町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

最近の記事
新ブログのご案内
04/28 17:06
久々の更新です
04/27 19:06
3・11以降
04/12 09:56
人類に残された資源
04/05 10:18
ザ・ウォーカー
04/03 00:53
島尾敏雄・贋学生
04/02 03:45
日本人は変わるか
03/31 01:36
渚にて
03/26 02:03
テレビは終わった
03/23 00:23
明かりの果ての闇
03/21 08:05
東電を怒る父さん
03/18 17:00
深い言葉
03/16 09:53
何かが変わった
03/15 00:06
災害時のキャンカー
03/13 16:18
大地震
03/12 13:16
ジュリアンオピー
03/11 02:35
親孝行ビジネス
03/08 20:02
OMCの北斗
03/07 00:18
アレクサンドリア
03/05 15:49
AtoZのバンビ
03/03 20:36
かるキャン
03/02 18:39
ハーレーの魔力
02/28 21:59
パークウェイ
02/23 18:59
CG880
02/20 13:11
忙しいぞぉ!
02/18 22:01
都市型キャンプ場
02/09 23:55
ファビュラス日本
02/07 19:32
老人の孤独
02/06 20:36
「都会」 の匂い
02/05 01:53
エジプトでは何が?
02/04 15:44
同人雑誌仲間
02/03 00:20
自己啓発ビジネス
02/01 02:10
ノスタルジー
01/30 05:23
夫婦の会話の危機
01/28 23:58
その一服は必要か
01/24 23:40
荒野の炎
01/23 19:43
山口冨士夫の精神
01/22 03:11
焚き火で育つ感性
01/20 19:55
キャンカー1人旅
01/19 01:37
車中泊の社会実験
01/17 15:40
個人の時代
01/16 11:50
細くなるネクタイ
01/13 20:32
映画アバター
01/12 20:07
若者の考える商売
01/11 14:36
パリッシュの絵画
01/09 04:00
300万アクセス
01/08 12:15
不思議な青空
01/07 21:04
TV・新聞の凋落
01/06 19:44
中国ルネッサンス
01/05 20:19
ベルイマン・沈黙
01/04 21:33
出来事いろいろ
01/03 02:43
謹賀新年
01/01 00:48
オールドマン
12/30 18:53
好奇心の力
12/29 14:28
「孤独死」の原因
12/27 20:17
廃墟のある島
12/26 02:48
遠いクリスマス
12/25 01:06
ロビン・フッド
12/24 03:48
地獄の電車
12/23 11:35
バッグス・バニー
12/22 02:59
正義の話をしよう
12/19 23:46
空気人形
12/18 13:10
ジジイ同士の酒
12/17 04:32
世界ゲーム革命
12/14 02:47
ハイマー懇親会
12/13 16:11
ガールズキャンプ
12/12 23:48
イタリアをめざせ
12/10 15:15
外来種の驚異 Ⅱ
12/09 00:41
外来種の脅威とは
12/08 20:46
Kポップの台頭
12/07 01:19
うつろひ
12/06 01:21
海老蔵さんの悲劇
12/05 01:07
追悼ジョンレノン
12/03 04:52
「個性化」のワナ
11/30 04:13
戦うブログ
11/29 04:09
子供の自然体験
11/28 04:50
RV好きの芸能人
11/26 01:01
胃の中にヘビ
11/25 16:12
消えた秋
11/22 14:14
歌謡ブルースの謎
11/20 04:29
おひとりさま時代
11/19 00:33
3行で総てを語る
11/18 00:15
塔の形而上学
11/17 02:04
裕次郎スナック
11/15 23:10
自然は子供を養う
11/12 20:28
おれ、ねこ
11/10 01:19
NHK車中泊報道
11/09 17:17
お台場パラダイス
11/08 20:34
伝える力
11/05 00:12
お台場ショー迫る
11/04 02:02
昔は戻らない
11/03 02:11
電子タバコ
11/02 00:04
一般国道の不思議
10/29 18:25
酒場放浪記
10/26 22:25
名古屋RVショー
10/25 19:25
ハイマーカー322
10/21 12:31
猫会議
10/21 00:05
飽きるという知恵
10/20 01:28
ロボット兵器
10/19 02:52
最近のコメント
突然の書き込み失礼…
最近の流行 05/12 00:01
はじめまして~文…
すまそ 05/08 16:44
>TJさん、ようこそ…
町田 04/28 13:47
>TJさん、ようこそ…
町田 04/28 12:06
便利+楽=快適、これ…
TJ 04/28 10:05
町田さん久しぶり…
motor-home 04/28 06:07
やはり、時代の変化・…
TJ 04/21 02:27
私はこのところ「自然…
磯部 04/12 14:52
>aki さん、よう…
町田 04/12 10:18
何度も投稿ボタンを押…
aki 04/08 10:57
>aki さん、よう…
町田 04/08 09:13
今のVWに乗り換える…
aki 04/07 15:19
>雷さん、ようこそ。…
町田 04/06 15:20
>ミペット@倉庫の肥…
町田 04/06 13:46
>JoeCoolさん…
町田 04/06 11:06
キャンピングカーは、…
雷 04/05 21:37
率直に言うと、研究所…
ミペット@倉庫の肥やし保存中 04/05 20:10
町田さま度々失礼…
JoeCool (in Peanuts) 04/05 12:56
>aki さん、よう…
町田 04/05 11:14
今のこの国の空気、ど…
aki 04/04 10:32
>solocarav…
町田 04/01 11:08
>JoeCool さ…
町田 04/01 10:32
>ムーンライトさん、…
町田 04/01 09:56
>赤い屋根さん、よう…
町田 04/01 08:53
「心に届く言葉」・・…
solocaravan 03/31 23:23
今回のように社会全体…
雷 03/31 23:05
米国では9.11の前…
Jo 03/31 11:21
米国では9.11の前…
JoeCool 03/31 11:19
米国では9.11の前…
JoeCool 03/31 11:05
そうだ、普遍性だ。…
ムーンライト 03/31 09:31
町田さんおはようござ…
赤い屋根 03/31 07:50
>おおきに! さん、…
町田 03/30 15:47
>雷さん、ようこそ。…
町田 03/30 14:57
>雷さん、ようこそ。…
町田 03/30 14:33
町田編集長さん こん…
おおきに! 03/29 08:29
今回の震災では、各局…
雷 03/28 21:22
本作品のリメイクであ…
雷 03/28 21:09
>おおきに! さん、…
町田 03/23 19:54
町田編集長さん こん…
おおきに! 03/23 07:48
>s-_-s さん…
町田 03/23 01:19
>ムーンライトさん、…
町田 03/23 00:46
人間は電気によって闇…
s-_-s 03/22 22:55
追記です。先ほど…
ムーンライト 03/22 14:24
数日前、市内の大型ス…
ムーンライト 03/22 12:24
>ブタイチさん、よう…
町田 03/22 03:09
お久しぶりです。町田…
ブタイチ 03/21 22:54
>鈴木様、ようこそ。…
町田 03/19 23:12
>ムーンライトさん、…
町田 03/19 22:35
今日、店からはじめて…
デルタリンク宮城 03/19 19:40
この「東電を怒る父さ…
ムーンライト 03/19 11:45
>ゆんたさん、ようこ…
町田 03/19 09:11
言葉に出して誰かに代…
ゆんた 03/19 07:50
>鈴木 様本当に…
町田 03/18 00:00
町田さん、ご心配あり…
デルタリンク宮城 03/17 20:52
>鈴木様コメント…
町田 03/17 16:04
>TOMYさん、よう…
町田 03/17 14:39
町田さんこんにちは。…
デルタリンク宮城 鈴木 03/17 11:32
こんばんは、町田さん…
TOMY 03/16 20:23
世界中に5億人を超え…
フェイスブック 03/15 11:30
>s-_-s さん、…
町田 03/14 00:28
町田さんご無事で何よ…
s-_-s 03/13 22:55
>ムーンライトさん、…
町田 03/12 17:43
町田さん。ご無事でし…
ムーンライト 03/12 16:25
>YAMAさん、よう…
町田 03/12 13:33
シンプルな風景画、い…
Yama 03/11 12:14
>渡部竜生さん、よう…
町田 03/10 02:33
>キャンピングカーと…
渡部竜生 03/09 14:02
>スパンキーさん、よ…
町田 03/08 19:22
いいですね、北斗。久…
スパンキー 03/07 13:52
>マッキー旅人さん、…
町田 03/03 22:45
町田さん、今日は。…
マッキー旅人 03/03 16:23
>ムーンライトさん、…
町田 02/28 22:42
町田さん。アマゾ…
ムーンライト 02/24 10:29
>渡部竜生さん、よう…
町田 02/19 05:42
>小平の福ちゃん様、…
町田 02/19 05:31
>matsumoto…
町田 02/19 05:18
>solocarav…
町田 02/19 05:03
>el さん、ようこ…
町田 02/19 04:50
>旭川の自称美女さん…
町田 02/19 04:14
幕張ではお世話になり…
渡部竜生 02/19 00:58
ご無沙汰しております…
小平の福ちゃん 02/19 00:03
お久しぶりです。ma…
matsumoto 02/14 07:35
ぜひ実現させたいアイ…
solocaravan 02/11 20:59
だいぶ経ってからのコ…
旭川の自称美女 02/11 11:51
町田さん、こんにちは…
el (エル) 02/11 11:11
>TOMY さん、よ…
町田 02/10 00:21
こんばんは、町田さん…
TOMY 02/09 21:45
>ムーンライトさん、…
町田 02/09 15:38
>ゆんた さん、よう…
町田 02/09 14:48
>Joe Cool …
町田 02/09 13:46
>磯部さん、ようこそ…
町田 02/09 11:54
「ゆんたさん」の文章…
ムーンライト 02/09 11:46
>TJさん、ようこそ…
町田 02/09 11:22
色々なことを考えまし…
ゆんた 02/09 06:36
同居していて5年前に…
JoeCool 02/08 16:01
最初に、このブログを…
磯部 02/08 05:14
写真で見る限り「FA…
TJ 02/07 21:20
>aki さん、よう…
町田 02/03 00:58
人生にドーピングはな…
aki 02/01 10:07
最近のトラックバック
ザ・バンド
12/11 09:46
鉄道の魅力、立体的に
09/10 07:38
関越高速道・・・寄居…
07/24 09:18
女性目線で見たキャン…
03/05 10:18
かるキャン 画期的な…
02/26 06:14
「くるま旅くらし読本…
02/06 10:22
言葉にならない
01/13 20:10
電動ポルシェ!?その…
10/31 09:50
路地裏
08/18 09:49
「すべての男は消耗品…
08/17 20:24
ガマの油
06/15 21:53
「ガマの油 」ちょっ…
06/15 07:58
52nd
04/25 21:52
007 カジノ・ロワ…
02/02 01:18
関西(大阪・京都・神…
01/30 05:21
【ネットができる宿|…
01/05 19:52
4輪&2輪
09/22 16:41
『秘伝 大学受験の国…
09/19 03:09
LPガスボンベ
07/26 11:37
ロス
05/28 22:39
テスト
05/28 22:36
大阪キャバクラnig…
04/26 20:37
キャバクラ/ニューク…
04/09 17:32
キャバクラ嬢ご用達し…
03/14 14:32
気になるキャンピング…
03/08 07:08
キャバクラ求人-Ag…
02/23 14:41
キャバクラ情報誌クラ…
02/22 19:14
No6 LPガスの充…
02/14 14:47
大阪キャバクラブログ
01/20 21:35
御当地!プルバック・…
12/20 00:53
カップヌードル
08/09 01:54
【キャンピングカー】…
08/05 16:23
【キャンピングカー】…
08/05 16:20
村松友視の「淳之介流…
08/04 11:11
荒井千暁著『職場はな…
06/29 22:35
元ちとせ/千の夜と千…
04/15 01:55
軽自動車エッセのうる…
03/26 08:21
カーナビの渋滞回避?…
03/10 20:07
車中泊なら虫の心配い…
03/07 18:35
こんなキャンピングカ…
03/07 03:56
キャンピング&RVシ…
03/02 01:17
キャンピング&RVシ…
02/23 18:45
キャンピング&RVシ…
02/18 06:43
キャンピング&RVシ…
02/17 00:23
ZECC(ゼック) …
02/15 23:27
トイレどうする?
02/15 10:25
キャンピング&RVシ…
02/10 21:46
新古車
02/04 17:19
軽自動車キャンピング…
01/25 13:10
ブレードランナー
01/14 12:03

ラーメンとマック

 「裸の二人が身体をからませ…」
 なんていうキャッチに目を奪われて取りあげみたら 『大相撲写真集』 だったとか、「高級ログハウス1棟3万円!」 なんていうポスターに惹かれて店に入ったらペット用だったとか…。
 そんなたぐいの、思わせぶりなキャッチで人目を惹いて消費者の意識に刻印を残そうという商品がやたら増えたような気がする。

 本においてもしかり。
 最近の本は、タイトルから “中身” を想像することが難しい。
 『ラーメン屋 vs.マクドナルド』 (竹中正治著 新潮新書)

 はたして、このタイトルから、人はどんな本を想像するだろうか。

 ラーメン屋を始めるのと、マクドナルドのフランチャイズ店に加盟するのとではどっちが儲かるか? …というような本だろうな、と思う人も多かろう。
 あるいは、麺文化とパン文化の違いを解き明かす 「食材文化論」 か?

 いろいろな推測が可能だ。

ラーメン屋vsマクドナルド

 だけど、実際にこの本を手に取ってパラパラとめくってみると、
 「スコアリング方式の本質は、融資のリスクとリターンに関する確率的なアプローチに基づいた融資ポートフォリオの管理である」
 「銀行についても商業銀行とインベストメント・バンクでは水と油ほど違う。一般個人や個人事業主などを対象にするリテイル・ビジネスや…」

 …… ??? 

 著者は金融のプロであるらしく、金融にうとい私なんぞには想像だにも及ばない難解用語がところどころに散りばめられている。
 基本的には、金融モデルの違いを軸にして日米の比較を解き明かす本だ。

 といっても、小むずかしい本ではまったくない。
 アメリカで活躍した日本人エコノミストが、日本人とアメリカ人の感受性の違い、金銭感覚の違いなどを、豊富な実例と大胆な推論で説き起こした 「日米比較文化論」 なのだ。

 で、一方が 「ラーメン屋」 で、もう一方が 「マクドナルド」 ……?
 やっぱりこの比喩が分からない。

 著者にいわせると、こうだ。
 アメリカのマクドナルドのようなビッグ・ビジネスは、市場の最大公約数的な需要・好みを対象にして運営されるので、必然的に、全世界的に商品 (味) がパターン化され、創造性が関与する余地がない。

 それに対し、日本のラーメン屋は、同じファーストフードとはいえ、最大公約数の需要・好みを優先するのではなく、製作者が自分らのセンスにこだわって、多種多様なものを創出しているので、ビジネス規模は小さいが、多様でユニークなものが供給される。

 …というわけで、マックとラーメンが、アメリカと日本のビジネスモデルの対比を表す比喩として使われているわけだ。

 しかし、ここで展開されるマックとラーメンの比喩が成立するビジネスとはどのようなビジネスのことをいうのだろう。

 著者は、そのひとつの例としてアニメビジネスを挙げる。
 日本のアニメや漫画、あるいはゲームソフトは今や世界的なブームとなっているが、それらが海外でウケる秘密として、著者は日本的アニメビジネスの 「チープさ」 に目をつける。

 動画が自然な動きを見せるためには1秒間に24コマが必要となる。
 ところが、限られた時間内に、限られた制作費で番組を作らねばならない日本の製作者たちは、1秒を8コマで制作しなければならなかった。
 しかし、その 「チープさ」 を逆手に取り、日本アニメの製作者たちはさまざまな節約工程を開発、駆使してその苦境を乗り切った。

 キャラクターがスムースに動くコマ数が取れないために、日本の古典芸能である歌舞伎の動きなどを技法化する手法を試みたりして、外国製アニメにない動きも創出した。

 その結果、それ自体がワザの体系となり、日本アニメ特有の面白い動画が生み出されてきた…と著者はいう。

ドラゴンボール1

 外国人が日本アニメを見て感じるエキゾチシズムやチャーミングさというのは、限られた時間と資金の制約のなかで、製作者が職人的な腕をふるう中から生まれてきたというわけで、まさに 「ラーメン屋」 。

 一方、ディズニーアニメのような世界市場を意識したのものは、巨大資本を必要とするため、何から何まで大がかりとなる。
 しかし、失敗するわけにはいかないので、市場の最大公約数の需要を満たすつくりにならざるを得ない。
 そのため、どのような世界を描いてもパターン化され、感動の形もお仕着せじみたものになる。
 だから 「マクドナルド」 。

 そこまで言われて、ようやく 『ラーメン屋 vs.マクドナルド』 という書名の意味が分かってくるのだが、ただし、そのキーワードが登場するのはわずか1ページだけ。
 そういった意味では、人目を惹くためだけに考えられた 「キャッチのためのキャッチ」 なのである。

 しかし、アメリカの大物エコノミストたちと丁々発止のディベートを繰り広げてきた著者だけあって、目の付けどころもいいし、論理展開も面白い。

 日本人は、マスコミの表現でも 「危機」 や 「崩壊」 が好きで、政府要人の答弁においても 「難局の打開」 とか 「気を引き締めて」 という危機感をあおる文言が好まれる。

 一方、アメリカ人は 「繁栄」 、「未来」 、「希望」 、「情熱」 などの明るくポジティブな表現を好む。
 この差は何なのか?

オバマ氏
 ▲ いつも明るく 「チェンジ!」 と叫ぶオバマ氏

 アメリカ映画に出てくるヒーローたちは、戦って血まみれになってボロボロになっても、しぶとく生き残って、最後は親指を上に向けて 「ニッ」 と笑う。
 一方、日本のヒーローはパッと散るような悲壮な最期を遂げる。
 この差はどこから来るのか?

 日本人とアメリカ人のメンタリティの分析は、ときに日本の天皇制の構造分析にまで及び、漢字とひらがなカタカナが混入する日本語と、24文字ですべて片がつくアルファベッドの違いに着目した言語論にまで広がる。

 導き出された結論には、時にはステレオタイプ化されたものもあるが、事例を取り出すときの視点にはユニークなものが多く、ハッとさせられる。
 
 アメリカ発の金融危機に世界中が呑み込まれている今日、日本に生き残る術 (すべ) はあるのか?
 その答を探る意味においても、タイムリーな本であるかもしれない。



音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:23 | コメント(2)| トラックバック(0)

大航海時代

【司会】 はぁーい! 『ゲームフリーク・パラダイス』 の時間です。
 今日も楽しい愉快なゲーム。朝晩ゲームに、夢でもゲーム。
 この番組は、寝る時間も惜しんでゲームに親しむゲームフリークの貴方に発信するゲーム情報のパラダイスです。

 ええ、この 「ゲーパラ」 では、先々週と先週、そして今週と3回にわたって、ゲーム研究家の町田先生をお迎えして、パソコンゲームの核心に迫っておりまーす! 
 それでは町田さん、どーぞ。

大航海時代_1

【町田】 こんばんは。
【司会】 先生、今日は何を?
【町田】 そうですね。今日はコーエイさんの人気シリーズのひとつ 『大航海時代』 を採りあげてみようと思っています。
 このシリーズは、全部で4作あるんですが、僕が傑作だと思うのは、『大航海時代 Ⅱ』 とそのバリエーション版の 『大航海時代・外伝』 ですね。
 ファミコン時代の 『Ⅰ』 から始まって、スーパーファミコンの 『Ⅱ』 『外伝』 、そしてパソコンの 『Ⅲ』 『Ⅳ』 とあるんですが、まぁ、大方の評判は 『Ⅳ』 に集中してますけど、僕はこれはあんまり遊んでなくてね。印象に残っているのは、やっぱり 『Ⅱ』 、『外伝』 かな…。

大航海時代2

【司会】 先生は、このシリーズのどんなところに惹かれたんですか?
【町田】 まず、そのスケールの雄大さですね。
 普通テレビゲームやパソコンゲームというと、何か狭い部屋で小さな画面に向かって縮こまって遊んでいるという感じがするじゃないですか。

 でも、このゲームだけは、実際に接しているモニター画面は小さくとも、その画面の向こう側に大海原が広がっているというリアリティを感じさせるものがあるんですね。
 特に 『大航海時代』 の 『Ⅱ』 とか 『外伝』 はですね、モニター上のビジュアルは写実的でもなんでもないんですが、「波のしぶき」 とか 「潮の匂い」 が迫ってくるんですね。

夜帆船1

 ゲームのリアリティには、3D的な視覚的リアリティとね、2Dにしかない観念のリアリティというのもあると思うんですよ。『Ⅱ』 と 『外伝』 には、その観念のリアリティというものがあるんですね。

大航海時代外伝

【司会】 …ちょっと難しい話ですが、分かりやすくいうと、どんなところが面白いんですかね?
【町田】 例えば、まぁ、自分がキャラクターの一人となって、船を手に入れますよね。
 最初は小さな安い船しか手に入らないんですが、ところがこれがなかなかうまく操れないんです。お金もないので、水夫も思うように集まらないわけですね。

 最初は、みなアテネとイスタンブールの間で、絨毯と美術品の交易でお金を貯めてね。
 金塊1個貯めるのがやっとなんです。

 で、そうやって、交易とか海賊行為などを行なって、少しずつ資金が貯まり、海にも慣れてくるとね、自分が航海できる範囲が少しずつ広がってくるわけです。
 船もだんだんスムースに操れるようになってくるんです。

 そして、貯まったお金で、さらに大きくて頑丈な船を買っていく。
 そこのところのステップアップの感覚が、ずしりと胸に迫って来るんですよ。

 そういう小さな達成感を積み重ねてですね、ついに外洋に出ていくわけですが、地中海世界周辺に住むキャラクターでゲームを始めると、ジブラルタル海峡を抜けて大西洋に漕ぎ出すまでに、2年ぐらいかかるんですよ。
 だからね、力を付けて、いざ海峡を抜けて外洋に出たときに、ものすごく感激するんですね。

大航海時代画面1

 で、外洋に出ると、実際に船に降りかかる波も2倍くらい大きくなったような気がします。
 アフリカ周りで希望峰を抜けるまでもね、途中嵐があったりしてね、下手すると難破してしまうんですよ。
 そんなところがね、スケールの大きなゲームだなぁ…と思いましたね。

嵐帆船1

 あとね、基本的に音楽がみな良いですね。各地域の雰囲気を表すテーマ曲がなかなか上手くできていてね、これが、気分を盛り上げるのに一役買っていますね。
 
【司会】 ゲームに出てくるキャラクターなんかでは、どんな人物が好みですか?
【町田】 『Ⅱ』 でいうと、カタリーナとアル・ヴェザスですね。
 あとね、『外伝』 に搭乗するサルバドル・レイスがいいです。これはちょっとはにかみ屋で、屈折した内面を持った陰りのある青年なんですね。
 正義感に燃えて、片っ端から悪を倒すという単純な設定になっていないんですよ。文学性が高いんですね。

 この 『外伝』 の音楽もよくてね、主人公キャラの持っている孤独感のようなものとね、冒険への期待感みたいなものが微妙に混じり合った美しい旋律になってます。単に勇壮なだけでなく、そこはかとない寂しさが漂った名曲ですね。

 ただ、ひと言苦言を呈すれば、この 『外伝』 では、もうちょっと歴史考証をしっかりしてほしかったですね。
 たとえばハイレディン・レイスがキリスト教徒側の海賊として、オスマン・トルコと戦うなんていう設定はどう考えてもおかしいんであって、その息子のサルバドル・レイスがキリスト教徒だってのもおかしい。
 ちょっとユーザーをバカにしてますね。

 まぁ、そんなところを差し引けば、よくできたソフトだとは思いますけどね。

【司会】 さて、町田さん。今までのお話は 『Ⅱ』 と 『外伝』 の話が中心だったわけですが、そのほかに町田さんが体験された 『大航海時代』 ではどんなものがあるんですか?

