町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

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町田 03/23 00:46
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ムーンライト 03/22 14:24
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ムーンライト 03/22 12:24
>ブタイチさん、よう…
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ブタイチ 03/21 22:54
>鈴木様、ようこそ。…
町田 03/19 23:12
>ムーンライトさん、…
町田 03/19 22:35
今日、店からはじめて…
デルタリンク宮城 03/19 19:40
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ムーンライト 03/19 11:45
>ゆんたさん、ようこ…
町田 03/19 09:11
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ゆんた 03/19 07:50
>鈴木 様本当に…
町田 03/18 00:00
町田さん、ご心配あり…
デルタリンク宮城 03/17 20:52
>鈴木様コメント…
町田 03/17 16:04
>TOMYさん、よう…
町田 03/17 14:39
町田さんこんにちは。…
デルタリンク宮城 鈴木 03/17 11:32
こんばんは、町田さん…
TOMY 03/16 20:23
世界中に5億人を超え…
フェイスブック 03/15 11:30
>s-_-s さん、…
町田 03/14 00:28
町田さんご無事で何よ…
s-_-s 03/13 22:55
>ムーンライトさん、…
町田 03/12 17:43
町田さん。ご無事でし…
ムーンライト 03/12 16:25
>YAMAさん、よう…
町田 03/12 13:33
シンプルな風景画、い…
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町田 03/08 19:22
いいですね、北斗。久…
スパンキー 03/07 13:52
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町田 03/03 22:45
町田さん、今日は。…
マッキー旅人 03/03 16:23
>ムーンライトさん、…
町田 02/28 22:42
町田さん。アマゾ…
ムーンライト 02/24 10:29
>渡部竜生さん、よう…
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町田 02/19 05:03
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町田の時事解説

【司会】 今日は、最近の話題のニュースを、このブログの主宰者である町田さんに解説してもらいます。
 まず、尖閣諸島をめぐる日本と中国の関係について、どう思われますか? 現政権の “弱腰外交” がかなりメディアから叩かれていますが…。

時事解説

【町田】 難しい問題ですね、これは。
 そもそも尖閣諸島の位置が微妙だったんですね。
 これが瀬戸内海にあったのなら何も問題ないんです。中国漁船なんか入って来れないんですから。東京湾でも同じですね。
【司会】 あの…、そういう問題ではなくて、島の位置というよりも、やはり外交問題としてとらえた方がいいと思うんですが。
【町田】 そうですね。だいたい日本人が古来より好んでいたゲームは、碁や将棋でしょ。中国ではマージャンですからね。
【司会】 ???
【町田】 どうしても日本人は 「外交」 というと、碁とか将棋のような1対1の関係で捉えますが、 「外交」 というのは当事国同士の関係では捉えられないもんでね。
 今回の場合も、中国はマージャン卓を囲むように、アメリカと日本、さらにアセアン諸国との絡みで領土問題を考えているんですね。

【司会】 なるほど、なるほど。で、それで?
【町田】 要するに、マージャンの国である中国はちょっとリーチをかけてみて、日本の手の進行状況を探ろうとしたわけですね。
 日本人は単純だから、 「リーチ」 というと、相手がテンパイしていると信じ込んでしまいますよね。
 しかし、ひょっとしたら、相手は空テンパイかもしれない。つまり最初から当たり牌 (ハイ) なんてないかもしれないんですよ。
 それを日本は見抜けなくて、ベタベタの安全パイを繰り出して降りてしまった。

 でもね、今回のリーチは、捨て牌に迷彩をほどこして引っかけるというようなものじゃなくて、タンヤオ・ピンフ系のわりと単純なリャンメン受けだと思うんですね。
 しかし、 「もしかしたら三色とか、あるいは一気通貫までありそうだ」 と思わせる、そういう捨て牌で、手の内を示唆しているわけ。

 これに対しては、日本はどうすればいいかというと、相手がメンタンピンなら、こっちはチートイだぞと。だけど頭にドラが二つあるぞ…ぐらいなね、そういう駆け引きが大事なんですよ。
 ね、チートイだって、表ドラに裏ドラが乗ったら大きいですよ。
 僕がこの前やったマージャンはね、大ラスで、ドラ二つのチートイで、だけどね、上がったら裏ドラがついて、地獄待ちだったの。それを積もったの。

【司会】 ええ、この問題はこんなところで…。
【町田】 そもそもマージャンはね…
【司会】 あ、もういいです。

【司会】 ところで、北朝鮮の後継者問題ですが、キム・ジョンイル主席の三男であるキム・ジョンウン氏がいきなり 「大将」 の称号を得て、どうやら実質的な後継者としてのポジションを確保したようですが。
【町田】 「大将」 って何です?
【司会】 まぁ、軍の指導層の上でも最上級に分類される称号ですね。なにしろ、朝鮮人民軍の総兵力は110万人とされており、そのうちで 「大将」 はたった26人ですからね。これはやはり 「大抜擢」 という言葉が使えそうですが。

【町田】 でも日本では、どんな町の居酒屋でも必ず一人は 「大将」 がいますけどね。
 「お、大将! 今日は早いね。会社お休み?」
 とかね。
 床屋なんかにもいますよ。
 「いょー大将! 今日は刈り上げでいきます?」
 とか…。
 そうなると、 「大将」 と一言でいっても、けっこう分類が難しいわけ。だから 「居酒屋大将」 、 「床屋大将」 、 「レコード大将」 って風にセグメントを厳密にしていかないと…
【司会】 最後のは 「大賞」 ですけどね。 え…と。次の話題に行きましょう。

【司会】 ところで、静岡県に出没している “かみつきザル” ですが、いまだに捕獲作戦が空回りしているみたいですね。相手は一匹なのに、すでに人間側の被害者は100人に達しました。
 これはどうご覧になりますか?
【町田】 もしかしたら、一匹じゃないのかもしれませんね。
 つまりね、影武者がいて、相互に連絡を取り合って、神出鬼没の感じに見せていると。
【司会】 どうやって連絡を取り合うんです?
【町田】 おそらくね、木の枝に傷つけ合ったりして、 「いま捕捉隊がそっちへ行ったぞ」 とか。
【司会】 んな、バカな…。

【町田】 いやいや、これはサル軍団が組織的に行っている大規模なゲリラ行動なんですよ。
 つまり背後には、緊密な連絡を取り合う “サル組織” があるんです。
 だから一匹が狼藉 (ろうぜき) を働いているようでいて、実はその一匹は、高度な訓練を受けた特殊部隊の出身でね。その背後の中枢部では、ボスが命令を出しているんですよ。

【司会】 じゃ、どうすればいいんですか?
【町田】 だから、人間側も代表を出して、交渉のテーブルを設けるしかないんです。
 「どこそこの畑までなら進出を許すが、そこから先はダメ」 だとか。
 日本も、サルとのパイプを持てる政治家を育成しなければならない時代になったわけです。
【司会】 …………

【司会】 放送時間はかなり残っていますが、今日はこれで終わりにします。
【町田】 ちょっと、あの…
【司会】 終わりです。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 13:58 | コメント(4)| トラックバック(0)

車中泊研究会

 道の駅での 「車中泊」 について、いろいろな角度から真摯に研究しようという動きが活発になっている。
 そのひとつとして、 「東北 『道の駅』 車中泊研究会」 という会が発足し、この10月より、東北の道の駅における車中泊利用などの実態およびニーズを調査することになった。

 この会は、近年 「道の駅」 で増加している車中泊利用の長時間駐車やマナー違反などによるトラブルを防ぐため、利用者それぞれの実態とニーズ課題を把握し、提言として取りまとめるために発足したもの。
 その目的は、 「車中泊利用者のニーズ」 と 「道の駅としてできるサービス」 との融合を図るところにあり、疲弊が著しい地方経済の活性化を促進するために、 「車中泊利用者を周辺地域観光に誘導するなど、地域振興の方向性を検討する」 という最終着地点が想定されている。

 今回の調査の実施地域として選ばれたのは、
 1) 福島県いわき市 「道の駅・よつくら港」
 2) 山形県飯豊町 「道の駅・いいで」
 の2ヵ所。

道の駅いいで
 ▲ 道の駅いいで

 調査期間は、 「道の駅・いいで」 では10月8日 (金) ~17日 (日)、 「道の駅・よつくら港」 では10月22日 (金) ~31日 (日) が予定されている。
 期間内は、この両道の駅において、乗用車、キャンピングカー、事業用トラック等も含め、車中泊利用するドライバーへのアンケート調査や聞き込み調査が行なわれる。

 質問項目に関しては今後詳細が決定されるが、現在のところ 「車中泊するための目的」 、 「旅行人数」 、 「旅行日数」 、「今日の出発地」 、 「明日の目的地」 などを尋ねることが決まっている。
 また、そのような定型的な設問のほか、詳細を好意的に語ってくれる人の “ナマの声” も重視するらしく、立体的な奥行きを持つ調査結果が予想される。

 分析には、大学の研究機関や民間の研究機関、日本RV協会、道路行政・土木行政を担当する各省庁も関わる模様。
 そのような識者・専門家を交えた討議の末、来年3月ぐらいまでに報告書がまとめられ、 「道の駅」 を利用する共通ルールの “ひな形” が作成されることになっている。

 現在、道の駅等の公共駐車場を利用した 「車中泊」 は大ブームとなっており、各メディアもそれに呼応して、その取材報道の件数も激増した。また、書店では 「車中泊」 スポットやノウハウを紹介する書籍や雑誌が一大コーナーを占める勢いとなっている。

 しかし、急増した 「車中泊」 の実態を、統一されたフォーマットで正確に調査する試みは今までなされたことがなかっただけに、その実態にメスを入れるこの調査は非常に有意義であるように思う。

 言葉を変えていえば、このような調査を必要とするほど車中泊ブームの “負の部分” も見えてきたということになる。

 ある道の駅の 「駅長」 さんによると、増え続ける車中泊利用者の中には、
 1) 大量のゴミを駐車スペースに置きっぱなしで去っていく人
 2) トイレ棟などの電源を利用 (盗電) して、炊飯器などを使う人
 3) 駐車スペースに堂々とテントを張ったり長椅子を出して寝てしまう人
 4) 駐車スペースで焚き火を行い、周辺を焦がしたりして破損させてしまう人
 …などがいるという。

 以上のような行動をとる人たちは、新規参入と思われる乗用車ユーザーに多く見られるが、キャンピングカーユーザーのマナーは比較的いいとか。
 
 道の駅の管理に携わる人たちを悩ませているのは、たとえマナーの悪い車中泊客によるトラブルが多発するようになっても、 「道の駅」 の登録・案内要項等には 「車中泊」 という概念に対する記載がないため、 「車中泊」 そのものを受け入れることも、受け入れ拒否もできないというところにある。

 このように、マナーやルールにおいてさまざまな問題が発生している車中泊だが、一方では、このブームが周辺地域の経済を活性化させるのではないかと期待する自治体や地方企業も多い。

 もし道の駅の利用者がそこで連泊するようになれば、物産展・レストランなどで消費される金額はどのくらいになるのか?
 また、そこから観光地や街中に繰り出す比率はどのくらいなのか?
 さらに、そのときに利用されるバス、電車等の2次交通使用率はどのくらいなのか?
 道の駅などを統括する管理者たちも、そこらあたりには敏感になっており、今回の調査でそれらの期待を満足させる結果が出れば、道の駅におけるキャンピングカーユーザーへのインフラ整備などにも具体的な動きが生まれる可能性は高い。

 漏れ聞くところによると、今回の社会調査を提案した 「全国車中泊研究会」 の鈴木あきら代表は、キャンピングカーオーナーとして各地を旅することを趣味としている人だという。
 会を発足させた背景には、快適なキャンピングカー旅行を実現するためのインフラ整備を目指したいという動機もあるとか。
 そして、それを実現するためには、まず車中泊の実態を把握し、それを分析しながら共通マナーを確立することが先決…というのが 「全国車中泊研究会」 の基本的スタンスであるとのこと。

 こういう動きは、ときに同時多発的に起きるものである。
 一般社団法人 日本RV協会においても、現在、各省庁、各自治体向けの 「キャンピングカーオーナー向けインフラ整備 (RVパーク構想) の提案」 がまとまりつつあり、すでに一部地域では試験的に協議が進められているという。

 同協会は、数年前から 『くるま旅マナーハンドブック』 や 『マナーステッカー』 の配布などを通じて、キャンピングカーユーザーが公共駐車場を使用する場合の共通ルールの確立を目指してきた。
 ある道の駅の駅長さんが口にした 「キャンピングカーユーザーは比較的マナーがいい」 という観察も、そのような背景が前提になっているのかもしれない。

 「車中泊研究会」 による社会調査や日本RV協会によるマナー啓蒙などによって、 「車中泊」 が日本の新しい旅行文化として成熟していくことに期待したい。

 関連記事 「車中泊の社会実験




NEWS | 投稿者 町田編集長 16:23 | コメント(0)| トラックバック(0)

