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草原の孤独

クリスティーナの世界

 彼女は何をしているのだろう。
 茫漠と広がる草原に倒れたまま、上半身を起こし、丘の稜線に建つ家を眺めている女性がいる。

 草原にたたずむ家は、彼女の家なのか。
 それとも、見知らぬ人の家なのか。
 画面に描かれた情景は、何のインフォメーションも伝えてくれない。

 絵の題名は 『クリスティーナの世界』 。

 「世界」 というからには、この画面に描かれた大地と、空と、彼方にたたずむ家だけが、たぶん、彼女が日常的に眺め、匂いを嗅ぎ、手に触れることのできる “すべて” なのだろう。

 彼女は何者なのか。
 そして、何をしているところなのか。

 どことなく不安定な彼女の姿態を見ていると、何かの事件性も感じとれる。
 映画かドラマを途中から見てしまったような、全貌の分からぬところから生まれる不安感が、かすかに漂ってくる。

 画家の名は、アンドリュー・ワイエス。
 1917年、アメリカ・ペンシルバニア州のフィラデルフィアで生まれた人だという。
 この絵は、彼の代表作といえる作品で、描かれた女性の名はクリスティーナ。
 ワイエスの別荘の近くに住んでいた女性らしい。

 そのクリスティーナが、ポリオに冒された不自由な足を引き吊りながら家族の眠る墓地に祈りに行き、そして、家に戻る途中の状態を描いたのが、この絵である。

 自分の身に降りかかった障害を克服するために、クリスティーナは自分がまかなうべき生活をすべて自力でやってのけ、車椅子の助けすら借りようとしなかったという。

 ワイエスは、彼女の力強く生き抜く覚悟に感動し、その輝かしい生命力を賛美するために、この絵を描いた。
 と、巷間で伝えられる解釈に従って眺めれば、この絵は、けなげに生き抜く一人の女性に捧げられた生命賛歌であることが分かる。 

 絵の主題が分かれば、もうそこに淋しさや不安を感じ取る要素は何もない (はずだ) 。
 見渡す限り青く美しい大地が連なり、その彼方には、平和な明るさを保った空が広がっている。
 ここまで這ってきたクリスティーナは、今ようやく自分の家が見える位置までたどり着き、トップをキープしてきたマラソンランナーが、ゴールの競技場を見るような安堵感を覚えているはずだ。

クリスティーナの世界2

 なのに、この画面から漂う静謐 (せいひつ) な淋しさは、いったい何なのか。
 力強く生きている女性を描いているはずなのに、ここに漂うはかなげな哀切感と虚無感は何に由来するのか。

 それは 「距離」 がもたらすマジックなのだ。

 彼女と自分の家の間には、永遠にたどり着けないのではなかろうか、と思えるほどの茫漠たる距離感が存在し、その距離感がこの絵にいい知れぬ淋しさを与えている。

 この 「距離感」 こそ、アメリカという国が持っている淋しさの原点であるように思う。

 アメリカの内陸部には、世界中のどこを探しても見当たらないような “がらんどう” が横たわっている。
 荒野を突き抜ける一本道。
 アクセルを思いっきり踏み込み、陽気な音楽が流れるラジオのボリュームを最大限に開けて走っていても、決して癒されることのない空漠感。

モニュメントバレーへの道1

 目的地など、次第にどうでもよくなっていくような、このロング・ディスタンス (無限の距離感) の感覚は、時に、旅する者の心をディープな虚無感に引きずり込む。
 ラジオから流れ出る能天気なカントリー&ウエスタンも、野獣の咆哮 (ほうこう) を思わせる大排気量エンジンの唸りも、すべて、このとろりと心身を脱力させるような虚無感の前には無力となる。

 「この世に生を受けている」 という実感を与えてくれるものは、その空っぽの大地を吹き抜けていく風だけ。
 アメリカ大陸で一番リアルなものは、あの草原を這うクリスティーナの髪をなぶっている 「風」 だ。

 アンドリュー・ワイエスは、また 「風」 を描くのもうまい画家だった。
 ここにあるもう一枚の絵。
 『海からの風』

 窓から流れ込む風が、レースのカーテンをなびかせているだけの静かな絵。
 目に見えない 「風」 を、これほど視覚的に鮮明に捉えた絵というものも、他にはあるまい。

海からの風

 「海からの風」 といいながら、その海は遠い。
 窓の外には、少し湿った緑の大地が森まで連なっている。
 森と大地を遮るものは、何もない。

 何もない空漠たる空間が、風がこの窓にたどり着くまでの 「距離感」 を伝えている。

モニュメントバレーへの道2

 しかし、アメリカ大陸がはらむ 「距離感」 は、同時に、アメリカ人の詩情の根源ともなっている。
 放浪に放浪を重ねていく人々の心情を描いたホーボーソングやロードムービーという文化は、アメリカでしか生まれなかった。

 チョッパーという不思議なハンドルを持つモーターサイクルが存在するのも、「いかに遠くまで行くか」 という、アメリカ人の飽くことのない 「距離感」 との格闘ないしは融合がもたらした結果だ。

 アンドリュー・ワイエスも、アメリカの持つ独特の 「距離感」 に敏感な画家だった。

 家を描いても、その先の風景が存在しない。
 家の向こう側で口を開けているのは、空漠とした虚空。
 それは 「無の世界」 への入口であり、同時に豊饒な宇宙に通じる扉でもある。

ワイエスの家の絵

 アメリカでは、画家はもとより無教養な市井の飲んだくれですら、茫漠と広がるアメリカの虚空を前にしたときは 「詩人」 になる。

 ワイエスが亡くなったのは、この1月の16日であったそうな。
 91歳の大往生だった。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:03 | コメント(2)| トラックバック(0)

江戸再発見とRV

 「江戸時代」 が再び見直されている感じがする。
 『週刊文春』 の2月5日号を読んでいたら、「私の読書日記」 というコーナーで、フランス文学者の鹿島茂さんが、こんなことを書かれていた。

 「最近、(江戸時代の) 鎖国に興味を持ちだしたのだが、それには二つ理由がある。
 一つは、地球温暖化による水飢饉と干ばつで世界崩壊の兆しが見えてきた中で、日本は、鎖国の間、幕府の将来を見据えた指導によって持続性のある資源消費率を達成したことにより、エコロジー的な破産を免れたこと。
 つまり、鎖国体制は、水資源と森林資源の保存に与って力があったのである。
 もう一つは、グローバル経済の破綻で、貿易立国が成り立たなくなった以上は、自給自足を根幹とした一国経済を目指すほかなくなったこと。鎖国体制は、この意味でまたとない模範を示しているわけだ」

江戸日本橋の絵

 かつては、誰もが江戸時代の鎖国を 「日本の後進性と閉鎖性」 の元凶と捉えた。
 しかし、鹿島さんがいろいろ海外の研究を調査してみると、どうやら日本の 「鎖国」 というのは、金融危機やら環境対策が問題となる現代社会を考える場合、けっこう見直されるべきシステムであるらしい。

 また最近の研究においては、「鎖国時代」 の初期というのは、実は日本は貿易依存体質の国家であり、通常その言葉からイメージされる実態とはかなり異なっていたともいう。

 鎖国といっても、長崎の 「出島」 では中国・朝鮮を相手にした海外貿易が行われていた。
 ところが、この時に 「銀・銅という鉱物資源が流出し、日本の貿易収支が赤字になっていた」 とも。

 それを時の八代将軍吉宗が、輸入に頼っていた生糸や砂糖を国産化するなどして、国内産業を発達させる政策に舵を切った。
 そのおかげで、「国産品の品質・価格両面における国際競争力が上昇し、19世紀を迎えるころには、消費財の貿易依存体質から脱却することに成功した」 というのである。

 以上の説は、まったくの孫引きで、学者でもない私はことの真偽を確かめるほどの知識も教養もない。
 ただ何となく、「温暖化対策」 とか 「水・森林資源保護」 、「内需拡大」 などといった、いま日本が直面している課題を考えるヒントが、江戸期の鎖国体制にありそうな “気配” だけは感じとれる。

 こんなことが気になったのは、実はキャンピングカー業界でも、そのような問題に関心を持ち、自分なりにいろいろ考えている人たちが多いという事情があったからだ。

 まずRVランドの阿部和麿社長は、将来的な起こりそうな水飢饉や干ばつに備え、「農業の推進」 を提唱されて、業界でもいち早く農園づくりを始められた方だ。

阿部和麿代表

 阿部さんの “RVランドファーム” 計画は、キャンピングカーユーザーのクラインガルテンを開発するというビジネス戦略でもあるのだが、その視線は大胆なくらい遠くにまで及び、わが国の産業を興隆させる契機の一つとして、「農業立国」 という選択肢があることまで射程に入れている。

 江戸時代が、持続性のある資源消費率を達成した時代であったことを評価しているのは、キャンピングカーランドの増田英樹社長だ。

キャンピングカーランド増田氏001

 彼は、西洋が産業資本主義を確立し、工業社会化していく過程で、石油資源への依存度を強め、結果的に資源の枯渇を招き、さらには二酸化炭素の排出を前提とした産業社会を造り上げてしまったこと反省すべきだと主張する。

 そして、それへのアンチテーゼを早くから提唱していたのが、江戸期の鎖国政策を切り盛りした徳川政権であったことに着目する。

 さらに彼は、いま未曾有の大不景気時代といわれる厳しい情勢の中で、江戸期の文化・伝統を見直すことで、そこから脱出する方向を模索しなければならないとし、その 「不況をチャンスに変える」 推進力となるものこそ、キャンピングカー (RV) 産業であるという。
 彼にとって、キャンピングカー産業の将来は、そのような問題意識をどれだけ関係者が自覚的に捉えるかどうかにかかってくる。

 このような人たちの話を聞いていると、なかなかキャンピングカー業界というのは 「英知の宝庫」 だという気もしてくる。

 幸い、お二方の談話をこのブログにて収録することができた。
 いま一度、ここに紹介してみたい。

 「RVランド式農業」 阿部和麿
 「不況時代のRV」  増田英樹




コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:45 | コメント(0)| トラックバック(0)

息子との長い旅

 それまで素直に親の言うことを聞いていた子供が、中学、高校に進学したとたん、コミュニケーションが途絶える…、話が合わなくなる…、わけの分からない友達づきあいが増える…、外泊が多くなる…といった悩みを抱える家庭は、よくあると思う。

芝生のギャラクシー050

 わが家にもそういう事態が訪れたことがある。
 高校2年になって、急に親に冷淡になっていく息子に対し、カミさんなどは、
 「子供が何を考えているのか全く分からない」
 と嘆く日が続いた。

 カミさんばかりでなく、私もまた、仕事にかまけて息子とろくに話す機会を持たない生活を続けていく中で、会うたびに、彼がよそよそしくなっていく様子を空気のように感じていた。

 親にそういう態度を見せるのは、子供の 「成長過程」 を示しているだけなのだから、当然といえば当然。
 しかし、親としてみれば、悪い道にでも進んでいないかという不安は常について回る。

 このまま、コミュニケーションの絶えた状態で放っておいてもいいものか、どうか。
 しばらく悩んだ後、私は久しぶりに息子と一緒に旅行をしてみることを思いついた。

北海道041

 当時の仕事はキャンプ場ガイドの編集だったから、企画さえ通れば、自分で好きな場所を自由に取材することができた。
 そこで 「キャンピングカーで楽しむ北海道の旅」 という特別企画を思いつき、それに息子を同伴させようと考えた。

 不安もあった。
 まず、仕事優先であるために、遊べない。
 「遊び」 の部分を優先してしまえば、当然、仕事に差し障りが出てくる。
 両方欲張ろうとすると、中途半端なものになってしまい、どちらの成果もあげられなくなる。

 しかし、そこは考えどころ。
 つまり、仕事を手伝わせてしまえばいいのではないかと考えた。

 息子はキャンピングカーの旅には良い思い出をたくさん持ってるはずだった。
 だから、「旅行に出てしまえば楽しい」 ということは分かっている。
 問題は、親に対する 「疎ましい」 という感情を、彼がどう克服するか。

 幸い、「仕事を手伝えば日当を払ってやる」 という条件に反応して、夏休みに入り、暇を持て余していた彼は不承不承 (だったろうが) 親との旅行を承諾した。

《 装備の使い方を教えることで会話を回復 》

 こうして、苫小牧を起点に、登別 ~ 石狩 ~ ホロベツ原野 ~ 稚内 ~ 宗谷岬 ~ 富良野 ~ 愛別 ~ さらべつ ~ 襟裳 ~ 八戸 ~ 八幡平…という約3週間行程の旅が始まった。

北海道ラベンダー041

 しかし、久しぶりに同乗する息子といったいどんな会話を交わしたらいいのか、旅を始めた最初の頃は、かなり戸惑ったのも事実だ。
 髪の毛を金色に染めて、耳にピアスをはめ、助手席のダッシュボードに足を投げ出してだらしなく漫画ばかり読みふけっている息子に、内心かなり腹を立てたりもした。

 でも、そこで怒ってもしょうがない。
 問題はコミュニケーションが取れるかどうかだ。

 幸い、キャンピングカーというのは、コミュニケーションを取らざるを得ない構造になっている。
 一緒に生活するとなると、同伴した “クルー” には、キャンピングカー旅行を支障なくこなすための 「業務」 が、否応なしに降り懸かるようになっている。

北海道0004

 まず私は、キャンピングカーのこまごました扱い方の手ほどきし、3ウェイ冷蔵庫の切り替え、ベッドメイキング、ジェネレーターの使い方、AC電源の接続の仕方など、宿泊する前にやらなければならない仕事を一つ一つ教えた。
 仕事先で撮影するときは、カメラのレンズ交換や掃除、撮影機材などの運びもやらせた。

 やがて、「助手」 として一人前に認めてもらったという充実感が彼に芽生え始めたのか、次第に今まで経験したことのなかった2人だけの新しいコミュニケーションが生まれるようになった。

《 心地よい緊張が持続する毎日 》

 キャンピングカーの旅というのは、泊まる場所を選ぶときの自由度が非常に高い。

 当時、JRVAの 「湯YOUパーク」 などというシステムはまだ生まれていなかったが、北海道には心地の良いキャンプ場なら無尽蔵にあったし、普通なら一般客で混み合う 「道の駅」 のようなところも、本州と比べればかなり空いている。
 地図でスポーツ公園の名前を見つけて、山を登っていくと、夏休みの週末だというのに、だだっ広い駐車場にクルマが1台もないという場合もあった。

ダムのギャラクシー039

 …ということは、満足のいく宿泊を求めるのなら、その日の宿泊企画を真剣にクリエイトせざるを得ないことになる。

 もちろんキャンプ場の取材であったから、取材先のキャンプ場で泊まることが多かった。
 しかし、広い北海道を回っていると、必ずしも取材のスケジューリングに合わせてタイミングよくキャンプ場にたどり着けるとは限らない。
 幸い、北海道には、他の旅行客に迷惑のかからないような仮眠スペースがいっぱいあった。

北海道キャンプ場_001

 どこで、どのような夜を過ごすか。
 毎日夕方が迫ると、まず休む場所の目星をつけ、そこに至る行程の中で温泉を探し、夜の食材を確保する段取りを練る。
 あらかじめ予約を入れる旅館やホテルと違って、その晩をどう“創造”するかという緊張感が常につきまとう。

 それが息子にとっては日常生活とはまったく異なった新鮮な体験だったのだろう。
 彼は次第に、旅を “クリエイト” する楽しみに目覚めたらしく、やがて放っておいても、自分で提案するようになってきた。

 人里離れたダム湖のパーキングで、真っ暗な闇を経験し、電子レンジで温めたチャーハンを分け合って、ささやかな晩餐を楽しむ。
 あるいは、名前も定かでない小さな町の駐車場に停め、地元の人しか訪れない淋しい居酒屋の 「のれん」 をくぐる。
 そんな体験の積み重ねが息子にはとても楽しかったようだ。

北海道042

《 冒険の匂いが漂う旅の楽しさ

 北海道の奥地には至るところに 「熊出没注意」 という看板がある。
 熊が出るかもしれない荒涼とした場所で泊まる夜、頑丈な壁に囲まれたキャンピングカーは、息子にとってどんなに心強かったことか。

クマ出没標識047

 ときどき夜更けになると、彼は窓から顔を出し、「熊は来ないか?」 などとつぶやきながら、駐車場の彼方まで懐中電灯を照らす。
 まるで熊の出没を待っているような表情だった。

クマ出没看板と小僧

 眠くなるまで、車中では、私はひたすら酒を飲み、息子は漫画を読みふける。
 時には、お互いの王将が敵陣までさまよい込むような将棋を指す。
 男同士のコミュニケーションはそれで充分なのだな…と思った。

北海道雲048

《 深夜スナックの漁師たち 》

 襟裳岬の漁師町で泊まったとき、私たちは公営駐車場にクルマを止め、近くの居酒屋に繰り出した。

 そこで酔って少し盛り上がってしまった私は、未成年の息子を引き連れて、その隣りにあったカラオケスナックに入った。

 夜中の1時を回るような時間帯だったと思う。
 隅のボックスでは、息子と同じぐらいの若者たちが飲んで、歌を唄い、騒いでいた。
 ビールのジョッキを威勢良く開け、歌が朗々と店内に響きわたる。

 ところが、一定の時間が来ると、彼らは一斉に立ち上がり、みな顔をきりりと引き締めながら、次々と店を出ていく。

 ママさんの話によると、若い漁師さんたちなのだという。
 スナックで集合し、少し歌を唄って元気をつけ、それから早朝の海に漕ぎ出していくのだそうだ。

 その話を聞いたとき、息子の目が輝いていた。
 最初はただ騒いで唄っているだけの自分と同じ年格好の若者たちが、実は、深夜に海に漕ぎ出ていく漁師たちだったとは。

 そこで見た光景は、ただ遊ぶことしか考えていなかった彼に、なにがしかのインパクトを与えたようだった。

《 アクシデントも経験 》

北海道直線路040

 トラブルにも遭った。
 フェリーで本州に戻り、東北のキャンプ場めぐりを始めようとした矢先、深夜の高速道路を走行中に、クルマが動かなくなった。

 最初はエアコンが止まり、次にスピードがどんどん低下し、やがてアクセルを踏めども、その踏力がほとんど駆動輪に伝わらなくなった。
 クラッチ板が滑り始めたのだった。

 “カメの歩行速度” でSAに逃げ込み、レッカー業者に連絡を取って、なんとか高速道路の敷地内から連れ出してもらうことができた。

 しかし、修理に関しては絶望的だった。
 というのは、ちょうど運悪くお盆休みに入った時だったので、その近辺の自動車修理工場がみな一斉休業に入った矢先だったのだ。

 仕方なく、その夜は料金所脇に停めた車内で一泊し、翌日、道路公団の役員に事情を説明してから、路線バスで街に出て、休み明けまでレンタカーを借りることにした。

 それはそれで、結果的には、また違った旅を楽しむことになったのだが、修理工場が休みだと知ったときなどは、本当に2人して途方に暮れた。

 だが、そういうアクシデントを経験した後は、2人の呼吸がさらにぴったり合うようになり、「以心伝心」 という空気が生まれた。

 こうして3週間の旅を終え、私たちは帰途についた。
 カミさんは、久しぶりに帰った息子の顔を見て、「すごく大人びた表情になった」 とびっくりした。

 こういう旅の体験が、彼の将来にどういう影響を与えたのか分からない。

 ただ、この前、成人した彼が久しぶりに家に遊びに寄ったとき、私がモーターホームを借りてアメリカを回った話をした後に、
 「次はオレと行くかね。アメリカでも横断するか」
 などと、一言いった。

 若い頃に得た豊かな体験というのは、一生モノなのかな…とも思った。


旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 00:33 | コメント(11)| トラックバック(0)

まず取材ありき2

 昔から、人に取材するときは、その談話をすべてテープに収録している。
 だからキャンピングカーの取材で人に会うときなど、たまにノートを取り出してメモったりすると、
 「あれ、今日はテープレコーダーは出てこないの?」
 などとよくからかわれる。

テープレコーダー

 今では、顔なじみの人はみな慣れてしまって、テープレコーダーを突き出しても、その存在すら忘れていろいろ話してくれるけれど、最初の頃は、みなギョッとした。

 「何のマネなのさ? 証拠でも取ろうという気?」
 とか、
 「後で、他の人に聞かせるのとちゃう?」
 などと警戒もされた。

 こちらも、できればテープなどに頼りたくない。
 第一、後で起こすのが面倒くさい。

 しかし、そうしなければならない致命的な欠陥が私にはある。

 自分で書いた字が、自分で読めないのだ。
 特に、あわてて書いたときのメモなどは、まず判読不可能になっている。
 メモ帳を開いても、そこに浮かんでいるのは、ナメクジが通った跡か、カラスの足跡に過ぎない。

 取材したすぐ後に記事を書くのなら、記憶を頼りになんとか原稿が書ける。

 しかし、取材した時間と、記事を書く時間が離れた場合は、記憶も遠ざかってしまうので、取材内容の細かい部分を正確に思い出すことが難しくなる。
 そうなると、もうお手上げだ。 

 それでも取材を始めた最初の頃は、普通の記者と同じように、談話を聞きながらメモするだけの取材を心掛けていた。

 ところが、昔私が携わっていた雑誌で、SF作家の小松左京さんにインタビューしたときは、ついにメモをとるという作業の限界に行き当たった。
 
 取材のテーマは 「宇宙人が存在する可能性」 といったようなものだったと思う。

 当時、『未知との遭遇』 とか、『エイリアン』 などといった宇宙人とのコンタクトをテーマにした映画がブームになっていたので、それにちなんだ企画だった。

小松左京氏

 小松左京さんは、日本のSFの大家らしく、興味深い知見をいろいろ披露してくださった。
 しかし、博覧強記の人であるため、とにかく話す世界がとてつもなく広がっていく。
 いろいろな固有名詞も出てくるし、それを解説するためのボキャブラリーも無尽蔵に連なっていく。
 さらに、早口の方だった。

 こっちは出てくる単語をメモすることに追われ、話の内容を追う余裕すらなかった。

 会社に戻り、自分のメモ帳を見て、愕然とした。
 自分の字が読みづらいのは覚悟していたが、メモ帳に踊っていた言葉は、
 「そこで」 「しかし」 「それゆえ」
 というような言葉だけだった。

 豊穣な内容に満たされた談話を追いきれず、言葉の最初の部分だけを書き取るのに必死だったのだ。
 
 いざ小松さんのインタビュー記事を書く段になって、さぁ困った。
 メモには頼れない。
 かといって、記憶を頼りに原稿をまとめようとしても、話が膨大に広がっているために、焦点が定まらない。

 「こんな内容じゃなかったよな…。こんな話でもないよな…」

 書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、ついに収拾がつかなくなった。
 結局小松さんの、取材に応じてくれた貴重な時間をほとんど棒に振ったようなものだった。

 仕方なく、わずかな記憶を頼りに当り障りのない文章を連ね、小松さんの修正を仰ぐことにした。

 幸い、小松さんがその原稿に加筆修正してくださったおかげで、なんとか印刷に回すことができた。
 原稿チェックに苦労をかけさせた小松さんには、今でも申し訳ない気持ちいっぱいでいる。

 取材に応じてくださった方の談話をテープに採ろうと思ったのは、それからである。
 
 談話をいったんテープに採っておけば、取材内容を平気で “忘れる” ことができる。
 後で起こす手間はかかるが、談話の微妙なニュアンスが再現されるので、それを基にすれば臨場感のある原稿が仕上がる。

 特に、いろいろな人の談話が交錯するような記事を仕上げるときは、テープに残された話っぷりを参考にして、それぞれのキャラクターを書き分けることができる。

 面白いもので、話を聞いているときにはものすごく感銘を受けたインタビューでも、後でテープを起こしてみると、肝心な部分が抜けていたり、話の前後が矛盾していたりするということがある。
 それでも、その人から聞いた話の素晴らしさは、身体に刻み込まれるくらい記憶に残っている。

 これは、どういうことだろう。

 「話の力」 なのだ。
 話の力を持っている人は、肝心の部分が抜けていたり、あいまいであったりしても、聞き手の想像力を刺激し、聞き手が勝手に欠けた部分を補えるような話を、ちゃんとしているのだ。
 テープを聞き直してみると、そういうこともよく分かる。

 今のところテープレコーダーは、自分の取材ツールの一番大事なものとなっている。


 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:24 | コメント(6)| トラックバック(0)

夢のフィールド

《 昔の映画の現代的鑑賞法 16 》
「フィールド・オブ・ドリームス」 (1989年)


 トウモロコシ畑の奥に分け入っていくと、そこが別の世界への入口であるかのような気分になる。
 ということを感じるようになったのは、『フィールド・オブ・ドリームス』 という映画を観てからのことだ。

トウモロコシ畑

 その映画が公開されてから、今年で20年になる。
 さっきまでBS (衛星第2放送) の放映を観ていて、そのことに気がついた。

 良い映画だ。
 ジーンとくる。
 男の子を持ったお父さんだったら、絶対泣けてくる映画だろう。

 舞台は、アメリカ・アイオワ州。
 画面には、見渡す限りのトウモロコシ畑が広がる。

 主人公は、その畑を切り盛りする36歳の男 (ケビン・コスナー) 。
 妻と幼い娘がいる。

ケビン・コスナー

 男は、若い頃に父親と口論し、そのまま家を飛び出してしまう。
 
 野球だけが趣味で、頑固一徹だった父親。
 そんなオヤジの頑迷固陋 (がんめいころう) さを嫌って、思想運動に傾倒していく主人公。

 再会することも叶わぬうちに、息子は父との死別を迎える。
 そのことが、いつまでも主人公のメランコリーの種になり、彼の心の空洞には、静かなすきま風が吹いている。

フィールド・オブ・ドリームス2

 時間も風も静止したようなトウモロコシ畑の上には、午後の日差しだけがギラギラと降り注ぐ。
 そんな日が永遠に続いている。
 何も起こらない。

 でも、そういう時って、必ず 「何か」 が降りてくるものだ。
 主人公は、自分のトウモロコシ畑の中を歩いているときに、突然 「それを造れば、彼らが来る」 という謎の啓示を受ける。
 誰が、どこからそうささやくのかは分からない。

 しかし、彼は啓示に動かされ、何を造ればいいのか分からないのまま、トウモロコシ畑の一部を刈り始める。
 男が造ったのは、手づくりの野球グランドだった。

 しばらくは何も起こらない。
 ナイター設備まで整えた無人のグランドの上に、夕暮れの光が降りてきて、グランドを青く照らす。
 それがまた永遠に続く。

 ある日、そのグランドに、一人のユニフォーム姿の野球選手が現れる。
 今では見ることもない大昔の不格好なユニフォームを着た選手だ。
 その選手が、最初は戸惑いながらも、自分がグランドに立っていることに気づき、グランドの脇に放り出されていたバットやボールを眺め、そして主人公の姿を認めて、話し掛けてくる。

