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人に言えない秘密

 誰でも、「人に言えない秘密」 というものを持っている。
 自分に関する秘密かもしれないし、たまたま知ってしまった他人の秘密かもしれない。

 でも、「人に言えない秘密」 を持っている人間は豊かだ。

ポスト1

 知り合いの一人が 「人に言えない秘密」 を持っていたことを知ったのは、つい最近のことだ。

 ある有名人と関わる話である。
 世間的に明るみに出れば、超ゴシップか超スキャンダルになるような話だ。

 そのことを私は、最近別の情報経路から知った。

 「なんだよ、水臭い。オレは口が固いんだから、オレにだけは教えてくれても良かったじゃないか」
 …と、本人を前にして、そう思わないでもない。

 でも、そいつはもうずっと長い間、そんな秘密があることを一言もしゃべらないばかりか、その話題に触れるような会話の流れさえつくらなかった。
 それでいて、いつもニコニコと、まったく変わることのない雰囲気で楽しい会話の時間を提供してくれた。

 だから、私も次にそいつと会ったとき、自分からその件を聞き出そうとは思わない。

 「秘密」 というものは、たいがい重いものだ。
 たとえ、他人から聞かされた話であっても、それが 「秘密」 であるかぎり、その重さが本人を押しつぶす。
 特に、他人のゴシップに属するような 「秘密」 の場合。
 しゃべることも愉快だが、聞く方も愉快だろうという思い込みが、抱えた秘密をますます大きく重いものにしていく。

 だから、しゃべってみたくなる。
 しゃべることで、その重みを人にも預け、自分が少しでも身軽になろうとする。

 「ここだけの話だぜ」
 …なんて条件付きで、手に入れた秘密の話を、身内の人間にしゃべってしまう人は多いが、その瞬間、秘密は檻 (おり) から飛び出す野鳥のように、虚空に放たれる。
 「ここだけ」 と限定することで、逆にその 「秘密」 は稀少価値性を高め、情報密度の濃そうな衣裳を身にまとうからだ。

 だから、自分の握った情報を広めたい場合は、たとえ何でもない話であっても、
 「ここだけの話」
 という前置きをするのが、一番効果的かもしれない。

夜の木

 それほど、「秘する話」 というのは、それ自体が拡散しようとするパワーを持つ。
 だから、その拡散力を押し殺して、自分の世界に閉じこめる力を持つ人間は、それだけで魅力的だ。そういう人には、秘密を守ろうとする意志の力が、オーラとなって外に出ているに違いない。

 閉じこめられた 「秘密」 は、その人間の心のなかでズブズブと発酵し、様々な毒素を醸成していくかもしれない。
 しかし、それはまた、心の土壌を肥沃なものにするための養分も生む。
 その養分が、人間を磨く。

 とっておきの話をペラペラ口外してしまう人間は、恵みの雨を放水路に流してしまうために、養分を育てることができない。

 たとえ言葉が少なくとも、言外に底知れぬ深みを湛えた人間に会ったときは、その人間が途方もない秘密を押し殺していると想像しても、たぶん間違いないかもしれない。


コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:44 | コメント(2)| トラックバック(0)

ハードボイルド6

【 ハードボイルド研究ノート6 】

《 日本のハードボイルド野郎たち 》

 アメリカで生まれたハードボイルド小説は、日本ではどんな展開を見せたのだろうか。

 日本での最初のハードボイルド作家として勇名を馳せたのは、やはり大薮春彦氏だろう。
 原作を読んだことのない人でも、松田優作主演の 『蘇る金狼』 や、角川映画の 『汚れた英雄』 の原作者といえば、親しみを覚えるのではなかろうか。

松田優作1

 彼の描く主人公は、強烈なストイシズムと持ちながら、心身ともにものすごくタフで、時に冷酷、無慈悲。アメリカのハードボイルド小説の流れでは、チャンドラーよりも、ダシール・ハメットやミッキー・スピレインの系列に近い。

