な生活圏の中の話であって、調査対象となっている人たちも10人ぐらい。
 だから、それをもって一般論に普遍化することはとてもできないけれど、その限定された人々を見るかぎり、僕はそんなふうに感じた。

 で、僕はその “裕次郎スナック” がひどく気に入ってしまって、ジンロのボトルを一本入れた。
 そこで、裕次郎派を “敵” にまわし、旭の歌で殴りこみをかけるのが楽しみなのだ。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 23:10 | コメント(2)| トラックバック(0)

自然は子供を養う

《 キャンプに連れて行く親は、子供を伸ばす! 》

 扶桑社から 『キャンプに連れて行く親は、子供を伸ばす!』 (坂田和人・著) という本が出されている。
 テーマは、まさにタイトル通りなのだが、実は、このような本は、一見よくありそうで、案外少ない。

キャンプに連れて行く親は子供を伸ばす表紙

 キャンプやアウトドアをテーマにした本の大半は、そのノウハウやグッズ類を紹介するもので、それが 「なぜ子供に良いのか?」 という考察が語られることは今までほとんどなかった。
 これまでの本では、 「キャンプは子供を伸ばす」 ということは、すでに暗黙の “前提” となっており、 「なぜそうなの?」 などと十分に考察することもなく、いきなり 「テントの選び方」 「ペグの打ち方」 などに入っていた。

 しかし、 「なぜ、アウトドアが子供のためになるのか?」 という根本的な考察を押さえておかないと、子連れキャンプを実現しても、けっきょく親たちだけの自己満足で終わってしまう。同じ自然を見ても、子供の視線と親の視線では、まったく異なるものを見ていることもあるからだ。

 そこで、この本。

 ここには、
 「子供は、自然の中に何を見るのか?」
 「何を学ぶのか?」
 「何を面白がるのか?」
 ということが “子供目線” をしっかり交えて語られている。

 “子供目線” というのは、いわば 「人間の原点」 に立ち返ったときの視線のことをいう。
 本書は、その人間の原点に立ち返ったときの視点で、 “アウトドアと子育て” を、体験的に綴った初の書籍かもしれない。 

坂田和人氏
 ▲ 著者近影

 著者は、坂田和人氏 (1955年・東京生まれ) 。
 映像ジャーナリストである。
 商業写真も手掛ける一方、趣味と実益をかねて、登山、キャンプなどのアウトドア分野の撮影を得意とし、文化論的な視点を交えたアウトドア読み物も執筆する人だ。
 その視点は、一種 「文化人類学」 的なフィールドワークに貫かれ、それをもって、彼の仕事を 「文化人類 “写” 学」 という人もいる。

 そのアウトドア体験がハンパじゃない。
 修験道の行に励む修験者たちに混じって、行を積むことから始まり、北アメリカではナバホ居留区で、ネイティブアメリカンの人たちと交わり、生活をともにした。

 極めつけは、南米アマゾン川流域で、原住民マチゲンガ族の集落に入り、住民と一緒になって狩猟採集生活を体験したこと。
 アマゾン生活は3年弱の間に5~6回行われたが、最短2ヶ月、最長で半年ぐらいだったという。
 そのほかにも、ネパール、カムチャッカ、環太平洋諸島、アフリカなどを探索し、普通の日本人では得られないような自然の景観を堪能し、異文化交流を果たし、その成果を画像として残している。

《 子供には分かる 「地球の音」 》

 こういう人が書くアウトドア本だから、さぞや普通の人には実践不可能なことが書かれた “ハードなサバイバル本” と思われがちだが、さにあらず、主張はいたって平易だ。

 しかも、語り口が美しい。

 「 (フィールドに出たら) 立ち枯れの木によりかかる倒木、株に生えるキノコなど、自然の造形芸術を楽しもう。
 そして、落ち葉のきしむ音を聞きながら、歩こう。
 やがて、音の響きは森に吸収され、 “静寂” が訪れる。
 都会の無音は、耳に聞こえない電磁波や振動を身体に感じるが、森の中の無音の空間には “地球の音” が聞こえる」

 地球の音。
 それこそ、大人は聞く耳を失っても、子供には聞ける 「音」 だと、著者は伝えようとしているようだ。

テントキャンプ風景(塔の岩)

 実は、この著者にアポを取り、3日前、実際に会って話を聞く機会を得た。
 長く伸びた夕暮れの陽射しが射し込むカフェで、坂田和人さんは、初対面の私に対し、本に書き切れなかった話を交えながら、2時間にわたって、アウトドア文化についての面白いエピソードを語ってくれた。

 印象に残ったのは、焚き火の話。

 アウトドアを知らない都会の子供たちをキャンプに連れていったとき、彼らがもっとも好奇心を奪われるのは 「焚き火」 なのだという。
 キャンプは、参加者全員が役割分担をこなすことで成立する遊びだが、その役割分担のなかでも、子供たちに最も人気があるのが 「火の番人」 だとか。

焚き火イメージ

《 焚き火というセレモニー 》

 火といえば、自動点火のガスしか知らない現代っ子にとって、火熾しから始まる焚き火行事は、あたかも 「自然」 という冒険の世界に飛び込むセレモニーに見えるらしい。

 火というものを管理する術を覚えたとき、人間は、他の生物の脅威から逃れることできたという安堵感と高揚感をはじめて獲得した。
 それが人間のDNAとして、今も生きている。
 だから、火は、人間にとって最もプリミティブ (原始的) で、力強い、根元的な “文化” なのかもしれない。
 火を前にすれば、人間は、近代文明のややこしいルールをいっとき忘れ、火を最初に獲得したときに人類が味わった素直な喜びを取り戻すことができる。