 「ここは天国か?」

 選手は、かつて伝説のスタープレイヤーとして知られたシューレス・ジョーだった。

シューレス・ジョー

 といっても、日本人にはちょっと、その “凄さ” が実感できない。
 あと50年ぐらい経った時代の日本人が、「長嶋茂雄」 のことを思い浮かべると、そんなイメージに近いのかもしれない。

 主人公の造ったグランドは、ベースボールを愛し続けながらも、途中で断念せざるを得なかった往年のスタープレイヤーたちを招待する 「天国の球場」 だったのだ。 

 グランドには、やがてシューレス・ジョーの仲間たちが集まってきて、練習に明け暮れるようになる。
 みな、昔 「八百長をした」 という疑惑に翻弄され、野球界を去らざるを得なかった選手たちの幽霊だった。
 
 オカルトともホラーとも取れる設定なのに、ここで描かれる幽霊たちの姿は、どこか明るく、ほのぼのとして、のんびりしている。

 最後に、男の造ったグランドに現れたのは、彼の父親だった。
 やはり、野球が好きで、かつてはマイナーリーグでプレーをしたこともある父。

 独身時代の若々しい表情を持った父親は、主人公に近づいてきて、こう尋ねる。
 
 「ここは天国か?」

 父親の眼差しは、明るい陽光のもとで、金色に輝く芝生に覆われたグランドに注がれている。

 「ここはアイオワだ」
 と答える主人公。

 「美しい。天国のようだ…」
 父親の口からため息がこぼれ出る。

 「天国はあるのか?」
 と、今度は主人公が父親に尋ねる。
 
 「あるとも。それは夢が実現する場所のことだ」

 トウモロコシ畑の中に消え行こうとする父親の背中に、主人公が叫ぶ。

 「パパ」 

 見つめ合う2人。
 やがて、2人の間で、静かにキャッチボールが始まる。

フィールド・オブ・ドリームスDVD


 この光景を見た世の父親で、男の子にグローブを買ってやろうと思わない親がいるだろうか。
 
 私は買った。
 息子が小学生になったばかりの頃だったろうか。
 その最初の誕生日のプレゼントがグローブだった。

 買ったばかりのグローブを息子の手にはめさせ、私たちは、学校の校庭が広がる丘の上に登った。

 春休みだったのか、夏休みだったのか。
 女子高校の校庭には人影もなく、夕方の黄色みを帯びた光が、校舎に沿って植えられたポプラ並木の影を、校門の近くまで長く引っ張っていた。

 息子をピッチャーに仕立て、私は腰を落として、キャッチャーミットのように自分のグローブを構えた。 

 弱々しくも、意外と素直な球道を描いて、ヤツのボールが自分のグローブに収まったとき、ジーンときた。
 自分の 「フィールド・オブ・ドリームス」 が実現した瞬間だった。

 キャッチボールというのは、「男の会話」 なのだ。
 相手が取りやすい位置を狙い、神経を研ぎ澄ませて、渾身の一球を送る。
 それがうまく相手のミットに収まれば、相手もまた精魂込めた一球を投げ返す。

 洗練された沈黙に守られた、美しい会話。

 ファーストフードとジーンズという文化しか世界に広めることができなかったアメリカが、唯一実現した 「父親の文化」 。それがキャッチボールだ。

 この 「男と男の子」 の文化を生み出しただけでも、アメリカは偉大だ。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:26 | コメント(4)| トラックバック(0)

まず取材ありき

 取材をして、記事を書く。
 そういう編集ライターのような仕事を、かれこれ30年ほど続けてきたけれど、いまだに修行の途中。

 野村進さんの 『調べる技術・書く技術』 (講談社現代新書) などという本を読んでいると、やはりプロのライターたちの意気込みというか、情熱というか、「書く仕事」 に対する真摯な取り組み姿勢に接して、この身の至らなさを痛感することが多い。

調べる技術・書く技術

 特に本著の場合、「プロの物書き」 であるためには、まず前提条件として 「プロの社会人」 であるというところから説き起こされている。
 正直、「この身の至らなさ」 というのは、そこのところでも、耳が痛いと思えるほどのことがいっぱいあったからだ。

 その本の前半を読んだだけの段階に過ぎないが、「取材」 に対する “姿勢” ともいうべきものを熱く吹き込まれたおかげで、それについてのみ、自分の感想と方法論のようなものを、(恥ずかしながら) 少しだけ開陳したいという誘惑に駆られた。

 『調べる技術・書く技術』 という本は、ノンフィクションというジャンルにおいて、ライターがどのようにテーマを見つけ、どのように資料を収集し、取材する人にどのように接するかという、取材記者の基本から書き起こされている。

 ネットが充実して、どんな情報でも簡単に検索できるような時代になると、ライターはともすれば記者としての基本を忘れがちになる。
 使えそうな情報をパソコン画面で探し、コピー&ペーストで簡単に自分のファイルに取り込むことを覚えてしまうと、誰もが取材の重要性というものに無頓着になる。

 しかし、この 『調べる技術・書く技術』 という本で強調されているように、記事を書く基本は、結局 「取材」 に尽きる。

 たとえば、本を読んでその内容をブログなどで紹介する場合でも、多少 「書評」 のようなものを意識する限りは、やはり著者と面と向き合って直接に話を聞くくらいの 「取材」 が必要となる。
 その場合の 「取材」 とは、たとえばテーマの核となる部分にアンダーラインを引いて、暗記するくらいに読み込むことだったり、その部分を正確に筆記する読書ノートを作成することだったりする。

 この 「取材」 がしっかりと定まっていない記事は、本人の主観だけで構成される日記もしくは感想文の域を出ない。

 ノンフィクションライターの野村さんの場合は、文献的な資料に当たるときには、「資料としての本は乱暴に扱え」 と主張されている。
 記事に生かすときに大切と思われる箇所は、赤ペンでアンダーラインを引く、蛍光ペンでなぞる、場合によっては引きちぎって袋ファイルに保管する。
 そうやって 「情報管理」 されるそうだ。

 私もまた本に関しては、アンダーラインや蛍光ペンで汚すことにためらいを持たないが、さすがにページを破ってファイルに収めるということまではしていない。
 しかし、自分にとって必要だと思える文章を、そういう形で管理しようという気持ちは、痛いほど分かる。

 野村さんのような多忙を極めるプロのライターの場合、本のページを切り取るという作業は、時間の節約という意味では、情報管理の立派な方法論のひとつなのだろう。 

 私はそこまではしないけれど、時間があれば、単行本や週刊誌で気になった記事をキーボード入力で筆写し、ファイルの形で保存している。

 昔、小説家志望の人は、自分の好きな作家の文章を、一字一句間違うことなく原稿用紙に書き写すという修行を行っていたという。
 私自身は小説などあまり書かないので、そういう作業はしたことがないけれど、作業自体はきわめて大切だという気がする。

 文章というのは、同じ内容をそっくり同じ字数内に書いたとしても、仔細に比べてみると、句読点の位置や漢字とひらがなの配分などが、人によってすべて違う。
 そのような違いは、読んでいるだけでは認識できない。書き写すことによって初めて認識できる。

 良い文章には 「リズム」 がある。
 読者の心にスゥーッと溶け込んでいくリズムというのは、句読点の位置、改行位置、漢字とひらがなの配分などによって織り出される。
 一流のプロが書いている文章は、それらのアンサンブルが絶妙で、それがその人自身の固有のリズムとなっている。
 そういうことを学ぶためにも、文章を書き写すという身体を使った修行はとてもためになる。


 気になる記事を自ら筆写するということは、また、情報のプライオリティー (優先順位) を考える訓練にもなる。
 本でも雑誌でもそうだが、いくら 「気に入った記事」 があったとしても、書き出しから結論に至るまですべてを丸ごと筆写することはできないし、また意味がない。

 だから、私は、気に入った文章はそのまま一字一句損なわずに筆写するとしても、その文章をつながらせるために存在する前後の文章は、思い切って要約するようにしている。

 人の書いた文章を要約するためには、もう一度自分の頭の中で、文章全体を再構成しなければならない。
 
 この 「再構成」 が、意外と訓練になる。
 オリジナルの文章を縮めてファイルするためには、時には、作者が使っていた単語とは異なる言葉を探して当てはめなければならないし、数行~数十行にわたって大胆に省略するときには、あえてオリジナルにない短い文章を書き加えなければならないこともある。

 しかし、そういう作業が、その本のテーマに近づくための 「近道」 になる。
 要約するために自分なりの文章に直すことによって、初めてオリジナルの内容が血肉化する。
 
 要約してファイルした文章が、たとえ著者が本当に主張したいこととかけ離れようともかまわない。

 本というのは、誤読する権利も読者に与えられているのだから、作者の主張をそのまま受け入れる必要はない。
 読んだ自分が気になったことや気に入った文章を保存することが大事なのだ。

 そうやってファイルしてきた本や週刊誌…ときにはネットの情報が、私のハードディスクの中には7~8年分のファイルとして保存されている。保存したデータには、必ず 「年代と日時」 「情報発信者」 「発表媒体」 をつけておく。

 その中には、時代状況の変化についていけずに、使えなくなってしまったデータもたくさんある。
 しかし、意外なときに、意外なところで役に立つデータというものもある。

 たとえば、バブル時代の 「バニング」 を考察したある週刊誌のエッセイを筆写していたファイルは、『日本のキャンピングカーの歴史』 という資料を作成するときに、「時代の気分」 を知る意味において非常に役立った。
 しかも、それを記事にする場合、保存されていたデータをそのままコピペすればよかったので、とても楽だった。

 自分の場合、キャンピングカーをテーマにした仕事であっても、社会状況や経済状況の推移と絡めてキャンピングカーを扱う場合には、そういう過去のファイルがとても重要となる。

 面白いもので、最初はランダムに集めていた情報でも、ある程度 「量」 が蓄積されてくると、個々バラバラな情報をお互いに関連づけて眺める 「視点」 のようなものが生まれてくる。

 そういう 「視点」 は、すぐには公表しなくても、時間をかけて発酵させていくうちに、次第に 「思想」 のようなものに育っていく。
 
 だから、気になった記事を拾ったときは、それを筆写することを続けていたいのだけれど、もちろん仕事が忙しくなって時間がないときは、とてもそんな余裕がない。
 そういうときは、蛍光ペンで気になる箇所にマークを入れるだけで我慢する。
 それだけでも、なんらかの情報は頭の中に入るものだ。 

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:11 | コメント(4)| トラックバック(0)

アウトドア考察2

 前回に続き、日本RV協会さんが開かれた 『キャンピングカーを考える会』 における中村達 (なかむら・とおる) さんの講演会の内容をご紹介します。

【日本のアウトドアの考察 2】

 中村達氏のプロフィール
・1949年生まれ 滋賀県湖南市在住。
・株式会社 ネーチャーインテリジェンス代表取締役
・アウトドアアナリスト&コンセプター
・アウトドアジャーナリスト


《 ようやく必要性が認識された自然体験学習 》

 アメリカやフランスのアウトドアズというのは、国家がしっかりとした基本プランを作成し、その土台の上に成り立っているということを、今までの話の流れからご理解いただけたかと思うのですが、こういう諸外国の例と比べてみると、日本のアウトドア文化や自然体験などの教育システムが、いかに遅れているかということもお分かりいただけたかと思います。

アメリカのアウトドア風景2

 一言でいうと、「アウトドアライフデザイン」 が日本には欠けていると思います。
 長年、メディアやアウトドア業界は、さんざん 「アウトドア」 という言葉を使っておきながら、それをライフスタイルとしてデザインする作業を怠ってきました。

 そのために、生活者のマインドにアウトドアライフデザインが育たなかった。そしてモノが先行するだけで、理念や思想といったものが欠落していたように思います。
 だから結果として、アウトドアズに対するインフラ整備も思いつかない。これでは欧米に追いつけないのも当たり前ですね。

アメリカのアウトドア風景2

 しかし、近年ようやくわが国の政府も本腰を上げるようになりました。子どもたちには自然体験が必要だと気がつきました。子どもたちの自然体験が、この国の将来に欠かすことのできない要素だと、行政レベルでも分かってきました。

 アメリカやヨーロッパのレジャー産業がなぜ活発なのか。
 それは子どもの頃から自然に親しみ、自然を愛することを教えるという教育が充実していたからです。その結果、アウトドアズが大きなマーケットになって、産業も発達した。

 私たちのスタンスからも、日本のアウトドアマーケットを広げるためには、まず子どもの自然体験学習や活動から始めることが重要だと、認識する必要があります。

日本のキャンプ場風景1

 では、国は何を始めているのか。
 まず、子どもたちに連続1週間、野外で自然体験や農業体験をさせるということを考えています。5年間のうちに、120万人の子どもたちにそれを体験させようということで、農林水産省ではおよそ450億円、文部科学省では35億円、合わせて500億円近くの予算を組み、今年からスキームを始めています。

 確かに 「ゆとり教育」 はちょっと問題になりまして、いろいろな批判も浴びましたが、自然体験活動だけはしっかりやり抜くと国は明言しています。

 自然に接することが、教育上いかに大事か。
 ノーベル賞を受賞した先生方が、何が一番大切ですか、という質問に、そろって 「自然」 と答えられました。

 つまり、自然は人間の好奇心を萌芽させる宝庫であり、人間の能力開発に一番重要なものである。
 自然の中に入れば、不思議なことに出合ったり、さまざまな発見があります。自然は、子どもたちの好奇心を育て、発見する力、チャレンジする力をはぐくむということだと思います。

木々の緑01

《 今こそ国に働きかけるチャンス 》

 このように、国家レベルでも 「自然体験」 のためのプロジェクトが始まってきたいま、国や自治体は私たちに何を求めているのでしょうか。
 それは、提案だと思います。

 いかにしたら、国民が自然と触れ合い、健康になり、その触れ合いを地域の活性化と産業の振興とに結びつけることができるか。そういう提案が必要な時代になってきたと思います。

 実は、そういう提案へのひとつとして、私は、多くの人々に自然の素晴らしさを体験してもらい、かつ地域の活性化にもつながるような “自然体験活動の指導機関” を提唱して、長野県のある山岳観光地に 『自然学校』 を立ち上げました。

 これはスキー場内にその関連施設としてつくったものですが、トレッキング、フラワーウォッチング、スターウォッチングなどといった様々な自然体験プログラムを組んで、多くの人に大自然を堪能してもらおうという、インタープリテーションのための自然学校です。

 おかげさまで、これがすごく評判がいい。
 このスキー人口が下降しているというご時世で、スキー来場者は昨年の12月では、前年同月比の20パーセントアップ。スノーシューイングなどというスキー以外のインタープリテーション授業も好評で、今年の3月まで予約が満杯になっています。

 さらに、現在、この 『自然学校』 を中心に、170kmの 「ロングトレイル」 を構想中です。
 トレイルというのは、「景観の豊かな土地をつないで自然に親しみながら歩く道」 …というような意味ですが、アメリカやヨーロッパには、このトレイルがたくさん整備されています。

アメリカのアウトドア1

 アメリカには、有名なアパラチアン・トレイルという3,500kmのトレイルを筆頭に、バックパッカーやハイカー専用のコースが用意され、多くの人々がウォーキングを楽しんでいます。
 ヨーロッパに行くと、北欧から地中海まで5本のトレイルが走っていますし、イギリスには2万kmのフット・パスがあります。

 では、日本はどうかというと、このようなトレイルとして 「四国のお遍路の道」 が有名ですが、ロングトレイルとして整備されたところは、非常に少ない。
 そこで、国や自治体と連携して、この日本の豊かな自然を堪能しながら、「歩く旅」 が楽しめるトレイルをつくろうと、いま活動しています。

 現在6つのスキームを進めているところですが、その一つが浅間山麓を回るロングトレイルです。6市町村が連携しています。
 このトレイルが国土交通省が進めている 「日本風景街道」 に認定され、その整備のために予算もつき始めています。

 「風景街道」 というのは、アメリカでいう 「シーニックバイウェイ」 の日本版で、景観に優れた道路をつなぎ合わせ、国民に旅を楽しんでもらうというものです。
 
 現在、浅間山麓ロングトレイルは実行委員会を組織し、コース上のキャンプ場、温泉や様々な宿泊施設と有機的に結びつけるための調査を行っています。

 このようなスキームに対し、RV協会さんなども有識者の団体として、何らかの形でコミットしていくことが必要だと思います。
 このようなトレイルの整備は、キャンピングカー産業と決して無縁ではないと思っています。

 まずキャンピングカーで、トレイルの途中にあるキャンプ場などで宿泊する。
 そして、自然の景観を堪能したり、地元のおいしい料理などを味わいながらウォーキングやトレッキングを楽しむ。
 それによって、トレイルの周辺が活性化を果たす見通しが立てば、国や自治体も、例えば 「キャンピングカー&ウォーキング」 という提案に対して、興味や関心を持って耳を傾けてくれるでしょう。

増田対談06山の景色

《 学校でミニRV体験会を開く 》

 キャンピングカーの普及のための方法のひとつとして、国の政策や自治体のプロジェクトを視野に入れ、さまざまな提案や提言を行いながら、協働していくことも必要でしょう。

 特に、それが子どもたちの教育や青少年の育成活動に資するようなもの、さらに地域の活性化、なかでも観光の活性化につながるようなものであれば、積極的に採り上げてくれる可能性は高いと思います。

 そこで提案なのですが、例えば、キャンピングカーを販売されている業者の方々が、ご近所の学校にキャンピングカーを持ち込み、そこで 「RV・キャンピング教室」 のようなものを開かれたらいかがでしょう。

 学校には総合的学習時間が設けられていますから、子どもたちに何かを体験させるという企画は、学校側も興味を持つはずです。

 学校の先生は忙しいので、学外授業を行いたくてもそのプログラムを組んでいる余裕がありません。
 だから、学外で行う良い体験活動があれば取り入れてくれる学校もあると思います。

 ある日、突然校庭にキャンピングカーが登場する。子どもたちは、きっと驚き、目を輝かせることでしょう。そして、手で触れて、乗ってみて、ベッドに寝転がり、いろいろな機能を学習します。
 子どもたちの脳裏に、冒険心や、はるか彼方のアウトドアフィールド、森の情景、広大な平原が浮かぶのでは、と想像します。

 また、コンロでお湯を沸かしてお茶を入れたり、簡単な野外クッキングを体験させてもいいと思います。「ミニ・アウトドア教室」 ですね。

ルーツ6.6リビング

 そうやって、キャンピングカーを子どもたちに広く知ってもらう。その子が家に帰ってきて、今までキャンピングカーに関心を示さなかった親に対しても、「キャンピングカーショーに行こうよ!」 とおねだりするかもしれない。「キャンプに連れてって」 というかも知れない。これが大事ですね。

 このような試みが一定程度の成果を収めるようになれば、大きなムーブメントとして成熟する可能性がある。学校で開いた 「ミニRV教室」 が、いつしか連鎖して、伝播して、全国的なプロジェクトにならないとも限りません。

《 外国人向けレンタルキャンピングカー 》

 もう一つの提案ですが、いま日本の観光地は、外国人観光客でにぎわっています。彼らに、レンタルキャンピングカーを提供するというアイデアもあると思うのです。

 現在、日本の一部の観光地は、まるで日本とは別の国になったかのような様相を呈しています。

 私は、毎年ゴールデンウィークには立山にスキーに出かけているのですが、昨年の4月に行ったときは、ちょっとびっくりしました。
 山麓駅で写真を撮っていたのは、シンガポール人、韓国人、台湾人の観光客ばかりでした。山麓駅から山上まで、これらの外国人観光客ばかりなのです。

 バスに乗っても日本語が聞こえなかった。みんな日本の雪景色が珍しくて見物に来ています。雪山体験といったところです。

 昨年の夏、北アルプスを縦走したときも、同じような経験をしました。これまでは日本人登山客でにぎわった槍ヶ岳ですが、それに外国人登山者も加わってきています。

 山や小屋の標識は、今や英語、韓国語、中国語が日本語とともに記載されています。山小屋に宿泊客の1割が外国人といわれています。山もいい意味で国際化が進んでいるといえるわけです。

 そういう時代になったんですね。
 日本の観光地も、もう外国観光客を受け入れないとやっていけない、ということが分かってきて、インフラやシステムの整備が進んでいるといったところです。

 これには日本の国策として 「観光立国」 が挙げられているという背景があります。
 日本は、観光が重要な産業として位置づけられています。日本に多くの外国人に来てもらうには、諸外国のまねではなく、日本、つまり豊かな森の文化。和の文化をどのように見てもらうか、体験してもらうかということが大きなポイントであると思います。

桂離宮庭

 日本の温泉、日本の庭園、日本の家屋、日本の伝統芸能といった、「和の文化」 を外国人向けの観光コンテンツとして見直そうという考え方も生まれてきています。

 それと同時に、そういう施設を効率よく、経済的に回るためのレンタルキャンピングカーという移動システムも、将来的に期待されてくるのではないかと思っています。

 すべての外国観光客に向いているとはいいませんが、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアといったキャンピングカー先進国の観光客なら、日本人よりはるかにキャンピングカーの扱いに慣れている人たちも多いでしょうし、そのような旅行形態を望んでいる人々も多いと思います。

 もちろん、このようなレンタルキャンピングカーシステムを、今のキャンピングカー業界の人たちが運営するのは、マンパワーや資金的な問題、さらにメンテナンスの問題などからして、むずかしい面も多々あるでしょうが、業界をあげて実証実験をおこない、可能性を検証し、ビジネスモデルを研究する必要があると思います。

 一方で、国内向けにはキャンピングカーの利用のためのインストラクターを養成する必要も生まれてくるかもしれません。RVインストラクターを養成していくうちに、キャンピングカーに興味を持つ人々が増加する可能性が高いと思われます。

《 三世代のアウトドアライフ 》

 そろそろ最後のまとめに入ろうと思うのですが、結局、「遊び」 というものは、すぐには身につかないということですね。

 「定年退職を迎え、さぁ自分の自由時間が持てるようになった。よしキャンピングカーでも買って日本一周でも…」 と思っても、キャンプやキャンピングカー旅行の方法がライフスタイルとして身についていないと、すぐにはできません。

 およそ40年間、仕事に明け暮れしてきたサラリーマンが、いきなり放り出されて、「明日から自由時間を楽しんで」 と言われても、何をどう遊んだらいいのか分からない…というのが実状ではないでしょうか。

 やはり、子どもの頃から継続して野外で過ごす時間を持たない限りは、ライフスタイルとして具現化できないと思います。

日本のキャンプ場風景2

 しかし、よくよく考えてみれば、団塊の世代は、子どもの頃の遊びといえば野山でした。
 田んぼにドジョウを捕りに行ったり、竹馬を作ったり、笹の葉で舟を作って川に浮かべたり…。そんな経験をたくさん持っている人が多いですね。

 また、キャンプもアウトドアにも縁のないサラリーマン時代を過ごしていた中高年も、学生の頃は黄色い三角テントで、林間学校や臨海学校を体験しています。
 パソコンゲームや携帯電話もない時代、レクリェーションの王道はハイキングや飯盒炊飯 (はんごうすいはん)、そしてキャンプでした。

 そこで、例えば孫を連れてキャンピングカーで郊外に行く。そして、おもちゃもテレビゲームもないような場所で、孫をどう楽しませるかを考える。そのような提案を秘めた 「三世代でアウトドアライフを楽しませる」 という発想もRV業界には必要でしょう。

 自分が楽しむことに関しては途方にくれる中高年は多いのですが、青春時代の野外経験を生かして孫を遊ばせるとなると、また違ってくるのでは、と思います。

《 まとめ 》

 最後になりましたが、これからのRVやアウトドアズの普及は、私たち日本人の生き方、言い換えるならライフデザインを抜きに考えることはできません。
 と同時に、時代を担う子どもたちの教育をどうするのか、という視点も大変重要です。

九頭竜湖のキャンプ場

 これまでは、生活者の後追い的なマーケティングに終始していたきらいもなきにしもあらずです。
 生活者をマーケティングで追っていけば、中高年ばかりになってしまって、先が不透明になってきた、というのが実感です。

 米国のアウトドアアクティビティの人口構成は、各年代ともフラットです。
 それに比べてこの国の状況は、若者たちほど構成人口が減少しているという、憂慮すべき状態です。これでは、明日がありません。

 足元のビジネスとして、中高年にフォーカスを定めることは当然として、同時に子どもたちをアウトドアに連れ出す、自然で遊ばせるといった、志の高いスキームも考える必要があります。
 と同時に、この国の観光施策なども研究しながら、国や地方自治体、関係諸機関にも提言や提案をしていくことも、大変重要であると思います。

(終わり)

 前の記事 「日本のアウトドアの考察 1」


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:24 | コメント(6)| トラックバック(0)

アウトドア考察1

《 日本のアウトドアの考察 1 》

 「外部の声を聞く」 ということは、どんな企業にとっても組織にとっても大事なことだろう。
 百戦錬磨の専門家が集まった集団でも、固定されたメンバーだけで物事を運営していくには限界がある。
 時にみんなの考えが行き詰まり、発展性を失ってしまうことはよくあることだ。

 そんなとき、日頃自分たちが考えもしなかったような視点からアドバイスを与えてくれる 「外部の声」 は、発想の行き詰まりを打開してくれる大きな力となる。

 日本RV協会 (JRVA) さんには、そのような 「外部の声」 を聞く場として 『キャンピングカーを考える会』 というものがある。
 昨年の秋に発足してから、3回の会議が開かれた。

 会の構成はテーマに応じて臨機応変。
 一人の講師をお招きして、講演会のような形を採ることもあれば、数人のゲストを交えて、意見交換会という形を採ることもある。

 テーマは毎回異なるが、RV協会以外の方々に 「日本のキャンピングカー産業をどう見ているか」 を尋ね、キャンピングカー文化やアウトドア文化をどう育成するかということに関して意見を求めるという基本姿勢は一貫している。

 幸い、私はこの 『キャンピングカーを考える会』 の1回目から傍聴させてもらっている。
 先の1月16日 (金曜日) に開かれた会では、アウトドア・ジャーナリストの中村達 (なかむら・とおる) さんの講演を聞くことができた。

中村達氏001
▲ 中村達 氏

 その講演録のまとめをお手伝いさせてもらった関係上、中村さんとRV協会さんのご承諾を得て、協会内部の事業でありながら、講演内容の一部をこのブログにて公開するご許可をいただいた。

 以下、中村さんが行われた講演の抜粋をご紹介する。
 あくまでも 「キャンピングカー業界への提言」 という形を採ったものだが、広くアウトドア産業やアウトドア文化の興隆に関心を示す方々には得がたいアドバイスに溢れているものと確信する。

大野路キャンプ場風景01

【キャンピングカー業界への提案】

 中村達 (なかむら・とおる) 氏のプロフィール
・1949年生まれ 滋賀県湖南市在住
・株式会社 ネーチャーインテリジェンス代表取締役
・アウトドアアナリスト&コンセプター
・アウトドアジャーナリスト