蘇る金狼1

 モノに対するこだわりもそうとう強く、特に銃やクルマに対する描写は精緻を極め、調べた人の話では、「銃に弾を込めて発射するまでに3ページ。クルマなら、キーをひねってエンジンが始動し、走り出すまでに4ページ費やしている」 という報告を聞いたこともある。

 正統派のハードボイルド作家といえば、生島治郎氏が有名。マスコミ的には 「日本のハードボイルドの草分け」 といわれている。
 レイモンド・チャンドラーの影響を受けて作家生活に入っただけあって、「乾いた暴力」 よりも、人間の情緒性などにも関心を向けた作風で知られた。

追いつめる表紙
 
 ……というところで、ごめんなさい! 実はあんまり読んでいないのだ。
 以上の情報もネットで調べたもの。生島さんのファンの皆さまには失礼!

影G動く表紙

 大メジャー作家ということで、多くの読者を魅了したハードボイルド作家は、なんといっても北方謙三さんだろう。

北方謙三氏

 実は、インタビューで二度ほどお会いしたことがある。そのとき北方さんは、既にハードボイルド小説という枠組みから離れ、歴史小説への転換を図られていた時期だった。
 
 話が、日本の海賊の歴史の話になった。
 瀬戸内海の水軍の話を書くために、日本水軍に関する研究書を購入されたという。
 
 「枕にして昼寝ができるほどの厚さの本だったんですよ。そいつをずっと読み込んで、あ、これは使えるな…と思った部分が、いったいどのくらいあったと思います? その研究書を参考にして書いた箇所は、たった2行。
 歴史小説というのは、そういうものなんですよ。
 しかし、その2行は、その専門書を読まないかぎり思いつかなかった」
 
 そんな話が、とても印象に残っている。

 現在北方さんは、『三国志』 や 『水滸伝』 といったスケールの大きな歴史小説の世界で活躍されているが、デビュー当時は 「新しいハードボイルドの旗手」 という位置づけで、新進作家の一角を占めていた。

 その北方氏が、ハードボイルド小説の第一線で活躍していたころの 「ハードボイルド」 の定義を引用しよう。

ウィスキーグラス
 
 「ハードボイルドとは何か? タフでカッコいい男の生き方 …… 一般にはそういわれる。
 しかし、俺のハードボイルドはちょっと違う。負けの美学。全力を賭けた結果の男の敗北は、恥ではない。男の誇りだ。
 敗北の味をいやというほどかみしめろ。そうすることで、“男はこうあるべきだ” という美学の獲得ができる。

 男はセンチメンタル。女は過去を洗い流せるが、男は決して過去を断ち切れない。恋に敗れ、泥まみれになっても相手の女を忘れない。
 未練を捨てきれない男は、まさに女々しい (センチメンタル)。

 その女々しさを、いかに固い殻で包み込んで生きられるか。それが男の存在感だ。
 負けて負けて負け抜いて、それでも “俺は男だ” と立ち上がれ。過去を、未練を捨てきれなくてもふり向くな。それが男のルール、男のハードボイルドな生き方だ」
         (KKベストセラーズ  『男はハードボイルド』  序文より)

 …いや、実に勇ましい!
 チャンドラーやパーカーの引用を眺めた後、この文を読んでみると、海外旅行から帰ってきて、みそ汁で納豆ご飯を食べたような気になる。
 日本である!
 こぶしの効いた演歌を聞いている気分になる。

 先ほどの北方さんの 「ハードボイルド宣言」 は、すでに30年ほど前に書かれたもので、やはり今の時代の感覚とは多少のズレがあるのは仕方がない。
 それでも、この一文は、日本で 「ハードボイルド」 という文化がどう咀嚼 (そしゃく) されていったかを物語る有力な手がかりとなる。

 北方謙三氏のハードボイルド小説として人気のある短編集に、『二月二日ホテル』 がある。
 この本は、ぶっきらぼうな中年カメラマンが主役を張る連作短編集だ。

 主人公は、かつて全共闘として政治闘争を経験しており、セクト同士の内ゲバ中、同士2人と対立セクトにつかまってリンチに遭い、自分は痛さと恐怖のために自己批判書を書いてしまう。
 しかし、もうひとりの同士は、信念を曲げることなく、自己批判を拒否したまま、リンチがもとで死んでしまう。

