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わかれうた

 ええ、こんばんわ。町田です。
 今日の 「Jポップ・クリティーク」 は、恋愛をテーマにした曲として、中島みゆきの 『わかれうた』 を採りあげてみようと思っています。

わかれうたジャケ

 まぁ、「恋愛」 ……。
 いいですねぇ、言葉の響きが。
 どことなくウキウキしちゃいますね。
 
 ですけど、…実はですね、相思相愛の恋愛が成立する可能性というのは、なんと25パーセントしかありません。

 どういうことかと言うとですね、まぁ、男女が出会ってですね、交際を始めたとします。
 しかし、いきなり相思相愛になるか…というと、そうでもないですね。

 片方は好きになったけれども、片方は好きにならなかった。
 …ね。ありますよね、そういうことって。

 それを考えるとですね、男女が出会ってその後どう展開するかは、4パターンの組み合わせが考えられます。

 ひとつはですね、男は好きになったが、女は好きにならなかった。
 もうひとつはですね、女は好きになったんですが、男が好きにならなかった。
 この2パターンで、すでに50パーセントに達します。

 こういうケースもあります。
 最初は両方とも好きになったけれど、途中からどちらかが去っていった。

 この3パターン目を入れると75パーセントになります。

 つまり、男も女が相思相愛の状態を続けられるのは、残りの25パーセントの確率でしかないわけですね。

 ということはですね、恋愛の現場では、その25パーセント以外の人々はなんらかの悲しみ、辛さ、苦しみを抱えているということになるわけですね。
 ラブソングに失恋をテーマにした歌が圧倒的に多いのは、そっちの方が 「当たり前」 だからなんですね。

 これはですね、演歌系に行けば行くほど、振られた者の心境をテーマにしたものが増えます。

 演歌というのは、基本的に 「失恋した後に何をすればいいのか」 ということを定形化した歌なんです。
 「あの人が去って、私は一人酒…」 とかですねぇ、
 「あの女を忘れるために、夜汽車に乗って北へ行く」 とかね。

 「失恋したときにはこうすれば良い」 という行動パターンのスタンダードを教えてくれるのが、演歌なんですね。

 これは、ある意味ですごく助かることなんです。
 恋人を失って茫然自失状態になって、明日から何をすればいいのか分からないようなときにですね、とりあえず 「一人酒でも飲むか…」 とか、あるいは、「夜汽車に乗って北国に行ってみるか…」 とかね。
 まぁ、そういう次のアクションを起こすヒントを与えてくれるのが、演歌なわけです。

 演歌は、そういう元気を与えてくれるという意味で、その存在意義はとても大きいわけですけれど、ある意味で、「失恋」 という貴重な体験を風化させてしまうということにもなるわけです。

 人は、失恋から何かを学びます。

 恋愛というのは、着地点などないかもしれない暗闇に向かって、命がけのジャンプを試みるようなものですから、その恐るべきエネルギーは決して無駄にならないわけですね。
 仮に、奈落の底に真っ逆さまに転がり落ちることがあっても、少なくともジャンプする以前の場所にはもういないわけです。
 失恋したとしても、新しい場所に移動しているんですね。

 それは、もしかしたら 「一人酒を飲んだり」 「夜汽車で旅する」 のとは、まったく違った世界かもしれません。
 だから失恋は、ある意味、「生まれ変わった自分」 と出会う場ともいえます。
 そういう経験は人から学ぶものではありません。

 そういうわけで、優れた失恋の歌は、「あなたは、あなた自身が救うしかないのよ」 ということを言い放つという意味で、あっけらかんとした残酷さを持っています。

 そういう、ものすごく残酷な歌の代表例として、中島みゆきの 『わかれうた』 を挙げてもいいかもしれませんね。

 ええ、ちょっと聞いてみてください。
 なにしろ唄い出しが、「道に倒れて誰かの名を、呼び続けたことがありますか?」 という、まぁ、何ともすさまじい心境を吐露したところから始まります。
 
 それでは、中島みゆきの 『わかれうた』。


 ……………… ( 一番下に YOU TUBE を貼ってみました)

中島みゆき画像

 ええ、なんとも言いようのない暗い歌詞をですね、明るく弾むような歌謡曲調のメロディに乗せて歌った歌ですね。
 このアンバランスさが、この歌のすごみです。
 歌詞をもう一度振り返って見ましょう。


 ……道に倒れて誰かの名を、呼び続けたことがありますか
 人ごとに言うほどたそがれは、優しい人好しじゃありません

 別れの気分に味をしめて、あなたは私の戸を叩いた
 私は別れを忘れたくて、あなたの目を見ずに戸を開けた

 別れはいつもついて来る、幸せの後ろをついて来る
 それが私のくせなのか、いつも目覚めれば一人
 あなたは憂いを身につけて、浮かれ街あたりで名を上げる
 眠れない私はつれづれに、わかれうた今夜も口ずさむ……


 …っていう歌詞ですが、いいですよねぇ!

 中島みゆきという人は、本当に詞を上手に書く人ですね。
 彼女の歌は、「歌」 というよりも、もう短編小説の領域に入っていると思います。

 この歌の中にも、「すごくうまいなぁ…」 と感心させるフレーズがたくさん出てきます。

 たとえば、振った相手の男のことを歌った箇所なんですが、
 「あなたは憂いを身につけて、浮かれ街あたりで名を上げる」
 という部分ですね。

 まず、「憂いを身につけて」 という表現がすごい!
 普通だったら、この男は振った方ですから、自分自身は傷ついていないはずなんです。
 むしろ、鬱陶しい女と別れて、せいせいしているかもしれない。
 なのに、「憂いを身につけて」 いるわけですね。

 これは、どういう憂いなんでしょうか。
 女を捨ててしまったという罪悪感なんでしょうか。
 それとも、すがる女を思い出したときのうっとうしさなんでしょうか。
 どちらとも取れますね。

 まぁ、女をたくさん振ったプレイボーイというのは、どこか憂いを漂わせるものなんですね。
 女性に対してあまり経験がない時は、夢もいっぱいあるわけで、憂いなんか身につける余裕などありません。
 しかし、ある程度いろいろな女性と遊んでくると、だんだん夢というのもなくなってくるんですね。

 で、「女って、みんなそんなもんだよなぁ…」 ってな感じになってくる。
 それがプレイボーイの憂いですね。

 中島みゆきという人は、そういう男の側面をものすごく冷静に観察しているんですね。

 次にですね、「浮かれ街」 という言葉がすごい! 
 歓楽街でもなければ、飲屋街でもない。
 なんとも言えない浮遊感というか、現実性を欠いた夢空間という雰囲気を持った言葉になっています。

 この言葉には、ちょっと中原中也あたりの詩を彷彿とさせるような雰囲気があります。
 あるいはですね、江戸・元禄の遊郭をイメージさせるような、華やかだけれども、どこか 「はかない」 という空気も伝わってきます。
 いかにも、中島みゆきらしい言語感覚の鋭さを物語る造語ですね。

 で、最後にですね、「名を上げる」 という言葉が出てきますが、まぁ、これは 「有名になる」 というような意味なんですが、小説家が 「作品」 で名を上げるとか、あるいは研究者が 「研究」 で名を上げるとかいうのと違って 「浮かれ街」 ですからねぇ、あまりいい意味ではありません。
 そんなところからですねぇ、女を振った相手の男もけっして幸せではないんだなぁ…っていう雰囲気が伝わってきます。

 振った方も、振られた方も、どちらも哀しい。
 そんなニュアンスが伝わってくる歌ですね。

 このようにですね、優れた失恋の歌は、決して自分だけ 「良い子」 にならない…という部分を持っているわけですね。
 ちゃんと相手の立場も歌っている。そういうところから、恋愛を立体的に把握できる構造を持っています。

 普通の演歌がですね、一方的に振られた側の立場に立っているとすれば、中島みゆきはですね、男と女が離れていく時の 「両方の立場」 を見ようとしている…ということなわけであります。

 この歌は、ある意味で残酷な歌ですが、恋愛の構造を浮き彫りすることによってですね、振られた者は次にどうすればいいのか? そのことを自分自身がしっかり考えなければならないような歌になっています。

 ええ、今日は 「恋愛」 をテーマにですね、中島みゆきの 『わかれうた』 を採りあげてみましたが、いかがでしたでしょうか。

 それでは時間となりました。
 また来週。
 お相手は町田でした。


 Jポップ・クリティーク 「そんなヒロシに騙されて」

 ▼ わかれうた


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 23:51 | コメント(4)| トラックバック(0)

記憶の古層

 すべての人間は、「自分は橋のたもとで拾われた子どもではないか?」 という疑問を解消することはできない。
 両親の温かい愛に包まれた幸せな幼年時代。
 そのような記憶があったとしても、それははたして本当の記憶なのだろうか。

 人間の記憶の古層には、自分が意識しているものとはまったく別の記憶が眠っていることがある。
 古層に沈殿した記憶は、日頃 「意識」 の領域に浮上してくることはない。
 しかし、あるきっかけを与えられることによって、今まで封印されていたまったく別の記憶が突然蘇ることがある。

 こんなことがあった。
 同僚が運転するワンボックスカーの助手席に座って、長旅の退屈を持て余し、車内にあった輪ゴムを何気なくよじっていたときのことだった。
 輪ゴムのねじれた場所が、数珠玉のように固まっていく。

 それを見ながら、遠い昔、ヒマを持て余してこんな行為を飽くことなく繰り返していたな…と思っ瞬間、大脳皮質に亀裂が入り、40年間思い出しもしなかった一つの情景が浮かび上がった。

 私は、闇市のような場所にいる。
 露天商がいろいろな物を売っている。
 夕方の太陽が地面に弱々しい陽射しを投げかけている。

夕焼け空1

 その市場の背景には何があるのか。
 何もない。
 異国の砂漠の中で開かれた市場であるかのように、その日最後の夕陽に照らされたぼんやりとした空間が広がっているに過ぎない。 

 私はおもちゃの露天商の前に立って、熱心におもちゃを見ている。
 貧しい時代の貧しいおもちゃが並んでいるが、それは今の時代の感じ方で、そこに立っている私は、様々なおもちゃを揃えた店先の贅沢さに心を奪われている。
 特に、体に突き立てると刃の部分が引っ込んで、あたかも刺さったかのように見えるブリキのナイフのおもちゃに、私は特別な興味を覚えている。

 そのナイフをねだりたいのだが、親の姿は見えない。
 おそらく親が近くで用事を済ませている間、その場所を離れないように…とでも言いつけられていたのかもしれない。

 そのとき、突然、もう二度と親とは会えないのではないかという心細さが襲った。
 自分は、この場所に捨てられたのではないか。
 そう思う不安感と、それとは別に、露天商の店先に並ぶ珍奇な品々の輝きに魅入られている自分がいる。
 別離の予感と、好奇心と誘惑に彩られた孤独な充実感。

 突然脳裏をよぎったその情景は、一瞬の雷光のように、闇に消えた。

 イメージに残った露天市場の情景は、印象からいうと昭和20年代末期といった雰囲気だった。
 年齢でいうと2歳か3歳頃。
 今住んでいる場所に引っ越す前の場所にいた頃だが、その露天商が並ぶ場所がどこなのかは全く分からない。

 もちろんなぜそんな情景を思い出したのかも分からない。
 ねじった輪ゴムの記憶もその情景とは結びつかない。

 ただ、輪ゴムをねじるという単調な遊びが、逆にそれを退屈と感じさせなかった 「黄金の幼年期」 に対するノスタルジーを引き寄せたのかもしれない。


 私たちは、はじめて訪れた場所なのに、ある光景に接して、前にもその場所を訪れたような錯覚に陥ることがある。
 世でいう 「デジャブ (既視覚) 」 。
 人間にそのような心理状態が訪れることを、心理学は解明していない。
 だが、記憶の古層に眠っていた光景が、突然何の前触れもなく現出して、それが今見ている風景に重なることはありうるだろう。

 それにしても、私の意識の届かない記憶の底に、封印されたもう一つの私の世界があるというのは不思議な気持ちにさせる。
 私の幼年期の記憶というのは、後になって親から聞いた話を元にして想像で組み立てられた部分もあるに違いない。
 そのような人為的に構成された 「記憶」 に、自分の想像力が絡まって、実際の記憶とは異なる 「物語」 が創作される。
 そういう可能性は、誰にでもあるはずだ。

 いずれにせよ、幼年期に自分がどんな世界に住んでいたのかは本人にも分からない。 

 正直にいうと、幼少期、私はある国の文物に異常なアレルギーを感じていた時期があった。その国の食事から映画や絵画のたぐいに至るまで、生理が受け付けない。
 それらに接すると嘔吐を伴うくらい気持ちが悪くなるのである。

 その傾向は小学校低学年の時代まで続いた。
 その後次第に解消して、今ではそんなことがあったことすら意識に登ることがないが、たまに思い出すと、なぜそのような反応に苦しめられたのか、今もってその理由が分からない。

 私の幼年時代には、何らかの理由で自ら封印してしまった世界がある。
 それは私の 「恥部」 であり、「魔窟」 であり、「黄金郷」 である。
 その封印を解くことは、もしかしたら 「自我」 の崩壊を導くことになるのかもしれない。

 1980年代に公開された 『ブレードランナー』 では、ある人間の記憶をそのまま移植されて、その記憶を自分のものと信じ込んでしまうレプリカントが登場していた。
 「自我」 というものは、そのようにして、いかようにも人為的につくることができる。

 だから冒頭で言ったように、すべての人間は 「私は橋のたもとで拾われた子なのか?」 という疑問から一生無縁ではいられない。

 本当の自分はどこから来たのか。
 人間存在は、神秘に満ちている。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 23:38 | コメント(0)| トラックバック(0)

ザ・ロード

 自分の子どもが、食料として他人に食べられてしまうかもしれない。
 そんな世界をさまよっている父親は、どう子どもを守ればいいのか。

ザ・ロード表紙

 『ザ・ロード』 というこの小説は、そういう極限状況を生き抜く父と子のすさまじい生存記録だ。
 舞台は、町も野山も壊滅的な被害をこうむった近未来の地球。
 厚い雲に覆われた地上には、日の光りが射すこともなく、空を飛ぶ鳥の姿もなく、地を這う獣の気配もない。

 核戦争でも起きたのか。
 あるいは巨大隕石などが地球に衝突し、地球環境そのものが劇的な変化を遂げたのか。
 それは、いくら読み進めていっても、なかなか読者には明かされない。

 ただ描かれるのは、焦土と化した街。
 呼吸する生物の気配が絶えた森。
 食べ物を探してさすらう生き残った人間たちの悲惨な姿。

 すでに 「人間」 であることを放棄し、人の死肉を奪い合い、妊娠した女性の胎内から取り出された幼児を、鍋で煮てむさぼる人々。
 しかし、それすらも食い尽くすと、やせ衰えた生存者たちは、やがて動く気力も蝕まれ、路上に身を横たえる骨となっていく。

 主人公である父と子は、そういう地獄をさすらいながら、ひたすら 「南」 をめざす。

 南には何があるのか。

 何があるのか、それすらも分からない。
 ただ、刻々と寒冷化していく北半球にとどまっていれば、そのまま凍え死ぬことだけは分かっているからだ。

 2人が食べるものはどこから手に入れるのか。
 町全体が廃墟と化した民家にもぐりこみ、家屋の中を捜索し、秘密のシェルターに隠された缶詰などを探し出す。
 あるいは、納屋の隅に残された、黒ずんだ籾殻などを煮る。

road1

 焚き火をする場合は、人から炎が見えない安全な場所を探し、弾丸が一発しか残されていない銃を握り締め、狩人の姿を恐れる野生動物のように、つかの間の眠りをむさぼる。

 雨の降りしきる漆黒の闇のなかで、防水シートにくるまりながら、父親は寝息を立てる息子の身体をそっと抱きしめる。
 「お前は俺の心だ」

 人が人を 「食料」 としてしか見ないおぞましい世界を見つめながらも、息子は他者のへ 「愛」 を忘れない。

 「ねぇ、あの人食べるものがないんだよ。あのまま放っておいたら死んじゃうんだよ。パパ、あの人に少しだけ残った僕の缶詰をあげてもいい?」

 わずかに生き残った生存者は、子どもからみれば、みな 「同僚・隣人」 なのだ。
 そのけなげな優しい心は、父親にとっては気高いものだと分かる。

 しかし、大人の理性はそれを否定しなければならない。
 「その缶詰をあげても、やがてあの人は死ぬ。そして、あげてしまった僕らは、あの人よりも先に死んでしまうんだよ」

