町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

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高速無料化とRV

 民主党政権が公約として掲げる 「高速道路の無料化」 が実施されるようになれば、それはRV (キャンピングカー) 業界にどういう影響を与えるのか?

 この前行なわれた 「JRVAキャンプラリー」 の夜、ビルダーの社長たちと酒を酌み交わしながら話していたら、いっときそんな話題で盛り上がった。

首都高の風景01

 「高速道路の無料化」 は、実際に実施されないかぎり、不透明なものをたくさん残している。

 ・ その財源はどうするのか?
 ・ 渋滞が今まで以上に発生するのではないか?
 ・ 二酸化炭素の排出量が増え、地球温暖化政策に逆行するのではないか?

 そういう声はいまだに根強いし、それに対して反論する人たちの主張も、理想化された面が目立ち、実証性がどれほどあるのか疑わしい。

 しかし、捉えようによっては、この 「高速道路の無料化」 という考え方は、日本の産業構造を変える “力” があるように思える。

 さらに、ひょっとしたら文明論的な視野に立つ議論も可能になるかもしれない。
 そして、それに対してキャンピングカー産業が提起できる問題もたくさんありそうな気がする。

 …と、まぁ話は大きく広がりそうなんだけど、その前に、 「高速道路の無料化」 によって日本の将来がどう変わるのか、それついて明確な意見を持っている人の声を聞いてみよう。

 『週刊朝日』 の10月2日号には、無料化政策を発案をしたとされる山崎養世氏へのインタビュー記事が掲載されていた。

 まず、高速道路の料金が高いことの弊害を、山崎氏はこう語る。

 「高速料金が高いことが、今までの物流コストを押し上げ、日本経済とりわけ地方経済を弱らせていた。
 物流コストが下がれば、地方の企業や農業の競争力が高まる。新しい産業やサービスが提供され、観光面でプラスになる」

 実際に、地方の高速道路となると、料金が高いためにほとんど使われていないのだという。
 07年11月に国交省が発表した 『道路の中期計画』 によれば、それまでに造った約8千kmの高速道路のうち、65パーセントにあたる5,200kmは、料金が高いため十分に活用されていないことが判明したという。

 つまり、交通の利便性を促進するための高速道路なのに、料金がかかるため、それが “宝の持ちぐされ” になっているというのだ。

 だから、高速道路を無料化して、身体の中に張り巡らされた血管の隅々にまで “血液” が環流するようになれば、地域経済の活性化を図ることができるというわけだが、そこで “例の異論” が登場する。

 「無料化になれば、高速道路の渋滞が慢性化する」 というものだ。

高速の渋滞01
 
 これに対し、山崎さんはいう。
 「かつての自民党政府は土日・祝日におけるETC利用者の 『千円乗り放題』 を実施しために、確かに渋滞が起きたが、混雑のピーク時に料金を安くしたのだから、渋滞がさらにひどくなるのは当たり前。
 曜日を問わず無料化すれば、むしろクルマの流れは分散化し、渋滞の緩和につながる」

 実際に、07年に国交省が出した 「道路の中期計画」 によれば、混雑している高速道路は全体のわずか5%に過ぎないという。
 そのことだけをとっても、 「無料化によって高速道路すべてが渋滞になる」 という見方が、いかに一面的な見方であるかが分かるとも。

 もうひとつ、 「無料化」 に対する疑義としてよく提出されるのが、
 「無料化になると二酸化炭素 (CO2) の排出量が増える」
 というもの。

 これに対しても山崎氏は、
 「無料化になると、CO2の排出量は逆に減る」
 という見方を示す。

 現在は、高速道路よりも、実は一般道の方がCO2の排出量が多い。
 クルマが排出するCO2は、走っているときだけでなく、アイドリング状態でも発生する。
 一般道では交差点も多く、渋滞も多い。そのときのアイドリングによる排出もバカにならない。

 だから、無料化によって高速道路を活用するクルマが増えれば、渋滞が減り、走行スピードも上がり、燃費が向上する。
 それによってもたらされるCO2の削減効果は甚大なものとなり、ある試算によると、高速道路と並行している国道の交通量が減ることでCO2の排出が310万トン減るという。
 同時にそれは、石油資源の有効活用を促進する可能性を高めることにつながる。

 こう見てくると、すべて “バラ色” に見える高速道路の無料化だが、さて、そのことによって 「地方産業の興隆」 はあり得るのか?

 私が、政権交代前の民主党が主張していた 「無料化」 に疑念を持った理由の一つは、高速道路ばかりにクルマが集中したら、一般道の交通に依拠していた諸産業……つまりは、現在国道沿いで営業されているガソリンスタンド、ファミレス、ホテル・旅館業などはどうなってしまうのか? という思いがあったからだ。

 一般道の開放性に比べ、高速道路はあまりにも閉鎖的だ。
 なにしろ、一度乗ってしまえば、次のインターまで降りられない。
 その間には、一般道を走る車両を相手にしていた無数の経済拠点が取り残されてしまう。

 山崎氏も、そこに問題があることを認めているらしく、高速道路の無料化によって各地方の経済拠点の活力を損なわないようにするためには、今のインターチェンジ (出入り口) を3倍程度に増やさなければならないと提案している。

 氏の意見はこうだ。
 「そのように出入り口を増やすことによって、一般道の経済拠点とのアクセスを維持すると同時に、出入り口周辺で新しい街づくりの機会が大量に生まれる。
 その新たな経済拠点には、医療施設や介護施設、保育園などを展開することも可能であり、そうなれば田舎が不便でなくなるために、若者が大挙して東京から地方に民族移動する。今までの料金収受員の雇用もそこで吸収できる。
 こうした無料化による新たな街づくりがもたらす経済効果は、7兆8千億になるという試算もある」

 …というのだが、そこに一番の問題が横たわっているような気もする。

 高速のインターを増やすというインフラ整備は難しいことではないだろうが、そこを新しい経済拠点としていくためには、その拠点にどういう 「形」 を与えるかというヴィジョンが必要となってくる。
 民主党政権の構想力が試されるのはそのときだ。

 高速道路の出入り口が増えて、そこに新しい 「街」 が成立したとしても、 「観光」 という視点から考えると、今までと同じ 「街」 が増えたところで何の魅力も生まれない。

 アメリカのインターステートハイウェイの場合は、ハイウェイを降りれば、スーパー、ハンバーガーショップ、給油所などが揃った “ミニタウン” がすぐ現れる。
 それらの街の光景は判で押したような均質性を示し、とても観光する気分になれない。

アメリカリトルタウン009

 しかし、国土の広いアメリカは、それでいいのである。
 そのような空間は、あくまでも旅の利便性を高めるためのエリアに過ぎず、観光地は、はるかその先に広がっているからだ。

 しかし、国土の狭い日本の場合は、高速の出入り口に隣接して生まれる新しい空間それ自体が 「新しい観光スポット」 になっている必要があり、またその場所が、従来の観光スポットと有機的につながっていなければならない。

 では、そのような高速道路のインターが増えたとして、そこからどのような観光タウンづくりが展望できるのか。

 「街づくり」 というと、どうしてもハコモノを思い浮かべがちになるが、まずそのような発想から脱却しなければならないだろう。

 たとえば、……たとえばだが、その 「街」 の入口は、いま新しいライフスタイルとして定着しつつある 「車中泊」 用スペースから始まってもいいのではないか。

 あるいは有料による電源設備を用意して、キャンピングカーユーザーの便宜を図る空間を広げてもいい。

 新しいインターチェンジを造って、そこに 「街」 を誕生させるとなると、自然の野山を潰し、木々を伐採してフラットな空間を広げ、ハコモノを増やしていくという着想が支配的になるが、その自然の高低差や木々のたたずまいをそのまま生かし、いっそのこと “インター直結のキャンプ場” などを造ってみてはどうか。

 そして、そのような場所にクルマを集中させ、あとは徒歩で楽しめるトレッキングコース、ハイキングコースなどの自然観光施設を周りに広げていく。

 そのことによって、次のような 「世界」 が見えてくるはずだ。

キャンプ場01 

 つまり、市場原理から導き出されたハコモノ主体の観光スポットが、どこも均質的な空間に統一されているのに比べ、自然の相貌は、山の稜線の形も、野に咲く花も、茂る木々も、地方によってみな異なるということが。

 人間が 「旅」 に求める一番大きなものは、今までと違った 「世界」 に触れることである。
 なのに、ハコモノ行政だけに頼る観光地づくりは、日本全国に 「同じ風景」 を増やすだけで終わってしまう。

風景001

 地方行政に携わる人々は、みな地場産業を育成し、地元の観光を推進させることに一生懸命努力しているが、その結果、 「独自性を強調しようと思えば思うほど、ありふれたものに終わってしまう」 という皮肉に直面している。

 それは、成功した観光地の例しか見ないからである。

 「成功」 は独創からしか生まれないが、 「成功例」 ということになると、分析され、研究され、マニュアル化されていく過程で、どんどん凡庸なものになっていく。
 こうして、似た機能を持つ観光システムが日本中に蔓延していくことになる。

 ハコモノが悪いとは言わないが、どの建築物も “目立つ” ことばかり考えて、結果的に似たようなデザインのものになっていく。
 高原に行けば、スイスのコテージを模したようなペンション、レストランに溢れ、海岸に行けば、アメリカ西海岸、ハワイあたりのリゾートじみた模造品ばかり。

 もう5年くらい前になるのだろうか、RV協会が主催した 「ノースラン」 の帰り、犬との “二人旅” を続けながら、稚内から道東を回ったことがある。
 見事に 「何もない!」 風景だった。
 左側には太平洋。
 右側は牧草地。
 淡々とまっすぐ伸びる道路際には古びた電信柱が並び、風に揺られた電線が寂しい音を立てていた。

 観光を当てにしていない小さな町に入り、地元民しか来ない大衆食堂でメシを食った。
 「旅をしているなぁ…」 と思った。

 観光産業を育てるには、 「観光地化されない場所」 を残すことも大事なのだ。
 「メリハリをつける」 といってもいいのかもしれない。

 日本の街づくりの思想が変わらなければ、私たちキャンピングカーユーザーは、いつしか同じような建物で構成された 「道の駅」 で休み、名前が変わっただけの 「ファミレス」 で食事をし、入口の位置だけが異なる 「立ち寄り湯」 で汗を流す旅しか味わえなくなる。

 それは、最後は 「くるま旅」 の死滅につながる。

 日本RV協会さんがせっかく提唱して、定着してきた 「くるま旅」 だが、日本列島どこに行っても同じ風景が連なっていれば、 「くるま旅」 という言葉も魅力を失いかねない。

 そのことに一番敏感に気づいているのは、すでにキャンピングカーで日本中を旅行しているキャンピングカーユーザーたちではないか?

 だから、RV (キャンピングカー) 業界が、高速道路無料化にともなう新しい街づくりに提案できる世界は、とても広く、その投げかける問題の射程は、とても長いように感じる。


 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 11:30 | コメント(4)| トラックバック(0)

RV協会キャンプ

 先週、日本RV協会 (JRVA) が主催する 「キャンプラリー2009 in 朝霧高原ペンギン村オートキャンプ場」 に参加してきた。

タープの写る樹の影

 このラリーは、協会に所属するビルダー・販社のスタッフと、ユーザーたちの交流を図る目的で運営されるもので、いわば 「お客さんとお店の人」 という垣根を取り払った形で、キャンプやキャンピングカーさらに多方面にわたる趣味の世界の情報交換を行おうというもの。

 いってしまえば、プロ/アマ問わず、キャンピングカー好きの人間が一緒に酒を飲んだりして、ワイワイ楽しもうというイベントなんである。

 参加家族は、約60組。
 集まってきたキャンピングカーは、キャブコンあり、バンコンあり、輸入モーターホームあり、トレーラーあり…で、そのメーカーもブランドもさまざま。

 こういうところが、各ショップ単位で行われるクラブイベントはひと味違うところだ。

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 ▲ 続々入場する参加者のクルマ。会場までのアプローチロードは少し狭かったが、大型車もトレーラーもなんのその

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 ▲ くつろぐ参加者たち。協会会長福島さんのサイト

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 ▲ イルミネーションを施したトナカイも “飛び入り” 。バンテック佐藤さんもファミリーで参加

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 ▲ 八重洲出版の梅林さんファミリー。バックナンバー、用品等を販売しながらのキャンプ。3人の男の子がお茶目で可愛い。

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 ▲ アネックス田中社長も “愛息 (?) ” アンリ君と参加

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 ▲ ハイマーの鈴木さん、フィールドライフの斉藤さんと福島良慶さん

 今回のキャンプ、何が特徴かというと、さすがRV協会が主催するだけあって、多種多様な趣向が盛り込まれていたこと。

 たとえば、アゲンのゲンさんが披露するアウトドア料理教室などは、ゲンさんのパフォーマンスもうまさも手伝って、 「料理ショー」 としての見せ所が豊富。

 知っている人は知っているらしいのだけれど、コンビニで売っているスナック菓子の 「ジャガリコ」 がマッシュポテトに化ける “手品” などには本当に舌を巻いた。
 あの 「ジャガリコ」 のカップにお湯を注ぎ、そこにマヨネーズを垂らして、スプーンかなんかでかき回す。
 すると、アララ、アララ…。

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 ▲ カップに入ったスナック菓子の 「ジャガリコ」 が……

 アッという間に、作りたてのマッシュポテトに “大化け” 。

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 ▲ アウトドア料理で “ゲンさんマジック” を披露するアゲンのゲンさん

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 ▲ ジャガリコマッシュポテトを試食する協会増田副会長夫妻

 砕いたポテトチップスを混ぜた玉子焼き…なんていう手品も面白かった。
 塩、コショウ、醤油などという調味料を一切使わなくても、味が出るのだ。

 ゲンさんいわく。
 「ポテトチップスというのは、塩、コンソメなどで味付けされた調味料の集大成。それを砕けば、その味がそっくり料理に伝わる」

 そのように、手抜きして、手軽に料理をこさえてしまうのが、アウトドアクッキングの “王道” 。
 ゲンさんレシピのいい加減さ (?) に、会場から笑いの渦が巻き起こる。

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 ▲ 地元のパン屋さんが開いた “焼き立てパン” の即売会
 
 一方、会場では、焼き立てパンの即売会、地元の豚肉試食会なんてのも開かれた。
 そのほか、子ども用イベントなども盛りだくさんだったのだが、食い意地の張っている私は、食い物イベントだけを熱心に見学ばかりしていたので、その他のイベントはパスしてしまった。
 (一所懸命やっていたスタッフの方々ゴメンネ)

09RVcamp-butaniku
 ▲ 豚肉の試食会。朝霧ブタはこのへんの名物だ

 豚肉の試食会では、豚ロースの塩焼き、ポン酢をつけたしゃぶしゃぶ、焼豚、ハム、ソーセージなどが次々と振る舞われたが、みんな食べた。
 これがうまいのだ。

 豚肉が焼かれている鉄板の下には 「戦前のブタ!」 というキャッチが貼られている。
 「そんなに長生きした豚なんですか?」 とスタッフに話を聞くと、いやいやそういう意味ではなくて、戦前に育てていた豚と同じ種類のものを復活させたもの…とか。

 昔の豚は、味も良かったが、育てるのが大変だった。
 そこで飼いやすいような品種改良が進んだけれど、味では “戦前の豚” にかなわない。
 そこで、昔の豚を復活させ、さらに高級なエサをふんだんに与えて、極上の肉を作り上げたのだという。
 その豚の写真を載せたパンフレットもあったけれど、確かにノーブルな顔をしていた。

 ……食べ物の話ばっかだな。
 このキャンプではよく食べたので、2kgぐらい太ってしまった。

 という感じの、のんびりした2日間でした。

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 ▲ 解散式前の集合写真。私の顔も小さく 『オートキャンパー』 と 『キャンプカーマガジン』 に載る予定です


旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 11:19 | コメント(2)| トラックバック(0)

アゲンのゲンさん

 日本RV協会 (JRVA) さん主催によるキャンプラリー (朝霧高原ペンギン村オートキャンプ場) を2日間楽しんできました。
 面白かったぁあ。

 私としては、日頃、仕事を通してしか話す機会のないビルダーの社長さんやスタッフの方々のキャンプ談義など聞けたことが何よりの収穫。
 「このキャンピングカーのコンセプトがどうだ」
 とか、
 「レイアウトを通して実現したかったものは…」
 ってな、話ではなく、
 自分たちのペット自慢とか、食材へのこだわりとか、好きな酒とか、そんなユル~イ話を聞いているのがとても心地よかったわけであります。

 今回のイベントがどんなものであったかということは、画像もアップしながらいずれ紹介したいと思うのですが、すっごく感心したのが、高野秀一さん……というより、 「ゲンさん」 のパフォーマンスの妙。

 例によって、アウトドア料理教室のインストラクターを務めていらっしゃいましたが、もう、その話術にはすっかりハマりましたね。

 意表を突く食材の選定、それを鮮やかに “食べ物” に仕立ててしまう手品のような手さばき。
 話題から話題へ飛び移るときの、あの芸術的な “間” の取り方。

ゲンさん01

 ゲンさんのファンには、すでにおなじみなのでしょうけれど、今回、取材という気持ちを捨てて、ただの参加者という視点に立ってゲンさんのパフォーマンスを見直してみたら、あらためて、その芸の洗練さに舌を巻きました。

 もう20年近い付き合いだというのに、そんなことゲンさんに言ったら、
 「町田、何をいまさら…」
 って怒られそう。

 ゴメンネ。

旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 00:12 | コメント(0)| トラックバック(0)

三島由紀夫の謎

 私たちの世代で 「小説が好き」 などと自称する人間は、たいてい、好きか嫌いかは別として、 「三島由紀夫」 という作家の本を、読むか読まないかは別として、語ったものである。

三島由紀夫01

 今の時代、 「小説好き」 とかいう人々が集まる場で、この作家が話題になることはあるのだろうか。
 きっと熱烈なファンはいるだろうから、どこかで崇拝者たちの集まりというのはあるのかもしれないが、私の周辺では、もう三島由紀夫という固有名を聞くことはなくなった。

 それは、ひとつには、いまだにあの不可解な割腹自殺が尾を引いて、彼のファンであった人々も、それを 「自分史」 の中にどう位置づければいいのか分からないという戸惑いがあるからだろうと思うのだが、もうひとつは、結局、三島が生前世に問うていた “三島的問題” というものが、今の日本には何も残っていないという事実があるからかもしれない。

 私も “時代の子” であったから、三島由紀夫という作家の著作はけっこう読んでいる。
 処女作の 『花ざかりの森』 に始まり、デビュー作ともいえる 『仮面の告白』 、吉永小百合や山口百恵などが出演する映画で評判を取った 『潮騒』 、金閣寺の放火犯を主人公にした 『金閣寺』 、2・26事件をテーマにした 『憂国』 、 『英霊の声』 といった話題作もフォローしたが、 『私の遍歴時代』 や 『文化防衛論』 のようなエッセイにも目を通している。

 が、はっきり言って、面白いと思ったものはひとつもなかった。
 かろうじて処女作を含む、ごく初期の短編数編にはものすごく感動したけれど、彼が大人になってから書いたものは、ほとんどピンと来なかった。

 誰もが寄せる感想なので、それをここで繰り返す必要はないのかもしれないが、一言で三島作品の印象を語ってしまうと、どの小説からもリアリティというものが感じられないのである。

 ところが、彼はこんなことをいったらしい。
 「私は、現実には絶対にありそうもない出来事をリアリスティックに書く」 (『盗賊ノート』)
 
 この言葉を、どこか別の本で読んだとき、 「不思議なことを言う人だな」 と思った。
 私の印象では、現実によく起こりそうな出来事を、きわめて観念的に書く作家というイメージがあったからだ。

 “リアリスティック” に書かれたものが、リアリティを保証するとは限らない。

 三島由紀夫は、たとえば、金閣寺に放火する若い僧の内面を、彫刻を刻むがごとくに、精緻に巧妙に穿っていくが、そこで描かれる人間の内面世界は、 「美への希求」 とか 「美への嫉妬」 などという抽象化された観念に過ぎず、生身の人間の手触りがごっそりと抜け落ちている。

 表から見ると壮麗な大伽藍に見えながら、中に入ると、きわめて貧しい抽象的観念だけを 「本尊」 とした、空虚な祭壇しか見えないという感じなのだ。

 新刊が出れば、一応は気になった作品は読んではみたが、その感想をたとえば読書好きの誰かと語ってみたいという気は全く起きなかった。

 しかし…である。
 三島由紀夫自身が書いたものにはほとんど興味を覚えなかったのに、三島をテーマにした批評家たちの書く“三島論”には、次から次へと圧倒されて、触発された。

 いちばん最初に読んだのは磯田光一の 『殉教の美学』 だったが、磯田氏の批評の方が、三島自身の書いたどの著作よりも数段面白くて、刺激的だった。

 磯田氏の三島由紀夫論は、セルバンテスの書いた有名な 『ドン・キ・ホーテ』 の紹介から始まる。

ドンキホーテ01
 ▲ あ、間違った…下が正解
ドンキホーテ03

 中世の騎士の時代が終わったにもかかわらず、騎士を気取るドン・キ・ホーテは、従者のサンチョ・パンサと二人で 「騎士道を生きる旅」 を続ける。

 キ・ホーテは、ただの風車を伝説上のドラゴンと間違えて戦うような人で、いわば狂人である。

ドンキホーテ風車

 「騎士道」 などというメンタリティが何の意味をなさない時代になったにもかかわらず、誇大妄想に取り付かれたキ・ホーテは、騎士としてのプライドとロマンを求めながら旅を続ける。
 そのキ・ホーテを、正気のサンチョ・パンサは、主人の狂気にうんざりしながらも忠実にケアしながら付き従う。

 だから、この物語は、現実を錯誤して虚しい空騒ぎを続ける “狂人” と、現実を直視する “理性の人” の物語と読めないことはない。

 そして、多くの人はこの物語の中に、滅び行く中世的ロマンの世界を生きるキ・ホーテと、勃興する近世の合理主義精神を生きるサンチョ・パンサという、時代が交代するときの 「寓話」 を読み込んだという。

 そんな主従の珍道中を描いた物語を、批評家の磯田光一氏は突然取り上げ、その 「ドン・キ・ホーテこそ三島由紀夫だ!」 と言い放ったのだ。

 ただし、
 「キ・ホーテが、風車がドラゴンと間違えたのではなく、風車を風車として、しっかり見抜いて戦ったのだとしたら?」
 という懐疑を提出したのだ。

 時代錯誤を生きる狂人キ・ホーテは、そこでにわかに今の時代そのものと戦う孤高の戦士という相貌を現してくる。
 「三島由紀夫という作家は、そのような人間だ」
 と、磯田光一氏は定義づけたのだ。

 この磯田氏の語り口に、青天の霹靂ともいう衝撃を受けて、若い私はいたく感動したものだ。

 続いて、野口武彦氏の 『三島由紀夫の世界』 という三島由紀夫論を読んだけれど、これも三島自身が書いた作品をはるかに凌駕するくらいの面白い評論だった。

 これは、三島をドイツ・ローマン派の文脈の中に位置づける作品で、三島を 「ロマン主義的人間」 と定義することによって、きわめてオーソドックスな浪漫派美学を描ききった。

 こいつにも相当ヤラれた。
 さっき記憶を確かめるために、本棚から取り出してみたら、やたらとアンダーラインが引いてある。

 「ロマン主義文学は、はじめから挫折を約束された文学である」
 なんていうところに、力強く傍線が引かれているのを見て、自分にも野口武彦の目線を通して見た三島由紀夫に相当入れ込んでいた時代があったことを思い出した。

 私は、磯田光一と野口武彦の 「三島論」 が双璧という感じを抱いているが、その後も岸田秀、野坂昭如、橋本治という人々が、ことあるごとに三島論を書いた。
 こんなに三島を語る人たちが多いということは、大いなる驚きであったが、ある意味で、 「当然」 という気もした。

 なぜなら、三島の書いたものの中に、文学としての謎のようなものは何一つなかったけれど、彼が次々と繰り広げる奇怪な実生活は、いつも謎に満ちたものばかりだったからだ。

 いきなりボディビルを始めて、筋骨隆々たる肉体を作ってみたり、映画にチンピラやくざの役で出演してみたり、自衛隊に体験入隊してみたり、今のディズニーランドにも似た虚構のフランス風邸宅を築いてみたり、エキセントリックな天皇制護持者として東大全共闘と討論してみたり、おもちゃの兵隊を集めたような 「楯の会」 を結成してみたり、…やることなすこと奇怪なことばかりだった。

からっ風野郎

 私は、いちおう 「知性の人」 という意識で彼のことを見ていたから、彼が何で次から次へと 「反知性的」 な行動をマスコミの前でさらすのか理解できなかった。

 彼の初期の作品や言動には、どれもヨーロッパ風味の 「エロス」 と 「タナトス」 に満ち満ちていて、私は、むしろ西洋型知性を謳歌する人なんだろうな…という期待を持っていたのだ。

 それが、突然胸板の厚みを誇るマッチョマンになって、あれれ? あれれ?
 …という間に、 “ギャグの人” になってしまって相当面食らった。

三島と日本刀

 きっと、何か “深い” 意味があるんだろう…。
 そう思うしかなかった。

 そこで登場した磯田光一氏の 『殉教の美学』 。
 ははぁ…。彼のドン・キ・ホーテ的なもの狂いは、やはり、彼の冷徹な認識に裏づけられた、孤高の戦士の哀しみであったのか。
 …とか思ってしまったのだ。