 「だから、親子で焚き火を囲めば、必ず話が弾むんです。日頃は話せないようなことが話し合える。それが焚き火の効用です」
 と坂田さんは、おだやかな笑顔を浮かべながら、物静かに語る。

 「そこで子供は、火の温かさや、それが人間にもたらす安心感を、身体で理解するわけですね。
 それと同時に、その火というものは、常に人間が繊細な神経をつかって管理しなければ、あっけなく燃え尽きてしまうことも知る。それが、感性を磨くことにつながるんですね」

岩に登る子供たち

《 都会育ちの子供はマイナス思考 》

 そのようにして磨かれた感性を身につけた子供は、やがて、どのような人格を形成していくのだろう。
 自然体験をしている子供と、それを経験していない子供とでは、同じ山の景色、風の流れに接しても、それぞれ違ったものを受け取るという。

 坂田さんは、著書の中でこう語る。
 「都会の子供は、美しい雪山で冷たい風を体験すると、 『ああ寒いな』 というただのマイナス思考で終わってしまう。
 ところが、アウトドアの感性を磨いた子供は、冷たい風を感じたら、 『ああ冬が迫っているな』 とまず思う。
 そして 『寒くなる前にいろいろと冬支度をしなければ…』 とごく自然に考える。
 さらに、その冷たい風の向こうに広がる 『美しい雪山』 を感じることができる。
 それらは、みな自然に親しく接する感覚が身体に刷り込まれているからである。
 無心に咲く花の美しさ、新緑の息吹、冬の清々しさなどを身体で感じとれる感性があれば、芸術や文学への造詣も深まり、人生も豊かになる」

自然の中の雪景色

 それに対し、都会生活しか知らない子供は、感性どころか、フィジカルな能力も劣ってしまう。
 坂田さんが気にするのは、そのことだ。

 「最近の都会の若者を見ると、狭い路地などで機敏に身体をかわしていくこともできない人たちが増えているように感じます。
 たぶん、子供のころから自然の中で思いっきり身体を動かして遊んだ経験に乏しいからでしょう。
 “お金さえ出せば” 、あるいは、 “ボタンを押せば” 、身体を動かさなくても、何でも手に入るといった受動的な生活になじんでしまったことが大いに関係しているように思います」

 その部分を、坂田さんの著書から引用すると、次のようになる。

 「都会の道路はコンクリートやアスファルトで塗り固められ、平坦なところが多いが、キャンプ場や山、川、海といった自然のフィールドはそうではない。
 歩き方一つをとっても、デコボコの土の上の道と舗装された道では大きな変化が出てくる。
 そうした変化の感覚を “自分の身体に刷り込むこと” 、 “自然に対応できるようにすること” が大事。
 こういう経験は、遊園地やゲームセンターでは決してできない」

《 「頂きます」 という言葉の意味 》

 自然の中に入ったときは、食べ物も、できるだけ自然の恵みを採集することが子供の感性を養うことになる。

 次も、著作からの引用。

 「現代の子供たちは、普段、食べている肉や魚、野菜も、 “お金を出せば買える” と思っているから、それらのものが自然の中でどうやって生きているのか、本来どんな形をしているのか知らない。
 だから、食べられる野草を集め、自分で釣った魚を自分でさばいてみる。
 それは新鮮で興奮できるチャレンジであるだけでなく、その過程で、子供たちは食前の合い言葉である “頂きます” の意味、つまりほかの生命を頂いて自分が生きることの本当の意味が理解できるようになる。
 また食材を採集するという行為によって、野菜や肉の “旬” が分かるようになる」

《 親は静かに見守るだけでいい 》

 いちばん肝心なことは、 「自然の中に入ったら、むしろ親は口うるさく子供を指導しないこと」 だという。
 子供たちを自然のなかに放り込めば、放っておいても、子供たちは自然という “先生” から学び始める。

 ところが親は、おせっかいを焼きたがる。
 ケガはしないか?
 危なくないか?

 ほとんどの親は、子供を過剰に監視して、あれこれと禁止事項を設けて子供を縛り付ける。
 「それでは、都市生活をしているのと同じ。自然に連れ出した意味がない」
 と、坂田さんはいう。

 子供たちのストレスの増大、コミュニケーションスキルの劣化、感情表現の乏しさなどの原因の大半は、親の過干渉から来るもの。
 自分たちが安心できる 「子供像」 という “鋳型” に、親が、生きた子供を押し込んでしまうことが要因となっている。

緑の中を走る子供たち

 キャンプというのは、子供たちが本来の能力を試すことのできる絶好の場である。
 火を熾す。
 包丁を使って、食材を切る。
 日頃、家ではできないことを試す “生活の実験室” なのだ。

 ところが、…と坂田さんは書く。

 「家庭で包丁などを持った経験のない子供たちは、危なっかしい手つきでそれをやるので、母親が包丁を取り上げてしまう。
 しかし、人は “危険” を知っているからこそ “危険回避” ができる。
 そういった “経験値” が、子供の感性を豊かにし、危険回避を含めたスキルを向上させる。
 火傷 (やけど) 、切り傷、捻挫など不可抗力な事故で痛みを味わった子供は、むやみにほかの子供を石や鉄拳、ナイフなどで怪我させることを自然と避けるようになる。
 テレビゲームのバーチャルな格闘しか知らないと、現実の痛みを知ることはできない」 (著書より)