 子どもを襲おうとしたチンピラを、銃で脅して子どもを取り戻した父親に、子どもは叫ぶ。
 「パパ、撃っちゃだめだよ。あの人を殺さないで」

 ようやくたどり着いた海岸。
 灰色の波。
 死んだ砂。
 すでに海中にも生物の影が見えない。

 「海の向こうには、僕たちみたいな善い人たちがいるかな?」
 「いるよ、決していないわけがない」
 「パパは嘘をついていない? 本心で言っている?」
 
 少しずつ距離が生まれつつある親子の関係。
 お互いに、かけがいのない存在であると知りながら、人間の優しさを信じる息子と、生きるためには他者を切り捨てなければならない父親の気持ちの間に、音のない風が吹いていく。

 この2人の静かな葛藤は、最後の最後に答えを示す。

ザ・ロード表紙2

 『The Road ザ・ロード』 (早川書房)
 原作は、映画 『ノーカントリー』 の原作を書いたコーマック・マッカーシー (黒原敏行訳) 。

 週刊誌のコラムで、椎名誠氏が絶賛していたのを知って、読む気になった。
 無人島などでアウトドアを楽しむ椎名氏が、いかにも好みそうな小説だと思った。
 乏しい物資を工面しながら、それを生活道具として作り上げていく父親の創意工夫が面白い。 『ロビンソン・クルーソー』 のようなサバイバル小説の味わいがある。

 それと同時に、「人間の誠意」 、「隣人への愛」 という概念のもろさと強さが同時に問われる哲学小説のおもむきも備わっている。
 刻一刻と死に絶えていく地球の荒涼たる描写は、今ある地球がどれほど美しいものであるかも教えてくれる。

 
音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 14:08 | コメント(0)| トラックバック(0)

Dr.バルトリン

 学生時代に少しだけバンドを経験した。
 バンド名は 「ドクターバルトリン」 。
 その由来は、ここには書かない。卑猥な意味を、高尚めかしてうやむやに誤魔化した名前とだけは言っておく。

 ギター、ベース、ドラムスにツインボーカルという変な編成だった。
 私はドラム。
 …といっても、おかずを入れると、その後のリズムが狂うという、なんとも情けないドラマーだったので、ただひたすらハイハットとスネア、バスドラの3点だけをこぢんまりと叩き続けていた。トップシンバルとサイドシンバルにスティックが落ちるのは、演奏の最後だけ。
 もちろんドラムソロなんて、一度も回ってこなかった。

 演目は、徹底してザ・ローリング・ストーンズのコピーですませ、1曲だけ、ジミヘンの 『パープル・ヘイズ』 を混ぜた。

ストーンズ1

 ステージでは 『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』 に始まり、『サティスファクション』 、『ホンキートンク・ウィメン』 、『ペイント・イット・ブラック』 などストーンズの一連のヒット曲を演じて、『パープル・ヘイズ』 がフィナーレ。

 学祭、ライブハウス、市民公会堂などで演奏を行ったが、客は全部身内だけ。
 それも、みんな冷やかしとからかいのためにやってくる。
 だから、スタンディングオベーションがすなわちブーイング。
 演奏にトチると盛大な拍手。
 「上手い」 と信じて、乗って楽しんでいたのは、自分たちだけだった。

 そもそも、ミック・ジャガーという傑出したボーカリストがいるバンドのコピーを、ツインボーカルでやるというのが変な話だ。
 これには意味があった。

 ヴィジュアルで見せるボーカルと、本当に声を出すボーカル。
 ヴィジュアルパートを演じたのは、亀和田武という青年だった。
 高校時代に 「ジュリー」 というあだ名をもらっていたという彼は、確かに、顔の輪郭と髪型だけは、当時の沢田研二に似ていなくもなかった。
 笑うと、大きめの口がにっと広がる感じは、ちょっとミック・ジャガー風。

 その 「ジュリー・ジャガー」 がおヘソを出した赤い半袖セーターに、バラの花を口にくわえ、タンバリンを腰に振り当てて、妖艶なパフォーマンスを繰り広げる。
 が、マイクはアンプにつながっていない。

 で、もう一人の男が、本物のボーカルをつとめる。
 こちらは筋骨隆々とした勤労青年風。歌がうまくて声も野性的だが、ヴィジュアル系には少し距離がある。
 足して2で割ると、ちょうどよかった。

 もちろん、仲間内の観客は、どちらの声がアンプから流れようが、からかう相手が舞台で派手に暴れくれればいいわけだから、そんなことには頓着していない。

 演奏が始まると、いきなりフィナーレを迎えたかのように、紙ふぶきが舞った。

 「ドクターバルトリン」 は、卒業とともに自然解散になった。
 ライブを撮った8ミリがどこかに残っているという話もあったが、仮に出てきても、怖くて聞く気にならない。
 自分の耳に残っている 「名演奏」 を反芻するだけで十分。

 たぶん、当時の仲間たちも、それぞれ心の中の 「名演奏」 を大事にしたまま生きているのだろう。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 20:37 | コメント(2)| トラックバック(0)

ブログ論壇の誕生

 『ブログ論壇の誕生』 (佐々木俊尚著・文春新書) という本が、9月20日に出された。

ブログ論壇

 その前書きによると、
 「いまや論壇は、雪崩を打つような激しい勢いで、インターネットの世界へと移行しはじめている」
 という。

 このような、ブログやネット上の掲示板を使って、政治や社会を論評する動きが 「論壇」 と名付けられるほど充実してきた裏には、いったいどのような背景があったのか。
 本書は、そのブログ論壇をリアル世界におけるジャーナリズムと対比させながら、その本質、可能性、問題点などを一つずつ浮き彫りにしていく。

 著者によると、ブログ論壇での討議は、その発言がほとんどがペンネーム (ハンドルネーム) で行なわれるところに特徴があるという。

 すなわち、この 「論壇」 においては、ウェブ上に表現された言論だけがすべてであり、発言者の肩書きや世間的評価、私人としてのキャラクターなどはまったく問題にならない。
 そのため、ネット上においては、マスメディアが今までタブー視してきた社会問題などに関しても、さまざまな立場から積極的な意見交換がなされるようになり、新しい討議テーマが今までなかった切り口で、テンション高く語られるようになった、というわけだ。

 このようなブログ論壇の興隆は、マスメディアの 「前衛」 を自負していた新聞社のプレゼンス (存在感) を、相対的に低下させることになった。

 もともと、新聞は以前からインターネットの普及の前にあえいでいた。
 幾何級数的に膨れ上がっていく現代社会の情報量に対し、すでに新聞はパッケージングの限界に達していたからだ。
 しかも、ネットから得る情報は無料だが、新聞は有料。
 そうなると、ビジネス的にも新聞は苦境に立たざるを得なくなる。

 それでも、新聞側には、まだオピニオンリーダーとしてのアドバンテージは揺るがないという自信があった。
 その自信を支えたのは、自分たちは一般大衆とは異なる知識・教養レベルを保持した知的エリートであるという意識だった。

 後に新聞社側も、遅ればせながらネット社会に参加するようになったが、その情報配信姿勢は、あいかわらず 「読者に有意義な情報を与える」 という一方通行的な知識の授与にとどまるものであり、ブログ論壇側はこの新聞社の “上から目線” に激しく反発した。

 「ネットによる論壇の特徴は、編集権を読者に委ねるというところにある」
 と、著者の佐々木氏は強調する。

 つまり、ネットという言論空間は、ひとつの事件を報道として採り上げる場合でも、それをどのように展開し、どう結論づけるかは、すべて読者の手に掛かっているというのである。

 そこには、知的エリートである編集のプロも、大学教授のような有識者も関与する余地がない。
 彼らにできるのは、論壇に参加する1個人として意見を述べることだけであり、その意見が一応の 「結論」 として説得力を持てば、ひとまず討議に終止符は打たれる。
 しかし、大半の場合はそうならなくて、その意見に対するさらなる質問、反論、共感などのコメントが連鎖的に続く。

 読者は、意見・反論・質問・再反論などのさまざまな言論の中から、自分の考えに近いものを得て納得する場合もあるだろうし、さらに疑問が深まれば、そこに自分の意見を書き込むこともできる。
 ブログ論壇の人々が、「これこそ本当のジャーナリズムだ」 と思うのも当然であろう。

 このように、ネット論壇の参加者は、ウィキペディアのように、参加者の 「集合知」 によって真実に迫るという共通認識を持っている。
 そこに著者は、この 「論壇」 の新しさと普遍性を見ている。

 著者によると、このブログ論壇の中軸を担っているのは、主に 「ロストジェネレーション世代」 といわれる人たちだという。
 すなわち1970年代に生まれ、就職氷河期を堪え忍び、格差社会にあえいできた世代である。
 彼らは社会的には弱者でありながら、ただひとつ、インターネットを自由自在に操ることができた。

 そのネット空間で鍛えられた彼らのデータ分析力とロジック構築力は、社会や政治への論考・分析に限っていえば、いまや既成のマスメディアを代表する新聞レベルを凌駕しているという。

 彼らと既成のマスメディアの対立軸は、ネットの本質を理解しているかどうかという点から発し、ネット論壇の可能性を理解できない 「団塊の世代」 への敵意へと発展する。

 たとえば、ライブドア事件などが起きると、団塊世代を中心とした既成メディアの言論者は、すぐに 「マネーゲームに奔走するヒルズ族」 という定型に落とし込んで揶揄するだけで、あの事件が日本に何をもたらしたのかを深く掘り下げることもなく収拾してしまう。
 発信した言論に対する疑問や反論が返信される回路を既成のメディアは持っていないから、それ以上の思索を進めることができない。

 また、格差社会の雇用問題についても、若者の離職率が高いというようなテーマになると、大半の団塊世代は、
 「今の若者は我慢することを知らない。誰もが清潔な職場で、仕事が楽で、給料が高くて、転勤がない職場を望んでいる。そういう条件で職場を探すから就職先が見つからないのだ」
 というように、若者の耐性の弱さを指摘することで終止符を打とうとする。

 ネット空間の、それこそ容赦ない言論の飛び交う中で揉まれてきたブログ論壇の参加者たちから見ると、そのような言説は、怒りを通り越して憐憫を誘うほどプアな認識に見えるらしい。

 このように、本書は興隆しつつあるブログ論壇の可能性を高く見積もるものであるが、同時に、その弱点への言及も忘れていない。

 そのひとつが、「匿名性」 の問題。
 ハンドルネームにおける言論の提出は、肩書きや社会的地位に関わりなく、誰もが公平に討議の世界に参加できる下地をつくったが、反面、討議の場が感情的な誹謗中傷や「荒らし」に偏ったときの是正もできない。

 日本には、問題について常に討議して解決策を考えていくというディベート (討議) 文化が欠落しているため、議論で対立すると、「バカにされた」 と感情的になり、ロジカルな討議を続けられなくなってしまう人が多い、と著者はいう。
 そこをどう解決するか。

 また、ネット論壇を担うロストジェネレーションは、日本の戦後社会の喪失期に育った被害世代であり、弱者階層であるという認識が蔓延しているため、どうしてもその言説にマイノリティ意識が浮上してしまう。

 そこがリアル世界のマジョリティから見たときに、「言説は正しく思えても、その心情には共感できない」 という意識のズレを生み出す。

 著者は、彼らのマイノリティ意識が克服されたときに、ブログ論壇がはじめて公共圏へと昇華する日が来る、と結論づける。

 ブログを書いている人間にとっては、なかなか刺激になる本であったが、ここではその全体像を紹介するには至らなかった。
 ここで 「著者の自説」 として採り上げた記述は、この本で展開されているテーマの一部分にすぎず、しかもその大半は、著者の記事の引用というよりも、紹介者の言葉に置き換えてしまったものである。

 だから、もしかしたら著者の伝えたかったテーマをミスリードしている部分があるかもしれない。
 そのことはあらかじめお断りしておきたい。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 22:47 | コメント(0)| トラックバック(0)

七歳までは神の内

 一番最初にお化けを見たのは、3歳ぐらいのときだった。
 いま住んでいる町に越してくる前。
 古びた町の古い一軒屋の中で、両親と伯母と4人で暮らしていた頃だ。

 一軒屋といっても、今の感覚でいえばスラム街のバラック。 
 柱はみな黒塗りながらハゲだらけ。わずかに広がる庭に面した縁側は敷き板が腐りかけ、その隙間から下の地面が見えていた。
 庭には茫洋と雑草が生い茂り、いつも荒野の風にさらされているようだった。

 しかし、当時はみんなそんな家屋に住んでいたので、うちだけが貧乏というわけではなかった。

 間取りは6畳ほどの居間と、父親の書斎兼応接間。
 あとは、床が抜けそうに頼りない板敷きの台所。

 台所では、そこだけは“文化的”ともいえるタイル張りの流しの上を、しまりの悪くなった水道栓から漏れる水のしずくが、ぽたりぽたりと眠そうな音を立てていた。
 
 娯楽はラジオぐらいしかない時代。
 それも深夜などにはもう雑音すら入らない。
 ラジオが終わると、居間に布団を敷いて、みんな一斉に寝る。
 静かな夜の時間が長い暮らしをしていたのだと思う。
 
 夜中に目が醒めた。
 小さな裸電球の灯りの下で、両親と伯母の立てるかすかな寝息が部屋の底に澱んでいた。
 
 一人起きているのは寂しいので、また眠ろうと思い、目をつぶる。
 しかし、眠気は遠くに去っている。

 気配を感じた。

 4人しかいない部屋の中に、何かが潜んでいる気配が漂っている。
 生きているものが発する気配ではない。
 闇の底から、空気の裂け目をぬって這い上がり、そっとたどり着いたものが、この部屋にいる。

 思い切って目をあけると、カビで煤けたような天井板の木目がゆっくりと輪を描き始めていた。

 その輪が、海峡の渦巻きのように次第に勢いを増してくる。

 怖くて、布団を口元あたりまで引き上げた。
 もう眠れない。

 思い切って、また目を開ける。
 異変など何も起こっていないことを確認するつもりで、ことさら目を大きく見開いた。

 木目の渦巻きは、今や天井全体を飲み込みそうだった。

 隣りに寝ている母親を起こそうかと迷った。
 しかし、体が硬直して、声が出ない。

 そのとき、部屋の奥に置かれた箪笥の上から、手が伸びた。
 老人の皮膚に似た枯れた木立のような腕が、箪笥と天井の隙間からするすると伸びてきて、こっちに向かって 「おいでおいで」 を始めたのだ。

 揺れる腕は、あたかも渦巻く天井に上がって来いとでもいわんばかりに、しつこく私を誘ってくる。

 絵本などでお化けの話をさんざん聞かされたりしたが、よもや本物に遭遇するとは思ってもいなかった。
 童話では、こういうとき、魔物を退散させるための呪文を唱えることになっている。

 しかし、自分はその呪文を覚えていない。
 あの手が、寝ている自分のところまで迫ってきても、それを追い払うすべがない。

 もう目をつぶることができない。
 目を閉じれば、すぐにも自分はその腕に抱きすくめられ、どこか知らない世界に連れて行かれることは必至であるように感じられたからだ。

浮世絵お化け

 でも、いつのまにか寝た。
 眠ることができたのは、極度の恐怖で神経が消耗しきったからだと思う。

 あのときほど、朝の到来がありがたく感じられたことはない。
 朝日が部屋に差し込む平凡な日常が始まり、私はようやく胸をなでおろすことができた。

 「入眠時幻覚」、あるいは「脳内物質の代謝異常」。
 今なら、そんな言葉で自分を納得させることができる。

 知覚訓練が十分になされていない幼児のやわな神経がもたらせた一瞬の幻影であることは分かっている。

 しかし、箪笥の上から伸びてきた枯れた腕のなまなましい映像は、いまだに脳裏から消えない。
 
 昔は、「七歳までは神のうち」 という言葉があった。
 それほど、幼児の死亡率は高く、無事に成人することが 「祝い事」 の対象となるような時代を、人類は長く持った。

 七歳までの生命をまっとうし得なかった子どもたちは、みな天井から伸びてくるあの枯れた腕に抱きすくめられたのだろうか。


 怖い話 「PAの怪異現象」
 怖い話 「ナビを信じるな」
 怖い話 「怖い話」
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 23:02 | コメント(2)| トラックバック(0)

ランキングアップ

 世界のブログの中で、いちばん多く使われている言語は日本語だという。
 インターネットユーザーの人口では、アメリカ、中国、日本の順番になるが、ブログ人口となるとこれが逆転。
 日本語による投稿は全体の37パーセントを占め、アメリカ、中国を抜いて順位では日本が1番になる。 (2006年度調査 ・ 『ケータイ小説のリアル』 より)