大航海時代3

【町田】 『大航海時代 Ⅲ』 というのがあるんですが、これが実に不思議なゲームでね、僕自身もいまだにどう評価していいのか分からないんですよ。
【司会】 これもプレステか何かですか?

【町田】 いや、これはパソコン版だけなんです。
 コーエイの人気シリーズは、パソコンから常に家庭用ゲーム機に落とされているんですが、この 『Ⅲ』 だけはね、ゲーム機にもついに移植されず、話題にのぼらないうちに、いつのまにか 『大航海時代 Ⅳ』 にとって替わられたという、ちょっと影の薄いゲームでね。
 だから、成功作なのか失敗作なのか…。『大航海時代 Ⅲ』 はなんとも評価しづらい面がありますね。

 やはりプレステやなどのゲーム機対応ソフトが出ないと、ゲームとしてはマイナーな印象は否めないですね。
 特に後発の 『大航海時代 Ⅳ』 は、パソコン版が出たあとゲーム機版もすぐに登場しているわけですね。だから 『Ⅲ』 は一般的には “失敗作” というイメージがついてまわりますね。

【司会】 で、どうなんですか? 町田さんも失敗作だと?
【町田】 いや、一般的な評価という意味では難しいんですが、僕個人としてはなかなかよく作られているソフトだと思いますよ。
 おそらく 『Ⅱ』 や 『外伝』 を遊んだユーザーが不満に思ったこととかね、あるいはこうしてほしいと望んだことなどをね、ある程度リサーチして開発されたものだと思いますね。

 たとえばですね、冒険旅行そのものの難易度をあげてほしいとか、あるいは宝物を発見したときのインパクトを高めてほしいとか、さらにね、船舶などの価格を上げてほしいとかですね、『Ⅱ』 や 『外伝』 を繰り返し遊んだユーザーなら誰で思うようなリクエストにはね、ちゃんと応えているんですね。

 で、この 『Ⅲ』 では今までにできなかった内陸の探検もできるんです。
 キャラバンを組んで、アフリカの砂漠などに探検に行けるんですね。
 
 あとね、港町を陸上から攻め落とすこともできます。
 海戦もあれば陸戦もあるということで、ゲームとしては結構凝っているんですね。
 そういった意味では、『Ⅲ』 というのは、『Ⅱ』 や 『外伝』 の発展型だといってかまわないと思います。

大航海時代_1

【司会】 はぁ…。ではなぜあまり話題にならなかったんですかね?
【町田】 地味なんですねよ。画面のグラフィックがどうしようもなく暗いんですよ。『Ⅱ』 や 『外伝』 のようなキャラクターの動きもなければ、色も乏しいんです。

 全体の印象がですね、ひと気のない薄暗い 「歴史博物館」 にでも入り込んだような感じなんですね。
 なにしろ登場人物の顔がアニメではなくて、19世紀末に撮られたモノクロの顔写真という感じで、実写的なんですよ。
 ま、リアルといえばリアルなんですけど、アニメタッチに慣れた大航海ファンは、まず最初にここで戸惑うと思いますね。

 さらに各港町の画像がですね、ヨーロッパ近世の美術品を模写したような絵柄で、格調が高いといえば高いんですが、地味といえば地味なんですね。これも、アニメ的表現に慣れた人には親しみにくかったんじゃないでしょうかね。

大航海時代帆船1

【司会】 なんとなく若者が好みそうじゃないですね。
【町田】 そうなんです。これはね、音楽を聞いてもらえば、それだけで分かります。
 たとえば北ヨーロッパなどの港町のテーマ。もう、なんかこの世の果てという雰囲気が伝わってきますよ。
 
 だけどね、音楽としてはねぇ、なかなか、みないいんですよ。
 僕はねぇ、実は、この 『Ⅲ』 の曲をね、当時はテープに落として、ドライブミュージックとして聞いていた時期があったんですけど、これ、ちょっとトリップさせてくれる曲…多いですよ。

 しかし、やっぱりゲームそのものの暗さはどうしようもなかったですね。
 ま、時代設定も、いろいろな精霊や悪魔がウジョウジョいた時代でしょ。
 海に関してもね、コロンブス以前は一般的に、まだ地球が平らだと信じられていたわけですからね。

 海の果てまで行ってしまうと、海水が滝のようになって地獄の底まで落ち込んでいるという、そんな世界観を人々が共有していたわけですね。
 そして、そこには人の知らない怪物がたくさん棲んでいると…。そんな雰囲気がね、この 『Ⅲ』 には漂っていますよね。

 ま、核戦争後の無人の地球をたった一人で旅しているという感じの、ちょっと終末論的な寂しさがこのゲーム全般に流れているわけでね。そこが味わいとなっている反面ですねぇ、また、とっつきの悪さにもつながっているわけですね。
【司会】 ふぅーん。

【町田】 それと、このゲームの最大の欠点は、クリアした瞬間が明確ではないんですね。仮にクリアしても、まだゲームを続行できるわけです。
 そうなると、その先どうなるなんだ? …という不安感がユーザーに湧いてくるわけですね。いつまで経っても終わりが来ない。
【司会】 あ、その感じちょっと不気味。 

【町田】 まぁ、僕としては、やっぱり明るい期待感に満ち溢れた 『Ⅱ』 とか 『外伝』 の方が好きですね。
 なんていうのかなぁ…本当に、世界が変わって見えてくるという、あの大航海時代の人々の気分が、特に 『Ⅱ』 にはあるんですね。

 なにしろ大航海時代までの人々の常識では、地球はどこまで行っても果てがない、無限に広がる平面だったわけですよね。
 当然 “地球” という言葉も存在しなかったんですが、大海原の彼方がどんな風になっているか誰にも想像がつかなかったわけでしょ。
 当時の人は、まさに 「宇宙の果て」 に思いを巡らす今の人々の気持ちと同じだったと思うんですよ。

大航海時代帆船1

 で、やがて、コペルニクスやガリレオ・ガリレイの推理により、地球が太陽の周りを巡る球体であるという新説が流布し始めたわけですが、それだって、最初のうちは実証しようのない仮説に過ぎなかったわけですからね。

 だから、この時代に遠洋航海を企画することは、宇宙開発のプロジェクトのようなものだったんじゃないかと思うんです。
 それに従事した船乗りたちは、まさに宇宙飛行士たちの心境だったと思いますね。

 で、アフリカの南端まで行くのが最大のテーマだった頃はですなぁ、希望峰を最初に回った船乗りたちはね、さしあたり月面着陸に成功したような気分を味わったのでしょうね。

 そして、その先に広がるインド洋を眺めたときね、おそらく彼らはねぇ、星雲広がる大宇宙の入口に立ったことを直感したんではないかと思いますよ。

宇宙_星雲
 
【司会】 はぁ…。すごい思い入れですね。
 いやぁ、それだけの思い入れを持ってゲームに臨めば、さぞや楽しいでしょうね。
 まぁ、今日はホントにどうもありがとうございます。

 今晩はゲーム研究家の町田さんをお迎えして、『大航海時代』 について語ってもらいました。
 町田さんどうもありがとうございました。
【町田】 いや、こちらこそ。

【司会】 今日も楽しい愉快なゲーム。朝晩ゲームに、夢でもゲーム!
 この番組は、寝る時間も惜しんでゲームに親しむゲームフリークの貴方に発信する、ゲーム情報のパラダイスです。
 それでは皆さんまた来週。




ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:18 | コメント(4)| トラックバック(0)

Bobbyの料理

 世の中には、いろいろなお仕事をされている方がいる。
 10月下旬、ニートRVさんのジャンボリーで知り合ったBobby (ボビー) 坂田さん。

Bobby氏1

 イベント会場では、あまりにも手馴れた手つきで野外料理を作られていたので、てっきりアウトドア・クッキングの専門家と思っていたが、休憩中、隣りに座ってお話しをうかがうと、本職はTV・映画などの野外ロケをサポートするお仕事なんだとか。

 …といっても、なんのことだか分からないだろうけれど、要は、キャンピングカーをロケ隊の休憩所として提供したり、キャンピングカーの設備を使って食事の世話をしたりする仕事だという。

Bobby’s料理1

 山奥や川原などで映画、テレビ、CM撮影する場合、出演者がメイクをしたり、着替えをしたり、休憩したりする場所を確保することはそう簡単ではない。
 撮影スタッフの食事を用意するのも大変だ。

 そういうとき、Bobby坂田氏が用意するさまざまなキャンピングカーが大活躍。
 休憩場所や更衣室として使う大型クラスAから、ケータリング専用に改造したデリバリバン、古いワーゲンベースの作業車など、坂田氏は用途に応じてさまざまな車種を使い分ける。

Bobby’sデリバリバン

 そのような仕事の中でも、とみに評価されているのがアウトドア・クッキング。
 「昔ねぇ、寒い季節に、山頂で日の出のロケをする仕事があったんですよ。そのときにスタッフがみんな冷たいおにぎりを頬張っているわけね。それが可哀想に思えてね」
 そこで、Bobbyさんは、冷えたおにぎりをコンソメスープで煮て、リゾット仕立てにしてみんなに振る舞った。

 「いやぁ、こんな美味しいもの、食べたことがない!」
 みな大喜び。

 それがきっかけで、Bobbyさんはロケの時には必ず鍋やツーバーナーを用意して、ポトフやみそ汁をつくってクッキングサービスを始めるようになる。
 いつしかそれが、Bobbyさんの仕事の目玉となるくらい好評を博す。

 そのうち、アウトドア雑誌に 「野外料理」 の原稿を書くようになり、やがて本も出版される。

party1

 「でも、肩書きは “焚き火評論家” なの」
 とBobbyさんは、人を食ったようなことを言う。

 「まぁ、評論家という肩書きは、何でも先に言ったもの勝ち。別に評論するようなネタがあるわけじゃないんだけど、結局、焚き火というのがアウトドアクッキングの原点になるから」

Bobby’s焚き火

 もちろんBobby流の 「焚き火哲学」 というものがある。
 それは、自然の中では決して 「焚き火をした」 という痕跡を残さないこと。

 川原などで焚き火をするときは、必ず周囲の石が焦げて黒くなったりしないように、回りの石をていねいに取り除く。
 使ったマキは、白い灰になるまで責任を持って見届ける。
 大地に与えるインパクトを弱めるために、その炎も、人間が最低限の暖を取れるぐらいの小さなものにする。

 「それが大自然に対するせめてもの礼儀」
 幼い頃から、自然の中に暮らす生き物がみな友だちだったBobbyさんにとって、彼らが暮らしにくくなるような環境破壊はしたくない。

 彼がいうには、
 「アウトドアという言葉を使うのも、自分では面映ゆい」
 …とか。
 「だって、そんな言葉が流行る前から、僕らの日常生活そのものがアウトドアだったんですよ」

 「九州の片田舎の山奥育ち」
 と自ら語るBobbyさん。

 魚釣りというと、竹薮に行って、適当な竹を切り出して釣竿を作った。
 針と糸も自前で調達。
 重りは、ただの石コロ。
 エサは軒下でうごめくミミズ。

 他に用意するものは、若干の醤油と砂糖。
 そして、粉ミルクが入っていた缶に穴を開けて糸で吊るした魚篭 (びく ) 。

 釣った魚を粉ミルクの缶に入れ、そこに醤油と砂糖を加えて、そのまま焚き火で煮る。
 それがその日のお昼ご飯。
 小学生の頃からそんな生活を当たり前のように繰り返した。

 そうやって培ってきた野外料理の数々のノウハウが、都会に出てくると 「アウトドア・クッキング」 と称されて脚光を浴びることを、やがてBobbyさんは知る。

bobby09

 もともと料理が好きな性格だったので、いろいろな道具を使ってさらに研究を重ねる。
 本来なら複雑な工程を要する料理も、彼にかかると簡単な道具で簡単に仕上げられるものに早変わり。
 だから、彼流のアウトドア・クッキングは誰もが簡単に覚えられるものばかりだ。

 だけど、そのノウハウの核となる部分には、Bobbyさんが長年自分で編み出してきた貴重な経験が凝縮している。

 ニートRVさんのジャンボリーで食ったBobby料理は本当にうまかった。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:50 | コメント(2)| トラックバック(0)

セクシィ

 こんばんは。ディスクジョッキー町田がお送りする火曜日の 「Jポップ・クリティーク」 の時間がやってまいりました。

 ええ、すっかり秋めいてきましたね。

 秋…。
 なんとなく “人肌恋しい” という季節ですね。

 風に冷たさが含まれるとですねぇ、愛しい人と、そっと触れ合っていたい。 
 そんな気持ちも強まってくるものであります。
 
 夏の恋がですねぇ、烈しい情熱のほとばしりそのままだとすれば、秋の恋ってのは、ちょっと相手を気遣うような、どこか穏やかさが漂う。

 まぁ、大人の恋の季節というわけですな。

 で、今日はそんな、いかにも大人の男女の恋の現場に焦点を合わせたよう曲、下田逸郎さんが1976年に歌った 『セクシィ』 を取り上げてみようかと思います。

下田逸郎セクシージャケ

 さて、『セクシィ』 。
 ドッキリですね、このタイトルは…。

 だけど聞いていただくとお分かりになるかと思いますが、このタイトルから想像されるような艶かしいギタギタ感というものが、これほど抜け落ちた曲というのも、そうザラにはありません。

 むしろ、老人ホームで出会った男女がですねぇ、車椅子を並べてお互いに木陰を見つめている…ってな雰囲気さえ漂ってきます。

 だけど、それでいて、どこか暗い官能が秘められている。
 そういう不思議な歌なんですね。

 ここで歌われた 「セクシー」 という意味。
 皆さんはどのような印象を持たれるでしょうか。

 ちょっと聞いてみてください。
 下田逸郎さん。
 『セクシー』


 ▲ YOU TUBE より 

 いかがでしたか?

 そうなんですね。
 ここではですねぇ、もう精力増強剤など飲んで、ギラギラになったマッチョ男と、燃え盛った女が求め合うような、健康的なセックスの雰囲気は、みじんもありません。

 仮に、これがセックスの情景を描いた場面だとしてもですよ、この雰囲気は、「宴の後」 ですね。

 とりあえず、1ラウンド終わって、首の下に回された女性の腕かなんかを枕にして、天井見つめてプカリとタバコなんかをふかす…。 
 そんな雰囲気を伝えるメロディと歌い方ですね。

 敏感な方ならですねぇ、過去の傷を持った大人の男女がお互いに癒し合っている …という匂いをかいだかもしれません。

クリムト1

 しかし、この歌はですね、そういう表面を覆う 「優しさ」 を1枚はがしてみると、実は思いもよらぬ 「怖さ」 が隠されている歌なんです。

 さぁ、それはどんな怖さなのか。

 それでは少しずつ、この歌の本当の意味に分け入っていくことにいたしましょう。

 まず歌詞を思い出してください。

 ……………………
 子どもみたいに、笑うあなたが
 急に黙って、セクシィ
 旅に出るなら、夜のヒコーキ
 つぶやくあなた、セクシー
 ……………………

 1番の歌詞では、たゆたうような頼りないメロディに乗って、そう歌われるわけですが、ここから浮かんでくる情景はですねぇ、ベッドの上でひじ枕なんかしながら、お互いの身体を指でなぞったりしているという、満ち足りた男女の姿ですね。

 で、まぁ、満ち足りてはいるんですけど、そこには、コップの水に一滴のインクを垂らしたような物憂さが広がっています。

 それが、「旅に出るなら、夜のヒコーキ…」 という部分ですね。

飛行機の翼1
 
 まぁ、ある意味でとてもロマンチック会話です。
 「夜のヒコーキ」 という現実感のない言葉が、聞く者の想像力を無類に刺激します。

 たぶん…ですよ、その飛行機に、もし彼らが乗るとしたら、乗客は2人だけ。
 しかも、パイロットもアシスタントも、スッチーもいない無人の飛行機が、着地点すら定かでない場所に向かって静かに飛んで行く。
 …そんなイメージが、聞いている者の心に沁み込んでくるんですね。 

 もちろん、2人は飛行機などには乗っていないわけですけれど、この印象的な歌詞が挿入されたことによってですねぇ、2人のいる空間の外では 「世界」 が消えているという感じが伝わってきます。

 ここに、かすかに 「危険な匂い」 が忍び寄っています。

 どういう危険なのか。
 
 それはですねぇ、この2人が、これ以上生きることに、あまり魅力を感じなくなっているという気配が伝わってくるからなんですね。
 
 そういう空恐ろしさを、2番の歌詞が伝えています。

クリムト2

 ……………………
 明日のことは、誰もしらない
 だから今夜はセクシィ
 ……………………

 この言葉!
 2人は、もう 「明日」 を半分捨てかかっています。
 彼らが、ずるずると 「この世」 から滑り始めている様子が伝わってきますね。

 彼らが、明日の労働も家庭もすべて放りだしてしまうのは、もう時間の問題です。

 「人間は生きている限り、社会に奉仕しなければならない」
 という近代社会を維持するための根本原理を、この2人は、気持ちとしてはもう軽々と捨て去っているんですね

 愛し合った男女がみんなこんな境地になってしまえばですねぇ、社会なんかいっぺんに機能しなくなってしまいます。

 それほど、「本当に満ち足りた状態」 というのは、甘く、切なく、寂しく、頼りなく、そしてとても恐ろしいことなんですね。

 第一、もうこの2人は、「言葉」 すら放棄しているわけですね。
 「愛の言葉は、見つめ合うこと」
 こう言いきっているわけですから、人間のコミュニケーションの根幹だと信じられてきた 「言葉」 すら必要のない世界に、彼らが足を踏み入れているわけです。

 そして、「夜の深さに、2人とけてゆく」 。
 つまり、最後には 「個体」 すら要らなくなっていく。

 まぁ、はっきり言っちゃうと、「死んじゃってもいいや」 …という意味なんですね。

 ここで初めて 「旅に出るなら、夜のヒコーキ…」 という歌詞の意味が重みを持ってきます。

 飛行機。

飛行機の翼1

 だいたい飛行機というのは、高度1万メートルという途方もない場所を飛ぶものなんですが、実際に人間が住める場所ではありません。

 つまりここでは 「飛行機」 が 「天国」 のメタファーになっているわけですね。

 もう2人ともトロトロと甘く溶け合って、高度1万メートルの風に流されながら、言葉も要らない世界に飛び立っていく。

 ひゃひゃひゃ! もうこんな境地になってみたい!
 ね、そう思いませんか?

 そう考えるとですねぇ、この歌の危険性というものがはっきりと浮かび上がってきますね。 

 もう、これは放送禁止歌です。
 「労働」 と 「勤勉」 の放棄を勧めている歌なんですからね。
 さらに、「命なんてのもどうでもいいや。すべてを捨てて、このトロけるように甘い今を味わい尽くそう」 ということをささやいている歌なんです。
 
 この2人は、決して興奮してはいない。
 むしろ疲れている。
 だからこそ逆に、充実している 「今」 を手に入れている感じが伝わってくる。
 …ね? 
 
 「明日を捨てて、“今” を永遠のものにする」
 それって、どういうことだと思います?