《 日本のアウトドアズは今どうなっているのか 》

 日本の地勢というのは、国土の68パーセントが山 (森林) なんですね。フィンランドについで2番目に広い森林面積があるわけです。自然が破壊されたといわれながらも、日本の自然というものはとても豊かです。

 しかし、日本人はこのような自然資源を生かしているかというと、残念ながらそうではない。
 日本には言葉だけ 「アウトドア」 というものがありますが、そのアウトドアが実はなかなか広がっていかないし、定着しない。

 日本のアウトドアマーケットというのは、メーカー出荷額でだいたい1,200億円ぐらいだといわれています。その大半はナベ、カマ、ヤカン、登山靴、ウェアなどが中心となっているのですが、こういうものが売れているといっても、実はライフスタイルとして根づいていないのです。

 確かに若者の間にアウトドアウェアは売れています。しかし、彼らはアウトドアには行っていないんですね。あくまでもそれを着て街を歩いているだけです。要するにカジュアルファッションですね。

 今の若者たちの 「クルマ離れ」 がよく話題になりますが、若者たちの間には 「自然離れ」 も進行しています。

 たとえば、かつて若者に人気のあった登山。山に向かう若者は大きく減少しています。
 大学の山岳部あるいは、ワンダーフォーゲルといったクラブ活動は停滞していて、まさに 「開店休業」 状態です。
 かつて登山の名門といわれた大学の山岳部でも、今や新入部員は1人か2人。
 笑い話のようですが、そのトラの子の新人が辞めないように、先輩たちはその新人に軽い荷物を背負わすなど、腫れ物にさわるような扱いをしています。

増田対談06山の景色

 同じように、15年ほど前は空前のブームを巻き起こしていたスキーも、凋落の一途をたどっています。
 例えば、最盛期のスキー板の流通量は、200数十万台を記録していました。しかし、今年は30万台を切るのではないかといわれています。この14~15年で10分の1近くに落ちているわけです。

 一方で、若者の間にスノーボードが広まって、一時はこれが若者たちの新しいウィンタースポーツになると期待されていたのですが、今はそのスノーボードも減少の一途をたどっています。

雪景色1

 オートキャンプに関しても、「オートキャンプ白書」 などを見ると、最も盛んだった'98年には1,306万人のキャンプ人口を誇っていましたが、'07年度はその半分の720万人です。しかも、その中で20代のキャンプ人口は5.2パーセントしかおりません。

 このような状況を見ると、「クルマ」 と 「自然」 をコンセプトとしているキャンピングカーの場合、とてもゆゆしき事態が起こっているといえるのかもしれません。

《 中高年の登山ブームが消え去る日? 》

 このような若い世代を中心にアウトドア離れが進行している中で、唯一アウトドア・アクティビィティが活発なのは、中高年の山歩きですね。
 山歩きは、健康のため、仲間つくり、自己啓発、旅などの要素を満足させるのには、格好の行為です。歩くだけなら、だれにでも簡単にできるわけです。
 去年の夏、富士山に登った人たちの数が前年より20パーセント伸びて、24万人の登山客を記録しました。

 これは、メディアが自然遺産として採り上げたという効果が大きかったのですが、なんといっても日本人なら一度は登ってみたいのが富士山です。中高年の嗜好にフィットしたからだろうと思います。これには若い人たちも大勢登っています。

 しかし、問題があります。彼らは富士山に登った後、山歩きを継続するのかというと、そうではない。
 一度富士山に登ってしまえば、それで終わりなんですね。富士登山も観光的なアクティビティになっていて、一過性の感が強い。

 結局、「なぜ山に登るのか」 というアウトドア・アクティビィティを支えるフィロソフィー (哲学) が確立されていないのです。だから、メディアに採り上げられた 「富士山」 には登るけれど、登山一般に興味を持つわけではない。

 もちろん富士山以外の山々にも、中高年の方は登っています。東京の高雄山などは、今やシニア登山のメッカのようになっています。
 しかし、「山に登る」 あるいは 「自然に親しむ」 という基本的なフィロソフィーが根づいていないため、ブームが去れば、一気にしぼんでいく可能性があります。

 こうして見てくると、いまアウトドアズを支えているのは、山歩きを楽しむ中高年だけだという非常に寂しい現状が浮き彫りにされてきます。

 そうなると、この山歩きをしている中高年たちがリタイヤした後、日本のアウトドア文化やアウトドアマーケットはいったいどうなるのか。このままでは、何も残らないのではないかと心配しています。

 日本RV協会さんの出された 『キャンピングカー白書2008』 を読ませていただきました…非常によくまとまった白書であるとは思いましたけれど、結局、ここでレポートされている内容も、「中高年」 「温泉」 「道の駅」 という三つのキーワードに集約されるだけで、その後の展望が見えて来ない。
 この白書からも、今後 「中高年」 が抜けたらどうなるだろう…という先行き不透明性感が漂うことは否めません。

 アウトドアライフを楽しむ層が脆弱になってくれば、当然、用品などの開発力、そして購買力も落ちてきます。
 今月の末、アメリカのソルトレイクシティで、全米最大ともいわれるアウトドアショーがあります。

 そこには、アウトドアマーケットに商品を供給する用品メーカーがおよそ850社も出展します。そして世界各国から1万5,000人を超えるバイヤーたちが集まってきます。
 こういう大きなショーにもかかわらず、参加する日本企業は数えるほどしかない。

 これは今の日本には、世界に通用するアウトドアのブランド力を持っているところが少ないということなんですね。
 つまり、世界の人々の好奇心を集めるようなアウトドア文化が創造されていない。発信するものが少ない。自分たちの自己評価も低いし、海外からも評価されるようなものが少ない。それが、日本のアウトドア産業の現状だと思います。


《 海外でアウトドア活動が活発な理由 》

 では、世界のアウトドアシーンはどうなっているのでしょうか。まずアメリカです。
 アメリカという国は、今や金融不安を撒き散らした元凶の国として、かなり評判を落としていますが、この国で信用できると思えるものが、私の知っている限り、少なくとも二つあります。

 ひとつは、この国のアウトドアズ。
 もうひとつは、国立公園の保護活動です。
 特に、アメリカのアウトドアズというのは、非常にストロングです。コンテンツもしっかりしているし、哲学がある。そして、そのようなアウトドア哲学・思想によってアメリカの国立公園はしっかり守られています。

アメリカのアウトドア1

 アメリカ人というのは、幌馬車の時代から野外生活の伝統をつちかってきましたから、アウトドアズが思想にまで結実し、国家の基本理念のひとつとして確立されています。
 彼らは、人間が自然から学ぶべきことがいっぱいあるということを理解しています。

 だから、例えば両親が子どもを連れて、長期間バックパッキングなどをしている間は、学校に行かなくても親が、学校の代わりに教えることができます。

 つまり、アウトドアズも教育の一環であるということが広く認識されている。だから、彼らは、「学校の授業よりも自然の方が偉大な教師だ」 とはっきりと言います。

 こういう国ですから、アメリカのアウトドア人口というのは1億6,000万人に達します。
 そういう厚みを持った層が形成されてこそ、初めて 「マーケット」 といえるものが成立するわけですね。
 彼らのアウトドアマーケットというのは、アウトドアズを 「教育」 の中にしっかり位置づけ、国をあげて取り組むという姿勢から生まれてきたといえるでしょう。

 もうひとつ、フランスの例を見てみます。
 ご存知のように、フランスという国は非常にバカンスが盛んです。夏などは多くの人がロングバケーションを取って、アウトドアズを楽しみます。
 しかし、これは自然発生的にそうなったわけではないんですね。実は、しっかりした制度がそういうバカンスを支えています。

 フランスには国民の余暇活動を支援するための、いわば 「指導者」 を育成する制度があります。

 この指導者たちを 「アニマトゥール」 といいます。その多くは17歳から25歳くらいの青年で、およそ100時間くらいのトレーニングを受けてアニマトゥールの資格を取得し、子どもたちにアウトドアの手ほどきをします。フランスでは、このアニマトゥールが毎年4万人くらい誕生するといわれています。

 夏になると、彼らは1週間から1ヶ月ぐらいのサマーキャンプに子どもたちを連れ出し、さまざまなアウトドアズの指導を行っています。

 そして子どもたちがサマーキャンプに行っている間、夫婦水入らずの旅行を楽しみたい親たちは、自分たちだけの長距離旅行に出かける。
 このように、フランス人たちのバカンスというものは、実は国家が整えたシステムによって実現されているわけです。

 フランス革命の頃から、政治の世界においてはヨーロッパ随一の先進国であったフランスは、国民の余暇に関しても先見性があったんです。

 要するに、国民の “自由時間” を国家がコントロールして、「余暇」 という分野で産業を創出し、雇用を発生させることに早くから成功していました。
 彼らのロングバケーションというのは、このようなしっかりした、社会的基盤の上に形成されているわけです。

(次回へ続く)

 ※ 次回は、このような諸外国の動きをにらみながら、日本の政府や行政がどのような対応を開始したか。また、そのような行政側の動きに対して、キャンピングカー業界、アウトドア業界はどういう反応を示せばいいのかということをお届けします。

 続き 「日本のアウトドアの考察 2」



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 13:38 | コメント(0)| トラックバック(0)

犬はパートナー

 「ペット」 というと、まず犬か猫。
 その次が金魚、小鳥。
 ときどきウサギかブタ。

 最近はヘビ、トカゲという、首がニュルッと回る系も増えているようだけど、そういうのは逃げ出した時が大変そうに思える。

 飼っていたヘビが隣りの家に逃げ込んだとしても、まず、無事に返してもらえるかどうか。
 フトン叩きでめっちゃくちゃに叩かれ、哀れ、きしめん状になっていそうな気もする。

 ワニなんかお風呂場で飼おうものなら、飼い主はいつお風呂に入るのよ? って感じになるだろうし…。

 やっぱ無難なのは犬・猫のたぐい。
 ペットのキング格は 「犬」 で、「猫」 がクィーン格という基本は揺るがない。

 キャンピングカーユーザーはけっこうペットが好きだ。
 旅行するときに、ペット連れで泊まれるホテルや旅館が少ないということで、キャンピングカーを購入する人もいる。

塔の岩クッキー2

 キャンプ場などに宿泊したとき、隣のサイトもキャンピングカーだった場合、お互いにペットがいれば、まずペットの話から交流が始まる。

 そして仲良くなって、お互いがそれぞれのペットの居場所を覗かせてもらうことになるのだが、多くの場合、人間より立派なスペースをもらっていることが多い。

 高級輸入キャンピングカーを販売しているお店で、こんな話を聞いたことがある。

 「冬はペットが可哀想だからということで、床暖房のクルマを購入されたお客様もいらっしゃいました」

 う~む…。うらやましいペットだ。
 そのペットがどんな動物かは聞き漏らしたが、温かい部屋を好む生き物となれば、ペンギン、シロクマのたぐいでなさそうだ。

 ということからも想像できるとおり、キャンピングカーユーザーのペット普及率は、一般的な所帯に比べると、若干高めである。
 日本人家庭の平均的ペット保有率は 30.1パーセントだが、キャンピングカーユーザーの場合は 38.3パーセント (キャンピングカー白書2008) だそうな。

 また、ユーザーの年齢が上がってくるに従ってペット普及率も増える。
 『オートキャンプ白書』 によると、キャンパー全体のペット保有率は 21.4パーセントにとどまるが、50歳代だけ取り出してみると、その保有率は 44.3パーセントに上昇。さらに60歳代では 50.0パーセントに跳ね上がるのだそうだ。

 子育てを終え、キャンピングカーで夫婦2人の旅を楽しむような人たちにとっては、ペットは子供の “替わり” なのだろう。

 ところで、犬と猫のペット比率はどちらが高いのか?

野良猫

 ペットフード工業会が2007年に調査した 「犬猫飼育率調査」 によると、犬を飼っている所帯率は 18.9パーセント。
 猫の所帯率は 11.2パーセントで、やはり犬の方がちょっと高い。

 犬を飼う人々は日増しに増え続け、2,000年に1,000万頭だった犬は、2007年には 1,250万頭に達したという。
 日本では、人間が少子化に向かっているというのに、犬の躍進は目覚ましい。

 犬には、人間の幼児の2~3歳程度の知能があるらしいので、そのうち犬を労働資源として活用しようという動きが活発化するかもしれない。

 すでに 「介護犬」 として訓練されている犬がいっぱいいるから、次に養成されるのは 「買い物犬」 だろう。

 高齢化社会が到来して、飼い主たちの体が思うように動かなくなってくると、日本全国のスーパーやコンビニは、「ネギ」 「醤油」 などというメモを首輪のところに挟み、買い物袋を首から垂らした犬たちで溢れかえることが予想される。

 もっとも、専門家の見方によると、注文主の頼んだ商品がそのまま家まで満足に届けられる確率は、期待できる数値に届かないという。
 「トンカツ」 「コロッケ」 などを買って帰る犬たちのうち、はたして何頭が、途中で味見したくなる誘惑を抑えて飼い主のところまで食料品を届けられるか。
 彼らの “克己心” との勝負となる。

 これからの時代は、犬も、おのれの欲望に負けない心の鍛錬を積んでいかないと、生きづらい世の中になっていくのかもしれない。

 ところで、彼ら犬たちは、人間社会をどう見ているのだろう。

 九州でキャンピングカービルダーを営まれている池田健一さんから、犬をテーマにした最新エッセイが送られてきた。
 そこには、犬の気持ちを知る上で、とても参考になる面白い考察が載せられている。

 犬が飼い主を見つめるとき、その目に何が映っているのか。
 彼らの精神は、何によって支えられているのか。

 それを説き起こした名エッセイ 『答は風の中 39話 犬は人のパートナー』 。

 とても面白いです!
 まずご一読を (↓) 。
  http://www.campingcar-guide.com/kaze/039/

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:04 | コメント(2)| トラックバック(0)

不況時代のRV

 「クルマが売れない」 と言われる時代。
 しかも、“百年に一度” といわれる大不況。
 キャンピングカー (RV) を販売している会社の経営者たちは、どんな気持ちでいるのだろうか。

 大手キャンピングカー販売店 「キャンピングカーランド」 の社長を務める増田英樹さん (前 日本RV協会会長・レクビィ会長) とお会いする機会があったので、雑談かたがた、この不況時代をどう見ているのかというお話をうかがってみた。

キャンピングカーランド増田氏001

《 キャンピングカーは生き延びられるか 》

【町田】 いま “百年に一度” の大不況といわれ、しかも自動車販売がかつてないほど冷え込んでしまっているわけですね。
 そうなると、「キャンピングカーなんか遊びのクルマだから、さらに売れないだろう」 と予測する人々も出てきそうですが、ずばりどう思われますか?

【増田】 今その話をうちの社員などにすると、みんなしぼんじゃうので、僕はあまりそういう話は、社員の前ではしないんですよ。
 僕が話さなくても時代の厳しさなんてニュースを見ていれば分かるだろうし、社長が朝礼を開いて、「さぁ、厳しい時代を乗り切るためには身を引き締めて…」 なんて演説ぶち始めたら、みんな凍りついちゃうと思うのね。

【町田】 じゃ社員の方々にはどういう指示を?
【増田】 この前、全員会議をやったんですけど、そのときどういう話をしたかというとね、
 「僕は25年商売をやってきて、バブルも経験したし、バブルの崩壊も経験した。残念ながらバブルには乗れずに儲からなかったが、代わりにバブルが弾けても崩れもしなかった。
 ここ数年、世の中は再び好景気に沸いた。それが第二のバブルだとしたら、それが崩れても、この業界は心配ないんだ」 と。
 もちろん、これだけ景気が悪化したら、どんな業界でも苦しいことには変わりなくて、われわれの販売も相当苦戦を強いられることは間違いないけれど、それでもキャンピングカーは、ピンチをチャンスに変える可能性を持っていると思うんですよ。

【町田】 具体的には、どういうことですか?
【増田】 キャンピングカーって、「物」 じゃないんですよ。「物」 として扱ってしまうと、「じゃ、要らないから手放そう」 となってしまう。
 しかし、キャンピングカーは 「物」 ではなくて、「価値」 なのね。価値である限り、人間は手放すことができない。
 つまり、人間にこれからの時代をどう生きたらいいのか。それを提案してくれる商品だろうし、人間関係が壊れていきそうな社会の中で 「人のつながり」 、「家族の温かみ」 を約束してくれるクルマだろうと思っているんですよ。

増田対談01室内

《 不況は地球の命を延ばした? 》

【町田】 「これからの時代をどう生きたらいいのか」 という課題に対し、キャンピングカーが教えてくれるものって何でしょう?
【増田】 今の世界的な不況をどう捉えるか、という問題と関連するんですけれど、従来どおり 「経済成長」 を目的とする視点で見てしまうと、とんでもないマイナスですよね。 
 しかし、地球温暖化を促進する二酸化炭素 (CO2) の排出を抑制することに視点を合わせると、違った見え方も出てくるでしょ。
 二酸化炭素の排出量を少なくする、…いわゆる 「低炭素社会」 ですよね。いつかは、人類はそういう社会を目指さねばならないのだし、限られた石油資源を大切に扱い、かつ石油に替わるエネルギー資源の開発速度を早めるためにもね、今回の “世界不況” は、意味のないことではない、と思っているんですよ。

増田対談06山の景色

【町田】 確かに、企業はモノが売れないことで悩みもがいて、メーカーは減産につぐ減産を行ってきているけれど、その分 「低炭素化」 は進み、資源も温存された…と。
 皮肉だけれど、どちらが人間にとっていいのか、判断のむずかしいところですね。
【増田】 もちろん、低炭素化社会の実現と産業の振興というのは、国家や企業が真剣に取り組む問題でしょうけれど、僕ら消費者だって、日常生活のなかでそういう問題を考える必要があるよね。
 そういうことはキャンピングカーから学べる。

【町田】 なるほど! キャンピングカーって 「贅沢なクルマ」 だと思われがちですけれど、使ってみると分かるんですが、あれほど 「無駄を省け!」 とやかましく訴えてくるクルマって、他にないですものね。
 タンクに積んだ水だって無尽蔵ではない。だから歯を磨きながら、蛇口を閉める。
 電気を使うときも、常にバッテリーの状況をチェックしなければならないし、ガスだっていつも充填を意識していなければならない。
 ホントにキャンピングカーは、低炭素社会を生き抜くときのいい 「教材」 になりますね。

増田対談02パタゴニア室内

《 リユースとリフォームの時代 》

【増田】 でしょ。…それに、キャンピングカーそのものが、「使い捨て」 ではなくて、「リユース」 を促進するような特徴を持っているんですね。
 キャンピングカーって、1台のサイクルがだいたい10年~15年ぐらいだと言われているんですよ。走るよりも滞在型のクルマなので、走行距離がそんなに伸びない。
 そのため駆動系の傷みが遅い。
 だから、家具のニスを塗り直すとか、シートや壁を張り替えるという作業を加えれば、長く乗り続けることができるんですね。
 もちろん、新車が売れてくれた方が僕らにとってはありがたいけれど、乗用車メーカーのように、毎日ラインに乗って何千台と出荷される商品ではないので、在庫調整の幅を持てる。
 また、乗用車メーカーさんにはできないけれど、僕らは、ユーザーさんが今乗っているクルマの 「リフォーム部門」 を充実させるというビジネスモデルも構築できるしね。

キャンピングカーランド増田002

【町田】 確かに、リユース、リフォームという考え方は大事ですよね。今まではあまりにも 「使い捨て文化」 が蔓延し過ぎていましたものね。
【増田】 そう。たとえば、トースターとか電子レンジ、冷蔵庫のような一般的な家電だって、まだ十分使えるにもかかわらず、どんどん使い捨てにして、新しい製品に買い替えてきたわけですよね。
 今は、そういう消費構造を問い直すいい時期だと思うんですよ。

【町田】 いつ頃からか、自動車も家電も、ちょっと不具合が出るとアッセンブリー交換が主流になっていましたものね。
【増田】 そうですね。…結局、人件費が高くなっちゃったからでしょうね。修理するとなると、専門家が出向いて、時間をかけて調べて、不具合なパーツを取り出して交換する。
 それだと、ものすごく無駄な時間と労力が生まれる。
 …というわけで、ユニットごと交換しちゃえば安いし楽だ、という発想が生まれてきたわけですね。
 だけど、それって 「100のパーツの中の一つがダメになっただけで、正常に機能している残りの99を捨ててしまう」 ということになるわけでしょ。
【町田】 すごい資源の無駄使いですよね。

増田対談田舎の景色

【増田】 幸いキャンピングカーはほとんど手作り商品なので、ブラックボックスのようなものがないんですよ。だから修理するときも、それほど無駄なものが出ない。
【町田】 構造的にも 「低炭素社会」 に適合する商品というわけですね。

《 豊かな社会を実現した江戸時代 》

【増田】 結局、働き過ぎて余剰なものをつくり過ぎてしまい、その余剰なものをさばくために、さらに歯を食いしばって売らねばならない…という労働サイクルを見直す時期に来たんでしょうね。
 日本人は今は8時間労働が当たり前になって、さらにサービス残業などを繰り返して10時間を超える労働に勤しんでいますけれど、江戸時代に働いていた大工さんとか職人さんとかの労働時間というのは、だいだい4~5時間だといわれているんですよ。
 武士だって、3日に1日お城務めすれば、後は 「精神修養」 といって家で読書したり、「武芸の鍛錬」 とかいって、木刀振ってスポーツしているだけなんです。

江戸村風景1

【町田】 江戸時代の人々は、「何時になったから何をしよう」 という意識などもっていなかったといいますよね。
 ある意味、気ままに自分の時間を決めていた。
 確かに、生産性は低かったかもしれないけれど、精神性は豊かだったという見方ができますね。

【増田】 そうですよね。「江戸時代」 というと、今までは産業も文化もドロンと停滞していた時代だと思われがちでしたけれど、300年も平和が続いた国なんて、あの当時、世界のどこにもなかったわけで、そのおかげで、ものすごく文化的には洗練されたわけでしょ。
【町田】 浮世絵みたいに、世界のアートを刺激するほどの文化が生まれたのも、平和が続いたことで、庶民の審美眼が研ぎ澄まされたことの結果ですものね。

増田対談浮世絵1

【増田】 生け花、茶道、剣道。今にも残る日本文化というのは、みなあの時代に熟成したものだもんね。
 今 「持続できる社会」 という意味で、「ロハス」 という言葉を使いたがるけれど、江戸時代の方がよっぽどロハスですよ。
 日本は、西洋が産業革命に振り回されていた時代に、すでに 「低炭素社会」 を実現していたのね。

《 若者のクルマ離れの意味 》

【町田】 で、今回の世界的な大不況は、日本人がそういうことを思い浮かべるいいチャンスになると?
【増田】 これからは1日4時間しか働かないとか、給料が20万だったら、そのうちの10万で生活していくとか。好むと好まざるにかかわらず、そういう生活に方向転換するように、神様がハンドルを切ったのではないかな。
 確かにこの大不況は、人々の生活に閉鎖感も不安感ももたらしたけれど、一方では確実に、低酸素社会の実現に結びついたわけでしょ。
 結果的にこの大不況は、地球破壊を2割ぐらいほど押し止めることになったように思うんですね。

イチョウ並木

【町田】 そういうふうに考えると、「若者のクルマ離れ」 とか 「モノを買わない若者」 というのも意味があることなのかしら?
【増田】 「物さえあれば豊かな人生を送れる」 という考え方が必ずしも正しくないことに、今の若い子たちは気づいたのかもしれないね。
 たとえばね、若い子に 「これあげようか」 と言っても、今の子たちはものすごくシビアな価値観を持っていて、自分にとって必要のないものは、はっきり 「要らない」 っていうんですよ。
 極端な話 「クルマをあげようか」 といっても、自分が乗らないと分かっていれば、「いいです」 と断ってくるのね。
 彼らの物質欲の乏しさには驚かされるばかり。
 団塊の世代といわれる僕たちの方が、まだモノやカネに対する執着心って強いよね。

増田対談朝焼け

【町田】 無意識のうちに、彼らは 「低炭素社会」 の到来に向けて準備していると?
【増田】 本当にそうかもしれないと思うことがあるんですよ。
 明治のはじめに3千万人ぐらいだった日本の人口が、たった100年の間に1億人増えて、今では1億3千万人になったわけでしょ。
 日本だけでなく、中国もロシアもこの100年のうちに、石油エネルギーを使って、二酸化炭素を放出する人々の数を何倍も増やしてしまったわけですね。
 こういう地球が持つわけないんでね。
 だから、日本の若者の物質欲が薄れてきたり、さらに世界に率先して少子化になってきたりという現象は、むしろ人類が生き延びるための智恵だったりするのかもしれない。

【町田】 少子化を 「滅びへの第一歩」 と捉える人の方が多いですけどね。
【増田】 だけど、生命の遺伝子情報には、すべて 「生きのびよ」 という “盲目的な意志” が書き込まれているわけだから、少子化といったって、それは 「人類」 が滅亡するためのシナリオとは限らないじゃないですか。
 むしろ生き延びるためには、「少子化」 という選択肢も必要だということなのかもしれない。
 とにかく、これからの社会では、今までプラスが当たり前と思われていたものの多くがマイナスに転じていくことを覚悟しなければならないでしょうね。
 人口も減る。所得も減る。お父ちゃんの小づかいも減る。マグロも食べられなくなるとかね (笑) 。

《 文化にお金を払う時代 》

【町田】 そのマイナスを 「苦痛」 だと思ってはいけないと…。
【増田】 そう。経済成長が全体的に鈍化したとしても、文化的な産業は伸びる可能性があるわけで、江戸時代の人々はそれを実践していたわけでしょ。
 彼らは不動産や株に投資しなくても、歌舞伎の観賞や祭りにはふんだんにお金を使っていたわけで、「粋」 っていう精神構造はそこから生まれてきたんだものね。

写楽1

【町田】 そうですよね。これからは 「何にお金を使うか」 ということで、その人の価値観とか存在感が問われるようになるんでしょうね。
【増田】 だから 「キャンピングカーの出番」 なんですよ。
 なんたって、キャンピングカーのメインコンセプトは、「自然の中でゆっくりくつろぐ」 ところにあるわけでしょ。
 そういう自然に親しむ生活の中から、低炭素社会へ向かう筋道が思い浮かんでくるわけですよね。
 この前、アウトドア・ジャーナリストの中村達 (とおる) さんという方の講義を受けたんですけれど、その人が言うには、「自然を大事にする」 とか 「自然に親しむ」 というのは、もう子供のときの教育がすべてなんだってね。

増田対談喜連川

【町田】 分かりますね。キャンプ好きのお父さんの子供は、キャンプ好きになる。
【増田】 僕だって、キャンピングカーの仕事に携わるようになったのは、子供の頃にボーイスカウトに入って、自然と親しんできたからなんですよ。
 結局 「木々の緑は美しいよね」 というような審美眼は、親が子供に実物の木々を指差すことによって形成されるんですね。
 …ということはね、もうキャンピングカーって 「文化」 なんですよ。子供の感受性を刺激するための教育装置なのね。