 それだけ今や日本は 「ブログ大国」 。30代前半より下の世代になると、5人に1人はブログを持っているともいわれている。

 ただ、個々のブログのアクセス数となると、まだそれほど多くのブログのアクセス数は上がっていない。
 (もう旧聞だけど) iMiサーチバンクが、08年5月に発表した 『ブログに関する調査』 の結果によると、ブログ全体のうちの75パーセントのブログは、1日の平均アクセス数が50件以下であり、1日あたりのアクセス数が500件を超えるブログというのは、2.3パーセントでしかないのだそうだ。
 
 500件を超えて、それこそ2,000件、3,000件ともいうアクセス数を誇るようになると、グーグル、ヤフーなどの検索エンジンでも、その記事が上位ランキングされる可能性が高くなる。

 そのせいか、ネットなどを見て回ると、「ランキングアップ」 のノウハウを公開したサイトがやたら目につく。
 企業系ブログでは、やはり検索エンジンの上位にエントリーが掲載されることが販売促進にもつながるため、「ランキングアップ」 は無条件に至上のテーマとされる。

 また、個人ブログにおいても、多くのブロガーは自分のブログの読者を少しでも増やし、より多くの人に自分の趣味なり意見を理解してもらって共感の輪を広げたいと思っているだろうから、ランキングアップには関心があるだろう。

 そのためSEO (検索エンジン最適化) 対策というビジネスが確立され、いかにしたら自社情報が上位ランクされるかというノウハウが事細かに公開されていたり、またそれを詳述した書籍の紹介がなされている。

デスク1

 『町田の独り言』 というこのブログも、個人の勝手なつぶやきを “きばらし” 的に書きつづった風を装いながら、もとは企業戦略ブログのつもりで立ち上げたものなので、検索エンジンの上位ランキングということを、まったく意識しないわけではない。

 だけど、SEO関係のネットを読みあさってみると、ことごとくそういう貴重な情報を生かしていないことが分かった。

 まず、アクセスを増やす必須条件として、
 「キャッチされやすいキーワードをタイトルに持ってきたり、記事の上の方に載せること」
 などということが書かれている。
 そのために、その狙ったキーワードを記事中にどれくらいの配分で盛るかという決まり事さえあるようだ。

 おっとっと…。最近まで、そんなことを意識していなかった。

 次に、
 「他のブログにこちらからリンクを張ったり、相手からもリンクを張ってもらうように “人脈づくり” にも精を出すように」
 というものもあった。

 ふぅーむ…。
 いまだに 「トラックバック」 なる概念もしっかり掴めていないので、こいつも盲点であった。

 グーグルなどの検索ランキングでは、上位ランクに上げてよいものの判断基準として、張られたリンクの多さを見ているらしいから、これはかなり有効な手法らしい。
 でも、アクセス欲しさに、ちょくちょくいろいろなところに出向いてトラバ張るってのも、ちょっとさもしい気がするし…。
 あれは、やっぱり相手への友好の証であるべきだろう。

 また、
 「ブログの記事には一貫してメリハリの利いた主張を盛り込み、文体も用語も統一して、オリジナリティを確立する」
 といった意味のことを強調した記事もあった。

 これもまったく出来ていない。
 その日によってテーマも文章タッチも変えて楽しんでいたので、「一貫したオリジナリティ…」 とか言われても、考えるだけで面倒くさくなる。

 そのほか、かなりランキングアップに関する高度で専門的なノウハウがいろいろあるようだが、そういうことを公開した記事はウェブ系のテクニカルターム満載なので、まず何が書いてあるか自分には見当もつかない。

 どうやら、企業系ブログの書き手には、自分は向いていないようだ。

 まぁ、テキトーに自分がその日面白いと思ったものを、気の向くまま書くしかないと思っている。

 そうやって、映画や本や音楽などに関して、単なる思いつきで書いたレビューが、案外 Amazon の紹介や Wikipedia の解説と並んで、グーグルなどのトップページを飾るときもある。
 瞬間でしかない場合もあるが、そういう光景を眺めると、なにがしかの達成感はある。
 
 ブログは何のために書くか。
 結局は、自分がそれを 「楽しむ」 ためとしか言いようがないのではないか。

 …とか書いたら、今日のブログが完成した。
 皆様、お手軽でスミマセン。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 22:01 | コメント(6)| トラックバック(0)

ヒロシに騙されて

 ええ、こんばんわ。町田です。
 毎週、Jポップシーンをおちょくりとからかいで語ってきた、この 「マチダのJポップ・クリティーク」 ですが、今日はサザンにスポットを当てたいと思います。

 とにかく、Jポップシーンでは、サザンオールスターズの活動休止の話題で持ちきりなんですが、今日はちょっとですねぇ、彼らのヒット曲の中でも、特にわたくしめのこだわりの1曲をご紹介したいと思います。

サザンオールスターズ

 なにしろ、サザンの活動は30年にも及ぶわけで、その間に放ったヒット曲の流れは、まさに日本のポップシーンの歴史を構成しているといっても過言じゃないでしょうかね。

 一番人気は 『TSUNAMI』 らしいですな。
 『いとしのエリー』 もいいところ来てますね。
 『渚のシンドバッド』 もあいかわらずの人気のようで。

 まぁ、皆さんそれぞれお好きな曲があると思うんですが、わたくしめのお気に入りは、ちょっと主流から外れてですねぇ、『そんなヒロシに騙されて』 。

 80年代に桑田佳祐さんが作って、原由子さんが歌ったものですが、特に良いのは高田みづえさんのカバーなんですね。
 これが妙に歌謡曲チックで、原曲の独特の雰囲気をうまく伝えてくれます。

高田ミズエ

 で、この歌。
 これがですねぇ、わたくしめには、とても粋で、遊びの精神に富んでいて、もう文句のない1曲なんですな。

 それではちょっと聞いてみてください。

 桑田佳祐・作詞作曲、高田みづえによる 『そんなヒロシに騙されて』 。

 ……………… (一番下にYOU TUBEが貼り付けあります)

 ええ、いかがだったでしょうか。
 これはねぇ、もうメチャクチャ粋な歌であります。
 すごく洗練された遊びのセンスが発揮されています。
 
 「ダサかっこよい」
 
 もし、そんな言葉があればですねぇ、まさにこの曲に捧げていいと思いますね。

 どういうカッコよさか。

 まぁ、全編これパロディといっていい作りなんですね。

 まずサウンド。
 60年代にベンチャーズとか、シャドーズとかね、スプートニクスとか、大エレキブームがありましたけれど、もう、そのエレキサウンドのエッセンスがですねぇ、すべて凝縮されている音ですね。

 まったく今のギターの音ではありません。ペナペナペナという薄紙を鳴らすような、まったく軽薄な音なんですね。
 当時これがすごくカッコよかったわけですけど、いま聞くと、頭のワルソーな音に聞こえますよね。
 この頭のワルソーな音がですね、実に歌詞とぴったりシンクロしています。

 徹底的に軽薄に…。
 そういう感じで歌詞が作られているんですな。
 そこがお洒落れですよねぇ! ものすごくダンディーな遊び心の発露を感じます。

 で、歌の中に出てくるヒロシが素敵です。
 もうホントに、勉強はからっきしダメだけど、踊りと女の子を口説くのだけが上手という、…ね、そんな男の子、必ずクラスに一人か二人はいたんじゃありませんか?

 それに騙されちゃう、やっぱり頭のヨワーイ女の子。
 もう典型的な、それこそ絵に描いたようなダメガキたちの日常の一コマが表現されています。

 で、歌詞がメチャメチャですね、この歌は。
 まず唄い出しは、こうです!

 「お前が好きだとぉ、耳元でいったぁ、そんなヒロシに騙されぇ、渚にたたずむ…」。

 いきなり何の脈絡もなく、「渚」 です!
 海、青春、失恋。
 ね! そういうあくびの出そうな類型的なパターンをですねぇ、いきなり冒頭からカマしてくる。
 そのオチャラケの精神がしたたかです。

 「踊りが上手でぇ、ウブな振りをしたぁ、そんなヒロシが得意なぁ、エイトビートのダンス…」。

 エイトビートのダンス!
 これ、どういうダンスなんでしょうね。

 実際ディスコで踊るダンスを、いちいち 「エイトビートのダンス」 なんていいませんよね。
 音楽をちょっと知っている人間なら、かえって恥かしくて、ポロッとはいえません。
 でも、そこを強引に、ためらいもなく押し通しちゃう。
 その臆面のなさ。
 ここが桑田さんの真骨頂であります。

 だいたい桑田佳祐さんの歌詞は、単なるノリで作っているというテキトーさが売りなんですね。
 実際はですねぇ、かなり苦労して作っていると思います。
 しかし、そういう苦労した感じを全く表に出さない。そこが粋ですね。

 で、次。
 サビの部分ですね。

 「泣いたりしたらいけないかもねぇ。ディスコティックは夜通し熱い。だからぁ、一言ください。恋のゆくえはメランコリー…」 。

 これ、すごい歌詞ですよね! 突拍子もなく、
 「恋のゆくえはメランコリー…」 。

 メランコリーというのは、憂鬱とか憂い (うれい) というかいう意味で、どちらかという “文芸モード” の気取った言葉なんですが、そういう言葉が、この軽薄で楽しいサウンドに乗って出てきていいものか。
 ハチャメチャですね!
 
 そのミスマッチ感覚が素晴らしいんですね。
 徹底的に遊びまくっている。そんな感じですよね。

 その次も絶妙です。

 「だからぁ、お前は素敵だぁ。愛が消えていく横須賀に…」 。

 「お前は素敵だ」 といっておきながら、「愛が横須賀に消えていく」 。
 「素敵なら消えるなよ」 …と突っ込みたくなる文脈無視!
 もうカルチャーショックで頭がクラクラしそうです。

 次もすごいですよぉ!

 「小粋なリードで私を誘ったぁ、あんな男が今さら許せるでしょうか。
 二人の仲は永遠だもの。ジュークボックス、鳴り続けている。
 だから彼氏に伝えてぇ、口づけだけを待っている。
 胸の鼓動が激しい。サイケの夏を横須賀でぇ…」 。

 いやぁ、お見事ですなぁ!

 「あんな男が今さら許せるでしょうか」 。
 そういっておきながら、「胸の鼓動が激しい」 。

 ね、この女の子は、果たして騙されているんでしょうか?

 タイトルは 『そんなヒロシに騙されて』 ですけれど、実際は、『そんなヒロシに憧れて』 …ですよね。
 まさに、これは恋の渦中にいる女の子の歌なわけですね。

 で、この歌はですねぇ、歌詞をたどっていくとハチャメチャなんですけど、気分で聞いていると、実にリアルであります。
 要するにですね、危ない男の子に惚れて、スリリングな恋を始めた女の子の気持ちを、ものの見事に捉えています。

 最後の決めの文句がふるっています。

 「サイケな夏を横須賀で…」
 
 サイケな夏! 
 どんな夏なんでしょうね。

 この歌がはやった80年当時はですね、もうサイケという言葉は死語だったんですね。
 恥ずかしくて使えない言葉だったわけですが、その言葉で堂々と締めくくるというところに、桑田さんの不敵な遊び心を感じることができます。

 というわけで、『そんなヒロシに騙されて』 …でした。

 横須賀を舞台にした不良の歌ってのは、実に魅力的なものがたくさんありますね。
 クレイジーケンバンドの 『タイガー&ドラゴン』 なんてのも、そのひとつですね。

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 あるいは、ダウンタウンブギウギバンドの 『港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ』 なんてのも、そのひとつに加えていいですね。
 横須賀って、きっと作詞家たちの想像力を無類に刺激する土地柄なんですね。
 
 そんなわけで、今日は桑田さんの純度100パーセントの遊び心がふんだんに盛り込まれた 『そんなヒロシに騙されて』 を皆さんといっしょに楽しんでみました。
 
 ではまた来週。
 お相手は町田でした。

 Jポップ・クリティーク 「わかれうた」

 ▼ そんなヒロシに騙されて

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 22:32 | コメント(7)| トラックバック(0)

自転車の時代

 日本の人口当たりの自転車保有台数は、1.5人に1台。欧米主要国との対比においては、3位だという。
 ちなみに1位はオランダで、0.9人に1台。
 2位はドイツで、1.3人に1台とか。
 03年の調査らしいので、今はこの数字に変動が出ているのかどうか分からない。

自転車image1

 ただ、昨今のガソリン価格の高騰をきっかけに、自動車の使用を控えて自転車に切り替えるということが、世界的規模で進行しているようだ。

 人々のこのような 「クルマ離れ」 は、自動車産業に携わる人々にとっては深刻な問題かもしれない。

 だが、背に腹は替えられないという消費者は、「クルマ」 から 「チャリ」 へのシフトを開始している。
 現に、キャンピングカーを売らなければならない販売店のスタッフでさえ、ガソリン代が高騰したことをきっかけに、自分は 「自転車通勤に切り替えた」 という人がいる。

 通勤時間は倍以上増えて、1時間。
 しかし、「通勤コストも下がるし、健康にもいい。景色をゆっくり眺められるので、四季の変化にも敏感になった」 という。
 そのスタッフは、自転車通勤によって新しいライフスタイルを見つけたようだ。

 ガソリンを消費しないローコストな交通手段として、自転車はこれからますます見直されていくことになるだろう。

 だからといって、「自動車旅行」 がすべて 「自転車旅行」 に切り替わるということはあり得ない。
 遠隔地への旅は自転車だけではまかないきれるものではなく、どこかでクルマに頼らざるを得なくなる。

 そうなると、「キャンピングカー + チャリ (自転車) 」 というのが、にわかに理想的な旅行スタイルとして浮かび上がってくる。
 そう、「キャンチャリ」 ね。

自転車image2

 キャンピングカー購入時のオプション装備品として、サイクルキャリアは昔から人気商品のひとつだ。
 さらに、大型外部収納庫を擁するキャンピングカーの場合は、キャリアなしでも車内に自転車を収納することができる。
 中には、バイクまで収納できるほどの大型収納庫を擁したものもある。

アドリア670sp外部収納

 バンコンクラスでも、リヤゲートを開ければ自転車の積み降ろしが可能なクルマがいっぱいある。

自転車image3

 電車を使った観光旅行では、自転車の携帯がままならない。
 観光先でレンタサイクルなどを借りればコストもかさむし、行った先々にレンタサイクルが用意されているとは限らない。

 そうなると、「キャンピングカー + 自転車」 という組み合わせは、実に合理的である。

j自転車image5

 スロートラベルが話題になっている時代。
 気に入ったキャンプ場などを見つけてそこに長期滞在し、観光や食材の買い出しは自転車で行うという旅のスタイルは、いかにも今の時代にマッチしている。
 すでに、それを当たり前のように実行しているキャンピングカーユーザーはたくさんいる。

 先ほどの元データの供給先であった 「朝日新聞」 (9月22日売り) によると、日本は、人口当たりの自転車保有台数は3位であっても、インフラ整備では自転車先進国にはるかに及ばないほど遅れているらしい。
 自転車と歩行者をうまく仕分けするレーン整備もほとんど進まず、車道を走る自転車を自動車から保護するようなシステムづくりも行き渡っていない。

 しかし、インフラ整備が遅れているのは主に都市部で、地方における自転車道の整備は着々と進んでいるようだ。

 国交省では73年度から自治体を支援して、山中や川沿いなどに自転車道3,500kmを整備し、さらに現在は、300億円かけて全国の自転車道と自転車レーン計200km整備する計画が実現過程にあり、今後10年で1万kmの自転車道ができあがる。

 つまり、「キャンピングカーに自転車を積んで “地方” を旅しよう」 という時代が来たのだ。

自転車image4

 現に私の交通手段は (乗用車を息子に持っていかれてしまったため) 、今はキャンピングカー1台と自転車1台である。
 幸い、公共交通機関の発達した都会に住んでいるため、その二つがあればもう十分であることが分かった。 

 今、欲しいものは通勤に使うための新しい自転車。
 だが、再び昔のレコードを聞きたくなっている自分としては、ターンテーブル付きの新しいオーディオも欲しいし、パソコンも新調したい。

 エネルギーの無駄づかいを諌めるエコの時代が来たといっても、人間の物欲はなかなか変化しない (ポリポリ…)。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 16:16 | コメント(14)| トラックバック(1)

シンレッドライン

《 昔の映画の現代的鑑賞法 13 》
「 シン・レッド・ライン 」 (1998年)

シンレッドラインDVD

 この映画では、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸してから日本軍基地を壊滅させるまでの、太平洋戦争末期の数週間が描かれている。
 しかし、大半の戦争映画と違い、そこには人間の戦意を高揚させるような勇壮さも、アクション映画の爽快さもない。

 画面を埋めるのは、撃たれてカエルのようにのたうち回るおぞましい兵士の肢体。
 自分に迫った死を運命として受け入れることのできない、死にゆく者の断末魔の表情。

 「祖国のため」 とか 「正義の実現」 といった戦いを支える題目から見放され、ただの屠殺場と化した戦場で死にゆく兵士たちの姿が驚くほど淡々とした筆致で描かれていく。

シンレッドライン1

 この映画を観ていると、戦場の中心部というものは 「動き」 のない世界だということが分かる。
 ただ地面に身を伏せ、ひたすら頭上の弾丸をやり過ごす兵士たち。
 そして立ち上がったときに無慈悲に襲う突然の死。

 生きている者は地を這い、立ち上がる者は死者となる。
 よって、弾丸の飛び交う戦場に 「動く者」 はいなくなる。


 一種の 「反戦映画」 といってもかまわないが、制作者の意図は 「反戦」 をメッセージ化することよりも、戦場の現実をリアルに提示するというところにありそうだ。

 また、やたらと 「独白」 が多いのもこの映画の特徴だ。気がつくと、必ず誰かが画面の隅でそぉっと囁いている。

 「自分の母は死を前にしてもたじろがなかった」
 「人間はただの土くれに過ぎない」

 それらは、たぶん戦闘中の兵士の頭をよぎる 「つぶやき」 なのだろう。
 この内省的な 「つぶやき」 のせいで、この映画はものすごく静謐な雰囲気を帯びる。

シンレッドライン3

 監督のテレンス・マリックは、映像の美しさを意図的に追求する監督だという。確かに、ガダルカナルの自然描写は美しい。

 白い入道雲に彩られた真っ青な空。
 涼しげな風が吹きわたる大草原。
 ピクニックに来たらなんと楽しいだろう…と思わせる風景の中で、兵士たちは次々と草の輝きに彩りを沿える大地の 「石」 に姿を変える。

 美しい自然と無慈悲な死。
 そのミスマッチ感覚こそ、この映画がいちばん伝えたかったものなのかもしれない。

 テーマは何なのか? 
 前述したように、ただの反戦映画ではない。 
 たいていの反戦映画は、戦争を 「人間の愚行」 として描くことが多いが、この映画においては 「愚かな人間」 は一人も出てこない。
 無理な突撃を命じる鬼軍曹のような人物も登場するが、最後にはその人間も分別ある慈悲深い男として描かれる。

 戦争が 「人間たちの愚行」 でないとすると、戦争というのはなぜ起こってしまうのか?
 