  昔、ジョルジョ・バタイユなんていう文学者さんがおりましてですねぇ、「エロティシズムとは、死にまで高められた生の高揚である」 とか言ったようですが、まさにここに描かれている世界は、それですな。

 それが下田逸郎さんが歌う 「セクシー」 の意味なんですね。
 
 物憂い優しさのかなたに、ひっそりと死の影がたたずんでいる。
 しかも、そこには、どこか人間をホッとさせるような温かみすら漂っている。

 そう考えると、なかなか怖い歌でありますね。

飛行機の残骸
 
 …というところで、今日も時間となりました。
 それでまた来週。
 お相手は町田でした。


▼ 再放送
Jポップ・クリティーク 「そんなヒロシに騙されて」
Jポップ・クリティーク 「わかれうた」
Jポップ・クリティーク 「恋の予感」
Jポップ・クリティーク 「白いページの中に」
Jポップ・クリティーク 「千の夜と千の昼」
音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:09 | コメント(6)| トラックバック(0)

大人の文章法

 このブログでは、ときどき本や映画や音楽の話を採り上げるけれど、基本的に批判記事を載せたことがない。
 批判というのはつまらないものだと思うからだ。

 本を読んだり、映画を観たりしていれば、当然 「つまらない」 「くだらない」 と思う作品に当たることもあるけれど、そんなことは数多くの作品に接していれば当たり前のことであって、「くだらない」 からといって、いちいち名指しで批判していればキリがない。

 それよりも 「くだらない」 作品群の中から貴重な良い作品を探り出し、その美点を発見する方がはるかに面白いことだと思う。だから、批判するくらいなら沈黙を守った方がいい。

 …と思って今日まで来たけれど、あまりにも自分の考え方になじまない本に出合ったりすると、珍しさのあまり、ちょいと採り上げてみたくなる。

 で、今回、自分にとってはとても珍奇な本として、和田秀樹さんの書かれた  『大人のための文章法』 (角川oneテーマ21 2003年初版) という本を採り上げてみようと思う。

大人のための文章法表紙

 通勤電車の中が 「読書室」 である自分は、読む本が途切れた場合は、だいたい 「文章読本」 みたいな本を買って電車に乗り込むことが多い。
 その手の本は、内容も無難であるし、仕事につながる部分もある。

 で、読む本がなかったある日、駅構内の本屋でこの書物を買い込み、車内に入ってから目次も確かめずに読み出した。

 初っぱなの書き出しはこうだ。
 「量産という点では、私は日本でも有数な文筆家になった。…2001年から2003年までに125冊の本を出し、雑誌の連載も何本も抱えているし、新聞にも寄稿し、学術論文も書いている。書いている文章の量という点でいえば、我ながら誇ってもいい」 。

 どうということのない書き出しで、特に嫌みなところは見当たらないけれど、自分で自分のことを 「有数な」 とか、「誇ってもいい」 などという修辞で飾れるセンスに、まず自分はノドに小さなトゲが刺さるのを感じた。

 さらに読み進めていくと、
 「私自身がもともと文章を書くのが大嫌いで、文章を書くことから逃げていた。 (しかし文章を書けるようになって) 収入面ひとつ取ってみても、医者だけをやっていた頃と比べると、文章を書くようになってからは数倍になっている」

 おっと、自慢話か…と思ってしまう。

 たいていの 「文章読本」 のたぐいのものは、ありきたりのことが書かれていても、ふんふんやっぱりそうだよなぁ…と腑に落ちるのだけれど、どうもこの本は読み進めていけばいくほど、違和感が募ってくる。

 その理由が次第に明らかになってきた。
 和田さんはこういう。
 「成果主義の時代になると (文章を) 書くことの大切さは大きくなる」
 「文章を書く能力を身につけることは、実力主義のいまの時代に生き残るためのひとつの条件になる」

 なるほど。
 サバイバルのための 「文章読本」 だったのだ。
 つまり、企画書のまとめ方とか、プレスリリースの作り方だとか、学校のレポートとか、ビジネスや実生活に必要な文章テクニックを手ほどきしてくれる本だったのだ。

 和田さん自身も、「これは小説などの “文学” を目的としている人たちのための本ではない」 と文中何度も説明している。

 それは大事なことだなぁ…とは、思った。
 そういうニーズの方が現状では強いこともよく分かる。
 マーケットの絞り方は大正解。
 この本が有益であると感じる読者は多いだろう。

 だけど自分が求める本ではなかった。

 読者ターゲットを 「成果主義や実力主義の時代に適合できない人々」 に合わせるという設定自体が、基本的に現存する社会に適合できる人間を目指すためのものでしかないわけだから、これじゃ、社会を変える人間は育たない。

 私のような最初から社会に適合できずに生きてきた人間には、そういうことを言ってもらっても面白くもなんともない。
 私は、自分自身がわがままで、社会に適合できない性格のために、社会の方を自分に適合させようと思って今日まで生きてきたので、和田さんが進める文章術は退屈でしょうがない。

 この本のキモは、次のような文章に集約できるだろう。

 「日本の国語教育は、情緒的な文が読めて、心情読解ができて名文が書けるというのが目標になっているように私には見える。
 (中略) しかし、外国ではそういう心情の読解よりも論理的な文章や説明文がしっかり読めるようになることが母国語教育の基本とされる。

 一方日本は、そういう母国語の基礎を固める勉強よりも、1ランク上の文学としての鑑賞能力、あるいは小説家レベルの文章テクニックを要求した。
 これが問題を生んだ。
 それほど知的レベルが低くない人間にまで、国語アレルギーや国語コンプレックスをつくってしまった。
 現時点で “文章が書けない” と嘆いている人の多くは、これまでの国語教育の犠牲者と言ってよい」

 たぶんこういう言い方に共感を覚える人も多いような気がするが、私にいわせれば、小説一つまともに味わえない人間を推奨して、なにが 「国語教育の犠牲者だ」 だという気もする。

 まず第一に、和田さんは一つの前提として 「情緒的な文章」 と 「論理的な文章」 を対比させているけれど、この人には 「情緒」 もまたひとつの 「論理」 なのだという構造が分かっていないように思える。

 一見、理路の筋道が感じられないような感覚的な反応は、論理が生まれる前の “カオス (混沌) ” に過ぎないと処理されてしまうが、外界の刺激に感覚的に反応すること自体、そこには生命体としての論理が存在する。
 文学の 「情緒」 というのは、生命反応のロジックをたどる行為の中から生まれたきたものだ。


 まぁ、とにかく、この人の 「教えてやっか」 という上から目線には自分はついていけない。
 彼はこうもいう。
 「書くためにはそれなりに知識を吸収しなければならないのが鉄則。たくさんの文章を書くことは、たくさんの知識を吸収することになる。
 なんと言われようが、知識は豊富なほうが人の興味を惹く文章を書きやすいのは確かなのである」

 それはそうだけど (当たり前じゃん) 、知識というのはそれだけを身につけても、持っていれば 「勝ち」 、持たなければ 「負け」 という、結局は人間の単純な上下関係を峻別することに収斂してしまう。

 そのような 「上にあがれば勝ち」 という発想だけでは、ぜったい人を動かす文章なんか書けっこないって。
 知識の多寡が人間の優位性を決めるのだったら、クイズ番組の常勝者は日本でもトップクラスの人材ということになってしまう。

 知識の多寡なぞは誇るべきものでも何でもない。
 古典的な表現を使えば、必要なのは 「教養」 の方なのだ。
 知識は表に出ることで、価値を認められるかもしれないけれど、本当に必要なのは、表に出ない教養の部分である。
 ついでに言っちゃうと、「教養」 とは 「ひけらかすことの恥を知った知性」 のことである。

 とにかくこの本は、突っ込みたいところだけを “悪意” で拾ってみると、言いたいことがどんどん出てくる。
 こんな文章もある。

 「日常会話でもまわりを引きつける話ができる人の方が、やはりうまい文章を書く能力に優れている可能性が高い。

 最近は “人付き合いは嫌い” 、“他人と付き合うのは苦手” という人が世間にあふれている。
 私はそのことと “文章が下手” というのがほとんどイコールであるように見える。
 まわりの人が何を考え、どんな気持ちでいるかが理解できないことには、上手な文章など書けないという意味である」

 これもごく当たり前のことを言っているに過ぎない。
 しかも、その 「当たり前」 は、現状を肯定する限りの 「当たり前」 であって、ここから何かが生まれてくる可能性は限りなく低い。

 まず、私は上記の和田さんの文章に、「差別」 の匂いを嗅ぐ。
 「他人とつき合うのが苦手な人は文章が下手」 だとはよくぞ言い切ったものだ。
 
 今の時代は、和田さんが指摘するのとは逆に、場の空気を読んで他者と上手に付き合う人の方が 「世間にあふれたきた」 ように思う。
 では、そういう人たちが、みな上手な文章を書いているのか?

 文章というものは、他人の前でうまく自分をしゃべれない人によって磨かれたきたという歴史がある。
 「なかよしこよし」 は名文を生まない。
 会話の断絶を文章の力で飛び越えるという奇跡を味わった人が、結果的に、今までの会話の中では実現しなかった 「表現」 を獲得してきたという側面を忘れてはならない。

 「まわりの人が何を考え、どんな気持ちでいるかが理解できないことには、上手な文章など書けない」
 という言い方は、つまりKY (空気を読めない人) から脱却しろということなんだろうけれど、「空気」 なんて読むだけだったら、ナマズやネズミだってやっている。
 大事なことは、空気を読み切った上で、さらにその空気に同調しない主張ができるかどうかなんだから。

 この本の第5章 「ベストセラーを量産する方法」 という章では、ご自分の書かれた 『大人のための勉強法』 という本を企画して、それが書籍になるまでの経緯が書かれている。

 年間50冊の著書を書かれる和田さんは、その中では失敗作もあったことも認めつつ、そういう失敗作を分析するよりも、
 「やはりベストセラーになった本がどのようにつくられたかという話の方が (読者には) 興味があるだろう」
 と、ご自分の著作がどんどん売れるようになった秘密をご伝授される。

 はっきりいうと、自慢話。

 「どうせ出すなら売れる本にしたい。(それには) かつての和田本のファン以外の新しい読者の獲得が必要…」
 とも書かれているけれど、自分で 「和田本のファン」 などという言葉を平気で使ってしまう神経が、私から見れば、ずさんというか、キメが粗いというか…。
 企画書の書き方は教えられても、文学の繊細さを伝えることはご自分で認められているとおり、やはりできない人なのだろう…と思ってしまう。

 さらに突っ込みたくなるのが、次のようなくだり。

 「私は世間で文化人といわれる人たちの多くと違って “自分は天才” だとか “自分は特別な人間だ” という驕った気持ちはこれっぽっちもない。
 “自分が困っていることはほかの人も困っている” とか “自分が面白くないものはほかの人にも面白くない” というスタンスで書いている。

 (だから) 勉強なんてつまらないものだと思っている。(しかし) ノーベル賞を取った学者なら “勉強は面白い” というところから話が始まるだろう。

 ところがそれは優秀な人だからこそできることで、普通の人は “勉強が面白くない” と感じているのだから、真似ができるはずがない。
 たとえ (そういう優秀な人が) 言っていることが、もっともではあっても、これでは多くの人たちには役立つものにはならない」

 こういうくだりを読んで、それに賛同できる人たちは幸せかな。
 私はまったく賛同できない。

 「勉強が面白い」 ものでなかったら、誰が勉強なんかするかいな。

 有名受験高校から、超トップブランドの大学に進んだ “秀才” のはずなのに、受験のためのノウハウとテクニックしか学んでこなかった人間の退屈さが、ここに露呈されたように思う。

 和田さんは、勉強を 「面白い」 か 「つまらない」 かで論じるのではなく、「役に立つ」 か 「立たない」 かという視点で見直そうとおっしゃるようなのだけれど、「役に立つ」 なんて発想で勉強に取り組んでいるかぎり、人はその範囲内の勉強しかしないんだって。

 勉強なんてエゴイスティックなものでしかない。
 それは 「多くの人のため」 なんかになるものではない。

 だからこそ、人は自分のためだけに一生懸命勉強する。
 だからこそ、ブレークスルーとなるような発見も生まれる。
 だからこそ、結果的に、それが世の中のためになる。

 勉強とはそういうからくりになっている。 

 結局、和田さんのいう 「勉強」 とは、ディベートで勝つための勉強。プレゼンで相手を説得するための勉強。つまりは、スキルアップのための勉強であり、テクニックとしての勉強に過ぎない。
 和田式の勉強法は、現代社会における勝者と敗者を分けるためのものでしかない。

 …というわけで、この本は私にはちっとも面白くなかったけれど、この本を参考にして、自分の生活を豊かにしていく人たちもいるだろう。
 そこまで否定するつもりはない。

 もちろん、この本には賛同できる部分もあった。
 特に、日本の小学生レベルの 「読書感想文」 の指導で、本のあらすじを書いただけの子を 「それでは要約であって感想にはならない」 と怒る先生をいましめるくだり。

 和田さんは、「要約を軽視してはならない」 という。
 なぜなら、要約というのは、本の中味をしっかり消化しない限りできるものではなく、そういう力は訓練をしなければ身につかないものだと主張する。
 だから、本を読んだり、ドラマを観た後に、そのあらすじを簡単にまとめてみるというのは、いい文章訓練になるとか。

 これはそのとおりである。
 
 だけど、何のための要約か?
 …という考察はそこにはない。

 なにせ、良い文章を目指す目的は、社会にうまく適合するため…というわけだから、和田さんの文章読本に従っていても、今の社会を超えるものは書けない。 


 で、ここまで書いて、読み返してみて、
 「なんか、俺、いやにエラソーじゃん」
 …そう感じた。

 「批判」 ってのは、結局 “好みが違う” っていうだけのことに過ぎないのに、書いているうちに、自分の方がどんどんエラクなったような錯覚に陥ってしまう。

 そういう文章は、他者の目を想定しながら読み返すと、やっぱり 「上から目線」 満載で、ちょっと鼻持ちならない。

 自分で言うのは変だけど、イヤだね、そういうのって…。
 自戒せねば。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:04 | コメント(4)| トラックバック(0)

ニートRV交遊会

 千葉県のモーターホームディーラー 「ニートRV」 さんの第6回ジャンボリーにご招待いただき、楽しい2日間を過ごしてきました。

ジャンボリー受付
 ▲ 受付

 この日集まったお客さんは、ニートRVのユーザーを中心に約60~70家族。

遊具コーナー 掘り出し物コーナー
 ▲ 遊具コーナー        ▲ 掘り出し物コーナー

 千葉市若葉区の同社展示場では、土曜日の朝からさまざまな飲食コーナー、遊具コーナー、モーターホームパーツの即売展示コーナーなどが設けられ、たいへんな盛況ぶり。

料理教室1 料理教室2
 ▲ Bobby坂田氏の料理教室

 昼過ぎからは、アウトドアの達人Bobby坂田氏の料理教室なども開かれ、うちのカミさんも、カボチャのパイづくりやら、炊き込みご飯の具を揃えたりで、楽しんでいました。

 ひとつの目玉は、入口近くに展示されたアスペクト28Bの09年モデル。
 シャシーが新型フォードエコノラインに変っただけでなく、インテリアとエクステリアが目を見張るようなリファインを受けて、いっそう充実した内容になりました。

アスペクト09モデル外形 アスペクト09モデル内装

 エクステリアで目立つのは、バンク形状の変更。
 もともとバンクベッドを持たないロープロファイルモデルですが、ちょっとだけ “ひさし” が伸びて、バンクベッド付きクラスCの雰囲気も若干備えるようになりました。

アスペクト09外形2
 ▲ アスペクト09モデル

 なんでも、08モデルよりも少しだけ全高が伸びたとか。
 その理由は、スライドアウト機構が充実して、その補強のためのマージンを取ったからだそうです。

 さて、イベントの方も楽しいメニューが盛りだくさん。
 土曜の夕方からは、Bobby坂田氏の仕込んだ料理が次々とできあがり、大宴会の始まり。

料理教室4 料理教室5

 私はニートさんのお客さんでも何でもなかったのですが、こちょこちょとその中に忍び込み、おいしい料理をたらふく食べて、飲んで、至福の時間を過ごすことができました。

 このところ、ずっとダイエットに励んでいたのですが、この日だけは禁を破ってしまいました。
 なにしろ、これ以上は食べられない、もう酒も胃に入らないという飽食状態を半年ぶりぐらいに経験したのですから。

 アスペクト09モデルは、画像もいろいろUPして、再度くわしくご報告いたします。

ジャンボリー夜のパーティ
 ▲ 宴たけなわの中で、お客様たちをなごませる粂社長 (中央)
  こっちも酔っ払ってボケボケ画像でスイマセン


ニートRV猪俣常務 
 ▲ 猪俣常務

ニートRV中村常務
 ▲ 中村常務

 粂社長様、猪俣様、中村様、原田様、Bobby様その他多くのスタッフの方々と、面白いお話を聞かせてくださったたくさんのお客
様。
 この場を借りて、御礼申しあげます。


旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 22:30 | コメント(0)| トラックバック(0)

ザナドゥー

 「バスコンバージョン」 という車種を展示会で見る機会がなくなった。
 一時は、いろいろなメーカーがマイクロバスにチャレンジして、大きなショーともなると、必ず4~5台はバスコンの姿が見えていた時代があった。
 特に、バンコンに自信を持っていたメーカーは、全ブランドの中のフラッグシップモデルという位置づけで、バスに手を染める傾向があった。

 それが、ここ数年はどんどん減少し、この秋の関西と名古屋のキャンピングカーショーでは、RV BIGFOOT (アールブィビックフット) さんが持ち込まれた車種だけになってしまった。

 バスはベース車そのものも高いので、不況の時代には売りにくいとか、あるいは、定番レイアウトのまま買う顧客が少なく、すべて個別オーダーとなるので展示する意味がない…などといった理由があるのかもしれない。

 あるいは、バスボディを大胆にカットして、オリジナルシェルを架装する新しいタイプのキャンピングカーが登場するようになって、バスコンそのもののポジションが中途半端になってしまったということもありえるだろう。

 そんな中で、RVビックフットさんは新型バスコンバージョン 「Xanadu ザナドゥー」 を関西、名古屋ショーと続けて登場させた。
 そこにはバスコンプロショップとして、今日までの地歩を築いてきたビックフットさんの自信のほどが感じられるし、また意地も見えるように思う。

ザナドゥー外形1
 ▲ Xanadu

 先週開かれた名古屋ショーの会場で、ザナドゥーの特徴とその開発の狙いを、牧瀬芳一社長からうかがう機会を得た。

 「元々うちのバックボーンはバスでしたので、原点に戻ろうと思いました」
 と、牧瀬社長は開口一番そう答えた。

牧瀬芳一社長
 ▲ 牧瀬芳一社長

 RVビックフット社が、今日のようなビッグメーカー&ビッグディーラーとしての地歩を築いてこられたのも、もとは同社の開発したバスコン (エポックシリーズ) が世に認められたからだ。

 なにしろ、同社はバスコンにおいては草分け的なショップ。
 日本に、バスベースのキャンピングカーが普及することへの筋道を付けたパイオニアともいえる。
 その経営トップの人が 「原点に戻る」 と言った背景には、どんな思惑があったのだろう。

 「私がバスコンを始めた頃、お客様というのはバスそのものが好きな人たちだったんですね。
 本来なら大型免許がないと運転できなかったものが、普通免許でも運転できる。乗り味も安定感も最高。
 さらに庭に置けば、家がワンルーム増える計算になる。
 そのうちターボやオートマが付いて、シャシーもどんどん充実していく。
 だから、トヨタがいいのか日産がいいのか、昔はみんな無邪気に議論したものでした」
 …という牧瀬さんの話を聞いて、ひとつ分かったことがある。

 この人自身が、もう無類の “バス好き” なのだ。

 好きな人が、原点に戻って好きなものを造る。
 その心意気が伝わってくると、こっちも取材が面白い。

ザナドゥー内装4

 ただ、「時代は変わった」 と牧瀬さん。
 「今のお客様というのは、昔のように、バスが好きだから…という人に限らなくなりました。輸入車やキャブコンから乗り換えられるお客様が増えてきたんです」

 …ということは、
 「バスだからしょうがないんだよ (笑) 」 と、今までのバスコンのデメリットに目をつぶってくれる人たちが、少なくなってきたことを意味する。

 キャブコンや輸入モーターホームの使い勝手を経験してきた人たちというのは、ボディの断熱性や防音性、収納性、プライバシーの確保などに関して厳しい評価軸を確立している。

 特に、こういう人たちは断熱性に対する関心度が高い。
 だから、ガラスと鉄板の表面積ばかり目立つバスコンの構造に対し、断熱性が低いのではなかろうか? …と疑問の目を向ける。

 ユーザーが望むバスコンの断熱性を確保するための有効な対策のひとつに、“窓埋め” がある。
 熱伝導率の高いバスのガラス窓部分をFRPなどの素材を使ったパネルで防ぎ、窓から進入する太陽熱や冷気をシャットアウトしようというもの。

 この窓埋め型バスコン開発においては、茨城県にショップを構えるRVランドさんが先鞭を付けたが、RVビックフットさんも、すかさず自社製品に対応を施した。
 同社はエポック・レボリューションやタンゴなどの開発において、日産純正のブラインドパネルを採用して好評を博した。

 ただ、日産純正品の場合は表面がフラット。
 デザイン的にも単調なラインに終始してしまうので、クオリティ感が出ない。

 しかし、今回のザナドゥーでは、微妙な3次曲面を採用したオリジナル開発の 「アイアン (鉄板) 窓埋めパネル」 が試みられた。
 しかも、ボディ右サイドでは、それが運転席から後方の窓をすべて埋めるほどの徹底ぶりが貫かれている。

ザナドゥー右パネル

 ザナドゥーは、RVビックフットさんが、バスコンプロショップとしての原点に戻るために投入された新世代バスコンだったのだ。

 レイアウト的な特徴は何か。

 牧瀬社長は、リヤベッドの設定位置が低いことを強調する。
 もしベッド位置が高ければ、その下に収納庫を設けた場合、その容量が大きくなるというメリットが生まれるはずだ。
 ところが、このザナドゥーのベッド高は、リヤトランクにジェネレーターを入れるぎりぎりの高さに調整されている。

ザナドゥーリヤベッド
 ▲ 窓埋め効果によって、プライバシー確保と断熱が行き届いたリヤベッド

 それも牧瀬さんに言わせると、計算のうちなのだ。
 「やはりキャブコンからバスに流れてきたお客様というのは、高齢者になって、バンクへの登り下りがきつくなったという人が多いのです。そういう方々は、固定ベッドにおいても、ハイマウントベッドを嫌われる傾向があります」

 …だから、このベッドは登り下りがしやすい高さに設定されているという。
 「しかも、女の人ならこのベッドの上に立つこともできます。そう考えると、低いベッドにすれば、部屋がひとつ増えたことにもなりますね」

 一見、非合理的な設定に見えても、実は周到に計算されたベッド高なのだと、牧瀬さんは説明する。

ザナドゥー内装2
 ▲ 優雅なL字ラウンジ。シートはレザー

 キャンピングカーは、だんだん 「趣味のアイテム」 から 「生活必需品」 に変化している、と牧瀬さんは見ている。

 「キャンピングカーであちらこちらを旅しても、朝はキャンプ場や道の駅の周辺を普段と変わりなく散歩したり、車内でくつろぐときも、家庭と同じようにプライバシーを確保しようとする人たちが増えました。
 日頃の生活と同じようにキャンピングカーを使う人たちの時代になったんですね」

 だから、安眠できるベッドがあり、快適なリビングが用意され、荷物入れもしっかり確保されている。そして走るときは、快適な乗り心地が実現されている。
 …というのは当たり前!