 しかし、いま考えると、三島由紀夫のピエロ的パフォーマンスの数々は、結局は自分の作品の貧しさを覆い隠すための必死な “演技” でしかなかったように思う。

 彼は、結局 「観念」 に生きる人間を描き続けたわけだが、人間の 「観念」 などというものは、時代によってコロコロ変わる。
 そのため、彼は奇怪なパフォーマンスを繰り広げることで、自分の古びた 「観念」 を、何か “奥行きのあるもの” のように仕立て直さなければならなくなる。

 「観念」 というものが、それでも意味のあるものだという信仰があった時代にはそれも通じたが、 「観念」 そのものが必要視されなくなったポストモダンの時代になると、万事休すとなってしまう。

 彼は 「作家」 というよりも、ある意味で優秀なジャーナリストであったから、あの時代に、来たるべきポストモダンの世界像が見えていたのかも知れない。

 そのとき、自分の 「作品」 を永遠に残す会心の方法が、彼の脳裏にひらめく。

 それが、市ヶ谷の自衛隊駐屯地に乱入して、決起 (クーデター) をうながし、その後に自らの腹を開いて自死するという、あの 「謎」 の割腹自殺事件である。

 なぜ 「謎」 かというと、彼の真の目的が、誰にも分からなかったからである。

 一部の人たちは、彼の 「熱い憂国への情」 に素直に涙したけれど、多くの知識人も庶民も、ただ唖然としただけで、彼の行動の意味を捉え損ねて、沈黙するしかなかった。

三島由紀夫01

 今から思うと、あれは自分の作品を 「永遠の価値」 として保存するための、一世一代の大博打だったように思う。
 彼の不可解な死によって、残された貧しい作品もすべて魅力的な 「謎」 に変わったからだ。

 「彼の書いたものには、きっと読者が理解できないような、何か深い意味が潜んでいるはずだ」
 一時 (いっとき) であったかもしれないが、そのような効果は実際にあった。

 なぜ、このような古い話を急に書くつもりになったかというと、少し前に読んだ大塚英志さんの 『物語論で読む村上春樹と宮崎駿 - 構造しかない日本』 という本の中で、非常に示唆的なエピソードが紹介されていたからである。

 それは、映画監督のヒッチコックが、 「謎」 の仕掛け方の究極の方法を見つけたという話だった。

ヒチコック01

 大塚氏の記述を噛み砕いて紹介すると、次のようなことになる。

 ヒッチコックがある日、列車に乗ると、外国人ふうの男たちが 「マクガフィン」 なるものについて話していることに気づく。
 ヒッチコックはその会話につい耳を傾けてしまうが、話を聞いているだけでは、 「マクガフィン」 が何のことだかさっぱり分からない。

 分からないので、よけい知りたくなり、聞き耳を立てながら、あれこれと推測するのだが、やはり分からない。

 そこからヒッチコックは、映画に観客をひきつけるためには、作中に 「マクガフィン」 を一つ配置すればいいのだと思いつく。

 つまり、登場人物にあれこれと 「謎」 の周辺を語らせるけれど、 「謎」 の正体そのものは語らせない。
 すると、映画の観客は、そのもどかしさに耐えられず、どんどんその 「謎」 の真相を知りたくて、作品を過剰に読み込んでいく。

 結局、 「マクガフィン」 そのものには何も 「意味」 がないのだけれど、その 「中身」 を欠いた空虚さが、ブラックホールのように観客の意識を吸い込んでいく。

 これが大塚氏が紹介する 「ヒッチコックのマクガフィン」 の概要だが、彼はこのエピソードを、村上春樹の小説を説明するための補助線として使った。
 しかし、私はそのとき、この話から三島由紀夫の割腹自殺の方を思い出した。
 彼の割腹自殺は、 「三島流のマクガフィン」 であったか…と、ようやくそこに思い至ったのだ。

 そうだとしたら、素直に頭が下がる思いもする。
 これ以上の 「マクガフィン」 を設定することは、もう誰にもできないだろう。

 三島由紀夫は最初から “マクガフィンの人” で、磯田光一氏も野口武彦氏も、みなそのマクガフィンの魅力に引っかかったのだ。それはそれで、三島の凄さだなぁ…とは思うけれど。

 このヒッチコックの 「マクガフィン」 を紹介した大塚英志氏は、文学の無効性を主張する一方で、それでも 「近代文学」 をもう一度見つめ直さなければならないという使命を自分に課す。

 しかし、日本の 「近代文学」 なるものは、三島由紀夫を近代文学の立役者として認めた時点において、すでに死んでいたのかもしれない。
 日本において、ポストモダンなどという言葉がささやかれる前に、すでに 「近代文学の死」 を宣告してしまったのは、ひょっとして三島由紀夫ではなかったか。
 今ではそう思う。

 「近代文学」 なるものが、 「物語」 の “自意識” として生まれてきたものだとしたら、日本において、その “自意識” を究極の形まで追求したのが三島由紀夫だった。

 つまり、彼の作品は、作者の自意識が純粋な観念として結晶したものばかりである。
 そこには 「人間性」 も、 「悪魔性」 も、 「美学」 も、 「死の意識」 も、 「超越性」 もすべてあるが、 「人間」 も、 「悪魔」 も、 「美」 も、 「死」 も、 「超越」 もない。
 あるのはすべて三島由紀夫という明晰な頭脳がつくり出した 「観念」 でしかない。

 そこには、近代文学と近代芸術が抱え込んだ、どこかザラザラした、不透明で混沌とした 「人間の手触り」 というものがない。
 そのことに最も深く気づいていたのは、実は三島由紀夫自身ではなかったかと思う。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:35 | コメント(4)| トラックバック(0)

キリコの世界

 われわれは 「イタリア」 という言葉から、人間性を謳歌する享楽的で、現世的な文化風土を想像しがちである。

 しかし、そのような 「明るく陽気な」 風土が広がるイタリアというのは、ローマ以南、ナポリやシチリアのような地中海世界に限られたものだ。

 トリノのような北イタリアには、それとは違ったイタリアが存在する。
 春や夏のイタリアではなく、秋と冬のイタリアがある。

 シュールレアリズムの祖といわれるジョルジョ・デ・キリコは、そのようなイタリアを描いた画家だ。

キリコ002

 かーんと晴れ渡った、限りなく透明な空の下に横たわる、人のいない街。
 あまりにも晴れ渡った空が、遠近感をなくして、 「空」 に思えないように、キリコの描く空は、すでに 「空」 とはいえない別の空間になっている。

 午後の一瞬を、 「永劫の時」 に凝固させたまま動かない太陽。
 その太陽が浮かんだ空もまた、秋の日差しを凍結させたまま、流れの止まった 「時」 の中に眠っている。

キリコ_11

 地上に立たされた人影は、人なのか彫刻なのか区別もつかず、永劫の時間に閉じこめられた風景に 「不安」 の彩 (いろどり) を添える役割しか持たされていない。
 そこには、人間の住むことを拒むような、どこか超越的な気配に染められた世界が描かれている。

キリコ003

 キリコは、自らの絵画を 「形而上学絵画」 と呼んだ。
 この世を超越した思念や感性に満たされた 「絵」 という意味だ。

 つまりは 「この世ではない世界」 を描いた絵であり、現実としては見ることのできない風景を捉えた絵ということである。

 かといって、それはダリやルネ・マグリットの描いたシュールレアリズム絵画のように、「この世に存在しないもの」 が描き込まれた絵ではない。
 イタリアには普遍的に存在するファサード、広場、噴水、彫刻などが描かれているに過ぎない。

 この世にないものなど一つも描かれていないのに、なぜ彼の絵からは 「非現実感」 が伝わってくるのか。
 
 それを考えることは、われわれの住む 「世界」 ……具体的には、「近代」 という時代区分の中で生きている私たちの 「精神風景」 がどんなものであるのかを考えることにつながってくる。

遠近法的な世界観の誕生

 キリコの絵に漂う 「非現実感」 というのは、作図的な分析をしてしまうと、キリコが近代絵画の手法を意図的に “無視した” ところから生まれている。
 具体的にいうと、 「消失点作図法」 という作画方法を、 「取り入れながら、壊した」 ところにある。

 「消失点作図法」 というのは、一般的に 「遠近法」 といわれる絵画技法で、画面の中心に、すべての物を吸い込んでしまう 「消失点」 を設け、そこから放射状に逆放射される “架空” の放射線に沿って、建物、人物などを配置していく描き方をいう。

遠近法002

 遠景の建物は、それらの放射線に沿って小さく描かれ、手前の建物は大きく描かれることによって、見かけ上の “奥行き” を演出するというのが、近代的遠近法の考え方だ。

 この遠近法は、ルネッサンス絵画の中で生まれ、その後、近代絵画に至る過程のうちに、より精緻に理論化され、今では現代美術のリアリズムを支える根幹となる作図法として定着したが、その成立には 「近代的世界観」 が大きく関係してくる。

遠近法001

 現在のわれわれは、これらの絵を観たときに、人間の眼の動きに忠実に 「世界」 を捉えているように感じる。
 しかし、それは人間の自然な眼の動きではなく、実は、数学的に計算された人工的な “視線” でしかない。

 それは江戸時代の浮世絵とか、ルネッサンス初期の宗教画のような、近代絵画が誕生する前のフラットな絵画と比較してみると、よく分かる。

浮世絵01

 近代以前の人々が描いた 「空間」 は、近代以降の人々と同じ 「空間」 を見ていたはずなのに、奥行きを失った、ベタっとした平面で描かれている。

ジョット宗教画01

 これを、 「昔の絵描きは幼稚で、現代の絵描きは上手くなった」
 と、捉えてはいけない。
 近代以前の絵描きたちは、それでも十分に、この世の 「現実」 を描いたと信じていたのだ。

 近代絵画は、 「消失点作図法」 の完成によって、それまでの絵画にはなかった 「立体感のある現実」 を実現させたわけだが、それが、人間に何をもたらしたかというと、 「世界」 には “奥行きがある” という啓示を授けたといってもいい。

 近代に生を受けた人間たちは、 “奥行き” という概念を持つことによって、近いモノと遠いモノの距離を 「計測可能なもの」 として眺める視点を確保したことになる。
 それは合理主義に則った 「自然科学的な目」 を持つことを意味する。

 たかが絵画が、人間の意識構造を変えるなどということは、現代人には信じられないことだろう。
 しかし、写真や映画のような映像文化が誕生しない前の時代を想像してみると、絵画が人間の精神に多大な影響を及ぼしていたことが見えてくる。

 ヨーロッパ中世から近世にかけての時代。
 遠くから旅を続け、各地に散らばる町の教会を訪れた巡礼たちは、そこに掲げられる宗教画を眺め、人智を超えた神の世界から届くメッセージを受け止めたはずだ。

聖母像01

 それらを眺めた彼らは、キリストの受難に涙し、背徳にまみれた町が劫火に包まれることに恐怖し、赤子を抱きかかえるマリア像に癒されたことだろう。
 写真も映画も知らない時代の人にとって、絵画は圧倒的な迫真性を持つ唯一無二のビジュアル文化だったのだ。

ジョット002

 その時代、絵画の与える “感動” は現代人には及びもつかないものがあり、信仰心の厚い人たちは、宗教画の前で、感涙にむせび、ひれ伏していたはずなのだ。

聖母像02

 近代以前の人々は、絵画に “奥行き” を求める必要がなかった。
 そこに描かれた 「世界」 がストレートなメッセージだったからだ。
 彼らの 「世界観」 は、見る物、触れる物すべてを、神のメッセージとして捉えるところから生まれてきたから、近代絵画から生まれた 「遠近法的空間」 などを知ったとしても、彼らは何の興味を示さなかっただろう。

 しかし、近代社会が成立するようになると、宗教的世界観に代わり、自然科学的な世界観が浮上してくることになる。
 自然界は、数学的に、物理的に計測可能なものになり、その数学的な計算に従って、絵画空間を再構築しようという動きが出てくる。
 「消失点作図法」 という遠近法は、そのような “近代の眼差し” から生まれたものだ。

 あるいは、こうも言える。
 絵画で実現された 「遠近法的な視覚」 が“近代の眼差し” を生んだ、とも。

 両者は、童話の 『ちびくろサンボ』 に出てくるトラのように、お互いの尻尾をくわえて、木の周りをグルグル回っているうちに、バターに変容したのだ。 

遠近法001

 そのような、 “奥行き” のある絵画を眺めることによって、人は、それを見ている揺るぎない 「自己」 と、そして自然科学的に計測可能な 「対象物」 の分離を、次第に意識するようになっていく。

 世界を眺める 「自己」 。
 眺められる 「世界」 。

 この二つが明瞭に分離できるという思想こそ、近代合理主義の源になっている。
 どのように自然界が混沌としたものに見えようとも、それを眺めている 「自分」 だけは揺るがない。

 「近代的個人」 というのは、そこから生まれた。

 近代哲学の祖デカルトの 「コギト」 も、実はそのような近代的感受性の中から育 (はぐく) まれたものだといえよう。

自己が不安にさらされる

 ジョルジョ・デ・キリコは、その近代に確立された 「揺るぎない自分」 というものを、再び解体するような絵を描いた人だ。

 キリコの絵を前にすると、理由のはっきりしない不安、けだるいメランコリー (憂鬱) 、得体の知れない恐怖が、足音を忍ばせながら、そぉっと近づいてくるような気配を感じる。

 彼の絵は、 「近代的な個人」 というものが、実は仮構の存在であり、その寄る辺 (よるべ) となる合理主義的な思考というものが、安定感を欠いた危ういものであることを教えてくれる。

 それを作図的に分析すると、近代的遠近法を狂わせる手法が使われていることに、まず注目しなければならない。

 下の絵は、有名な 「街の神秘と憂鬱」 という絵だが、左側の白い建物と、右側の黒い建物の輪郭をなぞる線が、それぞれ別の消失点に向かっていることが分かるだろう。
 さらに、黒い建物の隅にうずくまる馬車は、両側の建物とはまた別の方向に向かう輪郭線を示しており、この絵の中に、無数の 「消失点」 が存在することを伝えてくる。

街の神秘と憂鬱01
 ▲ 「街の神秘と憂鬱」

 キリコは、この絵で、近代絵画の遠近法を忠実に取り入れながら、同時にそれを壊している。

 つまり、ここには、「世界」 を見る確固たる 「自分」 は存在しない。
 「自分の眼」 は無数に増えて散らばり、 「統一された自己」 を裏切り続ける。
 キリコの絵に漂う 「非現実感」 というのは、 「現実を捉えきれなくなった自己」 へのおののきから生まれてくる。

 そこにはまぎれもなく、 「自己の絶対性」 を主張して止まない 「近代」 への懐疑が潜んでいる。
 だから、ここに描かれているのは、近代の意匠に包まれた人間が、その意匠を剥ぎ取られたときの、生々しい 「生の実感」 そのものなのだ。
 人は、本来は、このようにして 「世界」 を観ているといっていい。

 今われわれが、絵画、写真、映画、ゲーム類を通してさんざんなじんできた 「3D画像」 は、実は 「安定した自己」 を前提とした “近代的感受性” に支えられたものでしかない。
 それは、「見る自己」 と 「見える対象」 の間には、科学的に計測可能な 「距離」 があるという盲目的信仰に依拠するもので、その  「距離」 への信頼を失ってしまえば、 「世界」 はたちどころに、夢のような世界に近づいていく。

 しかし、それは、ダリやマグリットが描く幻想世界とは別のものだ。

ダリ「内乱の予感」 
 ▲ ダリ 「内乱の予感」

マグリット「ピレネーの城」
 ▲ マグリット 「ピレネーの城」

 絵画の中には 「幻想的な絵」 というものが数多くあるが、多くの幻想画が、単なる“不可解”なるものをたくさん集めたコラージュによって荒唐無稽の世界を描いているのに比べ、キリコは近代的な作図法そのものに中に、その破綻を見出した。

 そこには、揺るぎないと信じていたものが遠のいていくときの、取り残された者を襲う 「根源的な寂しさ」 が宿っている。
 そして、その寂しさは、人が、様々な近代的意匠を脱がされて、原始の人間に戻っていくときの懐かしさにも通じている。

 キリコの絵に漂うメランコリー (憂鬱) が、ノスタルジー (郷愁) ともつながっているのは、そこに理由がある。

キリコ005

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 21:32 | コメント(4)| トラックバック(0)

オカマにモテる術

 オカマの人って、面白いよね。
 ときどき顔を出す居酒屋で、カシラを塩で焼いてもらって遅い夕食をとっていたら、隣りのオカマバーのママさんがふらりと入ってきた。

 「マスター、やきそば! お客が来ないんで、鏡を見ながら自分を口説いていたら、フラれちゃったわよ。あんな “ブス” にフラれるなんて、私も落ちたものよ」

 はるな愛というよりは、マツコ・デラックスに近いそのママさんのひと言で、居酒屋の薄暗い照明が舞台のスポットライトのように、パッと輝いた。

 どんよりとした空気の中で、深夜のスポーツニュースがけだるく流れていた店内が、 《彼女》 がカウンターに腰掛けただけで、マフィアや、くたびれた芸人や、不倫カップルがひしめくような、妖しくも華やかなバーカウンターのように見えてきたのが不思議だった。

 あの人たちが持っている 「空気を変える力」 というのは、どこから出てくるのだろう。
 たぶん、それは、自分自身を自虐ネタとして使える、ふてぶてしいサービス精神から生まれてくるものだろう。

 《彼女》 たちの会話が面白いのは、自分自身をどんどんピエロ化して、 「自分を笑ってもらう」 精神に徹しているからだ。
 だから、オカマバーのお客は、 “バカで間抜けな” そのオカマを、遠慮なく笑い飛ばす快感を与えられる。

 しかし、調子に乗ると怖い。
 《彼女》 たちは、自分を自己対象化できる冷徹な視線を、今度はお客の方に向ける。

 《彼女》 たちが、一番嫌う客は、「自分は傷つかない高みに昇ったまま、周りの失策だけを笑っている」 自己チューの客だ。

 いい気になってオカマの自虐ネタを笑い飛ばしている客は、たちまちのうちに、今度は自分が試される場に置かれる。
 その “取り引き” が飲み込めない客は、あけすけなからかいと、辛らつな皮肉を浴びることになる。
 オカマバーは 「人間道場」 だな…と、つくづく思う。


 しかし、その要領をつかんでさえいれば、オカマバーは無類に面白い。
 昔、一晩で、給料の半分を使ってしまったことがある。
 その月の後半は、ほとんど水だけを飲んで寝ていたが、それでも後悔しなかった。

 池袋の場末のスナック街を一人でふらついていたとき、妖しげなバーの前にたたずんでいた不二家のペコちゃんみたいな女の子に声かけられた。

 「1時間2千円だけでいいから、遊んでいかない?」

 声は、男そのものだった。

不二家ペコちゃん02

 そこは、はげかけたカウンターの前に、ひび割れたスツールが6脚だけ並んだ粗末な店だった。
 客の姿は一人も見えず、真ん中のスツールに腰掛けた私は、たちまちのうちに、ドサ回りの田舎芝居のような一団に取り囲まれた。

 ペコちゃんとママさんは “美人系” 。
 残りの2人は “怪物系” 。
 《彼女》 たちの乾杯の音頭が店内に鳴り響き、たちまちのうちに、店は、リオのカーニバルのような喧騒に包まれた。

 “異次元” の世界に引きずり込まれるのは、あっという間だった。
 気づくと、すでに私は、飛び込みでこの店を訪れた 「芸能スカウト」 に仕立てられていたのだ。

 「ね、ね、あなた芸能界の雰囲気を知っている感じの人よね、ひょっとして、新人タレントを発掘しているスカウトマンじゃない?」

 もちろん 《彼女》 たちだって、本気でそう思っているわけではない。
 話題をスタートさせるための、 “空気” をつくっただけなのだ。

 「おいおい、よせよ。今日は仕事を忘れて、ただ飲みに来ただけだから、いくらタレント性がある人材がここにいたって、今日は取り合わないからね」

 冗談めかしてそう答えただけなのに、それで、 《彼女》 たちの、今晩のお客のからかい方が決まったようだ。

 後は、タレントになりたい 《彼女》 たちが、次々と自分の歌を披露し、私がそれらをもったいぶって審査し、店は擬似オーディションの場となった。

 「だめだめ。そこは高音部がヴィブラートしないとだめ。少しは松田聖子でも勉強しろよ」
 とか、私が根拠のないウソを並べ立てると、
 「じゃ、先生ひとつ歌ってよ」 
 と迫ってくるので、テキトーな歌を歌っていると、
 「すごい! さすがプロ。勉強になるぅ!」
 と、虚偽の賛美の大嵐。

 すべては 「虚偽」 。
 《彼女》 たちのタレント志望も虚偽ならば、私のスカウトマンも虚偽。
 しかし、 “まじめに” 虚偽の人格を装い続ける私に、虚偽の 「女性」 を生きている 《彼女》 たちは、そこに 「同僚の匂い」 を嗅ぎ取ってくれたのだと思う。

 もし、本当に私が芸能関係の仕事に就いていたら、 《彼女》 たちの反応はもっと冷ややかなものだったろう。 
 
 「1時間2千円」 の制限時間はとっくに過ぎて、 「ここから後は1時間3千円コースだけどいい?」
 その後は、 「これからは、1万円コースよ。いい?」
 どんどん高くなっていく延長料金に、もう神経がマヒしていた。

 それだけ楽しかったのだ。
 《彼女》 たちは、それだけ楽しい時間を作ってくれたのだ。

 「よーし、ナミちゃんに水割り一杯。ママさんにはブランデーロック」
 …ってな感じで、ついに明け方を迎えてしまった。

 ああ、…こんな感じで、カネをむしりとられるのだな…と分かった時には、もらったばかりの給料の半分を、一晩で使い果たしていた。

 でも不思議と私は、それを後悔していないのだ。

 あの時、自分は、八方ふさがりのどん底に追い詰められていた。
 それは、 「自分はこうであらねばならぬ」 という、目指すべき自分と、そこに到達できない自分との乖離を感じていたときのアセリから生まれたものだった。

 その鬱屈した思いが、一晩で、洗い流されたように思う。

 たぶん、それは 「自分の自己像なんてパッと変る」 という心境の変化となって訪れたような気がする。 
 自分の実人生とはまったく異なる、虚構の自分を演じ切ることで、何かがふっ切れたのかもしれない。

 虚構の 「性」 を生きるオカマたちは、その不安定さと引き換えに、透徹した認識力を獲得する。
 《彼女》 たちは、女であることに甘えている女性も許さないが、それ以上に威張った男を許さない。

 私は別の店で、女からのモテまくりぶりを吹聴していた男が、コテンパンにやりこめられる現場を目撃したことがある。

 「男」 という性にあぐらをかいて、男の既得権益のようなものを振りかざす男に対して、 《彼女》 たちは、徹底した皮肉と嫌味を投げつける。
 歪んだ性 (?) を生きる 《彼女》 たちは、歪んだ自意識を持った人間を許さない。

 自分がどういう 「男」 なのか知りたい男性は、一度オカマバーに行くといいのかもしれない。

 参考記事 「マツコ・デラックス」
 

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 23:58 | コメント(2)| トラックバック(0)

転換期に立つRV

関西キャンピングカーショー

 「関西キャンピングカーショー2009」 に行ってきました。
 そこで気づいたことは、ミニチュアダックスフンドの多いこと。

 隣りの館でペットショーが開催されていため、そちらから流れてきたお客さんも多いせいか、会場には犬連れ来場者の姿がいっぱい。
 よく見ると、犬種としてダックスフンドが多いのです。
 「大阪はダックスの町だな」
 …と、妙に感心してしまったのです。

 帰って来て、カミさんにそう言ったら、
 「あなた、去年も同じことを言っていたわよ」
 と指摘されちゃいました。

 ま、うちで飼っている犬がミニダックスなので、ついつい同じ犬種に目がいってしまうのでしょうね。

クッキー幼少期01

 同じ犬種でも、犬はよく見るとみな違った風貌をしています。
 それぞれの飼い主にはみな見分けがつくのですが、あれだけ同じ種類がいっぱいいると、中には似た顔同士のワンコも出てくるんですね。 

 そんなとき、飼い主たちが、リードをベンチの脚かなんかにつないで買い物したりしたときに、ふと、隣りの犬を間違って連れて行ったりしないかしら。

 会場にあれだけ人間が多いと、犬だって、飼い主の顔とか匂いをはっきり区別するとは限りません。

 犬は犬で、 「あれ、うちのご主人…こんな顔だったっけ? こんな匂いだっけ?」
 と、半信半疑に別の飼い主の家まで帰り、
 「なんか家の様子が違うな…。引越しでもしたのかな…」
 などと思いながら、まぁ、それでもお互いに平和に、つつがなく新しい生活を始める……。

 そんなことって、あり得ないでしょうかね。

 ……さて、少し文体を変えて、ちょっとショー会場で感じたことをレポート。

大転換期を迎えたRV業界

 キャンピングカー (RV) 業界は、今、奇妙な戸惑いの中にいる。
 とてつもない 「鉱脈」 にぶち当たったのに、それを、どう掘り進めればいいのか。
 その手前で、焦燥とも、興奮ともつかぬ胸騒ぎの中で、途方に暮れているような気がする。
 今回のキャンピングカーショーで、いろいろなビルダー・販社の方々と話しているうちに、そう思った。

 日本RV協会 (JRVA) が発表した08年度の販売状況を見ると、あの原油価格の高騰、世界的金融危機という逆風の中で、国産キャンピングカーに限っていえば、昨年度の販売台数は、その前年よりも上回ったのだ。
 乗用車販売が4年連続の前年比割れを起こしていたことを考えると、これは驚異であるかもしれない。