【町田】 大人同士だって、生まれ変わりますよね。シニア夫婦だってキャンピングカーに乗って、山の温泉やキャンプ場に行って、心ゆくまで自然を楽しんだりすれば、お互いが相手を 「かけがいのない者」 として見直すことができるようになりますよね。
【増田】 夫婦の絆を生む 「装置」 ね。まさに 「文化」 とはそういうことをいうんだろうね。

 関連記事 「江戸再発見とRV」

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:48 | コメント(4)| トラックバック(0)

世界のRV事情

 今日は泊り込みになっちゃいました。
 今、世界のキャンピングカーの情報を集める仕事をしているのですが、その締め切りが今週いっぱい。
 ちょっと追い込みです。

 昼間、それに使う写真を借りるために、ヨーロッパのキャンプ事情に詳しい人に会って、いろいろ話を聞いていたところですが、いやぁ、国が違えばキャンプ事情も違う。

 パリ郊外にある 「ブーローニュの森キャンプ場」 というところでは、ゲートから5分ほど歩くと地下鉄の駅があって、それに乗って2駅か3駅目で降りると、もうあの有名な凱旋門だとか。

 そのキャンプ場に泊まっている人たちは、自分のキャンピングカーの中でちょっと洒落たスーツかなんかに着替えて、夜はオペラ座なんぞにオペラ鑑賞に出かけるそうです。

 都市型のキャンプ場がない日本では、ちょっと信じられないようなシチュエーションですね。

 昨年、私が経験したラスベガスのRVパークもそれに近い感じでした。

KOARVパーク1

 なにしろ、ネオン輝くビルに囲まれたキャンプ場で、そこにモーターホームを停めた宿泊客は、みなシャトルバスかモノレールを使い、街のカジノまで遊びに行きます。
 だから、夜はシーンとした、ただの駐車場。
 オーニングやタープの下で宴会が盛り上がる日本のキャンプ場とは大違いですね。
 
 …ってなブログ原稿を、片っ方のパソコンで仕事の画面を開きつつ、もう一つのパソコンで書いています。

 夜はまだ早い。
 明け方まで一踏ん張り。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:22 | コメント(2)| トラックバック(0)

母とのキャンプ

 ひとつ心残りがあるとしたら、母をキャンピングカーの旅に連れて行ったことが、たった1回しかなかったことだ。

ギャラクシーと母4

 最初のキャンピングカーを買った頃、仕事が忙しくて休日も滅多に取れない時代だったから、たまに休みが取れると、まず 「カミさんと子ども」 という組み合わせになる。
 “お祖母さんも一緒” となると、行く場所も、キャンプスタイルも大幅に変る。
 
 当時、母は腸を手術して人工肛門を付けていたから、ケアする医療器具も必要となり、連泊もできない。
 本人もそれを知っていたから、
 「いいよ、いいよ。私はまたの日でいいから」
 と、自分が負担になるのを嫌って、誘いにも応じなかった。

 正直にいうと、それでホッとしたようなところもあった。
 カミさんと子どもだけのキャンプなら気軽だけど、母が一緒となると、家族全員が気をつかう大掛かりなイベントになりそうな気がしたからだ。

 しかし、さすがにそれじゃ可哀想と思い、ある日、カミさん・子ども抜きで、母だけ乗せて日帰りキャンプを試みた。

 彼女は、キャンプというものがどんなものか知らない。
 当日迎えに行くと、芝居でも観劇するときのようなピンクのワンピースを着て待っていた。

 高速道路を使って2時間程度の近場のキャンプ場を選び、芝生のフリーサイトの上にキャンピングカーを止め、オーニングの下に椅子とテーブルを広げ、ささやかながらキャンプの真似事をした。

ギャラクシーと母1

 たぶん、母にとっては初めての “アウトドア” だったろう。
 「いいねぇ、ありがたいね。こんな景色のところで過ごせるなんて」

 あいにくの曇り日だったが、芝生の緑が連なる光景が、彼女の目をなごませたのだろう。
 なんだか、後ろめたい気分になった。
 カミさんと子どもだけで、そういう風景を独占していたことに、申し訳ない気がした。

 パーコレーターを使って、コーヒーを煎れた。
 車内のコンロでお湯を沸かせたが、わざわざ2バーナーを持ち出し、盛大に火を焚いた。
 できるだけ、キャンプの雰囲気というものを伝えてやりたかったのだ。

ギャラクシーと母2

 一緒に座って、コーヒーを飲んでも、ことさら話す話題というものもない。
 それでも、母はうれしそうにマグカップを支え、コーヒーをすすり、周りの景色を眺めていた。
 
 「年取るとね、物がつかめないんだよ。指先の感覚がね、厚い手袋をはめている感じでね…」

 大事そうにカップを抱え込んだのは、そういう事情からなのだろう。
 もっと早く連れてきてやれば良かったな…。
 そう思った。

 座っているのに飽きたのか、母がキャンピングカーの周りを歩き始めた。
 その背中が次第に遠ざかっていく。
 花でも探しているようだ。

 心は少女時代に戻っていたのかもしれない。 
 芝生の緑に映えて、ピンクのワンピースそのものが、花に見えた。

ギャラクシーと母3

 その母が死んで、今年でちょうど10年になる。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:38 | コメント(20)| トラックバック(0)

まち散歩 2

 今日の 「まち散歩」 は横浜です。

 東京・渋谷駅で東横線の切符を買い、「元町・中華街」 まで出てきました。

 で、駅から降りて見上げた景色がこんな感じ。
 はて…ジェットコースター (↓) でしょうか?

みなとみらい56

 きっと真っ直ぐな塔を建てようと思っているうちに、ぐにゃぐにゃと曲がってこんがらがってしまい、解くのがややっこしくなって、そのまま放置されてしまったのでしょう。
 それにしてもこのオブジェ。どこか 『エイリアン1』 をデザインしたシド・ミード風。

 こっち (↓) は宇宙探検の前線基地?

みなとみらい5111

 ここら辺の風景は、まさにSF映画に出てくる未来都市そのまんまです。
 そのため、この町は 「みなとみらい」 と名付けられました。
 “皆と未来を共有する” という願いを込めて作られたネーミングです。

みなとみらい69

 ジェットコースターのある広場から、ちょっとビルの中に入ってみます。

 カミさんがトイレに行っている間に、靴を眺めました。

 最近の若者が履く靴は、なんでこんなに先が尖っているのだろう?
 満員電車の中で、つま先を踏まれる率だって高くなるだろうに…。

みなとみらい靴屋
 
 要らぬ心配をしてしまう老人の私です。
 ちなみに、私の履いている靴は、ドナルドダックの足のように、つま先が広がっています。
 転がってきた100円玉を素早く見つけ、パッと足で踏んで隠してしまえるので、つま先は広い方が得です。

自分の丸靴

 これ (↓) は、同じビルの中にあったブーツ屋さんです。
 白い棚に黒のブーツを並べ、コントラストの妙を狙ったディスプレイです。
 ちょっと80年代っぽい。
 あの頃のデザイナーズブランドって白・黒が基調でしたよね。

みなとみらいブーツ屋

 ビルの外に出てみると、池の中にぽっかり帆船が浮かんでおりました。
 「日本丸」 (↓) です。
 石油燃料が枯渇する21世紀の後半を見据え、再び帆船の時代がくるかもしれない…ということを見越して開発されたものです。

みなとみらい日本丸

 突如、(↓) 海の底から浮上したマッコウクジラ 。
 もしかしたら、水の上に映ったビルの影かもしれません。

みなとみらいビルの水の影

 こうして眺めると、(↓) 「みなとみらい」 は、海上に浮かんだ街であることが分かります。
 蜃気楼の街。幻想の街
 大津波に襲われたら、2階ぐらいまで浸かる街。

みなとみらい遠景

 赤レンガ倉庫 (↓) まで歩いてきました。

赤レンガ倉庫

 ちょっとした “ヨーロッパ” でんがな。
 フェルメールあたりが描きそうな、ネーデルランドの街並が再現されています。
 本物のレンガだから迫力が違いますね。

 横浜には、一瞬だけ外国旅行を味わったような気分になる風景がいっぱいあります。
 あちらこちらに、珍しいものが何の脈絡もなく溢れかえって、大にぎわい。
 まさに、海外旅行の 「100円ショップ」 という感覚ですね。

 そういう 「ワンコイン・トリップ」 という意味では、この 「横浜税関」 (↓) のたたずまいもエキゾチック。
 建物のてっぺんにモスクを思わせる塔が立っていて、夕空に浮かぶシルエットは 『飛んでイスタンブール』 。
 ……そんな歌ありましたよね、昔。

横浜税関

 山下公園の手前まで歩くと、まだかすかに昔の 「さびしい横浜」 が残っております。
 コンクリート打ちっ放しの殺風景な岩壁。
 主 (あるじ) のいない独りぼっちのボート。
 黄昏 (たそがれ) の中に沈もうとするYOKOHAHA BAY。

横浜ベイ岸壁
 
 そして、どこからか流れてくる 『My Fanny Valentine』 ならぬ、ジェロ君の 『海雪』 。

 こんな景色を見ながらの演歌は身にしみます。
 酒は熱燗ね。カシラ2本、塩で。
 …なんて言葉が、思わず喉まで出かかっちゃいそうです。

 ついに山下公園 (↓) まで踏破。

横浜山下公園

 氷川丸にライトが灯り、ベンチに座った恋人たちが、互いに手を取りあってその明かりをうっとりと眺めています。
 ベンチは冷たいので、風邪など召しませぬように。

 さぁ、いよいよ散歩の終着駅。中華街。
 ひゃ、お祭りだぁ!

横浜中華街1

 何でしょう! このすさまじいほどに密集した明かり、明かり、明かり。
 中国漢字、日本語、英語がバコバコと弾け飛ぶ 「文字の花火大会」 。

横浜中華街門

 チンパンジーがバンバンジーを食べて、バンジージャンプを繰り返しているような街。
 やっぱ中華街はシュールだ!
 正月にテレビで見た 『イノセンス』 のアニメを思い出しました。

イノセンス中華カーニバル

 エビチリソース、シュウマイ、ライス、杏仁豆腐がセットになって900円というディナーを食べ、肉饅頭10個入り800円のお土産を買って帰りました。

中華街料理

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 00:13 | コメント(6)| トラックバック(0)

まち散歩

 今日は、私が住んでいる町をご紹介いたします。

 じゃーん! (↓)

田園調布駅看板

 昔から、セレブがお住まいの土地として有名なこの町。
 私が住んでいる町…………なんですが、あまりゆっくり見物したことがないので、カミさんと散歩してみることにしました。
 地井武男さんの 『ちい散歩』 (テレビ朝日) ならぬ、町田の 『まち散歩』 です。

駅前風景1

 で、この町。
 駅前からすでに洒落ていますねぇ。
 駅を背にして小さなロータリーに立ってみると、あの有名な並木道が放射上に広がっている独特の風景が展開していました。

並木道14

 木の枝がみな葉を落とし、その影が車道に長く伸びて…。
 ちょっと、『第三の男』 のラストシーンのような映像です。

 え、その映画ご存知ない?

 並木道には、お店がありません。
 店舗があるのは、ロータリーの一角だけ。
 しかも、ファーストフードのお店が数軒ほどという感じ。
 それもホント上品に、つつましやかに、遠慮がちにオープンしているだけです。

 並木道を歩いてみました。
 どのおうちも門構えが立派で、さすが 「高級住宅街」 の代名詞の町だけはある…と感心してしまいます。

並木道09

 でも、並木道の途中なんかに出てくる小じゃれたカフェで一休みをもくろんでいたカミさんは、不満そう。

 「なーんだ、住宅街なんだ」

 そうですよ。それが何か?

 これ (↓) が私の家です。
 今日は、この後プールの掃除です。
 カロリー消費のため、自分で掃除します。
 執事とメイドさんにはお休みを取らせているので、門も自分で開けなければなりません。

豪邸その1

 これ (↓) も私の2番目の家です。
 でも、これは裏門に過ぎません。

豪邸その2

 表門は、この裏門の反対側にあります。
 表門から母屋までは、120mの並木道が続いています。
 うっかり考え事をしながら歩いていたりすると、母屋を通り越して駅前まで出てしまいます。

 ここからは見えませんが、並木道の横には、わずか2000坪程度の “猫の額” のような芝生庭園があります。

 そこには、イタリア生活の長かった父の趣味で、大理石の噴水と、アフロディーテと、アポロンと、ヘルメスなどのローマ彫刻が置かれています。
 昨年の台風でヘルメスが倒れ、腕が欠けたので、今イタリアに新しい像をオーダー中です。

芝生の彫刻1

 芝生広場の裏にはヘリポートがあって、ときどきヘリで出社しています。
 今日はちょっとメンテナンス中で、ヘリは飛びません。

 ちなみに、地元では、みな私のことを 「マルチェロ」 と呼びます。
 若い頃のマルチェロ・マストロヤンニに似ているからだそうですが、自分ではあまりそう思ったことはありません。

マルチェロ・マストロヤンニ

 でも、モンテカルロのハーバーに預けているクルーザーでパーティを開いたとき、イタリア人の友達たちからもそう言われたことがあるので、どこかマストロヤンニ風の面影があるのかもしれません。

 …などとつぶやきながら歩いている私に対し、
 カミさんが振り向きざまにいった一言。
 
 「虚しくならない?」

 駅前に戻ってきて、ちょっとカフェで一休み。

駅前のカフェ02

 店内 (↓) です。

カフェの店内01

 明るくて、清潔で、お客様もみな上品。
 隣りに座ろうとした奥様が、テーブルとテーブルの間に体を入れるとき、
 「おほほ、ごめんあそばせ」
 と優雅な挨拶を寄こしてくれました。

 コーヒーと菓子パンです (↓) 。

カフェのコーヒーとパン

 菓子パンのお値段は一個350円!
 80円の太鼓焼きで満足している自分にとっては、もう高級スイーツのお値段です。

 でもメッチャうまい!
 特に、チョコレート板を埋め込んだパン (手前) の風味の豊かさには、目がぐるぐる回る思いでした。
 チョコレートの味がもう違うんだわ。ゴディバもメじゃねぇ。

 「やっぱ高い菓子パンは美味しい!」
 という悲しい真実に打ちのめされてしまいました。

 駅の反対側も覗いてみました。
 こちらはロータリー側とは逆に、商店街になっているようです。

 おや? 何の店だろう…。
 ちょっと古そうな屋号。

駅近くの食材屋さん

 中 (↓) に入ると、食材販売店でした。

食材屋さんの店内

 しかしカミさんは、その店の特異な能力をすぐに見破りました。

 「お菓子を作る材料がいっぱい揃っている!」
 というのです。
 パン作り用の強力粉とか、パン生地に折り込むチョコレートや香料のたぐいに、和菓子作り用の各種あん、大福粉、わらび粉、くず粉…。

 「しぼり出し袋の口金だけでも、こんなに揃えている店ってないわよ」
 とカミさんはいうのですが、シボリダシブクロノクチガネ…といわれても、意味が分からずじまいです。

 それにしても、駅のすぐそばの食材店が 「お菓子の材料屋」 さんとは…。

 きっとこの辺りに住むセレブのおうちでは、ケーキ作りや和菓子づくりが盛んなのでしょう。
 この町の子供たちにとっては、ご飯よりお菓子の方がリアリティのある食べ物なのかもしれませんね。

 チョコレートカレー
 アップルパイうどん
 シュークリーム丼

 先ほど食べた菓子パンの美味しさを思い出すと、この町の各家庭の食卓には、そんなメニューが並んでいても不思議ではないように思えてきました。

駅前23

 さて、今日は、昔から話題の素敵な町を散歩しました。

 日も西に傾いてきたので、それでは、「私の住んでる町」 にサヨナラです。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:50 | コメント(6)| トラックバック(0)

額の傷

 古いアルバムを整理していたら、20代の自分を写した写真が出てきてゾッとした。
 『仁義なき戦い』 じゃん。

黒シャツ白タイ

 これは、ちょうど組に属していた頃で、借金の取り立てなどをやっていた時代の写真だ。
 といっても、別にアコギなことをしていたわけじゃなく、逃げ回るタチの悪い債務者に、ちょっと社会の 「常識」 ってヤツを教えてやったに過ぎない。

 ……ってな話は真っ赤なウソで、交通事故をやってしまって、額に傷を負った時の写真だ。

 20代の半ばだったと思うが、交差点の右折レーンで、右折しようとしていたとき、直進車とモロにぶつかった。
 前にやっぱり右折車が1台いて、それがモタモタしているように思えたので、それより鼻をちょっと出し、前方を確認しようとした矢先だった。

 飛び込んでくる直進車のボンネットが、刻一刻と迫ってくるのが見える。
 不思議なもので、そういうときは、意外と “ゆったり” 時が流れる。

 時間にすると5~6秒だったろうけれど、その短い時間のうちに、いろいろなことを考えた。
 
 任意保険はまだ切れてないよな。
 過失割合は、3対7…いや、2対8ぐらいでこっちが悪いんだろうなぁ…。
 保険会社にすぐ電話しなきゃな…。
 俺ははっきりいってもうヤバイけど、相手も怪我したらどうなんだろ…。

 頭が高回転で回り始め、事故後の処理が次々と思い浮かんだ。

 で、ぶつかった衝撃で、フロントガラスを割って、頭が半分くらい外に飛び出した。

 当時は、まだシートベルトが法制化されていなかった時代。
 シートベルトの着用指導はなされていたが、しなくても罰則規定はなかった。
 で、ズボラでかつ生意気な自分は、そのシートベルトをしていなかった。

 交差点の真ん中で、お互いに鼻がめり込んだクルマが2台が立ち往生することになった。
 深夜だったので、交通量が少ないことだけが救いだった。

 急いで、ドアを開け、
 「大丈夫ですか?」
 と相手のドライバーのところに駆け寄った。

 が、前が見えないのである。
 生温い体液がどろどろ吹き出して、両目を覆ってしまうのだ。
 額からしたたり落ちる血だった。

 「こっちは大丈夫だから、あんた額の傷を…」
 と、相手のドライバーが逆に気づかってくれる。

 クルマを交差点から押し出して、歩道の脇に寄せ、警察と救急車を待った。
 額の流血が止まらない。

 放っておくと、血はヨーグルトのような粘着物に変わり、顔に付着したまま層をなしていく。
 それを手ではぎ取り、道路に投げ捨てる。

 そんなことを繰り返しながら、縁石に腰掛けて、救急車が来るまで煙草を吸った。
 煙草はたちまち赤く染まり、ひと口ふた口吸うと、すぐ火が消えた。

 この写真には、そのときの額の傷跡が写っている。
 20針縫った跡だ。

 ようやく収容された救急病院で、若いインターンの先生が、額の中に突き刺さったガラスの破片を、いくつもいくつも指でほじくり出してくれた。
 先生の手も血まみれになった。
 
 ある程度のガラスを取り出してから、止血のために縫った。
 その病院では、麻酔薬が切れていた。
 麻酔なしで縫うという。

 針が皮膚に突き刺さり、それをギュッとすくい上げて、皮膚と皮膚をつなぐ。
 その感覚が、すべてリアルに伝わってくる。
 針が刺さる瞬間も痛いけれど、糸を引っ張って縛るときの痛みの方が、何倍もきつかった。


 病院には10日ほど収容されてから、“出所した” 。
 会社に出ると、額の傷を見て、みんな声を飲んだ。

 通勤時間帯。ホームに立っていると、スゥーッと周りの人の引く気配がする。
 どうしてかな…と思って鏡を見ると、確かにアブナイ系の人間の面相になっている。

 どうせなら、ファッションもアブナイ系にするか。
 そう思って、黒シャツと白いネクタイを買った。
 先ほどのはそのときの写真だ。

 この格好で駅のホームに立つと、前よりさらに人の気配がサァッと遠のいていくのが分かった。

 こういう格好で電車に乗り、自分の前に立っている老人に席を譲ろうとすると、もうそれだけで、老人は何度も首を横に振り、必死になって遠慮する。

 いつもなら、「どうぞ」 とにこやかに声かけるのに、こういう時は、
 「おう」
 と、ぞんざいに席を立つ。
 むりやり座らされた老人も、生きた心地がしなかったかもしれない。

 悪趣味をさんざん楽しんだ20代半ばのことだった。

白スーツ黒シャツ
 ▲ こんな写真も同じアルバムから出てきた。芸人気取りだったようだ。
 しょうもねぇ20代だったと…今思う。



ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:35 | コメント(6)| トラックバック(0)

ヴェンチュラHwy

 旅の始まりに聞く曲は、いつも決まって 「ヴェンチュラ・ハイウェイ」 。
 もしかしたら、一番好きな曲かもしれません。
 もう30年以上前、「名前のない馬」 のヒットで知られる 「アメリカ」 という3人組バンドが、「ホームカミング」 というセカンドアルバムで発表した曲です。

ホームカミング

 「名前のない馬」 ほど知名度は高くありませんが、爽やかさという点ではこちらが上。
 どうやらこの曲を愛する (中高年?) ファンもけっこういるようで、伝説の名曲になっている気配もあります。

 とにかくイントロが素晴らしい!
 リードギターが、キラキラ輝くようなリフを刻み始めると、
 サイドギターが絶妙のカッティングで、それに追いつき、
 そこに印象的なベースラインが絡んで、いやぁもうアコギの理想的なアンサンブルが展開します。

 そして、美しいコーラスがそこに被さると、
 「さぁ、これから旅に出るぞ!」
 という気分が、いやがおうでも盛り上がります。

 この曲を聴きながら自動車のハンドルを握っていると、周りの景色が光りの粒となって泡立つのを感じます。
 そして、いつまで経っても、私には、この曲を最初にFENで聞いたときの、あの鳥肌が立つような衝撃がよみがえってくるのです。



 旅の始まりは、青春と似ています。
 この先、誰と出会うのか、どんな楽しいことが待っているのか。
 どんな悲しい出来事に巻き込まれるのか。
 すべて未知だから、爽やか。

 未知なるものに対する不安を克服した心境を、人は 「不惑」 とか 「成熟」 などと表現するのかもしれませんが、そこに 「爽やかさ」 はあるのか、どうか。

 「爽やかさ」 というのは、いつだって、
 未知なるものに立ち向かう不安と決意を抱えた人でなければ、
 ちょっとかもし出せない風情のように思えます。

 「アメリカ」 というバンド名をつけながら、この3人組グループがデビューしたのはイギリス。
 彼らにとってアメリカという国は、自分たちの目指す音楽の 「故郷」 でもあり、同時に 「旅路の果て」 に広がる未知の大陸でした。

 その地に渡るときに、彼らが感じた不安と期待が、この 「ヴェンチュラ・ハイウェイ」 という曲にみずみずしい叙情性を与えています。
 明るいんだけど、どこかメランコリック。
 この青くさいメランコリーこそが、この曲の 「命」 。

 当時20歳そこそこの若者たちがつくったこの曲は、
 「青春の爽やかさ」 を3分32秒の時間に凝縮し、
 永遠の輝きを与えているように感じます。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:07 | コメント(6)| トラックバック(0)

匈奴の話 4

【司会】 『歴史講座』 の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生のお話をうかがっております。
 今日はその4回目として、シルクロード交易が生まれた背景と、遊牧文化が現代社会にもたらしたものなどについて語っていただくことにいたします。
 それでは先生お願いします。

【町田】 はい、皆さまこんにちは。
 さて、前回は、匈奴に対抗するためにですね、漢がユーラシアの西側に住む月氏 (げっし) という民族と軍事同盟を結ぼうというところまでお話したと思います。
 で、その使者として張騫 (ちょうけん) という男が選ばれたわけですが、今日はこの張騫が漢にもたらしたものとは何であったのか、ということをお話することにいたしましょう。

 月氏というのは、イラン系の人々といわれています。つまり、鼻が高く、目も青い人たちだったわけですね。
 ですから、月氏の国に着いた張騫は、はじめてアジア系以外の民族と出会うことになります。

張騫像
▲ 張騫

 苦労に苦労を重ねてようやく月氏の国にたどり着いた張騫は、月氏の人々からとても親切にもてなしてもらうことができました。
 けれども、月氏の方は、肝心の漢との軍事同盟の話だけには乗ってくれません。

 月氏の王がいうには、
 「そりゃ、昔は確かに匈奴は憎かったよ。しかし、だんだん月日が経ってくるとなぁ、恨みというのはやがて薄れるものじゃよ。
 今、月氏はこの土地に来て民は愉快に暮らしておる。みんな匈奴と戦うよりも、今の平和な暮らしを続けることの方が大事なんじゃ。分かるかな? 張騫殿」

 張騫が何度誘っても、月氏の答えは変わりませんでした。

 張騫は仕方なく、中国に帰ることにします。

 しかし、月氏の土地にいる間に、西域に関する様々な情報を手に入れます。
 張騫はその情報を土産に、13年ぶりに武帝のいる長安に戻ってきます。

 「なに? 漢の使者を勤めた張騫と名乗る男がお目通りを願っていると? 誰じゃそれは? いやぁ思い出したぞ。おうそうだった! 余が10数年前に月氏に使者として遣わした男だ。おお通せ! 通せ!」
 武帝は、大喜びで張騫を迎え入れます。

武帝像
 ▲ 武帝

 「陛下、残念ながら月氏との同盟は結べませんでした。深くお詫び申し上げます」
 「まぁよいよい。張騫よ、10年の間大儀であった。それよりいったい何があったんだ?」

 張騫は匈奴に捕らえられたこと、そこから逃げ出したこと、そして月氏に行って今まで見たこともない、聞いたこともない物にたくさん出くわしたこと。そして、月氏の土地から、さらに西や南に広がる様々な国のことを武帝に話したのです。

 武帝にとってはどれも初めて聞くことばかり。
 しかも、張騫の話し方も上手だったのでしょう。その後張騫は毎晩武帝に招かれて、西域にまつわるいろいろなことを話すことになったわけですね。

 この張騫の情報によって、中国人は西にはローマという大帝国があったり、南にはインドという広くて暑い国があるなど様々なことを知るようになります。
 またこのとき、ナツメヤシとかキュウリ、葡萄酒などといった、中国の人々が口に入れたことがない食べ物や飲み物の情報ももたらされます。

 しかし武帝を一番喜ばせたのは、西域に棲息する馬の情報でした。
 なにしろ漢が匈奴に勝てない理由の一つが騎馬部隊の違いだったわけです。

 匈奴の馬は、体は小さいのですが、そのかわり忍耐力が強く、粗食に耐え、よく走ります。
 エサなども、人間が用意しなくても、放っておけば勝手に草原の草を食べてお腹を満たします。

 それに対して、中国側にも騎馬部隊がいるのですが、中国の馬は走ることは早くても、持続力がない。食べ物も人が用意したエサしか食べない。これでは匈奴の騎馬隊に立ち向かうことはできません。