寂しいお引越し

 私が今このブログを投稿している 「ホビダス」 ですが、ここ数日の間に、お引越しをされるか、もしくはお引越しを検討されている方が多くいらっしゃる様子です。

ホビダスロゴ

 同じブログサービスを利用している投稿者としては、寂しいかぎりです。
 親しくコメントのやりとりをしたことがなくても、その記事に目を通して親近感を感じたり、刺激を受けたりしていた人たちに対してはやはり 「仲間」 という思いがあります。そういう方々が一人また一人と去っていくのを見ると、取り残されたような気分になって、どうしようもなく心細い気分が募ります。

 確かに現在のホビダスは、月日を重ねるごとに、活用するには厳しい環境になりつつあります。
 サーバの容量のせいなのか (知識がないもので、よく知らんのですが) 、コメントをアップするだけでもものすごい時間がかかります。
 いつまで経っても画面が変化しないため、不安になって、もう一度ボタンを押すと、ようやくアップされる頃には2重投稿、3重投稿になったりします。
 そんなことで、せっかくコメントをお寄せくださった方々にもかなりご迷惑をかけたのではないかと思います。

 もちろん管理人 (私) が記事を投稿するときも同様で、ひどいときには、アップする記事がモニターに登場するのに30分かかったりすることもあります。

 たまにアクセスランキングなど見ようとすると、もう40分~50分の世界です。
 そんなもんで、しばらく放っておくと、今度は 「セッションタイムアウト」 …っていうのかな。
 要するに 「時間切れです」 とか言われちゃうわけ。
 これが自分の 「仕事」 なら、もうさっさとここから脱出ですね。

 そういった意味で、お引越しされる方々の気持ちがよく分かります。

 現在、ホビダスさんは、そういう事態を解消するため (?) なのか、メンテナンス中とのこと。
 それももう終わったのか、それとも今もメンテが継続されているのか、インフォメーションされる内容からはよく分かりません。

 無料でサービスを受けているので、あまりホビダスさんを責める気持ちはありません。
 しかし、せっかくこれだけのユーザー間のコミュニティが形成され、これだけの素晴らしいエントリーが集まってきているのに、対応の不十分でそういう人たちを失ってしまうのは、非常にもったいないようにも思います。

 メンテの成果が現れるのを期待するばかりです。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:50 | コメント(6)| トラックバック(0)

月はどっちに…

 もう2週間ぐらい前のことになるのかしら。
 BSテレビで、催洋一監督の 『月はどっちに出ている』 が放映されていた。
 
 また、観てしまった。
 15年ぶりになるかもしれない。

月はどっちに出ている

 在日コリアンのタクシー運転手 (岸谷五朗) を主人公に、その周辺で巻き起こる 「事件ともいえないような “事件” 」 を淡々と描く、シリアスドラマともコメディともいえない映画。

 根っこには、在日コリアンが味わってきた 「差別」 、 「生活苦」 、 「怨念」 、 「諦念」 …などというドロドロしたテーマが横たわっているはずなのだが、映像としては、それがきれいさっぱり濾過 (ろか) されて、乾いた叙情を湛えた不思議な映画になっている。

 目を見張るようなアクションが描かれることもない。
 度肝を抜くストーリー展開があるわけでもない。
 東京下町の枯れた風景の中で、貧乏タクシー会社に務める社員たちの、投げやりで、卑猥で、ふてぶてしくて、どこか哀しい生活が描かれるだけだ。

 だけど、どこか、おかしい。
 そこには常に 「乾いた笑い」 がある。
 しかし、その笑いは、脚本家が計算ずくで考え出した 「笑い」 ではなく、人間存在そのものの 「おかしさ」 から滲み出てくる 「笑い」 のようにも思える。

 セリフだけ取り出すと、かなり騒々しい映画なのだが、画面から漂ってくるのは、シーンと静まり返った静謐感。

 非番のタクシー運転手たちが、駐車場のささくれだったコンクリートの上で、ときにケンカし、ときにヤクザをからない、ときに将棋を指し、ときにただ曇天を眺め…。
 誰もが生活苦を抱えているはずなのに、その切迫感は見事に抽象化され、ただ奇妙に達観した人間たちの不思議な静けさが大地を覆っていく。 

 それをひとことで表現すると、 「空気感」 。
 『月はどっちに出ている』 は、都会の片隅をひっそりと流れていく 「空気の流れ」 を見事に映像化した映画なのだ。

 あらためて、 「こういうのを “映画” というんだろうな」 と思った。
 「テーマはなんだ?」 などと、観る人に考えさせない力 ( = 言葉を超えたものを感じさせる力)
 それが 「映画の力」 だとしたら、この映画には、その力がある。

 この映画には思い出がある。
 親父と最後に一緒に観た映画なのだ。

 厳密にいうと、その言い方は正しくない。
 正確には、 「親父と同じ部屋にいて最後に観た映画」 というべきなのだろう。
 その顛末は、このブログ (↓) で書いたので、ここでは繰り返さない。
 町田の独り言 『Woo Child』

 映画のエンディングに流れる憂歌団の 『Woo Child』 という曲が、この映画にとてもよく合っていたことだけは生々しい記憶として残っている。


 
音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:29 | コメント(4)| トラックバック(0)

鼻毛を抜く

 ブログというのは、書いている本人は、あまり読者のことを意識しないで書いていても、熱心な読者の方はけっこうフォローしてくださっている。
 それは、うれしいことだし、ありがたいことだと思うけれど、とんでもないところから “観察されている” ってこともありえる。

インテックス大阪002

 大阪のRVショーの会場で、親しい業者さんと談笑した後に、お客さんがやってきて、
 「今話されていた方は、ブログで 『町田の独り言』 を書いている町田さんでしょ?」
 と尋ねられたという。

 「ええ、そうですが…」
 「仕事で取材を受けるだけでなく、個人的にも仲がいいんですか?」
 「いやぁ、まぁ…」
 というような話の流れになって、
 「いいなぁ、自分も一度話してみたいな」
 と、そのお客さんがおっしゃったとか。
 
 …という話を、後から聞いて、ギョっとした。
 ありがたいお話だとは思ったが、大阪ショー会場での私は、一生のうちに一番鼻毛が伸びた日らしくて、会場を歩き回りながら、5分置きぐらいに鼻毛ばかり抜いていたのだ。

 しかも、ブログでは一切自分の顔を公表したことがないことに安心しきって、
 「鼻毛にも白い毛が混じるようになったか…。年だな」
 などとつぶやきながら、その抜いた鼻毛を指先にかざし、フッと吹き飛ばしてばかりいた。
 もしかしたら、ついでに鼻くそもほじっていたかもしれない。

 ま、そういうところを見られたか…と思うと、ちょっと冷や汗だ。

 これからは、鼻毛の手入れは家にいるときにしっかりしておこう。
 そう肝に銘じた日になった。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 02:45 | コメント(2)| トラックバック(0)

クロード・ロラン

 クロード・ロランという人の絵が好きだ。

クロード・ロラン001

 17世紀のフランスで活躍した画家で、当時の裕福な王侯貴族たちをパトロンに抱え、古代ローマ時代の建築群などをモチーフにした風景画を描いて好評を博し、名誉と栄光に包まれた人生を送った人だといわれている。
 生前はもちろん、死後もその高い評価を維持したという意味で、芸術家としては珍しく幸せな運命に恵まれた画家の一人だ。

 得てして、こういう芸術家の作品は退屈なものが多いのだが、クロード・ロランの絵は、いつ見ても不思議な感興を呼び起こす。

 その作品の多くは、自然と文明が美しく調和し、明るい静謐 (せいひつ) 感を湛えた画風で統一されている。
 どの絵をとっても、まるで劇場の背景画のような壮大さと華麗さを持っており、きっと貴族たちの館を飾るにふさわしい家具・調度としての機能を果たしていたことだろう。

 聖書やギリシャ神話から採った題材がほとんどだが、人を激情に駆らせたり、不安に落としこめるようなドラマチックな要素はひとつもなく、見る者の心を静かに癒 (いや)す、平穏な風景が格調高い筆致で描かれている。

クロード・ロラン003

 特筆すべきは光の処理で、逆光がまばゆいばかりに海面を踊る様子を描いた絵などは、そのあまりにも荘厳な雰囲気に、思わず息を呑んでしまう。

クロード・ロラン002

 しかし、よく見ると彼の絵は、不思議だ。
 この世のどこにもない風景なのだ。
 
 古代ローマ風の建築群は、その大理石の質感やら陰影やらも克明に書き込まれているというのに、どこかこの世のものとも思えぬ “はかなさ” を漂わせているし、涼しげな風を宿す木々は、夢に出てくる樹木のように現実感を欠いている。
 小さく描きこまれた人物たちも、輪郭が明瞭であるにもかかわらず、おとぎの国の生き物のように存在感が希薄だ。

 「ユートピア」 という言葉の語源が、 「どこにもない場所」 という意味であるならば、クロード・ロランの描く世界は、まさに絵画が実現した 「ユートピア」 である。

 この現実感を欠いたゴージャスな空間というのは、今の言葉でいえば、まさに 「リゾート空間」 ということになるだろう。
 リゾートこそは、自然と文明の調和を謳いながら、実は自然とも文明とも無縁な、純度100パーセントの架空世界だ。

 リゾートが、人間に 「癒し」 と 「くつろぎ」 を与える場所であるのは、 「人間」 自体を巧妙に消去する空間だからである。
 
 人間である限り、どんな空想の世界で遊ぼうが、どこかで人間として存在することの 「受苦」 から逃れられない。
 その人間としての受苦が免除されるのは、 人間が 「人間」 から降りる瞬間を夢見る場所に立つことである。

 リゾートがそのような空間であるのと同じように、クロード・ロランの絵は、見ている者が 「人間」 から遠ざかるときの恍惚を描いている。

 人間が 「人間」 から遠ざかる場所とは、どういうところだろうか。

 いうまでもなく、それは 「時間が止まる場所」 のことだ。

 人間が地球からいなくなれば、時間は止まる。
 つまり、時間を 「時間」 として認識する人間が地球から消えたとき、この世に 「時間」 もなくなる。
 クロード・ロランの絵の美しさとは、そのように、 「時」 が歩みを止めてしまった世界の美しさのようにも感じられる。

 美術評論家の多くは、クロードの絵に、平和と調和に満たされた優美な 「理想郷」 を読み込む。
 しかし、この絵に潜む、言い知れぬメランコリー (憂愁) を見逃している。
 
 この絵が伝える優しい静けさが、死の気配に近いことを見逃している。

クロード・ロラン001
 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 03:50 | コメント(0)| トラックバック(0)

愛ちゃん可愛い!

 「はるな愛」 ちゃんて、可愛いな。
 テレビに彼女 (…?) が映るたびに、そう思う。
 「ファン」 というわけではないけれど、正直、好みのキャラクターだ。

はるな愛さん001

 なんで、この娘 (こ) はこんなに可愛いのだろう。
 まぁ、これは好みの問題かもしれない。
 昔からタヌキ顔が好きだったという単なる個人的趣味が反映されているような気もするけどね。

 まぁ “好み” に理屈はないんだけれど、自分なりに理屈を見つけ出せば、
 ひとつ!
 まずビジュアル的に、正統的な 「可愛い娘(こ)」 である。

 最近はAKB48みたいに、単体で 「可愛い」 というよりも、集団で “可愛さ” を表現するようなものが脚光を浴びているけれど、彼女 (…?) の場合は、単体で可愛い。

 ふたつ!
 「男が見て」 可愛い。
 最近は 「可愛い女性」 の基準が変わってきて、男性から見たときの基準ではなく、女性が女性を見たときの 「可愛さ」 が優先されていると思うんだけど、彼女の場合は男性目線で追ったときの古風な可愛さがある。

 このへんは、実に戦略的で、男が女を見るときに 「可愛い」 と感じさせるボディランゲージのたぐいを、彼女はすべて研究して身につけている。
 たとえば、自分の失言を自覚したときに、目を丸くしながら手のひらで口を覆うような動作。
 「憧れている気持ち」 を表現するときに、両手を組み合わせて胸の前に置くような仕草。

 一見 “アバズレ” のテイストを漂わせつつ、彼女のボディランゲージの本質は、マリリン・モンロー以来の古典的ハリウッド映画で完成した伝統的な女の作法を忠実にとらえ、それをデフォルメしたところにある。
 最近ではあまり目にすることがなくなったその古風なボディランゲージを、彼女は、タレントというポジションをフルに活用し、ものすごく大仰に表現してみせているわけだ。

 表現手段としては学芸会っぽい演技なんだけど、それが 「形」 として洗練されているところがミソ。
 つまり、その仕草だけで、彼女は 「はるな愛ワールド」 をいとも簡単に作り出してしまう。 (だから隣りにいるタレントを喰ってしまう)

 一度その気になって、彼女のボディランゲージをチェックしていると面白い。
 彼女の大仰な動作にひとつひとつに、古典的な 「可愛さの記号」 が散りばめられているのが分かるはずだ。

 みっつ!
 これが肝心なのかもしれないけれど、得体が知れないから可愛い。

 うっかり彼女のことを、 「娘 (こ) 」 とか、 「彼女」 と言ってしまうと、そのあと必ず、 「でも……」 という感じで、一呼吸強いられる何かがあって、そこが彼女のとてつもない魅力になっている。