 この映画には 「人間に戦争をさせているのは一体誰だ?」 という、何か考えるのもそら恐ろしいような、根元的な問いが秘められている。

 映画の終幕近く、兵士たちが船に乗って島を離れるシーンで、遠ざかる島を眺めながら誰かがつぶやく。
 例によって独白の主は分からない。
 こんなモノローグだ。

 「あなたがつくったものを、私の目を通して見てください」 。

 字幕スーパーの言葉を一度しか見ていないので、正確ではないかもしれない。
 見落としてしまいそうな字幕だったが、ふと気になって考えてみた。

 あなたとは誰か? 
 私とは誰か?

 おそらくここでいわれている 「あなた」 とは神のことである。
 そして 「私」 とは人間のことだ。
 だからこのセリフは、
 「神様、あなたが作ったこの世界を、どうか人間の目を通して見つめてください」
 という意味になる。

 ここに描かれる美しい自然は、神のつくった 「完璧なる秩序」 を象徴している。
 では、その美しい自然を、兵士たちの 「醜い」 死体で満たしていくことを、神は望んでいるのか。
 映画の中でささやかれる兵士のモノローグは、そう尋ねているようにも思える。

 日本人には、神がこの世の造物主であるという思想に馴染みがない。
 しかし、キリスト教の伝統と教養の中に育った欧米人は、この地球の全てのものをつくったのは神であるという精神風土の中で生きている。

 「神様がつくった世界を、人間の目を通して見てください」
 というつぶやきに込められているものは、
 「全知全能の神が創造したこの世に、なぜかくも悲惨な戦いがあるのですか?」
 という問いに他ならない。

 この問いに誰が答えられるだろう。

 宗教者も哲学者も即座には答えられまい。

 即座に答えられない問いを抱え込むことが 「哲学」 だとしたら、この映画は、戦争に題材を借りた 「神の存在」 を問う哲学的な映画だということになりそうだ。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 21:39 | コメント(0)| トラックバック(0)

今日の出来事

 ブログというのは、ネット上に公開する個人の 「日記」 のようなもの、といわれている。
 ということは、自分はまだ本当のブログというものを書いたことがないことに気がついた。

 今日は、本気でブログを書いてみる。

 11:30起床。
 洗面所に顔を出して、歯ブラシにペーストをいつもの3分の1ほどに限定し、歯ブラシの上にそれを均等に塗りながら、テレビの前の椅子に座って、おもむろに歯を磨く。

 ペーストを3分の1ほどに限定したのは、何も節約意識が芽生えたわけではなく、単純にペーストの残りが少なくなってきたので、補充するまで量をコントロールしようと思って調整したに過ぎない。
 しかし、そういう行為はほとんど無意識のうちに行われるので、意識はたちまちテレビの内容に釘付けになる。

 だけれども、歯を磨いているうちに、ときどき口の中に溶けたペーストが唇の隙間をぬって床にこぼれることがあるので、それだけは慎重に避けながら、意識の半分はテレビの方に集中し、残りの半分を床にこぼさないように唇の閉まり角度を調整していたので、かなり神経をつかう。
 それだけで、今日の大半のエネルギーを消耗した気になった。

 テレビでは鼠先輩が、例のポッポッポの 「六本木」 をつくるきっかけとなったエピソードというものを披露していたが、その話を何気なく聞いているうちに、自分はこの人が歌手なのか、タレントなのか、その両方を兼ねたような一般的な芸人なのか、そういった彼のポジショニングを今まで真剣に検討していなかったことに気がついた。

 そこで、歯を磨き終わるまで結論を出さなければいけないと思い、いちおう強引ながら 「タレント」 というジャンルに仕分けすることにした。
 気分が安定したところで、洗面所に戻り、コップに水を注いで口の中をすすぐ。

 すすぎ終わった最後の水を口に含んだまま、トイレに行く。
 トイレで放尿しながら、水を流す前に、口にふくんだ水も一緒に流す。
 これはすでに2年程前から身に付いた習慣なのだが、そのような行為がどういう動機に基づいているかをあまり詮索したことがなかった。
 
 たぶん、歯磨きのペーストというのは除菌作用があると思うので、それを使ってトイレも同時に洗浄しようという狙いがあったのではないかと推測する。

 居間に戻ってから、朝飯兼昼飯を食うためにパンをトースターの中にぶち込み、やかんに水を入れてお湯を沸かす。 

 お湯が沸くまで、しばらく時間がかかるので、何か思索することにする。
 しかし、頭がまだ半分眠りから醒めていないので、思索する内容も貧困である。

 人間の髪とか爪は、毎日少しずつ均等に伸びていくものだと思っていたが、ある日突然、爪が伸びたことに気づくことが多いので、ひょっとしたら 「爪の伸びる日」 というものが決められているのではないかということを思索した。
 そのことについてカミさんの意見も聞いてみようと思ったが、どうせ 「何をくだらないことを言っているの」 という一言で一蹴されることも分かっていたので、それは口に出すまいという結論に達する。
 
 …とか考えているうちにお湯が沸く。

 ティーバックの紅茶にするか、インスタントコーヒーにするか、即座に結論を出さなければならない状況に追い込まれたが、とりあえず紅茶の方が先に目に入ったので、紅茶のティーバックを一掴み取り出して、コーヒー茶碗に落とし込み、その上にお湯を注ぐ。

紅茶

 茶碗に注いだお湯が少しずつ黒っぽくなっていくのを見つめながら、なぜ紅茶にしたのだろうという理由付けがほしくなり、しばらく熟考する。

 考え抜いた末、日頃会社でコーヒーを飲む機会が多いので、家にいるときはバランスを考慮して紅茶を選択したのだな…ということに思い至り、その思考過程の緻密さに我ながら関心して、少し元気になる。
 
 11:45。
 
 トースターの中にぶちこんだパンを取り出し、指先でつまんで、「あっちっち…」 と声を出す。
 声を出さなくても十分に熱いのだが、声を出すと、やはり臨場感がともなって、さぁこれからトーストを食うぞというリアリティが強まるので、声を出したことは正解であったと納得する。
 
 ……ここまで書いても、まだ1日の報告が完了しない。
 疲れた。
 ブログというものは大変なものだということが分かる。

 みんな、よくこんなものを書くなぁ…と、あらためてブログを書いている人たちの粘り強さに心を打たれる。 


 
ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 23:52 | コメント(5)| トラックバック(0)

携帯小説のリアル

 いろいろな領域で地殻変動が起きている。
 書籍には興味があるので、よく本屋にも顔を出すのだが、書店においても 「売れている本」 と 「売れなくなった本」 との間に深いクレバスが広がり、従来の出版状況が激変しているようだ。

 しかし、そういう状況を観察する上で、自分には盲点があった。
 若者によく読まれているライトノベルの棚、もしくはケータイ小説の棚。そういうコーナーを素通りしていたからだ。

 だが、新しい潮流はそういうところに生まれていた。

 それを教えてくれたのが、杉浦由美子さんが書かれた 『ケータイ小説のリアル』 (中央公論新社) 。
 前にも、ちょこっとだけこの本について触れたことがあったが、全編読み通してみると、いやぁ、いろいろ勉強になりました。

ケータイ小説のリアル

 この本は、『恋空』 のように、原作も映画も大ヒットして新しい小説ジャンルを打ち立てたケータイ小説をテーマに、なぜそのようなものが生まれてきたのか、そしてなぜヒットしたのかということを分析したものだ。

 もちろんマーケティング寄りの省察もあるが、それ以上に、それらの書き手であり読者でもある若者たちの “世界観” を探ることに主眼が注がれている。

 現在ヒットしているケータイ小説の書き手は、そのほとんどが無名の素人、特に若い女性である。
 彼女たちは、将来プロの作家になろうとは思っていない。
 表現衝動にまかせたまま書きたいものを書き、それが多くの読者に読まれたことを確認して、大切な思い出にしようと思っている人たちだ。

 作家として認められようとは思っていないので、彼女たちは既成の文章フォーマットにも囚われない。
 プロ作家がこだわる 「伏線の張り方」 などという細かい技巧からも解放され、情景描写によって 「主人公の内面を語らせる」 などといったややこしい芸風からも自由。
 ご都合主義的なストーリー展開だと批判されようが、のびやかに、スピーディに結末に向かって駆け抜けていく。

 これが、ケータイ作家たちとほぼ同世代であり、同文化圏に生きている若者たちの共感を呼んだ。

 表面的には不幸の連続ではあっても、主人公のこの軽やかなステップ感覚が、多くの若者に 「元気」 を与え、ケータイ小説はポジティブシンキングの大事さを説く 「自己啓発本」 の機能を果たした、と著者の杉浦さんはいう。

 では、ケータイ小説の誕生は、従来の 「物書き」 のプロたちをどういう立場に追いやったのか。
 その省察が本書の面白いところだ。

 従来の文芸編集者の多くは、作家になにかしらの 「権威ある賞」 を取らせようとする。
 しかし現在、若い世代にはこうした権威付けの意味や背景を知らないし、興味も感じない。

 かくして、権威付けを必要と考える作り手がつくり、善し悪しを判断して世に送り出した作品は、ことごとく若い読者のニーズと離れていく。

 彼ら古い文芸編集者たちは、「若者たちのリテラシー (読み書き能力) が低いからケータイ書籍のようなクオリティの低いものがベストセラーになる」 と批判するが、今や若者たちの5人に1人が自分のブログを持ち、コメントを返し合い、それを通じて、文字情報によるコミュニケーション能力を高めているという事実を無視してしまう。

 『ケータイ小説のリアル』 という本は、この古い文芸感覚と新しい文芸感覚の齟齬を浮き彫りにする。

 ケータイ小説に限らず、すでに書籍のメガヒットは、素人作家から生まれる時代になった。
 リリー・フランキーの 『東京タワー』 。
 劇団ひとりの 『陰日向に咲く』 。
 田村裕の 『ホームレス中学生』 。

 これらのミリオンセラーは、有名人によって書かれたものだが、小説のプロが書いたものではない。
 しかし、素人の小説だからこそ、読者にとっては読みやすく、親近感を持って受け入れられる。

 こういう傾向に対して、プロの書き手は反論したくなるだろう。
 「誰でも一つは小説が書ける。自分について書けばいいのだから。しかし、その後もずっと書き続けられるかどうか。プロにはそれができるが、素人にはそれができない」

 こういう述懐は、昔から 「小説作法」 のような書物で必ず説かれていたものだ。

 しかし、先ほど言ったように、ケータイ作家たちはそもそもプロを目指していない。
 彼らは自分たちを 「一発屋」 であると認めている。
 「自分の作品が一発で終わっても、それに代わる一発屋が現れる。今度はその人の作品を楽しめばいい」

 ケータイ小説だけでなく、今や無料で読める一般の人のブログには、面白い文章や新鮮な情報がいっぱい掲載されている。
 プロの出番はないのだ。

 こういう風潮の台頭に、従来のプロたちはどうすればいいのか。

 著者の杉浦由美子さんはプロの物書きとして、こう語る。
 「記者である私の仕事の大半は “書くこと” ではなく、“取材すること” だと思っている」
 つまり、取材していく中で、プロはさまざまな真実が明るみに出てくることの醍醐味を知る。
 その迫真力を伝えられるかどうかに、プロとしての存在が試される。

 彼女はそう言いたいらしい。

 プロに支払われるギャラは、仕上げた原稿に対するものではない。
 その原稿を仕上げるために費やした 「取材」 に対する労力、取材対象に対する情熱への対価なのだ。

 小説だって、面白いものに仕上げるためには、「取材」 が必要だ。
 書くべき専門領域に分け入っていくとき、それが未知の分野であった場合はとてつもない労力と代償を支払わなければならないことがある。初めての分野においては、誰だって素人なのだから。

 でも、その素人目線が鍛えられたときに、プロの凄みもにじみ出る。

 “文芸的感性” を後生大事に、思いつきのアイデアだけでものを書こうとするプロの時代も終わろうとしている。
 ケータイ小説の隆盛は、プロの物書きに対しても、大きな意識変革をもたらすものであるように思う。


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音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 19:46 | コメント(2)| トラックバック(0)

肉欲減退

 最近めっきり肉欲が薄れてきた。
 ぽっちゃりと脂の乗った豊満な腿肉なんかがむき出しになっていても、若いときのように、それを眺めてムラムラとわき起こるものがない。

 あ、「肉食欲」 ね。
 腹減りゃカツ丼、空腹をおぼえりゃ牛丼、食後はビーフジャーキーってな食生活を続けてきたけど、今はせいぜいコーヒーにホットドッグかハンバーガーだもんな。
 あんまり変わってないか…。

 でも、そんな食事もせいぜい昼飯時ぐらいで、全般的にはローカロリー・ローコストフードの方に傾斜している。

 この 「肉欲減退」 を経験して、やっと分かってきたことがある。
 油揚げなんかうまい…ってこと。
 サンマ塩焼きとかアジの干物の皮裏あたりにこびり付いている脂の乗ったところもうまい。

 そうなんだよな、これで十分!
 空腹感から逃れたいとき、動物性脂肪はとりあえず満腹気分をもたらす “特効薬” ではあるけれど、ちょっと回り道しても、十分にそれに応えてくれる油ッ気ってあるわけだよね。

 健康のために、そういうカードを切るってことではなくて、最近は “回り道系脂肪” の方がごく素直に 「おいしい!」 と感じるようになったのだ。
 まるで重油を焚いて電気を作っていたスタイルを改めて、ソーラー発電に転換したような気分である。

カツ丼
▲ 火力発電

アジの開き
▲ ソーラー

 ま、ソーラーの効率の悪さと同じで、確かに、満腹感へ至るまでの効率は悪い。
 でも、それは “ゆっくり食う” ことで解消できる。

 ゆっくり食うから、舌の上で転がす食物のこまかな味わい、歯触りなどに敏感になる。
 おぉおぉ、この味、奥行きあるねぇ!
 こんなうまい食い物だったのか!
 …ってな発見が、のんびり食っていると次々に訪れる。

 世の中には、「スローなんとか」 という表現がたくさん生まれていて、その多くはエコ思想と結びついているわけだけど、そんな大げさに考えることもなくて、「スロー」 って、単純に “味わう” って意味だったんだな…と思うようになった。

 「スローフード」
 「スローライフ」
 「スロートラベル」……

 要は、
 「フードを味わう」
 「ライフを味わう」
 「トラベルを味わう」

 「肉欲」 を断って 「味わい」 を知る。

 そう書くと、なんだかちょっと仏教哲学っぽい気分になってくる。



ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 16:04 | コメント(2)| トラックバック(0)

サーファー社長

 先週末開かれた 「トレーラーフェア」 で、デルタリンクの山田社長と久しぶりに話し込んだ。
 「デルタリンク千葉ポイント」 を10月1日からオープンするという。
 営業が軌道に乗るまで、しばらくその展示場内に置いたモーターホームをねぐらに顧客対応することも考慮中…というほどの力の入れようだ。

 「やる気ですね」
 と感心したら、
 「…なに、趣味を実現したかったからですよ」
 という返答。

 趣味とは?