 しかし張騫がいう西域の馬はどうもそれとは違うらしい。

 「陛下。西域の馬は長距離を走り、力も強く、逞(たくま)しく、漢の馬よりも匈奴の馬よりも優れております。なんでも天馬の子孫とかいうことで、走った後は血の色をした汗をかきます」

血汗馬
 ▲ 血汗馬

 血の汗というのが、どういうものかよく分かりませんが、記録には 「汗血馬」 という表現が残っています。
 多分、今でいうアラブ馬みたいな馬だったんでしょうね。

 この時代まだサラブレッドなどという馬はつくられていません。
 サラブレッドというのはヨーロッパ人が、色々な速い馬をかけ合わせて人工的につくった馬ですから、それが生まれるまでは、アラブ馬が最高級の馬だったのでしょうね。

 武帝は、その西域の汗血馬が欲しくて欲しくてたまらなくなりました。
 「う~ん、その馬が欲しい! 陳 (ちん) はその馬を手に入れるぞよ」

 こうして、張騫の話をきっかけに、漢と西域の間で、馬を手に入れるための交易ルートが開かれることになります。それがシルクロードの始まりともいえるでしょう。

 やがて、西域の馬を手に入れた漢は、それに合わせて匈奴風の騎馬戦術を取り入れます。

 匈奴風の騎馬戦術というのは、馬を走らせながら弓を射るという戦い方ですね。
 これはなかなか慣れていないとできないことです。
 しかし、匈奴の男たちは、生まれたばかりの頃から羊に跨って、ネズミを弓で討つ訓練をするぐらいですから、食べることも寝ることも、何でも馬の上でできてしまうわけですね。

 で、この時代の乗馬術というのは、現代よりもっと高度な技術が要求されたわけですね。
 どういうことかというと…専門的になってしまいますが…この時代にはまだ鐙 (あぶみ) というものが発明されていなかったわけですね。

 鐙…。鐙というのはですね、鞍の下に吊るされているワッカのことですね。
 そこに足を突っ込んで、姿勢を支えるわけです。これがないと、現代人は誰も馬に乗ることはできません。

 しかし、昔はそれがなかったわけですね。
 では、どうしていたか? 
 股に力を入れてですね、ギュっと馬の背中を締め付けていたわけですね。

 これは凄い力がいるんです。
 匈奴の人たちはそんな状態で弓を射ったり、刀を振るって突進したりしていたわけです。これには相当の訓練が必要だったことでしょう。

匈奴像1

 ま、そういう馬に慣れた兵士たちが、漢の歩兵部隊に全速力で向かってきて、一斉に矢を放つ。
 漢の部隊が反撃に出ると、今度は一斉に逃げ散ってしまう。
 で、漢の兵士が追うことに疲れてヘタリ始めると、まだ全速力で近づいてきて矢を放つ。
 これが伝統的な遊牧民の戦い方で、弓と馬が基本になっているわけです。

 しかも、それをこなすには幼い頃からの訓練の蓄積がいるわけですね。農耕しか経験のなかった漢の人々が長い間匈奴に勝てなかったのは、そういう理由もあったんですね。

 しかし、やがて漢もですね、匈奴に対抗して、馬術と弓に優れた兵士たちを養成するようになります。
 そして、服装も改めます。
 なにしろ伝統的に中国の男はスカートのようにひらひらした着物を着ていたわけですね。軍隊も変わりありませんでした。

 しかしそれじゃ馬に跨がれないというので、騎兵は全員が匈奴のようにズボンを履いて、バックルの付いたベルトを締めるようになります。この 「ズボン」 と 「バックルベルト」 というのも、遊牧文化がもたらしたものですね。

 で、漢も匈奴のように馬を上手に乗る兵士をどんどん育成します。
 兵を指導するには、まず将軍が馬術と弓が上手でなければならない…ということで、中には匈奴以上に、弓と馬が上手な将軍も出てくるようになります。

匈奴の話 矢

 対匈奴戦で大きな手柄を立てる衛青 (えいせい) という将軍は、幼い頃に匈奴の友達から乗馬を習ったという人ですし、武帝に一番愛された将軍、霍去病 (かく・きょへい) などという人は、走る馬の上で逆立ちしながら矢を討って的に当てたというくらいの弓の名人でした。

 この霍去病という人は、10万人に1人出るか出ないかと言われるほどの軍事の天才だったらしく、若くして…それこそ20歳そこそこで大将軍になり、華々しい戦果を上げますが、なんと23歳で死んでしまいます。

 「去病」 という字は 「病気が去る」 という字を書きますが、名前にそんな字を当てるということは、幼い頃から病弱だったのかも知れません。
 彼が死んだあとの武帝の嘆きは相当深かったという話です。

 とにかく、霍去病や衛青といった優秀な将軍に軍を率いさせた漢は、徐々に匈奴を圧迫していきます。
 最終的には漢が勝利し、匈奴は破れて分裂してしまうのですが、勝った漢の方も、この戦いでヘトヘトになってしまいます。

 武帝の時代は、漢が国際国家へ雄飛する華々しい時代でもありましたが、反面、恒常的に戦争が行われていた苦しい時代でした。

 その時代をつくった武帝という人は、どこかアメリカのケネディ大統領に似たようなところがあるように思えます。
 ケネディは 「フロンティア」 という標語のもとに、アメリカ主導型の経済開発を発展途上国に向けて “輸出” します。

ケネディ大統領像

 そして人工衛星を打ち上げ、ロケットを開発して宇宙開発を推進します。ちょうど漢の武帝が西域開発を押し進めていくのとよく似ていますよね。

 しかし、そういう華々しい事業とともに、ケネディはベトナム戦争を開始するわけで、そんなところが対匈奴戦を開始した武帝とも似ていますね。
 その結果多くの人々が死に、経済は破綻し、やがてそれが国を衰退させる原因になりました。

 ケネディも武帝も、ともに人気のある為政者ですが、戦争による被害を人民に強いたという点では、手放しで喜べないリーダーだったともいえますね。

 ま、しかし、それでもケネディがアメリカの第一次黄金時代を築いた大統領として人気が薄れることがないように、武帝も漢王朝を代表する皇帝として人気が薄れることはないでしょう。


 えー、今回はですね、遊牧民族の歴史ということで、東アジア最初の遊牧文化を築いた匈奴をテーマにお話をしましたが、最後にこの遊牧が現代社会にもたらした意義について、お話いたしましょう。

 遊牧という文化は、今の社会情勢から見ると、どんどん貧しくてなって、やがて滅び去る文化だと思われがちです。
 しかし、私たちの生活の中に根を下ろした遊牧文化は不滅ですね。

 例えば、バターやチーズを食べるとかですね、ズボンを履くとか、バックル付きのベルトを締めるとかですね。普段の身の回りの生活そのものの中に遊牧文化が根づいているわけですね。

 しかも彼らの生き方は、これからの地球環境を保護するという視点で有力な智恵をもたらせてくれます。

 なにしろ、人間の文化の発展というのは、みな自然環境を人為的に加工したり、破壊したりする方向で築かれたものばかりなわけですね。

 文化のことを英語で 「カルチャー」 といいますが、その意味は 「耕す」 という意味ですね。
 つまり大地を加工して耕すということが文化の始まりだったわけです。
 そうやって人間は野に穴を掘り、山を崩し、木を切り倒し、獣を殺して文化を発展させてきたわけです。

 しかし遊牧だけが、人間の方を、逆に自然に合わせようとした生き方だったんですね。

 囲いを作ってそこで家畜を飼う方法と、遊牧の違いは何か?

 遊牧というのは、動物を放し飼いにすることですね。動物は自然のままに放置しておくと、勝手に水飲み場に移動したり、季節に応じて草のおいしい地域に移動したりする習性があります。

 遊牧というのは、基本的にはそういう動物の自然の習性に従って、それに伴って人間も移動していくという、ま、実に動物優先の思想に基づいているわけですね。

 そういった意味で、動物に 「寄生」 して生きていくという、ま、実に奇妙な生活スタイルでもあるわけですが、ある意味は実にエコロジカルな暮らし方でもあるわけです。
 動物が行きたい場所に人間も移動し、動物が寝泊まりするところで寝る。だから遊牧民は家を造らずテントで生活します。

匈奴10

 で、彼らは基本的に、動物を殺しません。もちろん飼っている羊などの肉も食べたでしょうが、それは実に計画的に小規模で行われただけで、基本は動物の乳製品…バターやチーズ、ヨーグルトですね。そういうものを食べていたわけです。

 彼らは自分たちの財産である動物を、簡単に殺して減らしてしまうようなバカなことはしません。

 匈奴は確かに漢の土地へ略奪に行きました。
 しかし、その気持ちの中には自然を守る匈奴が、自然を破壊する漢に対して抗議行動を行ったと解釈できないこともないわけです。

 なにしろ、匈奴の生活の場である草原は、草が生えている限り豊かな土地であるわけですが、この土地を掘り返して畑などを作り始めると、とたんに砂漠になってしまいます。

匈奴12

 乾燥した土地を無計画に耕作地にすると、1~2年はなんとか農作物も育つのでしょうけれど、やがてすぐにカラカラに乾いて砂漠化する。
 そうなると、もともと生えていた草すらも二度と生えないわけですね。

 これは現代になって、やっと農業科学の常識になったようですが、ほんの30年ぐらい前まではまだそれほど認識もされていなかったんですね。

 現に共産中国も北朝鮮も、その初期の農業政策では、本来耕作に適さない山や草原を農地化して、逆に土地を荒廃させていました。つい最近までそんなことを繰り返していたわけです。

 しかし、2000年前の匈奴たちは経験的にそういうことを知っていたのでしょう。
 漢の人口がどんどん増えて、農民たちが草原に現れ、そこを開墾し始める。
 ところが元来が農耕に不向きな土地だけに、結局そのまま草も生えない砂漠にしてしまう。

 匈奴にしてみれば、動物を養うための大切な資源を損なわれてしまうわけで、そういう漢民族の行動がとても許せなかったでしょうね。

 草がなければ、動物を養えない、仕方がないからその元凶をつくった漢の土地に略奪に行こう…。

 彼らの意識の中にはそういった切羽詰まったものがあったかもしれませんね。

 漢と匈奴の戦いも、単なる大国同士の勢力争いというだけでなく、こういう自然観の違い、生活思想の違いというふうに捉えていくと、また違った面が見えてくるかもしれません。

 …というわけで、そんなところで今回のお話を終わらせて頂きます。では、皆様ごきげんよう。

【司会】 下連雀大学の町田先生のお話でした。
 『歴史講座』 の 「遊牧民の文化と歴史」 は今回で終わります。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:27 | コメント(2)| トラックバック(0)

匈奴の話 3

【司会】 『歴史講座』 の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生のお話をうかがっております。
 今日はその3回目として、匈奴 (きょうど) と漢をそれぞれ代表する重要人物たちを語っていただくことにいたします。
 それでは先生お願いします。

【町田】 はい、皆さまこんにちは。
 今日はですね、まずユーラシア平原に生まれた匈奴を統一した冒頓単于 (ぼくとつ・ぜんう) という英雄と、漢の国から旅立って、初めて 「西域」 の情報を漢にもたらした張騫 (ちょうけん) というヒーローのお話をすることにいたしましょう。

 さて、前回お話したとおり、漢を属国のように扱い、まさに東アジア最強の国家になった匈奴なんですが、匈奴の最盛期をつくった冒頓には実に興味深いエピソードがあります。

冒頓単于像

 冒頓が匈奴の実権を握り、北ユーラシア最大の勢力になっていく過程の話ですが、いかにも匈奴の王らしい、ある意味で残酷で、ある意味で勇壮な話ですので、ちょっと紹介しておきましょう。

 冒頓の父親は頭曼 (とうまん) といいました。
 で、冒頓はその頭曼の長男なわけですが、やがて頭曼がお気に入りのお妾さんに、別の男の子が産まれます。
 頭曼はそちらの子の方が可愛くなりまして、やがてその子の方に 「単于 (ぜんう) 」 の位を継がせたいと思うようになります。
 そうなると冒頓がだんだん邪魔になってくるわけですね。

 どうしたか?

 頭曼は、そこで冒頓を匈奴に西に住んでいる月氏 (げっし) という民族に人質に出すわけですね。

 月氏というのは、当時は匈奴以上に有力な民族で、匈奴の力を持ってしてもなかなか滅ぼすことのできない勢力を持っていました。

 頭曼は、冒頓を人質に出してから今度は月氏に戦争を仕掛けます。
 戦争が始まったら人質はどうなるか。
 当然、殺されてしまうわけですね。

 冒頓にしてみれば 「オヤジ、そりゃないよォ~」 となるわけですね。
 つまり頭曼としては、冒頓を殺させるために戦争を仕掛けたようなものなんですね。

 ところが冒頓は殺されるどころか、月氏の中でも一番の名馬といわれる馬を盗み出し、それに乗って匈奴の土地まで逃げ帰ってきます。

匈奴像17

 そうなると、匈奴の人々の間で、冒頓は一躍大ヒーローとなってしまいます。
 お父さんの頭曼にしても、冒頓を責めるわけにはいきません。
 内心はいまいましく思いつつも、「息子よ、よくやった!」 と誉めて、彼を1万人の兵を指揮する司令官の一人に抜てきするわけですね。

 冒頓の方も何食わぬ顔をして親父に従っているわけですが、内心は自分を殺そうとした父親の魂胆を見抜いているわけですから、このままではまた殺されると思い、密かにクーデターの準備を始めるわけです。つまり自分に与えられた直属の兵を鍛えていくわけですね。

 そのときの、冒頓の部下の訓練が実にすさまじいんです。

 匈奴の武器のひとつに鏑矢 (かぶら矢) という矢があります。弓で射ると、ヒュルヒュルという音を発する矢で、武器というよりも色々な合図の時に使う矢ですが、冒頓は自分の部下たちにこう言います。

 「よいか、これから俺が鏑矢を放った物に関しては、全員が一斉に矢を放つように。言うことを聞かないヤツは叩き殺すぞ」

 そういって、冒頓は、まず自分の愛馬に向けて矢を放ちます。
 それは日頃冒頓が可愛がっている馬だということをみんな知っていますから、兵士の中には戸惑って矢を放たなかった者もいるわけです。すると、冒頓はその兵士を容赦なく斬り殺してしまいます。

匈奴の話 矢

 そして次ぎに、冒頓は自分が愛するお后 (きさき) の一人に矢を向けます。
 これにも戸惑う兵士が出てきます。
 冒頓は命令を聞かなかった兵士をまたもやその場で斬り殺してしまいます。
 兵士たちにしてみれば、だんだん冒頓の命令が善悪を超えて、絶対的なものに思えてくるわけですね。

 そうやって、部下に対して命令の厳しさを植え付けた冒頓は、父親の頭曼を狩りに誘い、頃を見計らって、その頭曼に向けて鏑矢を放ちます。今度は部下の全員がためらいなく矢を放ったといわれています。

 なんともすさまじい話ですが、まぁ、どこまで本当の話か分かりません。

 でも、たぶん父の頭曼を殺したというのは本当でしょう。
 冒頓がずるかったのは、…というか、そういうずるさというのは遊牧民のリーダーとして当然必要だったのでしょうけれど、自分一人で父を殺さなかったということしょうね。

 つまり兵士全員に 「父殺しの罪」 を被せたわけです。
 そうなると、兵士は誰も冒頓の 「父殺し」 を責めるわけにはいきません。自分たちも共犯者だからです。
 そして共犯者になった以上、冒頓と一心同体となって、冒頓を支えていかなければならない。
 そこが冒頓の狙い目だったわけですね。

 まぁ、冒頓のクーデターの犠牲となって殺された愛馬やお后には気の毒なわけですが、とにかく冒頓はこうして、命令に対して忠実に服従する強力な軍団を養っていったわけです。

 まぁ、このあたりは中国の歴史家、司馬遷の書いた 『匈奴列伝』 の中で生き生きと描かれております。
 興味をお持ちの方は、ぜひそちらを読まれることをお薦めいたします。

蒼き狼騎馬群像

 さて、その後冒頓はですねぇ、かつて人質として出された西の月氏 (げっし) を滅ぼし、東の東胡 (とうこ) という民族を滅ぼし、モンゴル高原に強大な遊牧帝国をつくり上げていくわけです。
 そして漢の劉邦にも勝利し、事実上の中国の覇者になったということは前回お話しした通りですね。

匈奴像004

 さて、漢では長い間、匈奴に対する従属的な同盟に甘んじた時代が続きました。
 しかし、やがて 「それは面白くない」 と思う皇帝が出てきます。漢の武帝 (ぶてい) ですね。

武帝像

 武帝は、初代皇帝の劉邦から7代目の皇帝になります。
 武帝の 「武」 は武力の武と書くらいですから、いかにも戦争が好きそうな感じがしますよね。事実、この人の一生はほとんどが匈奴との戦いに費やされた一生でした。

 この武帝が即位する頃になると、漢の財政も潤ってきて、お金も潤沢に使えるようになってきます。つまり軍備にも多大なお金をかけられるようになってきたわけですね。

 そこで武帝は考えます。
 「そろそろ匈奴を甘やかす時代は終わった。やつらに漢の偉大さを見せつける時代がやってきた。これからもう匈奴の言い成りにはならないぞ」
 …しかし、やはり独力で匈奴と戦うほどの自信はまだないわけですね。

 そんなとき、たまたま捕まえた匈奴の捕虜がこんなことを言うのです。

 「匈奴の西に月氏 (げっし) という部族が住んでいるんだが、漢の人間は知っておるか? その月氏がなぁ、昔な、無謀にも俺たち匈奴に戦いを挑んできたんだ。
 だけど、月氏の王様はあっけなく戦死してしまったわけよ。
 わが匈奴の単于は、月氏の王の頭蓋骨を切り取ってそれを器にして、酒を飲むときに使っているんじゃ。月氏のヤツラはみなそのことを恨みに思って、いつかは匈奴に対して復讐しようと思っているという話だぜ」

 敵対していた王様の頭蓋骨を途中で割って杯 (さかずき) にするというのは、遊牧民にはよくある話らしく、日本では織田信長が浅井長政と朝倉義景を殺したときに、これをやっていますね。

 とにかくその匈奴の捕虜の話から、武帝は匈奴の西に月氏という部族がいることを知ります。
 「お、それはいい話だ!」
 と武帝は思ったことでしょう。
 「その月氏とやらと軍事同盟を結べば、匈奴を挟み撃ちすることができる。月氏の元へ誰かを使者としてつかわそう」
 と、武帝は思いつきます。

 しかし、その時代の中国の人は誰も月氏のことなど知らないわけですね。
 まず、中国の西の砂漠の彼方にどんな世界が広がっているのか、誰も分からない。
 どんな民族がいて何語をしゃべり、どんな食べ物を食べているのか、検討もつかない。
 化け物がいるかもしれず、怪物がいるかもしれない。

 今の感覚でいえば、宇宙探検に近いものがあったことでしょう。だから誰を使者にしたら成功するのか、それもおぼつかない。

 そこで武帝は、使者となる人物を一般公募します。
 前代未聞のことですね。今までは他国へ遣わす使者というのは、宮廷の役人の中から選ばれるもので、一般人から選ばれるということなど考えられなかったからです。それほど、武帝はやる気だったわけですね。

 で、たくさんの冒険好きが集まりました。
 中には、西の方の世界の珍しいものを探してきて、一山当てようという “山師” のようないかがわしい人間もたくさんいたでしょう。

 その中で、武帝は張騫 (ちょうけん) という一人の人物を選び出します。
 記録によると、この張騫は、顔も体格も立派で、責任感が強く、意志も強固な男だったようですが、職業は、宮廷などに出入りすることもできない下級役人だったという話です。

張騫像

 武帝は張騫に、匈奴出身の甘父 (かんぽ) という名の、通訳もできる弓の名人を付け、さらに荷物などを運ぶ200人ぐらいの人間を付けて月氏の土地に旅立たせたわけです。

 漢の首都の長安を発った張騫の一行は、中国の農村地帯を抜け、やがて草がまばらに生えているだけの砂漠に近いような平原に入っていきます。
 そこから先は、もう中国とはいわず、一般に 「西域」 と呼ばれる異国の地です。今まで中国人は誰ひとり通ったことがない場所ですね。

匈奴12

 しばらくの間、空を飛ぶ鳥や地面を走る獣の姿も見えていましたが、やがてそれもなくなり、あとは生き物の気配が途絶えた砂漠のような平原が連なるばかり。
 そこを200人ぐらいの隊列をつくって歩いていけば、遠くからでも匈奴に発見されてしまいます。

 現に張騫は、西域に入ったとたん、匈奴の騎馬部隊に見つかり、捕まってしまいます。
 こうして張騫は匈奴の単于の幕舎に連行されます。

 その頃の匈奴の単于は冒頓 (ぼくとつ) から数えて3代目。軍臣 (ぐんしん) 単于という王様の時代です。冒頓の孫ですね。

 張騫は、軍臣単于から 「お前はどこに行くつもりだったんだ?」 と尋ねられます。
 そのときの張騫の答え方次第で、もしかしたら張騫の命はなかったかもしれません。

 おそらく張騫は正直に、自分が与えられた役目を単于に伝えたのでしょう。
 ただその態度が毅然として、命を惜しむふうでもなく、堂々としていたので、匈奴の単于はいたく張騫のことを気に入ってしまいます。

 「よし、張騫お前が気に入ったぞ。命は助けてやろう。そのかわり匈奴の仲間になれ」
 と、言われるわけです。
 もとより張騫にその気はありませんでしたが、いつか脱出する機会もあるだろうと思い、単于の言うことに従うわけですね。

 張騫はそれからは匈奴の服を着て、匈奴の食べ物を食べ、匈奴の宿舎に寝て過ごすようになります。
 生活は自由なのですが、監視も厳しくて、なかなか脱出の機会がありません。
 そうこうしているうちに10年という月日が経ってしまいます。今では匈奴の妻がいて、その妻との間に子供さえできてしまいました。

 そこまでいって、ようやく単于も気を許したのでしょう。監視がだんだん緩やかになりました。

 ある夜、張騫はついに脱出を試みます。
 従うのは妻と子、そして長安を発ったときに一緒に同行した案内役の甘父 (かんぽ) という従者だけです。

 命からがらの脱出でしたが、なんとか逃げおおせることができて、張騫はついに月氏 (げっし) の土地にたどり着くことができたわけですね。

 それでは、次回はこの張騫が月氏の国に行ってですね、それがきっかけとなって 「シルクロード交易」 が生まれたというお話をすることにいたしましょう。
 
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:37 | コメント(2)| トラックバック(0)

匈奴の話 2

【司会】 『歴史講座』 の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生のお話をうかがっております。
 今日はその2回目 「遊牧という文化とは何か」 をお送りいたします。
 それでは先生お願いします。

【町田】  皆さん、こんにちは。
 さて、前回は、中国史に登場する 「匈奴 (きょうど) 」 という謎の遊牧騎馬民族のお話をいたしましたけれど、今回その続きをお話する前に、「遊牧」 という生活がどのようなものであるのか、それをちょっとお話することにいたしましょう。

匈奴12

 で、この 「遊牧」 とよく対比されるのが 「農耕」 なわけですが、皆さまは、遊牧と農耕はどちらが先に生まれたか、ご存知でしょうか。

 一般的なイメージでいいますと、遊牧の方が原始的で、農耕の方が文明的というような印象がありますから、当然遊牧の方が農耕よりも古いと思われがちですね。

 ところがですね、実は、遊牧の方が比較的新しい生活様式なんですね。農耕の方がはるかに古いわけです。

 遊牧というのは、草食動物が棲む場所で、人間も一緒に生活するという技術ですが、動物が棲みやすい場所というのは、人間には住みづらい場所なんですね。草原がその典型ですね。

 なにしろだだっ広い草原では、水を飲みに行きたくとも遠くまで歩かねばならない。
 水場が遠ければ畑なども耕せない。
 狩猟をしようにも、鹿やウサギだってすぐ走って遠くまで逃げてしまう。
 逆に、平原のまっただ中で狼に取り囲まれることもある。

匈奴10

 そんなわけで、草原というのは長い間人間が住むには適さない場所だと思われていました。
 だから、人間は水場が近いオアシスのような場所か、河のほとりなど畑を耕しながら生活をすることを始めたわけです。
 そして、その畑の周囲で、少しずつ野生の動物などを飼い慣らし、家畜として養うようになっていったわけですね。

 で、オアシスの住民に飼われていた家畜の中に 「馬」 という動物がいました。
 おそらく、最初はあまり大事にされていなかった家畜ではないかと思います。
 食用にしても牛なんかよりも不味い。
 すばしっこくて、なかなか人間の言うことをきかないので、牛や羊よりも扱いづらい。せいぜい殺して皮を利用するぐらいしか意味のない家畜でした。

馬の写真

 その馬を相手に、ある日一人の若者が無謀な冒険を試みます。
 その若者の名前は分かっていません。人種的に何人であるかも分かりません。もしかしたら若者でもなくて中年かもしれません。時代も、いつのことかはっきりしません。

 …ま、おそらくは紀元前600年ぐらいに黒海北岸にたむろしていた民族の誰かだったと思いますが、その彼が、とにかくとんでもないチャレンジを行ったわけです。
 その行為が、後の人類史を大きく書き換えるなどという自覚もまったくなしに…ですね。

 それは、馬の背に跨ったということなんです。
 最初は遊びだったのでしょう。
 もちろん何度か振り落とされ、跳ね飛ばされて怪我をしそうになったことでしょう。
 しかしその彼は、今までの人間と違って、そこで諦めなかった。

 それまでの人々は、「無理だよ、無理! 馬に乗るなんてのは、竹槍でB29を落すようなもんだよ」 ……このたとえが分かる人は、もう相当のご年配かもしれませんが、まぁ 「馬に跨ろうなんてのは、太平洋を泳いでアメリカに渡ろうみたいなもんだよ」 っていうような感じで、ハナから無理なものと決めつけられていたわけですね。

 しかしその若者はですね、諦めることなくトライし続けているうちに、ついに馬の背に乗って草原を走り始めたわけです。

 その時の彼の気持ちがどんなものだったか! 
 彼が残した日記があるわけではないので、なんともいえませんが、ま、初めて空を飛んだライト兄弟みたいな気分だったのでしょうかね。

 とにかく、これは自動車の発明や飛行機の発明以上に、人類にとっては空前絶後の画期的な大事件だったわけですね。

 馬という機動力を得て、人類は初めて広大な大草原に踏み出していくことができたわけです。
 草原を走り回るたくさんの羊や牛の群を管理するなどという遊牧は、この乗馬という技術抜きには語れません。

 で、やがてオアシスの農耕民族の中からですねぇ、馬に乗って、郊外で羊や牛やラクダなど管理することを役目とする人たちが誕生します。
 村から遠く離れるので、しばらく家に帰ってきませんので、そのうち奥さんや子供たちも草原に連れていくようになります。

 すると、草原で暮らすのもまんざら悪いもんではないと分かってきたんですね。
 なぜなら、食べ物はその家畜を利用すればよろしい。何も殺して肉を食べなくても、その乳をしぼってチーズやバターやヨーグルトを作ればよろしい。