 この一呼吸の間に、見る人ごとにさまざまな思いが去来するだろう
 
 「でも……やっぱり男だよな。きっとスッピンじゃ見られない顔だろうな」
 「……やっぱり男だよな。しかし、女以上に色っぽいな」
 「……やっぱり男よねぇ。でも可愛いわぁ。うちの子の嫁さんに欲しいくらい」

 10人いたら、10人がすべて異なる 「はるな愛」 観を持つだろう。
 そこには、違和感から共感・称賛の嵐に至るまで、すごい振幅が生まれているはずだ。その振幅の大きさが彼女の存在感そのものを強めている感じがする。

 もうひとつ彼女の全国的な人気の秘密を挙げるとしたら、いわゆるオカマ系の毒気 (批評性) が希薄だということ。
 オカマ、ゲイといった社会から異端視される “宙吊りの性” というのは、時代の真実をシビアに眺めることを強要される。
 だからオカマ…ニューハーフは、その存在の不安定性を逆手にとって、ものすごく感性の鋭い社会批評家になっている場合が多い。

 はるな愛にはそれがない。
 あるのかもしれないが、それを 「売り」 にはしていない。
 そこを物足りないと思う人もいるだろうし、それだからこそ、テレビの全国制覇も可能になったと考える人もいるだろう。

 はるな愛ちゃんを女だと信じて結婚を申し込んだ男性がいたらしいが、気持ちはよく分かる。
 女以上に女っぽく見えたのだろう。
 その男性は、彼女が 「男」 だと知ってあきらめてしまったらしいけれど、 「それでもいいや」 と思う男性もいっぱいいそうな気もする。

 参考記事 「マツコデラックス」

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 03:51 | コメント(0)| トラックバック(0)

史上最強の旅情

 「うらぶれた…」 という言葉を使うと、はなはだその土地の人に対して失礼だが、無責任な旅行者の立場に立つと、 「うらぶれた町」 の 「うらぶれた飲み屋」 などに入るのがとても好きだ。
 「旅情」 という言葉があるが、ほとんどそれに近い感情がこみ上げてくる。

 ローカル線の無人駅の前に、店といえるようなものは居酒屋と喫茶店と観光案内所があるだけ。
 あとは古びた民家が建ち並ぶばかり。
 まだ夕暮れ時に差しかかったばかりなのに、人通りはない。
 喫茶店と観光案内所は早々と店を閉めてしまったのか、それとももう何年も営業していないのか、静まり返っている。
 かろうじて、居酒屋の提灯だけが、ぼんやりとした明かりをともしている。

 そんな情景に出合うと、涙が出そうな感じで、ふらふらと居酒屋に足が向く。
 日本中いたるところに、コンビニとファミリーレストランが建ち並ぶようになり、それはそれで便利だけど、どこの町に行っても同じ風景と、同じ味にしか出合わないようになってきたので、旅から 「旅情」 が失われつつある。

 そういった意味で、いま 「旅情」 は、コンビニとファミレスという近代的な発展から無視されたような 「うらぶれた…」 町にしか残っていない。
 そんなふうに思っている。

 昔 『全国キャンプ場ガイド』 の取材で北国のキャンプ場を回っている時だった。
 山奥のキャンプ場をめぐる旅をしばらく続けて、久しぶりに町の匂いを嗅ぎたくなったのである。
 地図を広げると、名前になじみのある都市名が20kmぐらい先にあった。
 よし、行くべぇ。
 久しぶりに銭湯でも行って汗を流すか…。

 名前になじみがあるから “大都市” 。
 バカな旅行者が単純に陥るミスである。

 たどり着いた情景が、前述の描写に近い町だった。
 熱い銭湯の湯船に浸かってのんびりするという夢はあえなく消えた。
 …が、まぁ 「旅情」 に出合えた。

 目の前に広がるのは、1日に数本しか走らないのだろうと思われるローカル線の駅前ロータリー。
 その風景の中で、いちばん “近代的” なのが、コンクリートで舗装された駐車場。

駐車場の夕暮れ

 それを囲むように、セピア色にくすんだ昭和初期の写真のような “うらぶれ街並み”が並ぶ。
 さいわい、だだっ広い駅前の駐車場には地元ナンバーのクルマが数台止まっているだけ。
 それも、夕暮れが迫ると、私のクルマとすれ違うように、1台、2台と去っていき、白線内にクルマを収めたときには、周囲にクルマの姿も人の姿もなかった。

 広大な駐車場に、クルマがぽつりと1台しかないというのも寂しいが、キャンピングカーで一晩軽い仮眠を取るには理想的に思えた。

 例によって、そこにクルマを収めてから、飲み屋を探した。

 「探す」 などと力まなくても、店舗といえるものが4軒あるうちの2軒が飲み屋であることは一目で分かった。

 どちらにしようか…。
 はたと迷った。

 1軒はお好み焼き屋。
 これは看板からすぐにその正体が分かった。

 謎なのはもう1軒の方。
 「××ちゃんの店」 。

 与えられたインフォメーションはそれだけで、提灯があるところを見ると “飲み屋” であろうことは推測できるのだが、メイン料理がどんなものなのか見当もつかない。

 しかも、扉と窓に真っ黒なラシャ紙が貼られていて、意図的に中を覗かせないような作意も感じられる。

 怪しい!

 こういうときは、たいてい怪しい方に入ってしまう自分が恨めしい。

 ガラガラと引き戸を開ける。裸電球ひとつという雰囲気の、なんだか暗い店だ。
 いきなり目に飛び込んできたのは、 カウンターの前に広がっているガラスケースだった。
 並んでいるのはタコの切れ端、マグロの赤身、卵焼き。
 寿司ネタである。寿司屋だったのだ!

 が、次に驚いたのはガラスケースの向こうにいる職人だった。
 髪をやや茶系に染めて、ネックレスをしているお婆さん。
 まぶたの上のマスカラがやたら元気で、10円玉を2個ぐらい載せても落ちそうもない感じだ。

 「いらっしゃい…」。
 お婆さんの物憂い声にうながされ、まるで魔法にかけられたようにスルスルとカウンターに腰を下ろしてしまった。

 「何しましょう?」
 「と…とりあえず、ビール」

 ビールでまず時間稼ぎをして、何が食べられそうか、いろいろ観察することにした。
 昭和の香りを残す古めかしい冷蔵庫を開け、お婆さんが何かの瓶のフタを開け、くんくん匂いを嗅いでいる。

 「まだ、食べられそうね…」 。
 そう、独り言をつぶやきながら、それを小皿に取り出す。
 ビールに付くお通しのようだ。
 ニシンのマリネだという。

 ひとくち口に運ぶと、なんだか酸っぱい。ま、マリネだから酸っぱいのは当たり前か…。

 「何します?」

 そう言われ、もう一度ガラスケースの中を覗き込む。
 マグロは、赤身というより “黒身” に見え、タコは水気を失って消しゴム化が始まっている。

 比較的イカらしい色に見えたイカを頼む。

 マニキュアを美しく輝かせた細い指が、ひょいとイカの切り身を取り出し、おにぎりのようなシャリの上に乗せる。
 その様子を眺めながら、 「ここ、お寿司屋さんですよね?」 と、恐る恐る聞いてみた。

 「いや、カレーライスやオムライス、タイ焼きもできるよ」
 と、お婆さんはこともなげに答える。

 カレーライスとオムライスはまだなんとか分かる。
 しかし、最後のタイ焼きとは何だ? 
 魚の形をしたあの焼き菓子のことだろうか。
 カルチャーショックで頭がくらくらしそうだ。

 野球のボールのようなご飯の上にイカを載せたおにぎりを口に運ぶ。
 これが意外とおいしい。

 「おいしいだろ。これはウチの実家で採れたお米を使っているんだ」

 婆さんは、自慢げに言って初めて笑顔を見せた。

 聞けば、もともとは居酒屋だったとか。
 しかし、息子さんが寿司屋の奉公から帰ってきて、そのために寿司ネタも扱うようになり、現在はそれが地元の人にウケているという。普段は (今その姿を見せていない) 息子さんが握るらしい。
 少し納得。

 イカが比較的安心して食べられたので、今度は蒸したアナゴに挑戦してみることにした。

 「次は、そのアナゴ」
 と、私が指差すと、お婆さん、眼鏡の奥の眼を少し細め、
 「あんたアナゴに見えたんかい?」
 と、逆に尋ねてくる。

 「え? アナゴじゃないんですか?」
 「ああ、マムシかい」

 「ええ!」

 今度は本気になってびっくりした。
 「ヘビなんですかぁ?」
 
 そう尋ねても、お婆さん。耳が悪いのか、私の話に頓着する気配もなく、
 「関西ではウナギのことをマムシというらしいね。この前、大阪から着たお客さんがそう言っとった。
 で、これはそのウナギの蒲焼きで、今日はアナゴの代わりなんだ」

 「……………………」 ( ← 会話が思い浮かばない)
 となった私。

 もしかしたら、このお婆さん、お茶目?
 冗談めかした会話で、お客を歓待しようというのだろうか。

 とにかく、おにぎりのような寿司は、四つも食べればもうお腹いっぱい。

 「あんたカラオケ歌っていくかい?」
 という、親切な提案をえん曲に断りながら、退散することにした。

 大都市ならば、酔客が足をもつれさせて練り歩く時間帯なれど、この 「時間の止まったような町」 には、あいかわらず人通りはない。
 周囲は山奥のような静寂に包まれている。

 その静かな街路に、 「××ちゃんの店」 の提灯の光がぼんやりと浮かぶ。
 どことなく、明け方に消えゆく夢のような光景だ。

夜道の街灯

 地元の人たちはいつお寿司を食べに来るのだろうか。
 人ごとながら、ちょっと気になる旅路の果ての一夜だった。



ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 16:48 | コメント(0)| トラックバック(0)

山口一郎さんの詞

 若い人の才能に触れると、ちょっと身が引き締るように思うことがある。

 Jポップの若手グループ 「Sakanaction サカナクション」 のリード・ボーカリスト山口一郎さんと佐野元春さんの対談 (ザ・ソングライターズ) を見ていて、そう思った。

ザ・ソングライターズ

 年を取るということは、若い人の才能に触れる機会が乏しくなるということだが、NHKの人気番組 『ザ・ソングライターズ』 は、そんな自分に、現在の日本の音楽シーンで、どういう若い才能が開花しているのかを教えてくれる格好の番組であるように思う。

 で、テレビを通じてはじめて見た山口一郎さん。
 もちろん、どういうアーチストなのかまったく知らない。
 雰囲気がなんだか 「劇団ひとり」 に似た若者だな…などと思いながら漫然と見ていたら、その独特の光り方に、徐々に引き込まれていく自分がいた。

 発する言葉の一語一語に、匂いがあり、味があり、奥行きがある。
 佐野元春さんが、いつになく真剣に突っ込んでいるのもなんだか分かるように思えたのだ。

山口一郎さん002

 対談の席で、佐野さんが、山口さんの作った歌の歌詞をいくつか朗読した。
 メモを取ったわけではないので、詳しくは覚えていないけれど、現代を生きる内省的な若者の心情を歌っているようでいながら、そこに “昭和文学っぽい” しょっぱさが加わっている。

 単語のひとつひとつが、字義どおり使われていない、…というか、ひとつの言葉に、多彩な光が当てられている。
 優しい言葉が、鋭利な刃物のような怖さを内包している。
 ぶっそうな言葉の奥に、ふるえる魂のおののきが宿されている。
 ひと言でいうと、 “引っかかる” 歌詞なのだ。
 他のチャンネルに回そうかと思っていた手が、そこで止まった。

 「サカナクション」 の山口さんは、Wikによると、1980年生まれ。
 北海道の小樽市に生まれ、札幌を活動の中心に据えていたらしい。

 札幌は、狭いながらもすべてが凝縮した街で、大都会でありながら、クルマで1時間も走ればもう山の中。 「自然」 と 「都会」 の振幅の激しい場所だという。

 その振幅の激しさが、どうやら彼の心のあり方に、独特の陰影を刻み込むことになったらしい。

 話を聞いていると、おそらく小さい頃から 「周りにとけ込めなかった子供」 だったろうな…という印象を受けた。
 なにしろ、子供時代の読書が、寺山修司や吉本隆明の詩だったり、宮沢賢治の童話、石川啄木の短歌だったというから変っている。

 多分にお父さんの影響を受けたらしいが、 「明治の短歌」 や 「昭和の詩」 を愛してきたことが、何か独特の世界観を彼に与えていることが伺える。

 たとえば、 「好きな言葉は?」 という佐野元春さんの質問に、すかさず、 「夜」 と答える。
 「では、嫌いな言葉は?」
 「愛」 だという。

 ちょっとまいった。
 そのあたりから、こちらも真剣に身を乗り出して、番組の流れを追った。

 「愛」 が嫌いという感性は信頼できる。
 なにしろ、今いちばん安っぽく流布している言葉が 「愛」 なのだ。
 そのひと言を使えば、一応なんでも丸く収まってしまう呪文のような言葉。
 誰も異論を唱えることのできない 「愛」 。
 しかし、それを使ってしまえば、 「詩」 は成り立たない。

