町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

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PCゲームの怖さ

 若者が “常軌を逸した” 犯罪などに手を染めると、すぐ有識者といわれるコメンテーターたちが登場してきて、テレビゲームやパソコンゲームのせいだと強調する。
 「バーチャルな世界に親しみ過ぎると、リアルな世界との識別が困難になり、それが安易に犯罪に手を染める意識を生み出す」
 というような説明だ。

 「そういう世界で遊ぶ若者は、人の生き死にもゲームのリセット感覚のように捉えてしまうから危険だ」
 というわけだ。

 私もまた、コンピューターゲームの世界は危険だ、と断じる人間の一人である。

 ただ、それは彼らがいうような 「バーチャルな世界とリアル世界を混同するから」 というような意味ではない。

 だいたいそのような説を主張する人たちは、ゲーム機などに興じたことのない人たちだ。
 ゲーム機のコントローラーなどに触れたこともない人たちほど、コンピューターゲームを 「社会問題」 や 「文化の問題」 として捉えたがる傾向がある。
 しかし、ゲームを知らない人たちがいう言説はアテにならない。

 私は、コンピューターゲームのヘビーユーザーとして、自分の体験を踏まえて断言する。
 「あれは危険だ!」

 どういう危険かというと、麻薬と同じような機能を持っているからだ。
 つまり、ハマると抜け出すのが容易ではない。

 コンピューターゲームという存在を知ってから、かなりの年月が経つ。
 任天堂のファミコンで 「ドラクエⅡ」 や 「ドラクエⅢ」 に興じた頃からだから、もう20年以上前のことになる。

ドラクエⅢ

 そのうちファミコンがスーパーファミコンに変わり、さらにプレイステーション、セガサターン、プレイステーション2、さらにPCと変化した。

 ドラクエは 「Ⅴ」 で飽きて、その後は主に歴史ものに関心が移った。
 特にKOEIの 「信長の野望」 、 「大航海時代」 、 「提督の決断」 、 「チンギスハーン」 シリーズはお気に入り。
 クリアするのが目的でないから、ちょっとした設定の変化で際限なく遊べる。

信長の野望ゲーム 提督の決断ゲーム
 
 ファミコン時代から数えて20年…。
 1日平均4時間遊んだとしても、時間換算で3万時間はゲームの中で過ごしてしまったことになる。

 多いときは、1日15~16時間ぶっ続け。
 社会人になってからハマったので、子供と違って、注意したり、怒ったりしてくれる大人がいるわけではない。

チンギスハーンゲーム

 アパート暮らしだったから、居間に1台しかないテレビは、彼らが起きている間は子供かカミさんの所有物になっている。
 そこにゲーム機を接続して遊び始めるのは、子供とカミさんが寝た後の深夜だ。テレビの明かりをだけを頼りに、音も消して、一人コソコソと興じる。
 朝まで遊んで、そのまま出勤したこともある。

大航海時代ゲーム

 仕事中も、家に戻って遊ぶゲームのプロセスしか思い浮かばない。
 あれほど好きだった音楽とも、読書とも縁遠くなる。
 飲み屋に顔を出す時間ももったいなくなる。
 それほどゲームは楽しい。

 何が楽しいのか?
 理由などないのだ。
 もったいぶった言い訳はいろいろ作れるけれど、正直なところ、「楽しい」 ということに理由や説明などをつけることはできない。

 ゲームは役に立つか?
 立たない。
 かつて、「ドラクエは新しい時代の文学として機能している」 と論じた人がいたけれど、そんなのウソっぱちである。
 だって、文学以上に楽しい。

 ゲームは 「癒し」 になるか?
 ならない。
 睡眠不足と、仕事のモチベーションの退化と、家族との不和をもたらせるだけだ。

 「楽しい」 ということ以外、あらゆる価値が無になる世界。
 ゲームが手招きする世界は、絶対的な 「虚無」 に満ちている。

 この冷え冷えとした不毛感。
 それは合理性や功利性という光りが届くことのない暗黒の宇宙だ。

 この「役に立つ」 という原理の彼岸にいるコンピューターゲームという世界は、「人間は経済原則に従って動く動物だ」 と信じている人には、ちょっと理解できない世界だろう。

 もし、ゲームにハマらなければ、自分はもっと生産的な時間の過ごし方をしていて、さらに良い暮らしができていたように思う。

 あれだけ無駄に費やした時間を、もし本でも読む時間に回したら何千冊と読めた計算になる。
 語学の勉強でもしたら、何千時間。
 映画でも見たら、何千本。

 …そのように換算をすると、ゲームで失ってしまった時間の多さに呆然とする時がある。
 もしあれを、もの心のつかない子供の時代から始めていたら、自分は社会蓄積のまったくできない 「精神の廃人」 になっていただろう。

 いま仕事に役立っている “教養” とか、“知識” というようなものは、基本的にゲームにハマる前に仕入れていたものでしかない。
 つまり、ゲームを知って以降、私は基本的に “勉強” というものをしていない。

 しかし、そういう生産的で前向きな人生から脱落してしまっても、なんら悔いがないほどゲームは面白い。
 そこが怖い。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 15:42 | コメント(4)| トラックバック(0)

迷える者同士対談

【A】 今日はこうしてさぁ… 「不慮の事故死」 として葬り去られた者同士の対談という形を取っているけれど、Bさんはこういう企画が来たとき、どう思った?
【B】 そうですね。まぁ、もう現実にコミットすることなんてないだろうなぁ…と思っていましたから、ちょっと慌てましたね。
 話すことを思い出しながらメモして、しゃべる内容のラフ原稿まで書いたんですけど、いまだにまとまっていない状態… (笑) 。

【A】 そうだよね。死んだ人間の中にはさぁ、自殺のようにはっきりと自分で自覚している死もあるけれどさぁ、俺たちみたいに、「あれ、なに?」 って感じで、気づいたときには……というか、気を失ったときにはさぁ、もう命がなかったっていう人間もいっぱいいるからね。
 俺だって、あのとき何が自分の身に降りかかったのか、いまだに分からないもの。

【B】 Aさんの場合は、目撃者はいなかったんですか?
【A】 そう。田舎町の踏み切りで、深夜だからさぁ、人通りなんかないのよ。で、雨の日で、俺は傘差して踏み切りを渡っていたわけ。
 もう電車なんか走っていない時間帯だからさぁ、よもや線路を乗り物が暴走してくるなんて思わないもんねぇ。

 で、「あれ、何か来る!」
 と思ったときには、いきなり真横からガァーンよ。
 電車じゃなくて、酔っぱらい運転で、間違って線路に入り込んでしまった乗用車が、あわててバックしてきたところだったんだわ。

【B】 そういうのって、理不尽ですよね。自分の過失ってのがまったくないわけじゃない? それで死ぬって、ほんと死にきれないですよね。
【A】 ほんと。だから俺、いまだにその運転手のところに化けて出てやるもの。
 そいつが、恐がって悲鳴を上げるのを見ることだけが楽しみ。
 この前なんてさぁ、「もうしません、しません」 って泣きながら、茶碗を箸で叩いているの。チャンチャン…てリズミカルに。
 俺、なんだか笑っちゃった。

 でもさぁ、最近そういう自分にだんだん嫌気が差しているのよ。
 俺って、そんなことにしか楽しみを見いだせない小さな人間だったのかって…。そう思うと、だんだん切なくなってきてね。

【B】 家族のところには出ないんですか?
【A】 うちの家族はみんな鈍感でさぁ。家の仏壇には俺の遺影もあるのよ。
 その前で妹なんか、ときどきロウソクに火を灯して、手を合わせてくれるんだけどさぁ、俺がそのロウソクを、ふっと吹き消しても、
 「お母さん、こんなシケたロウソク買ってもだめよ」
 って、さっさと席を立っちゃっちゃうだけでさ。

 オヤジが晩酌している杯に、そっと桜の花びらを落としてやってもさぁ、
 「おーい、窓が開けっ放しだぞー」
 なんて叫ぶだけなのよ。
 みんな霊感ゼロ。
 ああいう感受性の乏しい家族の中で生まれたことを、今では悔やむね。

【B】 われわれが一番辛いのは、せっかく出ても軽くあしらわれちゃうときですよね。
 私は、どちらかというと屋内が専門なんですが、たまたま得意なフィールドが廃屋なんですね。

森の夜道

 で、廃屋の中に入ってくる人間に、風もないのにふぅーとドアを閉めてみたり。
 どちらかというと、正統派の脅かし方だったんですが、近頃 「廃虚ブーム」 じゃないですか。
 持ち主が去った廃屋で、お化け大会などを試みる若者たちが増えたわけ。

【A】 あれ嫌だよね。平気で懐中電灯を向けてきたりするものね。
【B】 女の子たちは 「きゃー怖い!」 とか叫ぶけど、そういう声を出すことを楽しんでいるのね。
 つまり、テレビに出てくる幽霊屋敷特集のノリなんですよ。

 結局、「テレビに出てくるタレントのように恐がることがトレンディ」 って、感じで、この世を超えた世界の存在にというものに、畏敬の念がないというか、死者の魂に対する感受性が欠如しているというか…。

【A】 でも、それは仕方がないんじゃない? 
 今の世の中というのは、どんどん電子工学的に 「人間」 というものを考えるようになったから、「幽霊とかいっても、それは脳内物質のどういう作用によって幻覚が…」 ってな説明になってしまう。

【B】 そう! だからスピリチュアルブームってのが、逆に起こるわけですよね。
 結局、本来なら、人間は 「現実的な説明体系を超えたところに存在する何か」 というものに、もっと深く頭 (こうべ) を垂れる謙虚さというものがなくてはいけないはずなのに、工学的な説明体系が行き渡ってしまったために 「スピリチュアル」 が、逆に遊びになっちゃった。

【A】 まったくエンターティメントだもんなぁ…。
 霊感ブームなんてさぁ、科学的な思考がはびこるようになったための、逆作用だよね。産業構造の変化によって、合理性・効率性というものが当たり前のように一般生活レベルに浸透したわけでしょ。

 それって、結局は 「退屈な社会」 だからさぁ、その合理的な社会の枠組みに、ちょっとした亀裂を入れて、退屈を紛らわす。
 それが、現代的なホラーのニーズだよね。
 だけど、それ自体が俺たちからすれば退屈だよね。

【B】 お化け、怖い、すっきりした…という反射神経の連鎖で終わっちゃうからね。
 ところで、Аさんは化けた後の疲労回復はどうされているんですか?
【A】 特に何かのケアをしているということはないのよ。数日ボケーッとして安静状態を保っているだけ。
 でも、だんだん化けるのも辛くなってきたよ。年かね。

【B】 お化けに 「年」 は関係ないでしょ (笑) 。まぁ、あの化けた後の辛さって、生きている人たちにはちょっと想像できないでしょうね。
【A】 たいていのヤツは、みんな死んでから化けるのを楽しみにしてやってくるけれど、あの辛さを経験すると、たいてい 「もういいや」 っていう気になっちゃうよね。
【B】 死者はどんどん蓄積しているのに、幽霊の数が増えないのはそれが原因ですよね。

【A】 しかし、退屈だね。
 生きているときはさぁ、「人間は必ず死ぬもんだ」 という意識がどこかにあったから、それなりに緊張感があったけど、「もう死なない」 ってことになっちゃうと、そういう緊張感がなくなってダラけるよね。
【B】 それが我々の最大の課題ですね。
 少し元気を蓄えて、生きているヤツらがびっくりするような場所に、化けて出ません?
【A】 だけど、この世に幽霊が出てびっくりするような人間が減ったよな。
【B】 ホント…。生きている連中の方が、びっくりするようなことばかりやらかす時代ですもんね。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 11:30 | コメント(0)| トラックバック(0)

映画のノイズ

 『 ターミネーター3 』 (2003年公開) をDVDで観る。
 未来の地球で起こるアンドロイド (ロボット) と人間の戦いにおいて、戦いに敗れたアンドロイド側が、自分たちが負ける原因をつくる人間側のキーマンを除去するために、タイムマシンに乗って、未来の世界にから現在の世界に飛んでくるという話。

ターミネーター3DVD

 主人公は、未来の戦争で人間側を勝利に導く科学者なのだが、アンドロイド側はそれを事前に封じ込めようとして、科学者を葬り去るために暗殺用アンドロイド (ターミネーター) を差し向ける。

 シリーズ1作目では、その不気味なターミネーターをアーノルド・シュワルツネッガーが好演して大ヒット。
 これが彼をスターの座に押し上げるきっかけとなった。

ターミネーター3シュワちゃん

 3は、そのシュワルツネッガーが、今度は人間側を助けるアンドロイドとなり、未来社会から送られてきた女性型ターミネーターと闘うという設定。

 女性型ターミネーター 「TX」 を演じる女優 (クリスタナ・ローケン) がチャーミング。美しい容貌と肢体を持ちながら、人間の心を持たない冷酷な殺人マシーンとして機能するというアンバランスさがこの映画の魅力になっている。

ターミネーター3女性ロボ

 見せ所は、とにかくアメリカ映画らしい自動車や建物をド派手に壊しまくるアクションシーン。
 人間をワイヤで吊るしてCGと絡めるという非現実的なアクションとは違い、あくまでも肉体と肉体、自動車と自動車がフィジカルにぶつかりあう古典的なアクションであることが特徴となっている。

 確かに、「撮影中にけが人が出なかっただろうか」 と心配させるほどのリアリティは確保できたが、単にそれだけの映画ともいえる。
 見終わった後には何も残らない。


 私のような旧世代人間は、こういう最近のハリウッド系アクション映画を観ると、どんな映画もみな同じに見えてしまう。
 視聴覚に携わる神経をシャワーを浴びせるように刺激するという意味で、遊園地のジェットコースター的な映画が増えたような気がする。

 つまり、アクションは派手だが、そこに登場する人間たちは、行動も思考も観客に分かりやすいようにパターン化され、視神経を心地よくマッサージされることだけを望んでいるお客の 「ノイズ」 にならないように設定されている。

 「ノイズ (雑音) 」 とは、いわば監督が表現したかったものと、実際に表現された映像のズレだ。
 監督の意図したものが、100パーセントのうち10パーセントぐらいしか達成できなかったもの。
 あるいは逆に、150パーセントぐらいまで過剰になってしまったもの。

 そういうように、監督の独りよがりで観客には伝わらないものも含めて、映画には、そういうアンバランス感が混入してくることがある。

 たとえば、
 好意とも侮蔑とも取れるような、俳優のあいまいな笑い。
 あるいは、俳優が何かを凝視しているところを写しながら、その凝視している対象を紹介しないようなカメラワーク。
 何かを言いかけて、言葉を止めてしまった唇のアップ。

 そういう解釈不能の映像を差し挟むことは、画面のスムーズな流れに竿をさすという意味では、ノイズでしかない。

 しかし、そういう微かなノイズの中に、逆に、その監督が描こうとしたものが何であるかを観客に想像させる余地が生まれる。

 小説では、これを 「行間を読む」 と表現をする。
 つまり、文字として刻印された言葉と言葉の空白に、作者の複雑な思いやその苦闘ぶりを読むことをいう。
 「行間を読む」 とは、文学のノイズに耳を傾ける行為だ。

 近代に生まれた小説という文学は、読者がこのノイズに注目することによって、市民権を得た文芸形式ともいえる。
 そこが、定型化された主人公たちが活躍する中世の叙事詩と異なる点だ。

 村落共同体のような社会で生きていても 「パターン化されない自分」 があるということを、近代になって、人々は小説から知るようになる。
 …というか、パターン化されない個人というものを小説が “つくった” わけだね。

 映画におけるノイズもまた、観客に向かって、「パターン化されない観客」 という立場があることを教えてくれる。

 このざらつき感・抵抗感がないと、観客は生理的快感のおもむくままに、スムースな流れに乗って最後まで押し流されてしまう。
 で、「面白かったね、気分がさっぱりしたね」 だけの映画になってしまう。

 昔の映画監督は、そのへんを心得ていて、登場人物の心がストレートに画面に出ないような演技を、わざと役者に求めた。

 しかし、最近のハリウッド映画は、俳優の 「分かりにくい演技」 を極力排除しようとする。
 俳優の演技もストーリーも徹底的に定型化し、代わりに、視神経的な刺激が効率よく観客に伝わるような映画づくりを進めている。

 この 『ターミネーター3』 という映画は、最近のハリウッド映画のそういった特徴をよく備えた作品であるが、私にとって面白かったのは、「人間の心を持たない」 とされるターミネーターたちの方がはるかに人間っぽくて、逆に、悪いターミネーターに追われる人間の主人公たちの方が “つくりもの” っぽい印象に描かれていることだった。