 喉が渇いたら、馬の乳を発行させた飲み物で乾きを癒す。この馬の乳はお酒…馬乳酒ですね…お酒にもなる。
 着るものはその家畜の毛皮でよろしい。

 寝る場所も、その毛皮で作ったテントの中で寝ればいい…ということになると、「ま、別に村に帰らんでもいいか…」 となるわけですね。
 ……ま、これが遊牧民の誕生ですね。

 さて、馬に乗ることを覚えて、初めて可能になった遊牧生活。
 それは同時に軍事力の獲得でもありました。

蒼き狼騎馬群像

 戦争というのは、相手より早く移動した方が勝ちという性格が非常に強いものです。
 攻めるのみ逃げるのも早い方が有利なわけですね。
 こうして、乗馬の技術を覚えた遊牧民は、また戦いの専門家にもなりました。

 人類史上、最初の騎馬軍団をつくったのはスキタイと呼ばれる民族です。
 これは今の黒海の北岸あたりに勢力を持った民族で、当時の強国として知られるペルシャやギリシャの人々をさんざん悩ませます。

スキタイ人
 ▲ スキタイ人を描いたタペストリー

 ま、このスキタイ風の遊牧騎馬文化というのが、草原づたいに東へ東へと伝わっていってですね、それが先ほど紹介した匈奴たちのいる東アジアまで広まっていくわけですね。

 そしてスキタイ風の騎馬戦法を取り入れた匈奴は、中国に住む漢民族をさんざん悩ますようになります。


 では、その匈奴は、一体いつ頃から歴史の舞台に登場するようになったのでしょう? 
 はっきりと名前が出てくるのは、秦の時代です。
 秦の始皇帝という有名な皇帝がおりまして、彼が中国で最初の統一王朝を開くわけですが、その秦の始皇帝ですら退治できなかった強い勢力として、匈奴の名が登場します。

 始皇帝は匈奴を絶滅することができず、仕方なくその侵略をくい止めるために、中国の北側をすべて守るような長大な長城を造ります。
 それが 「万里の長城」 ですね。

万里の長城1

 しかし、始皇帝はこの長城を造るために莫大な費用をかけすぎ、財政的にも破綻して死後わずか17年にして、その帝国も滅びます。

 それから中国は長い戦乱の時代に入るわけですが、やがて2人の英雄によって統一の兆しが見えはじめます。2人の英雄というのは、有名な項羽 (こうう) と劉邦 (りゅうほう) ですね。

 最初は2人とも仲が良かったわけですが、国内の敵が少しずつ減っていくに従って、やがてどちらが国を統一するかということで敵対関係に入ります。

 この項羽と劉邦の対決は、中国でも人気のある話で、おそらく三国志の次ぐらいに有名な話になっています。細かいことは省きますが、最終的に勝った劉邦がやがて中国を統一し、漢王朝を開くわけですね。

 ところが、劉邦が漢を開いたと同じ頃、実は中国史の中ではもう一人の偉大な英雄が頭角を現していたわけです。それが匈奴の冒頓単于 (ぼくとつ・ぜんう) です。

冒頓単于像

 この 「冒頓」 という字も、中国人がつけた当て字なんですね。
 匈奴の方ではなんと発音していたか。
 それははっきりと分からないのですが、たぶん 「ボクトゥル」 というような発音ではなかったかといわれています。

 で、単于 (ぜんう) というのはいわば 「王様」 という意味ですね。
 後に、遊牧民の王様を 「カーン」 とか 「ハーン」 とかいいますが、この時代は 「単于」 という名前を使っておりました。

 で、とにかく匈奴には、冒頓単于という彼らの最盛期を開いた一大英雄が登場するわけですが、ほとんどの人は項羽や劉邦の名前は知っていても、冒頓の名前は知りません。
 本当は最終的に勝ったのは、項羽でも劉邦でもなく、冒頓ではないかと言われているのに、中国史の中ではその名前は無視されています。

 なぜなら、中国人があまり認めたくないような、漢にしては屈辱的な話がありまして、中国の歴史書はそのほとんどが、その表現を曖昧にしています。

 どういうことかというとですね、どうやら、漢が匈奴の属国扱いを受けていた時代というのがあったようなんですね。
 順を追って話しましょう。

 とにかく、項羽を倒して漢を開いた劉邦は、いよいよ中国人の悩みのタネである匈奴を滅ぼそうと考えます。

 なにしろ劉邦の起こした漢王朝には、中国を統一するぐらいの力があったわけですから、草原の野蛮人などやっつけるのは簡単だと思ったことでしょう。
 そこで劉邦は、自ら30万という軍勢を引き連れて、はるか北の匈奴の土地まで大遠征を行います。

 一方冒頓単于も漢の遠征軍が攻めてくるというので、自らも30万ぐらいの軍勢を引き連れて、これを迎え討つために南下します。

 どちらも当時の東アジアで最強の軍勢同士だったわけで、司令官の力が互角だったらどちらが勝ってもおかしくないような状況だったでしょう。

 しかし、匈奴の冒頓の方が一枚上手だったわけですね。
 冒頓は、わざと痩せた馬に老人の兵を乗せて、チョコっと戦わせてはすぐ逃げる。
 思慮深い司令官なら 「なんだか様子が変だぞ」 と思うところでしょうが、勢いに乗っていた劉邦は、「なんだ匈奴は弱いぞ」 とどんどん追いかけます。

 すると、またまた弱い匈奴兵がチョコッと出てきて、戦ってはすぐ逃げる。
 漢が追う。

 それを繰り返しているうちに、劉邦はいつのまにか、漢の兵隊が苦手な広大な大平原のまっただ中に誘い込まれてしまったわけですね。

 ある朝気づいて見ると、自分たちのいる丘の周囲をびっしりと匈奴の騎馬隊が囲んでいます。
 それも今まで見たこともない逞 (たくま) しい馬に乗った力の強そうな若者ばかりの兵です。
 その数は30万。

匈奴像16

 劉邦は、弱い匈奴兵を追いかけているうちに、いつのまにか歩兵の本隊より突出してしまい、気がつくと、自分の身を守るわずかな騎馬隊しか残っていませんでした。
 「これは、まいったしくじった…」 と思ったことでしょう。

 包囲されること7日間。
 漢軍の食料もいよいよなくなり、万事休すという状況になってきました。

 もしこのとき、匈奴の冒頓単于が総攻撃の命令をかけていたなら、劉邦の命はどうなっていたか分からず、漢という王朝もあっけなく滅亡し、その後の中国史も大きく変わったことでしょう。

 しかし冒頓単于は、ここで劉邦を殺すよりも、降参させて、漢から貢ぎ物を稼いだ方がいいと判断したのでしょう。
 わざと一部の囲みを解いて、劉邦が脱出できるような逃げ道をつくってやります。

 一説によると、劉邦の部下に頭の良い男が一人いて、その男がですねぇ、こっそり冒頓単于の奥様に使者を立てたというんですね。

 で、使者をして、冒頓の奥様にこう言わせたそうです。

 「漢の宮廷には化粧も美しく、色っぽい若い女がたくさんいます。もし今単于殿がここで劉邦を滅ぼしたら、単于殿はその色っぽい女たちをゴソッと手に入れることでしょう。
 それが嫌なら、奥様の方から単于に働きかけて、劉邦を逃がすように取り計らった方が賢明でございます」

 「分かりました。私の方から冒頓にすぐさま囲みを解くように申し伝えましょう」
 と、冒頓の奥様が、「劉邦を生かすように」 と冒頓に進言したというわけであります。

 ま、そんなことが本当にあったかどうか分かりませんが、とにかく劉邦は命からがら匈奴の囲みから脱出し、なんとか漢の面目を保ちます。

 しかし、心の中では負けたという意識がどうしても拭いきれないわけですね。
 だから、匈奴の使者がやって来ると、どうしても頭が上がりません。

 この頃、匈奴の使者が漢にどんなものを要求していたか。
 匈奴の使者は、こう言うわけです。

 「漢は匈奴に対し、毎年たくさんの宝物やご馳走、おいしいお酒、贅沢な絹の着物、それに王室のお姫様を差し出すこと」
 こんな要求をされても、漢はそれを断ることができません。

匈奴像004
 
 もともと中国王朝は、臣下として服従の意を表明した周辺諸国には、ご褒美として、その諸国が献上した土産物よりも、さらに豪華な品々をたくさん持って帰らせるという態度を取ってきましたが、どうも匈奴に対しては、ちょっとニュアンスが違いますね。

 明らかに、匈奴に対しては過剰に遇しているわけです。
 どうもそこには、必死になって、なだめて、すかして、匈奴のご機嫌を取っているという感じが伝わってまいります。

 しかし、このことは中国の歴史の中では大っぴらにされておりません。
 中国史では、あくまでも匈奴と漢の関係は対等の平和条約ということになっておりますが、以上の事実から推測すると、どう考えても 「親分は匈奴で、漢は子分」 という関係であった気配が濃厚です。

 これは言ってしまえば、戦後ずっと続いた日米安保条約…日米軍事同盟のようなものですね。
 漢は匈奴の軍事力によって国の安定を維持し、外敵の脅威から守ってもらう。
 そのかわり、匈奴の求める経済的な援助は何でも行う。
 20世紀の日本とアメリカのような条約が、紀元前の漢と匈奴の間に交わされたのでしょうね。

 現にこのあと漢は匈奴の軍事力に守られながら、国内整備に全力を傾け、やがて、匈奴と本格的な戦争を行えるほどの基礎体力をつけていくわけですが、ま、それはもう少し先の話です。

 それでは、次回は匈奴の冒頓単于という王様が、いかにして強大な権力を手に入れるようになったか。そのお話してみようと思います。
 
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。

 「匈奴の話 1」


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:34 | コメント(5)| トラックバック(0)

匈奴の話 1

【司会】 『歴史講座』 の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生をお迎えしております。
 それでは先生お願いします。

【町田】 えー、皆さんこんにちは。
 今日はですね、東アジアの遊牧騎馬民族の歴史を解釈しながらですね、同時に遊牧というものが人類の文化に貢献した意義、あるいは現代文明のなかに今も残る遊牧文化の影響などといったものを考えていきたいと思います。

 …で、皆様は遊牧民の歴史というと、何を最初に思い浮かべるでしょうか。日本人には馴染み深いジンギスカンと蒙古の話でしょうかね。

映画「蒼き狼」1

 確かに、モンゴル人によるアジアからヨーロッパにまたがる大帝国の出現は、まさに世界史の中では画期的なことだったわけですね。
 東は朝鮮半島から西は今の東欧諸国まで。北半球のほぼ半分を多い尽くすほどの大領土を実現した国家はそれまで地球上にはなく、またその後も出現することがなかったわけですね。

 モンゴルによる世界帝国が実現したが故に、その領土内を安全に通行できるという保証が生まれ、マルコ・ポーロのような旅行家がイタリアから中国まで旅するようになったわけです。

 そのときに始めて本当の意味の 「西と東の情報交流」 が生まれたわけで…つまりですね、ジパングなる黄金の国がある…なんていうことが、ヨーロッパ人にも知られるようになったりしたという意味で…、モンゴルの世界帝国は人類の歴史の一大事件といえるかもしれません。ある歴史家などは  「世界史はモンゴルによって始めて誕生した」 などといっているくらいです。

映画「蒼き狼」2

 ま、それほど有名なジンギスカンと蒙古の話ではありますが、今回はその有名なお話はちょっと置いておいて、そのはるか昔、同じようにモンゴル高原に生まれ、広大なユーラシア平原をモンゴルと同じように縦横に駆け回り、当時の中国…漢の時代ですね…その漢に大いに恐れられたにもかかわらず、日本人はほとんど知られていない遊牧民族の話をいたしましょう。

 モンゴルの時代が12世紀…日本では鎌倉幕府ができる頃ですが…その12世紀から遡ることさらに1千年。つまり今から2千年以上も昔の話です。今のモンゴル高原に 「匈奴 (きょうど) 」 という1部族が遊牧をしながら生活をしておりました。

匈奴像1

 これが東アジアでは最初の本格的な遊牧騎馬帝国をつくった民族といわれるのですが、どうも日本人にはあまり知られていません。

 一つには、彼らが文字を残さなかった…つまり自分たちの生活を伝える言葉を何一つ後世に残さなかったということがあるでしょう。

 もう一つは、記録を残した中国人から 「文化の遅れた野蛮人、未開の蛮族」 として見られたことによってですね、正統的な中国史の筋道から外れた扱いをされていたということもあるでしょう。匈奴は中国史の中では常に悪役、仇役だったわけで、ほとんどいい扱いをうけておりません。

匈奴像17

 実際 「匈奴」 という字は凄い字を書くんですね。「凶悪」 とか 「凶暴」 、「凶器」 などというときの 「凶」 の字がありますね。おみくじの 「大凶」 とかいうときの 「凶」 ですね。

 その 「凶」 の字の上にツツミガマエ…漢字の 「包む」 という字がありますが、その上の部分を乗せたのが 「匈奴」 の 「匈 (きょう) 」 の字です。
 実際匈奴の人たちはフェルトの頭巾 (ずきん) をよく被っていましたから、まさに “頭巾姿の凶悪なヤツ” といったイメージでしょうかね。

 また、匈奴の 「奴(ど)」 は奴隷の 「奴」 と書きますから、これも当然いいイメージの字ではありません。ヤツとかヤッコとか言って、人をさげすむときに使う言葉ですね。

 もちろんこの 「匈奴」 という字は、彼らを悪役に仕立てた中国人が当てはめたもので、実際匈奴の人たちが自分たちを表現した言葉でありません。
 しかし、この漢字の当てはめからしても、いかに中国人が匈奴のことをバカにしながらも、恐れおののいていた…という感じが伝わってきませんか?

 では、実際匈奴の人たちが自分たちのことを何と呼んでいたのか? 
 実はこれがはっきり分かっておりません。
 多分、フンヌとかヒュンヌ…に近い発音をしていたのではないかといわれています。

 だから 「匈奴」 という文字も、古代の中国人はそれをフンヌとかヒュンヌ…に近い音 (オト) で読ませていたのかも知れません。

 とにかく匈奴に関しては謎だらけでして、彼らが人種的に何人なのか、それもよく分かっていません。
 多分、後の蒙古人と同じようなモンゴル系…我々の顔立ちに近いアジア人だったろうという説が有力なのですが、一部にはトルコ系だったという説もあります。

 また、昔、匈奴の王族の墓と思われる墓がロシア領内で発見されまして、その中に埋葬されていた人骨を調べてみると、アーリア人…白人ですね。それも北欧人のような体格をしていたというのです。
 
 そんなわけで、匈奴の指導層は白人だったという説もあります。トルコ系かモンゴル系か、それともアーリア系か。このへんもはっきりしないのが実状です。

匈奴像1

 そしてもっと謎なのは、一大遊牧帝国を作った彼らが、その後どうなったのか。
 もちろん長い漢との戦いのあと、匈奴は大分衰弱して仲間割れを起こし、その一部は漢に降伏して、中国内部で暮らすことになるのですが、仲間割れを起こしたもう一方のグループは、忽然と歴史の舞台から姿を消してしまうわけです。

 いったい匈奴の主力はどこに行ったのか?
 このあたりも歴史オタクたちの議論に登る大問題です。

 …で、匈奴の主力グループが中国史の舞台から姿を消す頃…つまり4世紀から5世紀の頃ですが…今度はヨーロッパ史の舞台にフン族という騎馬民族が登場します。それが、「ゲルマン民族の大移動」 ……世界史の勉強で習いませんでしたか?… 「ゲルマン民族の大移動」 。

 そのきっかけをつくったと言われる民族です。
 ゲルマン人たちが大挙してローマ帝国の内部に移動してきたのは、東からやって来たフン族という騎馬民族に追われて、その玉突き現象によるものだというわけですね。
 だから、ローマ帝国はこのフン族の侵略がきっかけで滅んだといってもいいかもしれません。

フン族の王アッティラ
 ▲ フン族の 「偉大なる王」 といわれたアッティラ

 で、このフン族こそ、実はアジアから姿を消した匈奴ではないかという説があるのです。
 獰猛で残忍、野蛮で好戦的。ヨーロッパ史に描かれるフン族の描写は、まさに中国人が描いた匈奴にそっくりなわけですね。

 しかも 「匈奴」 という文字は、古代にはフンヌとかヒュンヌとか読まれていたらしい。
 これなんかも、フン族の 「フン」 に近い響きがありますよね。

 さらに、匈奴が中国から姿を消した時期とフン族がヨーロッパに現れる時期が、計算的にもピッタリする…というわけで、「フン族=匈奴」 説を唱える学者もいるのですが、実はこれもはっきりしたことが分かりません。

 なにしろ匈奴もフン族も文字を持たない民族なので、記録というのが一切残っていないのです。

 もしフン族が匈奴ならば、彼らは、それこそ東アジアをスタートして西へ西へと進み、ついにはヨーロッパの中心地ローマの近くまで攻め登ったことになってですね、とてつもない広い地域を舞台に大暴れした民族ということになるのですが、それも現時点ではまったく証拠がないわけで、歴史上の謎になったままです。

匈奴像16

 ま、このようにですね、匈奴という民族を研究することは、様々な謎と向き合うことになるわけで、そこが 「匈奴ファン」 にとってはたまらない魅力になっているのでしょうね。

 今 “匈奴ファン” という言葉を使いましたが、確かに、匈奴という民族は、阪神タイガースと同じようにですね、なんか強いようで弱い、獰猛でありながらすぐ腰砕けになる…連勝を始めたかと思って応援に力を入れると連敗を続けるという感じで、とにかくファン層を形成するための基本条件を完璧に備えた民族ですね。

 人間は、あまりにも強くて完璧な民族や軍団にはファンになりませんね。ローマ軍ファンとかアメリカ人ファンとかいうのはあまり聞いたことがありません。
 しかし匈奴ファンというのは、確かにいますね。私がそうなわけですから。余談ですが…。

 では、匈奴はいったいなぜ中国の人々から恐れられたのか。
 それについてお話しましょう。

匈奴像8

 「天高く、馬肥える秋」 という言葉があります。
 日本では 「食欲の秋」 という言葉と同義語になっている言葉ですね。秋は食い物が旨いので、腹一杯食ってしまうので、つい太ってしまう…という意味合いで使われます。

 しかし実は、これは古代中国の農民たちの “嘆きに満ちたつぶやき” だったわけですね。
 馬肥える…つまり馬が逞 (たくま) しくなるという意味ですが、その馬は一体誰の馬か?
 
 もちろんこれは匈奴の馬なわけです。夏草を思いのままに食べた匈奴の馬が、その逞しくなった体に残忍な主人を乗せて、中国人を襲いに来るというわけです。

 つまり中国の農村では、秋の収穫時が近づいてくると、北の草原の彼方からやって来る匈奴に、農作物や家畜や人が奪われていたわけですね。
 このへんは黒沢明の 『七人の侍』 や、西部劇の 『荒野の七人』 に出てくる野武士とか山賊のイメージでしょうね。

 やっぱり匈奴は悪いんじゃん! ということになりますが、彼らは別に悪いことをしているという意識はなかったらしいんですね。

 他国の領土に侵略して、物を盗み、家畜や人をさらっていく。これは立派な犯罪行為でしょうし、侵略された方からすれば戦争を仕掛けられたようなものでしょう。

 しかし匈奴には戦争と狩猟の区別はそれほどなかったと言われています。

 つまり匈奴にしてみれば、それは森の中で鹿を狩ったり、ウサギを狩ったりする狩猟の延長だったわけですね。だから、適当にエモノを手に入れると、さっさと北の草原に帰っていきます。

匈奴12

 匈奴には、侵略した土地を占領するという考えは毛頭もありません。
 第一彼らには 「国境」 という概念がありません。

 遊牧というのは、馬や羊が食べる草を追って点々と移動して行くわけですから、彼らには町や村というものがありません。

 馬や羊が生きていける草原が続く限り、そこは自分たちの領土ですし、ウサギや鹿を狩猟する森林がある限り、その果てしなく続く森林全体が領土です。草原があるかぎり、そこに暮らすウサギや鹿や人や農作物はみな取ったものが勝ちなわけですね。

 随分自分勝手な考え方だと思うでしょうが、実際に匈奴にさらわれた中国の農民が悲惨だったかのかどうか。…そうとばかりはいえない面もあるようです。

 というのは、匈奴と中国…その時代の中国は漢の時代ですが、匈奴と漢が停戦協定を結んで平和にしていた時代もあります。

 その時、漢が匈奴に申し込んだことは、「匈奴に逃れようとした漢の農民を、匈奴は受け入れてはならない」 というのが条件だったというんですね。
 つまり漢の搾取の方が農民には辛く、匈奴の奴隷になった方が生活が楽だったという面もあるらしいのです。

 だから自分の田畑を捨てて、自ら奴隷になるために匈奴の土地に逃亡した農民たちも実に多かったといいます。
 働いても働いても搾取される中国にいるよりも、匈奴の土地で適当に毛皮など縫ったりしていた方が生活が楽…という考えもあったのでしょう。

 なにしろ中国人は一応文明人ですから、匈奴の世界ではとても重宝されます。
 文字が書けたり、数を数えるのが上手だったりすれば、匈奴の世界でどんどん出世します。

 そんなわけで、この時代は匈奴の宮廷の中に入って匈奴の王様に使えて活躍した中国人もいっぱいいたと言われています。

匈奴12

 それでは、次回は 「遊牧」 というライフスタイルがどんなものであるのか。また、それはどういう文化を形成したのか。そんなことをお話してみようと思います。
 
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。




コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:03 | コメント(7)| トラックバック(0)

赤い砂漠

《 昔の映画の現代的鑑賞法 15 》
「赤い砂漠」 (1964年)

 遊覧船に乗って、埠頭沿いに並ぶ工場群を見学するツァーが人気を得ているらしい。

 「工場」。
 それは、かつては無味乾燥で、うるおいがなく、「風景」 として鑑賞するのには最も適さない建物とされていた。

 ところが最近は、その巨大工場が居並ぶ殺風景なたたたずまいに、「幻想美」 や 「哀愁」 を感じる人たちが増えているという。
 「工場萌え」 などという言葉もあるようだから、「工場鑑賞ツァー」 という企画がウケているというのは本当の話かもしれない。

 確かに、鉄骨やパイプ類が複雑に絡まりあう巨大な工場が、ライトに照らされて夜の闇に浮かび上がるとき、ちょっとしたSF映画のワンシーンを見るような気分になる。

工場3

 「効率」 と 「生産性重視」 の原理に貫かれた近代工場は、無駄なデザイン性を峻拒するがゆえに、峻厳な威容を誇り、近寄りがたい神秘性を獲得する。
 そこに 「美」 を見出した 「工場萌え」 というのは、いわば倒錯した嗜好かもしれないが、そこに “今風” の美意識を感じることはできる。

工場2 工場1

 それにしても、工場のような殺風景で無機的な建物が、人々の興味の対象になるというのは、どういうことなのだろうか。

 たぶん、工場がいま急速に 「なつかしい風景」 になろうとしているからだ。

 赤くたぎった鉄が鉱炉を流れていくような光景が 「豊かな生産」 を意味する時代は、もう20世紀で終わってしまった。
 人々は、ようやくそのことに気づき始めたのだ。

 人を集中的に集め、効率よく配分し、大量にモノを生産するという工業社会が、時代の産業をリードする主役から降りつつある。
 そう感じる人々の無意識が、工場の風景にノスタルジックな美を見出したり、SFチックな思い入れを重ねたりするようになってきたのかもしれない。 

赤い砂漠DVD

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督が1964年に撮った 『赤い砂漠』 という映画は、いってしまえば、この 「工場萌え」 をテーマにした先駆的な作品である。

 冒頭から登場するイタリアの工業都市ラヴェンナの工場風景。
 奇怪な円錐形の煙突が建ち並び、動物の臓腑のように入り組んだパイプが縦横に張り巡らされ、むき出しの鉄柱が林立する近代工場が描写される導入部の映像は、たぶん当時の観客を、うるおいのない殺伐とした心境にいざなったことだろう。

赤い砂漠煙突

 この映画がつくられた60年代当時は、急速に工業化を遂げる社会においては、人間がそのテンポに追いつくことができず、人々の心が荒廃していくという観察が主導的であった。
 おりしも工業社会がもたらす 「公害」 が問題になり始めた時代でもあり、文化人の主張の中にも、「工場」 に象徴される近代的な工業空間に対してネガティブな印象を強調する論調が目立った。 

 当然アントニオーニも、そういう風潮を意識に据えながら、工場を舞台に選んだはずである。
 つまり、この映画の主役を務める人妻 (モニカ・ヴィッティ) が受ける精神的な受苦の根源には、人間疎外をもたらす近代工業社会の 「悪」 が絡んでいるという意識が彼にもあったように思う。

赤い砂漠モニカヴィッティ

 主人公の人妻は、交通事故の後遺症として、精神をわずらっているという設定になっている。
 彼女は、人を信じることができないし、人と心を通わすことができない。
 そして、そういう自分自身に対し、不安を感じ、怖さを感じている。

 殺伐とした工場の描写は、その彼女の心に映った心象風景といえるだろう。

 …にもかかわらず…である。
 彼の描き出す工場は、奇妙な美しさを漂わす。

 奇怪な紋様を描く工場のパイプ群は、さながらアブストラクト (抽象) アートのようであり、炎を噴き出す煙突群は、前衛芸術を試みるアーティストのパフォーマンスのように見える。

 そして、工場の壁やらパイプ類に塗られた不思議な赤色。
 それは、工場に働く労働者に注意を促がす 「赤」 ではなく、無機的な映像の中に生々しいアクセントを添える 「赤」 であり、工場機能とは無縁な、無意味な 「赤」 だ。

 つまり、アントニオーニは、生産拠点としての工場を採り上げながら、工場そのものは 「生産性」 とはまったく関係のない、巨大な抽象芸術であるという視点を持っていたことが分かる。

 今回、このレビューを書くにあたり、ネットに上げられた諸批評を当たってみた。
 すると、アントニオーニが舞台として選んだ工場を 「暗澹とした…」 「救いのない…」 と形容する論調と相半ばするくらい、「美しい」 という捉え方があることも判明した。

 「美しい」 と表現する人々の心情には、今の 「工場萌え」 に通ずる部分があるのだろうけれど、そういう現代的な美意識を、すでに60年当時のアントニオーニが持っていたということが驚異だ。

 彼の描く工場は、モノをつくる生産現場が当然持っているはずの 「熱い力動感」 に欠けている。
 煙突からは、常時真っ赤に燃える炎が立ち昇り、敷地内を火事のような噴煙が埋め尽くすことがあろうとも、それは、どこかおとぎの世界の出来事のように現実感がない。 
 そこには、ジョルジョ・デ・キリコが描く北イタリア諸都市に漂う、空漠とした静けさが漂っている。

キリコ062

 アントニオーニの捉えた工場風景は、限りなくキリコの描く 「廃虚のような街」 のイメージに近づいていく。

 思えば、工場も廃虚も似ている。
 それは、ともに 「生活」 がぽっかりと失われた空間である。

 廃虚の本質は、かつてそこで営まれた人々の 「生活」 が霧散し、その抜け殻だけが取り残されているという 「空虚感」 にある。

キリコ05

 工場も同じ。
 モノを生産するという機能に特化した建物なのだから、そこに、人が生活できるような影を探すことが難しい。
 ともに、「人間の不在」 を暗示させるような空間なのだ。

 だからこそ、それは 「人のいない世界」 へ人間を導く 「入口」 となる。
 工場も廃墟も、ともに異界への 「通路」 という役割を帯びている。

 主人公の人妻がわずらっている神経症というのは、いわば 「異界」 の存在を感知した人間のメタファーとして読み解くことができる。
 
 この映画に繰り返し登場するタンカーや貿易船やヨットなども、また 「異界」 を象徴する。
 
 主人公とその夫、さらに同僚の家族たちが過ごす掘っ立て小屋での休日。
 埠頭に建てられた掘っ立て小屋の窓を、突然巨大なタンカーの横っ腹がふさぐ。

赤い砂漠貿易船

 どこの国の船なのか、小屋のそばに着岸した目的は何なのか、主人公たちにはそれが分からない。
 その場にいた誰もが、錆びた古めかしい船体に言い知れぬ威圧感と不安感を抱く。
 中でも、精神が不安定な主人公の人妻は、それだけでパニックに陥る。
 彼女だけは、その船がこの世のものならぬ 「異界」 からの使者であることに気づいたからだ。 

 この映画では、途中、美しい白浜と透明な水に恵まれた海岸の描写が挿入される。
 主人公の人妻がわが子に語る “おとぎ話” に登場する風景なのだが、その平和で牧歌的な風景が、どういう意図であったにせよ、殺伐とした工場風景や、不気味なタンカーとの対比として持ち出されたことは明らかである。

 だが、その美しい海の彼方には、1隻の無人のヨットが浮かんでいる。
 青い海の上にひるがえるヨットの白い帆は、とても美しい。
 なのに、操る人間の姿が見えないということが、その映像を観客の心に不安の影を投げかける。

 このシーンにおいても、「船」 はまたしても異界からの使者という役割を負わされている。

 無人のヨットはどこから来て、どこに去ろうとするのか。
 それがこの世ならぬ場所から来て、この世ならぬ場所へ帰っていこうとしていることは明白だ。

赤い砂漠画像1

 アントニオーニは、繰り返し、繰り返し、ひとつのことを言おうとしているに過ぎない。

 「この世のどこかに、異界への通路が口を開けている」

回廊1
 
 異界とは何か?