 好きな詩人として挙げられたのが、種田山頭火。
 「彼の詩 (俳句) には、常に 『現在』 が鮮やかに切り取られている」 というのが、その理由。
 
 分け入っても、分け入っても、山の中 (山頭火) 。

 その場にいて、見たまま、感じたままものが純度100パーセントの濃さで伝わってくる詩だという。
 ( ↑ 印象的な発言を思い出しながら再構成しているので、正確ではないかもしれない。以下同様)

 「大切にしている人に、死ぬ前に言う言葉は?」
 という質問に対しては、次のような回答があった。

 「じゃーな」

 「ずいぶんあっさりとした言葉ですね」
 と、これにはさすがの佐野元春さんも怪訝 (けげん) そうな顔になった。 

 「だって、その前にもういろいろ語っていると思うんですね。だから最後はそれでいいんです。その方が、相手の負担にならない」

 大人びた答であるようにも思えるが、そこには繊細な若者であることを感じさせる響きがあった。

サカナクション

 「どのような音楽を目指したいのですか?」

 それに対する答は、次のようなもの。
 
 「近代になって表現の幅が広がったように思えるが、実はフォーマットが固まってきたように思う。
 たとえば、ロックはこうでなければいけない…とか。
 そういう既成のフォーマットを崩していくところに、自分の表現を見出している」

 実に戦略的な若者だと思った。
 自分の表現が、いかに共感を得られるかということに対して、そうとう自覚的な方法論を持っている人だと感じた。

 彼はこういう。
 「東京に出てきて、自分の好きなものが全部マイナーなもの、マイノリティな人々にしか愛されないものであることを知って驚いた」
 だから、そのマイナーなものの良さをいかに多くの人に分かってもらえるか。
 それが、 「自分が詞を作るときの原点」 だとも。

 対談中、彼がよく 「センチメンタル」 という言葉を口にするのが意外でもあり、新鮮であった。
 たとえば、 「自分の中にあるセンチメンタルを共有できる人が周りにいなかった」 とか。

 「センチメンタル (感傷的) 」 という言葉は、時としてネガティブな響きを帯びる。 「甘い」 とか 「めめしい」 、「感情におぼれる」 というニュアンスを秘めた言葉として使われることが多い。

 だが、山口さんの口からこぼれ出る 「センチメンタル」 は、 「リアリティ」 の同義語であるように思えた。
 むしろ、普通の人が 「めめしい」 と感じるものの中に、人間の真実があるとでもいわんばかりに。

 今日も音楽ネタになってしまった。
 しかし、正確には、音楽ネタというよりも、 「詩」 がテーマだというべきかもしれない。
 それほど、山口さんのトークは、文学的であった。

 出版人から、 「活字離れ」 、 「文学の衰退」 などという言葉がささやかれることもあるが、 「文学」 は、今や本の世界から解き放たれて、歌の領域で新しい命を獲得しているのかもしれない。



音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 09:57 | コメント(0)| トラックバック(0)

ブルースの正体

 ここのところ、ちょっと毎晩 “音楽漬け” 。
 3日ぐらい前だったか、BSで放映されていた 『キャデラック・レコード』 という音楽映画を見たけれど、いやぁ~いかったぁ!

キャデラック・レコード001
 ▲ 「キャデラック・レコード」

 シカゴのブルース・レーベル 「チェス・レコード」 の創業期を描いた2008年のアメリカ映画だけど、ブルース、ロックン・ロール、リズム&ブルースといった初期の黒人音楽が、どのような経緯で市民権を得ていったのかというプロセスが生々しく描かれていて、まぁ、たまりませんでしたね、はい。
 地味だけど、実に小粋な映画だった。
 大人の映画だったな。

 で、いきなり話が飛ぶけれど、その映画を見ていて、なんで自分が80年代のハードロックとか、ヘビーメタルといわれる音が好きじゃないのか、ついでにそんなことも、分かってしまった。

 ヘビメタっていっても、どんなグループがいるのか、実は詳しく知らないのだけれど、総じてリードギターリストが “速弾き” を自慢しているようなバンドが多い。

 どうも、あのギターの速弾きというのが苦手だ。
 同じテンションを持続したまま、ハイスピードだけど単調なリズムが延々と続くあの演奏には耐えられない。

 自分が好きではないものは、書かない。
 それが、このブログのポリシーだけど、ヘビメタ系だけはダメだなぁ…と、ついに書いてしまった。
 ロックには 「刺激」 と 「緊張」 が必要だけど、ヘビメタには、 「刺激」 もなければ 「緊張」 もない。
 「緊張」 はなくて、 「単調」 だけがある。

 それを別の言葉でいえば、 「ブルース」 が欠如している。
 じゃ、ブルースって何よ?
 といわれちゃいそうだけど、音楽理論とか哲学とか難しいことは別にして、俺的な感覚でいってしまえば、リズムのタメ。もしくは、リズムの揺れ。
 別の言葉でいえば、ブレイクとかシンコペーション。

 ロックのテンションというのは、 「静」 と 「動」 のダイナミズムから生まれる。
 ブレイクとかシンコペーションというのは、そのダイナミズムを生むための基本法則だ (…と了見の狭い俺は) 信じている。
 それを持っているのが、ブルースやその派生形としてのロックだと思っている。
 いくらギターの速弾きができたって、リズムのタメを失ってしまったものはブルースでもロックでもない。

 ちなみに、ブレイクについて、ちょっと考えていることを付け加えると、これは、リズムに変化を付けるための “小休止” っていうだけではないのね。

 確かに、演奏が一瞬止まり、音の流れが断ち切られるブレイクは、次のリズムが打ち出される前の 「タメをつくる “間” 」 でもある。
 跳躍する前に、膝をかがめるようなものだね。

 しかし、古典的なアーバンブルースなどが演じられているライブを見ていると分かるけど、このブレイクの瞬間というのは、実は、演奏者と観客が反応し合う場でもあるわけ。
 歌舞伎でいえば、役者が “大見得 (おおみえ) ” を切って、虚空をにらむ瞬間。ストップモーションね。
 
歌舞伎の大見得
▲ 大見得

 そのとき、役者は 「どうだぁ! 楽しんでるかぁ?」 という問いかけを発しているわけよ。
 それを見て、観客が 「成駒屋ぁ!(カッコいいぞぉ!)」 とか応える。

 そのやりとりの場が “ブレイク” なんだね。
 だから、ブレイクを失ったロックというのは、観客を必要としていない音楽なの。
 この意味、分かる?

 演奏者が、 「オレってカッコいいなぁ!」 って、ステージで自己確認しているだけの音楽なのよ。
 ペナペナペナって速弾きしているギタリストの姿を見ていて、つくづくそう思った。観客の方なんて見もせずに、ひたすら目をつぶっているだけなんだもん。

 でも、本当はそんなことが言いたいんじゃない。 

 映画 『キャデラック・レコード』 を見ていて、改めて、ブルースって何かって分かったんだ。

「キャデラック・レコード」のマディ・ウォーターズ
 ▲ 『キャデラック・レコード』 でマディ・ウォーターズを演じるジェフリー・ライト (左)

 その映画の中で、ジェフリー・ライト扮するマディ・ウォーターズが、こういう。 
 
 「ブルースってのは、不条理なんだ」

 これは、マディが、チェス・レコードの創始者であるレナード・チェス (エイドリアン・ブロディ) に語ったセリフなんだね。

 どういう状況で語られた言葉かというと、レナードは、自分のところの秘蔵っ子女性シンガーであるエタ・ジェイムス (ビヨンセ・ノウルズ) に恋しちゃって、あわやラブシーンに突入という瞬間に、マディ・ウォーターズが部屋に入ってきちゃうわけ。

 そのときのマディの言葉が、
 「ブルースってのは、不条理なんだ」 …なの。
 少し説明しないと分からないよね。

「キャデラック・レコード」レナードとエタ001
 ▲ チェスレコードの稼ぎ頭であるエタ・ジェイムス (右) と、オーナーのレナード・チェス (左) は、いつしか淡い恋心を抱きあう


 レナードには奥さんがいるわけだから、まぁ、禁断の恋。
 しかし、歌手のエタに対して、レナードがどれだけ純粋の恋心を抱いていたかというと、そこが微妙。

 エタ・ジェームスの方には、複雑な家庭事情があるわけね。
 早い話、父親に “捨てられた娘” なの。
 彼女は、お金持ちの白人の男が、きまぐれに黒人の商売女に孕ませた子なのね。
 で、その親父から残酷な態度を示されて、そのさびしさと悔しさを紛らわすため手を出す飲酒とドラッグのせいで、いつもエタはスタジオ入りができないくらい酔いつぶれているの。

 悩めるエタを抱きしめたレナード・チェスには、親父の代わりになって、彼女をなぐさめたいという気持ちもあれば、エタという “自社商品” に対してメンテナンスを施すという打算もある。
 加えて、恋を知らないエタに対して、ラブソングのマーケットで勝負させるために、恋の何たるかを教えたいという計算もある。
 もちろん、関係を持ってしまうと、公私ともども面倒になる…というためらいもある。
 そういうグチャグチャした気分のまま、レナードは、エタとのラブシーンに突入しようとしていたわけ。

 そのとき現場に入ってきたのが、レナードとともに創業期からチェス・レコードを支えてきたマディ・ウォーターズなんだね。
 レナードは 「誤解するなよ」 ととりつくろいながら、マディとの会話を仕事の話に持っていこうとする。

 そんなレナードの顔を眺めながら、 「すべて分かってるぜ」 という感じで、マディがぽつりという。
 「ブルースってのは不条理なんだ」

 いい言葉だと思った。
 それは、「ブルースは人間の真実を表現する音楽だった」 ってことを言っているんだ。
 人間っていうのは、世の中ではこう生きなきゃだめだっていう法則があっても、そう生きられない存在なんだ…ってことを言っているわけ。
 「人生の一瞬先は闇だ」
 という意味でもあるのね。

 「お前の複雑な今の気持ち、そいつがブルースさ」
 まぁ、意訳すれば、そんなところかな。

マディ・ウォーターズ(ジャケ)
 ▲ 本物のマディ・ウォーターズ

 ブルースってのは、そういう音楽なの。
 ベースとなったのは、人種差別で苦渋をなめた黒人の “嘆き節” だけど、その苦渋に満ちた生活をさまざまな哲学で乗り越えて、人類普遍の認識に達したのがブルース。

 そのブルースへのリスペクトをコアにしながら、よりテンションを高めたのがロックなわけ。
 ジミ・ヘンドリックスも、クラプトンも、ジミー・ペイジも、程度の差こそあれ、みなブルースへのリスペクトを持っている。

 それは、彼らが持っているリズム感に表れている。
 ブルースには、音と音の間に横たわる “深淵” がある。
 その “深淵” こそ、不条理の感覚なんだ。

 このリズムとリズムの間に横たわる “深淵” を、もし覗き込むとができたとすれば、そこには、人間が、とりわけ黒人たちが 「生きるために、やむをえず捨ててきた」 さまざまな思いが沈んでいるのが見えるはずだ。

 ブルースのオフビートとは、彼らの 「捨ててきたもの」 への思いがリズム化されたものなのね。

 最初の1拍目 (と3拍目) に威勢よくアクセントを置く白人音楽のオンビートに対し、黒人音楽のオフビートは、楽曲的にも象徴的にも、その 「裏」 (2拍目、4拍目) を意味している。

 「裏」 とは、忘れたい記憶、失われたものへの愛着などが密かに隠される場所だ。
 その裏拍に、あえてアクセントを置くことによって、ブルースやらゴスペルやらリズム&ブルースの、あの粘っこく “ハネる” 感覚が生まれてくる。

 だからオフビートをバカにしちゃいけないよ。
 それは、 「過去に戻ろう」 とする力と、それを振り払って 「前に進もう」 とする力のせめぎ合いから生まれてくるビートなんだから。

 なのに、その “深淵” を埋めて単調に均 (なら) してしまったのが、ヘビメタ。 

 ヘビメタには 「ブルースが欠けている」 って意味、分かった?