 つくりものっぽく見える理由は、喜怒哀楽の表現がまったくパターン化されているからだ。

 主人公たちは、「人間というものは、こういう “刺激” をインプットされると、必ずこういう “反応” をアウトプットする」 という、まるで正確な機械のような行動を観客に示す。

 それに対し、表情を凍らせた寡黙なターミネーターたちは、「耐える人間」 の風格を漂わせている。
 彼らは、心の奥に去来する思いを静かに封印し、与えられた任務だけに忠実になろうとする真面目人間の悲哀を表現しているかのようだ。

 どっちがターミネーターなんだよ…と、つい思ってしまう。 

 私のような旧世代の映画ファンは、俳優たちのパターン化された演技というものに“つくりものっぽさ”を感じてしまうのだけれど、たぶん、新世代の映画ファンにとっては、そこはどうでもよいことなのかもしれない。
 それよりも、「絵の動き」 が大事なのだ。

 アクションはスピーディーに。音は大きく。色は鮮やかに。
 高度に発達した視聴覚文化の中で育った若い観客たちにとっては、映像の鮮烈度が 「リアリティ」 を決定する。
 戦闘シーンなどでも、鮮血がほとばしり、首が飛び、切られた腕が宙に舞う映像を執拗に描きながら、さらに 「バスッ!」 、「ドサッ!」 という効果音を強調する。

 そういう傾向は、日常感覚をコミックで養った人たちの求めるものに近い。

 たぶん、映画あるいはテレビドラマにおいて、人々が感じる 「リアリティ」 というものが変わってきているのだ。
 主人公たちの感情の動きはパターン化し、代わりに映像のテンションを高める。
 それが現代的な 「リアリティ」 の出し方なのかもしれない。

 私のような、小説などをベースに日常感覚を養った世代は、このコミック系のリアリティに物足りなさを感じるのだけれど、人間の感覚は時代の文化やテクノロジーに準拠するものだから、そんなことを言っても時代から取り残されていることを吐露するようなもの。

 新しいリアリズムを獲得した人たちからみれば、何をやっているのか伝わらないような俳優の演技など、まどろっこしいだけ。
 現代の映画シーンにおいては、ノイズは文字どおり 「ノイズ」 でしかなくなったのだろうと思う。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 13:42 | コメント(2)| トラックバック(0)

殉教カテリナ車輪

 飛鳥部勝則氏の書いた 『殉教カテリナ車輪』 (創元推理文庫) というミステリーを読んだ。
 絵に描かれた謎を解くことが、犯人を当てることになるという、非常に面白い構成を持った作品だ。

殉教カテリナ車輪

 絵に描かれたものの意味を解くことで、その絵に込められたメッセージを読み解く学問を 「図像学」 という。

 西欧の古典絵画では、絵が民衆にメッセージを伝えるメディアとして機能するという部分があったので、昔の絵画では、その絵の背景に描かれたひとつひとつのものが何かの意味をはらんでいた。
 たとえば、百合の花は 「純潔」 を象徴し、犬は 「忠義」 を意味しているというような約束事や決め事が定まっていたのだ。

 この 『殉教カテリナ車輪』 という小説では、その 「図像学」 を “犯人探し” に使おうという、きわめて面白い試みがなされている。

 謎解きのヒントとして出される2点の絵が、巻頭にグラビアとして掲げられている。

 まず、このグラビアが人の目を引く。
 作者自身によって描かれた絵だというが、謎めいていて、官能的で、妙に記憶に残る。
 ちょっとばかり野暮ったいセンスなのだが、そこが逆に、昭和初期の大衆雑誌の挿し絵風で、なんとも扇情的だ。

カテリナ挿し絵1 

 ミステリーなどほとんど読まない自分が、思わずこの文庫本を手に取ったのは、何よりも 「絵の謎を解く」 という設定自体が趣味にかなったからだ。
 推理小説は好きではないが、絵画の意味を推理したりすることは好きなのだ。

カテリナ挿し絵2

 本書の構成は大きく三つに分かれる。

 第一部は、美術館に勤める学芸員が語り手となって話が進む。
 町のローカルアーチストの作品を集めた美術展が開催されたとき、主人公の学芸員は、ある絵に注目。
 興味を持ったきっかけは、たまたま、その絵に描かれたモデルが彼の 「妻」 に似ているというだけのことだったが、絵の持つ奇妙なインパクトに好奇心を抱いた学芸員は、作者のことを調べ始める。

 すると、その無名の画家が、すでに自殺を遂げている人間だということが分かってくる。
 自殺の動機は不明。
 その画家が何を悩み、何に苦しんでいたかを知る手がかりもない。

 死後に残された絵は、たった3点のみ。
 その3点の絵には、どれも不思議なメッセージが隠されているように見えるのだが、その意味がつかめない。

 さらに興味を持って、その画家の周辺を探っていくと、画家に関係した人々の間で迷宮入りした 「密室殺人事件」 が起きていたことが分かってくる。

 学芸員は、画家の残した絵に事件の謎を解く鍵がありそうな気がして、図像学の知識などを動員しながら、絵解きを始める。

 その作業の過程で、死んだ画家の特異な境遇や精神状況が少しずつ浮かび上がってくるのだが、事件を包む闇はますます深さを増すばかり。

 しかし、第一部の終わりに、事態は急展開する。
 偶然にも、ひとつの絵の裏から画家が残した 「手記」 が発見されたからだ。


 第二部は、その画家の 「手記」 という形で進む。

 その手記から、謎の絵を残した画家が、一人の少女に特別な思いを抱いていた様子が浮かび上がってくる。

 画家の少女に対する思いは、世間的に見ると不倫の匂いを放っていたが、画家にとっては 「純愛」 であり、その少女の存在自体が、芸術活動をうながすインスピレーションの根源となっている。

 もちろん2人は 「男女の仲」 になったわけではない。
 画家が少女に寄せる思いは、宗教的なものを感じさせるほど禁欲的である。
 しかしながら、そこには濃密なエロスがみなぎっている。
 それが、その画家が描いたとされる絵 (巻頭のグラビア) からも伝わってくる。

 交際していた2人は、やがて、画家の家族や少女を巻き込んだ殺人事件に出会う。
 殺された人物が少女と特に関係の深い人間だったので、小説の中では、その画家もまた容疑者の一人である可能性を帯びてくる。

 しかし、真相はもちろんまだ深い闇の中。

 第三部には、第一部で語り手を務めた学芸員の同僚が登場する。
 この同僚が新しい語り手となって、迷宮入り事件の真犯人と絵の謎を解明することになる。

 同僚は、まず画家の書いたとされる 「手記」 そのものに疑問を持つ。
 そして、手記の矛盾点、ほころびを解きほぐすことによって、じわじわと真犯人を割り出していく。
 そして最後には、自殺した画家が不思議な絵に託した 「真意」 も明らかにする。

 作者の狙いは見事に成功!
 絵の謎解きと、事件の謎解きが同時に進展していくという発想が面白い。

 読者は、主人公たちが絵の意味を解明していくたびに、常に巻頭に掲げられた絵を見直すことになる。
 すると、不思議!
 絵そのものの印象が、最初に見たものからどんどん変わっていく。
 近年のベストセラー、中野京子氏の 『怖い絵』 と同じ構造だ。

 ただ、「絵」 の解釈が事件解明につながるような展開を見せながら、結局は「手記」 という “言葉” の世界に属するものが、犯人確定につながるという設定には惜しいものを感じた。
 もし、これが 「絵」 を解くことによって犯人が割り出される展開になっていたら、それこそ今までのミステリーを超えるものになっていたと思うが、ちょっと残念。
 しかし、試みとしてはとても面白いものだった。

 この作家には、ミステリー以外のものも期待したい。
 ミステリーという 「答を出さないと読者が納得しない世界」 とはひと味違ったものにも、ぜひチャレンジしてもらいたい。

 ミステリー…それも本格派が好きでない自分から言わせると、謎が解明されてしまうから、ミステリーはつまらないのだ。
 ダ・ヴィンチの描いた 「モナリザ」 が永遠の名作となっているのも、あの絵に秘められた謎を解明する手がかりがないからだ。

 真犯人が誰だが分かることよりも、読み終わった後に 「素晴らしい謎」 が残ることの方がうれしい。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 11:10 | コメント(0)| トラックバック(0)

ビートルズを歌う

 ちょっと前に、「再びビートルズにハマっている」 という記事を書いた。
 …で、まだ続いているのだ。

ミートザビートルズ

 相変わらず歌の練習をしている。
 誰かに聞かせるためではない。
 カラオケルームに閉じこもって、独りで歌って気持ちよくなるためだ。

 で、練習するために 『ビートルズマイナス1』 という6枚組のCDが欲しいのだけれど、価格が1万2,600円。今のところ、ちょっと手が出ない。
 何でもこのCDは、オリジナル音源にほぼ忠実に作られながら、ジョンやポールのパートが抜けていて、それを歌い手が補うようになっているのだとか。

 つまり 「シーラブッジューユー」 とか歌うと、すかさず 「イエイエ」 とコーラスが被さるようになっているわけ。
 初期ビートルズの凄さは、このボーカルのかけ合いとコーラスの妙味にあるわけだから、「カモナベイビーナー」 って歌ったときに、すかさず 「カモンベービー」 ってコーラスを被せてくれると、どんなにゾクゾクするか、想像しただけで気が遠くなる。 

 でも、そんな便利なCDも今のところ買えないので、仕方なくオリジナル音源をかけながら、一緒に歌って練習している。

 この前、そういう自分の練習曲だけを集めた特別音源を編集してみたら妙なことに気が付いた。

 ポール・マッカートニーの曲を意外と選んでいる。
 ジョン派を気取っていた自分にしては、「おっとっと…」 。

 だけど、自分で歌うことを前提に聞いてみると、あらためてポールの凄さに脱帽した。
 特に、「キャント・バイ・ミー・ラブ」 とか 「デイ・トリッパー」 、 「ドライブ・マイ・カー」 とかはぶっ飛びモンだ。
 ああいうブルースコードを使いながら、ブルースでもなく、ロックンロールでもない独特のスイング感をかもしだすなんて、やっぱりこの人は天才なんだと思う。

 なんていうんだろ、…このスイング感。
 おそらくポップス用語風にいうと、「ドライブ感」 とか 「グルーブ感」 といった表現になるのだろうな。
 キリを揉むように、グイグイッと腰を回して、ひとつの穴を猛烈にこじ開けていく感じ…ゴメン、なんか誤解を招きそうな表現で。

 で、そういうドライブしていくリズムに身をまかせ、ズコズコと腰が入った瞬間にポールのボーカルが炸裂していくときの快感ったら、「あっ、イクイク」 …ゴメン、また誤解を与えそうな表現で。

 ハイトーンの部分がちょっとビブラートする、あの 「ホォー」 っという唸りを聞いていると、「この人は、歌を歌うために生まれたんだなぁ」 という気持ちを強くする。

 このポールが、リトル・リチャードの 「ルシール」 をカバーした無名時代の音源が出てきたが、それを聞いたとき、はるか後に輩出したツェッペリンのロバート・プラントも真っ青になるだろうな…と感じた。

 で、今のところ、ポールの曲では、「オール・マイ・ラビング」 はオリジナルキーで歌えるようになった。
 これはいちばん歌い込んでいる歌だけど、自分でギターを弾いては歌えない。
 1音符ずつ変化するコードチェンジに左手が着いていけないし、せわしない返しが要求される3連符のカッティングに右手が着いていけない。今のところカラオケで歌うしかない。

 「シーズ・ア・ウーマン」 は、調子の良いとき歌うと、オリジナルキーに届く感じ。
 これも地味だけど、ポールの隠れた名曲。
 音構成はシンプルながら、リズムギターのカッティングがカミソリの切れ味を連想させるほどスリリング。

 ブルースコードに則った黒人テイストの曲だけど、言われないとそうとは気づかないほど、ビートルズ化したブルースになっている。
 こういう歌を知らず、「イエスタディ」 とか 「レット・イット・ビー」 のポールしか知らないファンは不幸だと思う。

 大好きなジョンの歌では、「ユー・キャント・ドゥ・ザット」 はなんとかマスター。
 いま挑戦中なのが、スモーキー・ロビンソンのヒット曲をジョンがカバーしたR&Bの 「ユー・リアリー・ガット・ア・ホールド・オン・ミー」 。

 原曲もいい曲だけど、ビートルズの歌と演奏は確実に原曲をしのいでいる。
 こういうミディアムテンポのブルージーな曲をやらせても、ビートルズはエネルギー感を盛り込むのがうまい。

 ビートルズのカバーを聞いてから、オリジナルのスモーキー・ロビンソンのレコーディングを聞いてみたが、こっちは 「温泉に浸かって鼻歌を歌っているようなのんびり感」 があって、まったく別の歌だと思った。
 で、この曲は歌詞のテロップさえ見れば、歌えるようになった。

 次に歌ってみたいのは、ジョンがバレット・ストロングの曲をカバーした 「マネー」 。
 この曲は凄いよ!
 「ツイスト・アンド・シャウト」 に似た調子の歌だが、もっと不良っぽい。

 「オレが欲しいのは金だけよ」
 と、ふてぶてしくシャウトする若いジョンの粋がりに、ズシーンと下半身がしびれる思いがする。

 で、ジョンのシャウトを聞くと、
 「やっぱ深みが違うねぇ!」 って思い直したりする。

 それにしても、この時代の曲はみんな短い。
 1分から2分。長くても3分。
 今のJポップの2分の1か3分の1程度の時間で終わってしまう。

 仲間と一緒にカラオケに行ったとき、同じ1曲歌うにも、なんか損した気分になる。
 そういう考え方って、変?


 関連記事 「ビートルズの評価」
 関連記事 「ジョン・レノン節」

 ちなみに、ジョンのシャウトする 「マネー」 (↓) もどうぞ。

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コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 10:42 | コメント(2)| トラックバック(0)

バグダッドカフェ

《 昔の映画の現代的観賞法 11 》
「バグダッド・カフェ 」


 雨の日曜日。
 出かける予定もなく、オリンピックも終わって観るべきテレビもない。

 こういうときこそ、買いだめしているDVDの中から面白そうなものを引っぱり出して観るというのが、わが家の休日の過ごし方。

 今回は 『バグダッド・カフェ』 。
 公開当時 (1987年) から、映画好きの仲間内では評判だった映画だが、リアルタイムでは見損なっていた。
 今年になって、ツタヤの中古品コーナーで入手したものだ。

バクダッドカフェDVD1

 映画の舞台は、ラスベガス近郊の街道沿いにあるカフェ。
 モーテルとガソリンスタンドを兼ねている店なのだが、客の姿は皆無で、常連客が挨拶に顔を出すぐらいの怖ろしいさびれようだ。

 看板も店内も部屋もボロボロ。
 砂埃が舞い上がる乾いた大地にポツンとたたずみ、まるで朽ちていくのを静かに待っている廃虚のようだ。 

 でも、なんだかそういう光景を観ると、とても懐かしい。
 つい3ヶ月ほどまで、そんな景色を眺めながらアメリカを走ってきたからだ。

 褐色の大地を貫く直線路に沿って、どこまでも続く電信柱。
 その下を猛スピードで走り抜ける長距離トラック。

 ホコリの舞い上がる大地の果てに広がる殺風景な山並み。
 その山に向かってトロトロ走る長い貨物列車。

 そして、名もない町の片隅にひっそりとたたずむ古びたモーテルやカフェ。

 アメリカ旅行では、そういう景色をフロントガラス越しに眺めながら走ったが、沿道で暮らす人々の生活までじっくり観察することはできなかった。
 しかし、この映画を観て、旅の途中でモーテルに立ち寄り、しばらく暮らしたような気分になった。

 ネタバレごめんで、ある程度話の筋を明かしてしまう。

 物語は、砂漠の中でケンカする夫婦のシーンから始まる。
 夫婦は、昔の貴族の館で繰り広げられるパーティに参加するようなクラシカルな衣裳に身を包んでいる。
 ドイツ人のお金持ち家族なのだ。

 2人は、ディズニーランドに観光に来た帰りらしい。
 彼らの時代錯誤的なファッションが、すでに、この映画がアメリカ社会から浮き上がった “異界” の人たちの話であることを暗示している。
 
 夫に愛想を尽かしたドイツ婦人は自分の荷物をまとめ、夫の運転するクルマを下りて、砂漠の道をとぼとぼと歩き出す。
 そして、沿道に見えたモーテル 「バグダッド・カフェ」 までたどり着き、まずは一休み。