 それが、主人公の精神上の深い痕跡として残り、彼は一生それを負い目として生きることになる。
 まぁ、ハードボイルド的人物の典型である暗い過去を背負った、孤独な男なのだ。

二月二日ホテル表紙

 この連作集に収録されている作品は、どれも面白い。
 しかし、一言でいえば 「演歌」 である。
 …というより、かつてのグループサウンズの雰囲気だ。演奏のスタイルは、外国から来たロック風。しかしメロディや歌唱法は、日本人の耳になじんだ伝統的歌謡曲。

 演歌には、ものすごく深刻なテーマが歌い込まれていても、どこかケロッと健全なところがある。
 演歌というのは、人それぞれが固有に持っている辛さ・悲しさを、とりあえずステレオタイプ化された言葉に翻訳することによって、リスナーに、「なんだ、辛いのは俺だけじゃないのね!」 と納得させる力を持っている。
 歌に表現された状況が、深刻になればなるほど、聞く者には元気が湧いてくる。

 だから、演歌には 「退廃」 がない。健全な歌なのだ。

 『二月二日ホテル』 に出てくる主人公には、そういう健全さがある。
 全共闘時代に受けた精神的な傷が一生を左右するという設定は、その演歌の健全性に近い。「精神的な傷」 に憧れる体育会出身の文学青年という匂いがある。
 チャンドラーの描くマーロウのように、「もしかしたら、こいつホモ?」 と疑わせるような、甘くて危うい 「退廃」 がない。

 それだけ、北方謙三さんは良い人なのだ。
 実際に、二度ほどお会いした印象では、本当に良識を備えられた、腰の低い、真面目で素敵な方だった。
 でも 「良い人」 は、こぢんまりとした都市生活者の 「退廃」 を描くのに向いていない。
 北方さんが、雄大な歴史ロマンの世界に飛躍されていったのは、必然的な流れだったと思う。
 (続く)

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音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:46 | コメント(2)| トラックバック(0)

極寒キャンプTV

 氷点下の北海道で、真冬のキャンプ!
 とびきりの寒さが襲っている今年の日本列島ですが、その極寒の北の大地で、キャンピングカーを使ったキャンプの映像が楽しめそうです。

 番組名は、
 『キャンピングカーで激走! 極寒!! 北海道の感動ツァー 涙も凍る400キロ旅』
 放映日は、2月2日 (土) の午後2:55~3:55。
 放送局は、STV (札幌テレビ放送 = 日本テレビ系列 全国22局ネット)
 詳細は番組ホームページ (http://www.stv.ne.jp/tv/index.html) でご覧いただけます。

極寒キャンプ1

 極寒キャンプに挑むのは、おぎやはぎ (小木博明・矢作兼) 、北陽 (伊藤さおり・虻川美穂子) 、杉浦太郎、森中慎也 (STVアナウンサー) の6人。

 おぎやはぎと森中チームは、サロマ湖、網走を回る 「海の幸」 を求める旅へ。

おぎやはぎ 森中氏1

 北陽と杉浦太陽チームは、愛山渓、層雲峡を回る 「山の幸」 を求める旅へ。

北陽 杉浦太陽

 2グループは、この時期の北海道で最も寒いといわれる屈斜路湖で合流。
 そこから、釧路湿原へ向かいます。

 絶景の釧路湿原では、野生動物に遭遇してビックリ!
 厳寒の太平洋では、氷点下の潜水漁にもチャレンジ。

 いやまぁ、難行苦行のキャンプ旅行のようですが、局側からは次のようなアピールポイントが寄せられています。

 「冬だからこそキレイな絶景、寒いからこそ美味しい絶品料理!」
 「極寒の北海道でしか出会えない感動!」
 「究極の秘湯情報もばっちり!」
 「道産子さえも知らなかった北海道の冬の魅力をたっぷり伝える60分」
 …だそうです。
 楽しみですねぇ!