 千葉営業所から、九十九里海岸までほぼ1時間。
 空いた時間を見つけて、今までできなかったサーフィンを思う存分楽しみたいというのが本音のようだ。

サーフィンイメージ

 彼がバンテックに入る前、増田社長とヨットを通じて知り合ったことは有名なエピソードになっているが、一番やりたかったのはサーフィンだったという。
 しかし、18歳のときに始めたサーフィンは、一度挫折した。

 山田氏曰く。
 「サーフィンは初心者にはつらいスポーツなんです。なぜなら、良い波がやってくるポイントにはうまい人も集まってくる。だから、そういうところでは波がもらえない。
 うまい人はパドルも速いし、波に乗るのもうまい。僕らのレベルではそれに着いていくことができない。
 朝から晩までいても、みな良い波を取られてしまう」

山田氏イラスト
 ▲ 堀川氏描くところの山田氏イラスト

 …ということで、ヨットの方に移行した山田氏。
 だけど、千葉店オープンを機に、大いに波乗りに興じる気分でいるらしい。

 今まで特注したサーフボードは3枚。
 千葉でサーフィンを楽しむために作った最新ボードには、カナダ先住民の 「ファーストネーション (はじめてインディアンが北米に住み着いた土地) 」 にちなんだイラストが描き込まれている。

banian_yuhi

 “伝説の波” をテーマにした 『ビッグウェンズディ』 のようなサーフィン映画のファンでもある山田さん。

 言うことも面白い。

 「サーフィンは伝説が生まれやすいスポーツなんです。伝説というのは、いわば人がわくわくする “物語” 。つまりそれは、商品でいえば “ブランド” のことなんですね。
 サーフィンにこだわっていると、ブランドのネタがいっぱい出てきますよ」

 ふぅ…む。
 遊びの中からご商売のネタもつかもうとしていらっしゃる。
 いずれにせよ、デルタリンク千葉ポイントは面白い場所になりそうだ。

 デルタリンク千葉ポイント
 〒262-0004 千葉県花見川区大日町1414-1 (10月1日より)


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 16:21 | コメント(0)| トラックバック(0)

i camp 

 けん引免許対応型の大型トレーラーに対するニーズが高まる一方で、小型トレーラーを望む声も多くなってきた。
 小型トレーラーに対する要望の多くは車庫事情と関連しており、大型車両では駐車スペースに収まりきらないというケースが大半だ。

 インディアナRVがこの9月に導入した 「i camp japan」 は、全長4300mm、全幅2000mm、全高2360mm。
 普通の月極駐車場にも入ってしまうサイズなので、駐車スペース探しで苦労していた人には朗報かもしれない。

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 とにかく、外観が可愛い。
 ちょっとスモールエッグ風でもあり、欧州トレンドの粋さも漂ってくる。

 ところが、ヨーロッパ製ではなく、北米市場向けに開発された商品であり、製造元は中国であるというから、さらにビックリ。
 中国で、既にこのような本格的トラベルトレーラーが製造され、それが北米市場にしっかり出荷されるような時代になったのだ。

 ただ、車両重量よりも強度を重んじる米国市場向けに開発されたものだけに、オリジナル仕様では防水加工された鉄板が床下に張られるなど、1トンを優に超える重さがあったという。

 インディアナRVではその鉄板をアルミに変え、さらにパネル内断熱材もヨーロッパ型の軽量素材に変えるなどして、さらなるダイエットを進めた。

 その結果、達成しえた車両重量は740kg!
 北米のマーケットだけを考えて開発された商品をここまで減量した日中双方のスタッフには脱帽。

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 ちなみに、製作会社の名前は 「センティック・スペシャリティ・ビークル」 社、略してCSB社。中国では、警察や軍の特殊車両を開発・製作している大手会社だという。
 いわば国家のお墨付きをもらっているようなメーカーなので、商品的クオリティに関しては保証済み。
 北米市場に投入しているトレーラーの評判も良いと聞く。

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 内装は、なかなかモダンテイスト。
 ホワイトと薄いブルーで統一されたインテリアカラーは、かなりヨーロッパ志向である。

 中に入ってみると、その “広さ” に驚く。
 外側から見ると、フロント側が絞られているために、室内が窮屈に感じられるように思えたが車内に入ると違った。
 ダイネットに座ると、絞られたフロント側を背負うことになるので、圧迫感はまったくない。
 むしろ、そこからエントランス側を見通したときの開放感が心地よい。

 就寝定員は 「2名~3名」 。
 基本は夫婦2人で使うトレーラーだが、子供が小さいファミリーなら3人就寝も可能。

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 トイレ・シャワー、温水ボイラー、FFヒーターなどかなりの充実装備。
それでいて、発売記念の限定30台だけに限って、1,980,000円。


campingcar | 投稿者 町田編集長 17:35 | コメント(0)| トラックバック(0)

大人の音楽ジャズ

 大野路キャンプ場で開かれた 「トレーラーフェア」 を取材して、温泉に入って帰ってきた。
 帰りの道すがら、夜の東名で、アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズ、ホレス・シルバー、ソニー・ロリンズなど、往年のジャズメンたちの演奏を聞いていた。

アートブレイキージャケ

 自分は、どうも、こういう人たちの音を聞いていると、いつも 「大人の音」 というイメージを色濃く抱いてしまう。

 その気分をうまく表現することはできない。
 言葉にしようとすると、とてももどかしい感じがする。
 大人の神秘性というのか、若造にはうまく理解できない大人のずるさ、大人の切なさ、大人の粋さ、大人のカッコよさ…。
 そういったものが、ジワーっとこみ上げてくる。
 そこには、背徳や退廃の匂いと一体となった甘味な快楽を知った人々の文化があるように思えた。

 なぜ、そんな風に感じるのか。
 最近ごく単純なことに気がついた。
 当時、そういう音を聞いていた自分が、単にガキだったからだ。
 ガキの頃に聞いていた大人の演じる音楽が、「大人のものに聞こえる」 のは、そりゃ、考えてみれば当たり前のことだわな。

 誰だって、自分の世代とは異なるところで息している人たちの日常感覚というのは理解できない。
 分からないから、神秘化が始まる。

 自分がガキだった時代、「大人」 というのは、ガキには理解できない境地を味わい尽くした 「洗練された人々」 に思えた。
 しかし、自分が少しずつ 「大人」 に近づいていくにしたがって、「大人」 というものが、必ずしも 「洗練された人々」 なんかではないということも、だんだん分かってくる。

 だけど、ジャズに関しては、それを趣味として聞いていた大人、演奏する大人というものが周囲にはいなかった。
 つまりジャズは、自分にとって、具体的な 「大人」 を知ることの幻滅からまぬがれた、「大人」 の洒落た部分だけを純粋培養してくれた音楽だったのだ。


 高校時代になって、ジャズ喫茶に通うようになった。
 他のお客の顔も見えないような暗い店の一隅で、テーブルの上にぽつんと置かれた、ぬるいまずいコーヒーを舌の上に転がしながら、マイルスやコルトレーンを聞く。

 それだけで、深刻な失恋も経験したこともないくせに、男と女の間に横たわる “暗い川” を見たような気になる。
 職場などでの人間関係の軋轢も知らないくせに、人の間を泳ぎながら生きていくことの辛さを味わったような気分になる。
 ジャズだけは、相変わらず、大人の秘密と神秘を教えてくれる教師のように思えた。

 本当の 「大人の世界」 知るなんて、多くの若者にとってがっかりすることが多い。
 今流通している文化で、若者たちに 「大人のカッコよさ」 を伝えてくれるようなものがあるのか、ないのか。
 とっくに若者から逸脱した自分にとって、それが分からない。

 ただ、自分にとって、「大人のカッコよさ」 というものを保ち続けてくれるものが、ひとつあるということは幸せであるように思う。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 12:06 | コメント(2)| トラックバック(0)

占い師の裏話

 血液型の話や占いの話などが予想外に受けた (?) 感じなので、占いにまつわる昔話をもうひとつ。
 実は2年ぐらい前に、別のブログで公表したことのある記事であります。そっちのブログで読まれた方がいらっしゃったら、御免なさいね。

《 占い師の裏話 》

 自分は占いを信じるタイプか?
 そう問うてみると、若いときは、けっこう占いの結果にこだわる人間だった。

 受験の失敗、失恋、就職への迷い。
 先行きに暗雲が立ち込めてくるようなときは、雑誌の片隅に掲載された星占いの結果ですら、ものすごく重要なメッセージに思えてくる。
 そのようなものを意外と信じやすい迷信深い若造だったのだ。

 しかし、20代になったばかりの頃か。
 占いというものに対する考え方が少し変わった。
 占い師の友達ができたからだ。

タヌキ

 やくざな学生だった時代。
 小雨が宙を舞う吉祥寺の街角で、私は、酔っ払いのオヤジに絡まれた一人の占い師を見つけた。

 「バカヤロー! そんなことを聞きたくて金を払ったんじゃねぇや。いい加減なことをホザいていると、てめぇの首根っこをへし折ってやるぞ」

 酔っ払いオヤジが、その占い師に向かって吼えている。
 オヤジの罵声を聞き流しているのは、若い男だった。

 ジーンズにTシャツ。
 髪は長髪。
 占い師の格好は、その様子を立ったまま見つめている私とほとんど変わらない。
 年齢的にも似たり寄ったり。

 しかし、その若い占い師は、私などが持ち合わせないような豪胆さで、今にも拳を振り上げそうな中年男の罵声をクールな視線で受け止めていた。

 「もう一度やり直せってんだよ。このインチキ野郎」
 「何度やっても同じことです。天が一度定めた運命は、私の力でひっくり返すなどできません」

 そのやり取りを野次馬していた私は、この占い師を助けてやらねばと思った。

 で、占い師とオヤジの間に割って入り、
 「ねぇ、俺の手相を見てよ」
 と、占い師に向かって手のひらを突き出した。

 「てめぇ誰だ? このやろー」
 と、しばらくオヤジは騒いでいたが、しょせん酔っ払い。
 いつの間にか、どこかに消えた。

 雨のしずくが垂れる髪をかき分けながら、私と占い師は目を合わせた。

 「何が知りたいの?」
 その冷たい目に、ぞっとした。

 助けてやったのだから、もう少しフレンドリーな笑顔を見せてくれたってよさそうなのに、彼の眼は、試験管の中で起こる薬物の化学変化を待つように、何の表情も浮かべない。

 何が知りたい…?

 私にはその用意がなかったのである。

 「…将来」
 かろうじて、思いついた言葉を口に出した。

 「手を出して」
 無表情に私の手を引き寄せる仕草が、素っ気ないほど事務的だ。

 彼は手のひらを10秒ほど見つめ続けてから、目をつぶり、
 さらに10秒後に、カッと見開いた。

 「あなたは、二つの道で成功する人だね」

 「二つの道とは?」
 「それは分からない。ただ、たいていの人間は才能に恵まれたとしても、その才能を一つの分野でしか発揮できないまま一生を終える。でも、あなたは、二つの分野でその才能を使うことができる」

 すげぇことを言い出す男だ、と思った。

 「しかし…」
 と、彼は言葉を継いだ。

 「そのことは、あなたを一生苦しめることにもなる。ひとつの道に進んだとき、必ず捨てた方の道に未練が残る。
 その未練にほだされて、捨てたはずの道を模索すると、今度は元の道が恋しくなる。
 一生その繰り返し。だから、必ずしも大成するとは限らない」

 ふぅん。
 手のひらが汗ばむような緊張を覚えた。

 自分の運命というものを、はじめて直視した瞬間だった。
 静かに語る男の背後に、オーラが立ち昇っているように思えた。


 で、そいつと友だちになったのである。
 そして、飲み屋なんかにも一緒に行くようになった。

 「占いって、どうやって勉強するの?」
 「どんなことを尋ねてくる人が多いの?」
 「今まで会った人でさぁ、死相ってのが表れた人いた?」

 最初のうち彼は、私の無邪気な質問におごそかなもったいぶった解説を加えていたが、ある日、こんなことを言い出した。

 ……占いを商売にしようと思ったら、占いの勉強だけでは済まないんだよ。人間観察力とか、心理分析の力も当然必要になってくるのね。
 だけど、最後は哲学なの。
 社会がいくら複雑になっても、人間の悩みなんて、ソクラテスやプラトンの時代から変わらないんだよ。

 シャカ、孔子、キリスト、ソクラテス。
 この4人の共通点って知ってる?
 みんなものを書かなかったのね。彼らは本を残さなかったんだよ。
 いま残っている教典というのは、全部彼らの弟子たちが編んだものなのね。
 つまり、彼らは弟子たちとのダイアローグ (対話) というものを大事にした人たちなんだよ。

 実は、占いも同じなの。
 占いってのは相手が黙っていると、実はできないものなんだよ。
 「黙って座ればピタリと当たる」 なんてウソ。
 一言でもいいから、相手にしゃべらせることが大事なのね。
 で、相手が何を考えているのか探るわけ。
 それを手がかりに、対話 (ダイアローグ) を始めるわけね。

 そのプロセスで、相手が求めている答が初めて見えてくるわけさ。
 その答えは、必ずしも、そのとき相手が望んだものではないかもしれない。
 だけど、もしかしたら、それを機会に相手がまったく新しい考え方を手に入れるかもしれない。そのとき、彼は哲学したわけさ」

 それを聞いて、私は尋ねた。
 「でも、初めて会ったとき、ほとんど対話なんかしなかったじゃない」

 「いやぁ、あなたがあの酔っ払いを追い払ったとき、もう対話が始まっていたのさ。 あなたの正義感、あなたの好奇心、あなたの純真さ。それがあの行動だけで分かったもの」

 彼の占いで、私ははじめて自分の 「運命」 と出会ったのだが、今度は、はじめて 「哲学」 と出会うことになった。
 この占い師から、私は二度教えられたことになる。

 しかし、それからプツリと、彼は吉祥寺の町から姿を消した。
 友だちだと思っていたのに、ふと考えると、私は、彼の本名も連絡先も知らないことに気がついた。

 彼の言葉は、いまだに脳裏に深く刻み込まれているが、肝心な占いだけは当たらなかった。

 私には、二つの才能を発揮するなどという能力もなく、そのために、その二つの才能の間で悩むなんてこともなかったからである。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:28 | コメント(6)| トラックバック(0)

匿名社会の怖さ

 あるブログに誹謗中傷のコメントが乱入して、ちょっとした惨事になっていた。
 
 ブログが悪意のコメントに満たされて混乱したり炎上することは、管理者の日常生活や趣味をレポートするブログではあまり見られない。
 しかし、政治系・思想系のブログではよく起こることらしい。

 そのブログも、学者や評論家、作家などに対する批判を軸に自分の思想を展開するというスタイルだったので、いつかはブログ管理者が批判される側に回ってしまうこともあるだろうな…という危惧はあった。
 ある一人の学者への批判を延々と繰り返すようになってからは、訪れる回数もめっきり減ったが、それでもときどきは思い出したように開く。

 コメントの数がいつもより異様に多い気がした。
 どのコメントもテンションが高い。
 批判のコメントなのだ。

 しかし、それにしても酷い光景だった。
 そのブログ管理者への誹謗中傷は、度を超えているどころか、方向性もズレて、管理者の言いたいこととはまったく異なる領域で、コメンテーター同士の争いにまで発展していた。

 そこには、「人をけなす快感」 を覚えると、人間はこうまで残酷になれるものかという数々のサンプルが並んでいた。
 相手にダメッジを与えるにはどういう視点に立って、どういう言葉を使えばいいのか。内蔵までむき出しになった傷口に、さらにナイフを突き立ててほじくるような表現が止めどなく溢れていた。

 それも、ネチネチと、粘着性の情熱を感じさせる執拗さで。
 相手を困らせるアイデアを思いついた人間たちの “したり顔” が目に浮かぶようで、気持ちのよいものではなかった。

 このような悪意のコメントを残す人たちは、すべて 「匿名」 の “隠れ蓑” を身にまとって登場する。
 しかし、敵対する人間もまた隠れ蓑に包まれているので、その正体を突き詰めるわけにはいかない。
 どちらも疑心暗鬼になる。