 「生活必需品」 であるならば、そういう条件はとうぜん満たされていて、ユーザーがことさら 「便利だ!」 だと感じることもないほど洗練されていなければならない。

 「そういう空間を実現するには、やはりバスが一番なのです」
 と、牧瀬さん。
 バスコンのプロショップの原点回帰には、骨太の “バス哲学” が貫かれているようだ。

campingcar | 投稿者 町田編集長 02:16 | コメント(0)| トラックバック(0)

村上春樹の「謎」

 村上春樹という作家は、自分のことや自分の書いた作品についてあまり語らない人だという印象を持っていた。

 メディアにも出たがらない
 もちろん個人の私生活を明かしたり、時代や政治についても直接語ることもない。
 とにかく彼には、マスコミが期待する 「作家像」 などを演じる気はまったくない。

 サラリーマンのように、定刻がきたらデスクの前に座り、夕方までは律儀に執筆に励む。
 休日には、決められたコースを黙々とジョギングする。

 そのようなクールでストイックな生活を守っている人という印象が私にはあったので、そういう人が、「小説作法の秘密」 などを得々と人に向かってしゃべる図というのが想像できなかった。

 ところが、米国プリンストン大学での講義を基に書かれた 『若い読者のための短編小説案内』 (文春文庫) という本では、彼は珍しく自分の小説作法の奥義をいろいろと披露している。

若い読者の村上

 もちろんこの本は、吉行淳之介、安岡章太郎、庄野潤三といったいわゆる 「第三の新人」 と呼ばれる作家群の短編小説を解説するもので、彼が自作の小説を語るパートはほとんどない。

 しかし、他人の短編を解剖するだけであっても、そこには当然 「作家」 村上春樹の視線が加わるわけだから、その 「視線」 のゆくえを追うことによって、読者は、村上春樹の小説作法というものをたどることができる。

 では、村上春樹流 「小説作法」 というものは、どんなものなのだろう。
 それを考えるためには、彼がこの著作で採り上げた 「第三の新人」 たちの作品の中から、そのどんな部分に注目しているかを探ってみると分かりやすい。

 村上春樹が 「第三の新人」 たちの作品を解析するとき、彼はどんな作家に対しても、必ず次のような表現をどこかに据えている。

 「この文章は謎に満ちています」
 「その先からが謎です」
 「謎が解けたわけではありません」

 とにかく 「謎」 という言葉が、この本にはふんだんに出てくる。
 読者が読むかぎり 「謎」 でも何でもないようなところに、村上春樹は 「謎」 の匂いを嗅ぎ出す。

 おそらく、それは天性のものなのだろう。
 「謎」 の匂いを嗅いだとき、初めて彼の文学的感性は生き生きと働き出すようだ。
 
 「謎」 とは、見えている部分の奥に、見えない 「何か」 を感じることである。 
 それに関する村上春樹の嗅覚は敏感だ。

 たとえば、長谷川四郎という作家の短編に出てくる風景描写の特徴について、彼は次のようにいう。

 「むずかしい言葉なんかひとつも使っていないのに、骨格がぴりっとしている」
 「感情を具体的に表現する言葉はひとつも出てこないのに、その奥にある寂寥感がすぅっと伝わってくる」

 つまり、彼は、言葉として表現されていないものこそ、作品を決定していると言っているのだ。

 たとえば、長谷川四郎が書いた 『阿久正の話』 という短編を語るとき、村上春樹は、この戦後社会を生きるしがないサラリーマンのうらびれた日常生活の話に、戦場の 「硝煙」 の匂いを嗅ぐという。

 「この阿久正という主人公は、戦争に行ったなどということは一言も言ってはいませんけれど、ひょっとして、兵隊として戦争を体験した人間じゃないかと思うのです。
 本の活字の間から、非日常的な匂いとして、戦争の影を感じることがあるのです。
 そのときに、自然発生的に “何か訴えかけるもの” がかもし出されます」

 ここに、村上文学の極意が語られているように思う。
 つまり、「何か訴えかけるものをかもし出すためには、言葉として書かれないものの存在が必要だ」 と彼はいうのだ。

 言葉を変えていえば、文学とは 「謎」 があって初めて成立するものだ、ということにほかならない。

 一般的な小説やドラマの世界では、「謎」 は常に解明されるために存在し、克服されることでその使命を終える。
 「謎」 は、あくまでもストーリーを予定調和の世界に着地させるための 「お膳立て」 であり、「プロセス」 であり、時には 「抵抗」 である。

 だから、良い 「推理小説」 というのは、この 「謎」 が読者の前に大きな 「抵抗」 として立ちはだかるものとされる。
 そして、その頑強な 「抵抗」 が主人公たちの合理的・論理的な推理の力で打ち破られたときに、読者が得るカタルシス指数も高くなる。

 しかし、村上春樹の文学では、そのような 「謎の克服」 よりも、むしろ 「謎の発見」 こそが重要となる。
 彼が 「第三の新人」 の作品を語るとき、どの作品からも必ず 「謎」 を取り出して見せたのは、自分もまたそのように 「謎」 に意味を見出す作家であったからだ。

 彼の小説における 「謎」 は、まさにブラックホールのように機能する。
 中心点は虚無なのに、その虚無に向かって、すべてのものが渦巻くようにそこに流れ込んでいく。

 彼の小説が、みなどこか終末論的なメランコリーを漂わせているのは、いずれはこの虚無へむかって流れていかざるを得ない万物の哀しみがあるからだ。

キリコ2

 彼はいったいどのようにして、物語の真ん中にブラックホールのような謎を仕込むのだろう。

 そのことを明かす面白い例がある。

 彼は、小説 (特に短編小説) を書くとき、全体の構成などを考えてから書き出すことはあまりないのだという。

 たとえば、
 「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティをゆでているところだった」
 という書き出しの1行がひらめけば、彼は、もうその先を考えずに書き始める。

 で、書きながら、
 …その女は誰だろう?
 …いったい僕に何の用があるのだろう?
 などと、浮かんでくる 「謎」 を自分自身が解明するために書き進めていく。
 すると、さらに 「謎」 が 「謎」 を呼び、雪だるまのように肉を付けながら転がっていく。

 しかし、核心となる謎は、最後まで明かされることはない。
 なぜなら、作者の村上春樹ですら、十分につかんでいないことがあるからだ。

 村上春樹はこの著作の最後の方で、あと数行を残したぐらいのところに、次のような言葉を記す。

 「優れた作家はいちばん大事なことは書かないものです。優れたパーカッショニストがいちばん大事な音は叩かないのと同じように」

 私は、この彼の一言を読んで、村上春樹の小説の秘密がほぼ分かったような気になった。
 たいていの文学が 「足し算」 の文学だとしたら、村上春樹の文学は 「引き算」 の文学だったのだ。

 引き算では、答として出された数より、答には出てこない 「引かれた数」 が意味を持つ。
 「答」 は、引かれた数の残骸でしかない。
 しかし、その残骸は常に、引かれない前の 「姿」 に人間の想像力を向かわせる。

 村上春樹の文学というのは、廃虚の中にたたずんで、その建物が朽ちる前に存在していた 「幻の原型」 に思いを馳せるようなものなのかもしれない。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:03 | コメント(4)| トラックバック(0)

Jキャビン・ミニ

 軽トラック専用の小型ピックアップキャビンの開発。
 おそらく、こういうことを考えるのは、欧米にはない軽トラというビークルが普及している日本の中で、さらに、ピックアップキャビンを自社内で生産できるMYSミスティックさんぐらいのものだろう。

Jキャビンミニ外装1

 ここ数年、すさまじい勢いで伸びてきた軽自動車。
 その販売台数は、今年の上半期には一時の勢いを失ったとはいえ、基本的にそのランニングコストの安さが大きな魅力となり、様々な経済不安を抱える今の社会状況においては、庶民の生活感覚にしっかり根を下ろしている。

 そんな状況を反映して、
 「軽トラックの荷台にキャビンが載るようなトラキャンはありませんか?」
 「軽トラ専用ピックアップキャビンを開発してくれませんか?」
 というような要望は、ミスティックの佐藤社長のところにもさんざん舞い込んでいたという。

 しかし、いくら軽トラベースだからといっても、それに積載するキャビンまで軽自動車の価格に見合ったコストにまで落とすことはできない。
 開発費用も製作する手間も、普通のピックアップトラックに積載するキャビンにかかるコストと大きく変わるところはないからだ。

 それに、軽トラックのエンジン出力、足回り、積載重量、許容荷重などを考えると、「ワタビー」 のような簡単な架装で楽しめる軽ベースのバンコンとは違い、キャビンを積載することへの懸念材料がたくさん残る。

 佐藤社長は、軽トラ用シェルを欲しがるお客さんに対しても、しばらくは 「やる気がないので…」 と断り続けていたという。

MYS佐藤社長

 しかし、ある日ふとひらめいた。
 「軽トラ用に開発したキャビンを、軽登録のカーゴトレーラーに積んでみたらどうだろうか?」
 もちろん、普段はそのキャビンをトラックの荷台に積む。
 しかし、用途や使用人数に応じて、トレーラーにも載せられるようにすれば、トラックの荷台の方はバイクやキャンプ用具の積載に使える。

 さらに、そのキャビンを積載したトレーラーを普通乗用車などで引っ張れば、トレーラーそのもののけん引も安定する。

 折しもトヨタ自動車から、新しいライト/タウンエースが出たばかり。軽トラ用の小型シェルを開発すれば、それを少し加工するだけで、そちらに積載できるかもしれない。

 こうしてMYSミスティックの 「J-cabin Mini (Jキャビン・ミニ) 」 計画がスタートすることになった。

 まず、ベース車。
 軽トラには、スズキキャリィ、三菱ミニキャブ、ホンダアクティ、スバルサンバーなど、様々なベース車が考えられる。

 佐藤社長は、できるかぎり様々な軽トラに乗る機会をつくって、研究を開始した。

 驚いた!
 どれに乗っても、昔の軽の規格によってつくられていたものとは雲泥の差がある。
 剛性感も高いし、走りも軽快。

 佐藤さんは、「足回りをしっかり組めば、キャビンを載せてもまったく問題ない」 という感触を得た。

 さて、シェル。
 軽の横幅に合わせるわけだから、車室の幅が狭くなるのは致し方ない。
 でも、これも 「2人仕様」 と割りきれば、対面ニの字シートを向かい合わせればサマにはなる。逆に長さは稼げそう。

Jキャビンミニ内装4

 問題は重量。
 エンジン出力や積載重量との関係を考えれば、目標値は300kg。
 ただ、エアコン、インバーター、キッチン、冷蔵庫、ポータブルトイレなどの快適装備を付加することも考えなければならないから、それを装着したことを想定すれば350kgというところか…。

Jキャビンミニ内装6

 こうして完成したキャビンを積載し、佐藤さんは、まずスズキキャリィとホンダアクティの2車を試走してみた。
 ともに乗り心地は最高だ!
 軽く100kmまで加速していき、その速度域でのクルージングはまったく問題がない。

Jキャビンミニ内装3 Jキャビンミニ内装

 キャビンの開発と同時に、ベース車の足回りにも手を入れていたので、その効果が生きている感じだ。
 スズキキャリィへの荷重受けはエアサス。アクティにはリーフ増しで対応。ダンパーは4本ともカヤバ。フロントにはスタビライザーを追加したので、
 「ひょっとして、これ軽?」
 というくらいのしなやかで、しっかりした走りが実現している。

Jキャビンミニ足回り

 燃費も良好。アクティで 「名古屋キャンピングカーフェア」 の会場まで300kmの道のりを走った値は、10km/リットルだったという。

 ショー会場で、車両撮影を行いながら、佐藤さんに今後のテーマを聞いてみた。

 やはり、さらなる 「軽量化」 にチャレンジするという。
 「できれば、標準装備の状態における目標値を240~250kgぐらいに収めたい。ジャッキを付けたり、エアコンを搭載するなど、オプション類を加えても300kg。そうすれば走りもさらに軽快になり、バランスももっと良くなるはず」
 と佐藤さんは語る。

 その目途はあるのだろうか。

 「今の作りは、Jキャビンとほとんど変わらないんです。フレームの上にコンパネを張って、ルーフの上もしっかり歩けるような構造になっていますけど、別にコンパネがなくてもルーフの上には乗れるわけで、そういう見直しを少しずつ重ねていけば、今よりさらに軽くなる見通しは立ちます」

 このあたり、Jキャビンをオリジナル生産する中で培ってきたMYSの軽量化技術が生きてきそうだ。

Jキャビンミニ外装2

 「私の夢は、このシェルをトレーラーに積んで、トラックの荷台にはバイクを載せ、北海道を思う存分走ること」

 そう語る佐藤さんの表情には、北海道の広大な原野を見つめるバイクライダーの意気込みが浮かんでいた。

 トラキャンの世界のみならず、バンコンにおいても新しい試みにチャレンジし続ける佐藤社長の情熱は、結局、この 「自分が楽しみたい」 というあくことなき夢の追求から生まれてくるようだ。 


campingcar | 投稿者 町田編集長 00:31 | コメント(6)| トラックバック(0)

洗浄機CMに出演

 先週行なわれた 「名古屋キャンピングカーフェア2008」 の会場で、ジャパネットたかたのCMに出ちゃった。
 …といっても私じゃなく、愛車がね。

 「洗浄機でキャンピングカーを洗車するCM撮影があるのですが、その撮影用のクルマとしてお借りできないでしょうか?」
 と、いきなり会場で申し込まれたのだ。

 洗浄機?
 CM撮影?

 なんのこっちゃろう…。
 と思いつつ、気軽に 「いいですよ」 と答えた。
 なにしろ、東京から汚れたまま走ってきたので、CM撮影だろうが何だろうが、ボディを洗ってくれるのなら助かる。

nagoyaCM1

 で、本番前に、関係者用の駐車場にクルマを持ち込むと、いかにもテレビ業界組という顔をしたスタッフたちが待ち受けていて、彼らから 「一瞬のうちに汚れを落としてしまう高圧洗浄機を宣伝する」 とかいう説明を受けた。

 「ちょっとテストします」
 といって、やにわにスタッフの一人がエアガンみたいなものを取り出して、地面に向かって放水。

 おおぉぉ! 水鉄砲の強烈なものだと分かった。

nagoyaCM2

 商品名は 「ケルヒャー高圧洗浄機」 。

 ドイツの製品だという。
 何でもドイツでは、マイカーや自宅の壁・塀などに染みついた頑固な汚れを一瞬のうちに洗い飛ばすため、えらい人気の商品だという説明を受けた。

 「日本にも5年ほど前に入ってきています」
 と、ケルヒャージャパンのスタッフを名乗る廣川氏が教えてくれるのだが、洗車する場所もないために、いつも濡れタオルで愛車のボディを拭くだけのわしゃ知らんかった。

 「その “水鉄砲” の水圧はなんぼやね?」
 と尋ねると、
 「マキシム75kgです」
 という。

nagoyaCM5

 すぐにはピンと来なかったが、
 「1㎝角の板の上に、75kgの体重が乗るという計算になります」
 と言われて、少しイメージがつかめた。

 なんとなくではあったが、道路に積もった土やホコリなどは一瞬のうちに吹き飛ばす勢いがありそうには思えた。

 水圧は、2kg~75kgまで調整ができるという。
 ちなみに、ガソリンスタンドなどに普及している高速洗車機の水圧は50kgぐらいだとか。
 ただあっちは水量が多い。
 この洗浄機は水量が多くない代わりに水圧が強い。
 節水には、断然こっちがいいそうだ。

 いよいよ、撮影本番となると、さすがテレビ局! いつのまにか大勢のギャラリーを集めてくる。

 「それでは本番5秒前。手を振ってくださ~い!」
 と、ディレクターが手をくるくる回す。
 ちびっ子たちが一斉に黄色い声を張り上げる。

 ライブなのだ。
 写している画像が、そのまま 「テレビ愛知」 でオンエアされるという。
  
 いつの間にか撮影現場に持ち込まれたテレビモニターでは、ジャパネットたかたの社長さんが、あのハイテンション気味の声で、
 「これから皆様に紹介するのは、キャンピングカーを洗うときにとても威力を発揮するハンディな高圧洗浄機です」
 なんて言っている。

 スタジオから現場に画像が切り替わると、なんとわが愛車の “豚顔” がモニターいっぱいに広がっているではないか。

nagoyaCM3

 ギャラリーの中から志願したお客さんが “エアガン” の引き金を引く。

 おおぉぉ…洗剤のアワまで出てくるのね。
 まるで、ボンネットの上に雪が降り積もったようだ。

nagoyaCM4

 次は、高圧水でそのアワを洗い流す。
 クルマの顔が 「気持ちいい!」 と訴えているのが分かる。 

 で、みるみるうちにきれいになるボンネット。

 次はボディの横もきれいに洗ってね、…と期待しているうちに、フロントの洗浄だけで撮影は終わってしまった。

 顔が妙に白くなってしまったので、汚れたボディ横のパネルがやけに目立つ。
 ま、しょうがない…。

 一瞬の、夢のライブが終わると、ポートメッセ名古屋の空に、夕焼けの色が広がり始めた。
 CMデビューを果たしたわが愛車。
 その気分はどんなものだったのか…。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:37 | コメント(6)| トラックバック(0)

千の夜と千の昼

 こんばんは。町田です。火曜日の 「Jポップ・クリティーク」 の時間がやってまいりました。

 今回はですね、元ちとせさんの人気を決定したようなヒット曲、『千の夜と千の昼』 を採り上げてみようと思います。

千夜千昼ジャケ1

 ええ、この歌にはですねぇ、実は、きわめて不思議なメッセージが込められています。
 その真相が分かると、ちょっとぶっ飛びモノなんですね。
 ひょーっと身の毛がよだつ部分もあるかもしれません。

 果たして、どんな世界が歌われているのか。

 まずはですねぇ、ひとまず先入観なしで、この曲を聞いていただいてからお話しすることにいたしましょう。

 ▼ 『千の夜と千の昼』 ( YOU TUBE )


 どうでしたか?
 まず、旋律そのものが不思議ですよね。
 これを最初に聞いたとき、多くの方々は 「違和感」 という言葉を強く意識されたのではないでしょうかね。

 Jポップでもなければ、歌謡曲でもない。
 洋楽の普遍性と、島唄の土族性が渾然一体となったシュールな雰囲気。
 そういうものが、トロリと粘っこい空気を伴って、聞く者の心に迫ります。

 次にですねぇ、歌詞にも 「謎」 がいっぱい秘められています。

 まず、わたくしめが、この歌の謎に気づいたのは、実は2番の歌い出しだったんですね。

 「あなたに笑ってほしくて、ほら、いろんな物を用意したよ」

 2番目の歌詞は、こう始まるわけですが、これ、いったいどういう心境を歌っているのでしょうか。
 何気なく聞いていると、男の気持ちを引き止めるために、必死に貢いでいる女の気持ちを歌っている…なんて思っちゃいますよねぇ。

 だけど、「いろんな物」 ってところで、何か引っかかりません?
 プレイボーイに貢ぐ女にしては、あまりにも無邪気すぎやしませんか? 

 時計やスーツなどという具体的な品物が並ぶのなら、いいんです。
 でも、「いろんな物」 っていわれると、たとえば母親がですねぇ、子供の気持ちをなだめるために、安いお菓子やおもちゃをたくさん並べているようなイメージが浮かんできますよね。

 ということは、…相手の男は、成人男性にとって価値のある物など何も望んでいないということになるわけです。

 さて、そこで一番の歌い出しに戻ります。

 「なくした羽を探し続けても、もう、どこにもないんだよ」
 と始まるこの歌の歌詞。

 なんで 「羽」 が出てくるのか。
 しかも、その 「羽」 は、なんでなくなったのか。
 意味不明ですねぇ。

羽ペン

 さらに次に続く、
 「あなたが時間を止めてしまっても、ねぇ、星は動いている」
 というフレーズ。
 これも何やら意味深げで、だからといって具体的なイメージが浮かびません。

 まだあります。
 「言葉も、祈りも、風船も、花束も届かない」 。

 これらの歌詞のキーワードともなる言葉には、ひとつの共通項があります。
 「なくす」 、「止まる」 、「届かない」……

 もうお分かりですよね。
 この歌に唄われた 「あなた」 は、もうこの世にいないということが…。

 そうなんですね。
 これは、死者を弔う歌なんですね。

 だから、「いろんな物を用意したよ」 と歌われた時の 「いろんな物」 とは、死者に捧げる供物だったんです。

 そう考えていくと、
 「なくした羽を探し続けても、もう、どこにもないんだよ」
 と歌われるときの、「羽」 とは、まさに死んだ恋人のことを表現していることが解ります。
 つまり、私の魂を空高く飛翔させてくれた大事な存在。
 それが 「羽」 という言葉に象徴されているわけなんですね。

 次の、
 「あなたが時間を止めてしまっても、ねぇ、星は動いている」
 という歌詞の意味するものは、
 「相手の恋人が、その命の時間を止めてしまった」
 ということだと解釈していいと思います。

 で、それに続く 「星が動く」 という意味は、彼が死んでしまっても、この世に残された人間には相変わらず時間が流れていくという意味なんですね。

 このあとの歌詞は、
 「言葉も、祈りも、風船も、花束も届かない」
 と続いていくわけですが、死後の世界にそれらのものが届かないのは当たり前ですね。

 歌はここからサビに入ります。

 「千の夜と千の昼を超えて、あふれる光の銀河を渡る夢…」

 「千」 という言葉に注目しましょう。
 これは、数学的に数えることが不可能な、「あの世」 に流れている時間を意味しています。

宇宙1

 そして、サビの後半部は、こういう歌詞につながっていきます。

 「草木に埋もれて忘れ去られた、崩れた塔の上で何を見ている?」

 ここまではっきり描かれると、もう誰もが、荒野にさびしく取り残された 「墓碑」 を連想せざるを得ないでしょうね。
 「死者の歌」 であることがはっきりと立ち現れてくる瞬間であります。


 そのほかにも、この歌には、
 「森の向こうの森」
 「海の向こうの海」
 というように、現実の森や海を超えた、もうひとつの 「森」 や 「海」 があることを暗示する歌詞が、随所に散りばめられています。

 極めつけは、これです!
 「私が最後に贈った物は、海の青さを混ぜた銀の傘」。
 死んだ恋人が、その 「傘をさして舞い上がる」 というわけですね。

 想像の仕方によっては、鳥肌が立つほど不気味でありますが、見方によっては、メルヘンのような、のどかな美しさを湛えた情景でもあります。

 ええ、作詞・作曲・編曲を行ったのは上田現さんです。
 若くしてお亡くなりになったアーティストですね。

 この上田現さんがですねぇ、この 『千の夜と千の昼』 だけでなく、この歌の収録された 『ノマド・ソウル』 というアルバムのトータルコンセプトをつくっています。

ノマドソウルジャケ

 そのコンセプトとは何か。

 それはですねぇ、「あの世とこの世を結ぶ巫女」 というテーマなんですね。
 「巫女」 が、元ちとせに与えられた役割なんです。

 つまり、彼女はこの曲においてはですねぇ、あの世の声をこの世に伝え、この世の声をあの世に返す 「霊媒」 として位置づけられているわけなんですね。

 だから、このアルバムの中で、上田現さんがつくった曲は、みな同じイメージで統一されています。
 たとえば、『トライアングル』 という曲。

 ……いつかあなたに、届くように
 かすかな光に気づきますように
 トゥインクル トゥインクル
 でも聞こえない。でも気づかない……

 『千の夜と千の昼』 のように明瞭な表現ではありませんが、この歌詞からも、元ちとせが、あの世とこの世の交信役を務めている様子が想像されます。

 さらに、『月齢17.4』 という曲があります。

 これはですねぇ、ダイヤルが壊れたラジオなのに、なぜか月が満ちた夜には、17.4ヘルツがかかり、そこから 「誰も知らない放送局」 の歌が聞こえてくる…という歌なんですね。

 この17.4というのは、月齢を意味する数字らしいいんですが、そこには、「月の満ち欠けが人の誕生と死を意味する」 という伝承が仕込まれています。

 その17.4ヘルツの放送局から流れてくる不思議な調べの悲しい歌。
 誰がなぜ歌うのかは、分からない。
 しかし、
 「伝えたい事がきっとあるんだね。ずっと聞いていてあげるから」
 と、ラジオに耳を傾ける主人公は思うわけであります。
 これも 「あの世の声」 に耳を傾ける人間の歌ですね。

 このように、元ちとせの 『ノマド・ソウル』 というアルバムは、一貫したテーマで統一されたコンセプト・アルバムになっているところに特徴があります。

 「ノマド・ソウル」 。

 直訳すると 「遊牧の魂」 。
 羊やヤギを追って生活する人々の心を表現したもの…とでもいうのでしょうかね。

 農耕民がですねぇ、大地に境界線を引きたがるのに比べ、遊牧民は、その境界線を超えていくことにためらいがありません。

 逆にいえばですねぇ、家畜を養う土地を探すために、遊牧民は農耕民族の定めた国境を越えて、先に進まざるを得ない…というわけですね。

 「境 (さかい) を超える」 。

 …ね! まさに、「あの世に至る」 という意味じゃありませんか?