 独断と偏見で、ゴメンネ。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:13 | コメント(2)| トラックバック(0)

本物の天才とは

 NHKのBSハイビジョンで、 『伝説のギタリスト』 という番組が毎晩放映されている。
 さっきまで、その第2夜の 「偉大なるパイオニア」 で紹介されていたベンチャーズ、B・Bキング、チャック・ベリー、ジミ・ヘンドリックスのライブを見ていた。

 圧巻だったのは、ジミ・ヘンドリックス。

ジミ・ヘンドリックス001

 実は、この人、ベスト盤を含めてレコードで2枚、CDで3枚ほど持っている。
 われらの時代の “伝説のギタリスト” だから、ほとんどのヒット曲は知っている。
 
 だけど、正直、それほど楽しい演奏だと思ったことがなかった。
 特に、ライブ盤のCDは退屈そのものだった。
 しかし、今回改めてそのライブを見て、圧倒されて、言葉も出なかった。
 やっぱり 「聞く音楽」 ではなく、 「見る音楽」 というものもあるのだ。

 僕らの世代には、 「ロックの黎明期から知っている」 という何か傲慢な思い込みがあって、肝心なことを見落としていたのかもしれない。

 ライブの合間に、解説者として登場しているチャーが、 「彼は天才としかいいようがない。たぶん、演奏しているときは何も考えていない。思いのままに弾いて、それでとてつもない音を作り出す」
 …というような意味のコメントを添えていた。

 「天才」 というのは、自分が 「天才であることを説明できない人」 、だけどその業績には、誰もが感服することしかないような人として、 「秀才」 とは区別される。
 その場合の 「秀才」 とは、 「自分の才能の由来を言葉で説明できる人」 という意味だ。

 長い間、このような 「天才」 観が支配的で、計算づくでその才能を誇示する 「秀才」 を小ばかにする風潮がまかり通っていた。

 しかし、神々がその才能に嫉妬するほどの天才というのは、この世に存在しない。
 世にいう 「天才」 は、それぞれ言葉にしないまでも、自分の創造世界を表現する方法論を努力で勝ち取った人のことをいう。
 生まれたままの状態で、神々ですら嫉妬するような才能を持つ 「天才」 というのは、ロマン主義が作り出した神話に過ぎない。

 だが、ジミ・ヘンドリックスに関してだけは、その素朴な天才信仰をそのまま信じてもいいような気がした。

 それは、レコードやCDという、音だけを再生する技術からは “見えて来ない” 部分だった。
 言葉は陳腐だが、 “神がかり” という表現を使ってもいい。
 それは、ライブ映像を見て、はじめて見えてきたジミ・ヘンドリックスの凄さだといっていい。

 「憑依 (ひょうい) 」 という言葉がある。
 人間が、何か霊的なものに支配された状態のことを指し、古代宗教のシャーマニズムなどは、 「シャーマン」 という霊媒師が神がかりになって、部族に 「神々のメッセージ」 を伝えるという役目を果たしていた。

 ジミ・ヘンドリックスのライブを見て最初に感じたのは、その 「シャーマン」 だった。
 この世に、 “この世を超えたもの” が降り立ち、憑依状態にあるシャーマンを通じて神々のメッセージを伝える。
 ジミのライブを見ているうちに、そのシャーマンの儀式が行われている現場に偶然まぎれ込んだような錯覚すら抱いた。

ジミ・ヘンドリックス002

 解説者のチャーによると、ジミ・ヘンドリックスという人は、エレキギターが “電気を使った楽器” であることを自覚的に追求した最初のギターリストだという。
 チャーは、ワウワウペダルなどの一連のエフェクターをスタジオに持ち込み、自らジミのギターテクニックをなぞりつつ、その玄妙な音の由来を説明してみせた。

 たぶんジミ・ヘンドリックスは、それらのエフェクターを、まるで子供がはじめて親から玩具を与えられたときのように無邪気に触りまくり、驚き、音の感触を研究し、その “電気音” の宇宙的な広がりに無限の可能性を見出したのだろう。

 そういった意味で、彼は 「研究の人」 であったかもしれない。
 どのエフェクターを、どのように作動させれば、どういう音が生まれるか。
 そのようなしたたかな計算もやり尽くしただろう。

 しかし、彼のライブパフォーマンスは、そのような計算をあっけなく超えた。
 おそらく彼は、ライブの場で、自分の作り出した 「新しい音」 に、常に遭遇していたに違いない。
 自分で作り出した音に自分自身が引きずり込まれ、常に新しい世界と対峙しなければならなかったわけだ。

 実は、その前の晩に、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジのライブも見ている。
 ジミー・ペイジの率いるレッド・ツェッペリンの60年代後半から70年代にかけてのライブを見て、 「やっぱりスタジオ録音の方がいいな」 と思ってしまった。
 ジミー・ペイジも、いわゆる 「天才」 といわれるギターリストの一人だが、そのライブでは、彼は計算された世界の果てまでは見ていないことに気づいた。

 そこには、60年代文化の特徴であった “アングラ” 的な部分…つまり 「装われた狂気」 のようなものはあったけれど、それは 「計算された狂気」 で、ロック産業の磁場を離れるものではなかった。

 しかし、ジミ・ヘンドリックスのライブには、 「先が見えない」 ことに対する畏れと恍惚が備わっていた。

 だから、音としては未完成だ。
 意図的に起こすハウリングもたくさん交じる (それゆえ、CDなどで聞いていると疲れる) 。
 しかし、映像が伴ってくると、それらのノイズが、脳髄の奥にまで染み渡る官能な音色に変る。
 ロックとは、永遠に未完である音楽のことを指し、未完であるがゆえに、その先にある世界に誘われる音楽であることを、ジミ・ヘンドリックスは身をもって実証した人であった。

 「自分が今出している音のその先には、何があるのか?」
 「こうなれば、行くところまで行くしかないな」
 ジミ・ヘンドリックスには、そういう思いが夜毎のライブで去来したと思う。

 心身の消耗が激しくなるわけである。

 彼はドラッグのやり過ぎといわれる謎の死を27歳で迎えることになったが、それは、神々がはじめて一人の人間の才能に嫉妬した結果であったように思う。 



音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:53 | コメント(0)| トラックバック(0)

企画が生まれる時

 人間は、絶えず何かを 「企画」 しながら生きている。

 「企画」 というと、広告代理店とか編集プロダクションの “専売特許” のように思われがちだが、普通の営業でも、製造業に関わる工場労働においても、仕事を続ける上で 「企画」 は必要とされる。
 資本主義原理に貫かれた競争社会にいる限り、人々は意識・無意識にかかわらず、お金を得るために、なんらかの 「企画」 を生み続けているものだ。

 では 「企画」 とは何か?

 ということになると、これが分かったようで、なかなか説明するのが難しい。
 「企画」 の 「企」 は “たくらみ” であることからして、 「人を動かすためのなんらかのアイデア」 ということになるだろう。

 すでに行き渡ってしまったようなものは 「人を動かす」 力が弱っているから、 「企画」 とは、人々がそれまで目にしなかったような 「新しい意匠を身につけた新しい考え方」 ということになる。

 では、その 「新しい考え方」 は、どこから生まれてくるのか?

 人気テレビ番組などのプロデューサーを務め、企業ブランディングなどでも活躍する 「おちまさと」 さんは、この 「企画」 に関して、面白いことを書いている (週刊朝日9月24日号)

 おちさんによると、 「企画とは記憶の複合にすぎない」 という。
 
 「 (人は) 見たことも聞いたこともないことを、 (突然) 神が降りたように語りだすことはできない。
 数年前に気になったこと、1年前に面白いと思ったこと、昨日覚えておこうと思ったこと、そして今思いついたこと、それらの記憶がひとつになったものが 『企画』 なのである」

 人間は、自分の記憶が二つ以上複合したときに、 「ハッと」 して 「ひらめいた!」 と思うものらしい。

 「重要なのは、 『二つ以上の記憶』 であるということ。一つの記憶だと、それはひらめきとはいえず、単なる思い出に過ぎない」
 とおちさんはいう。

 そして、それは、無理矢理ヒネリ出そうと思ってパソコンやメモ用紙の前で唸っていても湧いてくるものではなく、散歩をしたり、ドライブをしているときなどに、ふと “ひらめく” ものだとか。

 たぶん、散歩とかドライブといった “ゆるい” 行動をしているときというのは、人間の記憶も自由にゆらめいているときで、それまでの思考回路とは異なる場所で、記憶同士が勝手にスパークしたり、つながったりするからだろう。

 おちさんが語ったことは、アイデア誕生の基本原理を述べたものだと思う。
 アイデアとは、
 「本来なら結びつくことのない二つの異世界が、なんらかの事故 (?) によってぶつかり合い、その衝撃によって生まれたもの」
 だと、昔からよくいわれる。

 シュールレアリズム運動を説明するときによく引用される言葉、
 「解剖台の上で、ミシンと蝙蝠傘 (こうもりがさ) が偶然出会ったように美しい」
 というロートレアモンの詩は、ある意味、このアイデアの生まれる瞬間を象徴的に語っているようにも思える。

 「ミシン」 も 「蝙蝠傘」 も、どちらも日常的に目にするもので、取り立てて珍奇なものではない。…まぁミシンは、最近の家庭からは消えつつあるかもしれないが、1960年代ぐらいまでは、どこの家庭においても必ず見られたありふれた道具だった。

 そのようなありふれた物同士が、 「解剖台」 という、あり得ない場所で “出会う” と、そこに 「美」 が生まれる。

 ロートレアモンの詩は、アイデアが誕生する基本原理を説明しているようにも思える。

 言葉を変えていえば、 「非日常」 といえども、それは 「日常的」 なものの組み合わせでしかないということなのだ。
 ただ、ちょっとだけ異質なもの同士を組み合わせる。
 「それだけで、世界は変わる!」
 …と、ロートレアモンは語っているように思える。

マン・レイ「アングルのバイオリン」
 ▲ 楽器と女体が結合したシュールレアリズムチックな芸術写真 『アングルのバイオリン』 (マン・レイ)

 あり得ないもの同士を組み合わせる。

 これが新しい発想が生まれるときの基本原理であるわけだが、現在市場で評価されている画期的な商品や人気番組などは、けっこうこの法則を忠実に守ったものが多い。

 たとえば、昨年末に放映されて有名になり、現在も、原作の漫画が人気を集めている  『 JIN - 仁 』 は、 「江戸時代」 と 「現代医療」 というあり得ないもの同士の組み合わせによって生まれた物語だった。

 食生活の現場では、そのような例は、さらに日常茶飯事だ。
 大正時代。
 「豚カツの上にカレーソースをかけたらどうなるか?」
 と考えたシェフが登場して “カツカレー” が生まれたように、人類の食文化というのは、 「ミシンと蝙蝠傘が出会う」 ような事件の連続だったかもしれない。

 一見、バカバカしいような組み合わせでも、その組み合わせに合理性があれば、そこからヒット商品が誕生する可能性はある。

 実は、今ひそかに 「コーヒーうどん」 なるものを考えているのだけれど、ダメ?
 食事と、その食後のコーヒーが同時に味わえるという忙しい現代人向けの食品で、時間に追われている人の食事時間を短縮するという意味で、実に画期的なものだ。

 興味を持った食品会社および飲食店経営者は、私のところに相談に来てほしい。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 21:27 | コメント(0)| トラックバック(0)

血が騒ぐ

 お調子者の血が騒ぐ。
 祭りの季節を迎えると、毎年そんな感じなのだ。
 
 人が集まる場所が好き。
 鐘や太鼓の音が好き。

 「いい年して」 …と自分でも思うのだけれど、鐘と太鼓がある一定の周波数を保って流れ始めると、比較的簡単にトランス状態に入るタチなのだ。

 ディスコビートじゃなくてもいい。
 つぅか、ディスコビートはもう嫌だ。

 そうじゃなく、日本の秋祭りで流される笛と小太鼓のお囃子 (おはやし) や、若衆が神輿 (みこし) を担ぐときのかけ声。
 そんなものを聞いていると、体のなかを ンチャ ンチャ ンチャ ンチャ …という “和ビート” の血が回り始め、やがて酒を飲まなくても、どんどんハイになっていく。

祭りの大太鼓101

 日曜日は、地元の秋祭りだった。
 毎年これは欠かさず見物に行くのだが、昨日は祭りの隊列につきそって最後の宮入りまでしっかり見届けた。

 駅前から八幡神社までの距離は2km程度。
 しかし、神輿も、お囃子も、大太鼓も、100mほど進んでは休み、また進んでは休みを繰り返すから、その距離を走破するのにほぼ半日かかる。

 休憩の間、神輿を担ぐ若衆は地べたに座って、麦茶なんか飲んでいるけれど、お囃子部隊と大太鼓は、休むことなくフル稼動。

 特に、周囲1kmぐらいまでは響きわたると思われる大太鼓の音には、何度聞いてもびっくりさせられる。
 遠くで聞くと 「遠雷」 のようだが、近くで聞くと、まるで 「号砲」 だ。
 5m以内で見ていると、大地の揺らぐ波動で、身体が弾き飛ばされてしまう。 (…ような気がする)。

祭りの大太鼓104
 
 エキゾチックな東洋的旋律を奏でるお囃子。
 それを支えるリズミカルな小太鼓の音色。
 そこに、遠雷のような大太鼓の重低音が重なる。
 日本の祭りの音色は、実に巧妙なアンサンブルによってできあがっている。

 休息が終わり、神輿が立ち上がる瞬間が、またステキだ!