 しかし、その内実を見ると、不思議な現象が起きている。

 「8ナンバー以外のクルマが売れている」

 つまり、法的に 「キャンピングカー」 として登録しなくてもよいクルマが、昨年は飛躍的な台数を伸ばし、それがキャンピングカー登録のできる従来の “8ナンバー車” の販売的な落ち込みをカバーしたのだ。

 具体的にいうと、シンク (流し) の存在やベッド寸法などの規定において、キャンピングカーの “定義 = 構造用件” にとらわれないクルマが、昨年から今年にかけて、大きな売れ筋として浮上してきたのである。
 それも、その主力は小型車。

 これは、4ナンバー登録の軽自動車キャンパーが増えたことで顕著になった傾向でもあるが、それ以外のベース車でも、ダウンサイジング傾向は見られる。 
 ハイエースでいえばスーパーロングではなく、ロングワイドやナローボディのクルマだ。

 今、比較的コンスタントに売れているこれらのクルマは、ワゴンライクなシートレイアウトを持ち、簡単な操作で荷室スペースも広くなり、トイレ、冷蔵庫、流し、コンロなどにこだわらない小型のキャンピングカーなのである。

乗用車ベースキャンパー室内01
▲ 乗用車ベース (バン) の簡易キャンパーの室内

 この “説明” は、ある意味で、簡単である。

 つまり、通勤、買い物、ドライブ、キャンプなどマルチにこなすファースカー・コンセプトのクルマが求められる時代になった…というもの。
 裏を返せば、キャンプ専用のキャンピングカーと、日常的に使う乗用車という 「2台保有」 を前提としていた所有形態が、この経済不安が長く続く時代において難しくなってきたということを意味する。

 さらに、もうひとつ考えられることは、ここに来て、裾野が一気に拡大したことだ。
 従来ならば、 “高額商品” というイメージが先行していたために、その購入をハナから考えてもいなかった人々が、軽自動車キャンピングカーや低価格キャンピングカーの存在に気づき、にわかに興味を持ち始めたという事情もある。

軽自動車キャンピングカー
▲ 軽自動車キャンピングカー

 その底辺の広がりが、売価の高い高規格キャンピングカーを求めない人たちの層も厚くした。
 多くの人々の分析は、そこに集約される。

 しかし、そのような説明ではすべてを解明できない、何か新しい変化が起きているように思えるのだ。

 まさに地殻変動のような大きなうねりが起こり始めているのかもしれない。
 そうも思うのだ。

 あるビルダーの社長は、こう言った。

 「今年のゴールデンウィークにテレビを見ていたら、レポーターが高速道路のサービスエリアで、行楽のために車内で寝泊りしていた人々を取材していた。
 そのとき驚いたのは、レポーターが 『車中泊』 という言葉を、何のためらいもなく使っていたことだ。
 『車中泊』 という言葉は、日常用語の中に浸透してきたとはいえ、まだまだそれを “趣味” としていた人々の間に定着した言葉だと思っていた。
 しかし、すでにマスコミは、 『車中泊』 という “ライフスタイル” が存在することに気づいたのだ」

 この社長の驚きはよく理解できた。
 確かに、ワンボックスワゴン、ミニバン、ステーションワゴンあるいは普通のセダンを利用して、高速道路のSAや 「道の駅」 で寝泊りする人たちが激増していることは、相当前からキャンピングカー業界では話題になっていた。

 事実、書店に行くと、 「車中泊」 のノウハウを解説した雑誌、ムック、単行本はすでに新しいコーナーを形成しているし、ネットで 「車中泊」 関連のワードを検索すると、ヤフーで約300万件。
 すでに、 「クルマの中で寝泊りしながら旅をする」 という旅行スタイルが、日本ではしっかり定着してきたことが分かる。

 彼らは “キャンピングカー予備軍” なのか。
 それとも、キャンピングカーユーザーとは永遠に交わらない人々なのか。

 ビルダーの首脳陣が集まる会議などでは、そんな議論もなされてきた。

 たいていの場合、キャンピングカーを購入できるお金が貯まれば、その人たちはキャンピングカーのマーケットに参入してくるという意見が大半を占めるのだが、一方では、 「いや、あれはキャンピングカー的な使い方とはまったく別のライフスタイルを目指す人々だ」 と語る業者さんもいる。

 今のところ、キャンピングカーの構造用件を満たす必要のない小型バンコンの出足が目立つところを見ると、前者の意見の方がマトを射ているように思える。
 一概にはいえないが、それらのクルマは装備品目もレイアウトもシンプルで、その分コストを下げて、売価を抑えている。
 つまりは、現在 「車中泊」 を楽しんでいる人たちのニーズにかなった仕様が実現されたもので、キャブコン、バンコンともに、そういう車種をリリースするビルダーが増えている。

キャブコン01
▲ キャブコン

バンコン01
▲ バンコン

 しかし、あるビルダーの開発者はいう。

 「それで本当にいいのだろうか…。市場が求めるものを造っていくのはビルダーの責務で、そうしなければ食べていけないのも事実だが、これまで積み上げてきたキャンピングカービルダーとしてのスキル、技術的成果といったものが、ほとんど試されない時代になってしまったようにも思う」

 日本のキャンピングカー業界は、ここ10年ぐらいのうちに、欧米先進国とは違ったスタイルの高度な 「RV文化」 を創造してきた。
 そこで造られてきたクルマは、みないかにも日本的な細かい配慮に裏打ちされた、洗練された 「日本様式」 のようなものを確立しつつある。

 だから、ビルダーたちの本音は、 「車内で寝るため」 に特化した “骨組みだけ” のクルマではなく、自分たちの秘術を十分に発揮した “肉付けのある” クルマを正当に評価してほしい、というところにある。

バルミィメイン01
▲ 高規格型バンコン

 ところが、 「車中泊」 というライフスタイルが大きくせり出してきたことによって、従来のキャンピングカー・コンセプトも、大きな修正を迫られそうな空気も生まれた。

 その傾向が、今後のトレンドとしてそのまま定着していくのか。
 それとも、さらに、そこからもっと進化したキャンピングカースタイルというものが発展していくのか。

 多くのビルダーは、確実に売れていく簡易キャンピングカーと、自分たちの技術成果をはっきり謳える高規格キャンピングカーとの狭間 (はざま) に立って、奇妙な戸惑いを感じている。

 私は、こう思う。
 どちらも、アリなのだ。

 戸惑っているのは、実は、ビルダーだけでなく、一般乗用車で 「車中泊」 を楽しんでいる人たちも、また同様に戸惑っているのだ。
 つまり、業界もまたユーザーも、新しく生まれてきた 「車中泊」 という旅行スタイルをどう確立していくのかということに対し、その明確な答を持っていないことにはおいては変りがない。

 そのようなライフスタイルが、この先どういう 「旅行像」 を形成するのか。
 それによって、日本のレジャー産業がどう変るのか。
 また、公共の駐車スペースを利用した場合のマナーとかゴミ問題はどう処理されるのか。

 すべては未知数である。

 だから、このまま手をこまねいていれば、それは既成の観光産業を破壊することにもなりかねないし、旅行のモラルやマナーを低下させることも起こりうる。
 しかし、逆にいえば、新しい観光産業の育成に多大な貢献を果たし、新しい旅行ルールを確立することにもつながる。

 そのような大きなテーマが、やがてマスコミでも採りあげられる時代が来るだろうが、そこでキャンピングカー業界が果たす役割は大きい。

 つまり、 「車中泊」 を “文化” として高めることができるかどうかは、キャンピングカー業界が、今後どのようなクルマを造っていくかにかかっている。
 
 確実にいえることは、 「旅とは何だ?」 というテーマにしっかり答を出したキャンピングカーだけが生き残る。

 構造用件を満たしていない簡易キャンパーだろうが、高い技術水準に満たされた高規格キャンピングカーだろうが、 「旅とは何だ?」 、 「旅することによって何が実現できるのだ?」 という問をいったん深く沈ませ、そこから力強く浮上する哲学を持ったクルマだけが生き残る。

 「何か新しい変化が起きている」
 といった意味は、そのような哲学が必要となる時代が訪れたという意味だ。

 では、その 「哲学」 とは何か。

 ある簡易キャンパーを開発したスタッフは、こう言った。

 「このクルマは、2人しか寝られない。 “2名就寝” といえば、今までは夫婦という単位で考えられることが圧倒的に多かった。
 しかし、このクルマは、男親と息子で乗ってほしい。
 男親が、息子に何かを伝えるという精神風土が日本から消えている。
 古い道徳律を持ち出してベタな説教をしても、もう子供たちはそれを聞く耳を持たない。
 だから、父親が無言で運転してもいい。
 そして、たとえば、釣りのポイント近くで車中泊をして、朝には、黙って息子にも釣竿を渡し、自分が釣り糸を垂れる姿を見せるだけでいい。
 その無言のやりとりこそが、実はしっかりした 『会話』 であることを伝えるのが、このクルマだ。
 だから、ある意味で、お母さんも入れた三角形構造の “家族” を拒否するクルマでもあるのだ」

 挑発的で、大胆な発想である。
 しかし、これもまた、ひとつの 「旅の哲学」 に違いない。
 そして、そのような説明を聞けば、確かに目指すべきコンセプトがそのクルマからにじみ出ていることが分かる。

 また、別のビルダーの開発者は、こう言った。
 こちらは、かなり造り込んだクルマである。

 「運転席とリビングは、ウォークスルーできないように仕切ってある。
 リヤゲートを開けても、そこから車内には簡単に入れないように、わざと後ろ側にも壁を作っている。
 つまり、 “便利さ” を追求することとはまったく逆行したクルマである。
 これが常識に反していることは、自分でも自覚している。
 しかし、そのことによって、自動車の “匂い” から完全に解放された一種の 『リゾート空間』 が生まれた。
 旅が日常性からの解放であるならば、キャンピングカーもまた、自動車から解放されなければならない」

 これも 「哲学」 である。
 
 このビルダーは、そのようなコンセプトが常識とかけ離れていることも自覚して、前後の壁を取り払った普通のレイアウトもレスオプションで用意した。
 しかし、それは杞憂(きゆう) に終わった。
 購入したほとんどのユーザーは、ビルダーの 「哲学」 を支持したのである。

リコルソ2

 「車中泊派」 が、キャンピングカーユーザーの予備軍になるのか、ならないのか。
 そんなことを審議していても何も始まらない。

 「このクルマに乗ったら、何が実現できるのか」
 それを明確にコンセプトメイクできたクルマが、結果的に、 「車中泊」 という新しい旅行スタイルを求める人たちの大鉱脈を掘り始めることができる。
 

campingcar | 投稿者 町田編集長 23:55 | コメント(10)| トラックバック(0)

動物化する現代人

 東浩紀 (あずま・ひろき) さんが2001年に書いた 『動物化するポストモダン』 は、マンガ、アニメ、ゲームなどにのめり込む “オタクたち” の存在を文化史的な視点で捉えた名著である。

動物化するポストモダン表紙01

 彼は、そのオタクたちの消費行動を、80年代~90年代にかけて浸透したポストモダニズム (近代以降の文化状況) の流れの中に位置づけ、それを手がかりに、日本の近未来図を描いた。

東氏002

 しばらく前にこの本を読んで、そこで思ったことは、80年代以降の日本の文化と消費社会の状況を語るのなら、たぶん、この手法が一番有効かもしれないということだった。
 しかし、何が抜けているかというと、80年代~90年代に青春を送った若者たちの中で、 「オタク」 にならなかった人たちの存在である。

 オタク文化にたっぷり染まった時代を生きた人たちの中で、なおかつオタク的な生き方を貫かなかった人たちの精神風景はどうなっているのか。
 また、オタク生活を貫いた人たちの、その純度の濃淡はどうなっているのか。
 それは、この本書には書かれていない。 

 「オタク」 のコアな部分を形成する人たちが、80年代末から90年代にかけて青春期を送った人たちだとしたら、当然、日本が右肩下がりに落ちていく時の空気も味わっていることになる。

 そこには、 「オタクの夢」 を紡ぎだすオタク・カルチャーの底に、自らの生が受難する 「時代苦」 のようなものが沈んでいるのを見ているはずである。

 それがオタク・カルチャーにどのような影を落としているのか。
 それとも、それをも含んで花開いたオタク文化なのか。

 私としては、ぜひ東さんに聞いてみたいテーマなのだが、それについて触れる前に、まず 「オタク」 たちが、今の日本にいったい何をもたらしたのか?
 それを東さんの口を借りて紹介しないと、話が始まらない。

ゲームキャラ01

 「オタク」 といえば、コミック、アニメ、ゲーム、フィギュアなどを熱心に観賞したり、収集したりするマニアックな人々というイメージがすぐ浮かぶ。
 マスコミが彼らを取り上げるときは、どちらかというと、個人の趣味だけに埋没した、閉鎖的で非社会的な若者たちという印象で語られることが多い。

 しかし、東さんによると、彼らの中心は 「30代、40代の大人たち」 であり、その大半はすでに社会的に重要な仕事を任されている人々だという。この本が書かれたのが2001年であったことを考えれば、その中心たる人々の年齢はさらに上がっていることになる。

 ただ、その後オタク系の人口が先細りしている兆候はなく、むしろオタク的な世界観が、オタク系以外の文化領域にも広がり始め、今や日本全体が、いや、欧米・アジア圏の先進国全体が 「オタクワールド」 に変貌しつつある…というのが、東さんの目線なのだ。

 どういうことかというと、オタクたちの特徴として挙げられる 「人間関係の淡泊さ」 、 「社会意識の希薄さ」 、 「現実よりも虚構への偏愛」 などといったものは、それだけ取り出してみるとネガティブな印象を伴うけれど、実は、すでに社会がそのようなものに変貌しており、彼らはそういった 「社会」 をピュアな形で反映しているにすぎない……
 というのが、東さんの視線だ。

 それ自体は、別に変わった見方ではない。
 「現代社会が、何だか嘘っぽくてよそよそしくなってきた」 という感触は、誰もが抱いていることだろう。
 そして、それを 「ヴァーチャルな世界像の浸透」 とか、 「平和ボケ」 とか、 「市場原理主義の拡大」 などと、よくマスコミが使いそうな言葉で説明する人たちも多い。

 東さんも、一見その立場から 「オタク」 を論じているような先入観を持たれがちだが、彼の場合は徹頭徹尾、これを 「思想」 の問題として捉えたところが違う。

 「思想の問題として捉える」 ということは、
 オタクたちを取材をしてデータを取るといった社会学的なアプローチでもなく、
 教育環境や親子関係からその 「心」 を割り出すという心理学的なアプローチでもなく、
 彼らが関わる市場を分析して、消費動向を探るといった経済学的なアプローチでもなく、
 ただひたすら、彼らの頭の中に生まれた 「世界像」 とはどんなものなのか? ということを探り出すことに他ならない。 

 そして、この本の特徴は、そのようなオタクの世界像を語ることが、現代思想のゆくえを語ることにつながり、そして、今の地球で起こりかけていることすべてを語ることになる…という、ものすごくワイドレンジなパースペクティブ (視野) を打ち出したところにある。

 では、この先、どんな 「世界」 が待っているというのか?

 キーワードは 「動物化」 だ。

トラ001

 東さんは、アレクサンドル・コジェーヴというロシア生まれの学者が 「人間と動物の “欲求” の違い」 について述べている主張をまず紹介する。

 「人間と動物がともに抱えている “食欲” とか “性欲” などという欲求は、似ているようだが、全然別のものだ。
 動物も人間も、食欲や性欲が起これば、それを満たそうとする行動を起こす。
 しかし、動物の欲求は、エサでも異性でも、望む対象を獲得すれば、ひとまず充足が訪れる。
 それに対し、人間の欲求には際限がない。
 人間は、食欲が満たされれば、今度は、より “うまいもの” を欲しがる。
 異性の体を手に入れても、今度はその異性が、自分とは別の同性に求められるほどイケていないと不満に思ってしまう」

 つまり、人間の欲求はどんどんエスカレートしていって、望みが尽きるということがない。
 (※ この本では、動物の 「欲求」 と人間の 「欲求」 を区別するために、人間の 「欲求」 にはあえて 《欲望》 という言葉を使って区別している)

 このような 《欲望》 は、動物たちが作らなかった 「歴史」 というものを人間に作らせ、その 「歴史」 が文化や戦争というさまざまな彩りを生み出し、それが近代まで続いた。

 その 「歴史」 を終わらせたのが、1950年代頃のアメリカだ。 
 …と、コジェーヴという学者はいったらしい。 (※ もともとのアイデアはヘーゲルのもので、ヘーゲル自身は “近代” の到来に歴史の終わりを見たらしい)

 コジェーヴが 「1950年代に歴史が終わった」 といった意味は、そのあたりを境に、アメリカ人の暮らし方が 「動物になったからだ」 というのだ。

 どういうことか。

 アメリカ型の消費社会では、すべての消費活動がマニュアル化され、メディア化され、その流通管理もしっかりコントロールされるようになった。
 従来ならば面倒だった日々の炊事も、ファーストフード産業の興隆や、食事の宅配システムが完備されるようになり、アメリカ人は、自分で食事を調理するような面倒からも解放された。

バーガーキングのハンバーガー

 また、これまでは面と向かってコミュニケーションを取り、複雑な手続きを経て初めて手に入れていた性的パートナーも、今や風俗産業や出逢い系システムを通じて簡単に手に入るようになった。

 つまり、それまでは、どうしても 「他者」 と関わらなければ充足できなかった 《欲望》 が、アメリカにおいては、ビジネスという形で、すべて自己充足できるようになったわけだ。
 そのため、コジェーヴは、 「アメリカの消費社会からは 『他者』 が消えてしまった」 というのである。

 他者がいなくなければ、己の手に入れた “魅力的な異性” を他者に見せびらかしたい、などという 《欲望》 もなくなる。

 《欲望》 をなくしたアメリカ人たちは、すでに従来の 「人間」 とは別種の生物となったのであり、まさに 「動物」 といわざるを得ない存在となった。
 「動物」 たちの棲む世界からは、飢えも争いもなくなったが、かわりに哲学もなくなった。

 …とコジェーヴという人は言うらしいのだが、彼が描いた 「アメリカ人の戯画」 に、彼がどれほどの悪意をこめていたかは分からない。
 ただヘーゲルの弟子を自認する、この欧州風教養人が、ヨーロッパの歴史遺跡を観光しても、バカ食いバカ飲みをして高笑いするだけのアメリカ人観光客を苦々しく思っていたことは確かだろう。

 コジェーヴは、たまたま1950年代のアメリカを見ただけだったが、それは今となってみれば、グローバル化された先進国の消費構造をすべて言い当てている。アメリカ人だけが、 「動物化」 という不名誉 (?) な称号を与えられたのは、なんとも気の毒な話だ。

 横道にそれた。

 で、東浩紀さんは、この 「動物化したアメリカ人」 というアイデアを、そっくりそのまま日本の 「オタク」 に当てはめようとしたのである。

 日本にオタクが登場したのが、だいたい1960年の末から70年代にかけて。
 その第一世代は、コジェーヴが 「アメリカ人の動物化」 を見た10年ほど後になる1960年代に生まれている。

 60年末からの日本の経済状況は、右肩上がりの繁栄ぶりを示し、爛熟した消費社会の到来を予期させる活況を呈していた。
 特にカルチャーシーンは、それまでの時代に比べて、圧倒的な様変わりを見せていた。
 ロックミュージックが台頭し、マンガが隆盛を極め、SFX映画が進化を遂げ、ポップアートに注目が集まり、LSDとパソコンが登場し、政治が失墜し、文学が魅力を失い、 「前衛」 の概念が消滅した。

 後に 「オタク」 と呼ばれる人々が生まれる素地が、このとき揃ったのである。

 それでも彼らはまだ、恐竜がのし歩くジュラ期のほ乳類のようなものだった。
 恐竜として、 「全共闘世代」 という、 「政治と思想」 を熱く語りたがる人たちがおり、趣味の情報交換だけがコミュニケーションの核となるような集まりが許される雰囲気はなかった。

全共闘001

 しかし、全共闘世代の存在感は、党派同士の “内ゲバ” が激化するにつれて、どんどん縮小していく。
 決定的なのは、72年の連合赤軍浅間山荘事件だった。これにより日本に残っていた “全共闘的” なるものは一掃される。

 このとき、 「革命」 、 「体制打倒」 、 「帝国主義粉砕」 などというスローガンも同時に効力を失い、それらの言葉を支えてきた 「社会変革」 の理念も失墜した。
 本当はそれらの理念は、そのときに初めて失墜したのではなく、実はそれ以前から、すでに 「虚構の理念」 として、ハリボテのように掲げられたものに過ぎなかった。

 しかし、たとえ 「虚構の理念」 であったにせよ、いや、だからこそ、それがガラガラと地に崩れ落ちたときの意味は大きかった。

 学生運動に掲げられた 「虚構の理念」 は、それと対置されていた 「祖国愛」 、 「民族愛」 などといった右派系の理念をはじめ、 「人間愛」 、 「人間の人格」 、 「平和の実現」 ……などというヒューマニズム系理念もすべて一緒に道連れにしてしまったのだ。

 このような 「同胞愛」 、 「人類愛」 、 「人間性」 、 「個性」 、 「理想」 、 「大義」 、 「平和の実現」 などという近代が生み出したさまざまな人間的理念を、思想業界の人たちはよく 「大きな物語」 と呼ぶ。

 「大きな物語」 とは、国家とか学校などが掲げる 「人間にとっての大切な価値」 のことを指し、近代社会においては、それが人間が目指すべき共通目標として崇められてきた。
 近代国家は、みなこの 「大きな物語」 を掲げることによって、国民の意識をひとつにまとめ、国家、事業所、地域社会、家庭などの結束と安定を図ってきたのである。

 それが、日本において、ジワジワと揺らぎ始めたのが1970年代以降であり、80年代、90年代と続くに従って、ジワジワがドロドロになり、どんどん液状化していく。

 「オタク」 は、この 「大きな物語」 の最初の失墜と同時に登場する。

 彼らは、前世代が掲げていた 「革命」 やら 「帝国主義打倒」 などといった政治理念などは最初から信じていなかったし、その失墜も見てきた。
 学校教育においては、相変わらず 「人間性」 、 「個性」 、 「創造力」 などという価値が掲げられていたが、彼らは、それを素直に謳う先生方の無邪気さにも、白々しい思いを抱いていた。

 近代が掲げた 「人間的な価値観」 は、その時代になると、既にみなよそよそしく、白々しく響いてくるものばかりだったが、かといって、前世代のように、 「架空の理念」 を掲げて熱狂できるようなものは、もうこの世に存在しない。

 東さんは、オタク第一世代というのは、近代が掲げた 「大きな物語」 が失墜した後の空白を、 「オタク文化」 で埋めることによって、生き延びようとした人々だという。
 具体的には、 『宇宙戦艦ヤマト』 や 『機動戦士ガンダム』 を10代で見た世代だ。

ガンダムモビルスーツ

 それらの作品の中には、実際の歴史とは異なるけれど、それと拮抗する緻密な年代記があり、明確な敵が存在し、主人公に課せられた尊い使命がある。 
 すべて虚構に過ぎないが、それなら、 「革命」 という虚構をもてあそんだ前世代とどこが違うというのか。

 オタク的世界に遊ぶことは、むしろ実生活においては、争いからも、裏切りからも、喪失からも、悲哀からも解放される。
 かくしてオタク第一世代は、ひたすら虚構の中に安住の地を求めて、こつこつと趣味のシェルターづくりに励んでいく。

 このオタク第一世代の心情は、前世代の人々から見ても分かりやすい。まだ、近代的な思考の枠組みから容易に類推できるものばかりだからだ。

 しかし、本当に重要なのは、むしろこの後に登場してくるオタク第二世代、第三世代である、と東さんは見る。

 次世代のオタクたちは、オタク第一世代がつくりあげた 「オタク文化」 を10代あたりから経験した人たちによって構成される。
 この次世代オタクには、80年前後に生まれ、 『エヴァンゲリオン』 ブームのときに中高生だった世代までが含まれる。

エヴァンゲリオン001

 これらのニューオタクたちは、すでに 「虚構」 と 「現実」 の区別を必要としていないところに特徴がある。 
 
 ひとつには、サブカルチャー的意匠が、街のランドスケープも変え、TVドラマの中にも浸透し、生活次元において、 「虚構」 と 「現実」 が渾然一体となったようなフラットの生活空間ができあがっていたということもあるだろうが、それよりも、 「現実」 から 「虚構」 を構築していくときに意識される 「作品における作家性」 といったものが希薄になっていったことが大きい。

 この世代から、 「二次創作」 というものが当たり前となる。

 「二次創作」 というのは、原作のマンガ、アニメ、ゲームをその受け手である消費者自体が、主にそれを性的に読み替えたりして作る制作物のことで、そのような商品、すなわち同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどを展示販売するマーケット (コミケ) も形成されるようになる。

 つまり、そこにはすでに 「原作者」 が存在しない。
 原作は、コピーされ、改編され、アレンジされて新しい制作物として流通するようになり、さらにそれがコピーされ、改編され、アレンジされ…という無限の連鎖が生まれるようになる。

 つまり、「虚構」 が 「虚構」 を生み、さらにそれが別の 「虚構」 へとつながっていくということが実体化され、 「現実」 の手触りとか、オリジナリティへの 「畏敬」 などというものが消滅してしまったのだ。

 このような 「虚構の連鎖」 の果てに生み出されてきた作品群は、もちろん 「物語」 によって支えられているのだが、その物語は、あくまでもキャラクターのポジショニングを決めるためのものであり、近代文学が描いていたような、キャラクターが生存するための葛藤や、心情的悩みや、生の実感などはどんどん背景の奥に追いやられていく。