 ところが、店はどこもボロボロ。
 定員たちはやる気なし。

 おまけに、その女主人は恒常的ヒステリー状態で、夫にも家族にも従業員にも八つ当たりばかりしている。
 風景も人間関係も、まさに風化寸前のカサカサ状態。

 主人公のドイツ女性はその状態を見かねて、店の掃除からメニューの選択まで、そっと従業員たちの手助けを始める。

 ところが、これが万年ヒステリー状態の女主人の逆鱗に触れる。
 「いったい何の目的があるのよ? 私の店なのだから、勝手なマネをしたら許さないよ」
 と、きつく主人公のドイツ女性を責める。

バグダッドカフェDVD2

 しかし、主人公のふるまいが、徐々にそのモーテルの家族や従業員の乾いていた心に 「水を与える」 ことになり、人間そのものに不感症になっていた人々の意識に “うるおい” がよみがえっていく。

 それきっかけで、立ち寄ったお客に対する彼らのサービスにも心がこもるようになり、モーテルは次第に活気を取り戻す。

 異界から来た “旅人” の出現により、地域住民に意識変革がもたらされ、そのことによって住民たちが新しい価値を手に入れる…という、昔からある 「物語」 の基本構造を忠実になぞるストーリーなので、ある段階まで来るとその先が読めてしまう。

 しかし、こういう映画は先が読めた方が楽しい。
 「ハッピーエンドの方程式」 というものがあって、前半が波瀾万丈であればあるほど、観客は、むしろ定型にハマったハッピーエンドの形を強く求めるようになる。

 冒険活劇ではないので、「波瀾万丈」 だからといって、人の生き死に関わるアクションシーンが展開するわけではない。
 でも、「このカフェ本当に大丈夫なの?」 と、観客がハラハラドキドキするぐらい、やる気のない従業員たちとヒステリー女主人の荒廃ぶりが見せつけられる。

 カウンター係のネィティブアメリカンの青年は、お客が来ても平気でハンモックに揺られたまま昼寝している。
 女主人の長男は、生まれたばかりの赤子の世話もせず、赤ん坊が動き出さないように、椅子に縛り付けたままピアノの練習をしている。

 女主人は、やたらと家族や従業員をどなり散らすだけで、店をどのように運営したら集客できるのか…といった問題などには、知恵を使う素振りも見せない。

 ところが、主人公のドイツ女性が出現したおかげで、ピアノ好きの長男は、自分の弾く音楽に関心を示してくれる人間にはじめて出会うことになる。

 モーテルの女主人の娘は、若い子特有のファッションや行動を、けなさずに温かい目で見守ってくれる大人の存在をはじめて知る。

 人間の心がうるおっていく 「きっかけ」 というものを、映画はひとつひとつ丁寧に描いていく。

 朝焼けに彩られる銀色のエアストリーム (この車内で映画では重要人物の1人が暮らしている) 。
 モーテルの沿道を走り抜けていくモーターホーム。
 画面には、さりげなくアメリカ人のキャンピングカーライフが描き込まれている。

 観ていて、アメリカモーターホームの旅がむしょうに懐かしく思えた。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 13:57 | コメント(0)| トラックバック(0)

スロートラベル

 先日、あるキャンプ場の経営者と話す機会があった。
 ガソリン代が高騰し、行楽客の出足が落ちているという話もよく聞くので、この夏の集客はどうなのか、尋ねてみた。

 やはり、例年とは少し違うという。
 しかし、集客が落ちているわけではない。
 「連泊が増えている」 というのだ。

campground1

 例年、夏休み期間は2~3泊のキャンパーが多いのだが、今年は5~6泊する人たちが目立つという。

 最高は26泊。
 子供連れのキャンピングカーユーザーで、夏休みの大半をそのキャンプ場で過ごしたそうだ。

 大都市の近郊という特殊な立地条件もあったため、お父さんはタクシーで職場に通い、奥さんと子供たちはキャンピングカーで過ごす。

 お父さんを仕事場に送り出すと、子供たちとお母さんは、虫取りや自然観察のために山へ。

 午後は、宿題。
 工作の宿題などは、キャンプ場で組まれた工作教室などに参加して仕上げる。

 子供たちが宿題に励んでいる間、お母さんはキャンプ場の近くを通る循環バスでスーパーに買出し。
 夜は、みんなで食事を作って楽しむ。

 毎日自炊では飽きるので、たまにはそのキャンプ場の運営するレストランで、のんびりくつろぐ。

 そこにはお風呂もあるので、暑い日が続いても、毎晩汗を流すことができる。

campground2

 話を聞いていて、日本のキャンパーの夏の過ごし方も変ってきたという感慨を持った。

 
 原油高騰で、自動車旅行にも変化の兆しが現れているようだ。
 観光地から観光地へと、むやみに燃料を消費して走り回るよりも、気に入った場所を見つけて、ゆっくり滞在する。
 そういう旅行形態が生まれつつあるとも。

 そうなると、キャンプ場の宿泊料金は、ホテル・旅館よりもリーズナブルなので滞在費の負担が少ない。連泊が続けば割引サービスがあったりする。
 キャンピングカー旅行も、新しい時代に入ろうとしているのかもしれない。

 別の人からは、こんな例も聞いた。

 キャンピングカーでリタイヤ後の人生を満喫している夫婦の話だ。
  
 その夫婦は、「くるま旅クラブ」 の会員だから 「湯YOUパーク」 も楽しめる。その 「湯YOUパーク」 とキャンプ場泊を上手に組み合わせ、気に入った場所を見つけると、そこに “住み着いて” しまうのだという。

 珍しい景色を求めて観光地から観光地へと飛び回るのも、旅に慣れてくると飽きてしまう。
 それよりも、その夫婦にとっては、知らない土地で、珍しい食材を手に入れ、その土地独特の味付けで調理してみることの方が、はるかに面白いらしい。
 調理のコツが飲みこめない場合は、地元に人に教わる。

 そうすれば、今まで経験したことのない料理も楽しめるし、地元の人との交流も生まれる。

 まさに 「スロートラベル」 の楽しみ方だ。
 その土地固有の楽しみ方を発見し、地元の生活に溶け込んだ、滞在型の旅。
 そういうスロートラベルが、今、じんわりと定着してきている感じだ。 

 キャンピングカー旅行の利点は、ホテルなどよりも宿泊料金の安いキャンプ場などを利用して、気に入った場所にのんびりと滞在できるところにある。
 あと10年もすれば、そういう旅行が当たり前のものとして認知されるようになるだろう。
 

 最初に話を聞いたキャンプ場運営者は、こんな話もしていた。
 
 「キャンピングカーで旅する人たちの中には、キャンプを目的としている人もいるが、旅行を目的としている人たちもいる。今のキャンプ場は、キャンプを目的としている人のために設計されているために、旅行派のニーズを満たしていない場合も多い。
 だから、キャンプ場も生まれ変わらなければならない。
 旅行の途中に立ち寄ったユーザーにも、やっぱりキャンプ場で泊まると癒されると思ってもらえるような、“気持ちのいい空間” を整備していく必要がある」

 ガソリン高騰が引き金になって、かえって、キャンピングカーの旅が充実する方向に、この国は動き始めたのかもしれない。 

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 05:52 | コメント(4)| トラックバック(0)

クッキー最後の秋

 大木トオルさんと、その愛犬チロリの出会いと別れを描いた番組、『アンビリバボー』 を観ていて、カミさんが泣き出した。
 大木さんが、死に行くチロリを前に号泣しているシーンだった。

 分かるのだ。
 わが家にも、あのような別れがあった。

 クッキーという名の犬がいた。
 初代のクッキー。
 今のクッキーと同じ、ミニチュアダックスフンドのメスだった。

 チロリほどの名犬とはとてもいえぬ犬だったが、チロリと同じように、「人の気持ち」 が分かる犬だった。

クッキーの画像

 13歳の秋、肺が冒され、呼吸不全に陥った。
 動物病院から酸素ボンベを借りて、ケージにビニールをかけ、酸素が少しでも肺に回るようにして、必死に看病した。

 その状態で、1週間が過ぎた。
 
 会社から帰るたびに、「今日はエサを食べた?」 と、カミさんに聞くのが日課だった。
 もうドッグフードではなく、柔らかくて、消化によく、かつ本人が好きだったものは何でも食べさせるようにしていた。
 チーズやハム。
 そんなものが好きな犬だったが、栄養過多になると思って、なかなか食べさせることもなかった。 
 
 でも、もうそんなことを考えている場合ではないと思った。

 しかし、あれほどの好物でも、だんだん食べる元気がなくなっていくのが見える。

 ただ、おとなしく、じっと皿の上のチーズを眺めている。

 動物病院の医者からは、「あと持って3日」 と言われていた。
 だから、1週間が経過した頃、「ひょっとして持ち直すかも…」 と淡い期待を抱いたが、やはりその気配は見えない。

 出張が入った。
 1泊だけの旅行だったが、大事な仕事なので、断るわけにもいかない。

 出張先に、朝、カミさんから電話が入った。
 何の電話か。
 
 話を聞く前に分かってしまった。

 取材相手に失礼にならないように丁重に断りを入れて、取材を早めに切り上げ、急いでクルマに飛び乗った。

 晴れ渡った秋の朝だった。
 田舎道だから、やたら空が広い。

 雲ひとつない透明な空の上を、一本のヒコーキ雲が立ち昇っていく。
 静まり返った景色の中で、その白い柱だけが生きていた。

 「あ、クッキーが天に行く」
 そう思った。

 
 家に戻ると、静かに眠っているようなクッキーがいた。
 
 夕べ、珍しくクッキーが立ち上がり、
 「あなたが帰ってくるのを待つように、ドアの方を見続けていた」
 と、カミさんは言う。
 最後の別れを言うつもりでいたのかもしれない。

 「今晩は帰ってこないのだから、立っていると疲れるから、横になりなさい」
 と言っても、ドアが開くのを待ち続けていたという。

 そして、今朝。
 久しぶりに、ケージから出ようとする素振りを見せたのだという。
 だから、たまには外の空気を吸わせてみようと、カミさんはケージの扉を開けた。

 クッキーは2、3歩元気に歩み出し、べランドの窓に前足をかけた。
 そして、その姿勢のまま、ふわりと仰向けに倒れた。

 急いで抱き上げたとき、すでに呼吸は止まっていた。
 一瞬、何が起こったのか分からないほどのあっけなさだったという。


 ペットを埋葬するための施設に電話を入れ、小さな棺を購入して、いつもくるまっていた毛布と好きだったチーズを一緒に入れて、仮葬した。

 火葬場の裏は公園になっている。

 夕暮れが迫り、地面に落ちる木の陰が長い模様を描いていた。
 影はどこまでも伸びて、その果てが見えない。
 空を見上げると、木々の葉の間に、最後の陽の光りが舞っていた。

 その場に立ち尽くしたとしても、もう後を追ってくる軽やかな足音は聞こえてこない。 
 
 こんな淋しい秋の風景を見たのははじめてだった。 

 あれから3年目の秋が来る。
 あの日、家に戻る前に見たヒコーキ雲と、秋の公園に落ちた木の影は、いまだに忘れることがない。

  
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 02:41 | コメント(8)| トラックバック(0)

団塊世代の消費

 『ポスト消費社会のゆくえ』 という本では、高度成長期からバブルを経て、平成不況といわれた2006年あたりまでの消費社会の変化が語られている。

ポスト消費社会のゆくえ

 この時期、消費の主役を務めたのは 「団塊の世代」 だった。
 本書は、ある意味で、団塊の世代論にもなっている。

 そしてそれは、団塊の世代の尖兵として現代思想の戦場を駆け回った上野千鶴子氏 (1948年生まれ) の自己分析を、対談者である辻井喬氏に検証してもらう試みであったともいえる。

《共同体アレルギー》

 団塊世代の知的な人たちがものを考えるとき、この世代特有の考え方がある。
 それは 「共同体アレルギー」 。

 日本のリベラル派知識人というのは、おしなべて、この共同体に対するアレルギーを表明することにおいて自分のスタンスを築いてきたように思う。

 共同体とは、この場合、「隣り近所」 、「町や村の会合」 、「学校」 、「職場」 など人々の日常的に所属する人間組織のことを指す。

 戦時中は、それらの共同体がこぞって国民に 「戦争協力」 を強要した。
 町や村の住民は、みな 「隣り組」 という地域共同体に組み込まれ、助け合うという美名の元に、相互監視の役を背負わされた。

 そのような 「共同体」 の呪縛を嫌って、戦後は 「組織より個人」 を優先する個人主義の思想が推奨されるようになった。

 上野氏のような団塊の世代は、この 「個人主義」 の申し子である。

 しかし、戦後の日本から 「共同体」 がなくなったわけではなかった。

 戦時中に生まれた 「隣り組」 のような監視体制は消えたが、それに代わって、日本の各職場組織が、昔の共同体のような暑苦しさと親切心を発揮して、若者たちを抱え込むようになったからだ。
 「終身雇用」 や 「年功序列」 といった日本的企業独特の雇用システムは、まさに日本的共同体の高度に成熟した姿にほかならない。

 人間は、「寄らば大樹の陰」 のありがたさを知る動物でもある。
 共同体に反発を感じながらも、最後は共同体の掲げる目標の中で生きていくことに充足感を抱く若者も出てくる。
 上野氏は、それに最後まで抵抗し続けた人だ。

《分断された小集団の時代》

 彼女は、「フェミニズム (女性解放運動) 」 という運動を通して、そのような日本社会に根を下ろす共同体と共同体の押しつける  「公共性」 に対して戦い続けた。

 ところが、
 「そのツケが回ってきた」
 と、彼女はこの本で正直に告白している。

 「共同体」 と 「公共性」 を敵にして、その解体を目指してきた結果、人々が公共性に縛られることもなくなった代わりに、コミュニケーションを取るための “共通言語 (=文化) ” も失われてしまったというのである。

 オヤジと若者が共通に使える言葉 (=文化) がなくなっただけではない。
 若者同士でも、家庭環境、生活環境、階層、趣味が異なるだけで、話が通じなくなってきた。
 今や、大人も若者も、自分たちの言葉 (=文化) が通じる狭い集団の中で “盛り上がる” だけ。

 上野氏は 「KY (空気が読めない) 」 という流行語がその端的な例なのだという。
 KYは、「匿名性と同調性が高く、ノイズに極端にセンシティブな集団が至るところに形成されるようになったことの証 (あかし) である」 と彼女は語る。

 つまり、それぞれ自分の立場を明かすことなく同じ気分だけ共有しあい、そのノリについて来れない他者の存在に神経質な人たちが増えたという意味だ。

 大きな 「共同体」 が消えた日本には、今、大人の間にも若者の間にも、内輪だけで熱く燃え、外には冷ややかな小集団が、あちこちに生まれつつある。

 メディアの世界でもしかり。
 『諸君!』 や 『SAPIO』 、『世界』 『中央公論』 といった雑誌は、完全に内向だけの盛り上がりで終始しており、少しでも異論を持つ人には、もはや言語すら通じない…のだそうだ。

 日本人の間で、このようなコミュニケーションが分断された状態が続くとどうなるのか。

 「分断」 状態が長く続くと、逆に 「統合」 への気運も高まる。

 そのタイミングに、もし、カリスマ的な指導者が政治やメディアの舞台に躍り出て、間違った方向の 「公共性」 を主張し始めれば、社会全体が一気にその方向に走り出してしまう可能性があるという。

 …かなり意訳であるが、上野氏の言わんとしていることの方向性は、そういうところにあると思う。

《戦後日本の盛衰をリアルタイムで見た団塊の世代》

 この本の最終章では、なかなか示唆的な世代論が展開されている。
 上野氏は、最後にこう語っている。

 「個人のライフサイクルと社会のライフサイクルを重ねてみると、私たち団塊世代は、自分の成長期と日本社会の成長期が歴史的に重なった世代だ。
 そして、私の向老期が日本社会の衰退期と重なった。
 それは私が選んだわけではない歴史の偶然にすぎないが、幸運だったと思う。

 ところがいまの若者は、91年からの長きにわたる不況のもとで、思春期を過ごしてきて、時間が経てば現状より悪くなると感じながら大人になってきた世代。生命体として成長するさなかに、そういう後退の感覚を身体化して生きている。コミュニケーションモードがどんどん内向きになっているのは、そういう理由もある」

 社会学者らしい、冷静な見方だと思う。
 しかし、「 (自分の生涯が) 幸運だったと思う」 という短い言葉の中にこそ、彼女が社会学者として生きてきたことに対する万感の思いが込められている気もする。
 そこに、舞台のフィナーレに立ち会っていることを自覚している団塊世代知識人の偽りのない心情が吐露されていると感じた。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 10:36 | コメント(0)| トラックバック(0)

消費社会のゆくえ

 アメリカモーターホームの旅に向かう前に、飛行機の中で読もうと思って空港で買った本があった。
 機内では映画のDVDばかり観てしまったから、結局そこでは読まなかったが、いま読み始めてみると、とても面白い。