 この極寒キャンプの取材には、北海道のキャンピングカー販売店 「キャンピングレンタサービス工業」 が2台のキャンピングカーを提供しています。
 冬のキャンプのノウハウを知り尽くした同社の橋爪社長も同行されたとか。

 「どの程度キャンピングカーの映像が出てくる編集なのかわかりませんが、ご覧になった方々が、“キャンピングカーは、氷点下の真冬でも使えるんだね” とご理解いただけるとうれしいですね」
 と、同社のスタッフも期待しています。

キャンピングレンタサービス
▲キャンピングレンタサービス工業

 冬の北海道の旅といえば、移動しやすい都市型観光が主体になりがちですが、本当の北海道の素晴らしさを知るには、やはりキャンピングカーで自然の中に分け入っていくのが一番。
 定番の冬観光ではもの足りない人は必見です!

campingcar | 投稿者 町田編集長 01:47 | コメント(2)| トラックバック(0)

薩摩示現流

 NHKの大河ドラマ  『篤姫』 を見ていると、薩摩の若い武士たちが、よく剣術の稽古をしているシーンが出てくる。
 きれいに削られた木刀ではなく、粗っ削りの丸太のようなものを使っている。
 それが、薩摩における太刀打ちの稽古の流儀だ。

 薩摩示現流。
 この名に、けっこう思い入れがある。
 
 『新撰組血風録』
 『燃えよ剣』
 『竜馬がゆく』
 『跳ぶが如く』

 こういう小説の愛読者だから、そこに出てくる 「示現流 (じげんりゅう) 」 という言葉にはさんざんなじんだ。

 昔、鹿児島に 「観光ガイド」 を書くための取材に行ったことがある。
 市内に 「黎明館 (れいめいかん) 」 という資料館があった。
 鹿児島の歴史が一目でわかるような展示物が並んでいる。

黎明館
 
 そこに、鹿児島の伝統芸能や祭を紹介するビデオコーナーがあり、示現流の練習風景が紹介されていた。

 剣士が、枝を切り落としただけの丸太を持って、地面に植え込まれた棒を次々と叩いていく。
 洗練さのかけらもない素朴で原始的な剣術だ。
 ただ、「キェー」 とか 「チェースト」 というかけ声だけが、聞き手の心を震撼させるほど恐ろしい。 

 司馬遼太郎さんは 『新撰組血風録』 や 『燃えよ剣』 のなかで、新撰組の近藤勇の口を借りて、こう言わせている。
 「隊士諸君。薩摩の浪士と切り結ぶときは、初太刀を外せ。恥も外聞もなく退いてもいいから、初太刀だけはかわせ」
 
 初太刀。
 最初の一撃という意味だ。

 示現流では、初太刀に気合を込め、最初の一撃で相手を倒すことに全てを賭ける。
 逆にいえば、その初太刀を相手に外されたら、薩摩剣士は死ぬしかない。
 まさに捨て身の剣法であり、幕末、勤皇方の志士たちを血祭りにあげていた新撰組ですら、この薩摩示現流には恐れおののいたといわれる。


 薩摩の人々には、その示現流の精神が、生活全般にも沁み込んでいるという。
 そんな話を、鹿児島で取材をしていたとき、居酒屋の女将 (おかみ) さんから聞いた。
 『焼酎天国』 という、それなりに名の知れた店で、その店を取材した後、そこの女将さんが酒の相手をしてくれた。

 鹿児島では決断を下す速さを表す言葉として、「太刀の来ぬ間に」 という表現がある、と女将さんは話す。
 つまり、相手の刀が切りかかって来ないうちに、素早く決断せよという意味らしい。
 いかにも、示現流の故郷であることを感じさせる例えだ。
 司馬遼太郎の小説の中で、
 「鹿児島では、男の行動を例える表現は、ことごとく軍事か剣術の表現がベースになっている」
 と言う指摘があったが、それを思い出した。