 ここで問われている 「あの世」 とは、巷でブームの 「スピリチュアル」 とはまったく無縁の世界ですね。
 スピリチュアルが、「あの世」 と 「この世」 を結ぶための “理屈” を構築する理論であるのに対し、ここで追及されている 「あの世」 とは、そのような説明体系が届かない世界を描いているように思います。


 どうでしたか?
 『千の夜と千の昼』 に秘められた謎。

 それを解き明かすことは、「謎」 の解明ではなく、さらなる 「謎」 にブチ当たる…という感じもしてきますよね。
 そんなところが、非常に奥行きの深い歌であるように思えます。

 …てなところで、時間です。
 それでは皆様また来週。
 お相手は町田でした。

Jポップ・クリティーク 「そんなヒロシに騙されて」
Jポップ・クリティーク 「わかれうた」
Jポップ・クリティーク 「恋の予感」
Jポップ・クリティーク 「白いページの中に」

 
音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:57 | コメント(6)| トラックバック(0)

私と自分の狭間で

 寝てしまったなぁ…。
 名古屋から帰ってきて、ちょっと疲れて仮眠…なんて思っていたら、目が醒めたのがついさっき。
 つまりもうじき日付が変る夜の11時30分。

 こりゃまた深夜に 「お目々ランラン」 で、翌日がまた睡眠不足の悪循環だ。

 で、これから名古屋のキャンピングカーショーで入手した貴重な最新情報を整理しようと思っているのだけど、その前に、まず今日のブログをアップしなければ…という気分が先に立ち、仕事を始める時間がちょっと遅れそうだ。
 でも、読んでくださる方々の具体的な顔も浮かぶために、こいつをサボるわけにもいかない。

自分の部屋1
 ▲ ブログを書いている自分の部屋 
 たまには要らない物を整理すればいいんだけど…


 名古屋のショーでは、会場ですれ違ったいろいろな方々から、
 「毎日ブログ見てますよ」
 などと声をかけていただいた。

 そんなとき、「ありがとうございます」 とか素直に返事すればいいのに、なぜか、
 「いやぁ、恥ずかしいなぁ…」 なんて思ってもいない言葉を口にする。

 テレではあるのだけれど、ちょっと自意識過剰。
 でもブログって、どこか 「オレここにいますよぉ!」 って大声で叫んでいるようで、書いていながら恥かしいと思う気分がどこかにある。

 自分のことを大声でアピールしたい。
 でも、そういう自意識って見苦しい。
 いつもそんな気分の狭間 (はざま) にいる。

 だから、ときどき自分のことを何ていえばいいのか、戸惑うことがある。
 
 「私」 、「僕」 、「俺」 、「わし」 、「小生」 …
 いろいろな呼び方があるけれど、なかなかしっくりするものがない。

 これがまったく人に見せない個人の日記ならば、そんなことに頓着する必要がない。
 主語抜きで十分。
 読むのは自分だけだからだ。

 「 7:30起床。交通渋滞に遭い、9:00の朝礼に10分遅れる 」

 なんて書いておくだけで、文章が成立する。

 しかし、ブログの場合、日記ではあっても、自分以外の人にも読んでもらうものなので、複雑な状況説明をするときは、「主語」 を確定しなければならないときがある。

 そのときに困るのである。

 「私」 って書くと、なんだか取り澄ました堅い感じがするし、「僕」 じゃ村上春樹の小説になってしまう。
 「俺」 って書くと、その次から 「だけどよぉー」 てな文体が要求されそうな気がする。
 
 カタカナの 「オレ」 じゃ、せいぜい 「オレ流」 ってな使い方しかできないし、第一、良家に生まれて洗練されたシツケを受け、立居振舞も、言葉使いも上品な私には合わない。
 それに 「カフェオレ」 の 「カフェ」 が取れちゃっただけ…という雰囲気もある。

 「わし」 …。落語のご隠居じゃないんだから。

 「小生」 …。手紙か?

 「おいら」…。鞍馬天狗の杉作か?

 「まろ」 …。お公家さんか?


 いずれも、帯に短しタスキに長し。

 これ以外に、「自分は…」 という言い方がある。

 旧日本軍が登場するドラマなどでは、兵士が上官の前で報告するときに、よくこの人称が使われる。

 「 “自分” は閣下のご命令を、大君のご意志と銘じて拝受し奉ります!」
 とか、敬礼しながら使ったりする。

 軍隊にとって、兵卒はひとつの 「歯車」 でしかない。
 その 「歯車」 に、「私」 とか 「僕」 などという個人意識を持たれてしまっては困るわけだ。

 「自分は…」 というような言い方は、たぶん、そのような軍隊組織の都合によって生まれてきたものだろう。

 ところが、この 「自分は…」 という言い方を、最近の若い人たちの会話の中から拾うことがある。
 
 おおむね、対話中の相手に敬意を表するときに使われるようだ。
 旧軍隊と同じように、「個人としての自己主張などありません」 というニュアンスを伝えるための用法なのだろう。

 組織の規律を大事にする警察や自衛隊では、今でもこういう使い方があるようだし、若者でも、特に体育会系に普及しているという話も聞く。

 人称としては変な用法なので、そういう使い方を苦々しく思う人もいる。国語教育的には、好ましくない慣習であると思う。

 しかし、私はその “しゃしゃり出ない” 風情に、ある種の好もしさを感じている。

 やっぱり、「私は…」 とか 「僕は…」 とかいう言葉は、 “自己” が前面にしゃしゃり出てくる。
 ブログなどでこの言葉を使うと、「ねぇねぇ聞いて、聞いて!」 とせがんでいる感じがする。

 それに比べると、「自分は…」 という表現は、ちょっと引いた感じがあって、爽やかな印象もある。

 だから最近は、この 「自分は…」 という表現をときどき使っている。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:03 | コメント(6)| トラックバック(0)

コメント・スパム

 なんとかなんねぇのかな…と、最近思っているのが、コメント・スパム。
 名古屋のキャンピングカーショーから帰ってきて、いま自分のブログページを開いたら、また来てるじゃん。

 「女の子だって無料出会いがほしい…」 とかいう 「エッチさん」 のコメント。
 「毎日のお買い物でポイントが貯まる○×○×カード」 とかいう、「○×○×さん」 のコメント。

 本文の内容とは関係ないサイトへの誘導や宣伝を目的としたこのようなコメントを 「コメント・スパム」 、あるいは 「スパム・コメント」 、あるいは 「迷惑コメント」 、あるいは 「ジャンク・コメント」 とかいろいろ言うようだけど、要するに個人的な利益を求めて、発注先の要望に応じた情報を機械的に流す人たちのコメント。
 概してアダルトサイトとか、違法金融サイトなどへの誘導を目的としたものが多い。

 多くのブロガーは、このようなコメントが入ってくると、ブログのイメージが壊れたり、それを消すための労力に消耗するなど、大変な負担をこうむってしまう。

spam缶詰
 ▲ 「スパム」 とは本来は肉の缶詰の意味。
 しかし、「同じ味の繰り返し」 という隠語的な使われた方
 がされるようになり、同じ内容を繰り返して発信する迷惑
 メールを意味するようになった。
 一番 “迷惑” をこうむっているのは 「スパム缶詰」 かも
 しれない。


 私なんかの管理しているブログは、まぁスパム系と似たり寄ったりの内容のものもあったりするので、「正義の味方ヅラ」 して、こういうものを非難する資格もないのだけど、少なくとも善意のコメントを送ってくださる方々には迷惑をかけたくないので、いちいち手作業で消している。
 だけど、いくらIPアドレスを 「禁止」 しても効果がない。 

 このようなスパムメールやスパムコメントが無くならない理由は、どうもそういうことを請け負うと “儲かる” という仕組みがどこかでできているかららしい。
 なんでも、このようなメールやコメントを発信する業務を請け負った人たちが得る個人報酬は、月収70万~100万円ぐらいになる…とか報じたサイトを、どこかで見たような気がする。

 しかし、そういうものを削除する個人の労力とか、それを阻止するためにプロバイダーやらHP運営企業やらがフィルタリング機能を付加するためにかかる労力やコストを換算すると、年間何千億円… (数字に疎い性格なもので具体的数値を忘れてしまった…ゴメン) とかかかるらしいので、社会的に考えるととんでもない費用がムダに喪失されてしまう。

 ブログ運営サイトでも、スパムのフィルタリング機能を強化したり、いろいろ対策を講じているようだが、スパマーの方は、すぐそれを突破するような手法を編み出してしまうので、「いたちごっこ」 だという話もある。

 ブログブームが隆盛を極めるようになって、アフィリエイト稼ぎを勧める業者たちが、自動的に大量情報を発信するソフトを開発して販売しているとも聞く。
 なんでも、宣伝したい商品名をうまく織り込んだ記事内容まで、「個人の日記風」 を装って作ってくれちゃうのだとか。

 でも、そんなブログは読んで面白いものが滅多にない。

 また、そういうブログが増えてきたことで、全体のレスポンスが低下し、ブログ作成者は自分のブログなのに記事投稿するまでに長い時間がかかったりするというケースも多いようだ。
 
 ブログの爆発的ブームがブログ自体を滅ぼす。
 そんなふうにならないと、いいけどなぁ…。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 15:40 | コメント(4)| トラックバック(0)

ジャパン・クール

 もうじき日本の時代が来るなぁ…と最近ふと思ったりする。

 「日本の時代」 というと、アメリカの企業を買収したり、世界の美術品を買い集めたりしたバブル期の 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 を思い出すけど、ちょっと違う 「日本の時代」 。

 いろいろなメディアを見ていると、最近やたらと 「外国人が注目している日本の文化」 というものが採り上げられるようになった。

 寿司のような日本食が、ヘルシーだといわれてニューヨークあたりのビジネスマンらの間に広まっていった話は、もうずいぶん前の話。
 それが、今や寿司はロシアでもエジプトでも食べられるようになったという。

 日本のアニメ文化が 「ジャパン・クール」 と呼ばれて、世界中の若者の間に広がっていったという話もまたずいぶん前に聞いた。

 もっと古いことをいうと、浮世絵なんか外国人が発見した 「ジャパニーズ・アート」 。
 明治になって、西洋文化を崇拝する風潮が日本を覆うと、江戸時代の浮世絵などは 「遅れた日本文化の代表」 みたいに思われて、ゴミ同然の感覚で外国人に売り飛ばされた。

ゴッホ浮世絵
 ▲ ゴッホの模写した浮世絵

 しかし、浮世絵の価値に気づいたのはその外国人たちの方で、その独創的な空間表現にインスピレーションを得たゴッホやマネは、自分たちの作品にこぞって浮世絵的手法を採り入れ、数々の傑作を残した。

 まぁ、そんなことぐらいは知っていたけれど、日本のニシキゴイがアメリカで大ブームとか、盆栽愛好家がアメリカや中国で急増中などというニュースに接すると、「おいおい本当かよ?」 と、つい思ってしまう。

ジェロ1

 だけど、いま世界中で 「ジャパン・カルチャー・ブーム」 というものが起こり始めているようなのだ。
 なにせ、演歌に魅せられて、日本で演歌歌手になっちゃったアメリカ青年ジェロ君の例もあることだしね。

ニュースウィーク1015

 『NEWS WEEK 日本版』 の2008 10月15日号では、「SPECIAL REPORT ニッポン大好き」 というタイトルの特集を組んで、日本文化に魅せられた外国人たちのインタビュー記事を載せていた。

 もちろん、中にはレアケースと思われる人たちもいるけれど、外国人が注目する日本文化って、われわれ日本人の気づかないところを突いていることが多くて、読んでいると面白い。

《 盆栽ブーム 》

 『ニューズウィーク』 の取材に応えて、イタリア人の盆栽アーティストであるマルコ・インベルニッチさんという人は、こんなことを言っている。

 ………… 「イタリアは昔から石の文化の国で、石の建築や彫刻は一度つくったら何百年経っても変わらない。
 その点、盆栽は製作者の成長に応じて変わり、他者の手に渡った後もうまくすれば数百年でも進化し続ける。

 完成することのない芸術というのはミケランジェロやラファエロの世界にはない魅力がある。
 盆栽は、彫刻のような3次元的の立体に、“時間” という要素を加えた4次元のアートだ」 …………

盆栽

 へぇぇ…。という感じで読んだ。
 貿易統計によれば、日本の盆栽類の輸出額は、02年は8億4,500万円だったが、07年には51億円に達したとか。
 アメリカには300以上の盆栽団体があり、最近は中国の愛好家も急増しているという。 

《 能ブーム 》

 日本の能や能面に注目している人もいる。
 小鴨梨辺華 (おがも・りべか) というアメリカ生まれの能楽師だ。
 彼女はこういう。

 ………… 「能の鑑賞中に寝てしまう人がいるけれど、それは能のリズムが 胎児がお母さんのお腹の中で感じる自然のリズムに近いからだ。
 能には、人間と自然が共生していることを意識させる力がある。そこに西洋の演劇にはない魅力がある。

 能の表現にある “幽玄” とか “華” という概念は、英語では説明しにくいが、それは、西洋人が把握できなかった新しい概念だからだ。

 能面は一見無表情に見えるが、角度を変えることで表情が変わる。
 能面の表情が変わるように見えるのは、そこに鑑賞者の想像力が関与するからだ。
 想像力には限界がない。だから能表現には無限の可能性がある」 …………

能面1

《 墨絵ブーム 》

 西洋の油絵から転じて、墨絵画家になった外国人もいる。
 アメリカ人のジム・ハサウェイさん。
 彼はこういう。

 ………… 「西洋の油絵と日本の墨絵は、技術も素材も世界観もまったく違う。
 キャンバスを塗り尽くす油絵と対照的に、墨絵は単純な線が多くを語り、“間 (ま) ” が肯定的な意味を持つ。

 日本の美意識の中心にある “わびさび” というのは、古くなるほど美しさが増し、アンバランスが良しとされる概念だ。
 使い込んだ焼き物は深みが出て、掛け軸の絹は、時代を経ることによって繊細さがかもし出される。世界でも独特の美意識だ」 …………

墨絵1

《 障子ブーム 》

 イギリスでは、障子がインテリアとしての人気を高めているらしい。
 障子の素朴な味わいと清潔感が評価されているのだという。
 以下は、イギリスの障子職人ジャン・ポール・ジャックさんの話。

 ………… 「障子は、どんな建物や内装にも完璧に調和するので、さまざまな用途が生まれており、最近のイギリスでは、バスルームに障子を採り入れたいという要望が増えている。
 そのため、障子の紙に防水加工を施して対応している」 …………

畳の間1

《 日本建築ブーム 》

 かつては 「ウサギ小屋」 などと軽蔑された日本家屋の狭さも、世界中の景気後退局面においては、見直される傾向が出てきた。
 建築デザイナーのアズビー・ブラウンさんは、こう語る。

 ………… 「日本の住宅建築は、狭い空間を有効に利用して、狭小な土地を最大限に使っている。

 日本に留学した頃に入った日本の寮のユニットバスの中には、洗面台を動かしてトイレを使うようなものさえあった。
 冷蔵庫もアメリカの半分以下なのに使い勝手がいい。
 日本では建築家や大工だけでなく、家具メーカーも住宅メーカーも空間の有効利用を考えている。

 日本ではバブル崩壊後、狭小な土地を逆手に取ってユニークな家を建てることが “クールになった” 。
 半階ずつずらしたフロアが連続するスキップフロア構造の家など、定番の間取りからかけ離れた住宅がいくつもあって、びっくりする。

 日本人は新しい住み方にどんどんチャレンジする傾向があり、そこにエネルギーや創造性を感じる」 …………

スキップフロア構造
 ▲ 日本建築 スキップフロア構造

 このほか、ラーメンはファーストフードでありながら、素材を吟味してコクを追求するスローフードであることを見抜き、日本でラーメン屋を始めたアメリカ人の話。
 日本の俳句が定着し、「閑 (しずか) さや、岩にしみ入る、蝉の声」 という句は、高校生でも知っている…ということを伝えるロシア人の話など、同誌の特集には、日本文化にぞっこん惚れ込んだ外国人31人の例が載せられていたが、どれを読んでも、日本人が気づかなかったことが指摘されていて、勉強になった。

 で、ふと思ったのだけれど、日本のキャンピングカーって、今後はこの流れの中で評価されるのではないか…。

 畳と障子を採り入れたバンテック新潟さんのバンコン 「クエスト」 なんかは、このジャパン・カルチャー・ブームにずばりとハマる。
 マックレーさんが開発するキャブコンには、限られた室内空間を最大限利用しようという 「クールな日本建築」 の精神が息づいている。

クエスト室内_2  サフランキッチン
▲ バンテック新潟 「クエスト」 ▲ マックレー 「サフラン470」

 軽自動車キャンピングカーなんて、外国にはまったく例がないわけで、ひょっとしたら、外国人の目には超エキゾチックに映るのではなかろうか。

 レギュレーションやサイズの問題などがあって、今の日本のキャンピングカーがそのまま国際商品として通用するようにはならないと思う。
 しかし、日本文化が面白いと感じた海外のビルダーが、案外 「ジャパン・カルチャー」 を反映させたキャンピングカーをつくり出してくるかもしれない。

 そういうものが逆輸入されてから、ようやく日本のビルダーもユーザーも、日本のキャンピングカーの先進性に気づくのではなかろうか。
 その日はそんなに遠くないような気もする。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:01 | コメント(4)| トラックバック(0)

ニューバレンシア

 最近、考えていることは、日本のキャンピングカーが国際商品になれるのかどうかということ。

 もちろんベース車の問題、各国のレギュレーションの問題、サイズ的な問題、為替の問題などいろいろ複雑な要素が加わるので、現状の国産車がそのまま輸出できるような環境は何一つ整っていない。

 しかし、コンセプトメイクあるいはデザインセンスなどで、日本製キャンピングカーは世界にも類例のない緻密さと独自性を獲得しつつあるように思う。

 その最たる例が、マックレーさんが開発しているデイブレイクシリーズ。
 限られた車両サイズのなかで、ひとつの家具を様々に使い分けることによって、スペース効率を限りなく追求していこうというその執念と完成度。
 
 こういうコンセプトに、「日本文化」 のスタイルが反映されていると、いつも思っていた。

 もちろん、それは狭い土地空間に住まざるを得ない我々の風土的な制約から生まれてきたものに過ぎない。
 広大な土地空間が約束されているアメリカなどでキャンピングカー開発を行う場合、マックレーさんが追求する巧緻な空間造形を行う苦労など、車体を大きくするだけで、あっけなくパスできる。

 「車内の広さは、すべての難問をいっぺんに解決する」
 キャンピングカー開発では、それが動かざるテーゼとして確立されている。

 しかし、原油の高騰、金融不安による生活設計の見直し、自然に負荷をかけないライフスタイルへの転換など、いま世界は、クルマにおいても 「小さな空間」 を効率よく使うという方向に傾きつつある。  

 そうなると、マックレーさん型の 「可変的な家具を採用することによって限られた車内空間の使い勝手を広げる」 という手法は、世界的に見ても 「クール (カッコいい) 」 に見えてくるのではなかろうか。

 ……という話をマクラに据えて、このアトラスベースのバレンシアの紹介に移る。

アトラス・バレンシア外装3

 バレンシアというキャブコンは、フレキシブルスペース家具に代表されるように、エントランス右側に添えられた家具が、収納棚にも、シートにも、フリースペースにも変わるという、マックレーらしい可変的な家具を採用した巧緻なキャンピングカーである。

valencia5

 その機構だけでもユニークだが、今回のアトラス・バレンシアでは、いかにも日本人のきめ細やかな神経を象徴するような照明システムが採り入れられた。

 調理したり、資料を調べたり、着替えをしたりするときに必要な明るい照明と、ダイネットでお酒などを飲みながらくつろぐ時の照明。
 それがスイッチひとつで切り替えられるようになっているのだ。