 本の名は、
 『ポスト消費社会のゆくえ』 (文春新書) 。

ポスト消費社会のゆくえ

 詩人・作家である辻井喬氏と社会学者の上野千鶴子氏が、戦後から現在に至るまでの日本の消費社会の動向を語った対談集である。

 辻井氏の 「辻井喬」 はペンネーム。
 本名は堤清二氏。
 西武百貨店のセゾングループを率いる総帥として、80年代の日本の消費社会をけん引した企業人だ。

 対する上野氏は、自ら 「左派」 を任じるフェミニストの論客。
 現在も、市場原理主義に対して舌鋒鋭く批判し続けている。

 企業経営者と左派文化人。

 本来なら、言葉すら噛み合わないような取り合わせに思えるが、そこは 「作家」 でもある辻井氏と、消費文化の解析にどん欲な好奇心を発揮する上野氏。
 お互いの立場を深く洞察しつつ、無類に刺激的な 「消費社会論」 を展開している。

《80年代は広告から “商品” が消えた》

 話は、辻井氏が西武百貨店の元総帥だっただけに、西武という企業の発展を軸に展開する。

 上野氏は、1970年代末から80年代にかけて、西武のセゾンとパルコが領導した一連の広告戦略を、「世界史的に見ても空前絶後」 という言葉を使って評価している。

 この時代、糸井重里氏のキャッチコピーで有名な 「不思議、大好き」 (1982年) とか、「おいしい生活」 (1983年) などというパルコ風宣伝が、世の中を風靡した。

 上野氏は、これらの広告を見て、
 「広告から “商品” が消えてしまった」
 と驚く。

 あの時期、一時だけ流通した “商品なき広告” というのは、世界のアドバタイジング史上においても例がなく、今後は日本においても、もちろん海外においても二度と出てくることはないだろうという。

 このあたりの話は、読者として 「もっと突っ込んでくれたらいいのに…」 と思うところだが、そこは対談集。
 談論風発で、話題が盛り上がると、すぐに “さらに盛り上がる話題” にあっけなく移行してしまう。
 そのため、テーマによっては掘り下げ足らないものが混じってしまうことも事実。

 ただ、考えさせてくれるネタをたくさん含んだ対談集ではあった。

 その中で、いくつか記憶に残ったものをご紹介。

《前衛芸術は成り上がりの趣味》

 西武は 「西武美術館」 の運営などといった文化活動を行う企業としても脚光を浴びた。
 西武美術館には、従来の美術館では採り上げられそうもない前衛芸術に焦点を合わせたユニークな作品群が集められた。

 すでに評価の安定した誰からも文句の言われない 「芸術」 を集めるよりも、今の時代を呼吸している若い作家たちの作品を紹介する方が、よりクリエイティブであるはず。
 …と、構想を進めた辻井氏は思ったという。

 彼の気持ちの中には、「文化を発展させるのは文化人だけでない。企業人だってそれを果たすことができる」 という自信と自負があっただろう。

 しかし、上野氏は、「前衛芸術」 のような評価の定まらないものに価値を見出すのは、「成り上がりの新興ブルジョワジーの特徴」 と喝破する。

 西武百貨店は、三越や伊勢丹という旧世代の 「山の手文化」 を温存する百貨店に対する批評者というスタンスを取った。

 旧世代百貨店が催す芸術イベントが、ゴッホやモディリアニに関わるものだったとすれば、西武の芸術イベントは、マルセル・デュシャンのような芸術そのものの定義を変えようとした人か、フランク・ステラとかオルデンバーグといった現代美術のアーチストが中心。

 そのような “異端性” は、日本の百貨店文化を俯瞰するときには際立つが、世界史的にみると、きわめてオーソドックスなブルジョワ革命の原理なのだという。

 資本主義は、常に少し前の資本主義を 「古い!」 と否定する形で進展する。
 「自己否定こそ資本主義の論理そのもの」
 と上野氏はいう。

 そして、価値の定まらない人材や作品に対して、先行的に才能を見出して投資していく 「西武美術館」 のやり方は、ベンチャービジネスそのものであり、そのリスクを恐れない精神が西武の隆盛を約束したと評価する一方、
 「…とはいえ、ベンチャービジネスのなかには当たりもハズレもあって、現代美術も、外れるとただのガラクタ」
 と辻井氏の前で、本質をずばりと言い当てる勇気も忘れていない。


 この対談集は、読者によっていろいろな読み方があるだろうけれど、私は、企業側の発想するマーケティング戦略の構造を、上野氏が 「社会学」 の手法で読み解く本ととった。

 だから、広告業界の理論家たちが提唱した有名な理論にも、上野氏は時として批判的だ。
 1980年のバブル隆盛の頃、マーケティングの世界では 「少衆・分衆論」 というものが一世を風靡した。
 つまり、消費世界が成熟した結果、個々の消費者の嗜好が細かくセグメントされ、「日本から “大衆” が姿を消した」 というもの。

 「しかし…」
 と、上野氏はいう。

 あの時代に 「分衆化」 したのはお金持ち層だけ。消費を抑制した貧乏人の動向は表に出なかった。
 だから、「分衆」 などという水平分化が起こったのではなく、結局は 「大衆が階層化される」 という垂直分化が起こったのだという。
 今の格差社会の起源を考えるときに、重要な分析かもしれない。

《グローバリゼーションの罠》

 上野氏がこの本で明らかにしたいことの一つに、今のグローバリゼーションの流れが日本の消費社会をどう変えてきたかという問題がある。

 日本経済は、
 「モノが売れる」 → 「企業収益がよくなって労働者も潤う」 → 「労働者の購買力が上がって、さらにモノが売れる」
 という循環構造によって成長してきた。

 ところが、90年代になると、このような内需拡大が所得の分配につながるという日本の成長経済のメカニズムが壊れてくる。

 その原因のひとつは、グローバリゼーションにある。
 と、上野氏はいう。

 つまり、日本企業が、中国や東南アジアの賃金格差に注目して生産拠点をそれらの国に移すようになってから、商品は売れても、その利益が日本人労働者に還元されないシステムができあがってしまったというのである。

 かくして、内需は拡大しても、その利益が海外に流出してしまうために、市場の再分配につながらないという、今の雇用不安定社会が生まれることになる。
 巷でいう 「日本の格差社会問題」 というのは、日本固有の問題ではなく、国際問題だったのだ。

 この本は、そういったように、視点を変えて眺めたときに現れる 「新しい風景」 を見せてくれる。マーケット解析の周辺で仕事をする人にとっては面白い本であるように思う。

 後半では、高度成長期からバブルまでの消費社会をけん引した 「団塊の世代」 の分析が行われている。
 しかし、それについては稿を改めたい。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:53 | コメント(0)| トラックバック(0)

夏の終わり

 昨日、昼飯を食いに出かけるとき、ちょっと驚いた。
 太陽光は強いのだけれど、木陰が妙にひんやりとしている。

 「あ、終わったな…」 と思った。

 毎年、お盆を過ぎると、「夏も終わり」 という感慨がこみ上げてくる。

 この時期、林のなかで鳴くセミたちの声にも、晩夏をしのばせるヒグラシの声が混じるようになり、ふと気づくと、周りの空気に、ひっそりと透明な秋の気配が忍び寄っていることが分かる。

 ましてや、オリンピックという “夏の祭典” が行われている今年は、それが終わると、周囲が一気に秋モードに包まれそうな気がする。

リゾート1

 一年のうちで、いちばん寂しい季節は 「夏の終わり」 だといった小説家だか哲学者がいた。

 夏は、動物でも植物でも、その生命力がもっとも旺盛に輝いて見える季節。
 燃え上がる 「命の激しさ」 があったればこそ、逆にかすかな陰りでも、衰退の兆候として目立つようになるのだろう。

 巷の 「話題」 でも、時代の 「人気者」 でも、若者の 「ブーム」 でも、終わりかな…と思えるのは、いつもその最盛期をちょっとだけ過ぎたあたりだ。

 渦中にいるときは、誰も 「終わり」 に思いを馳せない。
 しかし、終わってしまえば、今度は意識にも登らない。
 何でもそうだが、「盛りを過ぎたあたり…」 というのが、いちばん終末感というものを呼び寄せる。


 「最近の日本はおかしくなっている」 という感想を、よくワイドショーのコメンテーターが口にする。
 最近の若者が起こす “無差別通り魔事件” などに言及するときの彼らは、決まってモラルの低下や教育の空洞化、格差社会の到来を口にする。

 多くの人たちに共通していえることは、彼らが 「日本社会の古き良き秩序は崩壊した」 という意識を持っているということ。
 彼らの胸のなかでは 「終わった」 という喪失感がものすごく大きいウエイトを占めているのだろう。

 確かに、きっと何かが終わったのだ。
 たぶん、戦後一貫して日本人が追求してきて、ついに達成した 「豊かな社会」 が盛りを過ぎようとしているのだ。

 戦後の日本社会と、その社会が生み出した日本の文化は、まさに生命力が横溢した 「真夏の文化」 だった。

 それが終わろうとしている。

 夏の終わりは、誰にとっても淋しい。
 それと同じように、今の日本もどこか淋しい。

 人々の胸に去来する、いわれのない漠たる不安。先行き不透明感。
 こういう漠然とした不安定感というのは、夏に終わりが見えたときの寂寥感にも近い。

 だが、四季では、夏が終われば 「実りの秋」 が来る。
 我々の社会と文化に、充実した秋は来るのか。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 10:41 | コメント(0)| トラックバック(0)

石油は分からない

 石油の世界は分からないことだらけだ。 
 早い話、いま地球規模で起こっている原油高騰の理由も、その真相というものは究明されていない。
 …というより、言っていることがエコノミストによってみんな違う。

 現在の原油高騰が、原油市場に流れ込む投機マネーによって促進されていることは誰もが認めつつも、そのマネーの動向を示すデータがはっきりしないからだ。

 「投機資金」 というと、誰もがすぐヘッジファンドのようなものを思い浮かべるが、経済専門誌などによると、今回の高騰の一因となっているのは、そういう従来型の投資タイプとは異なるものだという。

 そのひとつが、年金基金などの大口投資家。
 2000年のITバブル崩壊による株価と債権の下落を契機として、資産運用の分配を図った年金基金の一部が、原油をはじめとする商品市場へ向かったのだという。

 「投資」 に関してはまったくの素人なので、詳しいことは皆目分からないのだが、要するに、こういう新手の投資は、その実態がなかなか見えてこないものらしい。

 原油価格を安定させるために、アメリカではこのような投資を規制しよという政治的な動きもあるようだが、資金の流れが明確に読めない以上、いたずらな規制はかえって市場の不透明性を増すだけ、という声もあるという。 

 そのような個人投資家による動きとは別に、国家自体がこの原油高騰を喜んでいる風情がある。
 ロシアの政府系エネルギー企業の 「ガスプロム」 という会社は、この原油価格の異常な高騰によって未曾有の利益を上げ、それによって何百億ドルという追加課税を得ることのできたロシア政府を喜ばせている。

 国が原油高騰を喜んでいるようでは、庶民がいくら辛い思いを訴えようとも、聞き入れてもらえる余地は生まれない。

 石油市場の将来を不透明なものにしているもうひとつの理由は、この地球にいったいどれくらいの埋蔵量が残っているのか、それがはっきりしないことである。

 国際エネルギー機関 (IEA) は、今後5年のうちに石油供給事情の逼迫によって、原油価格は未曾有の水準にまで高騰し、2015年には石油と天然ガスが不足するという予測を発表した。
 その根拠となるのは、「ピークオイル説」 。
 すなわち、もうすぐ石油採掘のピークが訪れるようになり、ピークを過ぎると徐々に減産化が進み、やがてゼロになるというもの。

 このピークがいつ来るかということに関しては、諸説が出回っているが、石油業界の専門家の大半は 「2010年」 と回答したといわれている。

 原油に投資資金が集中するのは、早い話、「なくなるものには価値が出る」 という、きわめてシンプルな発想から生まれたものであるが、シンプルなだけに、容易にこの傾向が解消される方向には進まない。

 特に中国とインドの経済発展が、今後の石油消費を増大させ、それが石油資源の枯渇を早めるという説には相当の説得力がある。
 今や世界第二の石油輸入国となった中国では、年率10%以上の割合で成長する経済を維持するために、石油の需要が7.5%の割合で伸びている。これは米国の7倍の速度の伸びともいわれている。

 また、インドのエネルギー消費量の伸びもすさまじく、2010年には90年の36倍のクルマがインドを走っていると予測されている。

 このような事情が、石油資源の逼迫を訴える諸説の大きな根拠となっているわけだが、しかし、残された埋蔵量がどれくらいあるのか、本当のことは誰にも分からない。

 あるいは、分かっている人がいるとしても、それは 「世界で最も厳重に管理された機密」 であるため、それがメディアの世界までは流れてこない。その真相は、地質学者や経済学者でも知ることはできない。
 石油の専門家でも、ただ 「推測する」 段階にとどまっているので、計算式の要件を組み替えるだけで、無数の 「ピークオイル説」 が林立することになる。

 いま地球に眠っている原油が、どれくらいなのか。
 それを割り出すには、採掘技術の進歩の度合い、将来的な需要の動向、採掘するためのコストとそれを売って採算が採れるかどうかを判断するための価格予測。
 こういう 「動きの激しい」 要素が交錯するなかで計算する必要が出てくる。
 当然、埋蔵量を割り出す人たちの政治的・経済的な立場によって様々な見解が噴出することになる。

 真相は闇の中だ。

 従来のピークオイル説を成立させていた有力な根拠は、「地球上の油田はほとんど掘り尽くされた」 というもの。
 これまで莫大な探索費用がかけられているにもかかわらず、原油発見は60年代をピークに頭打ちになっており、最後に大油田が発見されたのは70年代のことだという。

 もちろん未採掘の油田がたくさん存在するが、それは石油の品質が悪すぎたり、採掘が難しかったりと、回収効率の悪いものばかり。
 そういう油田を開発しても、取り出した油と同じほどのエネルギーが必要となり、コスト的に合わない。
 そういわれ続けてきた。

 ところが、原油高騰が維持されていけば、そのような程度の低い油田を開発してもコストが見合うようになってきた、という説も出てきた。
 また、近年、採掘のための新技術が開発されるようになり、従来は35パーセントぐらいの採掘能力が、今では60パーセントまで向上したともいう。

 そうなると、今までコスト的に合わないとされた海底油田などもどんどん脚光を浴びることになる。
 ブラジルでは、深さ4000mの海底に80億バレルという埋蔵量を誇るトゥピ油田が発見されたし、ロシアも、シベリアでの油田発掘と採掘拡大に巨額な投資を行うと発表した。

 世界の未開発油田の25%が北極海に存在するといわれており、ロシア、米国、カナダ、北欧諸国が北極を舞台に争奪戦を繰り広げ始めた。

 このような、今まで見捨てられていた油田が開発されるようになると、「2010年にピークを迎える」 という専門家たちの指摘は反古にされる可能性も出てくる。

 さらに、石油の起源そのものに関しても、新説が登場するようになった。
 長い間、「石油は古代生物の死骸がたい積してもの」 といわれ続けてきた。
 だから 「化石燃料」 などという言葉も生まれてきたわけだが、「そうではない」 という説も出てくるようになった。

 オーストリア生まれの宇宙物理学者、故トーマス・ゴールド氏は、かつて「石油無機起源説」というものを提唱した。
 彼は地底 (地中100~300km) で発生した炭化水素が上昇して油田が形成されると考えた。
 しかし、この説は 「石油=生物の死骸」 という概念を否定するものであったため、ゴールドは奇人扱いされた。

 ところが、今年のはじめに、世界で最も権威がある米国の学術誌 「サイエンス」 が、海底が巨大な石油化学工場として機能しうることを示唆した。

 フロリダ沖合いの海底を無人水中探索機で調査したところ、巨大な炭酸塩の無数の煙突群を発見したというのである。
 それは石油や天然ガスの主成分である炭化水素が生成される可能性を示すものだといわれ、奇人扱いされたトーマス・ゴールドの提唱した説が、にわかに真実味を増してきた。