 「だから、親が子供に危険なことをやらせるとき、それが子供だけで回避できそうか、それとも親が助けを出す必要があるかを予測する能力が親には必要だ」
 と、坂田さんは説く。

 子供の問題は、まず親の問題なのだ。
 そして、それは今の社会環境の問題でもある。
 
 「親が、子供の本当の姿を見失ってしまったのは、少子化社会の進行で、兄弟の数が減ったことなどにより、個室を与えられる子供が増えたことも関係している。
 そういう状態では、子供の本当の姿が見えないから、親の “見守る能力” がどんどん落ちていく」 (著書より)

《 文明のスピードが人間のリズムを超えた 》

 親の見守る能力が欠如してしまったのは、さらに大きな視野からいえば、親自体が 「人間が生きる力として何が必要なのか?」 というテーマを見失ってしまったことの証左でもある。

 どうしてそのような事態が起こってしまったかということに対し、坂田さんは、文明のスピードが人間の自然なリズムを超えてしまったところに原因を求める。

 「現代社会の技術は日進月歩で、どんどん新しい商品が市場に登場しては消えていく。
 交通機関や通信機器の急速な発達で、世界は狭くなり、インターネットや携帯電話を持っていれば、24時間、どこにいてもリアルタイムの情報を得ることができる。
 そのスピードの速さは、人間が本来持っている “生理” のスピードを超えている」 (著書より)

 そのため、人間は 「生き延びる力として何が必要か」 という知恵を磨く時間を持てなくなってしまった、と坂田さんは語る。

 アウトドアの世界に飛び込むことは、その “人間の生理のリズム” を取り戻すことにほかならない。

 そのリズムとは何か?

 坂田さんは、それを 「地球の鼓動」 だという。
 そして、そこに流れる時間を 「地球時間」 だという。
 アウトドアの真髄は、 「地球時間」 を取り戻すこと。

 都会生活の中で、自分が何を忘れていたのかを考えさせてくれた著者との2時間であった。

jrvaキャンプラリーイメージ

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 20:28 | コメント(4)| トラックバック(0)

おれ、ねこ

 最近、ちょいと偶然テレビで聞いたんだけど、 『おれ、ねこ』 という歌に、ものすごくハマっている。
 ここ1週間ほど、無意識に鼻歌が出るときは、必ず 「おれ、ねこ」 と口ずさんでいる。
 「あ、また歌っちゃった…」 と途中から気づくのだけれど、歌っている瞬間、まさに自分がネコになっている。
 あれ、すごい歌だ。

 どういう歌かというと、NHK教育テレビ (Eテレ) の朝6時55分から始まる番組 『0655』 の 「ねこのうた、犬のうた」 のなかで放映される歌らしい。 (それをたまたま深夜の時間帯で見たわけ)。

 歌は毎回同じなのだけど、画像がそのつど変わる。
 視聴者が自分の飼っているネコの画像をテレビ局に送ると、テレビ局の方で、歌のストーリーに合わせて投稿者のオリジナル画像を編集し、歌の流れとマッチングするように構成してくれるからだ。
 だから、毎回違ったネコが登場するし、そのネコが住む家の環境もさまざま。歌が同じでも飽きられないのは、そこに理由がありそうだ。 

 歌詞は、…ンチャンチャという2拍子のリズムにのって、次のように始まる。
 「おれ、ねこ、おれ、ねこ…」
 このとき、投稿者の愛猫の最もチャーミングな表情がアップされる。

おれ、ねこ

 次は、
 「ここ、おれのうち、ここおれのうち」
 …の繰り返しなんだけど、最初の 「おれのうち」 は、飼い主の家の家屋。
 次の 「おれのうち」 は、そのネコに与えられた専用スペース (段ボール箱が多い)。

 続いて、
 「これ、いつものご飯、これスペシャルご飯」
 と、食事が紹介される。
 「いつものご飯」 は、簡素なペットフード (まれに芋虫とか) 。
 「スペシャルご飯」 は、お刺身とか、フライドチキンとか。

 その先は、
 「それ、大好きおもちゃ、それ落ちつく寝床」
 おもちゃの画像は千差万別。
 ネズミのぬいぐるみだったり、柄の付いたブラシだったり。
 寝床の方は、ペット用ベッドだったり、飼い主のひざだったり。

 そこから先が面白いのだけれど、
 「おれ、ねこ、こいつうちのヤツ」
 …という歌詞になり、そこではじめて、飼い主の画像が登場する。 (飼い主は大人から、子供から、おバアちゃんまでさまざま) 。

 で、このネコは、 「こいつ、うちのヤツ」 などと、ぞんざいな言葉を使うのだけれど、ネコはネコなりに飼い主に対して愛情を持っているようなのだ。
 それは次のような歌詞で分かる。

   「こいつ、ご飯くれる、こいつ遊んでくれる。
  おれ、ネコだから、こいつの言葉わからない。
  おれ、ネコだけど、なぜか、こいつの気持ちよくわかる」


 無愛想なネコになればなるほど、逆に、この歌詞が生きているところが、この歌のミソ。
 ネコは、犬よりも人に対して無愛想な動物だから、この歌詞のところでグッと涙を流す飼い主も、きっと多いのだろう。