 このような、薩摩剣士の精神を体現した男たちを 「薩摩隼人 (はやと) 」 という。

 女将さんが、薩摩隼人の 「定義」 を教えてくれた。

 薩摩隼人になるための条件は、
 一に 「議をいうな」
 二に 「弱者に優しくあれ」
 三に 「勇猛果敢であれ」
 …ということだそうだ。

 議を言うな、というのは 「ごちゃごちゃ理屈をこくな」 という意味。
 男は不言実行。しかも、的確な判断力を持って、瞬時に決断せよというのである。
 
 そして、そういう男に惚れる女のことを 「薩摩おごじょ」 というそうな。
 薩摩おごじょというのは、男のそういう美質を、女だてらに臓腑の隅々にまで沁みこませた女のことを指し、それでいて、常に風下に回って男を立て、万が一男がくじけそうになったときこそ、「示現流」 のすさまじい炎を男に注入するのだとか。

 「私こそ、まさに薩摩おごじょの典型!」
 と、さすがに 『焼酎天国』 の女将さんは言わなかったが、目が語っていた。
 で、薩摩隼人でも何でもない軟弱な東京男の私は、一気に酔いが回った。

焼酎天国

 
 翌日、鹿児島市内の風景をカメラに収めようと思って外に出たら、季節外れの雪が舞っていた。
 道行くクルマのルーフがみな白く変色している。
 通行人は、傘をさしているし、女性はスカーフをほっかぶりしている。

 「変だな。天気予報は晴だといっていたのに…」
 と思って、よく見ると火山灰だった。
 桜島が煙をはき出したのだ。
 
 城山の高台に登っても、灰で桜島が見えない。
 小雨で視界が悪かったときよりまだひどい。撮影どころではない。

 考えてみると、不思議な町だ。
 中心部に火山を抱えている町なんて信じられない。

桜島噴煙

 火を噴く山とともに暮らしている人たちって、やはり感性がホットだ。
 明治維新から西南戦争にかけての時代、鹿児島は、ほとんど日本国内における唯一の独立国だった。
 「中央政府なにするものぞ!」 と、薩摩隼人たちは、明治政府の繰り出す大軍に対して、少しもひるむことなく戦った。

 示現流の苛烈さも、薩摩人の気迫も、燃え続ける桜島が生んだものかもしれないと、ふと思った。

旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 00:11 | コメント(0)| トラックバック(0)

とにかく文は短く

 『文章のみがき方』 という本を読んだ。
 最近、企業や組織の理念などを広報する仕事も増えてきたので、ここらで、「むずかしいことを平易に書く」 技術を再勉強した方がいいな…と思ったからである。

文章のみがき方表紙

 企業姿勢などを広く訴えていく文章では、ブログのように 「…ってなことなんだけど…」 ってな言い回しが、使えない。

 「地球と人類の共存をテーマに、地球資源を浪費する今の生活構造から脱却して、持続可能な…」
 というような書き方が要求される。

 そういう雰囲気で書いたつもりの記事だったが、テキストを送った発行元の本社校閲部から、表現の変更を求められた。

 その指示箇所を見ると、
 これがまた、まさにブログ的に 「…ってなことなんだけど…」 風の荒っぽい書き方をしているところなんだわ。
 いかんよなぁ。

 で、にわか勉強のつもりで、本屋に平積みになっていた辰濃和男 (たつの・かずお) さんの  『文章のみがき方』 (岩波新書) という本を買った。

 著者は、朝日新聞のコラム 「天声人語」 を受け持たれたこともある方で、基本的には 「天声人語」 の書き方という印象の本になっている。つまり、コラムニストやエッセイストを目指している方にはとても参考になる書物なのだ。

 で、読み終わった感想。
 「素人は、書いたものの3分の2は削った方がいい」
 と主張する本だと、私には思えた。

 とにかく、やたら文章を削れという教えが目立つ。
 そう主張する過去の名文家たちの引用も多い。
 たとえば、
 「文章の中の、ここの箇所は切り捨てた方がよいものか、それとも、このままの方がよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない」 (太宰治)
 …という感じである。

 辰濃さんは書く。
 「自分が書いた文章を削るときは、誰でも “もったいない” という気持ちが働く。でも、ときには蛮勇をふるっても削ったほうがいい。読み手は、ちょっと冗長だったり、くどいところがあれば、もう読むのを止める」