 だから、そのブログのコメント欄においては、
 「この記事を書いた××は、○○と同一人物であり、すべてはダブルハンドルネームによる自作自演だ」
 というような、誰も事実を知るべくもない詮索がせわしなく飛び交っていた。

 しかも、敵対するコメンテーターのハンドルネームを装って、
 「ごめんなさい、もう二度としません」 などというニセコメントを残す人までいる。
 部外者には、魑魅魍魎 (ちみもうりょう) がうごめく世界に見える。

マネキン

 なんでこんななのよ。

 ネットという人類史上例を見ないほど驚異的に発達したコミュニケーションツールは、どうやらとんでもないパンドラの箱を開けてしまったようだ。
 自分の姿を隠したまま相手の頭をひっぱたき、さっと身を翻しては、また思わぬところからひっぱたくような攻撃方法を人間に教えたのだ。

 そのブログのコメント欄でけなし合う人々は、きっとリアル世界で会ったときは “良い人同士” なんだろうと思う。
 その良い人同士が、ネットの闇にまぎれると、とたんに愉快犯のように人を攻撃する暗い愉楽に没頭する。

 気に食わないヤツを、自分の姿を隠して後ろからボコンと殴るのは、誰にとっても快感であるかもしれない。それは卑怯なことだが、人間にそういう欲望があることは否定できない。

 しかし、ネットによる他者攻撃は、「気に食わないヤツ」 が先にいるのではなくて、「ボコンと殴る快感」 を得るために、「気に食わないヤツ」 を探して回るという恐さを秘めている。
 しかも、それが 「キーボード」 と 「時間」 と、ちょっとした 「ボキャブラリー」 を持っていれば、誰にでもできるのだ。

 ネット社会で一般化した 「匿名による表現」 は、読みかじった本の理解できたところだけを動員すれば、素人でも専門家を相手に対等に論陣を張れる場を用意した。
 しかし、都合が悪くなれば、ほっかぶりしたまま、素知らぬ顔で退場できる狡さも保証した。

 その点、そのブログの管理者は、堂々と本名をプロフィールで語り、自分の思想の立脚点を公表しているのは立派だった。
 本名も明かさず、聞きかじりの知識で相手をけなすコメンテーターたちよりフェアだ。

 しかし、そのような、フェアであることを大事にしようとする精神は、これからますます拡大するであろう 「匿名の誘惑」 に勝てるだろうか。

 世界はどんどん匿名化されている。
 地球規模で多発するテロ事件や、愉快犯やストーカーが同じ理由によって生まれるとは思わないけれど、少なくとも、そこには 「匿名性」 という共通項がある。

 「匿名」 であることは、証明の根拠や責任の所在を誰にも問われないことである。
 そのため、嘘と事実の境界線がどんどん不分明になり、事実を誰も判定できないような世界が広がっていく。

 このような状態が日常化すると、従来の 「善」 、「悪」 の基準も変わってしまうのではないだろうか。
 「善」 とは、自分が犯人だと思われないように悪を働くことであり、  「悪」 とは、それがバレてしまうこと…だという風に。

 そのブログのコメント欄で、お互いのハンドルネームを疑いながら罵り合っている人たちを見ると、もうそういう時代になりかけているのかな…とすら思う。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:25 | コメント(8)| トラックバック(0)

俺さぁAB型なの

 血液型の本がまた売れ出しているなぁ。
 人間の血液型は四つに分かれていて、それぞれ特徴があって…という話は、そんな単純なもんかよ…とは思いつつ、けっこう飲み屋でも間が持つし、枝葉をいろいろと付けていくと人間学にもなっていくので、話題としては重宝している。

AB型本

 で、俺はさぁ、まぁ占いみたいなもんだと思ってるの。
 占いってのは、占い師さんと友達になって聞いたことがあるんだけど、どう説明しようが、けっきょく人間は自分に都合のよいようにしか解釈しないんだってね。

 「結婚は晩婚になると出ていますね」
 といえば、「良い人と縁を結ぶためには今の相手はパスした方がいいんですね」
 と解釈する人がいるし、
 「人事面でのトラブルが予想されますね」
 といっただけで、「いやな上司が異動するんだな」
 と考える人がいるってわけよ。

 血液型の話だって同じでさぁ、みんな自分の都合のよい部分は誇大に解釈し、欠点の方は 「ご愛敬ご愛敬、ハハハハ」 と聞き流しちゃうわけだね。

 人間の性格は変わらないといったって、その日の気分で180度違っちゃうこともあれば、セルフイメージなんか根拠のないものだから、気の持ちようでいかようにも変わる。
 だから、説得力のある人に、「お前の性格は実はこうなんだよ」 と得々といわれると、その日からそういう性格になってしまう。

 で、血液型の話が出回り始めた頃、まだ自分の血液型ってのも、なんだかよく知らなくてさぁ。
 「お前の血液型なに型?」 って聞かれたんで、親父がA型だったから、「俺もA型かもしんない」 って答えたんだ。

 するとヤツが、「どうりで慎重なやつだと思ったよ。お前あんまり冒険しないもんね。意外と石橋叩いて渡る性格でしょ?」 なんていうから、
 「あ、そうそう。自分にはそういうところがあるかも…」 と思っちゃったわけ。

 だけど、「ひょっとしたらB型かもしんねぇ」 とも言ってみたのよ。
 お袋の方はB型だったからね。

 「あ、やっぱり! お前けっこう自分勝手だしな。独創的なところはあるかもしんないけど、協調性ないしな」
 
 …で、そっちも当たっているように思えたのよ。

 とにかく、自分でも訳の分からない性格でさぁ。
 昨日まで面白がっていた遊びに今日は突然飽きちゃったり、今まで恐がっていたような場所が、急に面白く感じられるようになったりさぁ。

 昨日まで尊敬していたような人を、今日はおちょくってみたりで、もう毎日が “分身の術” 使いまくり。
 自分の中に、人間が二人いる感じでさぁ。

 そしたら、自分の血液型がAB型だって、ある日分かったの。
 ものの本を読んだら、AB型って、そのどちらかの気質が突然色濃く出ちゃうんだってね、何の前触れもなく。

 で、この突然の 「気質チェンジ」 に周りの人は戸惑うらしい。
 
 「部長。たった今、みんなで慎重に討議した結果じゃないですか?」
 「いやいや、あれはつまらん。いま思いついたアイデアの方がヒットする」
 「ええ…… (みんな絶句) 」

 そんなことを平気でやらかすらしい。

 合戦を前に、「進めぇ! 進めぇ!」 と絶叫していた大将が、川を飛び越えた瞬間、釣りがしたくなって、槍の先に糸を垂らして川べりにしゃがみ込んでしまうようなものだ。

 A型気質とB型気質というのは対極的ながら、どちらも素晴らしい長所があって、それを任意に取り出せれば最高だと思う。

 だけど、たいていの場合そうはならない。
 A型気質が必要なときはBが出て、Bが望ましいときはAが出てしまう。

 そんな感じしない?
 AB型のお仲間さん。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 00:39 | コメント(6)| トラックバック(0)

ポストモダン

 1980年代、「ポストモダン」 という言葉が流行った。
 「モダン (近代) の後の時代」 というような意味だが、当初は思想的な文脈の中で使われ、次第に建築や広告の分野にまで浸透し、一時期、広告業界の人々がクライアントにプレゼンテーションするときの、新しい潮流に乗りそうだという雰囲気を醸すのに便利な言葉として使われた。

ビル1

 あの時代、なぜ 「ポストモダン」 などという概念が急速に広まったかというと、1980年代にわき起こってきたさまざまな現象が、モダン (近代) という時代の定義に当てはまらなくなったように人々に感じられたからだ。

 たとえば、それまでは、近代的な生産様式によって画一的に大量に作られた商品が市場を席巻したが、そういう大量生産品は、あの時代を境に市場価値を失い、多品目を小ロットで流通させるような新しいマーケットが形成されるようになった。
 広告業界の周辺に位置する人々は、これを 「大衆に代わる分衆・少衆の誕生」 などと分析し、ポストモダン現象のひとつとして喧伝した。

 もともとモダンという言葉は、「あなたモダンね」 というように、新しい時代感覚を表現するときに日本人の間にも広まった表現だ。大正、昭和の初期ぐらいのことである。

 大正から昭和にかけて、日本でも近代的な産業構造が整備され、資本主義的な経済システムが成長を開始したわけだが、「モダン」 というのはこの時代のそういう状況を一言で表現する便利な言葉だった。

 「モダン」 は都市と田舎の風景を変え、流通する商品を変え、人々の意識を変え、風俗を変えた。
 具体的にいうと、農村から多くの人々が流出して工場労働者として都市に集中し、都市には、彼らを中心とした新しいマーケットと文化が誕生した。

 このように 「モダン」 の誕生と発展は、産業資本主義の誕生と発展がもたらしたものだったことが分かる。

 だから、モダン (近代) の理念というのは、資本主義的生産システムが要求する倫理観に満ち溢れている。
 もっと具体的にいうと、工場労働者の規律を維持するための倫理観が、社会生活一般の倫理観にまで浸透したものだ。

 時間は厳守しなければいけません。
 無駄なことをしてはいけません。
 怠け者になってはいけません。
 隣の人と仲良くしなければいけません。
 リーダーの指示には必ず従わなければいけません。

 そのような、現在わりと尊重されている社会理念というのは、昔から人類に課せられていたものかもしれないけれど、それが 「偉大な理念」 として高く大きく掲げられ、絶対的な価値として敬われるようになったのは、モダンの時代に入ってからだといってもいい。

 ところが、これはけっこう人間にストレスを与えるものとなる。
 なぜなら、そのような理念は工場 (会社) 勤務に適する人間を育てて管理するために生まれてきた理念だから、こいつを四六時中人間に背負わせるというのは、どこかで無理が生じる。

 そもそも人間は、仲良し子良しの狭い共同体のなかで生きていた歴史の方が長いから、家庭環境も違えば、趣味も異なり、それまで話したこともない他人と過ごす時間が多い工場勤務などに長く耐えられないようにできている。
 無理をすると、どこかでストレスが溜まってしまう。それが高じるとうつ病や引きこもりなどを引き寄せることになる。

ビル2

 1980年代に流行った 「ポストモダン」 という風潮は、思想的には、近代社会が掲げる 「人間の理念」 というのは、資本主義が求めている工場勤務者の規律を当てはめたものだよ…というようなことを教えようとした面があった。
 でも、それが機能した時代はごく短かった。

 そのような 「人間の理念」 そのものを懐疑する思考は、「人間の理念」 というものが絶対的なものとして君臨していた時代だからこそ有効だったに過ぎず、今の時代のように、「人間の理念」 なんてものがグッチョグッチョになって風化してきた時代には意味をなさなくなる。

 「人間の理念」 が風化してきたのは、グローバリゼーションの時代になって、どこの国においても、一国の産業が自国単位で完結しなくなってきたことも要因となっている。
 いま流布している 「人間の理念」 なるものは、だいたいにおいて近代ヨーロッパに起源を持つが、そのような普遍性を持つ統一基準を守るには、あまりにも民族の違い、言語の違い、文化の違い、経済観念の違いなどが広がり過ぎた。

 さらに同一文化圏の中でも、富の分配が自国内で完結しないため、富者と貧者の格差が急激な勢いで広がり、そのために階層的な断絶が予想以上に進行してしまった。

 問題をややこしくしているのは、そういう状況を憂う人たちの間で、ますます資本主義創生期の 「理念」 が再強化されつつあることだ。それが、社会的な弱者をさらに圧迫する傾向を強めている。

 マスコミの話題は、自民党の総裁選挙で盛り上がっているけれど、いったいどれだけの候補者がそういうことに自覚的だろうか。 
 また、マスコミはどれだけ、そういうテーマの存在を意識に登らせているのだろうか。
 ポストモダンの時代に 「モダン」 を考えることは、とても重要なことかもしれない。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:19 | コメント(0)| トラックバック(0)

掌編小説・砂漠

 「あなたが手に持っていた物、なに?」
 テーブルの上に、スクランブルエッグの皿を置いて、妻が言った。
 「さぁ、何かな…。柄のとれたスコップだったかもしれない」
 私は、コップの中に牛乳を注ぎながら答えた。

 テレビが、朝の連続ドラマのテーマ曲を流し始めている。

 「和樹は学校へ行ったのか?」
 「もうとっくですよ」
 「バターある?」
 「あるけど、マーガリンにしなさい。もう動物性脂肪は体によくない年になっているんですよ」
 妻がレタスの葉に和風ドレッシングをかけている。

 「ねぇ、あの砂漠どこなのかしら?」
 顔をあげて、妻が言った。
 「さぁな。風が強かったな。お前、あの着物どこで手に入れたんだ?」
 「あなたが拾ったんじゃないですか」
 「そうだったね」
 私は、ぼんやりとした影のような記憶をたどりながら、コーヒーカップに口をつけた。

 「でも不思議だな」
 「不思議ね。二人とも同じ夢を見るなんて…」
 「今日は会議で遅くなる」
 「夕飯は?」
 「家で食べられそうな時間までに打ち合わせが終わったら、電話を入れる」

 「ねぇ、あの砂漠にまた行くかしら」
 「嫌だよ。もうあんなとこ…。とにかく足の裏が冷たくて…」

砂漠1
 
 本当に、足からジンジン冷えてくるような冷たさだった。
 上空はカラリと晴れ渡っているのに、砂の表面は、冷気がどこからともなく流れてきて、凍りつくように寒い。
 「これ着ろよ」
 私は、砂の上に落ちていた服を拾って、女に渡した。弥生時代の冠頭衣のような、首と手を通すところだけ穴を開けたような衣服だった。

 脱出を試みようとして、誰かが引っ張り出した救命胴衣かもしれない。
 それが落下するときの摩擦熱で変形したのだろう。
 何でもいい。
 女に渡してやれる、これが最後の品物には代わりない。

 「あなただって寒いでしょ」
 女は、膝を抱えて寒さをしのぎながら、私の方に顔を向けた。
 「いいよ、着な」
 「日が落ちたら、死ぬかもね」
 女が、のろのろと布に首を通しながら言った。

 遠い砂丘の果てに、太古の怪鳥のような羽根を広げた機体の残骸が横たわっていた。
 すでに、その尾翼は砂に埋もれて跡形もなかった。

 「たった二人だけの生存者が、私とあなただなんて。不思議ね」
 「皮肉かい?」
 「そういうつもりもないのよ。私、本当はあなたを殺したかった。奥さんにあなたを渡さないために。そして、自分も死ぬの。…なのに、二人とも生きている。これって、きっと罰なのね」

 私は、女の言葉を背中に聞き流しながら、黙って穴を掘った。
 柄のないスコップでは、土砂を運ぶだけでも腰を地べたまで屈めなければならない。
 疲れるのに、むくわれない作業だ。
 風を防ぐだけの穴にもかかわらず、まだ二人の腰まで埋まるぐらいのスペースしか作れない。

 「あせってもしょうがないわよ。私、死ぬの怖くない」
 女が物憂そうにつぶやく。
 「明日の朝までしのげば助けが来るよ」
 「誰が?」
 そう。誰も来ない。
 それは私にも分かっている。

 「ねぇ、私あなたの奥さんになりたい。奥さんになって、あなたに朝ごはんをつくって、子供を学校へやって…。そして、あなたにバターじゃなく、マーガリンを勧めるの。動物性脂肪はよくないのよ…なんて喋りながら」
 「俺は女房と別れる気はないよ」
 「いいのよ。私が奥さんに生まれ変わればいいんだから。私たち、今度生まれ変わったら、きっといい夫婦になっていると思うわ」

 地平線に日が落ちようとしていた。

 「見てごらん。すごい夕焼けだ」
 「まぁ!」
 女が立ち上がった。
 「ここであなたと死ねれば、それでもいい…」

 女が私の腕にすがって、静かに、肩に頬をのせた。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:02 | コメント(0)| トラックバック(0)

七人の侍

《 昔の映画の現代的鑑賞法 12 》
「七人の侍」


七人の侍ポスター

 この休日、BSで放映していた 『七人の侍』 を、またまたまた観ちゃった。
 「また」 が3回続いたけれど、本当はもっと観ている。何度観たか自分でもその正確な数が分からない。

 収穫期に必ず来襲する野武士の侵攻に怖れをなした村人たちが、村を自衛するために侍を七人雇って、野武士と対抗するという映画なのだが、話そのものがあまりにも有名で、ハリウッド西部劇の 『荒野の七人』 などというリメイク版も出たから、ストーリー展開がどのようなものであるか知っている人も多いと思う。