 大事なのは、キャラクターのビジュアル的な存在感であり、そのキャラクターに熱い思いを込めて耽溺できるかどうかが、全てを決定する。

 そのキャラクターが、どのようなビジュアル特性を持つのか。それについての約束事が、細分化され、緻密化され、いわゆる 「萌え」 要素として膨大なチャートの体系をつくる。

 はっきりいって、もう 「物語」 は邪魔なのだ。
 だから物語は、できるだけ定型化されている方が望ましく、感動したり、泣けたりできるポイントが効率よく示されている方が、彼らにとってはありがたい。

 かくして、 「感動」 と 「泣き」 がものすごい勢いでパターン化されていくわけだが、彼らは、実はそれすらも期待してはいない。
 感動も泣きも、お気に入りのキャラクターがより光彩を放つためのBGM以上の役割を持たされていないのだ。

萌えキャラ001

 制作物に対するこのような態度は、近代文学を擁護する立場からすれば、あきらかな 「後退」 でしかないが、逆にいえば、近代文学など、オタク系文化に耽溺する人たちからはもう何の魅力も感じられなくなったということでもある。

 東さんは、このような第二世代以降のオタクたちの消費行動を、 「物語消費」 から 「データベース消費」 への移行と捉える。
 そして、それこそが、 「近代」 という時代の後に来る 「ポストモダン」 時代の典型的な消費行動だと位置づける。

 そして、この傾向は、今やオタク的な消費行動だけにとどまるものではなく、ケータイ小説のような読み物類、ゲーム類、果ては映画の領域にまで広がっており、今や、日本のマンガ、アニメに熱い思いを寄せる東アジアのファン層にまで浸透してきている。

 これは、日本文化が海外にまで波及したということではなく、むしろ世界のポストモダン化が、このような状況を歓迎しているということに他ならない。
 それは世界で同時進行しているものであり、CGを多用したハリウッド映画においても同様の傾向が見られる。
 そして、日本のゴジラや、トランスフォーマーや、鉄腕アトムのリメイクが盛んに行われることから見ても、日本のオタク消費と同じ 「虚構の連鎖」 がハリウッドでも始まっていることが分かる。

アメリカゴジラフィギュア

 映画やアニメ、文学で扱われる 「物語」 はますますパターン化し、…つまりは、昔噺のような構造を持つ説話論的な 「物語」 のスタイルに回収され、代わりに、そこに登場するキャラクターの (アクションや衣装も含む) ビジュアル的なインパクトが前面に押し出されてくる。

 それらの作品群においては、ストーリーが類型化するのとは反対に、映像はますます荒唐無稽なものになっていくが、しかし、それもみな 「どこかで見た」 荒唐無稽さであり、近代芸術的なリアリティは、見る影もなく後退していく。

 批評家の大塚英志氏は、この傾向を、
 「現代社会における 『異界』 や 『死』 の消滅、つまり超越的なものの消滅」
 と捉える。
 要するに、ファンタジーに登場する 「異界」 や 「死」 は、現実世界における驚愕や、葛藤や、喪失感に裏打ちされることなく、感動を呼ぶための 「装置」 として機能するようになった、というわけだ。

 彼らにとって重要なのは、あくまでも登場人物たちの 「キャラ」 であり、そのキャラクターが、パターン化された 「感動」 の中で、いかに 「萌え」 要素を際立たせてくれるか。
 現在のオタクたちは、そのことについて、かつて人類が経験したこともないほどの繊細な感受性を発揮し、厳しい審美眼を養い、鋭い判定をくだしていく。

 そこには、近代的な感性を持った人間たちには及びもつかない、新しい観賞法が生まれているのかもしれない。

萌えキャラ02

 しかし、東浩紀さんは、そこにコジェーヴがアメリカ人のライフスタイルから発見した 「動物化」 を見る。
 オタクたちの消費行動は、どんなに繊細で、洗練されていようが、そこには 「他者へのときめき」 がない。

 アトム化 (原子化) された個々人が、互いの存在に無頓着に並んだまま、それぞれの欲望を満足させているだけで、彼らが求める 「萌え要素」 というものも、一定の刺激から脳内分泌される自己完結型の快楽に過ぎない。
 いわば、薬物の刺激によって脳内変化を起こすときの快楽性と代わりがない。
 それは、コジェーヴがいみじくも指摘した 「動物化」 された生き方なのだと。

 さて、このような傾向が全世界に拡大していくとして、果たして、それをどう受けとめていくのか。
 それは、その人の受け取り方によってさまざまな答が生まれるだろう。

 もちろん、東浩紀さんは、すでにそれを自分の問題として受けとめ、次へのステップへ進んでいる。

 この 『動物化するポストモダン』 という書物は、オタクの消費行動をレポートしているようでいて、実は 「近代」 とは何であったのか、と問う眼差しを含んでいる。
 そういった意味で、この書籍は、ポストモダン (近代以降) という時代を生きている私たちの世界を効率よく見回すためのパースペクティブを与えてくれる。

 しかし、本当は、この本の読後感として、
 「では、オタクにならなかった若者たちはどう生きてきたのか?」
 という問が私には生まれている。
 そして、
 「オタクたちは、そんなにきれいに図式化できる存在なのか?」
 という疑問も生まれている。

 それは、いくらこの本が “思想的なテーマ” を追求したものだとはいえ、読者としての当然の疑問であろう。

 ただ、それを書こうと思っていたが、今は時間がない。
 (これから、大阪で開かれるキャンピングカーショーに出発するのだ!)
 それにブログとして、その分量も残されていない。
 この続きは、またいつか。




音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 03:13 | コメント(4)| トラックバック(0)

言葉にならない物

 分からないものを、分からないままに向き合う…ということを、誰もが放棄する時代になったような気がする。

意味という病
 
 読む本がちょっと途絶えて、自分の本棚からほとんど無意識のように取り出した1冊。柄谷行人(からたに・こうじん)の 『意味という病』 を手にとって、何気なくパラパラと見ていたら、次のような言葉が目に飛び込んできた。

 「……自分をうまく説明できない人に代わって、その説明できない部分を説明してやっているような文章が横行していますが、書くほうにも読むほうにも、言葉では掬い (すくい) きれないものへの自覚がなければ、言葉はものを通じさせることにはならないでしょう」

 これは、柄谷氏自身の言葉ではなく、小説家の古山高麗雄のエッセイの一文を引用したものだ。

 この引用文を紹介した評論 「人間的なもの」 の中で、柄谷氏自身はこういう。
 
 「 (言葉では) 表現できない不透明な部分が人間の行為にはつきまとっている。ジャーナリズムは (世間を騒がす奇々怪々な事件を論評するとき) 奇怪なものを奇怪なものとして受けとめないで、何か別のもの……心理学とか社会学……に拠って安心しているようにみえる。
 (しかし) それは傲慢だ。 (結局は) 自分の理解しうるものの領域の外に一歩も出ないということである。懐疑の身振りをしながら、新しい現実を、古い経験の枠に押し込んで安心している (だけだ) 」 。

 この文が書かれたのは昭和48年 (1973年) である。
 だから、ここで言われる 「奇々怪々な事件」 というのは、連合赤軍の浅間山荘事件とか、その前の年の大久保清による連続女性殺人事件、さらにその前年の三島由紀夫の割腹自殺事件などが想定されているように思える。

 しかし、柄谷行人が指摘する 「奇怪なものを自分たちの理解できる形に翻訳して安心してしまう」 という私たちの態度は、平成21年 (2009年) の現在においても、一向に変わっていない。
 むしろ、当時よりも、この傾向は強まっているように感じる。

 近年、個人の自信を回復させたり、元気づけを目標にしたりする “自己啓発セミナー” 的な書物の大半は、社会学か心理学の概念を導入にして、 “元気の素” を導き出そうとしている。
 ということは、それらの本を書く著者たちが、結局、 「世界」 というものを、社会学か心理学のフィルターを通してしか見ていないということだ。

 そのような世界観で 「世界」 をまとめると、 「世界」 はすべて簡単に 「了解可能」 なものになる。
 しかし、そこで失われるのは 「人間存在」 の手触りである。

 私は、簡単に 「答を出そうとする」 すべてのものに、不信感を持っている。
 「謎」 を 「謎」 として向き合うことの大切さをずっと感じ続けてきた自分の “元” が、いったい何に由来していたのか。
 久しぶりに、思わず手にした柄谷行人の本を読んで、それが分かった。
 たぶん、20年ぐらい前に読んでいたこの本が、もともと持っていた自分のそんな “気分” に、ひとつの確証を与えていたのだ。

 私は、生活の中のいろいろな局面で、ふと、言葉にならない 「場所」 「時間」 を感じることがあるということを、このブログでもときどき書いてきた。

 それは、旅先で感じる 「形容しがたい光景に接した」 という記述で始まる場合もあったし、冗談めかして、 「合理的な結末を迎える推理小説より、合理を求めないホラーが好き」 などという表現になっていたこともある。
 また、あるときは、初期の村上春樹の文学を例に採り、 「透明なる虚無」 などという言葉に置き換えたこともあった。

 しかし、言わんとしていたことは、一貫して 「言葉でつかめない何かへの希求」 であったように思う。
 そのことを表現する言葉がうまくみつからず、ときどき 「超越性」 という言葉を使うこともあったが、その言葉もやはり、自分が言いたいものとは違う。

 強いて言えば、 「超越性を感じさせるモノの底に潜むもの」 ということになるのだろうか。
 多くの人はそれを 「神」 とか 「神秘」 などという言葉に置き換えようとするが、私が感じているのは、そのような言葉に代替できないものだ。

石垣001

 余談を差し挟む余地を与えてもらえれば、私は 「超越性」 とか、 「超越的なもの」 などという概念が人類の前にせり出してきたのは、 「近代」 になってからだという気がしている。

 もちろん、それ以前にも、人智では説明できない 「何かの気配」 というものを、人類はずっと感じてきたことは確かだ。
 しかし、宗教が 「世界」 というものを語るときの説明体系として確立されてからは、それらの 「超越的なもの」 は、各民族の宗教体系に包含されたいったように思う。

 もしかしたら、釈迦だけが、この 「超越的なものの気配」 を、概念形成しないまま、ずっと見続けてきたのではないかという気もするのだが、私は宗教学者でもないただの素人なので、はっきりとは分からない。

 いずれにせよ、宗教がもたらす 「超越性」 が、どんなに神秘性を持とうが、人間に感動を与えようが、それが 「説明体系=世界観」 であるかぎり、人間に 「おののき」 を与えない。
 宗教は、常に信仰者に 「安心と安定」 を保障しなければ、その信仰の統一性を保つことができないからだ。

 近代社会の成立は、そのような宗教的な世界観を相対化する役目を果たした。
 それによって、 「自立した個人」 というものが誕生してくることになるのだが、そのときに 「超越的なるもの」 も、同時に復活したのではないかと思っている。

 宗教の後ろ盾を失った 「個人」 は、やがて個人でいることの孤絶感、寂寥感と向かい合うことになる。
 …かといって、もはや魂が還るべきところはない。 
 その言葉に言い表せない 「孤独感」 が、 「超越的なるものの気配」 という形で人々に感受されるようになったと思う。

赤と白001

 この 「超越的なもの」 がせり出してきたことに対し、近代国家は、 「神」 に代わる新しい概念を与えなければならなくなった。
 それが、孤立化した 「個人」 を、互いに共感の輪で結ぶ統合概念としての 「同胞愛・祖国愛」 や、 「ヒューマニズム」 や、 「理想・啓蒙」 や、あるいは 「革命」 、「正義」 などといった “普遍性” の衣をまとう様々なイデオロギー装置である。

 しかし、イデオロギー装置であるかぎりは、そこには必ず “ほころび” が舞い降りる。
 その “ほころび” から、 「超越的なるもの」 が、再び顔を覗かせる。
 
 「近代文学」 は、そこに誕生する。
 近代文学とは、宗教体系が確立される前の人類が感じていた 「超越的なるものの気配」 を、イデオロギー装置の助けを借りずに見つめ直そうとする文学であったともいえる。
 そこで見つめられたものは、まさに20世紀になって言葉にされた 「実存的不安」 ともいうべきものだったかもしれない。
 
 つまり、現在われわれが感じる 「超越的なものの気配」 というのは、近代文学と近代美術によってリメイクされたものなのだ。
 作家に啓示を与える力を指すときに使う 「インスピレーション」 なる言葉は、その 「超越性」 を、近代文学の文脈で捉えたときの一表現といえよう。

 しかし、今、その 「超越的なるものの気配」 は、近代文学と近代美術の力を衰退させていったポストモダニズム (脱近代) の中で、急速に後退しつつある。
 私たちは、日増しに 「超越的なるもの」 への感応力を弱めている。

 それと反比例して、神秘を 「実態」 として捉える神秘主義やオカルト主義が、 「超越的なるもの」 を新しく解説する説明体系として台頭している。エキセントリックな教義を持つ新宗教もこれに当たるだろう。

 これらは、 「近代文学」 がつかみかけた 「超越的なものの気配」 を、再び近代以前の 「宗教的な説明体系」 の中に回収しようとしている。
 そして、その逆行現象を、説話的な物語構造を持つ 『ロード・オブ・ザ・リング』 や 『スター・ウォーズ』 のようなファンタジー文化がサポートしている。 
 
 そんな気がしているのだが、このことについては稿を改めて考えたい。

 余談が長くなった。

風紋001

 要するに、私は、 「近代文学」 がようやく取り戻した、 「超越的なるもの」 の手触りを葬り去りたくないのだ。
 その手触りは、 「言葉にできない何か」 と向き合うことからしか生まれない。

 私の場合、その 「言葉にできない何か」 が、 「文章を書きたい」 と思うときの衝動を常にドライブしていた。
 そして、そういう眼差しを持っている作家だけを信頼してきた。

 文章の深みというのは、言葉で説明できない何かを、永遠に 「説明することなく」 、それを追い求めるところから生まれてくるように思う。
 それは文芸作品に限らない。モノやシステムの機能を解説するノウハウ書やハウツー書においても同様なのだ。

 モノを使う人間にとって、それをどう使うかということは、最後は個人の仕事である。
 優れたノウハウ書が、最も効率の良い 「使い方」 を披露したところで、それを使いこなすかどうかは個人の恣意に任される。

 そのときに 「この方法しかない!」 と強要するノウハウ書は、二流のノウハウ書でしかない。
 その個人 (読者) が、その製品あるいはシステムに対して、どういう想像力を働かすことができるか。つまりは、そこからどういう可能性を導き出すことができるのか。
 優れたノウハウ書というのは、そこまで描いているはずなのである。

 キャンピングカーのガイドブックだって同じことがいえる。
 結局、そのクルマを使ったら 「何」 が手に入るのか。

 「快適な旅行や、美しい風景を手に入れることができる」
 といっても、 “快適” とは何なのか。
 “美しい” とは何なのか。
 読者がそれに対して思いを馳せるものまで描き込まないと、ガイドとしての役には立たない。

 話は戻るが、柄谷行人という人が書いたものは、そんなことまで考えさせてくれた。

ベックリン001
 
 いつのことだったか。
 もう20年以上も前のことだ。
 理解もおぼつかないまま、漫然とこの人の書いたものを読んでいたとき、こんな言葉に行き当たった。

 「あまりにも合理的なものは、ある時、そっくりそのまま非合理的なものである」

 これは 『小説の方法的懐疑』 と題される柄谷の評論の中で、古井由吉の 「先導獣の話」 から引用した文章だった。

 柄谷行人は、その後に、こう書く。
 「古井氏は、人間の人格・心理・思想といったあいまいなものを少しも信じていない」 。
 そして、このような認識の根底にあるものは、 「意味の体系」 の否認である、と続ける。
 さらに、古井氏の新鮮さは、ヒューマニスティックな思惟に対する 《切断》 を方法的に生きる文体を獲得したところにある、と。

 このくだりから、私は、近代に顕在化してきた 「超越的なるもの」 に対し、それを近代的なイデオロギー装置の囲い込みの中からつかみ出そうとする 「近代文学」 の手法が端的に描かれているように感じる。

 「あまりにも合理的なものは、ある時、そっくりそのまま非合理的である」
 ということは、
 「非合理的なものでも、みんなが承認してしまえば、合理的なものになる」
 ということだ。
 近代の歴史は、常にそのようにつくられてきたように思う。

 近代文学は、そのダイナミズムの中で生まれてきた文学である。
 そして、そこで試されてきた手法は、 「文学の無効性」 を主張することが時代のトレンドだとしても、今でも有効であると信じる。
 
 だから、その手法を愚直に追求するならば、常に 「言葉にならないもの」 を探し求めていくしかないのだ。

 言葉にできないものの “手触り” 。そして、それを言葉にしたいと思っても、それができない時のもどかしさ。
 たぶん、それを手放してしまったら、小説家も、Jポップの作詞家も、マニュアルライターも、物書きとしての生命は終わる。

 関連記事 「柄谷行人の文体」



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:01 | コメント(3)| トラックバック(1)

対論集「発火点」

発火点表紙01

 作家の桐野夏生さんから、新刊書を送っていただいた。
 『対論集 発火点』 (文藝春秋社) だ。
 帯に付いている副題は、 「女性はいま、どこにいるのか」 。
 1999年から2009年までの、さまざまな機会を通して行なわれた作家、学者、映画監督らとの対談が収録されている。
 これにより、読者は、この間の彼女の創作活動の舞台裏を知ることができる。

 登場する人たちは、松浦理英子、皆川博子、林真理子、斎藤環、重松清、小池真理子、柳美里、星野智幸、佐藤優、坂東眞砂子、原武史、西川美和といった、それぞれの分野で、みな特異なフィールドを切り開いてきた人ばかり。
 その方々が、自分たちの専門分野を絡めて語る桐野作品の感想から、読者は、彼女の作品を貫く奥行きの深さを再認識することができる。

 一読した印象としては、男性との対談より、女性同士の対談の方が面白い。
 男たちはどこか身構えている感じがする。
 つまり、桐野夏生という作家の作品世界に対し、自分はこういう 「感想」 を言わなければならない…という答を用意してきている感じがするし、語られるテーマに関しても、言葉一つひとつを取っても、自分が昔から温めているイメージの殻から出ようとしない。

 さすがに佐藤優ぐらいのスケールの大きな人物になってくると、情報量が豊富なために、語る世界も豊穣で面白いけれど、結局は、彼も己 (おのれ) の世界のみを語っていることには代わりがない。
 そのような観念世界があっても、今の男たちはもう女に太刀打ちできないようだ。

桐野夏生氏1

 結局、物書きというのは、常に 「言葉では表せない世界」 を追求しようとする人たちなんだな…ということが、この対論集を読んでいると、よく分かる。
 たとえば、作家、柳美里さんに対して語った桐野さんの次のような言葉は、作家としての圧倒的な覚悟を語っている。

【桐野】 最近思うのは、よく現実が小説を乗り越えたって言うでしょ。そんなの当たり前で、昔からそうなんですよね。たまたま私たちが悲惨な現実を知らなかっただけで、もう昔からとっくに、小説よりひどい現実はたくさんあるわけじゃないですか。
 また、言葉で表せないものはないって言われるけれど、それは傲慢だと思うんです。
 結局、私たちの言葉も、教育などで得た経緯からして、コストのかかった特権階級のものなんですよね。
 だからアフリカやインドといったところの、ものすごく貧しい地域の、言葉にもならない苦しみというものは小説家は書けない。
 だから小説を書くということは、冷たい風がビュービュー吹いているようなところでやっている仕事だと思う」

 この柳美里さんとの会話は、次のようにつながっていく。

【柳】 (作家として) どんな光も届かない完全な闇。自分の姿さえ見えない闇に降りていきたいと思っていらっしゃるんですね? 作家の欲望としては、言葉にできない物や事があるならば、どんな危険が伴おうと、そこに行ってみたいですよね。
【桐野】 闇にまで行き着けば、言葉にならないところまで見据えることができれば、それは作者にとって勝利に近いんじゃないかなと思います。

 このような桐野夏生さんの思いは、小説としての “決まり事” の拒否という形に突き進む。
 彼女が直木賞を受賞した 『柔らかな頬』 は、推理小説の定型パターンを打ち破った新しいサスペンス小説だったが、それが完成するまでには紆余曲折があった。

 彼女は、 『柔らかい頬』 の第一稿を書き上げても、自分で納得できないものを感じていた。
 それは、昔からの読者にはおなじみの女性探偵ミロが活躍するもので、ミロが犯人を確定し、事件を解決するという筋書きで進んでいたのである。

 だが、それは、エンターティメントの “約束の世界” をある程度忠実に守ったもので、彼女が書きたい 「生っぽくて荒々しいもの」 にはたどり着かなかった。

 桐野さんは、そこで思い切って一度中断し、『OUT』 の執筆に切り替える。
 先に手を染められた 『柔らかい頬』 は、 『OUT』 の完成を経て、新しい小説に生まれ変わったのだ。

 「私が書きたいことは事件の解決ではない。謎が解決することは、小説が終わることとは違う」
 彼女は当時のことを思い出して、そう語る。

 だから、彼女は、サスペンス小説でよく使われる 「トラウマ」 とか、ホラー小説によく登場する 「サイコパス」 を描かない。

 「 (トラウマのように) 最初から因果を決めてしまう自己完結のドラマは、それ以上話が広がらないからつまらない。人間というものは、どんなふうに転がっていくかは、事後的にしか分からない。サイコパスも完結性を持ってしまうので、つまらない」

 このような彼女の視線に共感を示すのは、主に同じ女性の作家たちだ。
 物書きは、たえず 「目を磨く」 ことに生命を費やすけれど、その磨き方が、女性と男性では違う。
 男は 「観念」 から目を磨こうとする。
 女は 「質感」 を頼りに、自らの目を磨く。

 作家、小池真理子氏との対談の一節。
【桐野】 (俳優の) ハーベイ・カイテルみたいな人も好き。いい男だよね。
【小池】 私も好き。あの人はすごく色っぽいですよ。いわゆる美男というのとは違うけど、セクシーですよね。
【桐野】 あの体は、肉がしっかりと詰まっている感じがする。決して中がプヨプヨしていない。自分の上に乗ったときの重さみたいなものも感じられる。
【小池】 抱擁したときの質感も。……しかし、こんな話、ふだんあまりしないよね (笑) 。
【桐野】 しませんよ (笑) 。
【小池】 男と女って、お互いの精神性なんて分からないまま関係を始めるわけでしょう? だったら質感の話をしてもいいはず (笑) 。
【桐野】 そうそう。だって、ヨン様に限らず韓流スターがあれだけウケたのも、おばさんたちがまず、無意識だけどいい質感を見つけたからでしょう? 
【小池】 そうそう。言葉にはされていないけどね。だからおばまさたちだって絶対、ヨン様に上に乗られた重みをイメージしている。それは女性にとってとてもノーマルなことだと思う。
【桐野】 確かに。私も時々は男の重みを感じたい (笑) 。
【小池】 私も! (笑)
【桐野】 アハハハハ。

 下世話な話のようでいて、 「質感」 に対するリアルな視線の存在が浮かび上がってくる。

 この小池真理子さんとの対談は、特に面白い。
 気心を通じ合った仲間同士が、馴染みの酒場で意気投合しているといったリラックス感が伝わってくる。

【桐野】 私、情けない男の方が好きだな。余裕がないっていうことも男の魅力の中では大きいね。
【小池】 わかるなー。余裕をなくしている男は、本当に色っぽい。
 逆にいうと自意識が見えちゃうとダメなんだということよね。最悪なのはカッコつけていることが見破られているのに、それに気づかない男……
【桐野】 最悪だね。
【小池】 本当に最悪。 『LEON』 (※ 当時のちょい悪オヤジ雑誌) なんか読んで、意味もなくカッコつけているのは本当にカッコ悪い。
【桐野】 レオナーって、モテないと思うよ。あれってギャグじゃなかったの (笑) 。まさか本気でやっている人がいるなんて思いもしなかった。
 私は、満員電車の中で夕刊を読んでるような疲れたサラリーマンも好きだな。何だか色っぽいなあって思う。…どこか荒んだ感じが。
【小池】 分かる気がするな。じゃ、読んでいるのは日経新聞や朝日新聞じゃなくて……
【桐野】 夕刊フジとか日刊ゲンダイがいいの。
【小池】 なるほど。東スポや内外タイムスだとちょっと違うんでしょ。
【桐野】 違う (笑) 。ちょっとアホ過ぎ。

 一見、作家的な感性を持った人たちの、ちょっと屈折した趣向が語られているように思えるが、この感じは、世の女性たちが意識するか無意識にとどめるかは別として、ある程度は理解できるものだと思う。
 彼女たちは 「作家」 として、たまたまそれを語る言葉を持っていただけに過ぎない。

桐野夏生氏2

 この対談集では、桐野夏生さんがインタビュアーとなるような展開が多い。
 彼女は 「○○の制作で一番苦労されたのは何ですか?」 などというベタな質問も恐れない。

 「観念」 を構築してから物事を理解しようとする男性たちに比べ、この無垢な好奇心をむき出しにしたまま、相手ににじり寄っていく彼女の姿勢が、新しいフィールドを切り開いていくブルドーザーのような役目を果たしたといえる。

 その結果、 『OUT』 のような前人未踏の荒野を突き進むような作品が生まれてくる。

 女流映画監督の西川美和さんは、こう語る。

 「桐野さんが小説で描いている女性像は、私としては馴染み深いけれど、これを映画で表現するとなると難しい。なぜかというと、映画の歴史において、サンプルのない女性像なんです」