 この歌をYOU TUBEで探しているとき、ふと開いたサイトで、次のような言葉を見つけた。

 犬は、飼い主に対して、次のように思う。
 「この人は、私が何もしないのに、いつもエサをくれる。だから、この人は神様に違いない」

 それに対して、ネコは次のように思うそうだ。
 「この人は、私が何もしないのに、いつもエサをくれる。だから、私は神様に違いない」

 有名な人の言葉なのか、そのサイトを管理している人の言葉なのか詳しく調べなかったけれど、唸ってしまった。
 名言だと思う。 


 ※ 「おれ、ねこ」 の動画は、かつてYOU TUBEにいっぱい掲載されていたけれど、著作権の絡みで、今はどんどん削除されているみたいだ。それでも、 「おれ、ねこ」 の構成をコピーしたような個人制作のものは見られるようだ。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:19 | コメント(2)| トラックバック(0)

NHK車中泊報道

 昨晩 (11月8日) 、NHKラジオ第一放送の 『NHKジャーナル』 (22:00~23:00) を聴いていたら、一連のニュース解説のなかで 「車中泊とキャンピングカー」 をテーマにした報道が流されていた。
 テープに収録してみたので、それをここに紹介してみたい。

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【男性キャスター】 ……続いてリポートです。最近人気が高まっている 「クルマに寝泊りしながら旅行する車中泊」 についてのリポートなんです。
 高速道路の値下げや、クルマでの旅行を楽しむ団塊の世代の増加で、この車中泊、最近人気が高まっているということなんですね。
【女性キャスター】 しかし、その一方で、問題も起きています。取材に当たったラジオセンターの和田哲 (さとる) ディレクターです。

【男性キャスター】 和田さん、この 「車中泊」 という言葉、最近よく聞くようになりましたね。

【和田ディレクター】 はい。 「車の中に泊まる」 と書いて、文字通り、ホテルなどの宿泊施設に泊まらずに、キャンピングカーやワンボックスカーの中で寝泊りしながら各地を旅行する新しい旅行のスタイルなんです。

 ま、宿泊代を安く抑えられて、時間に縛られず、各地の名所旧跡をめぐったり、地元のおいしい料理を存分に味わったり…ということで、いま人気が高まっているんですね。
 特に高速道路料金の値下げや、夫婦二人で旅行を楽しむ団塊世代が増えたりということがその人気を後押ししているといわれています。

 ところが、その一方で、各地の 「道の駅」 などで、その使い方の悪さが問題になってきているんです。
 東北地方の 「道の駅」 を調査している 『東北 道の駅 車中泊研究会』 の安藤美樹さんに聞きました。

▼ 車中泊で朝を迎えるクルマたち
車中泊壇ノ浦PA

………………………………………………………………………………………………

【安藤美樹】 いくつかの 「道の駅」 から挙げられた指摘なんですけれども、一番多いのは、やはりゴミの問題ですね。
 あとは駐車場で、たとえばバーナーとか、そういう火気をクルマから駐車場に持ち出して、火を使ったりとか。
 あるいは、トイレの洗面所で洗濯をしたり、調理をしたり…などということが (問題点として) 挙げられています。

▼ 公共駐車場でのゴミ問題は昔から管理者の頭痛のタネ
SAの注意書き

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【和田ディレクター】 そのほかにひどい例としてはですね、自動販売機の電源を勝手に使ったりという例もあるんです。
【男性キャスター】 はぁ! まるでオートキャンプ場…のような使い方をパーキングエリアのようなところでしているということなんですね?

【和田ディレクター】 そういうことなんですね。設備の整っているオートキャンプ場の場合は、 (その設備を) 有料で使うわけなんですけれど、あたかも “無料のキャンプ場” として 「道の駅」 の設備を使っているということが問題なんです。

 ただ、この車中泊、どれくらいのクルマが、どういうふうに使っているのか、その詳しい実態が調査されていません。

 そこで、先の研究会では、国土交通省に提案して、先月、山形県と福島県のふたつの 「道の駅」 で、二十日間ほどかけて車中泊に関してのアンケート調査と実験を行いました。

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【女性・調査員の声】 …すいません、いま 「道の駅」 のアンケート調査をしているんですが、 「車中泊」 という言葉は聞いたことがありますか?
【女性の声】 ええ、ありますね……

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【和田ディレクター】 まずアンケートでは、車中泊の目的、そして予算、また 「なぜ道の駅を利用するのか?」 、そのほかにも 「道の駅の洗面所で炊事や食器洗いをすることや、駐車場でバーナーを使うことなどに対して、どう思うか?」 …などについての意識調査も行いました。

 そして、さらに実験期間に限って、車中泊専用の駐車スペースを設けたり、炊事のための洗い場や洗濯機を設置したり、旅行するドライバーのゴミを有料で引き取るなどのサービスを行ってドライバーの反応も調査したんです。

【男性キャスター】 なるほど。
【和田ディレクター】 まだ集計はまとまっていませんけれど、現場で聞き取りした範囲では、特にゴミの有料引き取りについては、ドライバーに好意的に受け入れられていたようです。
 研究会では3月までに調査の結果をまとめて、新たな 「道の駅」 の利用など、今後に向けた指針づくりを提案していきたいとしています。
 再び、 「東北 道の駅研究会」 の安藤さんの話です。