 実証されたわけではないが、「石油の起源が生物ではないかもしれない」 となると、「石油が底をつき始めている」 という神話も崩れることになる。

 しかし、これが正しい説なのかどうか、現段階ではまだ分からない。
 要するに、石油に関しては、分からないことだらけだ。

 以上のような話は、ほとんど 『クーリエ・ジャパン』 9月号の 「石油が枯渇したら世界はどうなる?」 という特集で書かれていたものだ。

クーリエ・ジャパン9月号

 ガソリンが高くて行楽にも行けないと怒っている人は、そのウサをはらす意味でも、読んでみるといいかも知れない。

 ただ、思うに、石油の埋蔵量に対するデータが修正されたとしても、それは20~30年から100年というスパンでしかないことは事実。
 楽観はまったくできない。

 また、石油依存型の産業構造は、いずれにせよ大気汚染や温暖化防止の課題とは逆行する。
 「脱石油型の社会」 を構築するための模索は、続けられなくてはならない。 

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 11:36 | コメント(6)| トラックバック(0)

ナビを信じるな

 キャンピングカーでもキャブコンのような、ある程度サイズの大きいクルマの場合、うっかりカーナビの誘導にそのまま乗ると、とんでもない細い道に案内されて、立ち往生してしまうことがある。

 昔、渋滞の迂回路を案内され、クルマ1台が通れるか通れないかという踏み切りに誘導されて、とてつもない不安を味わったことがあった。(その話は以前書いた)。
 → 「カーナビの功罪」
 → 「そっちは海だぞ」
 今回は、少し別の角度からとらえたナビの 「怖い話」 。

 カーナビが選び取る誘導路が、どういう基準で選択されるのかよく分からないのだが、たぶん目的地までの距離数を暗算して、一番の最短ルートを教えてくれることになっているのだろう。

 しかし、最短ルートが必ずしも、最速ルートとは限らない。
 曲がりくねった山岳路などを表示され、挙げ句のはてに、その道が落石などで通行止めだったなんてことになったら、それこそ目も当てられない。

 キャンピングカーで地方を旅するとき、ナビの誘導と、標識の案内表示が違っている場合は、私は地元の案内標識の方を信じることにしている。

 ところが、信越から北陸にかけての旅をしていたとき、うっかりナビの誘導通りの道を選んでしまい、とんでもない怖い経験をしてしまった。

 宵の7時頃である。
 一般道から高速のインターに入ろうとしたときだ。

 民家が途絶え、私のクルマは街路灯だけが道路を照らす淋しい交差点で信号待ちをすることになった。

 「右 ○○インター」 という表示板が出ている。
 さらに、交差点の左側片隅にも、「○○インター入口右折」 と書かれた手書きの案内板が見える。
 
 わざわざ案内板を二つも出しているところを見ると、地元の人たちは、よほどその交差点を右折させたがっているらしい。

 しかし、私のクルマのナビは、「直進」 を主張していた。
 こういうときは、たいてい地元の案内標識の方にしたがっている私なのだが、魔が差した。
 ナビが、あまりにも “自信たっぷり” に直進を示していたので、そのまま気持ちよく交差点を横断してしまったのだ。

 が、その2分後ぐらいに、私は大いに後悔することになる。
 道路が途切れてしまったのだ。
 工事現場の柵のようなものが前方を塞いでいる。
 「やべぇ…」
 と独り言をいいつつ、速度を落として柵に近づくと、右側に狭い迂回路が開けた。
 
 こういう状況では、キャンピングカーの場合はうっかり迂回路などには入らず、Uターンできる場所を探して元の道まで引き返す方が、案外スムーズにことが運ぶ場合が多い。
 しかし、ヘッドライト以外の明かりが期待できない闇の中では、Uターンスペースを見つけることが難しかった。

 えい、ままよ…と、迂回路に進入した。

 そのまま、曲がりくねった登り坂になった。
 まるで深山を切り開いた山道。
 さっきまで、街中を走っていたはずなのに、突然こんな山道…と不思議な気分になる。

 「嫌な道ね」
 助手席に座ったカミさんがつぶやく。
 私には、その “嫌な” …という意味がすぐに理解できた。

 不吉な道…という意味だ。
 私たちは、けっこう地方の温泉まわりなどをしているときに、不吉な道を通ることがある。
 別に、奇怪な事件に巻き込まれたという経験があるわけではないが、背筋がゾッと寒くなるような霊気に包まれたことは何度かある。

 その 「霊気」 が、この暗い道の奥から、ヒタヒタと迫ってきている気配がある。

 案の定、ヘッドライトに映り込んできたのは、まず墓石だった。

 地方を旅していると、墓地でも何でもないところに、一族の墓をまとめている場所を見ることが多い。
 墓石が数基ほど立っているだけのささやかな墓所であっても、ヘッドライトの先に突然それが浮かび上がってくると、やはりドキっとする。

 墓石は、道に沿って次々と現れてきた。
 磨き込まれた黒い御影石の風情からして、どれもそんなに古いものではない。
 しかし、それが電信柱と同じように “道ばた” に並んでいるという風景が、都会育ちの人間には尋常には思えない。
 それを見ただけで、カミさんは 「ヒェー!」 という訳の分からない声を上げた。

 私は、妙な “霊気” の正体が、墓石であったことに、むしろホッとした。こういうのなら、非合理的であろうと何だろうと、一応自分を納得させる説明体系が手に入る。

 しかし、狭い道が突然開け、やがてロータリーを持った広場に出たときには、声を失った。
 月夜の光に浮かぶロータリー広場の光景は、あまりにも美しく、かつ冷たく、この世のものとは思えなかった。

 広場は、死の静寂にも近い、沈黙の底に沈んでいた。
 霊園の入口だったのだ。

 霊園の奥には、黒々とした森が広がっていた。
 天国へつながるカーペットのように、一本の真新しい道が、森の奥に消えていた。

森の夜道

 カミさんはこの新しい人工的な風景を見て、少し安堵したようだが、私は逆に、こちらの方がお化け屋敷のような墓石が連なる光景よりも不気味だった。

 私はそのときナビが不能になっていることに気がついた。
 道のない場所に止まっているのだ。

 ゼンリンのソフトでは、自車の位置を先の尖った三角マークで表示するようになっている。
 それが、青線で表示された道路を外れて、タンボのど真ん中とでもいえる空白の場所を表示している。
 つまりナビは、私たちが、この世の空間とはズレた場所に立っていることを示したのだ。

 同じタイミングで、今度はバックアイカメラが異変を捉えた。
 電波障害のような画像の乱れが、モニター上に走った。
 画面全体に、細かい斜線が霧のようにわき起こり、その霧が丸く小さくまとまって、やがて生き物の顔を示した。

 幼児の顔…というより胎児の顔。
 あるいは天使の顔。
 目と目が離れた、両生類のような表情を持った生物が、空洞に近い真っ黒な目でカメラを覗き込んでいた。

 わぁ~っと叫びそうになったが、私は、そのことをカミさんには言わなかった。
 言うと、カミさんもパニックになる。
 こういうとき、2人ともパニックになることが、いちばん厄介な事態を招いてしまう。
 恐怖の伝搬力は、歓喜の伝搬力よりも強い。

 とにかく、ナビの表示が道路に戻るまで、私は無我夢中でその場を走り抜けた。

 霊園が遠ざかり、自車を指し示す表示が 「道」 に戻ると、バックアイモニターの電波障害も直ってクリーンな画像が復活した。
 モニターには、相変わらずクルマ後方の淋しい道が広がっているものの、そこには、もう顔のようなものは写ってはいなかった。

 まぁ、すべて偶然の産物だと思っている。
 霊園の前を通り過ぎたタイミングで、モニターの電波障害が偶然生物の顔のような波形を描いてしまったのだろうし、ナビが空白の地を横切ったのは、単にそこに至る新しい道路が開通していただけのことなのだ。

 世にいう 「心霊写真」 のようなものを、私はまったく信じないし、その大半が木陰や衣服のシワが、偶然 「人の顔」 のように写ってしまったものであることも知っている。
 だから、モニターに入った波形の乱れが、たまたま生物モデルの頭部を連想させる形を取ったことなど、珍しいことでも何でもない。

 そうは思っても、いまだにそのときのことを思い出すと、手足に寒気が走る。
 幸い、カミさんはいまだにそのことを知らない。

 その晩、車内の会話で、カミさんが呑気な韓流ドラマの話を続けてくれたために、どれほど助かったことか。
 おそらく、カミさんと 「恐さ」 を共有しあっていたら、私たちは一晩中眠ることができなかったろう。

 教訓
1) 道が不明な土地では、ナビより地元の交通標識の方を信じる
2) 怖い道に来たと思ったら、バックアイモニターのスイッチを切る
3) 相棒が異変に気づかないかぎりは、そのことを話題にしない


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 11:09 | コメント(6)| トラックバック(0)

ウェブ世界の功罪

 最近、本や雑誌に目を通していても、“飛ばし読み” が増えた。
 「この記事は、オレには関係ないや…」
 と思えるようなところが出てくると、ゴソっと10行から20行も飛ばして、先に進んでしまう。

 昔だったら、ありえないことだった。
 たとえ、そこに書かれていることが退屈だったり、自分に縁がないと思えたものであっても、
 「せっかく金を出して買った本だから、読まないともったいない」
 とばかりに、律儀に行を追っていた。

 ところが今は新聞でも本でも、ふと気づくと、容赦なく飛ばし読みしている。

 情報収集の効率化を図る。
 時間の節約を図る。

 「飛ばし読み」 に関しては、そう自分を納得させてきた。

 ところが、こういう傾向は、どうやら自分だけに限ったことではないことが分かった。
 昼休み、ホットドッグをかじりながら、『クーリエ・ジャパン』 という雑誌に目を通していたら、同じようなことを書いている人がいてびっくり。

クーリエ・ジャパン9月号

 その記事のタイトルは、『 「グーグル化」 でヒトはバカになる 』 。

 つまり、「ネットの普及は、本を熟読させるという能力を人から奪った」 というのである。

 「昔だったら図書館の資料室に何日もこもって調べなければならないような情報が、今は、わずか数分のグーグルの検索で手に入るようになった。
 それはとても便利なことであるが、そのようなネットの便利さに慣れてくるうちに、今では、ウェブだろうが印刷物だろうが、長い読みものを読み通すことが苦痛になってきた」
 と、そのライターは自分の体験を正直に綴っている。

 あ、オレと同じだ、と思った。
 確かに、自分も、最近は読むのに時間がかかりそうな厚い本、細かい活字の詰まった本を敬遠するようになってきた。

 自分では、それを 「加齢から来る根気の喪失」 、「老眼などの肉体的な衰弱」 のせいにしてきたが、考えてみると、根気よく活字を追うことがシンドクなってきたタイミングと、自分がネットにアクセスする時間が増えたタイミングは一致している。

 印刷物しかない時代には、本に没頭したり、長い記事を読みふけったりすることに人々はまったく苦痛を感じなかったという。
 しかし、ネットで情報を見る習慣が身についてくると、本だろうがウェブだろうが2~3ページ読んだところで、意識が移ろい始めて、気が散ってしまう人が増えた。

 記事では、その報告例として、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者たちの調査結果がレポートされていた。
 学術雑誌への投稿論文や電子書籍で人気のあるサイトのログ (履歴) を5年間かけて調べた結果だという。

 それによると、ほとんどのユーザーは、サイトの論文を1~2ページほど 「ざっと眺める」 だけで、すぐ次の資料を探すために離れ、いちど接触した資料にはほとんど戻っていないことが分かったという。

 ネットで情報を得るときは、まったく同じようなことを自分もしている。

 ネットにおける情報の伝達速度は早い。
 かつ、その情報量も幾何級数的に増えている。
 …となれば、最初にアクセスしたサイトの情報よりも、さらに進化した最新情報がどこかにあるに違いない、と思う方が当たり前。

 かくして、自分がしっくり感じる情報を得るためには、めまぐるしいスピードでコンテンツからコンテンツを渡り歩いていかなければならなくなる。

 気づかないうちに、私もその感覚に慣れてしまっていた。
 最近本を読むことにまどろっこしさを覚えるようになってきた理由のひとつにには、たぶんそういうことがあったのかもしれない。

 しかし、『クーリエ・ジャパン』 の記事では、そういう世の中の傾向に警鐘を鳴らしている。
 誰もがネットで手っ取り早く成果を得ようとするようになった結果、人間からある種の能力が失われつつあるというのだ。

 それは 「読解力」 。
 すなわち、うわべの 「情報」 の奥に潜んでいる 「真相」 を推理する力だ。

 「読解力」 だけは、厚い本にぎっしり書き込まれた文脈を、一字一字ていねいに目で追っていくという作業からしか生まれない。
 一つの本を熟読するという根気と集中力が、読者の頭の中で空想の世界をかたちづくり、その蓄積の厚みがその人間の 「想像力」 となっていく。

 「読解力」 とは、すなわち、この 「想像力」 に他ならない。


 想像力とは、「あいまいなもの」 から生まれる “空気” のようなものだ。
 「あいまいなもの」 に対して、その本当の姿を突き詰めようとする時間的かつ精神的余裕がないと、想像力は働かない。

 ところが、ネット世界は、この 「あいまいさ」 を許さない。
 ネットは何よりも 「効率化」 と 「即時性」 の原理に貫徹された世界だから、判断に迷いが生じたり、結論を出すのに時間がかかる 「あいまいさ」 は、「バグ」 として排除される運命にある。

 こうして、人々の間に次第に 「ネット的感性」 ともいうべきものが生まれていく。
 それは、一つの情報をインプットされたときには、万人が即座に一律の反応を示さなければならないというもの。
 別名 「ノリの良さ」 。
 このネット的感性に波長が合わない人は、「KY」 と呼ばれることになる。

 …なんてことは、『クーリエ・ジャパン』 には書かれていなかった。

 でも、「きっとそういうことなんだろうな…」 と思って読みながら、ホットドッグを呑み込んだ。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:46 | コメント(2)| トラックバック(0)

出ちゃった

 この6月にレンタルモーターホームを借りて、アメリカ西南部を回った話は、このブログにも何回かに分けて掲載した。

 そのときの体験手記を、今度は日本オート・キャンプ協会さんが広報紙の 『AUTO CAMP』 で紹介してくださることになった。

オートキャンプ紙ロゴ

 編集部のお話によると、
 「ブログの連載が面白かったから…」 とのこと。
 ありがたいお話である。

 でも、顔写真が載っちゃった。
 小さく写っているからいいだろう…と思ってお渡しした画像が、一番大きく扱われている。

 りゃりゃ…。
 だんだん本屋などで、ヌード雑誌をニヤニヤと眺めていたりできなくなってくる。

 実は、『オートキャンパー』 の7月号にも登場している。
 編集部の山口さんのインタビューに答え、国産キャンピングカーユーザーとしての立場から、アミティRRの感想を述べさせていただいた。
 とりとめもない話しかできなかったが、さすがキャンピングカー誌のプロは話のまとめ方がうまい。
 いい雰囲気の記事にまとまっていた。

オートキャンパー7月号

 そのついでに、愛車と私の顔がちょこっとだけ写真で紹介された。

 日頃敬意を表しているキャンピングカー専門誌に登場するということは、私にとっても大いなる記念になるので、この号は会社用と自宅用に2冊買った。

 でも、表に出るということは、基本的に気恥ずかしい。
 自分はやっぱり取材者として、人を表に立てる仕事の方が合ってるように思う。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 00:50 | コメント(4)| トラックバック(0)

特割3000

 シニアキャンピングカーユーザーが増えている。

 日本オート・キャンプ協会が発表した 『オートキャンプ白書2008』 によれば、テントキャンプを楽しむ若い 「子ども連れ」 ファミリーのキャンピングカー普及率がわずか3.1%であるのに比べ、「夫婦だけ」 でキャンプを楽しむシニアユーザーのキャンピングカー普及率は16.5%だという。
 その差は5倍以上。

 これらのシニアキャンパーは、キャンプ場におけるキャンプ回数も多い。
 「子ども連れ」 ファミリーが年平均3.5回であるのに対し、「夫婦だけ」 は5.0回。
 宿泊においても、「子ども連れ」 が5.5泊であるのに対し、「夫婦」 だけは8.2泊。

 このように、シニアキャンパーのキャンプ回数や宿泊数が多いことに関して、同白書では、
 「荷物の積み込みが少なく、気軽に出かけられるキャンピングカーの利用者が多いため」 と分析している。

 とにかく、定年退職を果たしたシニアユーザーは、平日が使える。
 道が渋滞したり、観光地が混み合う休日を避けて旅行できるというのは、この世代だけの特権だろう。

 このようなシニアキャンピングカーユーザーの急増する時代を迎え、それを受け入れるキャンプ場側にも新しい動きが出てきた。

 「くるま旅クラブ」 会員を対象にした会報誌 『旅楽 (たびらく) 』 3号では、「オフシーズン平日特割3,000」 というキャンペーンを始めたキャンプ場のリストを掲げている。