 桐野夏生の作品に、普通の女流作家たちが持たない構造性があることを指摘したのは、斎藤環さんだが、その 「構造」 というのは、いまだ見えてこない 「世界」 を、しっかり自分の目で見つめようとする 「意志」 から生まれてくるものだ。
 だから、それは、いわゆる説話的な物語が抱える類型的な 「構造」 とは違う。

 桐野さんはいう。
 「私は理屈っぽいんです。お料理でも、炒め物の前はフライパンをよく熱して、といいますが、それだけでは納得できない。
 よく熱することで、油のところに皮膜ができて、炒めるものがくっつかなくなると言われて、初めて体が動くタイプなんです」

 これは、調理に向かう姿勢を語っているのではない。
 「世界」 を見る視線の構築を語っているのだ。

 この 「世界」 を構造的に見る “力” が、桐野夏生作品の揺るぎない存在感を浮かび上がらせる秘密となっている。

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音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:34 | コメント(0)| トラックバック(0)

カツマー現象

 今日の話は、ある週刊誌で読んだ記事内容をそっくりそのまま紹介するだけにとどめる。

 香山リカさんという精神科医の女性が、『しがみつかない生き方』 という本を出版されて、それが周囲にどのように受けとめられたかという話だ。

 この本は、 「頑張ってもうまくいかない」 と悲鳴をあげる人たちに、 「しがみつかない生き方」 を諭し、 「普通の幸せ」 を手に入れるための10のルールを提案したものだという。

しがみつかない01

 この本が話題になったのは、その10番目のルールとして 「 <勝間和代> を目指さない」 という章を設けたところにあるらしい。

 勝間さんは 「経済評論家」 という肩書きでデビューした後、その専門分野の知見を生かした数々の自己啓発書的な本を執筆。この2年間で20冊以上の本 (累計部数270万部!) を世に出し、社会現象を巻き起こした。
 その勝間さんの愛読者は 「カツマー」 と呼ばれ、彼女のセミナーに参加した女性ファンたちは、勝間さんが演壇についたとたんに 「キャー!」 という歓声まで上げるらしい。

断る力表紙01

 その週刊誌のレポートによると、勝間さんの存在がこれほどカリスマ性を帯びてきた理由は、彼女が、競争社会・格差社会の中で生き抜くための 「向上心の喚起」 を呼びかけるだけでなく、自分の私生活や仕事の挫折もさらりと語り、自転車通勤をするなど、読者の親近感を誘うライフスタイルを提示したからだという。

 アラフォーあたりの働く女性にとって、勝間和代は、カリスマでありながらも 「自分たちと等身大」 であり、 「自分も頑張れば、そこに近づける」 と思わせるような存在なのだ。

 そこに問題があるのではないか、と香山リカさんはいう。
 精神科医の香山さんによると、 「頑張ってもうまくいかない」 とか 「頑張れない自分をダメだ思う」 と訴えてくる30代~40代の女性患者の大半は、勝間さんの愛読者なのだという。

 香山さんはいう。
 「いくら読者が親近感を持っても、勝間さんは、才能にも運にも恵まれた、成功した一握りの人間。普通の人が置かれた立場と、勝間さんが活躍できる立場では、すでに土俵そのものが違っている」

 しかし、向上心の強い女性たちは、勝間和代さんのような存在になることを必死に目指して、成功を呼ぶ技法を学び、勝間さんのように、仕事だけでなく、結婚、出産、育児、教育など人生のすべてにおいて勝ち組になろうとする。

 だが、そのような努力がすべて報われることは、現実社会においてはなかなかない。
 なにしろ、誰かが 「負け組」 にならなければ、 「勝ち組」 なども生まれないのだから。
 そして格差社会の広がる日本では、 「勝ち組」 として残れる人はどんどん少なくなってきている。

 しかし、自己啓発書に救いを求める人たちは、そうは思わない。
 その教えにすがればすがるほど、サクセスも近づいてくるような錯覚に陥る。
 そして、いつしか疲れはてた自分に気づき、愕然とする。

 そのとき多くの人は、 「勝間さんの言うことが実行できない私はダメな人間だ」 という自己否定に陥り、それが高じてノイローゼになり、あるいはウツ病になり、精神科医の門を叩く。

 結局、香山さんは、
 「このような、 (自己啓発的な) 考え方に日本人が振り回されるようになってきたのは、米国型の自由競争と自己責任の社会が日本にも浸透してきたからだ」
 と分析する。

 米国型のビジネス社会では、厳しい競争を勝ち抜くためには、 「自分が特別な存在である」 ということを絶えず主張しなければならず、また 「特別な存在」 になるための努力を継続しなければならない。

 このような 「自分が!」 「自分が!」 という価値観が、いつしか 「当たり前の幸せ」 に満足できない人間をつくってしまう。

 だから香山さんは、 「そんなに頑張らなくてもいい。今のままでもいいのよ」 と言葉をかけ続けるのだが、そうなると、 「頑張らないことを目標に頑張ってしまう」 人たちがたくさん出てくる。
 「リラックスするためにヨガを頑張って始めます」 とか、
 「頑張らないことを、いま何割ぐらい達成しました」
 みたいな反応があるらしい。
 読んでいて笑ってしまった。
 
 さて、このような香山さんの指摘した “勝間和代 (カツマー) 現象” をどう受けとめたらいいのか。
 その週刊誌には、それに対するさまざまな意見も掲載されていた。

 香山さんと同じく精神科医の和田秀樹氏は、カツマーという存在そのものに言及して、こういう。
 「カツマーとなるような30代~40代の人々は、受験の勉強法をハウツーものとして消化した最初の世代。勝間さんが受けた理由は、賢い女の生き方をハウツーにして示したから」 だという。

 同じく精神科医の斎藤環さんは、カツマー現象の分析に対して次のような視点を披露する。
 「今の時代の人々は、生き方というものを長期的なスパンで考えることよりも、短期間のうちに目標に到達することを求めるようになった。
 勝間さんは、思想とか価値観といった (難しいこと) を押しつけずに、細かいノウハウを示すことに徹しているので、汎用性が高い」
 
 逆にいうと、 「思想」 とか 「価値観」 が抜けた分だけ、目標の達成が 「オール・オア・ナッシング」 になってしまい、目標を達成できなかったときの喪失感も大きい…ということを、たぶん斎藤さんは言いたいのだろう。

 この斎藤環さんの面白いところは、今回の香山リカさんの本に対しても、 「カツマーからの脱却を訴えながら、カツマーをサポートしている」 と喝破したところだ。
 「勝間さんのように頑張るのに疲れたときに、香山さんの本を読んでいる人は多いと思うが、元気になると、また勝間さんの本に戻っていくのではないか。
 そういう意味では、香山さんの本もまた、皮肉にも自己啓発の役を完璧に果たしている」

 この意見は面白いと思った。

 では、当の勝間和代さん自身は、この香山リカさんの本をどう評価しているか。

 「私も、香山さんの本は発売後すぐに読みました。でも香山さんがいう勝間和代は “アイコン” に過ぎす、私本人とイコールではない。
 人の幸せには正解がない。結局は自分で考えていくもの。
 私の本でも 『会社に人生を預けるな』 などを読んでいただけたら、香山さんと私が言っていることが近いことが分かるはずです」

 なるほど。
 カリスマたちは (良い意味で) なかなかしたたかだ。 

 このように、カツマー現象を全方位的に追求したこの記事は、なかなか読みごたえがあった。
 決して、ある一つの “見方” を強要しないところがいい。
 いろいろな視点をバランスよく提示して、最終的な判断は読者に任せる。
 これが “ジャーナリズム” というものだよな。

 関連記事 「勝間和代さん分析」

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:46 | コメント(6)| トラックバック(0)

祭りの太鼓

 地元の祭りの太鼓を叩いてきた。

 わが町の八幡神社の太鼓は、全国で2番目の大きさを誇っている。  ( ↑ 単純なお国自慢) 。
 4~5年ぐらい前までは全国一を誇っていた。
 今でも、一本の木から枠を作り出した太鼓としては、全国一かもしれない。
 皮も、アフリカに生息する一番大きな牛の皮を特注で取り寄せたとか。

お祭り太鼓1
 
 その大太鼓が、地鳴りのような響きを立てながら、市内を巡回していく姿を見るだけで、紀元前10世紀にトロイの市内に導きこまれた、あの巨大な木馬を思い出す (映画でしか見たことはないけれど)。

トロイのヘレンの木馬

 太鼓の叩き方にはフォームがある。
 足を 「ハ」 の字に開いて、腰を落とし、バチを大きく後ろに反らしながら、全身を一本のムチのようにして振り切る。
 このとき、軸足をしっかり地につけて、それをビクともブレさせてはならない。
 そうしないと、上半身だけに力が入り、太鼓の反発力に弾き返されて、のけぞることになる。

 太鼓を打ったときの反発力たるや、相当なものだ。
 ヘタをすると、バチなど、あっという間に手を振りちぎって、後方に飛んでしまう。

お祭り太鼓4

 ……などということは、残念ながら、頭の中で考えたもので、実際は違うかもしれない。
 でも、太鼓を叩いている人たちのフォームを見ていると、そんなことが想像される。

 前から祭りの大太鼓は叩いてみたかったのだが、なかなか、 「叩かせてください」 なんて割って入るほどの勇気もないし、そういう身分も資格もない。
 そこで今回は地元商店街に戻り、町内会だけの集まりの中に入って、子供用の小さな太鼓を叩かせてもらった。

 これはテケテンテケテンと、手首の返しだけで音が出る。
 楽しくなって、ロックリズムやらアフリカンポリリズムなど、いろいろ試してみたが、まぁ顰蹙 (ひんしゅく) モノだったかもしれない。
 でも、子供たちが面白がって、その太鼓の反対側に集まって叩き始めた。


 太鼓というものは、人間に 「お祭り的高揚感」 を与える最も効率のよいアイテムである。
 なにしろ、「リズム」 そのものが、人間の脳内快楽物質の分泌をうながすサイコーの即効薬であるからだ。
 だから太鼓は、心臓の鼓動をはじめ、人間が生物として持っている “生命のリズム” を増幅させる 「アンプ」 でもある。

 「トランス」 という音楽ジャンルがあるが、人間は、一定程度の同一リズムを反復して聞かされるうちに、いつしか憑依状態 (トランス) に陥るようになっている。
 遊牧民のシャーマンは、憑依状態を招くために、タンバリンを叩き続けた。
 「神」 はリズムの中に舞い降りるのだ。

 昔、母校を優秀な成績で卒業し、その後エリートの階段を登りつめていった人と、 「音楽性を決定する最大の要素は何か」 という議論をしたことがある。
 彼はクラシック音楽を愛する教養人で、自らヴァイオリンも操った。

 彼は 「ハーモニー」 の重要性を主張した。
 私は 「リズム」 だと言い張った。

 結局それは、日頃どんな音楽を聞いているかという差でしかなったようにも思う。
 オレ、R&Bとかブルースとかレゲェ派だったからね。

 計算し尽くされたハーモニーが、聞いている人間に、ある種の“超越性”を感じさせることは認める。
 あれは 「数学」 がベースになっているから、その整合性の美しさに、人は、人智の及ばぬ 「天上の音楽」 を感じるときがある。
 賛美歌がハーモニーを重視するのはそのためだ。

 しかし、優れたブルースとかレゲェなどを聞いていると分かるけれど、すごいミュージシャンたちは、 「ハーモニー」 とはまた違った意味で、リズムとリズムの間に、人智の及ばぬ 「深遠」 が潜んでいることを教えてくれる。
 1拍と、次の1拍の間には、人間には超えることのできない “クレバス” が広がっている。 
 それを、 「えいや!」 と、目をつぶってジャンプするときの緊張感と飛翔感。

 そこには、ハーモニーの超越性とは異なる 「音の神秘」 が存在している。

ボブ・マーリー01

 ハーモニーが、現代音楽のレベルを飛躍的に高める大事な音楽要素であったことは確かだ。
 しかし、今われわれが 「ハーモニー」 として認知しているものは、たまたまヨーロッパで生まれたきわめてローカルなスケール (音階) を基にして生まれてきたものでしかない。

 地球規模でみると、世界にはインドやアラブの音階やら、日本の音階やら、黒人音楽のブルーノートやら、西洋音階とは異なる音楽性に満たされた、さまざまな固有の音階がある。
 だから、西洋音階をベースに作られた今のハーモニーも、ローカリティの制約を受ける。

 それに対して、リズムには普遍性がある。
 それは、生物としての人間が共通して持っている “生命の鼓動” だからだ。
 
 太鼓は楽しい。
 来年の町内会の祭りまでに、正規の和太鼓の奏法を教えてもらい、町内会のハッピを着て、 「ドラマー」 として参加したいと思った。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:25 | コメント(2)| トラックバック(0)

夢の中の情事

 私にガールフレンドができた。
 相手の年は、20代半ばというところか。
 (もちろん夢の中の私も、彼女と同年齢ぐらいのようだ)。

 彼女は、肉付きのよい身体 (からだ) をしている。
 顔はタヌキ顔で、目や鼻が丸い。美人というほどではないが、愛嬌のある可愛らしさがあって、ある種の男には好まれそうな雰囲気がある。 (夢から醒めて思い出すと、昔何度か行ったことのある駅前の喫茶店のママさんに似ていた)

 夢の前半部にはいろいろな展開があったようだが、そこらあたりはもう思い出せない。
 思い出すのは、彼女の部屋のあるアパートの階段を昇っているところからだ。

 たぶん彼女が前を歩いているのだろう。私は、彼女の着こなしをチェックしている。
 スカートが赤だったか、ブラウスが赤だったか覚えていないのだが、とにかく片方が赤で、片方は黒だ。
 その赤と黒のコントラストが、成熟した女性の肉感的な匂いを伝えてくる。

 アパートは6~7階ぐらいほどの高さがありそうで、彼女の部屋は4階ぐらいのところにある。
 それだけの高層アパートなら、エレベーターがありそうなものだが、夢の中の二人は、気にとめることもなく、その階段を上がっていく。
 下を見ると、どんよりとした曇り日の空の下に、下町風の古びた住宅街が広がっている。

 私は、彼女が何の仕事に就いているのか知らない。アパートの階段を昇りながら、 「仕事は何をしているの?」 と尋ねる。
 「絵を描いている」 という。
 「どんな絵?」
 彼女は (いつの間にか) 抱えていたサーフボードのような形をした2枚の板を取り出して、私に見せる。
 2枚とも、絵というより看板のようなもので、レモン色の地に店舗の屋号を記したような文字が描かれており、そこにヤシの木のイラストが添えられている。
 うまいデザインとはいえない。

 彼女の部屋がある階にたどり着くと、彼女はその2枚のボードを、階段の踊り場のような場所に無造作に立てかける。
 階段を昇るアパートの住人たちに絵のサンプルを見てもらい、仕事を受注するつもりなのだという。
 「それでは見る人間が限られてしまうから、効率が悪いだろうに…」 と私がいうと、
 「自分の実力はまだたいしたレベルではないから、アパートの住人に見てもらうだけで十分」 だという。

 部屋は、6畳くらいの広さしかない。ブルーのカーペットの上にシングルベッドがあって、テレビがあって、あとは普通の家具が並んでいる。
 本のようなものはなく、カーペットの上に、どこの美容院にでも置かれていそうな、ありふれた女性週刊誌が転がっている。
 どちらかというと、つつましやかな生活を送っているようだ。

 ベッドの端に腰掛けて、部屋を眺め回していると、来客があった。
 ドアからメガネをかけた男が室内を覗き込む。
 アパートの隣りの住人らしく、私の姿を認めても、気にとめる様子もない。
 「××ちゃん」 と、男は親しげに彼女に声をかけ、同じアパートの住人同士の気楽な会話が始まる。
 留守中に荷物を預かったから後で取りに来て…という事務的な内容のようだ。

 男が去っても、特にやることがない。

 窓ガラスの外を見ると、このアパートよりもさらに背の高いマンションが建っていて、こちらを見下ろしている。 向こうのマンションから覗かれそうな圧迫感を感じたが、マンションのベランダにはどこにも人影がない。住人が越してくる前の未完の建物かもしれない。

 流しの底を、断続的に水が打つ音がかすかに聞こえてくる。
 パッキングが悪いのだろうか。
 彼女は、そのことを特に気にもとめていない様子だ。携帯電話の画面をチェックしながら、誰かにメールを打っている。 

 はて、これから彼女とどんな会話を進めたらいいのか…
 考えてみると、あまり共通の話題がなさそうな気がする。いったいいつから彼女がガールフレンドになったのか、それもはっきりしない。

 ベッドの端に腰掛けたまま、ぼんやりとカーペットのしみを見つめていると、いつの間にかパジャマに着替えた彼女が、私の隣りに座っている。
 彼女の身体からフワっと力が抜けて、ごく自然に、二人ともベッドに倒れこむ。

 無言のうちにキスを交わす。
 ……そうか、彼女はその気があるのだな…と思って、私は相手のパジャマのボタンを外す。

ピンクヌード001

 相手の胸をはだけて乳房を吸うのだが、自分にとっては久しぶりの情事らしく、自分でも自分の動作をギコチなく感じている。

 ふと気づくと、テレビが大音量で鳴っている。
 うるさくて気分が集中できないな…と思ったが、ドアから簡単に部屋を覗き込んだ隣りの男を思い出し、
 「そうか。声が出たときにテレビの音でかき消すつもりでいるんだな」 と納得する。

 やがて、パジャマの下も脱がせ、全裸にしたところで、私は突然、彼女との情事がこれが初めてではないことに気づく。
 2回目?
 いや3回目ぐらいになるのか…。

 しかし、どこで抱き合ったのか思い出すことができない。
 もしかしたら、この部屋に来たのも初めてではないのかもしれない。

 すでに肉体的に通じ合った仲だということで、どこか安心する一方、なんでそんなことを思い出せないのだろう? …と不安にも駆られる。
 自分が彼女のことを、 「どういう存在として捉えているのか」 ということが自分でも分からないので、少し気分が不安定だ。

 乳首から舌を這わせて、腹、そしてさらにその下へと舌を移動させながら、
 「僕たちこれで3回目だよね?」
 と尋ねる。
 すると、彼女はかすかに首を横に振り、ただひと言、 「いっぱい」 と答える。

 その顔に、かすかなふくみ笑いが浮かんでいる。

 そこで目が醒める。

 ……彼女は誰なんだろう。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:29 | コメント(2)| トラックバック(0)

新しいモノの秘密

 「変わること」 とか 「新しいこと」 が、何か素晴らしいことであるかのように言われる時代が、もう長く続いている。
 いったい、どれほど長いのか検討もつかない。
 たぶん日本の場合は、明治時代が始まったあたりからだろう。
 「明治維新」 といったくらいだから。

 「変わること」 に価値をおく考え方は、特に、政治の世界で顕著だ。
 小泉元首相が率いたかつての自民党が 「構造改革」 と謳ったかと思えば、今度は 「政権交代」 。
 このように、 「変える」 とか 「新しい」 という言葉を謳った政党が強いのは、私たちが 「変える」 とか 「新しい」 という言葉に弱いからだ。

 議論でいちばん強い言葉は、 「その考え方はもう古い!」 というやつ。
 どんな論客でも、そう言われると一瞬ひるむ。

 古いものは捨てなければならない。
 常に新しいものを求めなければならない。
 …こういう考え方は国民的合意を通り越して、今や強迫観念になっている。

 なんで、そうなったのか?

 答は簡単である。
 資本主義の世の中だからだ。

 資本主義社会の定義は、経済学者でも難しいものだから、うかつには言えないけれど、まぁ、一言でいうならば、
 「古いモノは捨てて、新しいモノを買おう」
 という考え方を 「是」 とする社会のことである。
 そうしないと、資本主義は回転しない。

 まだ見られるテレビを、地デジ対応に替えなければならなかったり、まだ走れるクルマを、排ガス規制のために替えなければならないのは、資本主義社会の中に生きている住民の宿命なのだ。

 もちろん世の中の法的規制がどうであれ、新しいモノに魅力がなければ人々の消費意欲を本当に刺激することはできない。
 だから、新しい商品は、CM戦略も含め、常に消費者にバラ色の夢を与えるように燦然ときらめく衣裳に包まれて登場してくる。
 その歴史的蓄積が、いつのまにか 「新しいこと」 は無条件に素晴らしいという考え方を人々に刷り込むことになる。

 産業において 「技術革新」 が奨励され、文化においては 「オリジナリティ」 が賞賛されるというのは、別に人類の普遍的な志向ではなく、資本主義システムが、そういうように人々を教育したからだ。

 「革新」 とか 「オリジナリティ」 といえば聞こえはいいが、要は 「差異」 である。
 それまで流通していたものと、これから流通させようとするものを差異化 (差別化) して、後者を 「新しい」 と表現したに過ぎない。
 だから、時として 「新しいモノ」 が、 「古いモノ」 より製品的に劣悪だったり、粗雑だったりするということは日常的によく起こる。
 ただ、それでも消費者は、それが 「新しい」 というだけで、消費意欲を満足させる。

 このように考えると、 「変える」 こととか、 「新しい」 ことが価値を持つという考え方は、資本主義がつくり出した “イデオロギー” であることがくっきりと見えてくるだろう。
 日本で、 「新しい」 ことが素晴らしいという考え方が顕著になってきたのは、ちょうど日本に産業資本主義が根づいた明治からである。

 産業資本主義には労働力が必要だ。
 労働力として産業に従事する人たちは、号令と同時に、一糸乱れぬ統制を保って、効率よく働かなければならない。
 …というわけで、明治になってからは、武士の子も、町人の子も、農民の子も、みんな同じ学校に通って、同じように 「規律」 というものを学ぶようになった。

 それはけっこう生徒たちにはシンドイことだったかもしれないが、 「新しい国家づくりに貢献する」 という考え方をみっちり植え込まれたから、みんな生き生きと勉学に励んだ。
 そのときから、日本人は 「新しいことはいいことだ」 という信念を強く持つようになった。

 「産業資本主義」 というのは、 (大ざっぱにいえば) 工場に労働者を集めて、モノを生産させ、そこで生まれた商品を、今度は労働者自身に買い戻させるという経済システムのことをいうが、こういうシステムのプロトタイプが生まれたのは、イギリスの産業革命あたりからだから、まぁ、たかだか200年の歴史しかない。

 それまでの人類は、特に 「新しいこと」 とかいうものに、そんなにこだわっていなかった。
 「まず喰うことが満たされて、それに祭りとか酒とか、少しの楽しみが味わえれば、それで幸せじゃない?」
 産業資本主義が勃興する以前の世界の民は、せいぜいそういう気持ちで生きていたと思う。

 資本主義が誕生するまでの各民族の叙事詩などに登場するヒーローは、たいてい似たような共通項を持っている。
 それは 「守る英雄」 だ。
 他民族の侵略から、自分たちの民を守った人物。
 悪しき風習がはびころうとしたときに、その民族の良き伝統や風習を守った人物。
 彼らは、決して 「新しいもの」 を創出したヒーローではなかった。

 しかし、 「新しいこと」 に価値をおかなければ存続できない資本主義社会は、歴史まで改編して、すべてを 「革命家の歴史」 という形に塗り替えた。

 たとえば、日本史に登場する歴史的人物として、常に人気のベストスリーぐらいに入る坂本龍馬と織田信長。
 これらの人を 「偉大な歴史の変革者」 という位置づけで語るようになったのは、明治以降、特に日本経済が興隆期を迎えた昭和の高度成長の時代からである。

信長の野望の信長01

 私は、KOEIの 『信長の野望』 のファンだから、あいかわらず信長という武将は好きだけど、彼が戦国時代の 「革命家」 だったというような評価は、後世の資本主義イデオロギーのライトに照らされて浮かび上がってきたものに過ぎないことも自覚している。

 関所を撤廃して楽市楽座を設けたり、貨幣経済に着目したり、海外との貿易を画策したり、常備軍を創設したり…という信長の方針を、世の歴史家たちはこぞって 「新しい!」 と評価するけれど、それは、すべて後世に誕生した資本主義のフィルターを通して見えてきた人物像なのだ。

 そもそも歴史上の人物を比較して、 「誰が新しくて、誰が古い」 などと識別する作業そのものが、資本主義の 「差異化の原理」 を投影したものに過ぎない。

 ま、そういうカラクリがあるにせよ、 「新しモノ好き」 が、今の時代に求められる人間像であるかぎり、否が応でも、もうこの世界で生きていくしかない。

 ただ思うに、最近、この 「新しいモノ」 に価値を置こうとする資本主義イデオロギーの賞味期限が切れかかっているような気がしてならないのだ。

 資本主義社会は、それが存続する限り、恒久的に 「新しい価値概念」 を創出し続けるだろうけれど、たぶん、その 「新しさ」 のイメージが、今まで200年ぐらい続いてきたものとは大きく変わりそうな気配がある。
 
 つぅーか、今まで資本主義社会がつむぎ出してきた 「夢」 を、もう 「夢」 として感じなくなってきた人々が確実に現れ始めている。

 それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
 ひょっとしたら、今までのカタチの資本主義が終わろうとしているのかもしれない。

 いずれにせよ、中国やインドなど、今の世界経済をけん引している発展途上国家の市場が飽和状態になったとき、明確な答が出てくるだろう。

 それは、まだ相当先の話だけどね。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:35 | コメント(4)| トラックバック(0)