 自分が自分になる場所。
 あるいは、自分が自分でなくなる場所。
 不安が渦巻き、立ってはいられないくらい怖い場所。
 にもかかわらず、この世とは別の 「美」 に満たされた場所。
 
 そういう場所を感知することを、60年代当時は 「不条理」 という言葉で表現した。
 
 この映画を含め、アントニオーニのつくる映画は難解だという指摘が多いが、突如人間の前に姿を現す茫漠たる 「異界」 が人間にとって 「難解」 なのは、無理からぬことだろう。


アントニオーニ 「欲望」
アントニオーニ 「太陽はひとりぼっち」
アントニオーニ 「夜」

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:56 | コメント(2)| トラックバック(0)

オレオレブログ

 読んでいるうちに、次第に腰が引けてしまうブログというのがある。

 オレオレブログだ。
 オレの話を聞けぇ! ってやつ。

 もともとブログというのは、個人の日記をウェブ上で公開しようというものだから、ネットで公開されている以上は、「ねぇねぇ読んでね!」 という気持ちが反映されているわけで、どんな慎ましやかな体裁をとろうが、基本的に 「オレオレブログ」 であることには変わりない。

 それは分かるのだが、露骨に 「オレオレ」 度が強く匂ってくると、ちょっと腰が引ける。
 匂いがさらに濃厚になると、反発心がわく。

 そして、耐えきれないまでに臭くなってくると、逆に興味がわいて、書かれている記事のアラ探しをしたくなってくる。
 アゲ足の1本か2本でも取ってやろうかいな…というイタズラ心も芽生えてしまうわけだ。

 世の中には、炎上するブログというのがあるけれど、そういったブログは、きっとオレオレガスが充満してパンパンになっている状態なんだろうな。
 だから、よそから火の粉が飛んできたら、ちょっとした火でも、あっという間に大爆発することになる。

 で、ある日、調べものの最中に、なんとなく腰が引けてしまうブログを拾ってしまった。

 書き手が中年のオバさんらしいので、「オレオレ」 というより 「ワタクシ・ワタクシ」 ブログなんだけど、もうどの記事を拾っても 「読んでね、読んでね、読んでね」 なのである。
 読んでね…はいいのだけれど、「頭いいでしょ? 勉強しているでしょ? 実力あるでしょ?」 と他人の賞賛を露骨に期待しているところが、ちょっと痛い。

オレオレキング
▲ オレオレキング 

 そのブログのテーマは何かというと、「マクロ経済」 。
 作者はフリーの金融系ライターさんらしい。
 
 プロフィールを拝読すると、
 「どこか真っ直ぐなところのある私にとっては、○○誌は日本一の経済金融専門誌。そこで働けるようになって、天にも昇る気分…」
 と書かれているのだが、自分のことを 「真っ直ぐな私」 とか、自分の働き先を 「日本一の…」 と表現する “素直さ” は、自分には持ち合わせがないので、腰がスゥーッと引けた。
 要するに、「前に出よう、出よう」 とする作者のパワーに押されて、その分、自然にこっちが引いた感じなのだ。

 で、この方のプロフィールも、オレオレ度が全開であった。
 国立の一流 “ブランド大学” を卒業して、経済政策論を専攻し、日本の○○研究の第一人者である○○先生に師事した……らしいんだけど……別に書いたって悪かないけど、でも自分の仕事に自信があるなら、何も 「第一人者に師事した」 とか、ブランドを誇示する必要もないんじゃないのかな、という気がしたのだ。
 ま、俺ならしない (というか、人に誇示するほどの学歴がない) 。

オレオレブラザーズ
▲ オレオレブラザーズ

 で、この方は、また自己セールス欲が旺盛なのである。
 偉い経済学者さんとか、政治学者さんとかが運営する人気ブログにコメント送ったついでに、自分のブログのURLを張り、「一読していただいて、ご高評いただけたら感謝です」 と書き込んで、巧みにその先生や、多くの読者を自分のブログに誘導している。

 まぁ、このくらいの努力がないと、フリーランスとして成功できないことは分かるけど、いきなり初コメントで、「自分の原稿読んでください」 とお願いするのはどうなんだろう…。
 いくらブログとはいえ、論文ともなれば、それ相当の文字数もあるだろうし、相手の負担だって考えなければいけない。
 俺はちょっと厚かましいように思う (人それぞれだけど) 。


 で、この方がブログを開設された目的は、
 「大手マスコミが金融経済リテラシーの普及をしないなら、私が専門用語を使わずに、分かりやすくやります」 
 というところにあるらしいのだけれど、俺、「リテラシー」 という専門用語でつまずいた。

 で、この方が求めているものは、「金銭的な豊かさを維持できる楽しい社会」 であり、そのブログもそういう社会を実現するためのものだという。
 
 で、「金銭的に豊かな社会」 を実現するためには何が必要かというと、「生産力を上げるしかない」 という。
 「生産力が上がれば、子供も増えて、日本の人口も増え…」 、そうすれば市場も広がり、税収も増えて、社会が潤う、…というビジョンをお持ちのようなのだ。

 だけど、この説にはちょっと疑問 (もしくは説明不足) を感じる。
 「生産性の向上」 がすべてという発想には限界がある。

 「生産性の向上」 といっても、今の産業構造をそのまま踏襲した形の 「生産性の向上」 では、「供給の過剰」 を避けることはできない。
 それは、やがては 「需要の縮小」 に移行してしまう。

 さらに、今の雇用システムを維持したままの 「生産性の向上」 では、新しい設備や生産法などが導入されてくると、その帰結として、労働力の省力化が図られ、労働者のリストラがさらに加速する。
 
 だから、これからの時代は、「生産性の向上」 を従来の経済システムとは別の文脈の中で探さねばならないのだ。
 言ってしまえば、「生産性の向上」 の前に、「経済システム」 の再編成があるように思う。

 ところが、この方は 「生産性の向上」 を何よりも重視するから、それを阻害する要因を許しておくことができない。

 「日本には、生産性の向上を目指す “市場主義” が嫌いな人たちが多くて困ったものだ」 
 と彼女はいう。
 おそらく 「アメリカ金融資本主義は崩壊した」 とか声高に主張する文化人たちのことを指しているのだろう。

 こういうアンチ市場主義的な言動に対して、彼女はこういう。

 「日本では “市場主義” が極端に排斥されすぎて、それに代わって不公平きわまりない “私情主義” がはびこるようになった。
 中高年・高齢者が、そういう私情主義を振りかざして、自分の既得権ばかり主張するから、20代~30代の若者にしわ寄せがいく」
 したがって、
 「ろくな仕事もせずに高賃金をもらっている中高年管理職を引退させ、若年労働者に仕事の場を与えろ」
 と最後は、アクロバティックな結論に、宙返りジャンプで着地する。

 若い世代の気持ちを代弁しているような説なので、よくぞ言ったと溜飲を下げる人もいるかもしれない。

 だけど、この主張もロジックがねじれているように思える。
 もちろん気持ちは分かるけれど、引退させた中高年をどう扱うのかというビジョンは、この記事を載せたブログの範囲では見つからない。

オレオレファミリー
▲ オレオレファミリー

 この方の論理展開には、どこか 「人間を置き去りにしている」 という匂いがある。
 記事を読んでいると、「人にとってお金は大事」 という命題を支えるはずの 「そのお金で何を実現するのか」 というテーマが見えてこないのだ。
 
 基本的に、投資家のメンタリティなのだろう。
 投資の妙味を覚えてしまうと、世の中の関心事はお金の動きだけになってしまう。

 そうなると、知的嗜好も、お金の動きを知るための情報領域に狭められていく。

 この方のプロフィールの 「趣味欄」 にはこう書かれていた。
 「読書は分野を問わず、文学以外なら、なんでも好きです」

 さりげなく書かれているけれど、これは 「文学などが好きな人間には経済は語れない」 という、文学に対する猛烈な差別意識もしくは敵愾心 (てきがいしん) の表明だと読める。
 「なんでも好きです」 と言っておきながら、「文学」 だけを名指しで排除しているわけだから、これははっきり 「嫌い」 といっていることになる。

 きっと、読んでもお金の動かない 「文学」 よりも、お金がダイナミックに流動する 「金融経済」 の方に魅力を感じるということなのだろう。

 しかし、文学は金融経済を扱えるが、金融経済は文学を扱えない。

 「文学」 というのは、「人間学」 でもあるわけだから、そこには、人間が関わるすべての業が集約されている。
 恋愛ありの、戦争ありの、哲学ありの、政治ありの…で、もちろん経済もそこに含まれる。
 つまり、「政治」 や 「経済」 を人間を絡めて描くのが 「文学」 なのだから、それが理解できないということは、経済を人間の関わる学問として理解できないという致命的な欠陥となる。

 結局、人があっての経済である。
 だから、「経済の魔力」 に関心を示した鋭い作家たちは、その 「魔力」 にひれ伏したり翻弄されたりする人間のドラマも同時に思い浮かべることができた。

 古くは、城山三郎、梶山季之、堺屋太一。
 最近では、企業買収の裏側を暴いたドラマ 『ハゲタカ』 の原作者として脚光を浴びた真山仁。
 彼らは、経済原理を描くことで、人間の原理も解明した。

 「人間」 が分からないと、「中高年・高齢者」 も 「若者」 も等しく単なる 「労働力パーツ」 にしか見えなくなる。
 「若者を救うために、中高年・高齢者を引退させろ」 という彼女の 「排除の論理」 はそこから出てきているように思う。

 そうだとしたら、状況が変われば、今度は 「若者を切り捨てろ」 という話になっちゃうかもしれない。

 …ってな揚げ足取りをさんざんやったけれど、ここに引用した文献以外の彼女の経済分析は、それなりに面白かったし、勉強になった。
 それは素直に認めたい。

 だけど、もう少し 「オレオレ」 度を下げたらいかがか。
 上昇志向が強すぎて、読んでいると痛すぎる。
 いいとこ突いてんだから、損していると思うけどなぁ。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:39 | コメント(4)| トラックバック(0)

レストランの深夜

 人のいない部屋で、小さな物音がする。
 何もない場所なのに、何かの匂いが漂う。

 こういうことって、やはり…ちょっと人間を不安にさせる。

 五感の働きが鈍い私は、かえって日常生活の中の小さな異変を誇大に考え過ぎてしまう傾向があるのだが、たいていは 「錯覚」 であることが多い。

シガーポスター

 しかし、いまだにどう考えても、腑に落ちない小さな事件がある。
 私は勝手に、それを 「深夜レストラン事件」 と名付けて、友人たちと怪談話するときに、ときどき披露した。

 ま、厳密にいえば 「怪談」 ではない。
 たぶん、これも私の得意な 「錯覚」 ないしは 「妄想」 のたぐいだろうけれど、その奇妙な感覚がなかなか捨てがたいので、この場でもちょっと記しておく。


 20代のはじめ、レストランでバイトをやっていた。
 「イタリアン」 を看板にした店だったが、それ風の料理を出していたのは最初のシェフのときだけで、2代、3代とシェフが変わるに従って、カレーも出れば、ハンバーグも出るという普通の 「食堂」 に変わっていった。

 それでも私はその店が好きだったので、けっこう長く勤めた。

 建坪が狭いために縦方向に伸びた店で、1階がスナックと厨房。
 2階が私の持ち場のレストラン。
 3階が倉庫と更衣室だった。

 私の勤めは、その2階レストランのウェイターだったが、1週間ほどでレジの売上げ管理を任され、3ヵ月ぐらいで、そことスナックの掛け持ちをやらされ、最後は店の鍵を託されて、シャッターを降ろす役目までもらった。

 それだけ店主に信頼されていたのだと思う。

 春先のことだった。

 1階のカウンターに粘っていた最後の常連客を追い出し、看板の明かりを落とし、コップや皿を洗い場に運んだ。
 洗い物や床掃除は、明日の早番の子がやるので、1階の片づけは照明を落とせば終わり。

 3階の更衣室まで上がって、着替えることにした。

 途中、階段の踊り場に立って、私の持ち場である2階のレストランに視線を向けた。
 合板張りのドアの中心部分にはガラス窓が設けられていて、それを通して深い闇に閉ざされた室内が見えた。

 そこを通り越して3階まで上がり、3階の電気をつける。

 タタミ3畳ほどの更衣室は、従業員の休憩場所にもなるので、いつも読みかけのマンガ雑誌やコーラの空き瓶や、灰皿からはみ出したタバコの吸殻が散乱していた。

 白シャツを脱ぎ、黒い蝶ネクタイを外す。 
 散らかった空き瓶を足で転がしながら、黒いウールのズボンを脱いで、ジーンズにはきかえる。

 そのとき、2階レストランのドアが、そぉっと開くような音がした。

 もう店内に残っている従業員はいない。
 誰かが忘れ物を取りに戻るには、遅すぎる時間だ。
 走っている電車などないのだ。

 ただ、一度だけ前にもそんなことがあった。
 商店街の旦那たちと麻雀していたマスターが、合い鍵でこっそり入ってきて、レジの引き出しを開けながら 「ちょっと軍資金借りるよ」 と、決まり悪そうに苦笑いしたことがあった。

 またか…。
 そう思って、ドアの前の踊り場に立つ。

 窓ガラスの向こうは相変わらずの暗やみだった。
 店主が戻ってきたなら、明かりが灯っているはずだ。

 気のせいか…。

 両手をポケットに突っ込んで、階段を降りようとしたとき、部屋の奥から小さな音がした。

 カチッ…という微かな音。
 オイルライターのフタを閉じる音だった。

 …誰かがいる。
 自分の動きも止まった。 

 しかし、手ぶらでうっかり踏み込んだりしたら、相手が強盗の場合は逆襲されてしまうかもしれない。

 警察でも呼ぶか…
 ドアのガラス窓から身体をずらし、向こう側から見えないような位置に立って、しばらく中の様子をうかがった。

 10秒経ったか、20秒経ったか…。
 それとも1分か2分か。
 ずっと待ったが、それ以上の音は聞こえてこない。

 考えてみれば、物盗りなら、ライターをつけてゆったりとタバコなどふかすはずがない。
 合い鍵をもっている従業員はもう一人いたので、そいつが何かの理由で戻ってきたのかもしれない。

 思い切ってドアを開け、スイッチに手を伸ばして、部屋中の明かりを付けた。

 六つのテーブルと24脚の椅子が、仕事が始まる前の見慣れた光景のように浮かび上がった。
 しかし、どの椅子にも主 (あるじ) はいない。

 ただ、部屋がL字型になっているために、死角となる七つ目のテーブルが確認できない。

 ゆっくりした歩調で、七つ目のテーブルが見える位置まで体を移動させた。

 ぽっかり空いた空間には、きれいに片付けられたテーブルが広がり、そこに据えられた四つの椅子に、腰かけている者はいなかった。

 だが、ひとつだけ、他の席とは異なることが起こっていた。

 タバコの匂いが漂っていたのである。
 外国タバコの匂い。
 当時、ハイライトですら贅沢だった私にとって、2倍以上の価格のする外国タバコなど吸える機会はない。

タバコの煙

 しかし、この匂いだけは知っている。
 ピースにも似たヴァージニア葉タバコの甘い香り。
 イギリスのロスマンズだった。

 友だちの家を訪ねたとき、海外旅行によく行くというそこの親父さんが、お土産だといってタバコをワンカートンくれた。
 それがロスマンズだったので、その 「ありがたい匂い」 はよく覚えている。

 だが、なぜその匂いがここに?

 匂いが消えていないということは、たった今まで、誰かがここにいたということになる。
 そう思ってテーブルを眺めると、虚空をたなびく煙の影さえ見えそうに思える。

 窓の鍵を確認した。
 全部内側からロックされているので、窓から人が飛び降りたとは考えられない。

 室内には、人が隠れるようなスペースはない。

 ドアから出て行った人間はいない。

 先ほど感じた恐さとは、別の恐さが身体を貫いた。

 七番目の席から目を離さないように、ゆっくり後ずさりながら遠ざかった。

 念のため、レジのお金だけは確かめようと思った。

 財布の中に収めたレジのキーを取り出して、中を調べる。
 異常なし。
 私が閉めたときと同じ状態で、1万円札と5千円札と千円札、さらにコインが100円玉、10円玉に分けられたまま、しっかり収まっていた。

 レジの前に立ったまま、萎えそうになる心を奮い立たせ、しばらく立ち尽くした。

 しかし、いくら考えても、ライターでタバコに火を付けた犯人が分かることはなさそうなので、私は帰ることにした。

 帰り際、厨房もトイレもみなチェックしてみたが、隠れているような人物は一人もいなかった。


 この話は人に何度か話しているうちに、実はあまり怖くなくなった。

 タバコの匂いなど、外から単に排気口を伝わって流れてきたものかもしれない。
 そう思うと、今ではあのロスマンズの香りが、なんだか懐かしいもののように思える。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:00 | コメント(0)| トラックバック(0)

チェ・ゲバラ

 巷でチェ・ゲバラの人気が復活している。
 なんでも、今年はキューバ革命から60年目に当たるらしい。
 映画 『チェ28歳の革命』 、『チェ39歳別れの手紙』 という2本の映画も公開されているから、それもゲバラブームの原動力になっているようだ。

チェ・ゲバラ2

 チェ・ゲバラ。
 1959年のキューバ革命のとき、革命軍のリーダーとなったフィデル・カストロのナンバー2として活躍し、革命を成就させた立役者の一人。

 世界的な人気が出たのは、むしろ死後のこととなる。
 キューバに革命政府が樹立され、同志のカストロが首相となったにもかかわらず、ゲバラは政府の要職に就くこともなく、社会主義革命を世界に広げるために、ゲリラ部隊の1リーダーとしてボリビアに潜伏する。
 1967年10月。
 ゲリラを執拗に追い続けたボリビア政府軍に捕捉され、銃殺。

 それにより彼は、当時世界的に広まっていた学生たちの反体制運動を支えるシンボルに昇華した。

 まぁ、カッコよかった。
 われわれの世代は、たいてい部屋に1枚はゲバラのポスターを貼ったり、その顔を染め抜いたTシャツを着たりしたものだ。

 そういう行為は、革命家としてのゲバラを崇めるという意味以上に、彼の闘志をみなぎらせた目の力が、ヴィジュアル的にカッコよかった…ということだったと思う。

 もちろん、私の部屋にも、しばらくこのポスターは貼られていた。
 当時、自分の部屋に貼ったポスターが2枚あった。
 1枚がこのゲバラ。もう1枚が、まだ 「Tレックス」 とは言わずに 「ティラノザウルス・レックス」 と名乗っていた頃のマーク・ボランだった。
 まぁ、私にとって、その両者は同価値だったのだ。

 さて、ゲバラ。
 冷戦が終結して以降、「社会主義政権」 を標榜する国家が次々と倒壊し、革命期のリーダーの権威が次々と地に落ちていくなかで、「ゲバラ人気」 だけは生き残った。
 たぶん、キューバ革命で失われた犠牲者たちの姿を、ラテンアメリカの陽気さが弾きとばしてしまったからだろう。

 なにしろ、革命歌として歌われたのが 『グアンタナメラ』 なのである。
 あの村祭りの陽気さしか想像できない 『グアンタナメラ』 を歌いながら行進する革命軍兵士たちが、残酷なわけがない。
 歌を聞いて、誰もがそう思った。

 そんな雰囲気的な明るさが、キューバ革命のイメージをよくしている。
 事実、戦争も粛正もそれなりにあったが、他の社会主義革命が成就するときに伴う犠牲者の多さに比べれば、キューバ革命は微温的で牧歌的な革命だった。

チェ・ゲバラ

 そのような革命を指導した男というイメージがついて回って、ゲバラはちょっと得をしている。
 ヒーローには 「優しさ」 も必要だからだ。
 そういった意味で、彼は今日までヒーローであり続ける唯一の 「社会主義革命家」 ではなかろうか。

 突き放したような残酷な言い方になるが、いい歳で死んだと思う。
 39歳。
 しかも、キューバ政府の高官という安定した地位を返上して、環境劣悪なジャングルの中で、最後まで理想を捨てずに迎えた戦死だった。

 才能に恵まれ、高い理想を掲げながら、志半ばで夭逝 (ようせい) した者は 「神」 になるという法則がある。

 もし生きながらえていれば、その人の掲げていた偉大な 「理想」 がきっと実現し、素晴らしい世の中が生まれていたに違いない…と人々が惜しむとき、死者が掲げていた 「理想」 は、ますます悲劇の純度を高め、天を焦がすほどの光彩を放っていく。

 本当は、長生きをして、理想を達成した人の方がはるかに偉大なのだろうけれど、長生きし過ぎた偉人は、なかなか 「神」 には成れない。

 このことは何を意味するのか。

 人間は、本当は 「理想」 の実現など望んではいないのだ。

 実現した退屈な 「理想」 より、実現しない輝かしい 「神」 。
 当時、学生運動をやっていた人々が抱いていたホンネは、そんなものであったように思う。

 『モーターサイクル・ダイアリーズ』 が観たいな…。

モーターサイクルダイアリーズ 
 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:20 | コメント(2)| トラックバック(0)

生き残る言葉

 たった1年…いや半年の間に、世界がこれほどまでに変わってしまった時代というのは、今まであったのだろうか。

 毎日報道される 「不況の深刻化」 。
 “派遣切り” などに象徴される 「雇用の不安定化」 。

 連日そういうニュースがテレビやら新聞で流れ続けると、もうかなり前から大不況が世を襲っているように思えてしまうのだが、実はわずか半年前ぐらい前、庶民が抱える一番の悩みのタネは 「ガソリンの高騰」 だったのだ。

本屋の店内

 本屋を回って、棚に並ぶ本の背表紙を眺めていると、世の中の急転直下の変貌ぶりがよく分かる。
 『 トヨタはなぜ強いのか 』
 『 トヨタ式改善の進め方 』
 『 ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか 』

 そういう本が、「金融資本主義の崩壊」 を叫ぶ本の嵐にまぎれて、ひっそりと、まだ棚差しになっている。
 もちろん内容的には今でも読むに値することが書かれているのだろうが、少なくともタイトルだけ眺めると、世の中の変化から取り残された本の悲哀が漂ってくる。

 たぶんこの急変動を受けて、マスコミのプロジェクトの中には軌道修正を迫られた企画がずいぶんあったに違いない。
 うちでも半年前に企画したものの中には、問題をさらに掘り下げないと使えない状態になってしまったものがある。
 同じテーマを継続しても、より真剣に考えたものにしておかないと、今の不安定な社会の空気を呼吸している人たちには読んでもらえないという危惧がある。

 この時代、どんなに “良いこと” を言っても、書いても、発言者に緊張感がないと受け手の胸に届かない。
 その “緊張感” も、頭の中でこさえたものではなく、自分の身体で感受したものでないと、相手に通じない。

 今ほど、ものを書いたり発言したりする人の 「本当の力」 が問われる時代はないのではなかろうか。

 世間で活躍している物書きは、だいたい40歳代から団塊の世代あたりが中心となっているが、同じ時代の空気を吸っているはずなのに、すでに20歳代の人たちとは相当な意識のズレがあるように思える。

 たとえば、日本の経済成長と自分の成長が、終始右肩上がりで重なってきた団塊の世代は、この未曾有の危機状況に向けて、「過去の成功体験を捨てて、一から出直そう」 などとよくいう。
 しかし、「失われた10年」 に思春期を迎えた若い世代には、成功体験なるものが最初から存在しない。

 つい10年ほど前は、ニートやフリーター志向の若者が 「自分探し」 をテーマに職を転々とすることを、まだ 「ロマンの追求」 といって温かく見守る人がいた。
 一方、そのような若者傾向を 「甘え」 だと非難し、「辛い仕事に耐えることこそ自分のスキルアップにつながる」 と指摘する大人たちもいた。

 しかし、今ではどちらの言い分も古色蒼然としたものになってしまった。
 要するに、多くの物書きがストックしていた現代社会を解釈するための情報や知識は、いま急速に効力を失いつつあるように思う。

 こういう時代に、人々の心を支える 「言葉」 を発することできる物書きというのは、どういう人たちなのだろう。

 時代の変化に耐えうる言葉を持っている人。
 身もフタもない言い方をすれば、そういうことになる。

 氾濫する情報の渦に巻き込まれず、自分の頭で考え、自分で答を出してここまで歩いてきた人。
 自分の吐いた言葉を、そのまま自分の生き方として貫いてきた人。
 そして、吐いた言葉の責任をしっかり取ってきた人。