 「くるま旅クラブ」 というのは、日本RV協会が提唱して発足したキャンピングカーユーザーの全国組織。
 今回の 「特割3,000」 は、そのメンバーだけに限定されたものだが、会員証を提示するだけで、オフシーズンのキャンプ場平日が1泊3,000円になるというもの。

 このシステムは、「湯YOUパーク」 のようなキャンピングカーが快適に泊まれるフィールドづくりを進めている 「くるま旅クラブ」 の事務局によって発案されたもので、それに応えるキャンプ場の協力を得て、この夏からスタートすることになった。

 現在のキャンプ場利用料金の平均額は4,624円。特にキャンパーが集中する関東圏の平均額は5,395円であるというから、この3,000円という額は、かなりのディスカウント。年金が収入の中心となるようなシニア層にとっては、魅力的な料金提示ではなかろうか。

塔の岩のBCヴァーノン
▲ 「特割3000」 を始めた塔の岩オートキャンプ場


 今回、この 「特割3,000」 を導入した34件のキャンプ場は下記の通り。

●岩手県 陸前高田オートキャンプ場モビリア
●宮城県 栗駒高原オートキャンプ場
●福島県 レイクランドヒバラ
●  〃   101オートキャンプ場
●栃木県 ACN・オーキャン宝島
●  〃   鬼怒川温泉オートキャンプ場
●群馬県 ファミリーオートキャンプ場そうり
●埼玉県 長瀞オートキャンプ場
●山梨県 道志渓谷キャンプ場
●  〃   河口湖山宮キャンプ場
●  〃   ウエストリバーオートキャンプ場
●  〃   奥道志オートキャンプ場
●  〃   ウッドペッカー
●長野県 青木湖キャンプ場
●  〃   信州まるべりーオートキャンプ場
●  〃   南信州広域公園うるぎ星の森オートキャンプ場
●  〃   キャンプファームいなかの風
●  〃   戸隠キャンプ場
●  〃   青木荘キャンプ場
●岐阜県 塔の岩オートキャンプ場
●  〃   奥飛騨温泉郷オートキャンプ場
●  〃   AIMIX自然村南乗鞍オートキャンプ場
●  〃   AUTOCAMPING TACランドいたどり
●  〃   日和田高原ロッジ・キャンプ場
●三重県 伊勢志摩エバーグレイズ
●岡山県 恩原高原オートキャンプ場
●広島県 ACN・大鬼谷オートキャンプ場
●山口県 萩アクティビティパークキャンプ場
●徳島県 コットンフィールド
●  〃   四国三郎の郷
●香川県 東かがわ市大池オートキャンプ場
●  〃   小豆島オートキャンプ場
●福岡県 グリーンパル日向神峡
●長崎県 長崎県民の森キャンプ場


 こうして眺めてみると、かなり親しいキャンプ場が並んでいる。
 『キャンピングカースーパーガイド』 で紹介したことのあるキャンプ場が5ヵ所もあるし、かつて 『全国キャンプ場ガイド』 を編集していた頃に取材したことのあるキャンプ場は9ヵ所。
 自分がプライベートで泊まったことのあるキャンプ場は7ヵ所。

 ちなみに、そのうちの2ヵ所は、このブログでも紹介させていただいた。
 興味のある方は、こちらで (↓) 。

 「オーキャン宝島」
 「塔の岩オートキャンプ場」


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:42 | コメント(0)| トラックバック(0)

不思議な人たち

 いきなり駅のホームで演説を始めたオバアさんがいた。
 
 「人間、欲ばっちゃいけんよ。欲ばるバカがいるかぎり、平和はこんぞ」

 オバアさんは、ホームの上にいる人々に演説しているわけではない。
 線路に向かって、大声を張り上げている。

 その駅は高架になっていて、線路の向こうには街が広がっており、人や自動車が激しく往来している。
 彼女はホームを演壇に見立て、眼下の往来に向かって叫んでいるのだ。

  しかし、ホームからは豆粒にしか見えないような人たちに声が届くわけもなく、案の定、ホームで遊説する演説家に注目している人はいない。

 私は、電車が来るのを待ちながら、隣りに立ってオバアさんの演説を聞いた。

 日本の政治と経済に対して、文句を言っているようだ。
 ただ、誰への文句なのかははっきりしない。
 政治家に対してでもなし、財界人に対してでもなし、一般庶民に対してでもなし…。

 まっとうなことを言っているのだが、オバアさんの演説の目的が何だか分からなかった。
 私が、電車に乗った後も、オバアさんはホームに立ったまま、動き出した電車に 「意見」 を聞かせていた。

駅構内

 駅のホームには、“少年の鉄道マン” が紛れ込むこともある。
 別の日に、やはりホームで電車を待っていると、
 「業務連絡、業務連絡! フタ番取ってイチ番先発。ゴー」
 という、堂に入った駅員のアナウンスが、私の背中越しに響いてきた。

 振り向くと、Tシャツを着たただの少年が、あたかも指先で笛でもつまんでいるかのごとく、唇に指を当て、「ピー!」 っと叫んでいる。
 
 ホームの反対側に電車が入ると、今度はそっち側に走り寄り、
 「この電車はまもなく車庫に入ります。どなた様もお乗りになれませんので、ご注意ください」
 と、頼まれもしないのに、駅員の勤めをこなしている。

 直後に、本物の駅員がまったく同じことを場内アナウンスで繰り返した。
 少年は何でもよく知っているのだ。

 私の乗った電車は、少年の生真面目な敬礼を受けて、静かにホームを離れた。


 カミさんとハンバーグ屋に入って、2人でハンバーグを食べていたところ、カウンターの隣りに座っていた青年が、いきなりナイフとフォークを交互に前方に向かって突き出し、
 「えい、おう!」
 と、剣道の練習のようなものを始めた。

 私とカミさんはびっくりし、店の人も目をポカンと口を開けて、青年の様子を見守った。

 しかし、しばらくすると、彼は何事もなかったように、再び礼儀正しい青年に戻って、ハンバーグを黙々と食べ始めた。


 世の中、不思議な人たちがいっぱいる。
 そういう人たちを見ると、なんだか不気味なものを見るような目で、遠ざかってしまう人もいるけれど、私はそんなふうには見ない。

 楽しいではないか。

 いや、「楽しい」 などと言うのは、ご当人たちに向かってはなはだ失礼な言い方になるのかもしれないけれど、少なくとも、うつ病予備軍のような青ざめた表情で、静かに満員電車で揺られていく人たちよりも、彼らの方が元気で明るい。

 世の中には、いろんな人たちがいる。
 それを認めるところから、まず一歩。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:09 | コメント(2)| トラックバック(0)

退廃と洗練

 カミさんが相変わらず韓流ドラマにハマっているため、居間のテレビモニターはそれらのレンタルDVDに占拠されている。
 別のものを観たいなぁ…と思いつつも、そういう要求を口にすると、その後の仕打ちが怖いので、我慢して、時には一緒に鑑賞したりする。

 韓国ドラマを観ていると、いろいろなことが分かってくる。

 ストーリー構成がどれも直球真っ向勝負なのだ。
 日本のドラマのように、「笑っていいんだか、悲しんでいいんだか分からない」 というような、変化球的な “間の取り方” というものがない。

 日本の良質のドラマは、時として、人間に訪れる 「心の空白」 まで描こうとするが、たいていの韓流ドラマは、人間の心は常に 「喜怒哀楽」 で満たされていることを表現しようとする。

 両者を比べてみると、人間の持つ複雑な感覚を描き込んでいるという面では、日本のドラマづくりの方がはるかに洗練されている。
 しかし、インパクトにおいては、韓国ドラマに遠く及ばない。

 真っ向直球勝負の剛速球は、無骨ではあっても、時として、観ている人間の心をズバリと射抜く。
 けっこう真剣に感動したりする。
 それに比べると、たぶん洗練された分だけ、日本のドラマは退廃に向かっているのだ。

冬ソナ画面
▲ 『冬ソナ』 がテレビ放映されていた頃、私もけっこうハマった

 豊かな社会は、洗練された文化を生む。
 しかし、「洗練」 と 「退廃」 は紙一重だ。
 というか、「退廃」 と 「洗練」 は、メダルの裏・表の関係にある。

 退廃とは、巧緻を極めながらも、誰もその巧緻なワザに感動しなくなることをいう。

 日本のドラマにおいては、作り手も手馴れてきて、自分たちの演出効果がどういうターゲット層にどれくらいウケるか、たぶん作る前から読めている。
 それだけ巧緻な計算が行き届いている。
 しかし、そのために、作っている現場の新鮮な発見や感動が伝わってこない。

 一方、観ている方も、ドラマが予想通りの展開となっても、もう突っ込む気力がない。
 すでに、ストーリー展開など以上に、役者たちのメイクや衣裳、表情や間の取り方などといった微妙なディテールを観察する方に主眼が移ってしまっている。
 そういう鑑賞方法はとても知的で高度だとは思うけれど、それはドラマを生んだ本来の精神とは、遠いところまで来てしまったことを意味する。

 「洗練」 とは、別の表現をすれば 「生命力の希薄さ」 でもある。
 日本のドラマは、生命力の激しさを追求する韓流ドラマには、その点ではるかに及ばない。

 日本の若者の間に 「シラケ」 が蔓延しているといわれた20年ぐらい前から、日本人は洗練された文化の中で呼吸するようになった。
 若者がシラケたのは、当時の若者のせいではない。
 それこそ、日本の文化が巧緻を極めるまでに洗練されたことの証左であった。

 しかし、その頃から、じわりと退廃も深まり始めた。

 シラケに伴う 「無感動」 、「無関心」 というのは、退廃の始まりを指す兆候でもある。
 贅沢な食事や衣裳に慣れた昔の王侯貴族は、贅沢自体に無感動だった。
 それを裏返しにいえば、「洗練」 ということになる。

 誰もが、熱中して贅沢を求めたりするところに…どこかの国が今そうだけど…、そこに退廃はないかもしれないが、洗練もない。

 「退廃」 の部分に注意を向けるか、それとも 「洗練」 の部分に関心を寄せるか。
 それによって、同じものの見方が180度変わる。

 でも、退廃と洗練はメダルの裏と表。
 つまり、両者はそれだけの関係にあるということに過ぎない。

 それでも、私は 「洗練」 の方を好ましく思う。
 「退廃」 は悪いことでもない。
 
コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:07 | コメント(0)| トラックバック(0)

夏休み計画頓挫

 世間はすっかり 「夏休みモード」 。
 そのせいか、電車通勤していると、朝晩の混雑ぶりがずいぶん解消されているのが分かる。

 乗客の姿も、いつもとは異なる。
 遊園地へ行くのか、プールにでも行くのか、子ども連れの若い夫婦の姿やお孫さんの手を引いているお爺さん、お婆さんの姿が目立つ。

 ガソリン高騰、諸物価値上がりの影響を受けて、夏休みを近場で過ごそうという人たちが増えているような気もする。

 でも、やっぱ夏は浜辺から見る水平線か山の稜線を見ていたい。
 空調の効いた室内で、まったりとテレビなんか見ているのはうんざりする。
 特に、自分の好みからいって、夏は戸外で入道雲を眺めるのが何よりも好き。
 そいつを経験しないと、夏を迎えた気分にならない。

入道雲3

 例年、夏にはキャンプ旅行に行っている。
 今年も、キャンピングカーでキャンプ場を巡るつもりでいたが、ちょっと事情が変わって、夏の計画に軌道修正を迫られた。

 母 (義母) が骨折して、入院してしまったのだ。
 すでに車椅子生活に入って2年過ぎたが、身体はそれなりに健康だった。
 車椅子からベッドへの移動も、介護人の手助けなしで、一人で行っていた。
 
 ところが、数日前、ベッドから車椅子に移ろうとした瞬間バランスを崩して床に腰を打ちつけた。
 打ち所が悪く、それが骨折につながった。

 土・日はずっと病院に見舞いに通った。
 幸い、様態そのものは悪くない。
 骨の修復も難しいものではなく、痛み止めのクスリが効いている限り、本人はいたって元気。

 顔を横に捻れば、ベッドからテレビも見られる。
 オリンピックの開催期なので、退屈しないですんでいるようだ。

 それはそれで一安心なのだが、こちらの夏休み計画も頓挫した。
 手術後リハビリに入ってから、キャンプ旅行に出ようと思っているのだが、夏の後半か秋口にかかるかもしれない。

 キャンピングカーがあるからといって、「思い立ったとき “気楽に” 旅に出られる」 とは限らない。

 実は、車椅子生活になった母と暮らすようになってから、私たち夫婦のキャンプ旅行はめっきり減ってしまった。
 数日の旅に出るだけでも、その間の母の暮らしの面倒を看てもらう介護施設に、何週間も前から予約を入れなければならない。

 キャンピングカーを持つようになってからは、本当に 「その日の気分」 で日程や旅行先を決めていたが、それが、何週間も前から “予約を取る” という昔の旅行形態に戻ってしまった。

 「子育てが終わると、シニア夫婦はようやく “2人だけの旅” を気楽に楽しむことができる」
 一般的にはそう言われているけれど、介護しなければならない親を抱えていると、また話は別。
 よほど計画的に日程を調整しないと、なかなか長期的な旅には出られない。

 車椅子にも対応できるようなキャンピングカーにしておけば良かったのかな…などと思うが、今のクルマを検討していたときは、まだ母は五体満足だった。
 こればっかりは、先が読めないものね。 

    
ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 11:39 | コメント(0)| トラックバック(0)

オリンピア

《 昔の映画の現代的鑑賞法 10 》
「オリンピア (民族の祭典・美の祭典) 」

 オリンピックが近づいてくるたびに、思い出す映画がある。
 レニ・リーフェンシュタールが、1936年に開かれたベルリン・オリンピックを撮ったドキュメント映画 『オリンピア (民族の祭典・美の祭典) 』 だ。

民族の祭典DVD 美の祭典DVD

 この映画については、常に評価が割れる。
 スポーツドキュメントとしては、「未だこれを超えるものがない」 といわれるほどの秀作であることは誰もが認めるものの、ナチスドイツの政治的プロパガンダとして機能したということで糾弾されることも多い。 
 「史上最悪の政治的意図を秘めた史上最高のスポーツドキュメント」
 などといわれることもある。

 女流監督であるレニ・リーフェンシュタールは、戦後ナチスドイツに加担したことを否定したといわれているが、その才能をヒトラーに愛されたことは事実だ。

 彼女の制作意図がどこにあったにせよ、私は、この映画の一部が “ナチスの美学” を体現していたことを感じないわけにはいかない。
 そう思う根拠は、この映画の導入部にある。

聖火の点灯

 映画が始まって、スタジアムに選手が入場してくるまでに、この映画では約10分ほどのイントロダクションが用意されている。 

 最初に登場するのは、ギリシャ神殿の廃虚 (おそらくパルテノン) だ。
 オリンピックの起源はギリシャにあり…という説明なのだろう。
 しかし、そこに映し出されるギリシャ神殿は、我々のよく見る 「澄み切った空を背景にたたずむ均整の取れた神殿」 ではない。
 戦争の終わった直後の、硝煙が漂ったままの廃墟を写したような神殿だ。

 神殿の映像に続いて、たくさんのギリシャ彫刻が紹介される。
 これも肉体美を謳ったギリシャ精神を表現する意図なのだろうが、そこに映し出される彫刻は、どれも見事といっていいくらい、肉体の一部が損傷しているものばかり選ばれている。

 確かに、腕の部分を欠いたミロのヴィーナスのように、ギリシャ彫刻のなかで完璧な姿で温存されているものを探し出すことは難しい。
 しかし、胴体を切り離された頭部だけの彫像や首のない像の映像が延々と続くと、人間の死体を並べられたような気分になってくる。

 彫刻の映像を引き継ぐ形で、今度は生身の人間の裸体が映し出される。
 退廃の影一つない、純朴なドイツ人女性が、無邪気にラジオ体操のように腕を振り回している。
 その姿には、ナチスが推奨したといわれる 「農夫の妻」 を思わせる素朴な健康美が横溢している。

 だが、その女性も、やがて特撮の炎に包まれていく。
 炎のエネルギーと人間の躍動美を合体させようという趣旨なのかもしれないが、どう見ても焼死のイメージしか浮かばない。

 肉体美と健康美に彩られるはずの古代ギリシャ風モチーフが、なぜこうもふんだんに死のイメージに満たされなければいけないのか。

 別にレニ・リーフェンシュタールが、自らのドキュメントを死の匂いで満たそうとしたわけではあるまい。
 古代ギリシャの地で、オリンピックがどのような祭典として生まれたのか、レニ・リーフェンシュタールは、おそらく彼女なりにオリンピックの本質を追求しようとしただけなのだろう。