廃墟ブーム

 「廃虚萌え」 という心の動きがある。
 都市の片隅や、郊外の一角や、野原の真ん中やらにポツリと取り残され、誰からも見捨てられ、静かに朽ち果てていく建築群。

 そういったものに興味を持ち、時として、それに美を感じ、そこを訪れたり、そういうものを特集とした写真集などを買ったりする趣向が、ずっと静かなブームとして続いている。

 なぜ、そういうブームが生まれたのか? ということはよく分からないけれど、私も昔から 「廃虚」 に心惹かれるたちなので、同じ趣向を持つ人々の気持ちは、なんとなく理解できる。

 しかし、 「廃虚ブーム」 といっても、決して現代社会に特有なブームではないと思う。
 きっと、昔からあったはずだ。

 思えば、ヨーロッパのルネッサンス時代。
 それまでヨーロッパ全体を覆っていたキリスト教美術の様式を脱して、ギリシャ・ローマの古典美術に範を求めたルネッサンス美術が生まれてきたのも、イタリアには、ローマ時代の廃虚が残っていたからだ。

古代ローマの遺跡

 中世の末期、イタリア諸都市の経済成長と同時に、キリスト教的イデオロギーの影響力が薄れるに従って、イタリア人たちははじめてローマ時代の廃虚に、 「美」 を感じるようになった。 (それまでは、“悪魔の宮殿” として、中世の人々は、むしろ近づくことさえ忌み嫌っていた)

 実際に、廃虚というのは、その完成形が失われた状態だから、廃虚を観察することは、 「不可視の完成形」 を想像で補うことを強いる。
 そのとき、何が起こるかというと、「完成形」 とは何かという 「理念」 が生じるのだ。

 その理念に従い、完成形のモデルケースとして 「古典」 が発見され、キリスト教的美術観とは違った異教的な世界観がこの世にあったことを、ルネッサンス期の人々は知るようになった。


 思うに、 「廃虚」 というのは、時代の変わり目に見直されるのではないかという気がする。

 もちろん、廃虚なるものは、どんな時代のどんな場所にも、必ず出現していたわけだけど、それが、突然人々の 「興味の対象」 として浮上してくるというのは、やはり、その時代がひとつの転換点に差し掛かったことを人々が感じるからだろう。

 そういった意味で、 「廃虚萌え」 が拡がってきた現代社会もまた、時代の変わり目なんだろうな…とか、感じる。

 廃虚が、なぜ、人々の足を止め、そこにたたずんで眺める気持ちを起こさせるのかというと、たぶん、廃虚が、時空を越えた存在の 「象徴」 として機能する面があるからだろう。

 廃虚を、時間軸でみると、 「現在」 と 「過去」 が交差する場所となる。
 つまり、この世に出現した建物が、人が去ることによって風化し、朽ち果て、ゆっくりと、出現する前の 「過去」 に戻っていく場である。

 廃虚を、空間軸でみると、 「文明」 と 「自然」 が交差する場所となる。
 つまり、文明そのものを意味する人工的な建築物が、文明の保護を受けられなくなり、文明から遠く離れた 「自然」 のふところに戻っていく場である。

  つまり、 「廃虚」 は、時間軸で考えても、空間軸で考えても、この世のものではない “超越性” をはらんだ場所なのだ。

 同じように、建築途上の建物も、廃虚と同じ性質を持つ。

 私などは、野原の真ん中に、造りかけの高速道路の橋げたなどが取り残されているのを見るたびに、そこに、廃虚と同じ匂いを嗅ぐ。
 廃墟と、建築途上の建設物の違いは、時間軸が 「過去」 に向くのか、 「未来」 に向かうのかという違いでしかない。

建築途上の高速道路

 いずれにせよ、廃虚は、 「ここではないどこか」 を暗示させる場所である。
 そこに多くの人は惹かれるのだと思う。
 廃虚の超越性に触れることによって、人々は 「聖なる時と場」 に吹く風の匂いを嗅ぎ、この時代特有の閉塞観から一時だけ免れる。

 ただ、最近そのような 「超越性」 に、現代人は感応する力を失いつつあるような気もするのだ。

 何からそのようなことを感じるようになったのか。
 また、その理由は何なのか。
 長くなりそうな気がするので、それはまたいつか。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:05 | コメント(0)| トラックバック(0)

貧しい言葉

 その人の持っている 「言葉」 が貧しいのか、豊かなのか。
 それは、その人が、 「政治」 を語るときに端的に表れてくるような気がする。

 「政治」 が取り扱う世界は、人々が生活を営む日常的な暮らしに始まり、メディアが報じるような世界情勢に及び、人の生き死をどう考えるかという哲学の領域にまで広がっていく。

 だから、 「政治を語る」 ということは、極端な話、 「世界を語る」 ことでもあるのだ。
 …というか、少なくとも、 「世界を、どう見ようとしているか」 を語ることになる。

 衆議院選挙が終わり、各メディアでその分析やら総括が盛んに行われるようになった。
 週刊誌などは、選挙結果が終わった直後が締め切りだったと見え、有名人の連載エッセイなどは、それに関する雑感を綴ったもので溢れている。

 その中には、 “世界経済” とかいうコムズカシイ問題などには一切触れず、自分の身辺の変化を書いただけでも、無類に楽しいものもあるし、いっぱしの政治通を気取っても、どうしようもなく貧しいものもある。

 ある週刊誌に掲載された連載エッセイで、私はそのような貧しさを感じさせる記事に出合った。

 その書き手の名を、仮に 「K氏」 ということにしておこう。
 著名な文芸賞も取ったことのある大御所である。
 
 K氏はエッセイの中で、この前の衆議院選挙の開票速報を見て、次のような感想をもらす。

8-30開票速報

 「 (選挙の開票結果が報道される) 8時近くになると、NHK、民放各局いっせいに選挙放送を始めるが、いまどき東国原知事や竹中平蔵を出す民放はなにを考えているのだろうか。なにも考えていないのだろう。
 心の中では自公べったりのテレビ・コメンテーターを含めて、このたぐいの人間は追放すべし。
 たとえば、竹中とずっと対立し、批判してきた金子勝氏のようなリベラリストが重要なのだが、民放はどこも時代の変化に気づいていないのだ」

 ……と、K氏は自分の連載エッセイの中で語る。

 “気分” としては、私も同感なのである。
 ただ、表現として、物書きがこんなレベルの文章で “こと足れり” と思い込んでいていいのだろうか? …と、どうも納得のいかないものを感じる。

 これじゃ、常連客と飲みかわすときの 「酒場の議論」 にも及ばないのではないか?
 不特定多数の人に向かっていいたいのなら、せいぜい原稿料をもらわないブログで書くべきようなことではないのか?

 そんな疑問が次から次へと湧いてくる。 

 まず 「東国原と竹中平蔵を (テレビから?) 追放すべし」 という根拠はどこにあるのか。
 彼らを非難するのなら、 (その非難の正しさは私も認めるが) 、非難する根拠を読者に提示するのが義務ではなかろうか。

 彼らの主張を事細かに引用し、それについて論評を加えろとはいわない。
 原稿の枚数が限られた連載エッセイでは、そのような余裕がないことも分かる。

 だけど、1行でも2行でも、彼らを 「追放すべし」 という根拠が分かるようななにがしかの情報を文中に入れるのが、物書きの責務ではなかろうか。
 「説明」 までしなくてもいいから、 “匂わす” ぐらいのワザを持つべきだろう。

 次に、金子勝氏のことを、簡単に 「リベラリスト」 と言い切ってしまうイージーさにも、ため息が漏れてしまう。
 「リベラル」 などという言葉が、今の政治状況で、はたして有効な批評言語になりるのだろうか。

 K氏は、この記事の前段においても、こう書く。
 「 (新聞やTVのような大マスコミは真実を報道しないが) 、ラジオはリベラルなコメンテーターが割と自由にしゃべる (ので、僕はラジオをよく聞いている) 」

 私は、この 「リベラル」 という言葉に、ものすごく引っかかった。

 金子氏やラジオのことを 「リベラル」 というのなら、まず 「リベラルとは何か?」 という説明をするべきであり、少なくとも読者に 「リベラル」 が何を意味するのかという、考えるためのヒントを添えるのが親切というものであろう。

 そもそも、 「リベラル」 とは何か?

 それは語源的には 「自由主義」 と訳されるものだが、日本では、本来のアメリカ的な意味で、この言葉が使われるケースはあまりなく、使う人の思惑で、相当のブレをはらんだ言葉になってしまっている。
 この言葉が、あいまいながらも日本で一定程度の意味を担っていたのは、日本の左派勢力が健在であった冷戦時代までのことでしかない。

 その時代、社会主義国家群と対峙するアメリカと同盟関係を結び、東アジアでアメリカの防波堤となろうとしていた日本の対米追従型の政治路線に対し、 「もっと日本国民の平和や生活の安全を守ろう」 と働きかけたのがリベラリズムの流れであり、そのときには明確な意味と、方向性を保っていた。
 その時代の 「リベラリズム」 は、日本では 「左翼思想」 という形で機能していた。

 しかし、 「左翼の本山」 と見なされていたソ連が崩壊し、社会主義国家を自認する北朝鮮がただの独裁国家であることが露呈し、中国共産党が開放経済に邁進するような時代になると、 「リベラリズム」 も 「左翼思想」 と結びつけたままでは語れなくなってくる。

 百歩譲って、 「リベラリズム」 が、本来の意味である国家権力の強権から個人の自由を守る思想だと定義し直したとしても、その 「個人の自由」 を 「規制の撤廃」 と結びつけて、今の弱肉強食型の格差社会を生み出したのは、 (K氏が文中で非難する) 自民党の方ではなかったのか。

 事実、 「小泉-竹中」 路線の方針を、多くの論者は 「ネオ・リベラリズム」 という言葉でくくったのだ。 (もちろんそれは、従来のリベラリズムとは何の関連もないものだ) 。

 このように、今 「リベラル」 という言葉を使うことは、その定義をめぐってすら混乱を招くような状態に陥っている。

 そういう言葉の用法に対する目配りすらなく、今なお冷戦構造の時代に通用した 「リベラル」 をそのまま使うK氏は、その用語の使い方だけで、頭の中が 「55年体制」 のまま固まってしまっているとしか言いようがない。

 言葉を無造作に扱う人は、 「世界」 そのものも無造作に見ている、と私は思っている。

 K氏はその記事の後段、こう書く。
 「 (民主党政権の誕生に関し) …どうせ、えせコメンテーター、評論家どもが、民主党を罵倒するだろう。
 敗戦直後に、 <自由とは何をやってもいいということではない> と叱りつつ、民主主義の仮面をかぶった戦時中の言論人のように」

 「えせコメンテーター」
 「…ども」

 なんで、こう罵倒する言葉が貧しいのか。
 ユーモアのかけらもない。

 「政治」 を語るときの言葉を見る限りにおいて、私は、この人が豊かな 「世界像」 を抱いているとは思えないのだ。
 もし、この人が豊かな 「世界」 を見ているとしたら、 「えせ…」 とか 「…ども」 とかいう言葉の響きの貧しさに、何よりも敏感になっているはずなのだ。

 私たちは、世の不正を憤ったり、あるいは鈍感な人々に警告を発したりするために、激情に駆られて過激な罵倒を世間に浴びせる、たくさんのネット言論を見ている。
 それは、まだ自分の文章を世に出すためのスキルを持たない人々の言論なのだから、やむを得ないと思えることもある。

 しかし、K氏のように、すでにたくさんの著作を抱え、名のある週刊誌に連載ページを確保し、社会的にも十分な認知を集めている人が、ネットレベルなら通用するかもしれない 「貧しい罵倒」 に終始してしまうことに、どうしても合点がいかない。

 K氏はさらに、この日の開票速報を楽しみにしながら、 「その前の時間つぶし」 だといって、NHKの大河ドラマ 『天地人』 を観たと書く。

 「松方弘樹の家康が、とにかく時代劇らしい芝居をしているほかは、なにをやっているのか。NHKも <改革> が必要である」

 この記事に関しても、当日、同じようにこのドラマを観て、
 「最初の頃に比べると、けっこうシナリオが充実してきたではないか」
 と面白がって観ていた私の気持ちを逆撫でした。

 ドラマの評価をおのおのがどう下すかはまったくの自由だが、K氏の書き方は、まったくの上から目線。
 しかも、自分の単なる趣味嗜好が、エッセイに載せたことで 「公共性を持つ」 と勘違いしている。
 自分の言うことが 「大衆を動かす」 という思い込みが、 「NHKも <改革> が必要だ」 という素っ気ないひと言に表れている。


 結局、K氏のエッセイが物語るのは、 「批評の不在」 である。
 「批判 (ひはん) 」 はあるが、 「批評 (ひひょう) 」 がない。

 「批判」 は、批判する主体…つまり批判したい欲望に駆られる自分への盲目的信頼から逃れることはできない。
 つまり、 「あれはダメだ」 と罵倒する自分の方が、常に批判する対象より上位に置かれる (上から目線) という構造は固定されたままである。

 それに対して 「批評」 とは、その 「批判する自己」 すらも、場合によっては批判対象として眺めることのできる “場” を保有することを意味する。

 それは、ちょうど 「アイロニー」 と 「ユーモア」 の違いとも対応している。
 「アイロニー」 は、批判する対象を “あざ笑う” が、あざ笑う自分は絶対に傷つかない場所に置いておく。
 それに対して、 「ユーモア」 は、自分自身をも 「笑いの対象」 として、他者の前に放り出すところから生まれる。

 こういうことだ。
 本当に笑いを誘う文章が書けるライターは、 「自虐ネタ」 も怖れないということだ。

 K氏のエッセイに欠けているのは、この 「ユーモア」 であり、そして 「批評精神」 である。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:00 | コメント(2)| トラックバック(0)

チカラ本の研究

 「時代」 を読むには、本屋に行くに限る。
 特に、新書版コーナーとビジネス書コーナー。
 そこに行けば、 「今の時代はこうだ!」 と分析する本が、棚のほとんどを埋め尽くしている。

書店の店内

 今は、書籍の返本サイクルも早くなってきているため、悠長なテーマを追求したものはさっさと段ボール箱に詰め込まれ、発行元に返却されてしまう。

 そのため、棚差し、平積みとも、
 『……の時代をこう読め』 とか、
 『すぐに分かる……論』 とか、
 『明日から役に立つ……の知識』 みたいな本しか残されない傾向にある。

 いやぁ、味気ない世の中だな…とは思いつつ、でも自分が担当書籍の編集者だったら、やっぱり 「すぐに役立つ」 系タイトルを、必死になって考案しているだろう。

 それはともかく、最近感じるのは、 “チカラ本” のエチゼンクラゲ的な異常発生だ。

 ベストセラーとして人気の高い 『悩む力』 (姜尚中) 、 『断る力』 (勝間和代) を筆頭に、
 『 鈍感力 』 渡辺淳一
 『 察知力 』 中村俊輔
 『 発想力 』 斎藤孝
 『 長州力 』 …あ、これは違った。
 『 政権力 』 三宅久之
 『 精神力 』 桜井章一
 『 妄想力 』 茂木健一郎 & 関根勤
 『 田舎力 』 金丸弘美
 『 集中力 』 谷川浩司
 『 見抜く力 』 平井伯昌
 『 選び抜く力 』 伊藤真
 『 質問する力 』 大前研一
 『 読まない力 』 養老孟司 ……

 なんと、書店では 「チカラ本」 の大行進が始まっているではないか!

断る力表紙01

 ちょっと前まで、 『……の品格』 が猛威を振るっていたけれど、政権交代の季節を迎えたのか、今や 「力派」 が 「品格派」 を抑えて、書店の棚を独占した感じだ。

 書籍タイトルに 「力」 をつけた本が注目されたのは、たぶん、98年に発行された 『老人力』 (赤瀬川原平) あたりからではなかったかと思う。

 なにしろ、本来 「力」 なんてないはずの 「老人」 の中に 「力」 を発見したのだから、このタイトルは衝撃的だった。
 はじめてこの書名に接した人は、きっと誰もが冗談だろ? 思わず微苦笑を浮かべたのではないかと思う。

 それでいながら、このタイトルには、衰えゆく老人の諸能力に 「価値」 を認めようという発想がうかがえて、その着眼点に、著者のユーモアと才気を感じることができた。

 この延長線上に、『鈍感力』 (渡辺淳一) がある。
 このタイトルも悪くない。
 「世の中で忌み嫌われる “鈍感” にも、いいところがあるんだよ」 という主張があって、 「勝ち組」 ばかりをもてはやす市場原理主義の世に、反語的なアイロニーを投げかける効果があった。

 その後、 「力チーム」 の最強4番打者として、姜尚中さんの 『悩む力』 が登場する。

 これは、 「人間の成長には悩むことが必要なんだ」 という古典的な教養主義の精神を現代に復活させようとした書ともいえるもので、いわば 「悩み」 を回避しようとする風潮の強い現代社会に対する “意義申し立て” を含んだ内容のものだった。
 そういった意味で、 「悩み」 の意味を真面目に取り上げた良心的な本だと思う。

悩む力表紙01

 しかし、その次ぐらいから 「チカラ本」 軍団は、一気に自己開発セミナー的な “元気本” に急旋回していく。
 その筆頭が、勝間和代さんの 『断る力』 。

 これもうまいタイトルだと感心するけれど、それまでの 「チカラ本」 とは少し方向性が異なる。

 『老人力』 、 『鈍感力』 、 『悩む力』 などが、多少なりとも、それまで社会的に 「負」 の烙印を押されていたような存在を、別の視点から救済しようというモチーフをはらんでいたのに対し、 『断る力』 は、タイトルとはうらはらに、 「断る」 ことによって自己生産性を高めるという、文字どおり “パワー” を授けるための本だったのだ。

 たぶん、この 『断る力』 あたりから、 「チカラ本」 たちの今のスタンスが定まってきたように思う。

 つまり 『○○力』 を謳う本は、基本的には、競争社会を勝つためのノウハウ集であり、生き残りのための “心構え集” となった。
 つぅーか、著者の意向とはかかわりなく、発行サイドが、もうその路線で売るためのレールを敷き詰めていった。

 それと同時に、タイトルを見ただけで、どのような力が自分に身に付くのかということが、一目で分かるような書名が主流になっていく。
 ( 『質問力』 、 『発想力』 、 『断る力』 )

 場合によっては、一人の著者が、それぞれの局面においてチカラの振り分けを示唆するような、テーマごとに書き分けたシリーズもある。
 ( 『段取り力』 、 『コメント力』 、 『眼力』 、 『恋愛力』 ……いずれも斎藤孝氏・著)


 それにしても、この 「力」 ブームを支える背景にあるものは、いったい何なんだろう。

 よく見てみると、 『○○力』 とつけられた本には、みな共通の特徴があることが分かる。
 昔ならば、 「力」 が必要だなんて思ってもみなかったものばかりなのだ。

 そこに問題を解くカギがある。

 今まで堂々と 「力」 を謳ってよいとされていたものは、 「経済力」 「表現力」 「馬鹿力」 「語学力」 「技術力」 「文章力」 ……などという言葉であった。

 これらの古来より存在する 「○○力」 は、みな見事にスキルアップを要求する。
 語学力を付けるには、語学を勉強しなければならない。
 馬鹿力を発揮するには、タンスを持ち上げるために、猛火をくぐる度胸を持たなければならない。
 文章力を養うには、本を読んだりしなければならない。

 今までの 「○○力」 は、すべてそれを身につけるための努力を要求するものばかりだった。

 ところが、最近の書籍タイトルに使われる 「力」 は、それとは違う。
 努力などしなくても、視点を変えれば、あるいは見落としていたものに気づきさえすれば、すぐさま手に入りそうな 「力」 なのだ。

 「老人力」 しかり、 「鈍感力」 しかり。
 「悩む力」 とか 「断る力」 とかいうのも、汗くさい努力をせずに、心構えを入れ替えるだけで、すべての問題が解決しそうな雰囲気がある。

 この“ お手軽なパワーアップ” が、時代の空気にぴたりとハマったのだと思う。

 今の時代というのは、誰にとっても、商売も生活も八方ふさがりの時代である。
 不況が長く続き、暮らしが好転する兆しが一向に見えない。
 人々は、その閉塞観から逃れるために、常に 「壁を越えたい」 とか、 「何かにすがりたい」 という気持ちを強く持っている。

 そのための 「パワー」 が、ぜひ欲しい!
 しかし、…イージーにね。

 ここらあたりが、 「チカラ本」 が蔓延してきた理由だと思う。

 もちろん、スキルアップの努力もせずに本物のパワーなど持てないことは、誰もが分かっている。
 だから、 「チカラ本」 を読むことは、ちょっとしたゲームを遊ぶようなものなのだ。
 千円前後の投資額で、それなりの知的興奮も得られて、それで本当に 「力」 が身に付いたら、すっごくトクじゃな~い !?

 それが読者の正直な気持ちだ。

 この構造は、お正月に神社などに 「賽銭 (さいせん) 」 をあげることに似ていなくもない。

 願い事がかないますように……って、みな手を合わせて、いくらか投資するけれど、誰もが本気になって、願い事の成就を期待しているわけでもない。
 でも、神聖な行事をすましたという、晴れ晴れした気持ちは手に入る。

 「チカラ本」 を買う人たちの気持ちも、それに似ている。
 読書という知的な行事をすました後に、 (瞬間的かもしれないが) パワーアップしたような気持ちが手に入る。
 そして、そこには、信じていないはずの神様のご利益 (力の授与) を、どこかで…ちょっぴり期待したりしている自分がいる。

 そういう本であるがゆえに、 「チカラ本」 の著者は、 “神様” であらねばならないのだ。

 姜尚中さんや勝間和代さんのようなカリスマ著者の本が、売れ筋の上位にいるというのは、考えてみると、当然のことなのである。

 関連記事 「勝間和代さん分析」


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:44 | コメント(4)| トラックバック(0)

ソングライターズ

 佐野元春がナビゲーターを務めるNHK (教育テレビ) の 『ザ・ソングライターズ』 が面白い。

佐野元春

 佐野氏がホストとなり、毎回日本のポップスシーンで活躍してきた 「ソングライターズ」 たちを招いてインタビューを挑む番組のようだ。

ザ・ソングライターズ01

 たまたま、再放送されたものを二度見たにすぎないが、ゲストに招かれたスガシカオと松本隆の番組には、それぞれ勉強させられるものがあった。

 スガシカオは、自ら詩を書く若手ミュージシャンとしては、今もっとも高度な作品世界を創り出しているアーティストの一人ではなかろうか。
 彼の奏でるサウンドが、けっこう私の好きなブラックミュージック風味を持っていたため、サウンドだけ楽しむためにCDを買ったことがある。

 だけど、歌詞カードを見たら、詩もすごいんでびっくりした。
 雰囲気として、平成のポストモダニズムの日本に舞い降りたランボーという気がしないでもない。

スガシカオ01

 スガシカオは、談話の中で、
 「日本語で歌詞を書く場合は、どうしても歌詞の頭に強拍が来てしまうような作りになってしまうけれど、自分の場合は、アフタービートの裏拍を意識して、いちばん訴えたい言葉がそれに乗るように詞を作り、グルーブ感を出している」
 という。

 なんだか、ランボーの 「オレは母音の色を発明した」 とかいう詩を思い出した。

 アルチュール・ランボーは 『地獄の一季節』 の 「錯乱Ⅱ」 で、こう書く。

 「A は黒、E は白、I は赤、U は緑、O は青…」

 日本語で読むと何の感興もないが、フランス語のラジオ講座で原語の朗読を聞いたとき、
 「アーノワール、ウーブラン、イールージュ……」 ってなアフタービートのノリがあって、ものすごいグルーブを感じた。 ( もし、ランボーが20世紀に生まれてエレキギターを知ったならば、きっと彼はロック小僧になっていただろう ) 。

 そのほかのスガさんの話の中で印象に残ったは、聴講に来ていた大学生の質問に答え、彼が 「漢字」 と 「カタカナ」 を使い分ける理由を語ったところ。

 たとえば、彼の作る歌詞の中には 「黄色い…」 という漢字を使ったものと、 「キイロイ…」 とカタカナを使ったものと2種類が登場する。
 その使い分けに関して、彼はこういう。

 「日本人の伝統文化である漢字は、生活の中に浸透した文字だから、意味や雰囲気を伝えるには、ものすごく効率がいい。
 しかし、作詞中に、ときどきそれを “切断” したくなることがある。つまり、漢字で表現されるニュアンスとは違ったものを出したいときに、カタカナを使う」

 それを、スガシカオは 「匂い消し」 という言葉で表現したように思う。
 
 とにかく、彼は今のソングライターの中では珍しいくらい、詩の作り方にしっかりした方法論を持っているアーティストだと思った。
 佐野元春がいうように、 「今はポピュラーソングの歌詞こそが現代の詩である」 という主張がピッタリと当てはまる人のように感じた。

松本隆01

 さて、松本隆と佐野元春とのやりとりは、またちょっと違った面白さがあった。
 松本隆は、日本語のロックにこだわった 「はっぴいえんど」 のドラムスを担当しながら、そのほとんどの作詞に携わった人だ。

 しかし、彼が今日 「作詞界」 の大御所でいられるのは、松田聖子の数々のヒット曲も手掛けたJポップ界のカリスマ作詞家として、シングル総売上げ枚数で、歴代2位を記録するという大ヒットメーカーであるからだ。

 その成功体験が、テレビ画面の中に収まっている彼の背後に、 「自信」 のオーラをギラギラと輝かせていた。

 オーラが輝けば輝くほど、中には、人当たりが逆におだやかになり、適度に枯れて、どこか飄々 (ひょうひょう) たる雰囲気を漂わせる人がいる。
 松本隆もまさにそのような人で、団塊世代の成功者に多いタイプの一人に思えた。