 今、緊張感をはらんだ言葉を吐ける人というのは、たぶんそのような人たちだろうし、そういう人でなければ、他者の心も動かせない。

 当然、そういう言葉を吐ける人になるためには、まず自分自身で考える習慣を持っていることが前提となる。

 「情報」 に頼っている限り、そこから導き出されるのは 「分析」 だけとなる。
 「分析」 だけになれば、「情報」 の変化によってころころ立ち位置も変わる。

 「情報屋」 ではなく 「思索家」 が求められる時代になったと思う。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:14 | コメント(8)| トラックバック(0)

和をあそぶ

 世界中の誰もが、今を 「変化の時代」 と捉えているという。
 そういう時代を生き抜くためには、時代の流れに応じて自分自身も変化しなければならないと思う人は多いだろう。

 しかし、変化の時代を生き抜く秘訣は、時代と同調することではないかもしれない。

 むしろ逆だろう。

 変化しないものを評価する視点。つまり、変化しないものに 「新しさを発見する視点」 が大事なのだ。


《 桂離宮 》

桂離宮庭

 正月4日の夜。NHKスペシャルが 「桂離宮」 を特集していた。
 桂離宮というのは、江戸時代のはじめ、公家の八条宮家によって造営された建築物で、日本的な建築様式を代表するものだといわれている。
 その歴史およそ400年。
 まさに 「変化しないもの」 の代表例といえるものだが、NHKは、この古典建築物をけっこう “新しいもの” として捉える視点を打ち出していた。

 まず、映像がみな新鮮だった。
 特に、室内造形を紹介するとき、従来の日本的な “ワビサビ” 像を廃し、光と影のコントラストを強調したダイナミックなカメラワークを採り入れることで、新しさを出すのに成功していた。

 たぶん、障子 (しょうじ) の向こうからライティングを仕掛けたりして、自然光を補足するような演出がたくさん試みられたのだろう。
 その効果があって、障子とタタミで構成される室内には、ガラス窓の部屋とはまったく違った、闇と光がファジーに解け合う斬新な空間が生まれていた。

桂離宮室内1

 障子は、外界と室内を視覚的に遮断するわけだから、本来なら中にいる人に閉鎖感を強いるはずである。
 なのに、障子の部屋には、野外と室内との自由な空気の往来が感じられる。
 内と外を隔てているのが、「和紙」 というナチュラルな有機素材だからだ。
 こんなにエコロジカルで、かつセンシティブな 「採光装置」 が他にあっただろうか。

桂離宮1

 つまり、障子は 「室内の中にまで招き入れた自然」 ともいえるわけで、たとえ視界が閉ざされていようとも、ガラス窓で仕切るよりも、はるかに風の流れ、木々のざわめきなどを感じられるようになっている。

 そこから、モノを 「視覚」 で確認するのではなく、「気配」 で察知するという日本文化の特徴が育まれてきた。
 そのような 「視覚で確認できない情報」 をキャッチする能力は、デジタル情報が瞬時のうちに世界中を駆けめぐるような時代になってくると、ますます必要になってくるのではないかと思う。


《 江戸の切り紙 》

 桂離宮の中に 「新しさ」 を見出す番組が出てきたように、ここ最近、日本古来のアートやデザインの中に 「新しさ」 を発見する企画があちらこちらで台頭してきた。

 その一つが、『和をあそぶ 江戸の切り紙』 (エキグチクニオ著 / 太田益美 デザイン 誠文堂新光社 ¥1,680) という本である。

和をあそぶ 江戸の切り紙

 江戸期の庶民生活の定着した衣服、襖 (ふすま) 、風呂敷、松飾り、扇子 (せんす) 、ウチワなどの日常品には、おびただしい紋や文様デザインが使われた。
 それらの中には、「市松」 「三つ巴」 など、今でも多くの人が親しみを感じる人気デザインも多く、「花菱」 「青海波」 といったように、言葉が定着して知られるようになったデザインも多い。

紋様x 市松模様

 これらの日本的な紋や文様は、どういうところに特徴があるのだろうか。

 ずばりいうと、それは 「抽象度の高さ」 にある。
 近世から近代にかけての西洋デザインは、具象性かあるいは装飾性を偏執的に追求する傾向が強かった。
 それに対し、日本デザインは、よけいなものを削ぎ落として、モノの本質にずばりと迫るデザインを志向した。

 これはとても高度な 「抽象力」 を要求される仕事だ。
 「抽象力」 は、鋭い直感と緻密な計算の、両方のバランスの上において初めて生まれる。
 そして、そのような抽象度の高いデザインが庶民生活に浸透していたということは、供給側の仕事レベルをそのまま評価できる、受け手の文化レベルが整っていたことを意味する。
 たぶん、300年続いた江戸期の平和が、「遊び心」 や 「粋の精神」 といった洗練された精神文化を人々にもたらしたためであろう。

紋様_3

 本書は、そのような江戸の庶民生活を彩った数々のシンボルマークやテキスタイルデザインを、紙とハサミを使って再現するというペーパークラフトの指南書である。
 その手順は、すべて写真入りで解説されており、必要な 「型」 はコピーが取れるように、巻末にサンプル集が添えられている。

 そういった意味では 「実用書」 なのだが、単なる実用書にとどまることなく、立派な美術鑑賞本としても耐えうる魅力を秘めているところがミソ。

紋様4

 紹介されている 「紋切り」 「文様切り」 「切り絵」 などの作品例は、見慣れたはずの伝統デザインにすぎないのだが、どれも高級ホテルのバーカウンターなどに飾られていると似合いそうという雰囲気のものばかり。
 つまり、そこに紹介されているデザインがけっして過去のものではなく、「現在進行形」 のデザインとして機能することが本書では謳われている。

 それを実現したのは、本の力だ。
 デザインワークがいい。
 全体的に、写真がきれいであるばかりではなく、紋や文様をあしらった作品の色使い、ページの中に置かれた位置などが、どれも絶妙なのである。

 この本においても、「昔から変わらないもの」 の中に、現代を超える 「新しさ」 を見出そうとする試みが行われている。
 世界を覆う 「変化の嵐」 は、日本文化の再発見をうながす力となるような気がする。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:25 | コメント(4)| トラックバック(0)

イノセンス

 またまた “テレビネタ” で恐縮なんだけど、深夜テレビで押井守監督のアニメ 『イノセンス (INNOCENCE) 』 を観てぶっ飛んでしまった。
 もうこの歳になると、最近の若い世代を対象としたアニメなどはなかなか観る機会がないし、また積極的に観ようとする情熱も湧かない。

イノセンスジャケ

 だから正月休みのようなときに、テレビのチャンネルをザッピングしているうちに偶然出合うしかないのだけれど、この 『イノセンス』 に出合ったのは僥倖 (ぎょうこう) だった。

 観たのは途中からだったが、上海か香港のような中国系の裏街の情景が出てきた時から、あ…っと目が釘付けになった。

 明らかにアニメの画像とは分かるのだが、実写のような深い奥行きがあって、奇妙なリアリティがある。
 そのトーンは、モノクロ時代の 「フィルムノワール」 といわれた犯罪映画に人工的な着色を施した感じで、暗さと、あいまいさがほどよくブレンドされ、犯罪の匂いの立ち込める裏町の猥雑さと、わびしさと、アンニュイが情感たっぷりに表現されていた。

 何なんだ? これは…。 
 そのまま目を凝らして画面に見入った。

イノセンス9

 人間と、サイボーグと、ロボットが共存する2032年の世界。
 そこで、人間の愛玩用として開発されたロボットが、持ち主を惨殺するという事件が起こり、サイボーグと化した主人公がその捜査に乗り出すという設定なのだが、とにかく、デジタルコミュニケーションの専門用語がやたら出てくるし、それに輪をかけて、哲学的な会話が頻繁に登場するので、何が起こっているのか半分も理解できず、事件の背後関係がなかなかつかめない。

 にもかかわらず、ぐいぐい引き込まれてしまって、途中でオシッコに行くのももったいないという気分になってしまった。

イノセンス7

 何が凄いのか。
 こんな映像は見たことがなかったのだ。
 最近のアニメや3Dゲームの画像に慣れてしまった人にはどうってことのない映像なのかもしれないけれど、せいぜいディズニーや宮崎駿アニメとポケモン、ドラえもんぐらいしか知らなかった自分にとっては、驚愕の世界だった。

イノセンス4

 あらゆる映像が、「引用」 に満ちていたのだ。
 主人公たちのセリフも、古今東西の文学、聖書、仏典などの引用に満ち溢れているのだが、画像そのものが世界のあらゆる建築物、SF映画の古典、古今東西の名画の膨大な 「引用」 から成り立っている。

イノセンス2

 特に、街のカーニバルのシーン。
 街路を練り歩く巨大な山車 (だし) は、満艦飾のチャイナデザインに彩られ、そこにヒンズー文化のモチーフが加わり、さらに東南アジアや日本のスパイスが降りかけられ、巧妙なコンピューターテクノロジーによって駆動されるという、まぁ、「アジア文化と近未来デジタル文化」 が消化不良を起こすほど濃密に溶け合った世界が描かれている。

 さらに、主人公たちが、悪の巣窟と化した謎の工業都市に、鳥類を思わせる飛行物体に乗って上空から突入するシーンが凄い。

インセンス6

 血のような色に染まった夕暮れの中に、モニュメントバレーの奇岩のように建ち並ぶ工場群。
 サイバーテクノロジーを駆使して造られた街並みが、ガン細胞のように自己増殖している様子がものの見事に視覚化されている。
 そこには、限度を超えた文明の進歩は、建物ですら、生きながらにして 「廃墟」 の寂しさと退廃を宿すという逆説が描かれている。

イノセンス12

 このシーンにも、様々な先行作品の 「引用」 がある。
 もちろん 『ブレードランナー』 の未来都市が真っ先に目に浮かぶ。さらに、『エイリアン』 の宇宙船。あるいは、『ラストエンペラー』 で描かれたような爛熟した中華王朝の宮殿。そしてヴェルサイユ宮殿に見られるバロック的意匠。江戸のからくり屋敷。

 めまいがした。
 同時に 「自分は遅れていた…」 という思いも持った。
 
 日本のアニメが 「ジャパン・クール」 などと呼ばれ、世界中に一大ムーブメントを起こしているという情報は知っていたが、その日本のアニメなるものが、これほどのレベルに達していようとは思ってもいなかった。

イノセンス8

 ストーリーそのものを追ってもあまり意味のないアニメだ。
 また、そこに流れる 「哲学」 や 「思想」 を解明しようという試みも無効のように思う。

 確かに、登場人物たちのセリフは、なにやら深遠な哲学性を帯びているように感じられる。
 だから、いくらでも深読みしたくなる。
 なにしろ、ロマン・ロランやゴーゴリの小説、ミルトンの詩、マックス・ウエーバーの論文、旧約聖書の詩文、世阿弥の能楽書、孔子の論語、仏陀の経典から、めまぐるしいほどの引用が引かれるわけだから、聞いていると物語の背後に深遠なる 「哲学」 が秘められているような気になってくる。

 しかし、大事なのは、そのセリフに込められた思想そのものではなく、この “深遠なる” 雰囲気なのだ。

イノセンス3

 これらの文献的な引用は、たぶんに作者の衒学 (げんがく) 趣味をみせびらかすものにすぎないと、ネットに飛び交うレビューにおいては評判が悪いようだが、私はそうは思わない。
 
 これらのセリフは、この世には 「普通に考えているだけでは簡単に理解できない世界がある」 ということを暗示させるための意匠なのだ。つまり、物語の背後に 「人智では到達できない世界」 が横たわっていることをイメージさせるための 「装置」 といっていい。

イノセンス11

 セリフ回しにこだわると、けっこう難解に感じられる作品だが、テーマはいたって簡単。
 「テクノロジーの進化によって誕生したサイボーグもしくはロボットは “人” なのか “機械” なのか?」
 という 『ブレードランナー』 以来のお定まりの問いが、ここでも繰り返されているだけ。

 だから引用される原典にビビらずに聞き逃していれば、けっこう洒落たセリフが多いことに気づく。

 「シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない」 (マックス・ヴェーバー) 。
 「ロバが旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけじゃねぇ」 (西洋のことわざ) 。
 「自分のツラが曲がっているのに、鏡を責めて何になる?」 (ゴーゴリ) 。

イノセンス5

 どれも極上のハードボイルド小説を思わせるセリフだ。
 粋である。
 この洒落た感覚が、このアニメに独特の文芸的な香りを忍び込ませることに成功している。

 言ってしまえば、チャンドラーの描くフィリップ・マーロウのような孤独なハードボイルドヒーローが、『ブレードランナー』 的な、退廃と憂愁の影に染められた近未来世界をさまよう話だ。

 さっそくこのアニメのDVDを求めて街のCD屋に出向いたが、何軒回っても売切れだった。
 Amazonで買うか…。
 早く、もう一回観たい。 


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:10 | コメント(10)| トラックバック(0)

松田優作

 正月3日の午後、テレビ東京で俳優松田優作の生涯を描いた 『松田優作は生きている!』 という特番をやっていた。
 観ていて、改めて凄まじい生き方を貫いた人だと思った。

松田優作は生きているタイトル

 その特番は、彼が生前から付き合っていた俳優、カメラマン、歌手、付き人などの証言で構成されていた。その人たちの発言によると、優作という人は、どんな仕事の現場においても、常に 「テンションを維持する気配り」 を怠らなかった人だという。

 テンションとは、文字通り 「緊張」 であり、時に 「熱意」 であり、時に 「優しさ」 であったらしい。
 具体的には、ダラけた人間への鉄拳であり、自信を失いかけた人間への励ましであり、打ちひしがれた人間に対する思いやりであったそうだ。

 番組では、彼の姿を公私にわたって撮り続けた一人のカメラマンの証言が、一番多く紹介されていた。
 プライベートの写真を撮られることを嫌った優作だが、そのカメラマンにだけは、どんな写真を撮ることも許した。 
 しかし、あるステージの写真を撮って本人のもとに持っていったとき、そのカメラマンは優作から、
 「これは受け取らない。持って帰ってくれ。今後はもう俺の写真は撮るな」
 と作品全部を突っ返された。

 呆然としていたカメラマンに対して、優作はこう言った。
 「撮るなら俺の “魂” を撮れ。しかし、そう簡単に魂は見せないぞ」

 生前の松田優作の人付き合いというものがどんなものであったか、それを端的に語ったエピソードのひとつであるように思う。

 自分に対して中途半端な接触を試みようとする人間を許さないという意味では、付き合いづらい人だったろうし、彼から何かを盗んでやろうというぐらいの意欲をみなぎらせる人にとっては、とてつもない包容力を秘めた人間に感じられたことだろう。

 もちろん、私は素顔の松田優作に接したこともなければ、俳優として熱烈に崇拝したこともない。
 『蘇る金狼』 も 『野獣死すべし』 も映画館に見に行ったし、刑事や探偵に扮したドラマもテレビでよく見ていた。
 しかし、熱烈なファンになるというほどのことはなかった。

松田優作photo

 だが、リドリー・スコット監督の 『ブラック・レイン』 を観て、松田優作という俳優は、自分にとって生涯忘れることのできない役者となった。
 彼の役は、日本のヤクザ界の勢力図を一気に書き換えようとする新興ヤクザの若いボス。
 残忍で、冷徹で、内に狂気を宿したエキセントリックな役柄を、主役を食うほどに縦横無尽に演じていた。

松田優作2

 画面に松田優作が登場するだけで怖かった。
 彼が、短く刈り上げた頭髪をゆすりながら、黒いロングコートを羽織って画面の片隅に立つだけで、そこから、見る者を凍りつかせる絶対零度の冷気が噴き出していた。

松田優作4

 松田優作が演じる若いヤクザの内面がどんなものであるのか。
 観客はそれを想像することもできない。
 ただ、そのヤクザが 「人間を超えた何ものかになろうとしている」 という恐ろしさだけは見事に伝わってきた。

 彼が目をむいて凄むとき、その目は、東洲斎写楽の描く浮世絵の人物そのものだった。
 研究熱心だった優作は、ハリウッド映画を意識して、写楽の絵に表出する東洋風エキゾチシズムを採りいれようとしたのかもしれない。古今東西の美術に関心の深いリドリー・スコットは、さぞやその演技に満足したことだろう。

写楽1 松田優作3

 しかし、写楽なんぞ知らなくたって、優作の目の演技は、人間が自分の肉体を使って表現する領域を軽々と超えていた。
 古来より、人類があがめる神に 「慈悲の神」 と 「荒ぶる神」 がいたとしたら、優作の目は 「荒ぶる神」 の目であり、彼が大地を踏みしめて立ち尽くす姿は、破壊と創造を司るインド神話のシバ神の降臨を思わせた。

 この映画を撮影していたとき、彼はすでにガンを患っていて、この作品が自分の最後の映画になることを知っていたという。
 死を背中に背負った演技だからこそ迫真力がこもったのか、それとも、そのような演技を積み重ねてきたことが、彼の死期を早めたのか、それは分からない。

 ただ言えることは、「人間を超えた存在」 をここまで表現しえた役者など、かつていたこともなかったし、これから先も、こういう役者が現れることはほとんどないかもしれない、ということだ。

松田優作5

 松田優作1989年11月6日逝去。
 享年40歳。
 ちょうど20年前のことである。 


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 19:12 | コメント(4)| トラックバック(0)

正月はテレビ三昧

 元日の夜はテレビ三昧。
 夜の9時からは、テレビ朝日では 『相棒』 の元日スペシャルをやっていて、テレビ東京では 『たけしの新・世界七不思議』 が放映されていて、どちらも観たかったけれど、結局 『NHKスペシャル』 を最後まで観てしまった。

 エヌ・スペの元日特集は 「激論2009 世界はどこへ そして日本は」 という銘打ったトーク番組。
 世界的経済崩壊を招いた “市場原理主義” は崩壊したのか? というテーマで、7人の論客がそれぞれの立場からホットな主張を展開するというもの。
 この10年、アメリカの金融経済路線に応じて、日本政府は新自由主義経済を導入し、次々と規制緩和を推進してきたが、そういう政府のやり方は正しかったのか、間違っていたのかというのが大きな論点となった。
 
 討論の参加者は、竹中平蔵氏、金子勝氏、勝間和代氏らマスコミでもその名を知られる名うての論客たち。
 慶應大学教授の金子勝氏は、「100年に1度」 といわれる現在の不況・雇用不安の時代というのは、今までアメリカ主導型で展開してきた金融経済そのものの破綻を意味するもので、ここでその総括が必要と主張する。

 この金子氏のトークに歩調を合わせ、山口二郎氏 (北海道大学教授) 、斎藤貴男氏 (ジャーナリスト) らが、日本政府の今までのあり方を批判的に検証する。

 一方の竹中平蔵氏は、そういう見方を 「単純すぎる」 と一蹴し、現在の日本経済の停滞は、むしろ小泉政権が押し進めようとした構造改革の不徹底に起因すると反論する。
 竹中平蔵氏寄りの意見を持つ論客として、八代尚宏氏 (国際基督教大学教授) と岡本行夫氏 (外交評論家) も、竹中氏の主張を政策論や外交論の立場から支援する。

 そして、女性経済評論家の勝間和代氏が、その両陣営の主張とは少し異なる視点を導入して、議論の流れに新しい切り口を導入する。

 けっこう見応えがあった。
 どちらの陣営も 「日本経済の再生」 という目標を持つものながら、両者の思想には明確な違いがあった。

 竹中陣営は、経済再生の具体的プランを何よりも重視する。 
 そして竹中氏は 「現社会に対する情緒的な反応よりも、リアルな対応こそ重要」 と断言。そもそも “市場原理主義” などという、世界のどこの国も使わないような用語で、現状のすべてを掌握しようという安易な態度こそ反省すべきと主張。

 さらに氏は、経済再生の解決策として、「日本の法人税の法外な高さを是正すべき」 などという具体的なプラニングを披露することによって、現実的な解説策の重要性を提起する。

 これに対し、金子氏、山口氏、斎藤氏らの主張は、「経済発展の前に人間ありき」 というところにあった。
 「そもそも経済を発展させるという目的は、何のために掲げられたものか。一部のお金持ちだけが富を蓄積し、大多数の人間が経済的弱者に落ちていく社会が幸せな社会なのか?」 というのが、金子陣営の主張全体を覆うトーン。

 このような主張は、確かに誰にも分かりやすい情緒的な理論展開ではあったけれど、「経済発展の前に人間の幸せありき」 という姿勢は伝わってくる。

 番組の後半で、今流行の 「グローバル社会」 という言葉に関し、「グローバル化 (地球規模化) 」 が進行するようになると、「各社会での閉鎖性はますます強まる」 と誰かが言っていた言葉が印象に残った。

 優れた討論番組というのは、決してひとつの結論に集約していくようには作られていない。
 立場や視点を変えれば、いくらでも問題点は掘り起こされてくる。それをうまく整理できただけでも成功した番組ではなかったか。


 …ってなものを見て、『たけしの新・世界七不思議』 をちょっと観て、きまぐれにNHK教育放送にチャンネルを合わせてみたら 「地球温暖化問題」 を採りあげたドキュメンタリー番組をやっていた。
 面白そうだな…と思ってしばらく観ていたら、これも最後まで観るはめに。

 番組名は 『世界のドキュメンタリーシリーズ 近未来予測・選シリーズ 「人類滅亡を回避せよ」 』 。

 舞台は2075年の地球。
 北アフリカでは砂漠化が進行し、農業も壊滅状態。水不足も深刻。
 北極圏では流氷が溶け始め、シロクマをはじめそのあたりを生存圏としていた動物が次々と死滅。

 文明圏の大都市は、猛暑の夏と長雨の冬が恒常化し、洪水などの突発的な自然災害が多発している。
 石油も枯渇し、石炭も掘り尽くし、道路にクルマの影はなく、田舎を旅する人は馬に乗って移動している。
 地球上の各地方では、水不足から来る紛争が激化。

 すべては 「地球温暖化」 がもたらした災い。

 そういう時代の地球で暮らす三つの家族のストーリーが展開される。

 先ほどのエヌ・スペでは、「経済再生」 が問題になっていたけれど、従来の産業システムをそのまま維持した経済再生の末路を見る思いで、少し暗澹たる気持ちになる。
 なんか大変な時代を生きていくことになりそうだ。


 …なんか明るい話はないものかと、チャンネルを変えてみると、暗~いホラー映画にぶち当たった。
 黒沢清監督が2006年に撮った 『叫 (さけび) 』 。

『叫』

 役所広司演じる中年の刑事が、事件を捜査中に、赤いワンピースを着た女の幽霊にたびたび遭遇するようになる。
 
 その女の幽霊は、いったい誰で、何のために役所広司の前に現れるのか。
 ミステリ仕立てのホラー。
 2転3転のどんでん返しがあって、どう解釈していいのか分からない謎めいた結末があって、映画としてよく出来ているのか、そうでないのか判断留保してしまうような作品なのだが、映像が良かった。

 時代から取り残されたまま放置された古い集合住宅。
 開発途上のまま放り出されたような、荒涼とした湾岸地域の風景。
 何気ない風景が、みな異様な輝きを帯びている。

 どの映像も光の回り方がいいのだ。
 見た夢を回想するときに現れる光。あるいは、遠い記憶が突然蘇ってきたときの光。
 当たり前の風景なのに、それを照らす光だけが奇妙な非現実性を帯びて、正体の分からぬ不安感が忍びよってくる。

 幽霊が出てくるときよりも、幽霊もいないただの風景の方がよっぽど怖いという稀有な映画だ。
 
 事件の被害者の母親と、刑事たちがその母親の住む家の居間で語り合うシーンがある。
 なぜか、カメラはそこで語り合う登場人物たちよりも、その居間の向こうに広がる窓を画面の中心に据える。
 窓の外には、ありふれた都市近郊の田園風景が広がっているに過ぎない。

 窓はやたらと明るく描かれている。
 そこから室内に入ってくる日差しは、温かそうで、優しそうだ。
 だけど、怖い。
 窓の外に何かの気配がある。

 午後の光に満ち溢れた病院の廊下。
 清潔で明るい廊下には、行き交う人々の姿も描かれていて、怖いと思える要素は何もない。
 それにもかかわらず、この廊下も怖い。

 廊下の隅々までくっきりと見渡せるようなカメラワークが、「過度に明瞭すぎる風景というものは、それだけで非現実的だ」 ということを教えてくれる。

 そういった映像がやたら多い。
 こいつもとうとう最後まで観てしまった。

 気づいたらもう夜中の3時。
 6時間以上もぶっ通しでテレビなんて観たのは久しぶりだ。
 そういう時間を作ろうという気分になったのも、正月ならでは。

 正月って、やっぱ不思議な日なんだな。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 13:25 | コメント(0)| トラックバック(0)

考える鳥

 2009年の1月1日。
 公園を散歩してきました。

公園のベンチ

 風は冷たいけれど、日差しは温かくて、町を走るクルマも少ないせいか、空気も澄んでいて。
 透明度の高い空が、どこまでも続いていて、ところどころに浮かんでいる雲も、祭りの夜店の綿菓子みたいにふわふわと柔らかそうで、まぁ、穏やかな元日の午後でした。

 ベンチに座って池を眺めていると、サギなのかカモなのか分からないけれど、池の真ん中にぽかりと浮いたハシゲタみたいなところに、一匹の鳥がいて、じっと空を見上げていました。

 「何考えてんのかぁ…」
 って思いながら、こっちもその鳥の様子をじっと見つめているんだけど、そいつ、周りの鳥がバシャバシャと水遊びに興じているのも気にしない様子で、ただひたすら天を仰いで、ときどきため息をついたりして。

池の水鳥たち

 きっと、鳥の中の哲学者なんだろうな。
 自分の存在とは何なんだろう…、果たして私は鳥なのか…なんてじっと考えているのかもしれない。
 なんて思うと、ますますその鳥から目が離せなくなって、結局小一時間もそのベンチに座っておりました。

 そいつに話しかけようと思っても、こっちは鳥語は話せないし、仮に話せたとしても、むこうは 「思索の邪魔するなよ」 ってなことを言い出しかねないし。

 しょうがないから、自分が鳥だったら何を考えるのだろうか…って、こっちも一生懸命考えて、ついに結論は出ずじまいで。

 いつの間にか、周りの景色に夕暮れの気配が忍び寄ってきて、日の光が黄色味を帯びて、木の影がどんどん長くなり、池の水も心なしか黒ずんできて、池に浮かんでいるボートの影も寂しげに見えてきて、「さぁて家に戻ろうか」 と立ち上がったわけですが、「考える鳥」 は、ずっとそのままの姿勢を崩すことなく、空を見上げておりました。

 さて、また1年のスタートです。
 その最初の日。
 「考える鳥」 は私に何を教えてくれたのだろう。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 20:10 | コメント(4)| トラックバック(0)
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