 行動開始の 「木が入る (拍子木が打たれる) 」 と、神輿の周りは、にわかにものものしい空気に包まれる。
 くつろいでいた若衆と沿道で見物していた人々の顔に、緊張が走る。

 あわただしく隊列が整い、神輿を載せた台座が取り払われる。
 一呼吸おいて、神輿が持ち上げられると、もうあたりは奔流するエネルギーの皮膜に包まれ、まるで 「爆発」 が起きたようなる。

 「静」 から 「動」 の鮮やかな転換。
 その間合いの取り方は、まさに、ブルースでいうところの “ブレイク” だ。
 あとは太鼓ドンドン、笛ピーヒャラララ、ワッショイワッショイの大合唱。
 夏の雑木林のセミの声を何万倍も増幅したようなにぎにぎしさが復活する。

祭りの神輿

 神輿の重量は2トンを超えるという。
 それを30~40人ほどの人間で支えるのだが、コントロールを失うとどこに暴走するか分からない。
 そのため、スピードが出てくると、反対側に押し戻す力が必要となる。
 これは、神輿担ぎでもベテランの仕事。

 前に進もうとする力。
 それを食い止めようとする力。
 神輿全体が微妙なコントロールによって支えられていることが、その揺らぎ方から推測できる。

 夕暮れが迫る頃、いよいよクライマックスの宮入り。
 警察官が20人ほど交通整理にあたり、すべての交通を遮断して、神社へ向かう神輿と大太鼓の通り道を確保する。

 大通りの交通が遮断されるということは、いわば非日常の実現。
 神輿の “ご威光” というものが燦然と輝き出す瞬間だ。

 小回りの利かない大太鼓と神輿が、交差点をほぼ全面使いきるように大回りして、神社の門を目指す。
 太鼓のバカでかさが、その上に立って指揮を執る人間の頭が信号機に触れそうなことからも分かる。
 
 神輿の群が近づくと、門の前に店を広げていた露天商たちが、店をあわてて奥に引っ込めて、通路を確保する。
 
 観客に注意をうながす警備員の怒号。
 それでも、好奇心をまる出しに前に進もうとする観客。
 “音だけ拾う” と、まるで戦場のようだ。

 門から本殿までの距離はほぼ100m。
 その間の道幅はわずか2mだ。
 両脇には、たこ焼き屋、射的屋、金魚すくいなどの屋台がびっしり。

 そこを入っていくのだから、交通整理の先導隊も、神輿を担ぐ人間たちも神経を極限までにつかう。
 もっとも緊張が高まる瞬間。

 大太鼓が神社の門をくぐった瞬間は、地鳴りのような人々の足音と太鼓の響きで、門が揺らぐようだった。

 …というのが、祭り見物の顛末。
 チョッコシおおげさに書いたけど。

 夏の匂いをどこかに残した 「秋祭り」 が終わると、いよいよ深まりゆく秋が、空と大地を染めていく。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 17:24 | コメント(0)| トラックバック(0)

そんな旅もあった

 キャンピングカーで旅行していると、いろいろな人との出会いがある。

 だから、キャンピングカー旅行の楽しさのひとつに 「友達ができること」 を挙げる人は多い。
 特に、犬連れオーナーたちは、まず、犬が会話の糸口になって、次に乗っているお互いのキャンピングカーの話に移り、やがて飲み仲間に…。
 なんてこともよくあるようだ。

 昔、日本オート・キャンプ協会が発行する 『全国キャンプ場ガイド』 の編集に携わっていた頃、キャンピングカーで取材に行くたびに、地方で新しい “知り合い” をつくっていた。

 その中には、その後の交流が生まれた人もいたが、たいていは “一期一会” 。
 一晩酒を酌み交わし、それで終わり…という感じの人が大半なんだけど、くっきりと記憶に残っている人もいる。

 近畿圏の山奥のキャンプ場を取材した後、里まで下りてきたときのことだった。

 かすかに観光地の匂いを残したさびれた町で、人気のない駅前には観光バスが何台も泊まれそうな広い駐車場があった。
 朝まで止めてもたいした料金ではない。
 そこにクルマを収めて、居酒屋探しを始めた。

 もともと見知らぬ町の、見知らぬ人々のいる (ちょっとひなびた) 居酒屋に入るのが好きなたちだから、地元の人々が集まって地元の方言丸出しで陽気に騒いでいるような中に入るとうれしくなる。

居酒屋のネオン

 そういう居酒屋に入り、まずは簡単なツマミを頼んで、ひっそりと酒を飲む。

 しかし、耳だけは全神経を集中して隣の男たちの会話などをチェックしている。
 その中で話題に入っていけそうなテーマが出たときに、突如図々しく会話に参加する。

 このへんは要領だが、見知らぬ人たちの話の中に入っていくには、ちょっとだけコツがある。

 たとえば、こんな感じだ。

 「実は、出版社から派遣されてきた旅行雑誌のカメラマンなんですが、今の時期このあたりで一番美しい風景はどこですか?」

 これでよろしい。
 私の場合、まったくのウソではない。
 取材対象はキャンプ場であったが、周辺情報もチェックしておけば記事に厚みが増すし、美しい風景を写真に撮っておけばイメージカットとして使える。

 とにかく、いちおう “プロのカメラマン” だと感じさせるのがミソ。
 こちらがただの旅行者ではないと分かると、向こうの好奇心も一段と強まるようで、話の盛り上がり方が早くなる。

 「××高原はどうだろう?」
 と、その仲間の中の一人が言い出すと、
 「いや、◎◎川の川原から、▲▲山を見た景色がいい」
 「いや、■■まで行って、○○を撮ったらどうだ?」
 「いや、◇◇に出れば、ついでに◎◎も見られる」

 …こんな調子で、観光本などでは紹介されていないその土地ならではの隠れた名所、グルメ、遊びの情報が一気に手に入るという寸法だ。

 まぁ見知らぬ土地で、見知らぬ居酒屋に入るのだから、多少のリスクは覚悟しなければならない。
 たまたま隣りにいた男性が、角刈り頭で、目つきが鋭く、スゴむと怖そうに思える人だったりすることもある。

 この日の隣りにいたのは、そういうお兄さんだった。

 「あんた、こんな何もない町に何を撮影にきたんね?」

 隣のカウンター席で、無口に酒を飲んでいたお兄さんが、突然ヘビが鎌首をもたげるように、ヌッと私の方に首を回した。

 もともと眉毛が薄いのか、それともソリを入れているのか。
 額まわりがテカテカと明るく、その分、暗い光を宿した眼がやたら怖い。
 ( 『仁義なき戦い』 シリーズで、梅宮辰夫が演じていた明石組の岩井がこんな風貌だった)

 で、このお兄さん、柔和なしゃべり方の奥にドスの利いた響きがあり、答え方いかんによっては許さんぞ的な迫力もある。

 しかし、こっちも適当に酔っぱらっているから、そのへんは調子よく合わせてしまう。
 「ここはなかなか風光明媚な町で、旅行雑誌では、最近えらく評判がいいんです。
 特にこの奥にある××キャンプ場は、県外からくるお客がどんどん増えて、マスコミの露出度も高まってきましてね…」
 とか、ウソも少し絡めたりしてヨイショ。

 するとそのお兄さん、目の奥に疑り深そうな光を宿しながらも、口元をちょっとゆるめて、
 「ママさんこっちのお客さんにお銚子一本出してやって…」
 とくるではないか。

 ママさんがお銚子を差し出す手が、少し緊張している感じがするので、まぁ、この兄さん “ただの人” ではないだろうな…とは思ったが、話すことは少年時代の草野球の話だったり、地元の農家の特産品の話だったりと、いたってフツー。

 もともとローカルな場所でローカルな話題を聞くのが好きだから、お銚子を重ねるごとに会話も盛り上がる。
 宴たけなわとなった頃、その怖いお兄さんが突然言い出した。

 「俺はこれからチョイと用事だ。
 何もない町だが、この先に1軒だけストリップ小屋がある。
 ○○という俺の名を出せば無料で入れる。
 まぁ20~30分楽しんでいきなよ」

 男は、そう言い残して立ち去った。

 ストリップ…。
 う~む、趣味ではないが、まぁ嫌いな方でもない。

 で、くだんのストリップ小屋に行き、半信半疑でその怖いお兄さんの名前を出してみた。

 すると支配人、その名を聞いただけで、飛び上がるように恐れおののいて、とにかく私を一番前の “特等席” に案内してくれるではないか。

 ショーを繰り広げる踊り子さんも、舞台から私を見下ろす表情がちょっと緊張気味。
 どうやら、この日の私は、特別のお客さんであるらしい。

 出し物が終わると、支配人が私の隣りにやってきて、顔色をうかがうようにおそるおそる話しかけてきた。
 「今宵は十分にお楽しみいただけたでしょうか?」
 まるでVIP待遇である。

 「ええ十分に…。○○さんによろしくお伝えください」。

 すると支配人。
 もじもじと手を重ね合わせながら、言いにくそうに間をおいて、やがて次のように告げた。

 「実は、○○さんが、お客様にご挨拶を差し上げたいから直接来るように…と」

 「ええ? やっぱり “ただほど怖いものはない” だったか…」

 マジでやっかいなことになったなあ…と思った。
 身の危険は感じなかったけれど、これ以上の過剰な接待を受けたりしたら、かえってメンドーなことになりそうという気がした。

 しかし、逃げようにも支配人にしっかり見張られているし、こうなりゃ挨拶に行かねばならない。

 で、支配人に教えられた場所にたどり着くと、先ほどの○○氏。
 なんと向こうからこちらを見つけて、笑顔で敬礼している。

 「本官の案内は、お気にめしましたでしょうか?
  先ほどは勤務時間前でありましたため、中座してしまい、誠に申し訳ありませんでした」

 言葉づかいもガラリと違う。
 目つきは相変わらず鋭いのだが、角刈り頭の上には警察官の帽子が乗っているではないか。

 町で唯一の交番だという。
 「確かキャンピングカーの旅とおっしゃいましたね。今日は駐車場でお泊まりですか? 気をつけて旅を続けてください。
 この町のために、いい写真を撮って、いい記事を書いてください」

 ふ~む…。
 そういうことであったか。

 自分の正体を明かさず、後で驚かそうとは…。
 このお巡りさん、けっこうお茶目な人かもしれない。

 ま、おかげで、この居酒屋での顛末は、お巡りさんの最後に見せた人なつっこい笑顔とセットになって、いまだによく覚えている。
 肝心のキャンプ場の方は、どこを取材したのか忘れてしまったけど。


旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 12:44 | コメント(0)| トラックバック(0)

神の降り立つ場所

 旅のテーマのひとつに 「パワースポットめぐり」 があるが、もともと “パワースポット” とか “スピリチュアル・スポット” といわれる場所は、古来より 「聖地」 とされてきた場所であることが多い。

 そういう場所は、いずれも神秘的なたたずまいを特徴とするが、言葉を変えていえば、 「一度見たら忘れられない場所」 ということでもある。

 つまり、 「聖地」 とは “記憶に残る場所” として、昔から、人類が移動するときのランドマーク…すなわち道しるべとして使われていたという話が、この前BSテレビの番組で紹介されていた。

 ネイティブアメリカンたちにとっては、グランドキャニオンやモニュメントバレーがそういう道しるべであったし、オーストラリアのアボリジニ人たちにとっては、エアーズロックなどがそれに当たる。

▼ グランドキャニオン
グランドキャニオン2007

▼ モニュメントバレー
モニュメントバレー2007

 彼らは狩猟などで集落を遠く離れたとき、そういった自然のランドマークを頼りに自分たちの位置関係を把握していた。

▼ エアーズロック (Wikipedia より)
エアーズロック遠景 

 地図を持たない古代人にとって、そのようなシンボル的ランドマークは、 「混沌とした大地の広がりを整理してくれるもの」 として、いわば 「神の秩序」 を感じさせるものであったのかもしれない。

 そう考えると、エジプトのピラミッドなども、そのような自然のランドマークを人工的に造りだそうという試みであったともいえる。

 BSテレビでは、このほかに謎の古代遺跡とされるアイルランドの 「ニューグレンジ」 を紹介していた。
 この遺跡はストーンヘンジよりもさらに古い紀元前3000年代のものとされるが、四方から眺められる小高い丘の上に建てられており、やはりランドマークとしての機能を持っていたと考えられる。

▼ ニューグレンジ (Wikipedia より)
ニューグレンジ遠景

 建造目的が定かならぬ古代遺跡はみな一様に、 「宗教儀式の場」 という漠然とした説明で終わってしまうけれど、古代の巨大モニュメントは 「混沌とした空間を整理する存在」 として、みなランドマークであり、同時に 「この世の秩序」 を表現する場所として、宗教儀式の場であったのだろう。


 前回のブログで紹介した 『文藝春秋SPECIAL 「もう一度日本を旅する」 』 では、宗教学者の植島啓司さんが、やはり 「聖地には、地形的な特徴というものがある」 と書いていた。

文藝春秋スペシャル日本を旅する

 植島さんは、
 「聖地調査を30年もやっていると、なんとなくカンが働いて、聖地を歩いていてもあまり普通ではない場所にたどりつくことが多い」
 …として、熊野灘にそって国道42号線をクルマで走っていたときのことを述懐していた。

 熊野一帯は、昔から神道や仏教、修験道などの行者が行き交う宗教的な 「聖地」 として有名だが、植島さんによると、
 「 (このあたりは) 特定の宗教的聖地というよりも、もっと根元的な力の場みたいなものがそこらじゅうに潜んでいるのではないか…」
 という気分にさせるところらしい。

 それも、有名な熊野三山、熊野古道ではなく、和歌山の古座川とか奇絶峡とか三重の大丹倉 (おおにぐら) や太郎坊権現など、むしろあまり人が近寄らないところに、
 「いかにも熊野らしい」
 と思える場所があるのだとか。

 で、植島さんは、熊野灘から修験の聖地大丹倉 (おおにぐら) へと上がる山道を走っているとき、ふと 「丹倉 (あかぐら) 神社」 という (見落としそうな) 小さな看板を見つけ、宗教学者のカンを働かせて、クルマを止めて小道をたどり始めた。