 生活空間として、車内全体をしっかり使うときは全照明が点灯する。
 そして、落ち着いたムードを楽しむときは、LEDのダウンライトを中心にした目に優しい照明だけが浮かび上がる。
 それがワンタッチ操作で実現するので、各照明のスイッチをひとつずつ付けたり消したりする必要がない。

valencia_

 こういう細かな気配りが浸透しているところにマックレーブランドの真骨頂がある。

 今回の新型バレンシアは、また、そのような照明システムが生きるような見事な内装デザインを手に入れた。

valencia_1

 基本的な家具色はホワイト。
 キャブコンにおいては、長らく色目の濃い木目家具が主流だったが、そこからの思い切った転換が試みられている。

 しかし、白一辺倒にすると、あざとい贅沢感も滲み出てしまう。
 白は、基本的にゴージャスな色だからだ。

 そこでこのバレンシアにおいては、微妙な配色のアレンジが行われている。
 まずシート地がツートン。
 座面は濃いめのパープル。背もたれは爽やかなマスタード (からし色) 。

valencia_6

 そして、ダイネットテーブルの天板は寄せ木を使って軽快に仕上げ、ホワイト家具との調和を図っている。
 カーテンもタペストリー感覚で、ざっくりした素材感を追求。
 色と素材の組み合わせが絶妙にバランスされた、新しいインテリアがここに誕生している。

 もちろん同車には、従来どおりのクラシカルな木目家具バージョンも用意されており、
 「そっちはシニア向き」
 と渡辺社長は語る。
 ホワイト家具は、明らかに一世代ほど下の若いファミリー層を意識したものだとか。

 しかし私は、この斬新な新色インテリアは、意外と審美的なセンスを重んじる中高年にも受けると読んだ。

valencia_4

 とにかく、マックレーさんはまたひとつ新しい感覚を手に入れた。

 イベント会場に持ち込まれた展示車両をショーアップするためのディスプレイも、洗練された雰囲気が横溢していた。

 何気なく置かれたコーヒーカップ。
 リヤダイネットを飾る森伊蔵などの焼酎瓶。
 それらが和風のライトスタンドの光りを浴びて、なんともいえぬ爽やかな贅沢感を醸し出す。

valencia_2

 「こんな感覚でくつろげるのか…」
 車内を見た人は、一瞬のうちにこのクルマがもたらす “ゆとり感” をかぎ取ったことだろう。
 いいインテリアが実現している。

 日本のキャンピングカーは、日増しにそのブランド力を上げている。

campingcar | 投稿者 町田編集長 14:23 | コメント(0)| トラックバック(0)

リコルソ

 先週開かれた 「関西キャンピングカーショー2008」 のアネックスさんのブースで、多くの人から注目されていたのが、この新型バンコン 「リコルソ」 です。

リコルソ

 リコルソ。
 イタリア語で 「リゾート」 を意味する言葉だとか。
 英米風のネーミングに慣れてしまった私たちには、このラテンの風に吹かれているような言葉の響きが、まず新鮮です。

 新鮮なのは、ブランド名だけではありません。
 コンセプトの練り込み自体がなかなか新鮮です。

 ベース車は、ちょっと贅沢なハイエースワゴンGL。
 想定した客層は、ほのかにゆとりのある 「50代くらいのご夫婦」 …ということで、2人仕様に特化したアイデアがたくさん散りばめられています。

 …というより、従来のバンコンの形式をあっさり “裏切る” 摩訶不思議なレイアウトが展開しています。

リコルソ室内a

 まず、フロント席とキャビンとの間を、L字型のギャレーカウンターが塞いでいます。
 「ウォークスルーできないじゃない?」
 とご心配の方。
 これにはちゃんと狙いがあるのです。

 同じように、後部にもしっかりしたカウンターが設置されています。
 「これじゃリヤゲートを開けても、荷物が積めないじゃん?」
 とご心配の方。
 これにも、しっかりとした狙いがあるのです。

リコルソ2

 さぁ、その状態でキャビン内に入ってみましょう。
 「あれ、こりゃ “部屋” だな!」
 誰もがそう感じることでしょう。
 
 つまり前と後ろがしっかりしたカウンターで囲まれたために、見事な 「ワンルーム」 が完成しています。
 この “落ち着き感” は、従来のバンコンにはなかったもの。

 今までのバンコンが、いかにくつろぎ感を追求しても、しょせんは 「車内」 にいる気分を払拭しきれなかったことに対し、このリコルソは、それとは異なるくつろぎ感を実現しています。
 つまり、「車内」 にいるのではなく、自宅の 「リビング」 にでもいるような感覚ですね。

 もちろん、前後のカウンターはオーダーによってレスすることもできますが、そうなると、このリコルソの個性は半減されます。
 カウンターレスをお望みの方は、同社のファミリーワゴンのような、それこそ大人数で使えるクルマを選択された方がいいのかもしれません。

 さて、まだまだ、リコルソ独特のアイデアは続きます。
 ニの字シートをベッドメイクしても、単一平面が連なるクィーンベッドにならない!
 つまり、テーブルポールの間分だけ隙間ができます。
 広々した 「ツインベッド」 が二つ並ぶという感覚なんですね。
 これも、ちょっと従来の常識を逸脱しています。

リコルソ5

 でも、この隙間が大事。
 ご夫婦で寝ているときに、片方が起きても、この隙間に足を差し込んで立ち上がれば相手方を起こすことがありません。
 真ん中のテーブルを生かしたままベッドメイクしているので、テーブルの上に食器などを残した状態でも寝ることができます。

リコルソ3

 もちろん、ソファからベッドに展開するときの操作は簡単。ソファの座面をスライドさせて、背もたれマットを窓側の隙間に収めるだけ。

 ショー会場で、アネックスの田中社長に取材しているときに、たまたま車内で見学されていたお客さんが、ベッドメイクに関する質問をされました。
 その雰囲気をちょっとここでリプレイ。

【お客さん】 …で、ベッドを作るときは、こっちの空いた透き間はどないなるの?
【田中社長】 ここのクッション (背もたれ) をポコっとはめ込むだけなんですわ。
【お客さん】 (クッションを手に持って…) これかいな? 現物これかいな? 現物これ? これ? これかいな? ……ははぁ。
【田中社長】 ハメ込まなくても、スライドさせるだけでも十分寝られます。
【お客さん】 はぁ、そやな。この部分出てくるわけやからな。はいはいはいはい。

 お客さんの会話の中に 「これ」 が5回も出てきます。
 「はい」 は4回。
 この見事にリズムに乗った関西弁。
 まるでラップを聴いているような雰囲気でした。

アネックス田中氏
 ▲ 田中社長

 このリコルソのもうひとつの特徴は、新しいレイアウトに似合った斬新な色使いと質感に恵まれた家具類が採用されているところにあります。
 
 シート地は、明るいベージュ系のざっくりした平織り。
 家具類は、ダークな木目調。
 
 天然素材の優しさを感じさせるシート地と、人工美を追求したモダン家具のコントラスト。
 そこがなんとも見事です。
 シートは光りを吸収して 「なごみ感」 を表現し、家具は光りを反射して、シャープな輝きを追求する。
 うまいデザインです。

リコルソ4

 キャブコン 「ネビュラ」 を開発して以来、アネックスさんは、プロのデザイナーとの共同作業を進めることによって、意識的に 「デザインマインド」 を追求していくメーカーになりました。

 だから、最近のアネックス商品には、キャブコンからバンコンに至るまで、統一された 「アネックスブランド」 というものが浮かび上がってきているように思います。

 それは見ようによって、洗練された都会の匂いに満たされたものに思えますが、ある意味、機能的な狂いを微塵も感じさせない工業製品のクールさを追求しているようにも感じられます。

 日本のアニメ文化が 「ジャパンクール」 (日本的カッコよさ) と形容されて世界中に広まったように、国産キャンピングカーシーンにおいては 「アネックスクール」 という言葉が広まりそうな予感がします。

 リコルソのお値段は、2WD・ATで、3,475,500円から。

 ※ ちなみに、アネックスさんのトータルデザインの成果を示すものとして、下記のようなデザイン・ロゴがあります。
 カッコいいですよね。
 
アネックス標語ロゴ

 関西ショーで、私もこのロゴの入ったTシャツを1枚買いました。


campingcar | 投稿者 町田編集長 00:13 | コメント(0)| トラックバック(0)

トニィ B

 先週開かれた 「関西キャンピングカーショー2008」 に登場した新型車のなかで、ちょっと話題になったクルマを、折を見てご紹介していくことにいたしましょう。

 まず、地元関西の有力ビルダーの商品から。

 関西を代表するキャンピングカー販売店 「大森自動車」 さんは、総合展示場 (CCFオオモリ) として全国でもトップクラスの地位を築いていますが、最近は、ビルダーとしての実力もどんどん発揮するようになりました。

▼CCFオオモリ
CCFオオモリ

 大森さんのオリジナル車の特徴は、デザインコンセプトにひとつの筋道をつけたこと。
 それは、「美しいデザインを追求する」 というもの。

 このような同社の基本方針に沿って、実質的に具体的なデザインを練っているのが、開発担当の宮永京介さんです。
 宮永さんは、常日頃からクルーザーのインテリアを研究したり、住宅展示場を見学したりして、内装のトレンドウォッチングを欠かしたことはありません。

 ▼ 宮永京介さん
宮永氏

 しかし、そのようなインテリア全般の勉強を重ねても、キャンピングカーにはキャンピングカー独自の内装的制約があって、住宅や家庭用家具などをそのまま踏襲するわけにはいかない…とか。

 確かに住宅とクルマでは、家具や壁材などのボリュームもまったく違うわけで、同じ素材や色目を借用しても、出来上がったものがまったく違ったイメージになる可能性は大いにあるわけです。

 だから、キャンピングカーの内装デザインは、ある意味、独自の海域に漕ぎ出て行かざるを得ない 「孤独な作業」 となります。
 「大森デザイン」 は、そこのところで頑張っているのですが、最近のモデルとしてその成果が最大限に発揮されたのが 「バルミィ2007」 ではなかったでしょうか。

 ▼ バルミィ2007
バルミィ2007

 今回新しくリリースされた 「トニィB」 (ハイエース・スーパーロング) も、この路線の精神を忘れてはいません。
 ただ、レイアウト的には、バルミィのような前衛性を追求したものではなく、ファミリー向けに開発されているトニィシリーズの新バージョンという位置づけになりますので、構造的にはオーソドックスな造りでまとまっています。

 ▼TonyB
トニィB1

 しかし、シート素材の選定や色彩配合などが洗練されていて、しっかりした 「大森デザイン」 を感じさせるところはさすがです。

 従来のトニィとの違いは、多機能性を秘めた3列目シートをFАSPに替えたところ。シンプルな構造を採用することによって、汎用性の高さを狙っています。

 セカンドシートの足元が広く取られているので、フロント席からのウォークスルーも可能。
 何よりも便利なのは、ベッドメイクするときにもセカンドシートのヘッドレストを抜かずにフラットベッドができあがること。
 FАSPシートでベッドメイクする場合、いちいちヘッドレストを抜くことを面倒に感じていた人には、ちょっとうれしい設計です。

トニィB2 トニィB4

 冷蔵庫スペースはありますが、冷蔵庫はオプションです。
 冷蔵庫を選択しない場合は、収納庫として使えます。

トニィB3

 先ほどもいいましたが、レイアウトそのものは、他のバンコンとそれほど変わったところはありません。
 しかし、細かい部分を見ると、緻密な仕上がりぶりを発揮していることが分かります。
 車体後部のタイヤハウスの出っ張りなど、周囲の壁材とは違ったトリムを張って、お洒落なアクセントを設けるなど、細かいところにまで神経が行き届いた設計であることをしのばせます。

 これからのバンコンは、細部の造り込みとデザインセンス。
 そこの勝負になってくるでしょうし、またそこで大きく差が開いてくることも十分考えられるでしょう。

 なお、このトニィ typeB。
 お値段は、2WD・DX 3,643,500円から。


campingcar | 投稿者 町田編集長 01:22 | コメント(0)| トラックバック(0)

白いページの中に

 こんばんは。町田です。
 毎週火曜日にお送りする 「Jポップ・クリティーク」 。
 今日は、「別れ」 というものをテーマに語っていきたいと思います。

 別れ。…ね。

 「会うは別れの初めなり」 …なんていう言葉がありますけれど、まさに、一生の間には様々な別れがあります。

 学校を卒業して、友達と別れる。
 あるいは、好きだった恋人と別れる。
 親や兄弟を亡くしてしまう…なんていうのも別れですね。

 別れは、必ず人生の大きなターニング・ポイントになります。 

 ある程度年をとってきて、自分の生き様を振り返った時にですね、
 「あ、あれが自分の転換点だったんだぁ…」
 と思うことがありますが、そういう時には必ず 「別れ」 があったはずなんですねぇ。

白い灯台_ホッパー

 大きな別れ。小さな別れ。
 まぁ、いろいろな別れがありますけれども、人生の節目には、必ず別れがあります。

 それはですねぇ、「人」 と 「人」 の別れではないかもしれない。
 自分が大切に思えていたものを捨てる、…とかですね、あるいは、自分がそれまでこだわっていたものを捨てる。 
 …ね。そういう、過去の自分自身から別れる。
 それも、別れですね。

 そうやって人はですね、新しい一歩を踏み出していくわけですね。

柴田まゆみ 白いページ

 …ということで、今日は柴田まゆみさんが歌われた 『白いページの中に』 という歌を聴きながら、「別れ」 について考えてみようと思います。 



 聞いていただきましたのは、柴田まゆみさんの 『白いページの中に』 でした。

 ちょっと歌詞をもう一度振り返ってみましょうか。

 ………… いつの間にか私は、
 愛のゆくえさえも、
 見失っていたことに気づきもしないで、
 振り向けばやすらぎがあって、
 見守る瞳があったことを、
 サヨナラの時の中で
 やっと気づくなんて ………………

 コードをたどっていくと、ここまでは、Am7、D7、Gmaj7、Em…という流れですね。
 とにかくセブンス系の音が多くて、とてもお洒落です。
 「別離」 がテーマなんですが、この耳に優しい涼しげなコード展開のために、リゾートホテルかなんかのコマーシャル音楽…ってな感じもありますな。

ホテルのテラス

 こういう、とびっきりお洒落な出だしの中で、自分を見守ってくれた人が去り、その後で、やっと彼の優しさに気づいたという主人公の内面が、静かに、内省的に語られていくわけですね。
 けっこう内心の悔しさがにじみ出ている歌詞です。

 ああ~~…って感じですね。

 「後悔先に立たず」
 「覆水盆に帰らず」
 …そういった心境を歌った歌でありますが、この歌詞の中に、「別れ」 というものの本質があるように思えます。

 「別れ」 という言葉はですね、なかなか意味深長な言葉なんですね。

 別れ、別れ、わかれ、分かれ! 

 …ね? こう連呼していくとですね、いつの間にか意味が変わってくることに気がつきませんでしたか? 

 そうなんです!
 「理解する」 という意味での 「分かる」 の命令形になってくるんですね。
 「俺の気持ち、分かれよ!」
 とかね。
 そういう時の 「分かれ!」 と同じ言葉になるんですね。

 これは何も言葉の遊びではないんですね。
 実はですね、別れるという意味の 「別れ」 はですね、「理解しろよ」 という意味の 「分かれ!」 の命令形ときわめて近いものがあるんです。

 つまり、別れるということはですね、「何かが分かった状態」 なんです。

 いったい何が分かったのか。

 それはですねぇ、別れることによって、初めて 「去っていった人の大切さ」 、あるいは、「失ったものの大きさ」 が分かるということなんですね。

 つまり、「別れる」 ということは、誰かが 「お前の失ったものの大切さを分かれ!」 と、命令形の形で教えているわけなんであります。

 いったい誰が教えているのか。

 …まぁ、ある人は神様というかもしれませんし、別の言葉でいえば 「自然の摂理」 ということになるかもしれないんですが、とにかく人間を超えた大きな力が、「分かれ!」 と命令してくるわけなんですね。

 先ほど聞いていただきました、柴田まゆみさんの 『白いページの中に』 という曲はですね、まさにそのことを歌っています。 
 
 さて、この主人公は、別れることによって、いったい何を発見したんでしょうか。

 サビの部分に注目してみましょう。

 ………… 長い長い坂道を、今登っていく
 好きだった海のささやきが
 今は心にしみる
 よみがえる午後のやすらぎも、
 白いページの中に …………

 ここもG、G7、Cmaj7、Bm7というセブンス系をうまく使って、美しい旋律が奏でられているわけですが、歌われた情景の内容を見てください。
 
 長い長い坂道
 海のささやき
 午後の安らぎ

 おそらく主人公がですね、孤独を噛みしめながら、散歩しているシーンを描いているんでしょうけれども、そこに描かれる風景というのはですね、彼が去っていった後に発見された 「風景」 なんですね。

 ここで歌われる 「坂道の長さ」 、「海のささやき」 、「午後のやすらぎ」 というのは、彼が身近にいたときには気づかなかった、「別れた後に見出された風景」 といってよいと思います。

 つまり、それまでも、この主人公は、同じ風景を何度となく目にしてきたのでしょうけれど、それは彼女の 「視覚」 には入っていたのかもしれませんが、「意識」 の中には入っていなかった。
 
 それが、別れた後に、意識の中に飛び込んできた!
 その 「発見」 の新鮮さが、ここでは歌われているんですね。 

 で、印象的なのは 「白いページの中に」 というフレーズです。
 なぜ、突然 「白いページ」 なのか。

白いページ2

 これはですねぇ、日常生活の 「切断」 を意味しています。
 「ページ」 という言葉が出てくるわけですから、そこで、彼女が自分の人生を 「本」 にたとえていることが分かります。

 で、本というのは、活字が印字されているのが当たり前なんですね。
 おそらく主人公は、小説やエッセイを普通に読むようにしてですね、何の疑いもなく人生を歩んできたんでしょうね。

 ところが、読み進めていた本が、途中からストンと白いページに変わっている。
 小説なら、その先のストーリーが突然分からなくなってしまうわけですね。

 これは途方に暮れてしまうと思います。
 彼が去っていったことで、自分の人生のゆくえが突然白紙になってしまった…。
 そういう空虚感を表現しているわけですね。

 しかしですねぇ、白いページというのは、その先から、自分なりのストーリーを書き込んでもいいという、その可能性をも示唆しているわけでもあります。

 この歌がですね、「別れ」 をテーマにしていながらも、どこか爽やかな印象を持っているのは、この 「可能性の発見」 が救いになっているからなんですね。
 やがて元気になっていく主人公の姿が、聞いている人にも伝わってくるからであります。

 だからこの曲は、メジャーヒットにはならなかったにもかかわらず、今も多くの人に愛されている曲のひとつになっているんですね。

 …というわけで、今日は柴田まゆみさんの 『白いページの中』 を聞いてみました。

 それでは皆さま、また来週。
 お相手は、町田でした。


 Jポップ・クリティーク 「そんなヒロシに騙されて」
 Jポップ・クリティーク 「わかれうた」
 Jポップ・クリティーク 「恋の予感」
 
音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:14 | コメント(2)| トラックバック(0)

鹿島槍にAC電源

 関西キャンピングカーショーの取材に行っている留守中に、『キャンピングカーって、本当にいいもんだよ!』 というキャンピングカーの入門書を書かれた渡部竜生さんから、メールでご連絡を頂いた。

 長野県の 「サンアルピナ鹿島槍スキー場」 で、キャンピングカー専用の電源付きサイトが用意されたというお知らせだった。

鹿島槍スキー場

 すでに同スキー場はプレスリリースを発表しており、このホビダスのサイトでも、「雷さん」が早速そのことについてレポートされている。

 同スキー場における電源付き駐車場の企画は、渡部竜生さんが立てられたもので、その運営方法などについて、私も渡部さんから一度ご相談を頂いたことがある。
 渡部さんは、日頃からキャンピングカーの新しい宿泊場所を開発することに力を注ぎ、かねてより、スキー場の駐車場に着目されて、その実現のために尽力されていた。

 今回の鹿島槍スキー場駐車場におけるキャンピングカー専用スペースの誕生は、その渡部さんの努力が実ったもの。
 施設内容の開発過程において、彼のアドバイスが有効に生かされたことはいうまでもない。

 このたび実現された同スキー場におけるキャンピングカー専用サイト (中央駐車場内) の数は15サイト。
 供給される電源内容は、100V15アンペアで、利用料金は、平日1泊1,000円。金曜・土曜・祝前日・年末年始は1泊2,000円。
 オープンは、スキーシーズンを迎える12月6日。

 なお、降雪への対処として電源設備は1ヵ所のみとなるため、キャンピングカー利用者は延長コードを準備する必要がある。

 従来どおりの電源なしサイトももちろん用意されているが、電源付きサイトに利用が集中するようならば、電源増設も検討するという。

 詳しいことは下記まで。 
 
 サンアルピナ鹿島槍スキー場
 〒398-0001 長野県大町市平鹿島槍黒沢高原
 電話 :0261-23-1231
 FAX :0261-22-2065
 ホームページ http://www.kashimayari.net/

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 05:24 | コメント(4)| トラックバック(0)

関西ショー速報

 「関西キャンピングカーショー2008」 のイベントを見学し、その最新レポートをお届けします。
 出展車両の傾向を一言でいうと、「小型キャブコンの多様化とバンコンの進化」 。
 これです!