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【安藤美樹】 車中泊の方々がこれからも増えていくことは、おそらく間違いないだろうと思いますので、じゃ、どういった対応ができるのかということを考えたいと思いまして、今回の実験を実施してみたというところです。
 あくまで、みんなで気持ちよく、安心に使っていただくためのルールという形で考えたいと思っています。

………………………………………………………………………………………………

【和田ディレクター】 こうした 「道の駅」 でのマナー違反については、キャンピングカーなどを製造販売している業界団体でも問題視していて、対策を講じようとしています。
 日本RV協会会長の福島雅邦 (まさくに) さんの話です。

………………………………………………………………………………………………

【RV協会 福島会長】 いわゆる 「車中泊」 というクルマの使い方をされる方が増えてきたのを機に、 「道の駅」 などにおけるゴミの不当投棄の問題とか、マナーの問題など、いろいろなトラブルが発生していることを協会でも調査してきました。
 そこで、RV協会としては、車中泊利用時の 「マナーハンドブック」 などを発行して、公共の駐車場を使用するにあたっての注意事項ですね。…宿泊施設として認可された場所じゃないわけですから、 「あくまでも仮眠にとどめて」 とかですね、 「車中泊10ヶ条」 みたいなものをつくって、キャンピングカーを買われたお客様に注意・啓蒙を図ってきたんですね。

▼ 日本RV協会発行 「マナーハンドブック」
マナーハンドブック

……………………………………………………………………………………………

【和田ディレクター】 その 「マナーハンドブック」 ですが、B4サイズの両面刷りのパンフレットで、 「公共駐車場を使う場合のマナー10ヶ条」 として、 「イスやテーブルを持ち出して、キャンプ場代わりには使わない」 、 「近所に民家があるような場合は、夜、発電機などを使わない」 など、当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、そうした注意事項をキャンピングカーを購入した人に配布して、マナーの徹底を図っているということなんです。

 特に今年に入って、大手の自動車メーカーもですね、主に団塊の世代を対象に軽自動車でのキャンピングカーを相次いで販売するなど、車中泊の人気というのは今後も高まっていくと考えられています。
 しかし、それが新しいレジャーとして定着していくためには、今後、利用者やドライバーのマナーの向上に加えて、道の駅など、公共の駐車場を利用する際の一定のルールづくりが求められていくのではないかと、取材していて思いました。

【女性キャスター】 はい。ラジオセンターの和田悟ディレクターでした。
(音楽)
【男性キャスター】 では、ニュースを続けます……

 という感じの放送だった。

 1~2年前から 「車中泊」 はテレビ・新聞などの格好のネタになっていたが、その大半は、 「最近のブームを紹介する」 というトピックス的なものばかりだった。
 しかし、今回の報道ニュースは、ブームの分析のほか、そこで生じている問題点に触れるなど、少しジャーナリスティックな面を広げているように思う。

 この放送は、お台場の 「くるま旅パラダイス」 における取材も含めて構成されたものだという。
 その当日、私もまた “新しいクルマの旅を進める” ために結成された 「カー旅機構」 さんのスタッフと自動車旅行について語り合う機会をもった。

 日本の自動車産業が一時の勢いを失うとともに、 「自動車旅行」 という言葉も廃れたような印象を受けていたが、日本における本当の 「自動車旅行」 というのは、実はいま始まったばかりなのかもしれない。

 「問題が見えてきた」 ということ自体が、何よりも新しいムーブメントが立ち上がったときの特徴なのだから。


NEWS | 投稿者 町田編集長 17:17 | コメント(2)| トラックバック(0)

お台場パラダイス

 この土日は、東京お台場で開かれたキャンピングカーショー 「お台場くるま旅パラダイス」 をずっと見て回った。

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 2日とも好天に恵まれ、屋外イベントとしては素晴らしいショーになった。
 風もなく、穏やかな天候だったせいか、お客さんもどことなくピクニック気分。
 ペットを連れて、散策気分で場内を歩くご夫婦。
 デート感覚で、手をつないでクルマを見て回る若いカップル。
 そして、遊具コーナーで遊園地気分ではしゃぐ子供たち。

 かつてのショーは “クルマの即売会” という雰囲気が濃厚だったが、最近のショーは、どのかなアミューズメント施設のような空気が漂ってきているように思う。

 そのような時代の流れを汲むように、出展業者さんの方も、ショーそのものを楽しむという傾向が出てきたように思う。

 ▼ エアストリームジャパンのブースでは、田中社長 (右) がサイドメンのサポートを受けながら、ジャズギターを披露
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 ▼ トランキルグローブのブースでは、松原社長を中心に、ユーザーたちがゆったりとテーブルに座ってコーヒーブレイク
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▼ ワンちゃんもリラックス
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 ▼ キャンピングカーセミナーで 「初心者のためのクルマ選び」 を語る評論家の渡部竜生氏
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 ▼ キャンプコーナーでは、土曜から泊まりでショーを楽しむ人たちがつめかけ、個々のサイトでパーティ
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 ▼ ちょっと記念撮影を
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 今回のショー会場では、日頃会えなかった友人・知人と会う機会に恵まれた。