 しかし、この映画がヒトラーをはじめ、ナチの首脳陣のお気に入りだったことは確かだ。

 ナチスという政権は、デザイン表現において何よりも 「死の匂い」 を好む政治権力であった。

 例えば建築。
 ナチス好みの擬古典主義様式といわれる建築は、古代ギリシャ・ローマ建築のスタイルに取り入れながら、ギリシャ・ローマ建築の装飾性を剥ぎ落とし、質感を無機質にした感じの近代建築である。
 重厚長大ではあるが中身が空洞の感じで、完成された瞬間に廃虚のように見える建物だ。

ナチス建築
▲ ナチス建築

 廃虚とはまさに建物が放つ 「死の匂い」 に他ならない。

 ポスターやビラのたぐいにしてもしかり。
 戦時中、ドイツの町中に貼られたという戦意高揚のためのポスター集を見る機会があったが、そこに描かれるのもドクロだったり、死せる戦友を背負って歩く兵士の図だったりと、これまた死の匂いで満たされたものが多い。

ナチスポスター1 ナチスポスター2
▲ 戦意高揚のポスターでさえ、どこか 「死の匂い」 が漂ってくる

 戦火、死体、廃虚。
 映画やポスター、建築などに現れるナチス美学に一貫して漂う 「死の気配」 をどう捉えたらいいのか。

SSの徽章
▲ ヒトラーの親衛隊 (SS)の徽章はドクロだ

 ヒトラーとその幹部たちが夢見た 「第三帝国」 は、現実的な “帝国” というより、多分に夢想の帝国といった色彩が強い。

 はかない夢の帝国を、どうしたら永遠のものとして維持していくことができるか。

 条件はひとつしかない。
 帝国が霧散する前に、その構成員がすべて死ぬことである。
 帝国が滅んだ光景を誰一人見ることがなければ、それこそ 「不滅の帝国」 である。

 ナチス流の 「死の美学」 とは、ナチスの永遠性を夢想する逆説から生まれている。

 死の中に永遠を見るというのは、きわめて文学的な感受性である。
 文学的な感受性で現実政治を行うことの恐さをナチスは教えてくれたわけだが、またそれがゆえに、ナチスの無気味な美学がいまだに人々を惹きつけるのも事実だ。

 『オリンピア』 は、この象徴的なプロローグが終わって、やっと具体的なドキュメントに移る。
 とたんに画面も明るくなり、登場する選手たちの顔も自然な表情に描かれる。
 その構成は、現在のスポーツドキュメントの手本となったといわれるだけあって、モノクロの画面独特の詩情が立ちこめ、表現のしようがないほど美しい。

 しかし、インパクトの強さでは、プロローグに漂っていた無気味な美学にはるかに及ばない。
 だからこそ、…ともいえるが、この映画は政治に 「美」 が求められることの怖さも教えてくれているような気もする。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:14 | コメント(0)| トラックバック(0)

お見合いパブ

 「いい、パパ」 なんて言葉が意味をなさないほど、最近は家庭的なお父さんが増えた。
 遊園地なんかで家族を遊ばしているお父さんは、みんな一生懸命だし、小学校の日曜参観にいそいそやってくるお父さんは、お母さんより熱心に授業を聞いている。

 男にとって、家庭が大事になってきた時代なんだなぁ…と思う。 
 だけど、本当にお父さんたちは、それで満足しているのかしら?

 男と生まれたからには、家族のしがらみを切り捨て、一生一代の大仕事をしてみたい。
 孤独を代償にしても、自分の目標とした事業を達成して、世に問うてみたい。
 そんなふうには思わないのかしら。

 せめて、奥さん以外の女性と楽しい夜を過ごしてみたい…なんて思わないのかしら。

 どうなんだろうな。

 そのへんの本音が分かるのは、近所のお父さんたちと、男同士で飲みに行ったときだ。

 「いやぁ、いやぁ、いつも女房がお世話になっていてすみませんねぇ」
 「いえいえ、こちらこそ、本当にすみませんねぇ」

 「しばらく見ないうちに、お宅のノブオ君、大きくなりましたね」
 「いやぁ、お宅のヤスコちゃん、美人になったじゃないですか」
 「そうですか? イッヒッヒ…」

 …とかいいながら、下駄履きのまま、近所の焼き鳥屋でビールを酌み交わしあったりするときだ。

 「毎日こう暑くちゃ、かないませんなぁ」
 「ほんと。背広もネクタイもぶん投げちゃいたくなりますねぇ」

 「女はいいですなぁ、ノースリーブで、ミニスカートで…」
 「太股をあんなに露出して平気なんですかね」
 「最近電車に乗っても、向かいの席でスカートの奥を平気で見せちゃう女、いるでしょ?」
 「困りますよね、目のやり場がなくて…」
 
 「ストリップより刺激的ですよね」
 「しばらく行ってませんね」
 「今度、どうです?」
 「あっははは……………いいですね」

 翌日、会社に行く前、女房にこう言う。

 「今日、夕飯いらないよ」
 「あら、どうして?」
 女房の顔がキッと怖くなる。

 「隣の安田さんのご主人と飲むんだ」
 「あら、そう…」
 「中学受験を考えなければならない父親としての、共通の悩みがあるからね」
 「遅くならないようにしなさい。あそこの奥さんヒステリーだから…」

 ……ヒステリーはお前だ! 

 だが口には出さない。

 「うむ!」
 口を結んで家を出る。

 安田さんとの待ち合わせは、繁華街の一杯飲み屋だ。

 「いやぁ、女房のヤツ、お宅の旦那さんと飲むんだといったら、安心しちゃって…」
 「へ、うちもそうですよ」
 「ま、冷や奴でも取って…」
 「ここ、厚揚げうまいんですよ」
 お銚子3本ずつで、もういい気分。

 「そろそろ、行きます?」
 「へっへへ、そうですな」
 もちろん勘定は割りカン。


 ステージの上で、アイドル美少女のような清楚な女が、あられもない自然の姿をさらしながら、客席を見回している。
 ストリップというと、マスカラやらシャドーをごてごて塗った金髪の日本人を想定していたお父さんたちは、それだけでドギマギだ。

 「いやぁ、女子大生のアルバイトですかね?」
 「そうかもしれませんなぁ、素人女みたいですな」
 「あ!」

 アイドル美少女が、やがてあっけらかんと一番の核心を開陳。
 「ゴク…………」

 やがて照明がつき、お父さんたち、なぜかお互いの顔を合わせないように退場。

 「それにしても、時代が変わりましたねぇ」
 「ほんと。性の解放化が進んだという雰囲気ですね。あんな素人っぽい娘がねぇ…」
 とか、いいながら再びネオン街を放浪。

ネオン街

 「どうですか? もう一杯行きますか?」
 もちろん二人とも、このまま真っ直ぐ家に帰る気がしない。

 歓楽街でビラ捲きをしている男が紙切れを渡す。
 何気なく手に取るお父さん。

 『 お見合いパブ。3千円ぽっきり!
 二人の気が合ったら、その場でカラオケをデュエット。
 愛を発見する夜 』

 「どうです?」
 「ちょっとだけ覗いてみましょうか。これも話のタネ。どうせくだらないんだから、すぐ出ましょう」
 「そう。こんなんで女と知り合えるはずないんですから。何ごとも社会勉強ですよ」

 入る前から、もう予防線を張る二人。

 「いらっしゃい、いらっしゃい、はーい、お2人様ご案内! 前金でいただきまーす!」

 これじゃキャバクラじゃないか! 何がお見合いパブだ!
 …と、お父さん、少々ムッとするが、そこは我慢でおとなしく奥に入る。

 長いカウンターが2列になっていて、男と女がそれぞれ見合う形で座らされている。

 男側のカウンターの一番隅に座らされるお父さんたち。
 もちろん、白いワイシャツにネクタイのサラリーマン風情はほかにいない。

 ……ちょぅっと、場違いだったかなぁ…
 と、思いながらも、気を取り直し、

 「ねぇねぇビール。お兄ちゃんビールだよ。水割りは高いからだめ」
 「ワンドリンク、みな一律料金です」
 といわれて
 ……水割りにすればよかったかなぁ…と若干の後悔をしながら、おもむろに向かいのカウンターをにらむ。

 物憂そうに煙草をふかす女。隣同士でぺちゃぺちゃ喋っているだけの女たち。

 ……なぁーんだ、それほど美人もいないじゃないか…
 そこでなぜか安心する。
 もし、目もくらむような美人がいたら、かえって気が気ではない。

 「たいしたことないですな」
 「ま、こんなもんでしょう」
 と、小声で感想をもらしあい、それでもテーブルの前に置かれた紙切れをたぐりよせ、えんぴつでこそこそ書き込む2人。

バーカウンターⅠ

 『 4番テーブルの女性指名。当方38歳。会社員。
 趣味=ゴルフ、音楽鑑賞、社交ダンス、ヨット… 』
 書きながら、後半はだいぶ無理をしているな、と思いながらも、えいままよ…。

 書いた紙切れをテーブルの上のホルダーに入れると、すかさずボーイがそれを取り出して、指定の女性がいるカウンターに持っていく。

 緊張の一瞬だ。
 お父さんは、なぜか中学生のとき好きな女性にラブレターを手渡した時のことを思い出す。
 
 4番テーブルの、髪の毛の伸ばした物憂そうな娘が、面倒くさそうにメッセージを読む。
 お父さん、なぜかその女性から視線をそらし、こちらも物憂そうに天井を見上げて、煙草をプカリ。
 
 音沙汰なし。

 5分経過。

 「そっちはどうでした?」
 お父さん、おもわず連れのご主人に話しかける。
 「いやぁ、ちょっとフィーリングが合わなかったみたい…」
 「そうですよね。そんな第一印象じゃ相手のことなんか分かりませんよ、ハハハハ…」

 と、笑うのもそこそこに、すかさずまた紙をたぐりよせ、別の女性に向かって第2便。相手のご主人もシコシコえんぴつを走らせている。

 また緊張の一瞬。
 
 なしのつぶて。

 「ちょっと男をなめてるんじゃないですかね」
 「う~ん……」
 相手のご主人もうかぬ顔。

 こうなれば破れかぶれ。

 気づくと、歌も歌わず、ドリンクも飲まず、ひたすらメッセージだけを書きまくっているのは、お父さんたちだけ。
 「お時間です」
 と、ボーイに言われ、
 「え、うっそぉー」 と、思わず若い娘のように叫んでしまったお父さんたちでした。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:56 | コメント(0)| トラックバック(0)

ボスキャビンの話

 ボスインターナショナルのジョナサン (伊藤さん) と久しぶりに会った。
 バーミューダパンツにスポーツシャツ。
 日に焼けた頬の上に光るポリスのサングラス。

 だ…だれだ?
 この人は…。

 昔、『全国キャンプ場ガイド』 を編集していたときに取材で会った律儀にスーツを着込んでネクタイを結んでいたジョナサンとは別人に思えた。

 「もう、暑いときは短パンに限りますよ。これに慣れちゃうと、長いズボンが履けなくなっちゃった」
 ペットボトルのお茶を持つ手で額に溜まった汗をかきかき、ジョナサンはそう答える。

bossジョナサン1

 「お仕事は順調ですか?」
 駅前のオープンカフェに陣取って、世間話をすることにした。

 「昨日、ピカに展望デッキ付きキャビンのでかいのを収めたばかり。次は孫太郎に行く予定」

 ピカ、孫太郎。
 いずれも高名なキャンプ場の名だ。
 このジョナサン、「ボスキャビン」 というキャンプ場専用のキャビンを輸入している会社のボスなのだ。

ボスキャビン1

 よくキャンプ場で見かけるコテージやバンガロー。
 それをシンプルで機能的な形に洗練させた商品をアメリカと共同で開発し、リーズナブルな価格でキャンプ場に収めるという仕事を20年近くやってきた人だ。
 あいかわらず、仕事は順調のようだ。

 「ところで、日本オート・キャンプ協会さんが出された 『オートキャンプ白書2008』 を見ました?」
 という話になった。

 そこに出てきたデータにびっくり! という。
 日本全国のキャンプ場の年間平均稼働率は、わずか10.5パーセント。
 もちろん、これは稼働率の高いキャンプ場と平均した数値だから、これを下回るキャンプ場もたくさんあるだろう。
 それでは、とてもじゃないが経営を維持していくのは大変。

 「日本のキャンプ場を救わなければいけない」
 そんな気持ちになりますよ、とジョナサンはいう。

 で、その後の話は、彼が携わるキャビンやバンガロー、コテージなどという “ハコモノ” の話となった。

 彼が力説するところによると、キャンプ場の稼働率を上げる妙案のひとつは、このようなハコモノを増やすことだという。

 キャビンやバンガローがあるキャンプ場は、悪天候のときでもキャンセル率が低い。ちょうどキャンピングカーと同じような効力を発揮する。

 テントキャンプに慣れていない人たちにとっても、キャビンやコテージなら気楽。ホテルや旅館よりも数倍安い価格で泊まれて、アウトドアも楽しめる。
 ハコモノ人気は年々高まっている。

 実際にキャンプ場にヒアリングしても、ハイシーズンの予約はキャンプサイトよりもハコモノから先に埋まっていくという。

ボスキャビン外装1 ボスキャビン内装1

 これらのハコモノは、平均1泊1万2,000円程度でキャンプ場来場者に貸し出される。
 年間80泊あれば、約100万円。
 テントキャンプ用のサイトだけではあまり期待できない売上げが、キャンセル率の低いハコモノなら確実に上がっていく。
 1棟100万円の売上げを可能とするハコモノが、もし10棟あれば1,000万円。

 そのように収益が確実視されるハコモノだが、現状としては、なかなか導入に踏み切れるキャンプ場は少ない。
 その理由のひとつは、やはり商品そのものの価格が高いからだ。

 一番安いものでも200万円。上級クラスになると400万円。
 オートキャンプ参加人口の多かった90年代初期のバブル期には、町や市で建設したキャンプ場などでは、1棟3,000万円クラスのコテージを5棟、10棟建てるなんてこともザラにあった。

 しかし、キャンプ参加人口が少なくなってきた現在、高額なハコモノを建てること自体が、キャンプ場にとっては非常にリスキーになっている、とジョナサンは語る。

 しかも、キャンプ場に委託管理者制度が導入されるようになった現在、管理者となった人の契約期間が3年、5年という単位で更新されるようになった。
 そうなれば、いつ管理権を手放すことになるか分からない経営者が、ハコモノを建てるわけにはいかない。
 
 一方、管理を委託した市町村や県でも、要望が上がってきても資金不足で建てるわけにもいかない。

 八方手詰まり。
 かくして稼働率が低迷しているのを見つめながらも身動きのとれないキャンプ場がたくさん出てきた…という話になった。

ボスキャビンエバーグレイズ外装 ボスキャビンデッキ

 「そこで私が救世主になろうと…」
 と、ジョナサンはテーブルから身を乗り出した。

 彼が手を付けたのは、この購入価格の高いハコモノをレンタルで貸し出すという仕事。

 これだと、借りたキャンプ場にとっては、採算が合いそうもないと判断した場合にはすぐ引き取ってもらえるという最大のメリットが生まれる。
 しかも、保証金や敷金のたぐいはなし。

 レンタル料は普及サイズのボスキャビンで、月々2万5,000円。
 支払いは、月払いでもよく、年額30万円の一括払いでもよい。

 現在、このボスキャビンを導入しているキャンプ場は、買い切りとレンタルを合わせて全国で60ヵ所に及ぶという。
 いちばん数多く導入しているキャンプ場では、これを35棟持っているそうだ。

 同製品を導入しているキャンプ場のうち、レンタルは約30ヵ所。
 「おかげさまで、契約を打ち切るというキャンプ場が1件もない。皆さんこのシステムを喜んでくださるようです」
 ジョナサンの表情も明るい。

 このボスキャビン。
 内容的にはどんなものなのか。

ボスキャビンビッグ

 構造的には、車輪の付いたトレーラーである。
 カテゴリーとしては 「パークトレーラー」 (トレーラーハウス) 。
 ただ、普通のトラベルトレーラーと違って、屋根は三角屋根。
 壁とルーフは米国パイン材だ。

 自動車通関証明書が付いて、正規輸入物として許可が出ているところが強み。
 もちろんキャビン内の設計も、保健所の認める 「簡易宿泊施設」 としての構造要件を満たしている。
 長さは4m×2.5m。
 これに2段ベッドが付いたベッドスペースとリビングスペースが備わる。

ボスキャビン17

 就寝定員は4名。
 構造的にはシンプルだが、その代わり壊れないし、掃除もしやすい。

 キャンプ場に喜ばれているのは、雨の日のお客のキャンセル率が少ないこと。
 なにしろ、ウッドデッキとデッキルーフ (屋根) が標準装備されているために、利用客はその下で雨の日も活動できる。