 だが、この人、一見穏やかな風貌に似合わず、やはり 「反骨の人」 だった。
 彼は、歌謡曲という 「時代の申し子」 のようなジャンルの世界で生きていながら、徹底的に 「時代」 を無視しようとしていた。

 番組の対談の中で、彼は、
 「時代の流れなど追っても意味がない」
 と言い切る。

 たとえば、今の時代を上手に表現した歌があったとする。
 その路線を追従すれば、大ヒットも間違いなしという計算が成り立つとする。

 「しかし……」
 と松本隆はいう。

 「流行っている歌詞をマネしたとしても、その歌詞が生まれる前には半年くらいの準備期間があったはずだ。
 そして、そのマネした歌詞が世に出るまでには、さらに半年かかる。
 結局、1年のラグが生まれてしまう。
 その間に、 “時代” などは変わってしまう」

 それよりも、彼は 「普遍的なものこそ大事」 だという。

 時代の流れなどに左右されず、時代を超えて、すべての人の気持ちに届くもの。
 それを 「普遍性」 という。
 作詞家にとって最も大事なものは、そのような 「普遍性」 を見出す 「感性」 である。

 作詞家としての 「感性」 は、自分が使えるボキャブラリーの幅を広げたり、様々な書物からの引用をストックしたりした果てに、その “上澄み” のように、少しずつ溜まっていくものでしかない。

 しかし、 「感性」 が身についていれば、時代を追う必要などまったくない。
 その時代を見て、自分がありのままに感じたことを、そのまま言葉にすればいいだけなのだから。

 彼は、それに似たようなことを、別のところでも語っている。

 「チャートの1位など関係ない。それは、ただの数字だから。
 むしろ (歌が) 残るか、残らないか、時間の波に洗われて、消えるか消えないか。
 それがいちばん大事だ。
 ヒットをつくるのはメディアだけど、ずっと残してくれるのは大衆だから」

 彼がいう 「普遍性」 とは、まさにこのことを言っている。

 さらに別の対談では、彼はこんなことも喋っている。

 (現代の歌詞は) やたらと 「私の生き方」 とか、 「私のモノサシ」 などというものを振りかざすようになったけれど、 「私のモノサシ」 なんてものはない。 「私」 というのは相対的なものに過ぎないのだから。

 (歌詞は) 絶対的なものじゃないと残らない。
 「私は自由だ」 といっても、それは 「わがまま」 でしかないこともあるし、 「私の幸せ」 なんて、他人にはどうでもいいことだ。
 僕はやはり “普遍” というものを、一生懸命追求していきたい。

 このように 「普遍的であることが時代を超える」 と、松本隆はいうのだけれど、その 「普遍」 にたどり着くことはなかなか難しい。
 当の松本隆においても、そうなのだから。

 『ザ・ソングライターズ』
 わりと面白い。

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音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:05 | コメント(6)| トラックバック(0)

シャインアライト

 60歳になって、ロックをやっている人たちって、どういう人なんだろう。
 矢沢永吉は、還暦を迎える年になっても、ギンギンのライブをやろうとしているし、その年にならないと出せない 「ミュージシャンとしての色気」 というものを意識的に追求している。

 海外では、ザ・ローリング・ストーンズが、今もバリバリのロッカーとして大活躍。
 マーティン・スコセッシ監督の撮った 『シャイン・ア・ライト』 というドキュメントを見て、ぶっ飛んだ。
 ミック・ジャガーの若いこと。

シャイン・ア・ライト01

 顔には、確かに66歳を迎えた熟年男の年輪をうかがわせる無数のシワが刻まれている。
 しかし、ステージで飛び跳ねる動作には、二十歳の若者も追いつけないほどのエネルギーが満ち溢れている。
 これを驚かない人間はいないはずだ。
 相当ストイックな肉体管理を行わないかぎり、あのようなパフォーマンスを繰り広げることはできないだろう。

 宙を飛び、跳ねて、吼える。
 ロックというものが本来秘めている 「暴力の輝き」 みたいなものを、ミック・ジャガーは若いとき以上に、ひたむきに追いかける。

 それは、胸をえぐるような驚きではあったが、 「これはロックなのか?」 と考えてしまうと、少し違うような気もするのだ。
 完成されすぎているのだ。

 「絵」 にはなっていた。
 彼らのデビューアルバムが発売されたときから、リアルタイムで追いかけてきた自分のようなリスナーにとって、そのときのアイドルたちが、よりパワフルに、よりワイルドにパフォーマンスを繰り広げることに対して、素直に 「カッコいい!」 と感動した。

 でも、これはロックなのか?

 私にとって、 「ロック」 とは “永遠に未完の音楽” なのだ。
 成熟を拒否する音楽ではなく、成熟に至らない音楽だと思う。

 だからこそ、ときめきがある。
 未完の音楽であるがゆえの不安定さ、完成形が見えないことへのおののき、それがロックに輝きをもたらせていたように思う。

 メンバーが60歳になったザ・ローリング・ストーンズは、相変わらず 「成熟を拒否する音楽」 をやっていた。
 それを完璧な形で。

 パフォーマンスとしては、これ以上のロックはありえないというくらい、美しく、激しく、刺激的なステージだった。
 それに、年輪を積み重ねてことから来る安定感も備わっていた。

キース・リチャーズ01

 顔中シワだらけになったキース・リチャーズが、ギターを低く構え、少しラフに、だるそうに、 「サティスファクション」 のギターリフを奏で始めた姿なんかは、神々しいくらいだった。
 あの時代の 「サティスファクション」 より、音楽的な完成度からいったらはるかに上だろう。  

 でも、これはロックなのか?

 私には、デビュー当時の、途中からリズムが狂ってしまう 「ウォーキング・ザ・ドッグ」 がなつかしい。
 演奏が下手で、あれでよくレコードデビューが務まったものだと思えるような、稚拙な音がなつかしい。

 そこには、 「こんな音しか出せない」 という自分たちへの苛立ちがあり、それがふてぶてしい開き直りになり、やけっぱちの清々しさがあった。

ザ・ローリング・ストーンズジャケ01

 ロックは、完成された大人たちの文化に対する 「アンチ」 ではない。
 一般的に、初期のロックはそのように解釈されがちだけど、既成の権威や権力に対する反抗の姿勢なんていうことよりも、まず 「自分自身」 に対する苛立ちがあってこそ、それが音の “つぶだち” に変る。

 成熟するということは、自分自身への苛立ちもなくすことを意味する。
 成熟したロックには、血のしたたりがない。

 関連記事 「ロックって何よ?」
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音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 03:50 | コメント(2)| トラックバック(0)

ローマ発展の秘密

 ゆらⅡさんから、この前のエントリー記事 『進化論は正しいか』 について、下記のようなご質問をいただきました。

 「町田さんに質問。ギリシャの都市国家群はしまいには対立抗争ばかりしてあっけなく滅んでいった。それに対してローマの都市国家群は連携してどんどん拡大していった。
 これって、『進化論』 ですか? そしてそのとき、どのような 『デザイン=構造』 の違いがあったのでしょうか?」

>ゆらⅡさん、ようこそ。

 面白い考察ですね。学術的なことはよく分からないのですが、昔ちょこっと読んだ歴史書で得た教科書的な見解によると、ひとつには、山岳地が多く、耕作面積の少なかったギリシャと、比較的土地も豊かで気候も温暖だったローマの違いというものが、まずあるかもしれませんね。

 ギリシャの諸ポリス (都市国家) というのは、そのために農耕・牧畜に頼るよりも、通商に活路を見出さざるを得なかったということがあるように思います。
 だから、耕作地を獲得するような領土的拡大というものを最初から念頭におかない政治・経済システムに向かっていったのでしょう。

 それに対し、ローマはどうしても他民族の都市国家群と領土をめぐって絶えず緊張関係にさらされていたようです。

 それはギリシャにとっても同じことだったでしょうけれど、領土的拡大が意味をなさないギリシャの都市国家群にとって、戦争は主導権争いが狙いであって、せいぜい勝利することによって得られる労働資源 (奴隷) が目的だったように思います。

 ローマの場合は、商業よりも農業を重視する都市建設に向かいましたから、まずインフラ整備に力を注がなければなりませんでした。治水灌漑設備とか、道路建設ですね。

古代ローマの遺跡

 しかもギリシャと違って、平坦な地形が続くローマの場合、隣りの都市国家と戦って滅ぼしても、今度はその先の都市国家と戦わなければならない…ということになるので、近隣の都市国家と戦って勝っても、相手を徹底的に滅ぼすようなことをせず、同盟関係を強化する方に力を注いだようです。

 同盟関係を維持するには、相手国の言語や宗教、習俗などを尊重する必要が出てきますから、それらを認めたうえで拘束力をもつ決まりごとを作らないとならない…ということになり、「法の整備」 が進んだと聞きます。

 「法」 に関する整備が進んだゆえに、ローマ人はギリシャ人よりも簡単に他民族に対してもローマ人の市民権を与えたし、奴隷が、奴隷の身分から脱却することに関しても決まりが緩やかだったようです。

 そうなると、首都ローマにもどんどん人口が流入してきますから、増えた人口に対応するために、上下水道やら道路建設など、公共的なインフラもますます充実する。それが 「ローマの拡大」 につながったと言っていいのではないでしょうか。

 さて、それが 「進化論」 なのかどうか、よく分かりません。
 政治的・経済的なシステム整備という意味では明確に 「進化」 であることは間違いありませんが、ダーウィン的な 「適者生存」 「弱肉強食」 「自然淘汰」 というような理屈で古代ローマの発展を説明するのは、少し一面的すぎるような気もします。

 誠に教科書的な説明で申しわけありませんが、そんなところでご勘弁ください。

 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:17 | コメント(2)| トラックバック(0)

進化論は正しいか

 何の本で読んだか、忘れた。
 しかし、面白いエピソードだったので、今でも覚えている。
 それは、第二次世界大戦の頃、敵の暗号をめぐって、日米が秘術を尽くして、その解読に励んでいたときの話だ。

 なにしろ、作戦計画にもとづく戦略の伝達は、敵にもっとも知られてはならない重要機密である。
 だから、敵の作戦を知ることは、自軍に勝利をもたらす一番の近道となる。

 そのため、日本もアメリカも、敵側が暗号化した重要機密を傍受して、必死になってその解読に努めた。

 どちらの暗号も巧妙に作られていたために、最初の頃は、双方とも解読作業はなかなか進まなかった。
 しかし、先に解読に成功したのは、アメリカだったという。

 なぜ、そうなったのか?

 彼らには 「信念」 があったからだと、その話を紹介した人は語る。
 つまり、
 「この世を創ったのは神である。神は、この世を完璧に合理的に創ったが、神のしもべである人間が、神をも超えるものを作れるはずがない。人間の作ったものには、どこかでボロが出る。つまり、人間の作った暗号が解けないなどということはないのだ」

 彼らは、そういう強い信念にもとづき、粘り強く、日本軍の暗号解読を進めた。
 その粘り強さにおいて、どうも日本軍は負けたらしい。
 日本も 「神国」 であったのかもしれないが、“日本の神々” は欧米人の信じる一神教的な絶対性を持たない。

 暗号は、一度解かれてしまうと、後はどのように改編しようが、もう駄目なのだとか。
 つまり、暗号には法則性というものがあって、どのような “目くらまし” を混ぜようと、一定の法則性から逃れることはできない。
 そんなわけで、日本軍同士で交し合っていた暗号は、途中からみなその意味が筒抜けになった。

 このあたりも、 「神の合理性」 を信じるアメリカ人の合理的な思考方法に、日本は負けたようだ。

 このエピソードは、いろいろなことを考えさせてくれる。

 まず一般的にいって、 「神様」 というのは、どこか超越的な存在であり、人間には不可知なものであるから、合理的な判断では把握できないものである…という印象を伴う。
 ところが、アメリカ人は、 「神様」 を信じることこそ、合理にかなうことだという。
 神の英知に近づけば近づくほど、世界はクリアに見えてきて、自然の神秘も、人間の真実も手に取るように分かってくる。
 
 この 「感覚」 が、無宗教の風土に生きる私なんかには、今ひとつピンと来ない。
 どちらかというと、 「宗教」 と 「科学」 というものを対置したときには、 「科学」 の方が合理的なんでねぇの?…という感覚を持つ。 

 しかし、アメリカという国に住む国民は、自然科学的な合理性よりも、ますます 「神の合理性」 を信じる傾向を強めているという。
 「インテリジェント・デザイン」 という、今アメリカで急速に普及している思想が、それに当たるらしい。

 これは、はっきりと 「キリスト教の神」 という言葉を使わずに、われわれの住む 「世界」 を、何か超越的な存在がデザインしたとする世界観だ。

 この思想は、次のような根拠から生まれてくる。

 つまり、人間存在や自然界の成り立ちを、自然科学的な方法で緻密に分析していけばいくほど、世界は 「舌を巻くほど」 合理的にデザインされていることが分かってくる。
 このような完璧な合理性を持つ世界が、偶然に成立したとは考えにくい。
 絶対に、誰かが計画的にデザインしているはずだ。

 すなわち、世界は、高度に知的な何者かによって、巧妙に設計されている。
 ……というのが、 「インテリジェント・デザイン」 の思想だ。

 この 「高度に知的な存在」 を、 「神」 という言葉に置き換えてもいいし、 「自然の摂理」 といってもいいし、 「宇宙の意志」 といってもいいのだけれど、要は、 「世界の造物主」 を “実体” として認めるという発想だ。

 やっぱりアメリカ人は、世界中の人々と比べても、どこか特殊だなぁ…と思う。
 9・11以降、あのイラク戦争を (一時は) 熱狂的に支持して、瞬間的にブッシュ政権を応援したアメリカ人たちが、はたして合理的な人々だったのか、今でも疑問に思うのだが、彼らが、当時のイラク政権のことを 「合理的な地球の秩序を破壊する非合理な国家だ」 と判断したとしたのなら、なんとなく納得がいく。
 
 そもそもアメリカという国は、カトリック的な宗教観から抜け出して、プロテスタント的な新しい宗教国家を実現しようとする人々によって 「開拓」 された国だ。
 宗教の実験国家ともいえる。
 だから、彼らは、伝統的に宗教的な世界観に対する親和性が高い。

 アメリカ人の6割は、ダーウィンの進化論を信じていないという話もある。
 要するに、 「人間はサルのような存在から進化して、適者生存の法則に則って、今日の人間になった」 というのは嘘っぱちだ、と思う人が国民の半数以上いるというのだ。
 実際に、ダーウィン的な進化論を教えない学校もたくさんあると聞く。

チンパンジー01
 ▲ 君たちが人間と分かれた頃の話を教えてよ

 では、彼らは何を信じているのか。

 人間をはじめ、この世の生物は、聖書に説かれているとおり、すべて最初から神が 「今ある形」 のまま創ったと信じているらしい。

 日本の常識とはうんとかけ離れていると思うのだけれど、夭逝した哲学者の池田晶子さんは、生前、こんなことを書いていた。

池田晶子女史02

 「アメリカ人の中に、進化論など信じないという人たちがいるというのは、実感として案外外れてはいないのかもしれない。
 現代人は、科学として述べられている言説を、頭から信じてしまう。
 見慣れないサルの化石が見つかっただけで、過去のサルの化石と現在の人間をすぐ結び付けようとする説が横行するが、しかし、人間がサルから進化した瞬間など見た人はいないのだ。
 進化論というのは、人間が考えた 『思想』 でしかない。科学的にいうならば 『仮説』 だ。
 『仮説』 といえば聞こえはいいが、早い話、それは 『物語』 である。
 それも、進化論では説明できない進化を 『突然変異』 と呼ぶような、非論理的な物語だ。
 説明しようとして説明できずにひねり出された概念が 『突然変異』 というのだったら、それを 『神のワザ』 と呼んでどこが違うのだろう」 

 池田さんは、 「インテリジェント・デザイン」 も物語ならば、 「進化論」 も物語だという。

 無学な私は、そう言われてしまえば、もうそこで思考がストップしてしまう。
 でも、池田さんの鮮やかな裁断には、心がスカッとするような気持ちよさを感じる。

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コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 20:12 | コメント(5)| トラックバック(0)

柄谷行人の文体

 この人たちの書く文章には、ほんとうに素晴らしいな…と思い、文章のお手本にしたいと憧れながらも、かなわないとため息をついている物書きが2人いる。

 その人たちの名前を挙げると、
 「ええ、そんなすごい人たちを手本にするなんて、ちょっと身の程をわきまえていないんじゃない? あんた何サマ?」
 なんて言われそうなので、少しひるむが、あえて名を出してしまうと、一人は作家の司馬遼太郎さん、もう一人は批評家の柄谷行人 (からたに・こうじん) さんだ。

 司馬遼太郎さんは、もう説明するまでもない有名人で、その作品を読んでいる方も数多くいらっしゃるだろうから、どういう文章を書かれる方かはあまり説明しなくてもいいだろう。
 
 もう一人の柄谷行人という人は、普通の人には馴染みが薄い文筆家かもしれない。ただ、80年代のニューアカブームに少しでも首を突っ込まれた方なら、この名前には頻繁に接したことだろうし、その著作に触れた方もいるのではなかろうか。

柄谷行人02

 柄谷氏がどういう思想を展開する人かは、ここでは書かない。というか、私にはうまく紹介できるほどの力がない。
 しかし、どういう文章を書く人かというのなら、いささか説明したい気持ちになる。

 一言でいうと 「美しい文章」 なのだ。
 しかし、美文ではない。

《 一見、無味乾燥な文体なんだけど… 》

 読者に美しいイマジネーションを与える文章を書く思想家というのなら、小林秀雄や吉本隆明などという人がいる。
 しかし、柄谷さんという人は、美しいイマジネーションが文にまとわりつくことをひたすら避けようとする。
 世の中の人が 「美しい」 と感じそうな形容詞のたぐいを極力削ぎ落とし、文芸的な含みを持たせる叙述をことごとく切り落とし、ただ 「論理」 だけをストイックに、無機的に羅列していく。
 だから、そこに展開される文章は、おそろしいほど無味乾燥だ。

 だが、私はそういう文章の中に、鋭い光を放つ日本刀の美しさを感じてしまう。美術品として陳列される日本刀ではなく、かつては人を切る武器として存在した日本刀の切れ味を感じる。

 日本刀の、あの力の 「集中」 と 「分散」 を計算尽くした反り (湾曲) を見るのにも似て、柄谷行人氏の文章には、ハッと息を呑むような見事なラインが見えるときがある。
 その 「ライン」 は、ものごとを抽象的に見ようとするときに、はじめて見えてくるものだ。

 世の文章読本では、鮮明な文章を書くときの例として、 「具体的に書くように」 などと教えることが多いが、それは必ずしも正解ではない。
 高度な抽象化を進めることによってはじめて見えてくる 「思考のライン」 というものが絶対ある。

 柄谷氏の文章の美しさは、そのラインの強度によって支えられている。
 そのラインこそ、見方によっては 「直刀」 にも 「湾刀」 にも見える日本刀独特のラインなのだ。
 だから、彼の文章が一見無味乾燥に見えても、それは、振り回せば容赦なく血しぶきが舞い上がる 「無味乾燥」 である。 (私はこれを批評界のハードボイルド文体と思っているが…)
 もし、そこに柄谷氏の計算された美意識があるとするならば、そういう美意識こそ信じるに足る美意識だと思う。

 柄谷行人という人は、文芸評論家として出発し、やがてフランスのポスト構造主義の思想とも共振しあう形で、マルクス、ヴィトゲンシュタイン、カントなどという思想家たちの営為を、現代的な視点で捉え直す作業を進めてきた人だ。

 私は、この間の柄谷さんの著作をすべて読んでいるが、 「理解できたもの」 10パーセント、 「理解したような気分になったもの」 30パーセント、 「難しくて理解できないもの」 60パーセントというところが、正直なところだ。
 それでも、彼が一貫して追求しようとしたものだけは、自分にも伝わってきた。

 彼が一貫して追及しようとしたのは何か。

 その何かを示すために、もっとも初期の作品では 「自然」 という言葉が使われた。
 次のステップでは 「交通」 という言葉が使われるようになった。

 途中から 「社会」 という言葉で表現されたこともあった。
 ある時から、それは 「外部」 となった。
 それらを別の言葉に置き換えて、 「他者」 といわれたこともあった。

 すべて、私たちが日常生活の中で普通に使う、ありきたりの言葉に過ぎない。
 しかし、柄谷氏の著作を読んでいると、それらのありきたりの言葉が今までの用法とは違う意味合い持つ言葉に変貌し、生まれてはじめて接した言葉のように思えてくるから不思議なのだ。

《 ありきたりの言葉が “謎” に変わる瞬間 》

 柄谷氏が使った 「自然」 は、単なる “ネイチャー” ではない。
 もちろん、「文明」 というものの規範に収まりきらない、「広い世界」 を暗示する言葉であることには代わりがないが、それ以上に、人間の意識の外にありながら、人間にとって抗 (あらが) うことのできない “力” を意味する言葉になっている。

 ただし、その “力” は、 「神」 とか、「超越者」 などという概念に収まっていくようなものではない。
 彼が夏目漱石などの文学に発見した 「自然」 は、「神」 などという観念で理解できるようなものではなく、もっとモノの感触、いいかえれば 「生の感触」 としてしか感じ取れないような “超越的なものの気配” を指す。

 氏が使った 「交通」 という言葉も 「自動車交通」 とか、 「交通標識」 などという使い方とはまったく次元の異なる言葉に生まれ変わっている。
 それは、異質なもの同士がぶつかり合って、飛び散りながら融合しあい、まったく新しいものが生まれる状態を指す言葉として使われる。

 「社会」 という言葉も同様である。
 普通 「社会」 といえば、なんとなく人々が同じルールを共有しあう 「共同体」 のことを指すように思ってしまう。
 しかし、彼がいう 「社会」 は、 「共同体」 そのものではなく、 「共同体」 と 「共同体」 の間に横たわる場所。すなわち、ひとつのルールが他のルールと出合う場所を意味している。

 つまり、彼が 「社会」 といった場合、それは、所属する人間を共通のルールで縛り上げる 「共同体」 のことではなく、ひとつの 「共同体」 が他の 「共同体」 と出合い、自分たちとは異なるルールと文化が存在することを認識する場のことを指す。 (※ 交通も社会も原典はマルクスである)

 「外部」 という言葉もまた、ただ単純に “外側” を意味しているのではない。
 柄谷氏がいう 「外部」 は、同じルールを共有し合う 「共同体」 や、ひとつのイデオロギーを共有し合う思想集団などの 「外部」 に出ることを示唆する言葉なのだが、それは同時に、物理的にあるいはイメージ的に 「外に出る」 ことの不可能性も意味している。

 なぜなら、 「外部に出る」 という思考そのものが、実は共同体験の中から芽生えてくる発想であって、結局そのような発想は、ひらめいた瞬間にことごとく 「内部」 に取り込まれてしまうからだ。
 つまり、あらゆる共同体や思想集団や文化体系は、あらかじめその 「外部」 に出ようとする発想もすべてシミュレートしており、その対応策も折り込み済みになっている。

 分かりやすい例でいうと、たとえば 「資本主義社会」 。
 資本主義社会が成立して以来、近代の知識人のほとんどが 「資本主義の病理」 を指摘し、 「資本主義の超克」 を訴えた。

 しかし、そのような資本主義を 「外から眺める」 ような思考は、資本主義がもたらしたものに他ならない。
 資本主義は、資本主義の 「外部」 に立って、資本主義そのものを問うような 「個としての消費主体」 を生み出すことによって、 「個」 の資本主義批判を消費行動と結びつけ、それを生き延びるための活力に変えてきた。

 つまり、資本主義の運動そのものが、自分自身で 「外部 (差異) 」 を作りながら、それをすさまじい勢いで 「内部」 化していく運動なのだ。
 ここに、資本主義を問い、資本主義を批判することが、資本主義の 「外部」 に立つのではなく、資本主義そのものに包まれてしまうという逆説が成立する。

 その逆説に、柄谷氏は気づいた。
 彼のいう 「外部」 は、そのような 「内部」 の強靭でしたたかな包容力にも取り込まれない “何ものか” であり、それは人が行ける場所でも手に入れられるモノでもない。したがって、それを 「言葉」 や 「場所」 に置き換えることはできない。

 「他者」 という言葉にも、柄谷行人は独特の意味合いを持ち込んだ。
 それは、いわゆる 「他人」 とは違う。
 「隣人」 でもなければ 「同僚」 でもないし、 「敵」 でもなければ 「味方」 でもない。
 柄谷氏にいわせると、 「他者」 とは (比喩的にいうと) 「ネコ」 だという。
 文字どおり、動物のあのネコだ。

 つまり、関わり合う上での、共通の言語とか、共通のルールを持たない相手。
 あるいは、意志を伝えようとする身振り手振りすら通じないか、そもそも相手に通じているかどうかも確認できないような相手。
 それを、彼は 「他者」 という言葉で表す。

 もちろんこれは理念上の設定であり、現実生活においては、単に 「話の通じないヤツ」 ということになるのだけれども、彼がいうには、基本的には人間の生活の場においては、 「話が通じない」 関係の方が当たり前なのであり、人とツーカー状態で話が通じ合うと思っていることは、実は錯覚なのだ。
 だから、われわれの生活では、普段は 「他者」 を見ることはできない。

 なぜ、それほどまでに 「他者」 という存在にこだわるかというと、そもそも本当のコミュニケーションというのは、同じルールを共有しないもの同士の間で行なわれるものであり、自分の意志が相手に伝わるかどうか分からない状態で、相手めがけて “命がけのジャンプ” を試みるところに生まれる、という認識を彼が持っているからだ。