 自分の場合は、登場人物たちのセリフまでほぼ覚えているので、正直、もうドキドキ感というのはないけれど、何度観ても、唸ってしまう。

 ここには活劇映画のすべてが凝縮されている。

七人の侍1
 
 CG処理が高度に発達した今のハリウッド映画などに比べると、確かに、活劇そのものの迫力は遠く及ばない。
 だけど、リアリティというところに着目すれば、その後に出てきたどんなアクション映画も、ここで実現された活劇のリアリティの前では色あせてしまう。
 つまり、ここには 「人間」 が描かれている。

 たとえば、こんなシーン。
 剣を振り回しながら馬を疾駆させて村に乱入する野武士に、村人たちは最初は怖れをなして逃げ惑う。
 しかし、その野武士が落馬したと思いきや、一転して、彼らは狂気に駆られたように竹槍を振りかざし、惨殺の雄たけびを上げる。
 そこに描かれた村人たちの弱さとずるさと醜さ。
 というか、人間の弱さとずるさと醜さを画面は正直に伝えてくる。

 そして、立場が逆転すると、情けないほどうろたえ、逃げ惑い、命乞いする野武士の悲しい姿。
 観ているとやりきれなくなるくらい、人間の弱い部分が描かれている。

七人の侍3

 切られた腕が宙を飛ぶこともない。
 槍が内臓を抉り出して、臓腑が飛び散ることもない。
 最近のハリウッド映画の戦闘シーンでよく見られる、「過剰なリアルさ」 というものはここにはない。

 なのに、腕を切られた痛さ、槍が突き刺さった苦しさが、観客に 「痛覚」 として伝わってくる。
 ハリウッド活劇の戦闘シーンが、どんなに残酷な映像を写そうが、どこかスポーツのような軽やかさを伴っているのに対し、ここには 「戦闘」 がある。

 だから、生き残った人々の死者を哀悼する気持ちや、生き残れたことに対する安堵感がリアルに伝わる。

 CGの発達は、この世にありうべき映像を、あたかもこの目で見ているような鮮明さで伝えてくるが、それは視覚情報を充実させただけで、「痛み」 、「悲しみ」 、「憎悪」 は伝えてこない。
 黒澤明監督の映画、とりわけこの 『七人の侍』 は、奇跡的に 「痛み」 、「悲しみ」 、「憎悪」 を戦闘シーンに盛り込めた稀有な作品のひとつだ。

七人の侍2

 終わり方も秀逸。
 野武士を殲滅して平和を取り戻した村では、太鼓と笛の音に合わせて、田植えが始まる。
 村人たちのはしゃぎぶりを見つめる生き残った3人の侍。

 「また負け戦だったな」
 と一人がいう。
 「勝ったのは俺たちではない。あの百姓たちだ」

 有名なセリフだ。

 野武士が消滅し、村の平和を取り戻した村人たちに、もう侍たちの存在は眼中にない。
 村人たちにとって、あの戦闘は、結局は 「祭り」 だったのか。
 生き残った3人の侍の心を領する徒労感と喪失感。
 ここにはハリウッド映画的なカタルシスはない。

 つまり宿題を渡された形で、観客は置き去りにされる。
 この映画に描かれた戦闘って何だろう。
 戦争って何だろう。
 
 その宿題の解を求めるために、また観てしまう。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:14 | コメント(4)| トラックバック(0)

戦艦ハンバーガー

 土曜日、ハンバーガーを食べに行った。
 とびきり “アメリカン” なやつ。
 つまり、戦艦大和の艦橋 (司令塔) みたいに、縦方向にガバッといろんな層が積み重なっているやつだよね。

 ハンバーグの上に、ベーコンが重なり、トマトが重なり、ピクルスがあって、アボガドが乗ってたりという、まぁ、どうやって噛み付けばいいのか、…というかその前に、どうやって掴んだらいいのか、途方にくれるようなやつ。

戦艦ハンバーガー

 そういうのを無性に食べたい。
 …と、かなり前からカミさんと相談しあっていたものだ。

 モーターホームでアメリカを回ってきて、帰国後3ヶ月。
 楽しい旅行だったが、心残りがあったとしたら、本場のビッグハンバーガーに一度しかチャレンジしなかったこと。

 とにかく、アメリカで入ったハンバーガーショップは、みな軒並みこの戦艦ハンバーガーだった。
 それを見て、現地ではさすがに敬遠してしまったのだ。

 食う前にボリュームに圧倒された…というより、どうやって掴むのか? それを想像するだけで、手のひらが小さいという日本人的ハンディーに気づいて、怖気づいてしまったのだ。
 で、現地の 「バーガーキング」 に入っても、子供用のキッズサイズで我慢した。

 ところが、今ごろになって、複雑な層を幾重にも重ねた大和の艦橋のようなハンバーガーが食べたくなった。

 入ったのは、アメリカン式ハンバーガーの有名店。
 60年代アメリカ文化がギュッと詰まった感じの、テーマパークっぽいインテリアがいかにもそれっぽい。
 かかる音楽は、フォートップスやサム&デイブといった60年代ソウル。
 それも30㎝LPでかけている。

 ちょっとした書棚があって、アレン・ギンズバークだのといった60年代ビートニク文学の日本語版が飾られている。
 客層は、20代からせいぜい30代という若い世代。
 子連れファミリーもいたけれど、老夫婦は俺たちだけだった。

 バドワイザーとコーラを頼んで、いよいよ戦艦ハンバーグ。
 だけど、メニューがいっぱいあって、何がなんだか分からない。

 店のスタッフが説明してくれたお勧め品というものを試してみることにする。 

 で、出てきたものを正面から見ると、戦艦の艦橋というより、屋根が幾層にも重なった天守閣。

 まず下から、
 第一層はパンで、これが底を支える。
 第二層はマヨネーズをまぶしたレタス。
 第三層目は、確か、たまねぎ。
 第四層はトマト。
 第五層から肉系となる。下がハンバーグで、その上が厚切りベーコン。
 第六層はとろりとしたチーズ。
 第七層がまたマヨネーズ
 第八層にはピリ辛風味のピクルス。
 で、最上階がパンだった

 これを、どう食うのか。
 眺めるだけで、「食う」 というより 「挑戦する」 という心境になってくる。

 周りを見回すと、みな油紙なんかに包んで、器用に押しつぶしながらかぶりついている。
 
 で、さっそく真似してみたが、つぶした瞬間にマヨネーズがぴょっと跳ねて、シャツに飛んだ。
 この方法は、ある程度ノウハウを積んだ熟練者の食べ方であることが分かった。

 仕方なく、上から順番にパンを口に入れ、次にピクルスを食べ…とやってみたが、口の中に単品しか入ってこないので、ハンバーガーの意味がなくなることに気がついた。

 テーブルを見回すと、フォークとナイフがあった。
 こうなったら、フレンチスタイルでいくしかない。

 で、パンをナイフで4等分にくらいに分け、ベーコンも細かく切り、ハンバーガーも切り刻んで、皿の上に広げ、フォークですくい上げて口に運んだ。

 食べやすい。
 でも、これ、ハンバーガーの食い方か?

 味はいかにもアメリカン。
 高カロリー素材ならではの満腹感に浸ることができた。
 それはそれで、現地の 「バーガーキング」 を思い出して満足したけれど、ハンバーガーを食べたという気分にはならない。

 おいしかったね…とはいいつ店を出たが、なにしろ糖尿病の療養中の身。
 ハメを外した後に待っている過酷な減量を思うと、食った満足感も半分というところ。


 PS.結局、深夜になっても腹が空くことがなかった。
 よって、この日は2食。
 過度の高カロリー食は、意外やダイエットにつながるかもしれないことを実感した。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 03:09 | コメント(8)| トラックバック(0)

ポーの怪奇小説

 小説を読むときは、ミステリーよりホラーがいい。
 …と、このブログでもずっと昔に書いた気がする。

 真犯人を確定するまでの筋道が数学的なロジックで固められているミステリーを読んでいると、文系の自分は、途中から脳ミソがふやけて思考停止に陥ってしまう。
 しかし、最初からぐちゃぐちゃのホラーは、そういう心配がない。

 だから 「ホラーが好き」 というわけでもあるのだが、むしろ自分の読書体験の原点がホラーだったという方が、より正直な言い方になるかもしれない。

 本など読まない子だった。
 国語の時間も大嫌い。
 それが一転して、読書という喜びを知る子になったのは、中学1年か2年頃に読んだエドガー・アラン・ポーの短編のせいである。

エドガーポー肖像
▲ エドガー・A・ポー肖像

 あの頃、旺文社あたりから 『中学時代』 とかいう学習雑誌が出ていた。
 その付録に、ポーの 『アッシャー家の崩壊』 を要約した小冊子が付いてきた。

 夏休み中の退屈な午後、寝転がって読み始めたら、止まらなくなった。

 「雲が重苦しく立ちこめた、物憂く暗い秋の日を、終日、私はただ独り馬にまたがって、妙にもの淋しい地方を通り過ぎて行った」

 …という書き出しで始まるこの小説は、もうそのイントロの2~3行で、「こいつは怖そう! 夏にぴったり」 という期待感を私に抱かせた。

フリードリヒ絵画1
▲ フリードリッヒの描く絵画は 「アッシャー家の崩壊」 の冒頭シーンを彷彿させる

 主人公がそこで見るのは、崩壊寸前の荒れた屋敷。
 変わり果てた旧友の姿。
 病者の幻想が生んだかのような、奇怪な芸術群。
 死んだはずの旧友の妹が、舘の中で、密かに復活しているのではないかと思えるような不吉な予兆の数々。

 西洋ホラーの原型ともいうべき大道具、小道具がすべて揃えられ、それがあたかもクラシカルな品格に彩られた古芸術品の展覧会を見るような臨場感を持って迫ってくる。

 「四谷怪談」 とか、「番町皿屋敷」 といった日本風の怪談にはなじんでいたけれど、森と泉に囲まれた 「ブルーシャトー」 のような洋風舘で繰り広げられる “怖ろしい話” というのははじめてだった。
 雲間から下界を見下ろすような、未知のパースペクティブが突然目の前に広がる気がした。
 こりゃ怖いやぁ。でもすっごくオモシレー。

 学習雑誌の付録である要約本では物足りなくなった。

 そうしたら、たまたま両親の本棚に、要約本ではないE・A・ポーの短編を集めた完全本があったのだ。
 こっちは大人を対象にした小説集だったので、ところどころ難しい漢字も出てきたように思うけれど、そんなところは読み飛ばして、むさぼるように一から読み直した。

ベックリン死の島
▲ ポーの小説の雰囲気を絵画に置き換えると、このベックリンの 「死の島」 なんていうのも近い

 E・A・ポーという作家は、『モルグ街の殺人』 を書いたことによって、現代的ミステリーの創始者のように扱われることがある。
 でも、自分にとっては、「ミステリーを超えた作品」 を残した作家としかいいようがない。

 確かに、名探偵が明快な推理を働かせて真犯人を特定していくという手法を紹介した 『モルグ街の殺人』 は、その後に続いた無数のミステリー群の原型と呼ぶにふさわしい作品であった。

 しかし、その犯人を “ああいう存在” (ネタバレ防ぎの表現でゴメン…) として描いたということ自体が、世界で最初のミステリー作家でありながら、結果的にその後の続くミステリー作家たちを軽々と超えてしまうポーという小説家の凄さである。

 で、ポーという作家の本質は、ミステリーの手法…すなわち厳密な整合性が求められる合理的な手法で、合理では解明できない世界に描くところにあると思っている。

 彼は詩人であると同時に、詩の研究者でもあった。
 詩が読者に与える 「感動」 とは、どういうメカニズムから生まれてくるのか。

 そんな科学的な研究に没頭しながら、彼は結果的に、論理では説明し尽くせない詩の 「余韻」 のようなものを表現する神業 (かみわざ) を手に入れた。

 詩作もいっぱい残している人だから、小説を書いても、言葉ひとつひとつの吟味がタダモノではない。
 この文脈ではこの言葉しかないという一言が、びたびたハマる。
 おかげで私は、この本に登場する単語のひとつひとつが、紙に刻印された記号ではなく、みずみずしい精気を放つ “生き物” として立ち上がってくるのを感じた。

 たとえば、
 「憂愁」 、「憂鬱」 、「倦怠」 、「衰弱」 、「孤独」 、「退廃」
 などといった精神の退行を示すネガティブな単語群が、ポーの小説では、禍々しい光を帯びて、沼に浮かぶ睡蓮のように妖しい花を開かせる。

 その 「明」 と 「暗」 、「美」 と 「醜」 が逆転するポー独特の力学に、免疫力のなかった自分はたちまち感染した。
 このときほど、「死」 というものが、甘美で優しいものとして寄り添ってきたことはない。

フリードリヒ絵画2

 ポーは、27歳のときに、わずか13歳という妻を手に入れる。
 そして、彼女が24歳になったときに、死別が訪れる。
 この死んだ若い妻に対する思慕が、ポーに無数の耽美的な詩や短編を書かせるインスピレーションを与えることになった。

 作品を書くか、酒を飲むかしているときにだけ、ポーの妻は死者の国から蘇る。
 意識が覚めると、妻は死者の国に戻っていく。
 彼女があの世に戻らないようにするためには、彼は書き続けるか、飲み続けるしかない。

 しかし、過度の飲酒が、徐々にポーの心と体をむしばんでいく。

 ポーの衰弱と引き替えにこの世に登場した作品群は、どれも 「病理」 と 「憂愁」 と 「退廃」 を、ひとつの美学として昇華させるものばかりだった。

 世の中でネガティブに語られるものの中にこそ、むしろ 「美」 がある。

 子どもと大人の中間領域に立って、自分の行き場を失っている少年には、時としてこのような価値転換が、魔神の来迎 (らいごう) のように訪れることがある。

 14歳ぐらいの少年が、ときどきとんでもない犯罪をやらかすことを、世間では教育や社会の問題として解釈しようとする。
 しかし、違うのだ。

 この歳の少年というのは、「美」 と 「醜」 、「聖」 と 「邪」 、そして 「善」 と 「悪」 が価値転倒を遂げるという、精神の亀裂を体験してしまう。
 自分にとっては、ポーの小説が引き金になったけれど、おそらくそういうことは誰にもあるだろう。

 犯罪やドラッグや無軌道なセックスが、価値転倒の結果として、魔人が来迎するかのように、子供たちの心に降臨することだってある。

 「死」 というものが、ロマンチックな情緒として意識に浮かび上がってくるのもこの頃だ。

 ポーが、繰り返しその詩や短編に盛り込んだ 「死」 の気配は、自分にとっては、学校教育が教える 「生の尊さ」 よりも、はるかに魅力的に思えた。

 ちょっとした先生のお説教では、ポーに勝てない。
 死んだ妻の美しさをたぐり寄せるために傑作を残したポーと拮抗できるほどの人間が、ポーと同じくらいの切迫感をもって 「生」 の美しさを説かないかぎり、耳を傾ける気がしない。

 生意気にも、そんな風に感じていた時期もあったように思う。

 で、いまだに私は、ポーの支配権の中で生きている。

 「死の美学」 なんていう恥ずかしい言葉を口にする気は毛頭ないけれど、いまだに日常生活の中に訪れる 「小さな死」 を見つめる視線があることに気づく。

 それは、夏の炎天下から逃れて木陰に逃げ込んだときに、ふと感じる秋の気配。
 そのようなものだ。
 そこに、「夏の死」 がある。

 銀杏並木の葉が、目の前で、にわか雨のように葉を落とす瞬間がある。
 そこに、「秋の死」 がある。

 人で埋め尽くされていた公園に、一瞬だけ人影が絶えて、がらんとした空気がみなぎる時がある。
 そこに、「時間の死」 がある。

 そういう微かな予兆のように訪れる 「小さな死」 を、いつも見つめて生きている。


 ホラー小説ネタ 「キャンプ怪奇小説」
 ホラー小説ネタ 「ホラーの時代」
 ホラー小説ネタ 「性愛と闇の文学」
 ホラー小説ネタ 「ほら、ホラーだよ」
音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 10:07 | コメント(2)| トラックバック(0)

ケータイ小説流行

 今ちょっと面白い本を読んでいる。
 『ケータイ小説のリアル』 (杉浦由美子氏・著 中央公論新社) 。

ケータイ小説のリアル

 こんな書き出しに興味を持った。
 「電車の中で雑誌や文庫を読んでいる人が、最近めっきり少なくなった。代わりに登場したのが、携帯電話の画面操作に没頭する人であり、携帯ゲームを手にしている人だ」
 
 私もまた電車通勤人間だから、こういう光景をずっと眺めてきた。
 本を出す仕事をしているわけだから、そういう情景はさびしいと思うこともあるし、また 「時代の流れだからしょうがないな…」 という冷めた思いもある。