 また、新しい業務を始めようとしている人々に出会えたり、いろいろなキャンピングカーライフを体験しているユーザーさんたちを紹介されたり、さらに、マスコミの取材に立ち会ったりと、刺激の多い時間を過ごすことができた。
 いろいろ貴重な情報やら新しい考え方などに触れることが多く、収穫の多いショーだった。


campingcar | 投稿者 町田編集長 20:34 | コメント(0)| トラックバック(0)

伝える力

 “解りやすく語る解説者” ということで、池上彰さんが大ブレークである。
 政治のみならず、経済、宗教、歴史など、どんな分野においても、池上さんが時事解説を行うと、
 「あ、そういうことだったのかぁ…」
 と、誰もが腑に落ちてしまう。

 今や、カリスマ時事解説者ともいえる池上さんが、その解説の極意を伝授してくれるのが、この 『伝える力』 (PHPビジネス新書) だ。

池上彰氏「伝える力」表紙

 初刷りは3年ぐらい前だが、2010年の10月には68刷りという驚異のロングセラーを続けている本だ。

 では、どんなことが書かれているのか。

 ちょっと拍子抜けするほどオーソドックスな…というか、 「正攻法」 というべきか、プロの表現者が、読者・視聴者にモノを伝えるときの基本中の基本が書かれているにすぎなかった。
 そういった意味では、新鮮な発見は何もなかった。

 しかし、よく考えてみると、人にモノを伝えるスキルを身につける方法に、 「裏ワザ」 も 「新発見」 もありはしないのだ。

 「伝える力」 を身につけるためには、結局、地道な 「日々の勉強」 、 「日々の努力」 、 「日々の研鑽」 …それを積み重ねるしかない。この本は、そういうきわめて当たり前のことを伝えようとしている。

 一例をあげてみよう。
 たとえば、 「良き文章を書くコツ」。

 「私はNHKの記者時代、ニュース原稿を数え切れないほど書きました。しかし、経験がなかったため、何をどう書いたらよいのか、さっぱりわかりませんでした。そこで、私がとった行動は、先輩記者が書いた原稿を書き写すことでした」

 …と、池上さんはいう。
 仕事が終わった深夜、会社に残った書いたりしたらしい。しかも、パソコン、ワープロがない時代だったので、いちいち原稿用紙に手書きで…。

 好きな作家の文章を一字一句書き写すというのは、昔から作家志望の若者たちがやっていたことだが、ニュース解説者までそれをやっていたとは…。

 文章というのは、書き写すと、やはり読んだときには気づかなかった部分が “見えてくる” という。
 多くの人の文章を書き写していると、そのうち自然に 「説得力の有無、論理展開の優劣、文章のリズムの良し悪し」 などが分かってくるというのだ。

 なるほど!

 ……と、うなづくしかない話ではあるが、そう言われたからといって、他人の書いた文章を一字一句書き写そうとする人は、よほどの文章マニアでない限り、実際にはなかなかいない。
 しかし、 “この著者は実際にそれをやってきた人である” という重みが、論旨に独特の説得力を与えている。

 池上さんがこの本でしきりに強調しているのは、
 「深く理解していないと、分かりやすく説明できない」
 ということ。

 「そのことに関して、まったく知識のない人に理解してもらうためには、自分でも正確に理解していないと、とても無理。うろ覚えや、不正確な知識、浅い理解では、相手が分かるはずもない」
 と池上さんは語る。

 彼がそのようなことを肌で感じるようになったのは、NHKの 『週刊こどもニュース』 のキャスターを11年務めてからだった。
 この番組は、大人向けのニュースを子供に対して分かりやすく解説するというものだったが、池上さんがそこから学んだものは大きかったという。

 まず、大人には通じる “常識” が、知識や社会経験に乏しい子供には通じない。
 だから、政治や経済のことを解説するときも、 「大人が日常的に使う言葉は、子供には使えない」 というところからスタートしなければならなかった。

 そのことが、逆に、池上さんに言葉の意味を正確に把握するという訓練を施し、物事を正確に把握する習慣を身につけさせたらしい。

 難しい言葉を使って人に語ったり、文章を書いたりすれば、 「何か立派なことを説明した」 と人間は錯覚しがちだが、これは池上さんに言わせると “愚の骨頂” 。
 難しいことを、簡単に分かりやすく説明することこそ、実は難しいのであって、それこそ高度な能力が必要とされる、というわけだ。

 知ってた?
 知っているよね!
 こういう話は、たいてい一度や二度は、誰かから聞いたことのある話だ。

 しかし、池上さんの本には、その “誰もが知っている” はずのことが、実際にやってみると、 “けっこう難しい” …という例が、豊富な体験を通じて克明にレポートされている。

 この豊富な具体例が、この本の真骨頂かもしれない。

 「学問に王道なし」 とはいうが、 「伝える力を身につけることにも王道なし」 なのだ。
 そのことを、この本は愚直に訴える。

 著者は、 “オリジナリティあふれる知性” を振り回して得々としている (いわゆる) 「文化人」 ではない。
 「伝える力」 だけをコツコツと磨いてきた職人である。
 決して、大向こうを唸らせるような知的パフォーマンスを持った人ではないが、代わりに、職人の “凄み” を持っている。

 装丁やキャッチは、安直なノウハウを満載した 「ハウツー本」 というイメージが漂うが、中身はコミュニケーションの本質論に迫る生真面目な本である。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:12 | コメント(0)| トラックバック(0)