 「小型キャブコンの多様化」 というのは、いうまでなく新型ライト/タウンエースに架装を施したキャブコンの登場によってもたらされました。
 これにより、従来のカムロードベース、そしてボンゴベースという大きな二つの流れの中にライト/タウンベースが加わり、3極構造が成立したようです。

アズマライト/タウン

 このショーでも、新型ライト/タウンエースをベースにしたキャブコンをリリースしたメーカーさんをみると、オートショップアズマさん、AtoZさん、セキソーさんと、いずれも時代のムーブメントを作り上げたビルダーさんばかり。
 それぞれ特徴を備えたユニークなコンパクトキャブコンを仕上げての参上でした。

AtoZライト/タウン


 共通していえることは、いずれも1500cc (97ps) というベース車のエンジン出力を考慮して、架装重量を軽くし、空気抵抗も軽減して走りを維持するという方向性で統一されていました。
 で、このことによって何が実現されたか。

 それらのクルマは、実にみなスタイリッシュで、カッコいい外形フォルムを獲得していました。
 会場を眺めていると、新型ライト/タウンベース車のコーナーには、新しい風が吹いているような雰囲気が漂っていました。

 一方、「バンコンの進化」 とは何を意味するのか。
 すでに、ハイエースをベースとしたバンコンは、あらゆるレイアウトが試されて飽和状態になったかのような感がありましたが、つぶさにみると、それぞれのバンコンにもしっかりした熟成の跡が見られました。

大森バンコン1

 その主な部分はデザインコンセプトの進化。
 レイアウト的には一見従来のパターンを踏襲しているようでいて、そのフィニッシュの緻密さや色使いの洗練度がめきめき上がっているものが目立ちました。
 特に、家具やシート地の色使いと材質感の配合に一工夫施したものがたくさん登場し、リビング空間の洗練度がひときわアップした感じです。

アネックスバンコン

 このほか、軽トラック用のピックアップキャビンが開発されたり、新しいコンセプトのバスコンが登場したり、なかなか見ていて飽きないショーでした。
 具体的な車種に関しては、このブログでも少しずつご紹介するようにいたします。

 一方、ガソリンの高騰や金融不安などと、キャンピングカーをめぐる社会環境も激動期を迎えています。
 それらがキャンピングカーの販売に影を投げかけているのかどうか。

 各ブースのスタッフに尋ねてみると、「正直、クルマが売れない」 と嘆いていられる方もいらっしゃれば、「お客様が何を求めているかを練り直す好機」 と捉える方もおり、その反応はさまざま。
 中には 「うちはかえって好調」 と答えられた方も。

 それぞれ扱う車種や売り方によって、社会環境の変化の受けとめ方も変わるようです。

 来週は名古屋のキャンピングカーショー、来月は東京・お台場。
 キャンピングカーイベントは、実りの秋を迎えました。



campingcar | 投稿者 町田編集長 18:44 | コメント(0)| トラックバック(0)

大阪にいます

 今、大阪にいます。
 で、夕方から梅田に出て、いつもの立ち飲みの串揚げ屋に行って、タコハイ飲んで、さんざん串揚げ食って、なんと、その後おでん屋にも寄って、やぁ、久しぶりに、「満腹」 ってのをたっぷり楽しみましたね。

松葉揚げ

 なにせ、ここのところ5kgも痩せちゃって、最近は椅子に座ってもケツが痛いわけ。
 尻の肉が落ちちゃったんだろうね。

 で、夜中にホテルに帰ってきて、1階のロビーにパソコンがあったから、まぁ、「ブログ」 でも書こうか、なんて思っていたら、あっという間に、そのパソコンをインド人の若者たちに占拠されちゃってさ。

 ポケっと待っているのもつまらないから、隣にいたインド人の青年に話しかけたのさ。

 「サイトシーイング? ビジネス?」

 ハハハ、おいらがしゃべれるのは、そんなレベルだから。

 したら、学生なんだってね。
 農業指導の勉強かなんかを日本で実地訓練してんだとか。

 ライスが好きか? ナンが好きか?
 
 なんてたわいもない話してさ。

 で、「日本のカレーを食ったことあるか?」
 って聞いてみたのよ。

 したら、「日本のカレーは牛とか豚が入っているから食えねぇ」
 っていうわけ。
 チキンならかろうじて食えるらしい。

 一度インド人に、日本のカレーの感想を聞いてみたかったんだけど、このテーマは持ち越しになった。

 でも、まぁ、楽しかったな。
 やっぱもっともっと色々しゃべれたらいいな、と思った。

 で、その話の相手を務めてくれた彼が、パソコン使っている友達のところに行って、
 「待っている人がいるから、早く終わらせなよ」
 とか言ってくれたらしい。

 で、ようやく今回のブログを書いてるわけだけど、いま時計みたら、夜中の2時半じゃん!
 
 早く寝なくちゃ。

 ってなわけで、酔っ払って書いているから、読み返す気力もないんだけど、誤字脱字みたいなものがあったら、ごめんなさいね。

 お休みなさい。

 
ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 02:39 | コメント(6)| トラックバック(0)

ビートボックス

 ビートルズのコピーバンドというのは、日本にもいっぱいあるらしいけれど、先週近くの公園で開かれたフェスティバルに登場した 「 The Beat Vox ザ・ビートヴォックス 」 というバンドの演奏は楽しめた。

 実は、この会場で彼らのステージを目にしたのは2回目。
 2000年に結成されたというから、バンド歴はまだ10年にも満たないのだが、2年ほど前のライブと比べると、年を追うごとに円熟味を増している感じがする。

beatvox1

 メンバーの平均年齢はいくつぐらいなのだろうか。
 彼らのHPを覗いても、年齢は分かららない。

 見た感じは、30代っぽい。
 しかし、メンバーそれぞれのプロフィールに記されている 「好きなバンド、好きな曲」 を覗いて見ると、40代…ひょっとして50代? という雰囲気もある。
 でも、まぁ、音楽の好みで年齢を推定するのは難しい。

 彼らのレパートリーは、徹底して 「初期ビートルズ」 。
 特に、ビートルズがライブハウスに出演していた頃のロックンロールを得意としているらしく、ノリの良さは格別。ハンブルクやリバプールでライブを繰り広げていた頃の荒々しい躍動感をうまくつかんでいる。

beaatvox2

 メンバーのボーカルの声質は、やはり本物とは異なるが、歌い方やステージパフォーマンスは何から何までオリジナルに忠実。
 細身のスーツに細身のタイ、上げ底ブーツ。 
 遠くからステージを見ると、一瞬そこに若き日のビートルズが復活したような錯覚に陥る。

 ビジュアルだけでなく演奏もなかなか。
 「フローム・ミー・トゥ・ユー」、 「ア・ハードディズ・ナイト」 、「抱きしめたい」 、「シー・ラブズ・ユー」 など、アルバムでいうと 「ヘルプ」 までの曲が中心となるが、どの曲も自分たちの解釈 (アレンジ) を入れず、特にギタープレイなどはアドリブパートまでそっくりに演奏されている。

 「多くの人が知っている曲なので、間違えることができない」 と彼らは、ステージで語る。
 そういうこともあるのだろうが、それ以上に、本人たちが好きで好きでしょうがないという雰囲気が伝わってくる。

 難がひとつあるとしたら、ベーシストが右利きのこと。
 本物のビートルズのステージでは、左利きのポールがステージの左に立ち、もう一方の端にジョンが立つため、ギターのネックが左右に開いて、とても美しい 「絵」 ができあがる。
 それに比べると、ギターのネックが一斉に同じ方向を向くのは、ちょっとそれらしくない。

ビートルズ演奏風景
 ▲ オリジナルビートルズ
 
 でも、それ以外はうまく本物のステージを研究している様子がしのばれる。
 サイドギター担当が、ちょっとガニ股気味に膝を開いて、ギターを持ち上げ気味に抱えて歌うと、見事にジョン・レノンができあがる。
 ポール役とジョージ役が、ひとつのマイクを挟んで、顔を向かい合わせる感じも、それっぽく演出されている。

キャバーンクラブ入口
 ▲ キャバーンクラブ (BeatVox HPより)

 2002年には、リニューアルされたリバプールの 「キャバーンクラブ」 でライブをやったという。
 HPには、そのときの動画が貼られていたが、空気の澱んだような穴倉で熱唱する彼らのステージは、画面がモノクロということもあって、「お、本物か?」 と一瞬思うほどの雰囲気をかもし出している。

 興味をお持ちの方は、下記の動画をどうぞ。
 ▼ ビートヴォックス キャバーンクラブライブ


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:06 | コメント(0)| トラックバック(0)

椎名誠のひとこと

 ブログなどを書いているとき、「あぁ、こんな風に文章が書けたらいいなぁ…」 と、いつもため息まじりに読んで、手本にしようと思っているのが椎名誠さんの文章である。
 だっておかしいのだ。
 …「おかしい」 って、良い意味でね。

 椎名さんは、あれだけいろいろな媒体にエッセイやコラムを連載しながら、そのパワーが落ちない。
 毎週催促される週刊誌の原稿などに応じるためには、ネタ探しも大変だろうと思う。
 実際、たいしたネタじゃないものも多い (失礼!) 。
 だけど、笑わせてくれる。
 それはひとえに、モノを見る 「角度」 と、それを表現する 「文体」 の力なのだ。

 たとえば、週刊誌の連載エッセイ 『ナマコのからえばり』 (サンデー毎日) の10月19日号。
 そこで、ご自分が書かれた昔の著書を思い出して語る部分は、次のように表現されている。

ナマコえばり

 ……………… ぼくが最初に書いた本はビジネス系のもので 『クレジットとキャッシュレス社会』 というタイトルだった。
 内容は、やがて我々の生活は現金をあまり使わなくなり、消費社会の中心はカードになるだろう、ということを予測する内容だった。

 主にアメリカの例などを中心に書いていたのだが、自分では殆ど信じておらず、「日本の場合はそんなコトになるわけはあんめい」 と思いつつも、本では 「そうなると思われる」 などと書いていた。ひどい話だ。

 その本で、ぼくはどんな無責任なことを書いていたのだろうかとこのあいだフと気になって本棚を見回したが、見つからない。

 事務所のスタッフに相談したら 「アマゾンで探せば見つかるかも」 という。
 ぼくはかなりアナログ人間なので、アマゾンのシステムをよく知らない。
 でも、あんな南米の奥地の 「緑の魔境」 になぜそんな本があるんだ! などとはいわないぐらいの知識はある。………………

椎名誠氏

 一時、椎名さんのこういう文体を 「昭和軽薄体」 などと評したマスコミがあったけれど、軽薄なように見えて、けっして軽薄ではない。
 読者に笑ってもらうために、わざと自分のインチキ具合とか無知ぶりをさらけ出すという、きわどい戦略が立てられていて、その戦略を裏付ける厳しい自己省察がある。

 人に読んでもらうための文章の好例だと思う。

 同じエッセイの中に、こんな文もあった。
 ご自分の携帯電話が壊れて、ドコモショップに新しい機種を買いに行かれたときのレポートだ。

 ……………… ドコモショップに行って、スーツ姿のあんちゃんが座っているカウンターの前に腰掛けると、すぐにあんちゃんはいろんなことを早口で言い出したのだが、スワヒリ語かヒンディー語かと思うくらいぼくの知らない言語を喋るのでしばらく呆然としていた。

 知らない単語がいっぱい並べられていたのだが、専門用語というやつだろう。 「わしらにわかる言葉でおねがいします」 と頼み、少しずつ理解していった。

 いろんな機種があって、「テレビ付きの機種の方が多機能で有利ですよ」 というのだが、有利より便利がいい。
 その多機能に 「肩もみ機能」 とか 「雨傘機能」 などがついているなら考えるが、殆どいらない多機能ばかりだった。 ………………


 ここでも椎名さんは、時代の流れに着いていけない “アナログ人間” になりすまして、読者の笑いを誘っている。
 読者に親しみを感じてもらうには、まず自分の弱さとか、ずるさを正直に告白してしまった方が共感を得られやすいということを、よくご存知の方なのだ。

 ときどき 「どうだ、カッコいいだろぉ!」 的なええかっこしいの文章を志向してしまう自分なんかは、椎名さんのこういう姿勢を見せられると恥ずかしくなるときがある。


 この椎名さんに、昔、一度取材できそうなチャンスがあった。
 以前に関わっていた雑誌で、「今どきディスコの若者ファッション」 という企画が出たことがあったのだ。

 1980年代の初頭だったと思うが、当時、新宿の 「ツバキハウス」 のようなディスコが若者のファッションショー会場として盛り上がっていた時期があって、そいつを面白おかしく採り上げようということになった。

 まず実際にディスコに潜入し、奇抜な衣裳で踊る若者たちをばんばん写真に撮りまくる。
 その写真を、話術に優れた有名人に見てもらい、アドリブで突拍子もないコメントをつけてもらう。
 そんな企画だった。

 誰をコメンテーターに選ぶか。

 私は、当時 『本の雑誌』 の編集長として活躍しながら、ユニークなエッセイを次々と発表していた椎名誠さんに白羽の矢を立てて、ご本人に電話を入れ、取材のアポを取った。

 で、当日椎名さんに会うのを楽しみにしていたところ、編集長がインタビューアーとして指名したのは、なんと私ではなく、編集部に入って間もない私の後輩。

 ええ…! 俺は椎名さんに会えないわけぇ?

 ちょっと不満だった。

 しかし、雑誌としては、これが正解だった。
 私に代わって椎名さんに取材した後輩は、椎名さんの談話を記録したメモを頼りに、ものの見事に “椎名節” を利かした名レポートを組み上げたのだ。

 その原稿は、まるで椎名さんが目の前で語っているような臨場感に溢れていて、誰が読んでも楽しく笑えるものだった。
 
 それを機に、その後輩はどんどん取材力と文章力を身につけていき、やがては独立して、名コピーライターと呼ばれるようになっていった。

 それも、ひょっとしたら椎名さんの 「力」 なのかもしれない。

 彼の一言というのは、どんな専門家の書いた 「文章読本」 よりも、ものを書くことの基本的な心構えを教えてくれるようなところがある。

 …だから正直にいうと、椎名さんの取材を逃してしまったことは、今でもちょっぴり惜しいのだ。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:08 | コメント(4)| トラックバック(0)

コンプレックス

 この年になっても、いまだに、高そうなネクタイ結んで仕立ての良いスーツを着こなした紳士風のサラリーマンの姿を見ると、気後れするというか、劣等感を感じるというか、対抗心が燃えてきたりするという、奇妙なコンプレックスを持っている。

 たぶん、若い頃のトラウマがあるのだ。

 学生時代の後半、ろくすっぽ授業にも出なかったから、たまにクラスの連中と会うと別世界だった。
 「損保はまぁまぁだが、やっぱ銀行は厳しいな…」
 など、みんな就職のことしか話していない。

 自分は遊びほうけていたから、まったくそういう世界とは縁がなかった。
 たまに会うクラスメイトの真面目な女性などは、私のダメ人間ぶりを知っているから、軽蔑を通り越して同情までしてくれる。

 「人間なんかのきっかけがあれば立ち直れるのよ」
 なんて、忠告してくれるのだ。
 きっと精神疾患でも煩った社会不適合者のように思われていたのだろう。

 案の定、付け焼き刃の就職運動はことごとく失敗に終わった。

 自分にはどこにも行くあてがないのに、卒業前の仲間の話題は、みな決まった就職先の話ばかり。
 誰とも顔を合わす気にならなかった。

 とにかく、働き先がなかったので、バイトを始めた。
 イタリアンレストランだけど、ハンバーグもカレーもあるという店。

 1階と2階に分かれていて、2階がレストラン。1階はスナック。
 10時頃レストランのレジを閉めてから、1階のカウンターに降りてバーテンをやる。

 幸い、そこの経営者に気に入られ、いろいろな企画を出させてもらった。
 そんななかに 「ディスコ・パーティ」 というのがあった。

 仕事が終わってから、手作りのパーティー券をつくる。
 それを1枚1000円くらいで常連客に売った。
 ドリンクフリー。
 踊り放題。

 選曲もやった。
 ジェームズ・ブラウンの 「セックスマシーン」 の後には、クール&ギャングを流して、オージェイズの 「裏切り者のテーマ」 をかけて…。
 ダンスものを5曲ぐらい続けた後は、チークタイム用にスタイリスティックスのバラード流して…。

 当時は、カセット内蔵型ステレオなど持っていなかったから、全部レコードから生取りしたテープを使った。

 音なんかボワボワでモコモコ。
 録音したときに近所を走っていた軽トラのホーンなんかも入ってしまうようなテープだった。

 でも、そんなことを気にする客は一人もいなくて、みんな 「フライロビンフライ!」 なんて口ずさみながら、楽しげに踊っていた。


 ある時、2階のレストランで社会人の貸し切りパーティがあるという話が入り、当日、テーブルの上にオードブルなんか並べていると、やってきた幹事というのが、かつて同じゼミにいた仲間だった。

 「あれ、なんでお前こんなところにいるの?」
 ってな顔された。

 向こうは仕立てのいい三つ揃いのスーツ。
 こっちは黒の蝶タイに白シャツ。
 格好が、もう 「主人」 と 「使用人」 という感じだった。

 次々と入ってくる客はみんな大学時代の同期の連中。
 社会人のパーティってのは、実は大学のクラス会だったのだ。

 で、彼らが 「ビールもう一本ね」 とかいうと、私が 「かしこまりました」 といって運んでいく。

ビール

 最初は彼らも気まずそうな顔していたが、そのうちみんな酔いが回ってきて、先ほどの幹事が、「まぁ、こっちに来て一杯飲もうよ」 なんて誘ってくる。

 「ありがとうございます。でも一応仕事中ですから」
 立場上そう言うしかない。

 すると、その幹事がビール瓶を抱えたまま立ち上がって、こっちまで歩いてくる。
 で、肩に手を当てて、
 「今度は、同じ客同士として飲もうな。人間、職業に貴賎はないしな。お前もそのうちチャンスをつかめば復活できるよ」
 なんて、酒臭い息でなぐさめてくれる。

 「職業に貴賎はない…」

 それなりに楽しんでバイトをしていたので、そんな風に思ったこともなかった。
 しかし、世間から見ると、そういう風に見える自分がいる…。
 不意に惨めな気分になった。
 大手損保に就職した彼は、「自分はいち早く人生の勝ち組に収まったぞ」 という顔つきだった。

 それは、いま思い出すと、けっして悪い思い出ではない。
 彼らと会って、いろいろ昔話にふけりたい。

 でも、どこかでネクタイ&スーツ姿の社会人には、いまだにコンプレックスを抱いている自分がいる。
 いまの会社が、そういうカッコをしなくても済む職場だからかもしれないけれど…。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 00:46 | コメント(4)| トラックバック(0)

恋の予感

 皆さん、こんばんわ。
 「Jポップ・クリティーク」 の時間がやってまいりました。

 今日はですねぇ、「恋愛」 をテーマに、「恋の始まり」 ってやつを考えてみようかと思います。

 「恋の始まり」 というのは、実に神秘的な気分にさせてくれます。
 それは一瞬ですね、恋する相手が見えなくなるからですね。

 見えない…。
 この意味がお分かりになりますでしょうか。

 恋愛を経験なさった方はこんなことがありませんでしたか。

 たとえばですねぇ、まぁ、どこかで素敵な相手と出会ったとしましょうか。
 その人の容姿も好みだし、趣味や感性も合いそう。
 とにかく、ちょっと胸キュンとなるような、自分が今まで探していた理想の人間だと感じられたりします。

 で、今度 「いついつ会おうね」 なんて、デートの約束なんかしますよね。

 ところが、データする日を心待ちにしているときに、ふと、会う予定になっている人の顔が、なぜか思い出せない…。
 そんなことって、ありませんでした?

 だいたいの輪郭は分かるんです。背格好や、体型なども漠然と思い出せる。
 しかし、その顔をよぉーく思い出そうとすると、ふぅーっと輪郭がボヤけてしまう。
 なんだか甘酸っぱいような、くすぐったいような気分だけが残る。

 …ね? そんなことありませんでしたか?

 これが、恋愛などを意識しなかった相手の場合はですねぇ、初対面の人でも、別れた後にわりと顔を思い出せるんです。
 「恋愛」 を意識したときだけ、相手の 「顔」 が遠ざかっていく。

 あるいはですね、覚えた相手の名前を、そっとノートなんかに書き取ってみる。
 その名前をいくら書き続けても、文字とその人のイメージの差が縮まらない。ますます相手が 「何者」 か分からなくなっていく。

 これはですねぇ、自分の意識が変革を起こしているということなんですね。
 未知の世界へ旅立とうとしている…と思ってもいいと思います。

 それまで何気なく過ごしてきた日常生活がですね、そこで切断されるわけなんですね。
 その先には、自分が経験したことのない、不安と期待が待っている…
 …ね、それが恋の始まり、というわけですね。

 そういう雰囲気を実にうまくとらえた曲があります。
 井上陽水さんが歌詞を作って、安全地帯の玉置浩二さんが歌った 『恋の予感』 です。

 ええ、では安全地帯で、『恋の予感』 。

恋の予感ジャケ

 …………………… ( 下に YOU TUBE を貼り付けてあります)

 いかがでしたか?
 名曲ですね。これは…。歌詞とメロディのバランスが最高に取れています。
 では、歌詞をもう一度たどってみましょう。

 ……なぜなぜ、あなたは、キレイになりたいの?
 その目を誰もが、見つめてくれないの?
 夜は気ままに、あなたを躍らせるだけ
 恋の予感が、ただ駆け抜けるだけ

 なぜなぜ、あなたは、「好きだ」といえないの?
 届かぬ想いが、夜空に揺れたまま
 風は気まぐれ、あなたを惑わせるだけ
 恋の予感が、ただ駆け抜けるだけ

 誰かを待っても、どんなに待っても、あなたは今夜も
 星のあいだを さまよい流されるだけ
 夢の続きを また見させられるだけ

 風は気まぐれ あなたを惑わせるだけ
 恋の予感が ただ駆け抜けるだけ……

深夜の木

 さて、聞いていてお分かりになったと思いますが、この歌詞の中にですね、「なぜ、なぜ…」 という問いの言葉が繰り返し出てきます。

 そうなんですねぇ! 
 恋愛が始まると、今まで当たり前のように思えていたことが、みな 「なぜなんだろう?」 という疑問形に変わるんですね。
 恋愛の始まりが神秘的なのは、この 「なぜ」 があるからなんです。

 恋が始まる時には、一瞬、相手の顔が思い出せなくなるという神秘。

 それはですねぇ、
 「あの人は何者なのか。そして私は誰なのか」
 という人間の根元的な問いに接するからなんですね。

 で、この歌が秀逸なのはですね、恋が始まる前の歌なのにもかかわらず、孤独感を全面に漂わせているところですね。
 まるで、失恋の歌のような寂しさが、歌詞にもメロディにもふんだんに込められています。
 ここがですねぇ、歌詞を作った井上陽水さんと、それを歌った玉置さんの凄いところです。

 先ほど、「恋は “なぜ” という問いかけに直面するものだ」 と言いましたが、恋の始まる前に生じる 「なぜ」 という問いかけはですね、相手に対して問うというよりも、実は、自分に向かって問うているわけですね。