 途中、 「なにか予感めいたものがあった」 。
 「以前もどこかで感じた」 気配が漂ってきたというのである。

 それが、 「聖地には地形的な特徴というものがある」 という話につながっていく。
 植島さんは、そこで 「ランドマーク」 なる言葉こそ使わなかったが、それは、熊野を行き交う修験者たちが、ひとつの道しるべとして記憶するような深い印象を与えるスポットだったのだろう。

 では、そこには何があったのか。

 「やっとたどりつくと、そこは誰も気づかないような小さな神社で、祭壇も社 (やしろ) も礼拝所もなかった。
 ただ、しめ縄が施された巨大な岩 (磐座 = いわくら) が木漏れ陽を浴びてひっそりとたたずむだけだった」

 拍子抜けするような、あっさりとした記述だが、 「しめ縄」 「磐座」 「木漏れ日」 「ひっそり」 という単語の羅列だけで、そこから、植島さんがただならぬ光景を目にしたことが伝わってくる。

 たぶん、地形、高度、植物の生え具合などが複雑に絡まり合い、一口には表現できないような不思議なバランスを生み出していたのだろう。
 それこそ “スピリチュアル” という言葉でしか表現できない何かが、そこにあったのだと思う。

 私は、 「パワースポット」 として脚光を浴びる観光地よりも、人から見捨てられたような場所にたたずんで、スピリチュアルな光景に触れるのが好きだ。

 植島啓司さんも、こういう。

 「そもそも神が降り立った場所というのは、人が神のためにつくった祈りの場所とはまったく正反対なのです。
 それはそっとしておくべきだし、その謎を解き明かすのではなく、ただひたすら祈りを捧げるものなのかもしれません」

 人々が造った、 「神へ祈るための場所」 は、人を集める場所なのだから、目立たなければならないし、アクセスも便利でなければならない。
 しかし、 人里離れた 「神の降り立つ場所」 は、それを探すのも面倒だし、研ぎ澄まされた感覚も要求される。

 それでいい…と思う。

 時間の制約を受けないキャンピングカーの旅というのは、そういう場所を探り当てることが可能だから楽しい。
 本当の意味での 「パワースポットめぐり」 は、旅行日程が小刻みに組まれるような旅では味わえないものだと思う。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 16:08 | コメント(2)| トラックバック(0)

RV旅行文学

 「旅の文化」 を語る書籍コーナーには、まだキャンピングカーをテーマにしたものがない。

 以前、そんなようなことをこのブログで書いたけれど、
 「では外国にはあるのか?」
 というと (これもまたずっと昔このブログでも書いたことがあるけれど) 、キャンピングカー先進国のアメリカでは、すでに50年前にそういうものが登場している。
 ジョン・スタインベックの書いたキャンピングカー文学の古典 『チャーリーとの旅』 が、それだ。

チャーリーとの旅
 
 これは、スタインベックが老プードルのチャーリーと一緒に、ワンオフのキャンピングカーでアメリカを1周したときの話だが、単なる旅行記ではなく、キャンピングカーという野外で寝泊まりするクルマから眺めるアメリカ社会は、 「新聞」 や 「雑誌」 で理解するアメリカ社会とどう違うか? という視点があって、とても面白かった。

 スタインベックが犬と一緒に旅に出たのは、1960年。
 58歳のときだった。
 
 それから半世紀 (50年) が過ぎた。
 そろそろ日本でも、プロの作家が書く 「キャンピングカー旅行文学」 なるものが生まれてもいい時代になったように思う。

 ただ、そこがまだ歴史の浅い “乗り物” だけに、書き手がいない。
 鉄道のローカル線などを回る旅行記を書く作家なら相当数いるというのに、キャンピングカー旅行記を書く職業作家というものは、まだ日本にはいない。

 もちろん、普及の過程にあるものは (何でもそうだが) 、使い方や効用を説くノウハウ情報の方が先行し、小説やエッセイのネタとして熟成するのはその後のことになる。
 しかし、日本にも 『チャーリーとの旅』 のようなキャンピングカー旅行文学が生まれるようになってくれば、それこそ本当の意味で、 「社会から認知された」 という表現が使えるようになるはずだ。

 “キャンピングカー旅行文学” なるものがまだ誕生していないにせよ、ただその土壌は整ってきたように思う。
 つまり、旅行記として書くべきテーマが日本にはたくさんあることに気づいてきた作家たちが増えてきたのだ。

 たとえば、作家であり映画監督でもある椎名誠さんは、海外で長年キャンプしてきた経験などと照らし合わせ、日本の風土について次のような考察を行っている。 ( 『文藝春秋SPECIAL 「もう一度日本を旅する」 』 2010 Summer No.13季刊夏号)

文藝春秋スペシャル日本を旅する

 椎名さんは、そのムックの巻頭エッセイ 「歩く旅 - 私の次のテーマ」 において、
 「還暦を過ぎたあたりから、日本の良さがじわじわとわかってくるようになってきた」
 と書き、アウトドア作家のC・W・ニコルさんの話を引いて、そのエッセイをこんな風に進める。

 「日本では、北海道の冬には流氷がやってくる。
 しかし、同じ時期に沖縄には珊瑚礁があって、ダイバーが海に潜っていたりする。
 ひとつの国でそんな両極の自然を同時に持っているところなんて世界中探してもどこにもない」

 さらに続けて、
 「日本はあちこち開発されたといっても、まだ濃厚な懐を持つ山国だし、海に囲まれている海国だし、国内を流れている川が3万5千本もある川国でもある。
 そして四季がある。
 秋には台風がやってきて、優れた 『水環境』 の循環システムができている。
 地下水脈が豊富なので、良い水がいたるところから出ており、それが火山などで温まれば温泉となる」

合掌の森の温泉

 こういう日本の優れた自然環境に対し、いちばん無関心なのが当の日本人だと、椎名さんは言いたいらしい。
 日本人は、日本の自然環境の良さを当たり前のように享受し、その “価値” に気づかないと、椎名さんは警告を鳴らす。
 たとえば、日本の優れた水質を確保するために、世界の企業がこぞって日本の水の争奪戦を繰り広げようとしているのに、日本の法律ではそれを守る条項すら用意されていない…とも。

 また日本の道路整備の完璧さ、さらに治安の良さにも椎名さんは言及する。

 「道路が安全、というのも日本を旅するときに外国人がまっさきに驚くことだ。
 中国の奥地やインド、南米の国などは、その国の人が同乗しないまま知らない道を夜走ることほど危険なことはない。
 たとえば崖崩れがあって道路が陥没していても、危険を知らせる警告ランプなどは何もない。
 日本では山賊が出てくることもないし、山犬の群などに遭うこともない。
 南米などを旅するとき、出会って一番怖いのが、まず何を考えているかわからない 『人間』 であり、その次が、やはり何を考えているのかわからない 『山犬』 の群である。
 (外国では) 山にいる人間はしばしば山に隠れていなければならない事情の人だったりするので、銃を持っていたりするのだ」

 現在日本では、観光シーズンともなれば、どんな山奥の道の駅でもキャンピングカーやミニバンで車中泊を行っている人たちがいるが、そういう旅行が可能なのは、それが日本だからということなのかもしれない。

 アメリカですらモーターホームの宿泊は 「RVパーク」 (RV専用キャンプ場) 以外では原則として認められていない。
 観光地の駐車場などにモーターホームで泊まっていると、必ず州警察やレンジャー部隊の見回りがやってきて、 「ここでの宿泊は危険だから専用施設に入るように」 と命令される。

 こう考えてくると、日本は、実にキャンピングカー旅行に適した風土・環境が整っているということが分かってくる。

軽キャンパーで旅するご夫婦

 この 『文藝春秋 SPECIAL 「もう一度日本を旅する」 』 というムックは、椎名さんのエッセイ以外にもキャンピングカー旅行の真髄を的確に表現しているさまざまな読み物が溢れていた。

 たとえば、放送タレントの永六輔さんは、旅を四つに分類して、こう述べる。

 「英語で旅を意味する言葉は四つある。
 『トリップ』 『ツアー』 『トラベル』 『ジャーニー』 だ。
 そのうち 『トリップ』 というのは、気分転換になる小旅行のこと。だから家の周りをのんびり歩くのもトリップのうち。
 『ツアー』 は、目的地を定めて出かける団体行動の旅。
 『トラベル』 は、出発から帰宅までの行程が計画的に決まっているもの」

 そう書いて、永六輔さんは最後の 「ジャーニー」 について、こうコメントする。

 「 (自分がいちばん) 好きなのは 『ジャーニー』 だ。
 これは予定も決めず、気の向くまま自由に出かける旅をいう。
 駅に着いてから、さあ、どこへ行こうかと考える。
 上り下りに関係なく電車に乗る。駅を降りたら、さて、どこを見て回ろうかと考える。
 行動はすべてにおいて、自由。そんな旅が理想だ」

 永さんは、ローカル線などを使った “歩く旅” を想定している。
 しかし、 「気の向くまま自由に出かける旅」 をさらに上手に楽しめるアイテムがキャンピングカーであることは、キャンピングカーを知っている人ならすぐに気づくと思う。

 ただ、残念なことに、キャンピングカー旅行は、鉄道旅行ほどにはまだ 「美学」 が備わっていない。
 確かに、ちょっとさびれたようなローカル線の風情は格別だろう。
 そこには、失われつつあるものへのノスタルジーも加担して、濃密な旅情が凝縮しているだろう。
 それに比べると、キャンピングカーは若い!。
 まだ “風情” などというものが付加される余地もないほど、若い。

 しかし、キャンピングカーが自由気ままな旅行に適したアイテムだという認知が広まり、それに注目するプロの旅行ライターなどが参入してくれば、日本にも世界に誇る 「キャンピングカー旅行文学」 生まれるはずだ。
 だって、世界的に見て、こんなにキャンピングカー旅行に適した風土の国も他にないのだから。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 14:46 | コメント(2)| トラックバック(1)

喫煙エリアの憂鬱

 10月から煙草が値上がりするという。
 愛煙家は、安いうちに備蓄しようとカートン買いに走っているが、これを機会に煙草を止めることを考えている人も相当数いるという。

 私は煙草を吸う。

 しかし、今後どうしようか…と思案中でもある。
 「健康のために禁煙する」 という考えはまったくない。
 小遣いを節約するために禁煙…という気もない。

 ただ、電車や映画館の中とかカミさんが支配しているわが家のリビングなど、 “禁煙区域” で過ごしているときは、煙草を吸わなくてもまったく平気でいられることを考えると、自分では、 「煙草を止めるときは案外すんなり止めてしまうだろうな」 という気もしている。

 でも、まぁ、値上がりするまでは吸うつもりでいる。

 それにしても、都会では、急激に煙草を吸うスペースが消滅している。
 駅構内、ホテルの中、道路。
 すべて 「禁煙」 区域になってきた。

 煙草を吸わない方なら、 それを 「当然!」 と思われるだろうが、自分のようなヘビースモーカーにはちと辛い。
 都内での所用を済ませて、
 「さて、一服」
 となると、もうカフェの喫煙コーナーにでも入るしかない。

 ところが、こういう煙草好き人間にとってホッと一息つけるオアシスのような領域に、堂々と煙草を吸わない人たちが詰めかけて、その “貴重な?” なスペースを奪ったりすることがあるから、泣けてしまう。

 駅構内のスタンドカフェ。
 どう考えても煙草なんぞには縁もなさそうなオバサマ方が3人、こんもりした背中を寄せ合って、談笑にふけっている。

オバサマ方の背中

 ただでさえ、喫煙エリアは席数が少ない。
 しかも、狭いガラス張りの密室に押し込められて、息する空気も薄そうな密閉空間の中で、コーヒーカップを手に持ったまま、一服したいがために席の空くのを待っている “愛煙家” が大勢いるというのに、このオバサマ3人組は、まったく頓着する様子がないのだ。

 で、その隣の 「禁煙エリア」 はどうかというと、清々しい空気に満たされた席がガラ空き。

 そっちに行けばいいじゃん。
 だって、ここケムいでしょ?