お台場ショー迫る

お台場パラダイス2010イラスト

 キャンピングカーショーとしては、今年最後のビッグイベントといわれる 「東京お台場くるま旅パラダイス2010」 が、いよいよこの6日 (土) 、7日 (日) の両日にわたって開かれる。

▼ 昨年の会場風景
お台場パラダイス2009会場風景

 最近は、大きなショーともなると、屋内展示場で開かれるケースが増えてきたが、このショーは昔から屋外ショーとして有名。
 雨が降ると、車両見学も厳しくなるが、反対に、晴れた場合の解放感は抜群。
 晴天に恵まれると、つくづく 「キャンピングカーはアウトドアで見たときの方がよく分かる」 ということを実感できる。

 幸いなことに、週間天気予報では、土曜日は 「晴れときどき曇り」 、日曜日は 「曇り」 と伝えているので、雨の心配はなさそう。
 
 このショーの特徴は、ショーを見学しながら、 (くるま旅クラブ会員限定となるが) 土曜日にはキャンプも楽しめること。
 すでにキャンプの受け付けは終わっているが、ショー会場を回っていると、ペットを連れたりしながら、気楽にキャンプ気分で会場を散策する人たちの姿が多く見られ、そこが普通のキャンピングカーイベントとは違った風情をかもし出す秘密になっている。

 キャンピングカーをまだ持っていない人は、キャンプスペースを見学するだけで、ユーザーたちがどのようなキャンプスタイルを楽しんでいるかをつぶさに見ることができる。

 また、キャンピングカー評論家の渡部竜生氏による 「初心者のためのキャンピングカーセミナー」 、アウトドア料理の達人 “ゲンさん” による 「アウトドア料理教室」 、ドッグトレーナーの玉井響子さんによるトークショーなど、楽しいステージイベントも盛りだくさん。

 ほかに、大道芸人のマジックショー、ミュージックイベント、ジャンケン大会なども予定されており、大人も子供も一緒になって遊べる企画がたくさん用意されている。

 詳しくは、HP (↓) を。
 http://www.kurumatabi-paradise.com/

 参加車両の緻密な概要からイベントの詳細まで網羅された素晴らしいHPである。


 
NEWS | 投稿者 町田編集長 02:02 | コメント(0)| トラックバック(0)

昔は戻らない

 テレビのニュースやワイドショーを見ていると、不思議な気分になってくる。
 毎日、 「政治」 や 「経済」 が語られている。
 「外交」 や 「教育」 も語られている。
 それも、実際の政治家、一流の学者、各分野のスペシャリストたちが自分たちの実務経験や研究成果の駆使して、討論しあっている。

 しかし、不思議だ。
 これほど優秀な人たちが熱心にアイデアを出し合い、議論を尽くしながら、なぜ “問題” はいっこうに解決しないのだろう?

 特に、問題が山積しているように思えるのは、経済の分野。
 不況、円高、地方経済の低迷、雇用や賃金体系の格差の拡大…。

 政府や自治体、大企業、中小企業、あるいは国民一人一人が抱える問題点が次々とあぶり出されてくるが、それがひとつも解決しないうちに、もう次の問題が洪水のような勢いで押し寄せてくる。

 メディアは、それを政治解決に求めるから、景気が回復しないかぎり、政治家たちはみな 「無能」 のレッテルを貼られ、国民の怨嗟 (えんさ) と嘲笑の対象となる。
 恐れをなした政治家たちは、ますます表面的な人気取りに走り、生き延びるために、徒党を組んでは集合離散を繰り返すばかり。
 特に選挙前となると、与党も野党も、少しでも票が取れそうな党首を担ぎ出すことしか頭になく、政策なんか二の次、三の次。

 「いやぁ、もう “末期的症状” ですなぁ!」

 われわれがそう思う以前に、問題解決のヒントを示さなけれならないはずのメディアの “先生たち” が、もうそうつぶやいてはばからないのだ。
 こりゃ、ほんとに末期的だ。

 しかし、よく考えてみると、 「末期」 とは、何に対する 「末期」 なのか。

 私たちが、今の状況を 「悲惨」 と感じてしまうのは、何と比較するから 「悲惨」 なのか。

 たぶん、ここらあたりに、現在いろいろな問題が山積みになりながらいっこうに解決しないことを考えるヒントが、隠されているような気がする。

 いうまでもなく、今を 「末期」 と考えたり、 「悲惨」 と感じたりするとき、その対極にあるものとして想起されるのは、日本経済が順調な発展を遂げた 「高度成長」 の時代である。

街の風景(青山)

 多くの政治家や企業家が、 「元気な日本を取り戻そう」 と訴えるとき、その 「元気な日本」 のイメージは、高度成長期の日本がモデルになっている。
 そして、それは、 「優秀な労働力を育て、技術開発に励み、生産力を高めてきた日本企業の努力のたまもの」 という神話に裏打ちされている。

 このように、時代のキーワードとして 「復活」 とか 「再生」 のような言葉が多用されるのは、たぶん、政治家も、経済学者も、企業経営者も、あの “輝かしい時代” の記憶に今の状況を照らし合わせているからだろう。

 だけど、 「復活」 なんてありえない。
 …んなものが復活しても意味がないし、復活するはずもない。

 「復活」 ではなく、結局、新たな 「創造」 しかない。

 実は、最近、 「復活や再生に意義を認める思考は、時代の状況を見誤ってしまう」 と言い出す人たちが増えている。
 つまり、 「高度成長」 は、いろいろとラッキーな条件が偶然に重なったものに過ぎず、その条件がひとつずつ失われてしまえば、ごく 「普通」 の状態に戻るのが当たり前…だというのだ。