 つまり、それまでのですね、親兄弟とか、あるいは友達とか、そういう人間関係とは違う新しい関係を見い出した自分自身を問うているわけです。

 したがって、この歌に漂う寂しさというのはですね、今までの人間関係のイメージでは処理しきれない、まったく新しい人間関係を結ぶことへの戸惑いとかですね、不安から生じているものなんですね。
 そんなとき人間は、「独りぼっち」 であることを自覚します。

 ええ、前回ですねぇ、中島みゆきさんの 『わかれうた』 を扱ったときには、「人は失恋によって何かを得る」 と話したと思うんですが、恋が始まるときには、逆に、人は何かを失うんですね。

 何を失うのか。

 「自分を失う」
 「答を失う」
 「言葉を失う」

 つまり、それまで自明なものと思われていたすべての信念がゆらぎ始める。
 そして、「きまぐれな風に吹かれて、星の間をさまよう自分」 を発見する。
 ……というわけであります。

宇宙
 
 ええ、「恋の予感」 は 「孤独の予感」 でもあるという、まぁ、そういう深い洞察に満ちた素晴らしい曲であります。

 …というわけで、今日の 「Jポップ・クリティイーク」 は、安全地帯の 『恋の予感』 をお送りいたしました。
 それでは、また来週。
 お相手は、町田でした。

 Jポップ・クリティーク 「そんなヒロシに騙されて」
 Jポップ・クリティーク 「わかれうた」

 ▼ 「恋の予感」



音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:30 | コメント(4)| トラックバック(0)

ヘアリボンの少女

 土曜日の夜、家にいるときはテレビ東京の 『美の巨人たち』 を観るのが楽しみ。
 古今東西の美術の名品を独特の切り口で採りあげ、俳優の小林薫さんが、それをひとつの 「物語」 として、うっとりするくらいの名調子で語る。

 いったい、どのような人々がスクリプトを書くのやら。
 いつもその卓越した企画力と、構成力には関心してしまう。

 先週の土曜日は、ロイ・リキテンシュタインを特集していた。
 その中で、採りあげた作品は 『ヘアリボンの少女』。

ヘアリボンの少女

 「ただのアメコミじゃない !?」
 見た人は誰でもそう思う。
 現に、この絵がポップアートとして登場した1960年代。アメリカの美術関係者の多くは、「低俗なアメリカン・コミックを模写しただけ」 と批判し、この絵が美術品の仲間入りをすることを嫌悪したという。

 『美の巨人たち』 のロイ・リキテンシュタイン特集は、なぜこの絵が 「アート」 なのかを解き明かす。

 その番組構成のスリリングな展開は、まるでミステリードラマそのものだ。

 番組では、この絵が登場するまで、アメリカの美術界がどのような世界であったのかを、まず説明する。

 当時は、アブストラクト (抽象画) の全盛期。
 写実的なうまさを競い合う古典絵画の決まりごとを 「呪縛」 と感じていた若いアメリカの画家たちは、抽象画の世界こそ、「創造者の自由な魂の発露」 だと主張し、奔放な線と色だけで構成される絵画制作に励んでいた。

 当然、鑑賞者には、何が描かれているのかさっぱり分からない。
 人々は、次第に現代美術に興味を失い、美術館からも遠ざかっていく。

 それにもかかわらず、アメリカのコンテンポラリーアートの描き手たちは、大衆との隔離こそ、むしろ 「孤高の芸術家」 の証 (あかし) と読み違え、ますます独りよがりの芸術に邁進。
 そのような作品を 「価値」 と認める少数の美術関係者たちだけが、自分たちのステータスを満足させるために、画家たちをサポートしていた。

 で、ロイ・リキテンシュタインである。
 彼もまた、最初は流行のアブストラクトに専念していた。

 しかし、一向に芽が出ない。
 ある日、彼の子どもが言う。
 「パパは絵描きなのに、なぜそんなに絵が下手なの?」

 これに参ったロイ。
 「じゃ、絵がうまいところを見せてやろう」
 ということで、子どもに対して、流行のコミックをたくさん模写してやったのだそうだ。

 「あ、パパ絵が上手じゃない!」
 子どもは大はしゃぎ。
 
 「じゃ、次はスーパーマンな」
 …ってな感じで、子どもを喜ばせているうちに、ふと気づく。
 「もしかしたら、絵画ってのは、これが本物じゃなかろうか…」

 そこで、彼はアメコミを題材にした新しい作風にチャレンジすることになるのだが、彼が目指したのは、コミックそのものを描くことではなく、安いペーパーに印刷されて流通する 「大量消費財」 としてのコミックをコピーすることだった。
 だから、彼の描くコミックは、原画ではなく、印刷された状態であることを示すドット (点描) によって埋め尽くされることになる。 
 つまり、わざと印刷物を拡大した時のような、機械的で無機質的な雰囲気をキャンバスにていねいに描き込んだのだ。

ヘアリボン少女拡大

 彼は何をしたかったのか。

 従来の絵画は、一部のスノッブなお金持ちのステータスを満足させる商品として、一点モノの贅沢品でなければならなかったが、ロイ・リキテンシュタインは、大量生産品の下世話なコミックをそれらと同列に扱うことで、既成の画壇に風穴を空けようとしたわけだ。

 それは、「オリジナリティこそ芸術家であることを証明する」 という、それまでの画家たちが持っていた自意識の拡大願望に対する挑戦状でもあった。

 しかし、ロイの面白いところは、そのような姿勢が、同時に絵画に対して関心を失った大衆に対する挑発にもなっていたことだ。
 彼は、彼なりに 「絵画って面白いよ」 というメッセージを大衆に発信したのである。
 彼の子どもが、現代コミックを模写した彼の “落書き” に興奮した事実を知っていたからだ。

 現に、ロイ・リキテンシュタインやアンディー・ウォーホールらの作品をまとめて公開した 「ポップアート展」 は、今まで絵画に無関心だった一般大衆の注目を大いに集め、興行的にも大成功を収めたという。

 ロイはこう言いたかったらしい。
 「皆さんがあまり注目することのなかったモンドリアンたちの抽象画は、実は私の作品と同じなのです。色の配合や線の軌跡はまったく変らない。ただ片方は、描いたものが何かに似ていなかっただけ。私の作品は、たまたまコミックに似ていただけ」

 …ってなことを、番組のナレーションが伝えていたわけではないけれど、私流の言葉に直すと、そういうことになる。

モンドリアン「赤、黄…」
 ▲ モンドリアンの 「赤、黄、青、黒のコンポジション」
 ロイ・リキテンシュタインは、この絵と同じ色使いで、「ヘアリボンの少女」 を描いた。


 ロイは、「芸術を創ったり鑑賞したりできるのは、庶民とは “人種 ”の異なる天才だ」 という従来の先入観をぶっ壊し、「芸術を解き明かすことは、どんな人間にとっても平等にスリリングだ」 ということを訴えたかったのだろう。

 ね、絵画って面白いでしょ?
 絵画を観ることは、推理小説の謎解きを楽しむのと同じようなものである。
 …と、思う。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:07 | コメント(4)| トラックバック(0)

よそのブログから

 時間があるとき、よその方の書かれるブログにもときどきお邪魔する。
 同じような時期に、同じテーマを追求されている方のブログ記事などを読むと、ハッとしたり、勉強になったり。
 こちらの至らぬところを補って説明してもらったりすると、刺激を受けることもある。

 「ネアンデルタールは、ほんとうに滅んだか」
 というブログを開いていたら、私が前にエントリーした記事に対する論考と、私のブログの紹介がなされていてびっくりした。

 『Jポップ・クリティーク』 というインチキDJを装ったヨタ話シリーズで、中島みゆきの 「わかれうた」 をテーマに記事を書いたことがあったが、そのブログ主は私のテーマの意図をまともに汲んでくれて、それにご自分の論考を加えた面白い記事を書かれていた。

 ブログ主によると、「中島みゆきはネアンデルタール人」 なのだという。

 初めて読む人には 「なんのこっちゃ?」 …だろうけれど、その人のブログというのは、ネアンデルタール人の起源とその行く末について、学説上主流とされているテーゼに異を唱えながら、人間そのものの本質を問うという、きわめて哲学的かつ文学的なもの。

 その人が展開する説の根幹は、「ネアンデルタールは生きている」 と主張するところにある。
 つまり、従来の学説では、
 「ネアンデルタール人と現存する人類は、それぞれ別の進化の道をたどり、地球環境の変化に耐えられなかったネアンデルタール人は死に絶えた」
 ということが定説化していた。

 しかし、そのブログでは、
 「ネアンデルタール人こそ、今のヨーロッパ人の原型をなした人々であり、彼らの残した文化こそがその後の人類の文明史を決定している」
 というのだ。
 人類学的な視点でいうと、
 「現代人の祖といわれるクロマニヨン人こそが、ネアンデルタールの遺伝子を引き継いだ人類」
  …なのだとか。
 
 その証拠を、近代サッカーや、縄文文化や、労働価値学説や、現代のニートやフリーターのメンタリティなどを例に採りながら検証していく試みが、そのブログのモチーフを支えている。

 アカデミズムの立場からモノを眺める人たちには、論証不確かな 「異説」 に見えることもあるのだろうけれど、人間存在のあり方を問うという意味では、なかなか考えるヒントに満ちた面白いものだ。

ネアンデルタール復元
 ▲ チューリッヒ大学が作成したネアンデルタール人の少女の想像図。最近の学説では、昔のゴリラのような “ネアンデルタール人像” に修正を迫るようなものが徐々に発表されてきている。

 で、その人は、
 「ネアンデルタール人は、極寒期のヨーロッパを生き抜く過程で、その集団の存続を維持するメンタリティに “嘆き” を据え、彼らはお互いに “嘆き” を共有し合うことで生きる糧を得ていた」
 という説を日頃展開しているわけだが、そういうネアンデルタール気質を現代を生きる日本人の歌に求めるとすれば、それが中島みゆきの 『わかれうた』 になるのだという。

 自分も 『わかれうた』 という歌が、その当時蔓延していたJポップの扱う 「恋の歌」 とは異質なものであることは理解していたが、その人のような、想像を絶するほど遠大な時間の流れの中で位置づけることなど、思いも至らなかった。

 いろいろなブログを覗くことは、なかなか勉強になる。
 興味を持たれた方は、一度そちらのブログもどうぞ。

 「ネアンデルタールは、ほんとうに滅んだのか」
  10月4日記事 「わかれうた」



コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:36 | コメント(4)| トラックバック(0)

クリスマス・イブ

 金曜の夜、仕事の打ち合わせで、男たち数人が集まる。
 夕飯時まで押したので、メシを食いながら、ちょっと一杯。

 そのままカラオケという流れになった。

 近頃のオヤジたちは、とてつもなく広いレパートリーをものにしている。
 旬なJポップを歌う者。
 昔のテレビドラマの主題歌を歌う者。
 演歌。
 洋楽。

 一人が、山下達郎の 『クリスマス・イブ』 を歌い始めた。

 一瞬で空気が変った。 
 誰もが声に出さずとも、息を飲んだのが分かった。
 恐ろしいくらい、場が、一気に 「年末」 になったのだ。

 さまざまな業務が 「年末進行」 で押してくる、あの焦燥感。
 「今年も思うようにならなかったなぁ…」 という嘆息にまみれた自嘲的な気分。

 それでいて、気の置けない仲間と集う 「場」 の暖かさ。
 「1年の締めくくりだから飲んじゃうか…」 という無責任な解放感。

 そんな年末特有の想念が、あの歌のメロディに引きずられて一気に頭の中を駆けめぐった。

クリスマス・イブ達郎

 すごい歌だと思う。
 日本人にとって、今や 『ジングルベル』 や 『赤鼻のトナカイ』 以上に、クリスマスの到来を告げる 「音」 になってしまったのではなかろうか。

 歌詞は、実にたわいない。
 恋人を待ちわびる孤独な青年の自虐的でセンチな思いがシンプルに綴られるだけ。
 そもそも、これは 「クリスマス」 から疎外された人間をテーマにした 「反クリスマス・ソング」 なのではないか?

 そんな異和も疑問も、この歌が流れ出すと一瞬のうちに吹っ飛ぶ。
 そして、ただ過ぎ行く1年の 「重さ」 と 「はかなさ」 だけが、圧倒的なスケールで被さってくる。

 メロディなのだ。
 この一度聞いたら忘れられない見事なメロディ。

 優れたメロディは、どんな凡庸な歌詞をも 「名曲」 に変えるという好例がここにある。

 この歌が流行り出した1980年代中頃、クリスマスが迫るカラオケの席では、誰もがこの歌を奪い合ったものだった。
 「1番はお前な。で、2番はオレ」
 なんて、仲良く振り分けたこともある。

 日本人は素晴らしいクリスマス・ソングを持ったものだと思う。

 今年もあと3ヵ月を切った。 


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:32 | コメント(6)| トラックバック(0)

ブルースの魂

 ラップを主体とするヒップホップ系の音を愛する若い人たちも、昔のR&Bを聞くことがあるらしい。

 しかし、せいぜい遡っても1970年代まで。
 「ファンク」 というくくりで、クール&ギャング、オハイオ・プレイヤーズ、アース・ウィンド&ファイアー、カーティス・メイフィールドぐらいまでなら馴染めるらしい。
 しかし、それ以前のものとなると、R&Bといっても 「別の音楽」 に聞こえるという。

 実は、このとまどいは、自分の方にもある。
 60年代のR&Bに親しんできた自分からすると、正直、和洋問わず今のヒップホップ系の 「音」 は、自分が身体で覚えている 「R&B」 と同じものとは思えないのだ。

 その最大の違いは、「ブルース」 のあるなしだ。
 そもそもR&Bは、「リズム・アンド・ブルース」 というように、ブルースの派生バージョンとして生まれた音楽だ。
 ゴスペル、白人ポップスなどの要素を採り入れながら、ブルースをよりダンサナブルに、よりポピュラーなものに味付けにして作られたのがR&Bである。

 一方、ヒップホップには 「ブルース」 がない。
 リズムでいうと、ブルースの 「横揺れ」 に対して、徹底的な 「縦揺れ」 で切り込んでくる。

 4拍子の2拍目と4拍目にアクセントが来るブルースのアフタービートの、あの沈み込んでからフワッと浮く感覚に慣れ親しむと、ヒップホップの均等割りされた縦揺れリズムには 「タメ」 が感じられない。
 聞いていると、絶え間なく踊り続けていなければならないような気分になる。

オーティスラッシュアルバム

 自分の頭の中には、ブルースには 「たゆたう」 というイメージがあって、たとえアップテンポのものであっても、弱拍から強拍に移るときに、空 (くう) を飛ぶ…というか、谷を跳びこえるような 「飛翔感」 が感じられる。
 ヒップホップにも跳躍感はあるが、全ビートが跳躍しているので、「飛翔感」 がない…と、まぁ勝手に思い込んでいる。

 そんなわけで、自分の音楽脳の中にはブルースの血液が環流していると信じている私は、耳がヒップホップを拾っても、脳がそれを 「R&B」 とは認識しないようなのだ。

 なぜ、黒人音楽の 「魂のルーツ」 ともいわれるブルースが、ヒップホップで絶えてしまったのだろう。
 あれこそ、ブラックの永遠の 「ふるさと」 だと思い込んでいた自分には、その経緯がさっぱり分からない。

 ある人がいうには、ヒップホップは、それまでのブルース的な黒人の感性、黒人の文化、黒人のライフスタイルに対する強烈な 「カウンター」 なんだそうだ。

 そう言われると、納得する部分がある。

 70年代中期、商業主義的な完成度ばかり求めて袋小路に陥ったロックに、パンクが挑戦したように、同じことがブラックミュージックの世界でも起こったということなのだろう。
 そう考えると腑に落ちる。

 パンクが音楽の領域を越えて、生活スタイルそのものとして定着し、さらに文化に昇華し、思想にまで広がったように、ヒップホップもその道をたどっている。

 しかし、ブルース人間である私は、だからといって “古い思想” のブルースを捨てる気にはならない。

 なにしろ、好みの音楽の原点がブルースだったのだ。
 洋楽で、最初にとりこになったビートルズ。
 そのあとに狂ったイギリス系ギターグループ。

 それらを横断的に聞き流していると、どんな曲にも自分の 「好み」 のリズムというものが必ずあった。
 アーチストが変わろうとも、ジャンルが変わろうとも、いつも同じようなテイストの曲ばかり聞き返す。

 後で知ったら、それが 「ブルース」 だった。
 だから、自分にとってブルースは、Tボーンウォーカーでもなく、BBキングでもなく、マジック・サムでもなく、「ブルーノート・スケールを使ったアフタービートの曲」 という抽象的なものとして血肉化していったように思う。
 
 70年代に入って、ソウルミュージック全般が好きになったが、好みの原点はブルースの体液が色濃く流れるR&Bだった。
 もちろん黒人のものが好きだが、白人のカバーでも、良いものは良いと思う。
 この夏からカラオケで練習しているのが、「ユー・リアリー・ゴット・ア・ホールド・オン・ミー You Really Got A Hold On Me」 。

 尊敬するスモーキー・ロビンソンの曲だが、ジョン・レノンのカバーの方を先に知った。
 目一杯黒っぽく歌いながら、ジョンの声には、どこかイギリス風のメランコリーとアンニュイがある。

 だから、これはカバーというより、リメイクといっていいのかもしれない。

 新大陸アメリカで育った黒人音楽の力強さを、イギリスの退廃で染め上げた歌。
 だからそこには、境界を超えた音楽としての新しさと、出自を失った音楽の哀しみの両方がある。
 そんな感じで、ジョンのこの歌を聞いている。

 関連記事 「ジョン・レノン節」

▼ You Really Got A Hold On Me


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 23:52 | コメント(4)| トラックバック(0)

仁義なき戦い

 会社勤めを始めた頃、まだ友達もいなくて、しばらくは一人で酒を飲むぐらいしか時間をつぶす方法がなかった。

 当時住んでいた町は、その名前だけは古くから知られた町だったが、実質的には発展途上の町で、妙に空漠としていた。
 城の石垣みたいな塀に囲まれた民家が残っているかと思えば、その隣りに、銀座か六本木にでもありそうなケーキ屋がいつのまにか建つ。だけど、その隣はズイキイモ畑。
 町の景観なんてばーんらばら。

 歓楽街というものもあったが、パチンコ屋と、居酒屋と、キャバレーなどが4~5軒並んだ一角を過ぎれば、もう静まり返った駐車場となる。

 若者向けの小じゃれたカフェみたいなものも一軒あったが、人の代わりに猫が2時間もスツールで居眠りしているような店で、じっと水割りをすすって時間をつぶしても、閉店まで自分一人だったなんてことも多かった。

 そんな町で飲んでいるのが寂しくなって、新宿あたりで途中下車して、東映のヤクザ映画を観るようになった。

仁義なき戦い1

 当時東口に、深作欣二の 『仁義なき戦い』 シリーズなどを二本立てで見せる映画館があった。
 入口横の売店でアンパンと牛乳を買い込んで、中に入る。

 どこを見回しても家族も恋人もいないような男ばかり。
 みんな擦り切れた前のシートに足を投げ出して、寝そべって画面を見上げている。

 トイレの臭いが場内にまで漂ってくるようなところで、床はゴミだらけ。
 「禁煙」 表示を守るような客もいない。
 アウトローの映画を見るにはぴったりの環境だった。

 しかし、ここに通うようになってから、自分は変わった。
 妙に元気が出てきたのだ。
 映画そのものがパワーを授けてくれるからだ。

 ただ、それは 「負のパワー」 とでもいうのか、「そんな力をもらったところで、社会人である俺は、いつ使えばいいのよ?」
 …というようなパワーなのである。

 しかし、観ているときだけはうっとりできる。
 ブンタ、ウメタツ、アキラ、ヒロキ。
 おうおうおう、やってくれるじゃないの!

 あんちゃん歌手だと思っていた小林旭が、あんなに輝く役者だったとは!
 ちょんまげ侍しか知らなかった松方弘樹が、あんなにドスが利いているとは!
 プレイボーイのイメージしかなかった梅宮辰夫が、あんなにシブイとは!

 何から何まで新発見だった。

 成田三樹夫、小林稔侍、小池朝雄といったバイプレイヤーたちもカッコよかった。

 お気に入りは、室田日出男と金子信夫。
 上にヘイコラ、下にブリブリのいやらしい役を、この2人は実にうまくこなす。
 室田日出男はすごむときもサマになるので、ぞっこんほれ込んだ。 

室田日出男

 だけど一番心を奪われたのは、彼らの 「声」 だった。
 残忍な暗殺者のように、低く地を這い、やにわに抜かれた刃物の輝きを放つ彼らの声。
 それが唸りを立てたドスのように、自分の下腹あたりに食い込んでくるように思えた。

 ヤクザ映画というのは、声とセリフのドラマだったことが、よく分かった。

 「広島の極道はイモかもしれんが、旅のかざしもに立ったことはいっぺんもないんでぇ! 神戸の者ゆうたらネコ一匹通さんけぇ。オドレら、よう覚えとけいや」
 「おお、オンドレらも吐いたツバ飲まんとけよ。ええな。分かったらはよ去 (い) ね!」

 「広島のケンカいうたら、殺 (と) るか殺 (と) られるかの二つしかあらせんので。いっぺん後手にまわったら、死ぬまで先手は取れんのじゃけ」

 ひぇー、シビレるぅ!
 こういう言葉をいっぱい覚えなければいかん。

 ケンカするような相手も、ケンカする理由も見つからないうちから、広島弁の啖呵の切り方を、映画を見て練習した。

 見終わって、近くの居酒屋に入って、コップ酒を飲む。
 酔っぱらうと、
 「おい、兵隊貸せや。今度こそ山越組のタマ取っちゃるきに」
  …なんて、壁に向かってつぶやいている。

 昔、ある高校野球の監督が、試合の前日、高校生たちの闘志をかき立てるために、『仁義なき戦い』 のビデオを見せたという話があった。
 教育委員会にそのことがバレて、監督は処分を受けたらしいが、…でも、なんだかその監督の気持ちも分かる。

 あのシリーズは、どこか男のしぼんだ心臓に 「空気を入れる」 ような魔力を秘めている。
 だだし、「毒ガス」 にもなりうるような空気だ。

 映画の後に入った居酒屋で、会計をすますとき、「おうナンボや?」 とすごんでしまう自分を、何度か発見した。
 店を出てから、いつも首をすくめる。
 「また毒ガスが発火したか…」



音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 23:38 | コメント(0)| トラックバック(0)
<<  2008年 10月  >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
ホビダス[趣味の総合サイト]