 ここまで来ると、彼が初期の論考で使った 「交通」 という言葉の意味がようやく生きてくる。
 すなわち 「交通」 とは、このような “命がけの跳躍” に基づく 「コミュニケーション」 の別名なのである。

 普通 「コミュニケーション」 というと、お互いが対称的な位置を確保して 「相互理解」 を深めるというイメージがつきまとうが、彼のコミュニケーション観がユニークなのは、そこに非対称性を見たことだ。
 つまり、自分の意志が相手に通じるというのは、 「奇跡」 なのだ。
 ところが、その 「奇跡」 が、ごく日常的に、当たり前に生じているという不思議さ。
 彼はそこに注目した。

《 「世界」 の外に広がる 「荒野」 》

 ここらで、柄谷行人がいろいろなキータームを使いながらも、ほぼ一貫して同じものを見据えていたことが分かるだろう。
 それはすなわち、
 「この世には、話すことも、見ることも、考えることもできない “外部” がある」
 という認識なのだ。

 そして、その 「外部」 が、 「他者」 とのコミュニケーションを司る 「力」 となり、 「社会」 としての商品交換が行なわれる 「場」 となるという考え方だ。

 それは神秘主義ではない。
 神秘主義というのは、神秘なる事象が発生したときに、その発生原因を現代科学とは異なる説明体系で説明しようとする思考方法を指す。
 不思議な事象を 「神の奇跡」 や 「悪魔の呪詛」 として説明する神秘主義は、基本的には、因果律を科学で説明しようとする合理主義と同じことで、ただ方向が違うというだけに過ぎない。

 ところが最近、この神秘主義がにわかに現代科学と接近する方向に舵取りを始めた。
 それが、80年代に登場した 「ニューエイジ思想」 や 「精神世界」 という流れなのだが、最近のアメリカでは、さらにそのパワーアップ版ともいうべき 「インテリジェント・デザイン (ID) 」 という考え方が主流になりつつある。

 それは、
 「現代科学が進歩すればするほど、この世界は、実に精緻で合理的なプログラムによって運営されていることが分かってくるが、これほど整合性に満ちた世界が偶然できるはずはなく、それこそインテリジェント (知的) な存在がデザインしたという以外に説明がつかない」
 という考え方である。
 この 「インテリジェント・デザイン」 が、 「神」 の別名であることは容易に理解できよう。

 このような考え方は、どんなに 「インテリジェントな存在」 を世界の 「外部」 に置こうとしても、そういう存在を、 「内部」 にいる人間が説明できてしまうというところに矛盾が生じ、結局は 「内部」 の理論を補完するだけで終わってしまう。

 柄谷氏が、抱えた 「外部」 はそのようなものではない。
 強いていえば、人間に思考を促す力そのものでありながら、その思考では捉えられないもの、ということになるだろう。

 それは、あるときは、 「社会」 という名の、茫漠と拡がる “荒野” であり、あるときは 「交通」 という名の “事件” である。
 そして、時にそれは 「他者」 という名の “神” ともなる。

 しかし、それを 「荒野」 とか 「事件」 とか 「神」 などと、うっかり (比喩的に) 表現してしまうと、たちまち色あせた凡庸な認識論の構造に収拾され、結局は閉じられた 「内部」 を補完するものになってしまう。
 彼が言いたいのは、そのような別の言葉で置き換えることのできない、つまり比喩としても成立しない何かなのだ。

 さらに大事なことは、それが 「意味」 でも 「価値」 でもないということだ。もし、それに 「意味」 とか 「価値」 を与えてしまえば、たちどころに、 「インテリジェント・デザイン」 のような神秘主義に堕してしまう。
 つまり、この世の外に、何か現世では理解できない “素晴らしいもの” があり、人類はそれを得るために現世を脱出しなければならない…という 「お話」 の構造になってしまう。
 柄谷氏はそんなことは一言もいわない。

 彼は、主要著書のひとつ 『マルクスその可能性の中心』 において、こう述べる。

 「すべての著作は、一つの言語と論理のなかで書かれる以上、固有の体系を持つ。しかし、作品の豊かさというのは、著作家が意識的に支配している体系の中に、何か彼が 『支配していない』 体系をもつことによって生まれる」

 著作者にも支配できない 「体系」 とは何なのか?
 その体系は、どこから生まれてくるのか?

 彼が 「外部」 を問題にしたのは、結局は、そのような 「支配できないもの」 を抱え込みながら、それを 「豊かさ」 に変えてしまう 「人間の謎」 にこだわらざるを得なかったところから来ている。
 実存主義文学ならば、それを 「人間の不条理」 と名付けただろう。

《 0(ゼロ)を抱えた数学の不思議 》

 もともと思想の枠組みを 「外部」 と 「内部」 に分け、 「内部」 に 「外部」 を導入させて自壊させるというのは、デリダ風のディコンストラクション (脱構築) の手法なのだが、柄谷氏が問題とした 「外部」 には、このとらえどころのない人間の実相を浮かび上がらせようとする実存的な手触りがある。

 そして、彼はこの論理では説明のつかない “何か” を証明するために、文章から情緒性を排除し、曖昧さを切り捨て、論理的な言葉を使って、徹底的に形式的に思考を進めていく。
 それはまるで数式のようであり、事実、彼は数学基礎論を徹底的に勉強し直す時期があったことを告白している。

 しかし、数式を研究したときに、彼はそこに 「0(ゼロ)」 という数字があることも理解したはずだ。同時に、 「数」 というものには 「限りがない」 ということも知ったはずだ。
 つまり、完璧な整合性を保つように見える数式体系の中に、 「無」 と 「無限」 という、いわば数式の合理性を破綻させるようなものが含まれているという事実と、彼は向き合ったことになる。

 彼の数式そのものと思えるほどの明晰な文章は、その 「無」 と 「無限」 を “あぶり出す” ためのものだったといえるかもしれない。

 そして、そのような数式的叙述を展開した果てに、彼は、思考が虚空に向かって跳躍する瞬間を捉える。
 それが、 「他者」 とのコミュニケーションが成立するときに生じる 「命がけのジャンプ」 であったり、共同体の中にいては見えなかった 「社会」 の、突然の浮上であったりする。

 息苦しくなるほど緻密な論考が、究極の…いわばここ一発の決めの 「比喩」 で切断されるとき、そこに、夜空に太陽が昇ったような衝撃が走る。
 それは、サヤから抜き放たれた日本刀が、光り輝くあの反りを見せる瞬間である。

 私などは、そういうとき、
 「ああ、ここに “文学” がある」
 と感じる。
 彼が自分でもその絶対性を否定する 「文学」 があるのだ。

 柄谷氏は、早いうちに文芸評論から遠ざかり、その後も 「近代文学の終焉」 を宣言するような人だったが、彼の資質には、まぎれもなく (肯定的な意味での) 文学が身に付いている。

《 文学には 「答」 がない 》

 結局、優れた文学とは何かというと、それは簡単に 「答」 を出さないもののことをいう。
 1冊読んで、 「ああ、こうすれば楽になるな」 「得をするな」 などという回答が得られるものは、パンフレットやガイドでしかない。

 宗教においてもしかり。
 本質的な宗教というのは、常に 「即答」 を避けている。
 原始キリスト教においても、原始仏教においても、開祖たちは弟子と問答をしたけれど、 「こうすれば楽になる」 というような現世利益的な 「心の平安」 など、何一つ説かなかった。

 それよりも、 「答」 のない場にたたずんで、 「考える」 ことを強いた。
 つまり、 「問い」 に対する 「答」 を模索するのではなく、 「問い」 そのものが発生する場を見つめ直すことを示唆した。
 そして、様々な悩みを解決するために日常的に流布している 「対応策」 がすべて無効に思えるような場にたたずみ、その現実を直視する不安に耐えろと説いた。

 その不安の中に、恍惚がある。
 なぜなら、その 「不安」 こそ、実は今まで自分を縛り付けてきたあらゆるものからの 「解放」 でもあるからだ。

 柄谷行人の著作は、その 「不安の中の恍惚」 を拾い出すものだと、私は感じている。

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コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:39 | コメント(0)| トラックバック(0)

トリハダ

 『トリハダ』 っていうテレビドラマを、この前、偶然に見た。
 何回か再放送されたもののうちの一つらしい。

トリハダ画面01

 家人も隣りの家も寝静まっている深夜の時間帯。
 文字通り、 「鳥肌が立つ」 ようなおっかない話がオムニバス形式で何本か綴られているドラマだったけれど、これがチョー怖いんだわ。
 眠れなくなっちゃったよ。

 でも、基本的に、ドラマでも映画でも小説でも、自分はホラー系が好きなので、しっかり楽しんだ。

 はっきり 「お化け」 と分かるようなモノが出てくるわけじゃないけれど、どれもサイコサスペンス風の味付けがなされていて、現実の中に超自然現象が流れ込み、その境界線がぐちゃぐちゃ溶解していく奇妙な世界に主人公が引きずり込まれていくという設定のものが多い。
 
 何篇か観ているうちに、どれも、ある程度共通した世界を持っていることが分かった。
 キーワードでいうと、
 「都会」
 「一人暮らし」
 「監視」
 「ストーカー」
 「携帯電話」……って感じだ。

 分かるでしょ? この感じ。
 現代の恐怖ってのは、もう、町外れの墓地に浮かぶヒトダマじゃないんだね。
 場合によっては、バスの中だって、地下鉄が行き来するプラットホームだって、客でにぎわう白昼のファミレスだって、立派なホラーの舞台になるという着眼点が面白い。

 たとえば、循環バスが舞台となるようなストーリーでは、主人公のOLが深夜バスに乗って、一人で家路に着くという設定になっている。
 バスの中はガラ空きで、OL以外に乗客は一人もいない。

 なのに、途中から乗ってきた女性が、スゥーッと主人公のOLの隣りの席に座る。
 バスはガラ空きなのだから、その女性も好きな席に座れるはずなのに、なぜかOLの隣りの席を選ぶ。
 
 ……なぜ?
 ……なぜ、私の隣りなの?

 そして、次に乗ってきた乗客は、主人公の隣りに座った女を見て、恐怖に顔を引きつらせて、バスから降りてしまう。
 主人公から見ると、普通の女性なのに。

 現代社会の恐怖ってのは、そういう恐怖なのだ。

 別の話では、携帯電話が重要な小道具となる。
 これまた主人公は若いOLなのだけれど、ある時から、意味不明の絵文字ばかり並べた謎のメールが携帯に入るようになる。
 消しても消しても入ってくるその奇怪なメールに、主人公は、
 「むかつくぅ!」
 と思って、
 「いい加減にしろ!」
 と返信を送る。

 その直後に、
 「オレニ クチゴタエ ユルサナイ。オマエ モウ オワリ」
 という不気味なコメントが入り、そのコメントの下に、主人公の帰宅途中の姿を写した画像が貼られている。
 
 いたずらメールの主は、いつ主人公の姿を写したのか。
 ストーカーに対する恐怖が、まず主人公を襲う。

 やがて、主人公のアパートのドアを外から撮った画像が送られ、そこで、またメール。
 「キタヨ」

 ドアに鍵がかかっていることを確認し、急いで友達に助けを求める電話をかける主人公。
 しかし、それを相手は知っているのか、
 「ツウホウシテモ ムダ」

 その次に送られてきた写メールは、なんと、鍵をかけた部屋の内側で、恐怖に怯えてうずくまる主人公そのものの姿。

 ……え? いつ部屋の中に入ったの?
 ……どこにいるの?

 ここで、 「ストーカーへの恐怖」 が、もっと別の、意味不明の根源的恐怖に変る。
 
 こわぇぇ~!


 大都会で一人暮らしをしている人間にとって、高層ビルの上層階にある自分の部屋だって、決して安全な場所ではない。
 ガラス戸で仕切られたお風呂場も、見晴らしのよいベランダも、ある時を境に、自分の力ではコントロールできない“魔界”に変化する。

 結局、 『トリハダ』 に描かれる世界は、強烈なネオンライトによって、妖怪や化け物を追い出したはずの大都会こそ、魔物が跳梁跋扈 (ちょうりょうばっこ) する闇の世界であったというわけだ。

 YOUTUBEにいくつか紹介されていたものの中から、いま述べた話を貼ってみた。
 くれぐれも、深夜一人で観ないように。



 ホラーネタ 「ホラーの時代」
 ホラーネタ 「キャンプ怪奇小説」


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 07:12 | コメント(4)| トラックバック(0)

トレーラー映画

 エアストリームはやっぱり 「絵」 になるなぁ!
 映画 『ギルバート・グレイプ』 を観ていて、そう思った。

エアストリーム01

 アメリカ・アイオワ州の一都市エンドーラ。
 その繁栄から取り残された、少しさびれた田舎町を、ワーリー・バイアム・キャラバンクラブのインターナショナル・ラリーにでも向かうのか、エアストリームのコンボイが通過する。

エアストリーム03

 そのトレーラー集団の行列に、無邪気に手を振って騒ぐ一人の男の子がいる。
 その異様なはしゃぎぶりから、その子が少し知能障害を持った少年であることが分かる。

 その少年をたしなめながら、エアストリーム軍団の通過を見守る兄らしき青年。
 映画はそんなシーンから始まる。

 アメリカ中西部あたりに住む人々の中には、ついに 「海」 というものを見ないまま一生を終える人たちもいるという話を聞いたことがある。
 彼らは、 「旅」 というものを知らない。
 「旅」 に対するイメージは持っていても、旅に出かけるほどの余裕がない。

 この映画の主人公を務めるギルバートという青年も、そういう人間の一人だ。
 5人家族の長男。
 父は死んでいる。
 知的障害を持つ弟がいる。
 250㎏の体重を抱え、自分で立って歩くこともままならない母がいる。
 二人の姉妹はまだ若すぎて、家事を手伝おうにも料理を作るだけで精いっぱい。

 だから、彼は家を出ることができない。

 昼間は、町の食料品店で生活費を稼ぐ。
 夜は、弟を風呂に入れ、母の世話を焼き、疲れて、眠って、また朝を迎える。
 毎日が、忙しく、かつ物憂く過ぎる。

ジョニー・ディップ03

 ……このまま年を取っていくのだろうか。
 しかし、そんなことは考えることも面倒くさいし、考えたところで、何も解決しない。

 町には刺激がない。
 友人は二人いるが、話す話題も限られている。
 唯一の刺激といえば、食料品店に買い物に来る人妻のささやかな情事の相手をするだけ。しかし、それも 「恋のときめき」 とはほど遠い。

 そんな閉塞感の中に生きる青年を、当時30歳のジョニー・ディップが演じている。
 『パイレーツ・オブ・カリビアン』 のエキセントリックな海賊ジャック・スパローを知っている人から見れば、格段に真面目で、おとなしく、ごくフツーの青年を演じていて、ええ? これジョニー・ディップ? と驚くほど別人のような印象を受ける。

ジョニー・ディップ01

 だけど、やっぱり名優なのか、退屈な田舎町で、うっとうしい家族に囲まれながら、それなりに家族を愛し、誠実に暮している青年の役を見事にこなしている。
 
 もっと凄いのは、彼の弟アニーを演じるレオナルド・ディカプリオ。
 知能に障害を持つために、いつも落ち着きがなく、身勝手で、家族を困らせてばかりいるにもかかわらず、背中に羽根さえついていれば、まるで無邪気な天使そのものじゃないか…という少年の姿を、絶妙な演技で見せてくれる。
 当時19歳。
 ディカプリオがこんなに存在感のある役者だったとは今まで気づかなかった。

ディカプリオ01

 閉鎖的な町で、同じような日々を繰り返すギルバートの生活に、ある日変化が訪れる。
 コンボイを組んで旅を続けていた1台のエアストリームが、故障で動けなくなり、修理が終わるまで、町の郊外でステイすることになったのだ。

 オーナーは、都会の空気をたっぷり吸った感じの才気と教養にあふれるスレンダーな美少女。
 両親が離婚しているために、双方の親の家を行ったり来たりしながら、祖母と一緒に旅を続けているという。

 その少女が、ギルバートの勤める食料品店に買い物に来たことをきっかけに、二人の間に恋が芽生える。

ジョニー・ディップ02
 
 エアストリームがオーニングを出して、湖のほとりでステイしているシーンが美しい。
 銀色のアルミボディに、アイオワの夕陽が照りかえり、古典絵画のような情景を描き出す。

 草むらに寝転がるギルバートに向かって、少女が、全天をこがす夕焼けに敷き詰められた 「空」 への想いを語る。 
 それに対して、ギルバートは 「空って、BIGだな」 と反応する。

 すると、彼女が彼に向かって、こう答える。
 「BIGなんて言葉は、空を言い表すには小さすぎるわ」

 「むむ?」 っと少女の顔を見つめるギルバート。
 
 彼が、 「空」 というものに対して、BIGという 「言葉」 だけでは言い表せないものがあることを、はじめて知った瞬間だった。

 「BIG」 ではなく、 「空」 を形容する言葉がほかにあるのだろうか?

 それは、彼が自分の生きている世界の外に、まだ見知らぬ世界があることを、はじめて考えた瞬間でもあった。
 
 家族というもののうっとうしさ。
 しかし、そのうっとうしさが、家族へのいつくしみと分かち難く結びついているために、彼は 「家族から離れる」 というモチーフを抱いたことがない。

 少女の言葉は、ギルバートに対して、新しい世界に向けて開くドアの存在を伝えた。

 そのときから、画面に現れるエアストリームの存在が、 「脱出」 の象徴として機能するようになる。

エアストリーム02
 
 神々しいほどの光をみなぎらせて、静かに主 (あるじ) の帰りを待つ、湖畔のエアストリーム。
 そこに足を踏み入れることは、 「旅」 のスタートを意味する。

 彼の旅は始まるのだろうか。

 アメリカ人は本当にキャンピングカーの描き方がうまい。
 その姿に、 「旅」 への誘 (いざない) を盛り込む術に長けている。

 キャンピングカー映画としても、一級品の出来栄え。

 関連記事 「エアストリーム話」


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 03:37 | コメント(6)| トラックバック(0)

横浜たそがれ

 私のような “東京人” にとって、横浜という街は、日本の中の異国に思える。
 大阪でもなく、神戸でもなく、東京にいちばん近い横浜に、なんか 「外国」 を感じてしまう。

 といっても、それは 「みなと未来」 のような観光エリアが整備される前の、もっと暗くて淋しい時代の横浜のことだ。

 この感じを、どう表現したらいいか。

 たとえば、異国情緒あふれた外人墓地とか、中華街、あるいは氷川丸が浮かぶ山下公園を指して、
 「これ、外国だよね」
 とかいうんだったら、誰でもがすぐに納得してくれると思う。

山下公園01

 でも、私が感じる横浜の 「外国」 というのは、それとはチト違う。
 もうとっくになくなった 「BUND HOTEL」 の、あのそっけなく淋しいネオン文字。
 山下公園から本牧ふ頭まで伸びる、やたら車線が広いのに、夜になるとほとんどクルマが通らなくなるぶっきらぼうな産業道路。

バンドホテル01

 伝説のバンド 「ザ・ゴールデン・カップス」 がライブを行っていた 「ゴールデンカップ」 のある本牧あたりの奇妙なにぎわい。
 田舎町じみた鈍くささも漂うのだが、それが逆に、強烈なアメリカンテイストの輝きを見せる不思議な町、本牧。
 東京の福生にもこんな匂いがあったが、本牧は、福生よりも遊んでいる日本人たちに、洒落た不良っぽさがあった。

 余談だが、今でもザ・ゴールデン・カップスは、日本人では最高のR&Bバンド (グループサウンズではなく) だと思っている。

 2年ぐらい前、新宿のバーで、彼らのおっかけをやっていたというマスターから、R&Bのカバーばかり集めたオリジナル音源によるCDを聞かせてもらったことがあったが、聞いているうちに鳥肌が立った。
 本牧に対する愛着というのは、たぶんに彼らの存在が影響しているのかもしれない。


 「ストリート」 という “線” で見ると、横浜の街は、意外とあか抜けないのだけれど、“点” としてみると、とんでもなく洒落た店や建物が、ときどきポツンと出現してきて、ハッとする。
 そういう “点” が、うっすらと暗いストリートに、いくつも散らばって見えるところに、この街独特の風情があった。
 
 4人乗りの小さなクルマに6人ぐらい押し込んで、仲間と一緒に、はじめて夜の横浜を走ったときに感じた、あの街の不思議な味わいは、いまだに脳裏から離れない。
 東京の夜に比べると、圧倒的にとぼしい明かり。
 いしだあゆみの歌った 「ブルーライト・ヨコハマ」 なんて、嘘っぱちだと思った。

 深夜の元町は、どの店もシャッターが下りて、ゴーストタウンのようだったし、山下公園の前の通りには、クルマの姿もほとんど見えず、 「旧ニューグランドホテル」 は、撮影を終えた映画のセットのように、静まり返っていた。

 深夜になっても雑踏の絶えない、新宿・歌舞伎町あたりで遊んでいた私からすると、横浜の静けさが、もう 「異国」 だった。
 カーラジオから流れていたマル・ウォルドロンとジャッキー・マクリーンが奏でる 「レフト・アローン」 が、人気のない車道を、明け方の冷気のように浸していき、横浜でナンパしようなどと息巻いていた東京のお坊ちゃんたちの熱気をあっけなく冷やした。

 でも、そんな横浜の不思議な暗さと淋しさが好きになり、その後、一人でもよくクルマで走った。
 東京の繁華街に比べると、圧倒的に暗い横浜のネオンにも慣れた。

 そして、横浜の暗さというのは、その闇の奥に、ヨソ者には探すことのできない 「明かり」 を隠した暗さなんだということも分ってきた。
 東京の夜の平板な明るさに比べ、横浜の乏しい明かりには、奥行きがあって、女の甘い吐息や、暴力の匂いが隠されていて、そこには、ちょっとすえた匂いを放つ詩情があった。

 もう30年以上も前の話だ。
 今の横浜は明るい。
 誰でも健康的に遊べる普通の街になった。
 「すえた匂いを放つ異国情緒」 は姿を消し、ただの 「異国情緒」 だけが残った。

 それでも、イメージの中に刻まれた、昔の横浜の、ちょっと鈍くさい 「暗さと淋しさ」 はいまだに記憶の底から、ときどき蘇ってくる。
 五木ひろしの歌う 『よこはま・たそがれ』 を聞くと、その想いが強くなる。

 

 横浜ネタ 「まち散歩2」



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 04:18 | コメント(2)| トラックバック(0)

困ったマスコミ

 民主党政権が誕生して、さっそくマスコミ (TVワイドショー) から民主党に対する 「疑問」 「不安」 を煽るような発言が続出してきた。

 「オマエラ、いい加減にせぇよ」
 と言いたくなる。

 つい3~4日前までは、自民党に対する 「疑問」 「不安」 をさんざん煽っていた、同じ顔ぶれの人たちである。

 その人たちが、テレビカメラに向けてフリップを掲げ、
 「高速道路の無料化は、渋滞と排気汚染につながる」
 とか、
 「子育て支援は財源の確保が不透明」
 とか語っているわけだけど、今さらそんなこと言うんだったら、選挙前にしゃべれよ…と言いたくなる。

 私は、今回の衆議院選挙は、民主党の圧勝が分かっていたので、バランスを取るつもりで自民党の候補者に票を入れた。

 しかし、民主党政権が生まれたからには、民主党の代議士たちが全力を尽くして国勢の立て直しを図れるような土壌を作ってやらなければならないと思っている。

 それにいちばん協力できるポジショニングにいるのは、マスコミではねぇのけ?
 そのマスコミが、生まれたばかりの新政権の動向が定まらないうちから、批判じみたコメント出して、どうすんのよ?
 連中 (特にテレビ系マスコミ) は、どうも 「騒ぎ」 が起こるのを楽しみしているとしか思えない。

鳩山・麻生TV

 日本のマスコミ (特にテレビ系) は程度が低いなぁ…と思うのは、麻生政権が誕生した直後から、失言がどうのとか、漢字が読めないと、映像として見える部分の批判しかしてこなかったからだ。
 麻生政権の致命傷は、結局は 「日本をどうするのか?」 という長期的ビジョンを何ひとつ掲げられなかったことに尽きる。

 なのに、将来をどう見るかなんてことを問題にしたって庶民なんか理解できないだろうと踏んだマスコミ (特にテレビ系) は、麻生元首相の口が曲がっているとか、高級ホテルのバーで酒飲んでるとか、態度が横柄だとか、目に見える部分の批判に終始した。

 「庶民はそういうところを面白がる」
 とかいう思い込みがあったんだろうな。
 バカにするなよなぁ。
 日本のマスコミ (特にテレビ系) は、程度が低すぎるだけでなく、性格も悪いよ。

 批判は大事だよ。それはどんな政権や政治家に対したって、批判は必要だ。
 だけど、ファッションとか、効率的な家事のノウハウとかを専門にしているコメンテーターなんかに、感情レベルで政治なんか語らせるなよ。
 そういうの 「庶民感覚」 でも何でもないんだってば。

 とにかく、これだけ国民の多くが、不安を感じつつも民主党に票を投じたかぎり、マスコミは、国民の多くが自分の投票行動に疑問を感じたり、後悔したりするような無責任な政権批判は、しばらくは慎むべきだろう。

 もし、民主党政権によって、少しでも前向きな政策が実現されるようになったら、それは、その政党を選んだ多くの国民に 「自信」 を植え付けることになる。
 今の日本人に必要なのは 「自信」 だろ?  


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 11:12 | コメント(0)| トラックバック(0)
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