 要は、今の “末期的” で “悲惨” な現状こそが、実は 「正常」 な状態であり、高度成長は、たまたま手に入れた 「競馬の万馬券」 だったのだ。

 たとえば、そういうことを訴えた本として、大来洋一さんの 『戦後日本経済論』 という本があるらしい。

 これから述べることは、あるブログに書かれたものから抜粋する “伝聞の伝聞” に過ぎないので、正確に伝えられるかどうか自信もないのだが、 (その本によると) 日本が 「高度成長」 を成し遂げた理由はいくつかあって (……難しいことは分からないので、理解できたところだけを紹介すると、そのひとつとして) 、1950年代から70年代にかけて、農村から都市への人口移動が激しくなったことが挙げられる、そうだ。

 これが 「集団就職」 などといわれる団塊の世代の人口移動だ。
 彼らは、労働力として都市に投入されるだけでなく、今度は旺盛な消費意欲で内需を拡大し続けた。
 このように、日本の奇跡的な 「高度成長」 がスタートを切れたのは、欧米で開発された先端技術を、低賃金の労働力によって運営することができたからだという。

 しかし、それだって、戦後の焼け野原から出発したために、否が応でも新プラントを導入せざるを得なかったことと、たまたま起こった人口拡大が組み合わされた結果によって実現されたものにすぎない。

 その結果生じた 「終身雇用制」 や 「年功序列」 などという日本的産業構造が日本に繁栄をもたらしたという見方は根強いが、それらも、自然発生的に構造化された制度が、幸運にも、時代の潮流に乗っただけ…と見ることもできる。

 このように、高度成長のメカニズムは、ラッキーな条件がいくつも重なりあって作動したにもかかわらず、あたかも 「日本人の優秀性」 に還元させた神話がつくりあげられてしまったがゆえに、逆に今の日本人を縛りあげている。

 まぁ、そんなような見方をする人たちも出てきたようだ。

 ことの真偽を検証する力は自分にはないが、そう考えると、少しだけ鬱陶しさが晴れる気がする。

街の夜景(大阪)

 いずれにせよ、 “右肩上がり” の高度成長を生きた人々の成功体験は、もはや時代をけん引する 「元気の素」 にはならない。
 今の状態を 「普通」 と捉えるところから、次の時代が動き出す。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:11 | コメント(2)| トラックバック(0)

電子タバコ

 電子タバコというものを買ってみた。
 要するに、タバコの形をしたおもちゃ。

電子タバコ1

 私自身はタバコを吸うが、最近はタバコを吸わない人が増えたので、そういう人たちと接するとき、相手に迷惑をかけてはいけないという気持ちが購入動機になっている。

 試してみると、形はタバコそのものだし、吸うと先っぽに火 (ライト) がともるし、吸い口からは煙 (ミスト = 水蒸気?) が出る。
 だから、ヴィジュアルとしては煙草を吸っているのと変わらないけれど、味は別物。
 甘ったるい香水を吸っているような味と香り (ジュースと表現する人もいる) なので、リアルタバコに慣れた人は、かえって 「気持ち悪い!」 というかもしれない。

 したがって、 「禁煙・節煙グッズ」 という意味では、 “口さびしい” ときに、唇に何かくわえてまぎらわすという以上の効果は生まれないだろう。

 それでも、飲み屋なんかで、タバコを吸わない人と話すときは、重宝する。
 酒を飲みだすと、喫煙者は、ついついタバコの本数が増え、タバコを吸わないと話が弾まないような気分になってくる。

 そんなとき、電子タバコをくわえていると、とりあえず禁断症状が収まり、タバコを嫌がる相手に対しても迷惑をかけない。

 そういうことを繰り返しているうちに、確かにリアルタバコの本数が減った。

 「ちょっと吸いたいな」
 という気分が頭をもたげたとき、とりあえず電子タバコを口にくわえ、ミストの“煙”を吐き出してみると、それで気分がまぎれる。
 それを続けていると、10本吸っていたところを3本に減らし、3本吸っていったところを1本に減らせるようになってくる。

 そのうちゼロになるだろう。

電子タバコ2
 ▲ 構造的には、本体があって、ジョイントプラグがあって、カートリッジがあったりして、ちょいと複雑

 自分の健康を考えて禁煙するというつもりはあんまりないのだが、これ以上吸わない人たちに迷惑をかけてはいけない、という気持ちはある。

 ただ、ネット上の 「禁煙・喫煙論争」 などを見ていると、 「禁煙」 を訴える人々のなかには、ときどき感情をむき出しにして、喫煙者を中世の魔女裁判の口調で弾劾する人たちがいる。
 「悪魔たちは火刑にしろ!」
 といわんばかりに。

 私は吸う人間だから、タバコを吸わないことが 「世の中の正義」 だとは思わない。

 しかし、タバコの匂いを生理的に不快に感じる人の気持ちは尊重しなければならないし、そういう人を害する権利は喫煙者にはないように思う。

 で、今も電子タバコを口にくわえて、これを書いているのだけれど、もう少し軽くならないものか。
 くわえたままキーボードを打っていると、唇が疲れてきて、困ってしまう。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 00:04 | コメント(3)| トラックバック(0)
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