 …と思わぬでもないのだが、オバサマ3人は 「ケムい」 という感覚すらマヒしているようなのだ。
 「アハハハ」
 「ヒャヒャヒャ」
 と、素敵なくらいに大きな口を開けて、他の客の吐く煙を吸引する 「清浄機」 の役目を引き受けている。

 早く席空けてくんないかな…と、しばらくコーヒーカップを手に持って立っていたけれど、彼女たちが立ち去る気配は一向にない。
 クリームソーダかコーヒーフロートか知らないけれど、とっくに中身の空いたグラスに今度は水を注ぎ、ストローでかき回して、コップにこびり付いたクリームを水に溶かして吸い上げ、甘さの余韻を楽しんでいる様子。

 心の中で、彼女たちにそっと尋ねる。
 「ここケムくない?」

 煙草を吸わない人にとって、密閉された喫煙エリアは、絵に描いたような劣悪な環境だと思うのだが、そこでも平然としていられるというのは、やはりすごいことかもしれない。
 オバサマ方の胆力恐るべし。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 15:40 | コメント(11)| トラックバック(0)

『異邦人』

 日陰もない炎天下に体をさらしていると、脳内の水分が蒸発し、脳がスカスカのスポンジになってしまうような気がする。
 
 今年の夏は暑かった………いや、まだ現在進行形だ。
 9月に入ってからも、 “真夏” が続いている。

 すべての思考を停止させるような、真昼の太陽。
 そういう陽射しの中に立つと、いつも思い出す小説がある。

 アルベール・カミュの 『異邦人』 。

カミュ「異邦人」

 はじめて読んだのは中学生のときだった。
 一読して、何が何だか分からないような衝撃を受けた。

 読書が嫌いなガキではなかったので、この 『異邦人』 に接するまで、もちろんいろいろな大人の小説も読んでいた。
 しかし、 『異邦人』 は、それまで読んだどの小説とも違っていた。
 それまでの小説には 「あった」 ものが 「なかった」 のだ。

 最初のページから、それは 「何かがない小説」 だった。

 「今日ママン (母) が死んだ。もしかしたら昨日かもしれないが、私には分からない。おそらく昨日だったのだろう」
 …という介護施設で暮らす母の死を知らせる電報を受け取った主人公の独白には、圧倒的な空白の 「白さ」 が露出していた。

 もうその最初の1行から、その主人公が、普通の人間が持つような家族愛とか、人の死を悼む神経というものを持ち合わせていない、体温の違う生き物の気配が刻まれていた。
 しかし、同時にその1行は、人間の心には 「家族愛」 とか、 「死を悼む神経」 の外側に広がる荒野があることを教えているような気がした。

 『異邦人』 は何かが決定的に欠けていて、その欠けているものこそがテーマであるように思えたが、作者が何を訴えたいのか、中学生の自分には見当もつかなかった。
 しかし、この世には、 「意味」 をたどろうとしても、たどり切れない世界があり、 「意味」 をたどろうとすること自体が無意味な世界がある…という感触だけはつかめた。

 主人公は、母親の葬儀に “儀礼的” に参加した後、すぐに恋人と海水浴を楽しみ、砂浜でけだるい愉楽にまみれた時間を過ごし、最後は、太陽の暑さでもうろうとなった意識にうながされ、意味もなくアルジェリア人を射殺する。

 アルジェリア人を撃つ砂浜の描写がすごい。あの異様な静けさは、一度読んだら忘れられない。
 脳細胞が溶け、意識が混濁し、心も身体も衰弱していきそうな強烈な陽射しの中で、主人公は、極北の冷気に浸されるような絶対零度の世界に降りていく。

 どこまで降りて行くのか?
 人を射殺するという行為が、どのような動機からも導き出されない場所まで降りていく。
 「原因」 と 「結果」 が決してつながることのない荒野のような場所。

荒野

 そういう世界を見事に描いたという意味で、 『異邦人』 はいまだに 「文学」 の極北に位置している。

 カミュが 「不条理の作家」 と呼ばれるのは、 「条理 (因果律) 」 が支配する世界を否定したからではない。
 条理の 「外部」 を描いたからだ。

 「文学」 とは、言葉を使いながら、言葉が届かない世界を描くものだということを、カミュから学んだような気がする。
 炎天下にたたずむと、いつもそのことに思い至る。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 03:56 | コメント(0)| トラックバック(0)

旅の文化

 東京だと、新宿の紀伊国屋、あるいは東京駅近くの八重洲ブックセンター。
 こういう大型書店に行くと、著者、出版社を超えて、共通のテーマを持った書籍が一堂に集められる “キャンペーンコーナー” がある。

 たまたま先月に行った八重洲ブックセンターでは、 「旅の本フェア」 が催されていた。
 そこに集められた書籍の数は、ざっと見て、およそ200~300冊ぐらい。
 単行本もあれば、文庫本やムックもあった。

 そこには、どんな種類の本が集められていたか。
 
 まず有名人の書いた、旅をテーマにしたエッセイ集のようなもの。
 次に食べ物をテーマにしたグルメ本。

静岡県丁字屋のとろろ汁
 ▲ 「グルメ」 情報は今の “旅本” の基本中の基本

 温泉ネタの本も根強い。
 最近の傾向を反映するものとして、鉄道関係の本も多かった。

 目立つのは、中高年の山歩きに関するもの。
 これも初心者用の入門編のようなものから “文学者の愛した山” ってな感じの高尚なものまで含めると、相当な点数になりそうだ。

 また、旅というよりも、 「散策の勧め」 のような本も目立つところに並べられていた。東京の本屋さんだけあって、 「東京都内を歩いて回るための本」 というものがずいぶん出版されていることを知った。
 10年ぐらい前に始まった 「散歩」 ブームは、衰えるどころか、ますます隆盛を極めているようだ。

 「歴女」 という言葉すら生んだ歴史ブーム。
 これも格好の旅のテーマになるらしく、古城めぐりとか古戦場めぐりのためのガイド本がやたら目に付く。時代劇の主役たちに愛された 「宿」 とか、 「歴史に出てくる名湯」 のような企画も花盛りだ。

 注目したいのは、 「工場の写真集」 とか、 「廃虚の写真集」 のたぐい。
 “工場萌え” という言葉もあり、無機的な工場のたたずまいに 「美」 を感じる人たちが増え、そのためのツァーもあるときく。

 「廃虚」 も同様。
 “軍艦島” のような有名な廃虚を見せるツァーも相変わらずの人気で、そのようなツァーをまとめたガイド本もあったような気がする。

 だけど、どこを見回してもキャンピングカーが関わっている本は1冊もなかった。
 さびしいな…と思う半面、まぁ、しょうがないかな…という気もする。

 キャンピングカー関連の本や雑誌が、旅の書籍コーナーに入らない理由は、一言でいうと、 「歴史の浅さ」 だ。

 鉄道も、グルメも、温泉も、山歩きも、最低200年…というより、人類の歴史が始まって以来の、それこそ気の遠くなるような文化的蓄積を持っている。
 それらはみな 「旅」 を形づくる重要な要素だが、必ずしも 「遊び」 を起源に持つものではない。
 むしろ、生きるための辛さや苦しみを伴いながら、長い時間をかけて 「遊び」 として昇華されたきたものだ。

 その重みに比べ、キャンピングカー旅行はまだ日の浅い新興レジャーに過ぎない。そうおいそれと、旅の “先輩文化” と肩を並べるようにはいかないのかもしれない。
 キャンピングカーにおいては、今、ようやくその使い方のコツを説くガイドブックが立ち上がったばっかりなのだ…という言い方もできる。

 何でもそうだが、ひとつのアイテムが普及するときは、まずその使い勝手をガイドするノウハウ情報から始まる。
 それが一段落して、ようやくその効用とか、そのアイテムのかもし出す 「風情」 などといった観賞的側面にスポットが当たるようになる。

 「風情」 が語られるようになってこそ、はじめてそのアイテムが 「成熟期を迎えた」 という言い方もできるし、 「文化」 としての価値が論じられる地平も見えてくる。

 しかし、逆にいうと、 「風情」 といったものに人々の関心が移るようになるということは、もうそのアイテムは 「旬を過ぎている」 という言い方もできる。過去の領域に入ろうとしているから、美しく見えるのだ。

 たとえばフィルムカメラ、特にクラシックカメラなんかが、その領域で語られるものの典型的な例だ。
 自動車でいえば、スポーツカーなんかが、その領域に入ってきた。

 レコードだってそう。
 「CDより音がいい」 という神話は、確かに音響工学的に説明できることだが、それ以上に、失われていくものへのノスタルジーに依拠している。

山口県のSL
▲ SLは、今や鑑賞的な財産価値として人気

 これは国家の盛衰記と同じだ。
 歴史上、他国を圧倒して、その時代をけん引した国家はいっぱいあったけれど、その国が、今日に残るような文化を残すのは、むしろ衰退期に入って 「成熟」 の気配を示してからだ。

 要するに、人間にまつわる文化は、 「すでに過去」 という視点が浮上したときに、はじめて意識され、記録されるようになるのかもしれない。

 そう考えると、キャンピングカーをめぐる言説がいまだノウハウの領域にとどまっているというのは、逆にいうと、さらなる発展が約束されているということでもある。

 キャンピングカーは、間違いなくこれから伸びる。
 なんといっても、キャンピングカーにはハンパじゃない奥行きがあるからだ。

 「クルマ」 という入口から入りながらも、出口は必ずしも 「クルマ」 で終わっていない。
 キャンピングカーというゲートの先には、グルメ、温泉、山歩き、歴史探索などという、 “旅本コーナー” に登場するすべての世界が広がっている。

 つまり、キャンピングカーは、いろんな方向から押し寄せる旅文化を整理し、自分の好みに適った旅文化にアクセスするための “整流器” のようなものだ。

 道の駅のような休憩場所を基点に、観光地・温泉めぐりをしている人もいれば、オーソドックスなキャンプを楽しむ人もいる。
 釣り、スキーを楽しむ人もいる。
 自然の中に分け入って、写真を撮る人もいる。

 キャンピングカーに関心を持ってその世界を覗いた人には、そこに、ありとあらゆる 「旅の文化」 が凝縮しているのが見えるはずだ。

キャンプ場での憩い
 ▲ キャンプ場でたたのんびりキャンプするだけでも癒される

 キャンピングカー評論家の渡部竜生さんは、イベントの講演で 「キャンピングカーはタイムマシンだ」 と述べたことがある。
 それは、高速道路の渋滞などに出合っても、車内で寝泊まりできる機能を有効に使い、いくらでも時間調整ができるという意味を含めた言葉だったが、名言かもしれない。

 「旅」 は三次元世界を行き来するものだが、 「文化」 ともなれば、そこに 「歴史」 や 「未来予測」 などという時間軸が加わり、四次元世界に踏み出していくものとなる。
 そういった意味で、キャンピングカー = タイムマシン論という説にはすごい説得力があると思う。  



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 15:47 | コメント(1)| トラックバック(0)

山の上の鬼

 8月最後の日の昨日。
 去り行く夏が惜しくて、キャンピングカーによる日帰りのショートトリップを楽しんできた。
 仕事もちょっと絡んでいたので、取り立てて 「何をして遊ぶ」 という計画はなかったけれど、山の上に登り、空いっぱいに広がる入道雲の光景を堪能した。

入道雲20101

 入道雲が好きなのだ。
 世の中の自然現象で、あんなに見つめているだけで楽しめるものはない。
 ぬるい露天風呂などに浸かり、大空で繰り広げられる “入道雲劇場” を眺めていると、もうホント 「至福の時」 って思う。

 だって、どんどん形が変わる。
 龍も、鬼も、怪獣も出てくる。
 そういう迫力ある映像が、それこそ映画のスクリーンなど比べものにならない雄大な規模で展開する。

入道雲20102

 一度、犬を連れて自宅近くを散歩していたとき、茜色 (あかねいろ) に染まった西の空をゆったりと北上していくゴジラを見た。
 手と足があり、尾ヒレも付いて、口から火を噴いていた。
 あれはまぎれもなくゴジラだった。カメラを持っていなかったことを悔やんだ。

 入道雲では、特に、山頂からむくむくとわき上がる雲を見るのが好きだ。

入道雲20074

 時にそれが、山の向こうに広がる “別の雪山” のように見えるときがある。
 自然現象の変化で、これまでの測量術では測りきれなかった “幻の山” が姿を現した!
 そんなふうに遠近感が狂うような光景が好きだ。

 日本書紀には、斉明天皇が亡くなった後、朝倉山の上から大きな笠を来た鬼がその葬儀の様子をじっと見ていたという記述があるという。

 この 「鬼」 をめぐって、 「外国人と解するのが一般的」 などという説もあったりするが、実に、つまらん。
 そもそも鬼のことを 「大和朝廷に滅ぼされた日本の先住民族」 とか 「山賊」 などと説明する合理主義的な解釈は、奥行きがなくて、味気ない。

 朝倉山の上に現れた 「鬼」 は、 “鬼のような形をした入道雲” だったかもしれない。

 しかし、それは 「鬼の実在」 を信じた奈良・平安期の日本人にとっては、 「雲の形を身にまとった鬼」 だったのだ。

入道雲20103

 奈良・平安期を生きた日本人と今の日本人では、まったく同じ景色を見ても、それぞれ異なる別世界を眺めることになる…という話がある。
 「赤」 「青」 「緑」 の三原色の概念が導入された近代日本人の見る自然と、 「茜」 「朱」 「藍」 などという呼び名に馴染んでいた昔の日本人とでは、同じ自然を見ても、異なる世界を感じていたという。

 色の感じ方ですら、もう古代人と現代人は違う。

 鬼の実在を信じていた人々の目に映っていた 「自然」 とは、はたしてどんなものだったのだろう。
 限りなく恐ろしい世界を、そこに見ていたのか。
 それとも、われわれの感受性を超える美しい世界を見ていたのか。
 たぶん想像しても、想像しきれないと思う。

 精霊や妖怪の実在を信じる精神構造を、 「未開の思考」 として遠ざけることで、われわれの合理主義は発達してきた。
 しかし、 鬼の実在を信じるという精神世界を、私は嫌いではない。



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 15:15 | コメント(0)| トラックバック(0)
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