 キャンプ場では、寝るとき以外はほとんど屋外の活動が中心となるが、この屋根付きのウッドデッキがあれば、その下でコーヒータイムを過ごしたり、バーベキューを楽しんだりすることができる。

 以上が普及版の 「ボスキャビン」 だが、ステップアップ版として23フィートバージョン (写真下) がある。
 こちらは標準サイズより1.5m伸びて、トイレとミニキッチンが付く。こちらのレンタル料は年額45万円。

ボスキャビン23

 最も大きいものは26フィート (写真下) 。長さが7.2mと大きくなり、リビングスペースも3m×2.5mというゆったりしたものになる。それにスライドアウト式のトイレとミニキッチンが付いて、年額60万円。

ボスキャビン26

 これ以外に、各キャンプ場に希望を採り入れた特注品の相談も受ける。同製品を何度か導入したキャンプ場からは、やはりその立地条件や使用環境に合ったオーダーメイドの要望が出てくるそうだ。


 ジョナサンのところにはじめて取材に行った頃というのは、ちょうどこのボスキャビンの商品化が始まった時代だった。

 キャンプ場にはハコモノを導入した方が、稼働率が上がる。
 そういう主張に対し、
 「キャンプ場はやっぱテントでしょ。屋根の下で眠るなんて、アウトドアの本筋から外れる」
 と広言してはばからない人たちも多かった。

 取材しながら、ふと、
 「こういう商売、はたして軌道に乗るのかしら…」
 そう思わないでもなかった。

 それから15~16年になる。
 時代は変わった。
 昔取材した人が、ますます元気になっている姿を見るのはうれしい。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 10:32 | コメント(2)| トラックバック(0)

カノン

 ぐいぐい押してくる、という感じだ。

 「アトランティス」 をリリースしてからの日産ピーズフィールドクラフトのキャンピングカー開発は、ストライクゾーンをめがけて、直球でぐいぐい押してくるような迫力を感じる。

 この 「カノン」 も、ストライクゾーンのど真ん中に構えられたキャッチャーミットに、ズバッと小気味よく吸い込まれたような新型車だ。

カノン外装2

 つまり、新しいマーケットの求める一番 “美味しいところ” をずばり突いた企画である。

カノン外装1

 中高年のキャンピングカー需要が数値として増えていることがはっきりしてきた現在、トイレはもう必需品なのだ。

 定年退職を迎えたシニア夫婦の長旅ともなれば、いつもトイレが近くにある場所に泊まれるとは限らない。
 一般道を時間をかけてのんびり走るような旅になると、そう簡単に道の駅や観光地のトイレが使えない場合だって出てくる。
 ましてや高齢期を迎えると、寝ていてもトイレの回数が増える。

 そうなると、本格的なトイレが車内に欲しくなる。
 しかも、プライバシーを確保できるしっかりした個室トイレが欲しい。

 …となれば、バンコンでは、もうこのカノンのようなスタイルを採るしかなくなる。

カノン内装1

 トイレを欲しがるのは、何も中高年とは限らない。
 小さな子どものいる家族も同様だ。
 夜間、クルマから遠く離れたトイレまで子どもを一人で行かせるのは、たとえ管理の行き届いたキャンプ場であっても、時には心配なもの。
 車内にトイレがあれば、そんな不安も解消される。

 酔っぱらったお父さんだって、もうトイレの前のぬかるみで転ぶのは嫌だろう。

カノン内装5

 みんなが欲しがるキャンピングカーのトイレ。
 なのに、そういうユーザーニーズに応えたバンコンというのは、今までほとんどなかった。

 バンコンは、キャブコンに比べるとスペース的に制限がある。
 トイレルームに限定してしまうようなスペースはもったいない。
 だから、フリールームのような何でも置ける場所にしておいて、トイレの欲しい人はポータブルを置けばいい。

 今まで、多くのバンコンは、そういう発想で造られてきたのだ。
 だけど、カーテンを引いたぐらいで、いい年をした女性がポータブルトイレを使えるか?

 そう。使えない。

 で、使えないポータブルトイレは、やがてクルマから外され、家の片隅で粗大ゴミ化していく。

カノン内装2

 カノンは、そこから一歩先を行ったバンコンだ。
 なにしろ、リビングと完全に独立したリヤスペースが設けられ、プライバシーが完璧に守られるようになっているのだ。
 そこに設定されたのは、キャブコン並みの本格的なカセットトイレ。便座が首振り式なので、使用中に足元を収める場所も自由自在。
 こうなってこそ、はじめて車内のトイレは 「使える状態」 になったといえる。

 このリヤコンパートメントの右サイドは、10リットルの給・排水タンクを備えたキッチンとなる。
 シンク下には40リットル冷蔵庫 (op.) 。
 リビングをベッドメイクするときに不要となるテーブルも、このギャレー横に収納できるようになっている。

 もちろん、通路の真ん中には、キャンプ道具ぐらい積むのには十分なスペースが残されている。
 リヤコンパートメントも決して、無駄な空間になってはいないのだ。

 間仕切りを付けて、2ルーム形式にしたお陰で、フロントスペースには実にすっきりしたリビング空間が生まれた。
 生活臭が付いてまわるギャレー周りをリヤに移したために、フロントスペースにはサロン的なリッチ感すら漂う。

 内装のセンスもなかなか。
 イエロー基調のシート地が、ブルーに彩られたテーブルとの対比で美しく浮かび上がる。

カノン内装4

 美しいだけでなく、セカンドシートとサードシートには、それぞれ2点式シートベルトが付いて、安全性も確保されるようになった。

 お洒落度も実用性も高い、新感覚バンコンの 「カノン」 。
 鮮やかな豪速球で、ユーザーニーズのストライクゾーンをずばり射抜いた投球術には早くもエースピッチャーの風格がみなぎる。

 果たして、バンコンリーグの覇者となれるか。

カノン内装3
campingcar | 投稿者 町田編集長 12:14 | コメント(0)| トラックバック(0)

私は王子様

 最近やたら女たちにウケがいい。

 女たち…といってもごく狭い範囲での話…さらに説明すれば「家の中」 。
 具体的には、母親とメス犬だ。

 ま、私にとって、これが日常的に接している異性だ。(カミさんは異性というより中性)

 メス犬などは、もう家に帰ってきた私を見つけるやいなや、ずっとそばを離れようとしない。
 「白馬の王子様のご帰還」

 そういう目つきだ。

 1) ハンカチ王子
 2) ハニカミ王子
 3) ハラデタ王子

 どうやら犬にとっては、私がその3番目の王子様に見えるらしい。

犬1

 で、私は 「白馬の王子」 であると同時に、「乙女を悪から守る騎士」 でもある。

 「悪」 とは何か。

 それは、ちょこっとオシッコが排泄シートから外れただけでも、シッポをつかんでハンマー投げみたいに振り回し、大空高く放り投げるカミさんのことをいう。

 犬がカミさんから怒られそうになると、すかさず私は抱きしめ、カミさんの鉄拳をわが腕で受けとめ、犬の頭上に振り下ろされるフトンタタキの攻撃をわが背中で防ぐ。

 犬はもうそれだけで大感激。
 私のポイントがどんどん上がる。

 ただ、ポイントが加算されても実体的な見返りはない。

 どうもこの犬は、主人の頬を舐める、シッポを振るなどといった、極めてローコストの謝礼で間に合わせようとする傾向が強いようだ。

 2年一緒に暮らして気づいたことだが、基本的にはケチな犬だ。


 母 (義母) にとっても、私は王子様である。
 車椅子生活になってしまったので、カミさんの実家から呼び寄せ、一緒に住むことにした。

 休みの日で家にいるときなどは、必ず車椅子を押して散歩に出かけ、喫茶店に入ってコーヒーなど飲んで、一緒にケーキを食べる。

 ご老人の話は、繰り返しが多い。
 話のマクラも同じならば、起承転結のリズムも同じ、最後のオチも完璧なほどいつもと同じ。
 で、私は毎度のオチに、いつも、はじめて聞いたかのごとく大笑いをする。

 しかし、寸分たがわず同じ話ができるというのは、もう芸の域だ。
 高座に登った落語家が、自分の全人生を通じて練り上げてきた芸を披露するようなものだ。

 喫茶店で、そういう芸をたっぷり享受してから、その店で作ったクッキーのお土産を携えて家に戻る。

 途中に、裏通りの庭先に咲きこぼれる一輪の花がある。
 それを見て、また同じ会話が始まる。

 「紫蘭の花の名前が分からなくて、昔、植木屋さんに尋ねたの。そうしたら、シランといって取り合ってくれないの。何度聞いてもシラン…」

 車椅子を押しながら、一緒になって笑う。
 母にとっては、はじめての笑い。
 私にとっては、もう5~6回目の笑い。

 母の思い出話は、どこかを螺旋 (らせん) 階段を降りていくようなものだ。
 本人にとっては限りなく過去に下っているつもりなのに、階段の真上から見下ろす者から見れば、ずっと同じところをさまよっているように見える。

 でもそれは、「永遠の時間」 を生き始めたことを意味するのかもしれない。

木の影1

 自分が楽しいと思う話題を、(本人ははじめて披露する話だと思い込んで) 繰り返し人に語る。
 それは、「寿命」 というものを意識の外に追いやる健康法のひとつなのかもしれない。

 家にたどり着き、車椅子から母の足を浮かせて、外履きを内履きに履き替えさせる。
 車輪に付いた泥を雑巾で拭き取る。

 その一連の動作を見ている母の目にも、私が 「王子様」 に写っているのを感じる。
 またもやポイントをゲット!
 「今日は10ポイントぐらいだろうか…」
 これで、
 「うちの婿は本当に優しくて、いろいろと世話してくれてありがたい…」
 なんて、週に3度ほど通っている老人介護施設で持ち上げてくれるだろう。

 私の世評もますます高まるというものだ。
 王子様はなかなか計算高いのだ。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 02:12 | コメント(0)| トラックバック(0)

犬を巡る日常会話

【夫】 大変だぁ! いま散歩に連れ出そうと思ったら、玄関をすり抜けて、クッキーが外に飛び出してしまった。
【妻】 あら、早くつかまえないと。
【夫】 もう姿が見えないんだよ。
【妻】 家出かしら…
【夫】 お前がいじめるからだよ。
【妻】 行き先は分かるかも…。さっき原宿の竹下通りが出てくるテレビをじっと見ていたから。
【夫】 年頃だもんなぁ。
【妻】 だけど、どうやって行く気かしら。電車など乗ったことがないの
に。

cooky_kareha

【夫】 道々、匂いを嗅ぎながら行くんじゃないか。
【妻】 何日もかかるわよ。足が短いから。
【夫】 2~3日分のエサを風呂敷に包んで、背中にしょってけばいいのにな。
【妻】 可愛いわね。
【夫】 …とにかく探しにいかないと。
【妻】 暑いから、もう少し日が落ちてから。


【夫】 大変だぁ! クッキーが野犬狩りの人に捕まったらしい。
【妻】 うっそぉ。
【夫】 明日以内に30万円振り込まないと、犬殺しの注射を打たれちゃうんだって。泣きながら、そう言っている。
【妻】 本人からの電話?
【夫】 そう。
【妻】 ちょっと冷静になって。犬が言葉しゃべるわけないでしょ。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 05:52 | コメント(0)| トラックバック(0)

オープンキッチン

 お気に入りの店である。
 チャイニーズフード系の 「オープンキッチン」 。

 なにしろ、シェフが手際よく食材を盛りつけていく華麗なる手さばきを目の前で堪能できる。
 視覚的にも贅沢なレストランだ。

中華屋台1

 ここの味付けは、オーソドックスなグランドキュイジーヌの伝統を受け継いでいる。
 つまり古典的ながら、しっかり造り込まれたコクのあるソースで勝負する店だ。

中華屋台

 ワンポーションの盛りつけは標準的で、多からず、少なからず。
 パスタには鹹水 (かんすい) の効いた細麺を使い、ソイソースを基調にした関東風の味付けで、真っ向からシンプル勝負!

 ああ…この味、一杯30円だった昭和30年代の味がそのまま保たれているようなぁ…と、中高年が食したら感涙にむせぶこと間違いなしだ。

中華オープンキッチン2

 豚骨ベースのギラギラスープ。あるいはスパゲティなの? うどんなの? と首を傾げるような素気ない太麺にうんざりしている人にはぜひお勧めだ。
 特に最近どこにでもある、見せかけの凝り方を示す “創作系” に飽きた人にもぴったり。

 このキッチンで出す料理は、食材もオーソドキシーに徹して、新しぶらないところがいい。
 パスタの薬味には和ネギを使い、これに海苔、シナチクといった厳選された伝統食材が彩りを添える。

中華オープンキッチン3

 特にチャーシューは絶品。
 脂身部分を少な目に抑えながら、その微かな脂部分が舌で溶けるときの味わいが堪能できるように、厚み、量とも計算が行き届いている。

 シェフはこの道30年のベテラン。
 味を追求する厳しい姿勢を崩さないまま、態度や表情でそういう堅苦しさを表に見せない。
 ノレンをくぐると、いつも、
 「まいどぉ!」
 と、まるで屋台のおっちゃんのような気さくな笑顔を浮かべて迎えてくれる。

 冬場の残業夜食が続く頃にはよくお世話になった。
 しかし、夏場も悪くない。

 陽が落ちた後の涼風に吹かれ、サービスの麦茶を飲みながら、料理ができるまでの間を過ごしていると、仕事の疲れがスゥーッと抜けていくのを感じる。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:08 | コメント(2)| トラックバック(0)

アーデンショート

 現在のキャブコンシーンにおいて、最も元気のいいメーカーとしてAtoZ (エートゥゼット) の名前を挙げることに異論のある人はほとんどいないだろう。

 なにしろ 「アミティ」 の快進撃は、誰の目から見ても、はっきりくっきり!
 近年、これほど高い認知度を獲得したキャブコンというのは、他にないのではあるまいか。

 そのアミティのコンセプトを日産アトラスで再現したのが、この 「アーデンショート」 。
 AtoZとしては記念すべき新型アトラス1号車であったアーデンを、ずばりアミティサイズでやったのけたのが、このクルマだ。

アーデンショート外形1

 全長4.64m。
 ボンゴベースのアミティより、わずか4㎝長いだけ。
 逆に、幅はアミティより5㎝絞り込まれて、1.9mジャスト。

 これは、アミティで 「キャブ段差が気になる」 という声が上がっていたことに対する対応だ。
 アミティも極力幅を抑えたクルマではあるが、なにしろキャブ部自体がコンパクト。そのため、シェルのキャブ段差が多少目立ってしまう。

 それに対し、キャブ自体がボンゴより大きいアトラスで、さらにシェルをタイトに絞ったことは、このクルマに何をもたらせたか。

 何よりも、運転席からの見切りがよくなった。
 サイドミラーから後方を覗いたときの印象は、サイドパネルがほぼツライチになったため、ミニバン感覚に近づいた。
 最小回転半径4.2mという取り回しの良さと相まって、無類に扱いやすいキャブコンが誕生したわけだ。

 もちろん外形フォルムもすっきり。
 ここに来て、バンク部を美しくシェイプアップしたルーフ形状が生きてくる。
 カッコいいのだ。

 ノーズの出っ張りがないアトラスで、こういうカッコ良さを演出するというのはなかなかの手際。
 AtoZは、キャブオーバー型トラックをベースにした日本のキャブコンで、ついに新しいスタイルというものを完成させたのかもしれない。

アーデンショート内装1

 アミティシリーズに比べると、アーデンショートのお値段はやはり多少高い。
 その代わり、アトラスならではの動力性能が手に入る。
 ガソリン車、ディーゼル車ともに130馬力。
 95馬力のボンゴとは、そこが違う。

 レイアウトは、リヤエントランスの利点を生かして、対面ダイネットにサイドソファを組み合わせた “広々感追求型” 。 

アーデンショート内装3 

 ただ、エントランスから入った左側にキッチンカウンターがあるので、サイドソファは一人掛け。
 代わりに、下駄箱を兼ねるリヤキャビネットが設けられているので、収納力は高くなっている。
 これにマルチルーム、クローゼットなどが加わり、ショートボディとはいえ、荷物を積む余裕は贅沢なほど用意されている。

アーデンショート内装2

 現行レイアウトのほかに、2段ベッドモデルも登場する予定。

 アミティシリーズの快進撃に続くかのように、このアーデンショート、華麗なるスパートの気配を漂わせつつ、小気味よい助走を開始した。
 
 お値段は、2WDガソリン・5ATで 4,798,500円。

campingcar | 投稿者 町田編集長 00:29 | コメント(0)| トラックバック(0)
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