 しかし、この本では、携帯画面を見続ける人たちが、そこで小説を読み、あるいは小説を書いているという状況を伝えている。

 それが昨年あたりから話題になってきた 「ケータイ小説」 。
 携帯サイトにアクセスすれば誰もが無料で読め、書き手もまた携帯電話を使って書くという小説だ。

 そして、それを書籍化したものが、本としてもベストセラーになるというのが、このジャンルの特徴である。
 2007年度の出版流通大手 「トーハン」 の発表した年間ベストセラーでは、単行本・文芸部門で、ベスト1位から3位までを 「ケータイ小説」 書籍が独占したという。

 それらの小説を書いているのはプロの作家ではない。一般の若者が中心である。
 だから、文章もつたなく、ボキャブラリーも乏しい。
 プロの編集者の中には、そういう書籍が売上げの上位を独占することを苦々しく思う人もいる。

 しかし作者が、読み手の若者たちとほぼ等身大であることが親近感を生むのか、これらの 「ケータイ小説」 の読者層は若者を中心にどんどん広がっている。
 権威ある文芸賞を取った作家の小説が3,000部ぐらいしか刷られないような時代に、成功したケータイ小説の代表として挙げられる 『恋空』 は、発売わずか1ヶ月で100万部のセールスを記録した。

 今やケータイ小説作家の予備軍はものすごい数を擁している。
 『恋空』 は、携帯サイトの 「魔法の i らんど」 で多くの読者に支持されたことがブームのきっかけとなったが、このサイトに書き込まれたケータイ小説のタイトルは100万タイトルにも及んでいるという。

 著者の杉浦氏はいう。
 今までの活字文化が、「読む消費」 に支えられてきたとしたら、ネットや携帯サイトは 「書く消費」 を生み出したと。

 誰でも小説が書ける時代。
 それは、文芸のプロが必要とされなくなった時代でもある。
 小説のプロと編集のプロたちが作り出してきた文芸誌の 「権威」  を必要としない、新しい書き手と読み手が育っている。

 今朝ほどのテレビを見ていたら、かつて人気を誇っていた雑誌類が、次々と廃刊および休刊を発表したことが告げられていた。
 そのなかには集英社の 『月刊プレイボーイ』 誌、講談社の 『月刊現代』 などという大手月刊誌の名前も出ていた。

 どういう時代になるのかなぁ…。
 興味深くもあり、不安でもあり…。


 『携帯小説のリアル』 レビュー
音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 12:16 | コメント(4)| トラックバック(0)

ウエストリバー

 月曜日から火曜日にかけて、遅い夏休みを取った。
 結局 「秋休み」 になっちゃったけど…。

 で、行き先は、山梨県の 「ウエストリバーオートキャンプ場」 。

 くるま旅事務局さんが企画して、日本RV協会さんが進めている 「特割3000」 に加盟しているキャンプ場さんである。

ウエストリバー4

 「特割3000」 というのは、オフシーズンの平日に限り、くるま旅クラブの会員にはサイトを1泊3,000円で解放しようというもの。
 夏休みの終わった月曜なので、まさにこのシステムが機能するための条件はぴったり。

 前日の日曜日、このシステムが使えるかどうか、電話で確認を取ってから、予約を申し込んだ。
 ウエストリバーさんからすると、どうやら私たちが 「特割3000」 の始めてのお客さんらしい。
 私もまた、「特割3000」 というものをはじめて体験するユーザーである。
 お互いに、
 「はじめて同士なので、これからもよろしく」
 ということになった。

 オフシーズンの平日ということで、「電源付きでペット可でしかも芝生サイト」 という好みの条件を伝えても競争率ゼロ。
 そのサイトのエリアなら、好きなところを選んでくれて構わないという。
 キャンプ場の平日利用というのは、いろいろな意味で自由度が高い。

 管理棟で受付を済ませ、一番奥のサイトエリアまでゆったりとした坂道を上る。
 左側には、御勅使川の支流である御庵沢川が涼しげな川音を立てて流れている。

ウエストリバー5

 サイトは、その川の左側にひな壇状に広がっている。
 私たちが案内されたのは、そのてっぺんに位置するАサイトエリア。

 キャンピングカーの誘致を積極的に進めるキャンプ場にしては、ちょっと場内路と駐車スペースが狭いことが気になった。
 正直に書くと、5mオーバーのクルマはやや辛い。
 しかし、5×2mサイズの国産キャブコンやバンコンなら問題はない。
 テントスペースは広いので、オーニングを出して、さらにテントとタープを張る余裕もあるが、テントを張らない場合は、たっぷりした空間を享受することができる。

 最近はキャンプ場に行っても、オーニングすら出さないことが多かった。
 しかし、この日は午前中から入場したため、時間もたっぷり。
 久々にオーニングのポールをペグで固定し、椅子・テーブルも並べる。

 …といっても、「設営」 はそれだけ。
 キャンピングカーは楽チンである。

ウエストリバー3

 で、オーニングの下で、椅子に座り、そこからキャンプ場の最初の景観を眺めるときが、まずキャンプ場泊の最初の醍醐味。

 「いいキャンプ場だな」 という第一印象のほとんどは、その瞬間で決まる。
 だから、けっこうクルマを止めるときの向きや角度が気になる。わずか2~3mのタイヤの移動などにも神経質になる。
 クルマの水平を出すなんてこと以上に、「よい景観」 を得る方が優先してしまうこともある。

ウエストリバー2

 いやぁ、ここもいい雰囲気だった。
 手入れの行き届いた芝生サイトの向こうに広がる濃い緑をたたえた山々。
 山の間から顔を覗かせる白い雲。
 前の晩がコンクリートで固められた駐車場での 「車中泊」 だったので、オーニングを固定するためのペグが刺さる…というだけで大感激。
 はるばる片道3時間かけてやってきた甲斐もあろうというものだ。

 で、АC電源を接続して、冷蔵庫をАCモードに切り替える。
 このキャンプ場の場合は 「特割3000」 の料金内にАC電源代も含まれているので、割安感もひとしお。

 「それならば扇風機も回そう」 ということで、収納庫から扇風機を取り出してスイッチを入れたが、すぐにその必要がないことが判明。
 山のキャンプ場だけあって、下界より空気が冷えている。
 窓とエントランスドアを全開にしているだけで、冷気がすぅすぅ通り抜けていく。
 
 さて、「設営」 も終わり、この後どうやって時間を過ごすか。
 
 この 「どうやって時間を過ごすか」 を考えることが、旅の 「贅沢さ」 だと思っている。
 日常生活の中では、「どうやって時間を過ごすか」 などを考える余裕がない。すべての時間は、「あれをする、これをする」 に満ちている。

 いいねぇ。 
 何したらいいのか、途方に暮れるような時間があるってことは!
 そういう時間と向き合うことが大切なんだと思う。

 だけど、想像力の乏しい私たちは、さっそく買ってきた食材をテーブルに並べ、昼飯を食うことにした。

 といっても、例によって卓上コンロの上で、アジの開きを炙ったり、カルビを焼いたりするだけ。
 お手軽を絵に描いたような昼食だ。

 氷結果汁のカロリーオフというやつのプルトップを開けて、真っ昼間からグビッ!
 うめぇ!

ウエストリバー9

 日頃は決して犬にはやらないカルビの肉片などを、ちょっと恵んでやる。
 クッキーは、はじめて味わう禁断の味に目をシロクロ。

 アハハハ。
 うめぇモノが食いたければ、犬としての理想をもっと高く掲げろ!
 例えば耳を上下に振って、ダンボみたいに空を飛んでみろ。
 酔っぱらって説教を一くさり。

 腹一杯食って、時計を見ると、まだ2時過ぎ。
 あと、何をすればいいんだ?
 …っていう感じで、時間を持て余すという感覚が、実にうれしい。
 何度もいうが、そういう気分を味わうところに本当の 「贅沢」 がある。

 で、お犬様の腹ごなしも兼ねて、場内の散歩を思いつく。

 川原では、釣りをしている人たちがいる。
 このキャンプ場の楽しみのひとつに、釣りがある。

ウエストリバー6

 土手に立って、しばらく釣り人たちの様子を観察する。
 自分が釣り竿を握っていなくても、見ているだけでのんびりした時間を味わうことができる。

ウエストリバー7

 管理棟まで歩いて、夜酒を飲むときの氷を買った。
 ついでに、支配人の河西さんと立ち話。

 「特割3000」 は、正直、赤字を覚悟の導入だったとも。
 平日キャンピングカーユーザーが1組みぐらいしか来ないときは、お風呂を沸かしたりする準備や、その人件費などを考えると、採算が取れない。

 「しかし、一人でも多くの人にキャンプ場の魅力を知ってもらうことは大事なこと。特割3000をきっかけにお越しいただいた方が、口コミでそのキャンプ場の良さを宣伝しれくれれば、その効果の方がはるかに大きい」
 と河西さんは話す。

ウエストリバー13

 そういう前向きのオーナーの話を聞いていると、なんだか、こっちもものすごく元気がもらえるような気になってくる。

 やる気のあるオーナーのキャンプ場は、管理棟などの何気ないディスプレイなどを見ても、すぐ分かる。

 美しく、清潔感もあって、ユーモアもある。お客が心地よい空間を享受するための工夫が行き届いている。

ウエストリバー8

 このキャンプ場では、リースづくりの体験教室が開かれており、ログハウス内の全面には、オーナーやキャンパーたちが作った華やかなリースが垂れ下がっていた。
 ウッドデッキのテーブル上には、フライフィッシング用のルアーを作る用具が並べられていた。
 お客と一体となって趣味を楽しむというオーナーの姿勢が、それだけで伝わってくる。 

 また、お風呂もお勧め。
 男女別露天風呂と家族風呂が用意されているのだが、今回はその家族風呂を案内してもらった。

ウエストリバー10

 こぢんまりとした造りながら、石組みなども本格的で、実に風情がよろしい。
 感心したのは “湯加減” 。
 足を踏み入れた瞬間に、その絶妙な温度コントロールに心がしびれた。

 野外の温度変化に微妙に左右される “湯加減” は、フルシーズン快適な温度を保つことが難しい。
 そこを絶妙に温度コントロールしているところに、オーナーのお客に対する誠意を読みとることができる。

 夜は、簡単なつまみだけで、車内で酒盛り。
 音量を絞って、カセットテープの音楽を流す。

 初期ビートルズから、80年代あたりまでの洋楽。
 それがだんだん演歌に変わっていくというのが、わが家の酒盛りパターン。
 三橋美智也の 「達者でな」
 小林旭の 「北帰行」
 そういう歌にまつわる思い出話で、カミさんと盛り上がる。

 10時を過ぎた頃、音が車外に漏れているのではないかと心配になり、ドアの外に立って音量チェック。
 しかし、その心配もなし。
 音は外まで漏れていなかったし、ましてやサイトの周りには人もいないので、仮に漏れたとしても、人に迷惑がかかるわけでもなし。
 サイトが空いている平日キャンプの気楽さを、そこでも満喫する。


 朝、管理棟に挨拶に行ったとき、近くの農家で採れたという “曲がった” キュウリをもらった。
 スーパーなどにキュウリを出荷するときは、まっすぐに形の整ったものでなければ受け付けてもらえない。
 
 しかし、本当に味がおいしいのは、少し曲がった不揃いのキュウリだという。
 その流通に出せないキュウリを、たまたまオーナーの奥さんが近くの農家からもらったということで、少しお裾分をしてもらった。
 ラッキー!

ウエストリバー12

 オーナーの奥さんが手作りだという味噌をキュウリに付けて食べてみたが、なんともいえないコクがある。

 こういうハプニングに近いサービスを受けられるのも、お客の少ない平日キャンプの余録かもしれない。

旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 11:01 | コメント(6)| トラックバック(0)

若者とキャンプ場

 九州のキャンピングカービルダー 「カスタムプロホワイト」 の池田健一さんはご自分でもエッセイを書かれ、それを自社のホームページから読めるようにして、固定ファンを獲得している。

 その軽妙洒脱な筆致は、なかなかプロっぽい。
 文章の呼吸もいいのだけれど、ひとつのテーマを採り上げるときの目線がユニーク。
 キャンプやキャンピングカーをテーマにしても、ちょっと人の意表を突くような視点からものを語りかけてくる。

 たとえば、キャンプ場の稼働率を高める方法について。

 普通だったら、
 雨の日のキャンセル率を下げる方法はないものか。
 リピーターを定着させるためのイベントをどう組み上げるか。

 多くの人は、運営手法を中心に考える。

 しかし、池田さんは、キャンプをテーマにした映画をヒットさせるというアイデアをあれこれ考える。

 実際、そのような映画やドラマを誰かに制作してもらうためには、ものすごい高いハードルがあるけれど、そういうことを夢想することにおいて、今のキャンプ場運営に 「足りないもの」 が具体的に浮かび上がってくる。

 池田さんの連載エッセイ 『答は風の中』 の37話は、「私をキャンプに連れてって」 。

 かつて爆発的なスキーブームを呼び起こした映画 『私をスキーに連れてって』 の名を借りたキャンプ場ドラマだが、そのエッセイに描かれた映画のシナリオの原案が面白かった。

 詳しいことは、池田さんのエッセイを読んでいただくとして、ここでは彼のメッセージの骨子を伝えよう。

 池田さんは、「これからのキャンプ場は、若者の集客率を高めないとダメ」 だという。
 ウィークデイを自由に使えるシニア層を呼び込むことも、キャンプ場の平日の稼働率を上げることに繋がるが、同じように、比較的自由な時間を持っている学生層を狙うのも、有効な手ではないか…というわけだ。

 はっきり言って、キャンプ場には都市生活者が遊ぶようなものがない。
 テントを張ったら、もう終わりなのだ。
 しかし、だからこそ、若者たちはそういうキャンプ場に、自分たちの新しいコミュニケーションスペースを見出そうとしている。

 場内をただ歩き回るだけの散歩。
 コンビニで買った安直な食材によるパーティ。
 枕を寄せ合って語り明かす怪談話。
 …そんなことだけで、彼らは楽しい。

 PCゲームなどが生み出すバーチャルな臨場感に慣れた彼らにとって、自然以外の何物もないキャンプ場こそ、仲間たちとのナマの交流が生まれるコミュニケーション空間なのだ。

 現に先だって訪れた山梨県のキャンプ場では、夏休みも終わった月曜日だというのに、場内には若者たちの元気に遊び回る姿があった。
 同じ大学に所属する東京近県の若者たちが集まって、最後の夏休みを楽しんでいるのだという。

若者とキャンプ場1
▲ キャンプ場場内の川原で遊ぶ若者たち

 テントを持っていない彼らは、コテージの前で、簡単な食材を皿にぶちまけただけの慎ましやかなパーティを繰り広げる。
 飲み物はペットボトルのジュースと缶ビールだけ。

 ファミリーキャンパーが手際よく食材を調理していくのに比べ、彼らのキャンプはつたない。

 でも、とても楽しそうだった。
 ほほえましい光景に見えた。

 若者のキャンプというと、すぐ川原などでバーベキューを食べながら騒ぎまくるというイメージを持つ人も多いようだが、彼らは、管理人の目が行き届いているキャンプ場などに滞在するときは、すごく従順であるらしい。

 あるキャンプ場の管理人さんはこう話す。

 「確かに若者同士のキャンプ場は騒がしいときもあります。何度か注意しなければならないこともある。
 しかし、それとて大人たちの酔った集団が騒がしいのに比べると、とても可愛いものだし、注意すれば素直に聞いてくれる」

 キャンプ場は、若者グループにマナーを学んでもらうという教育の場としても機能しているようだ。

 キャンプ場の未来は若者が握っている。
 そこに着目したのが、今回の池田さんのエッセイ 『私をキャンプに連れてって』 だ。

 1987年の 『私をスキーに連れてって』 は、バブル期の若者たちに、トレンディな遊び場としてのスキー場というものを再発見させた。
 それが未曾有のスキーブームを呼んだ。

 あれから20年。
 確かに、その後に続く若者たちは、もう日本が上昇気流に乗って空に浮かび上がっていくような感覚を持てないまま青春時代を過ごすようになった。

 「このまま生きていっても、環境はどんどん悪くなるばかり」
 そんなマイナス思考が、今の若者の心の奥深くまで食い込んでいる。
 そこが、華やかな消費行動が人間同士をつなぐきっかけとなった 『スキーに連れてって』 の時代とは違う。

 しかし、そういうマイナス成長の時代だからこそ、キャンプ場泊のコストパフォーマンスの良さに注目する若者たちも増えている。

 それはまた、遠く回って未来のキャンピングカーユーザーを広げることを意味している。
 池田さんのエッセイ 『私をキャンプに連れてって』 は、そんなことまで示唆しているような気がする。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 15:46 | コメント(0)| トラックバック(0)
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