 この忙しい時代、誰だって、他人の書いた長くて退屈な文章につき合っているヒマはない。
 しかも、「長くて退屈な文章」 というのは、その多くが、作者の自己満足の結果を反映したものに過ぎない。
 自分の自慢話が加わるから、文章が長くなるのだ。

 辰濃さんは、こうも言う。

 「気のきいた文章を書くてっとり早い秘訣は、自分がピエロになって、自分の欠点を容赦呵責なく書くことである。
 逆に読み手の強い反感を買うのは、自分の欠点を書いたようでいて、実は、自慢話になっている文である」

 これは、姫野カオルコさんのエッセイからそのまま引用した文章らしいが、それが、そのまま辰濃さんの意見に重なっている。

 「自慢話よりも失敗談。私たちの多くは、海に身を投げた平知盛や北海道で戦死した新撰組の土方にひかれ、落語の熊さんのおっちょこちょいに親しみを感じる習性がある。
 良寛さんも、戒 (いまし) めの言葉として、まっさきに “手がら話” を挙げている」
 と辰濃さんは書く。

 おおむね賛同できる。
 …のだが、なんだか自分のことを指摘されたようで、ちょっと居心地が悪い。
 私の書くブログなどは長めのものが多い。「自慢話が入るからだろ?」 とズバリ見透かされたような気になった。

 書く者のおごりをたしなめ、読者に謙虚になる姿勢をうながすという意味で、まさに 『文章の品格』 というタイトルでも似合いそうな本であったが、ただ一方で、この辰濃さんがイメージされている “品格” を、現在どれくらいの読者が理解できるのか? という疑問も浮かんだ。

 彼は 「思いの深さを大切にする」 という章で、丸谷才一の次のような抜粋を冒頭に掲げる。

 「名文はわれわれに対し、その文章の著者の、そのときにおける精神の充実を送り届ける。それは気魄であり、緊張であり、風格であり、豊かさである。われわれはそれに包まれながら、それを受け取り、それを自分のものとする」

 著者は、この丸谷才一の文章を引用し、「名文」 について考えるときは必ず思い出すような、心に残る文章だと評価する。

 しかし、私にはこの感覚がよく分からない。
 少なくとも、「精神の充実」 「気魄」 「緊張」 「風格」 「豊かさ」 という言葉が意味する 「名文」 というものが、うまくイメージできない。

 たぶん、私たちの世代から失われてしまった何かがあるのだ。
 辰濃さんは、1930年のお生まれだというから、80歳近くになられる。

 この世代の方々が持っていて、我々のような団塊世代がはっきりと失ってしまったものとは何か。
 それは 「気魄」 とか 「風格」 、「豊かさ」 などという言葉を支える“内実”である。

 私などは、もう 「風格」 「豊かさ」 「品格」 などという言葉に何の感慨も持たない。それらの言葉は、内実を失った空虚な言葉にしか思えない。

 しかし、辰濃さんあたりの世代になると、「風格」 とか 「豊かさ」 という言葉の中には、その言葉に見合った実態のある 「文化」 がぎっしりと詰まっているように感じられる。

 それは、時に漢文の素養であったり、海外古典文学のもたらす教養であったり、あるいは歴史や伝統芸能の知識であったり、音楽や絵画についての造詣であったりする。
 それは、みな、団塊の世代あたりが、「旧世代の抑圧的なアカデミズム」 として切り捨ててしまったものだ。

 そのへんを理解しないと、この本で主張されている 「文章を削る」 という意味の真意も分からなくなる。

 辰濃さんは、削らなければならない文章として、いったいどのようなものを思い浮かべていたのだろうか。

 夏目漱石が活躍する前までの明治期の文学は、次のような文章で構成されていたという。

 「路は両山の間を盤回して、巨杉 (きょさん) 天を刺し、渓水徐々として流るるに、幽趣掬 (きく) すべく、ゆく先、如何にゆかしかるらむと、行くこと十数町にして、はや峰の上に出たりなり」
 「山間は蒼然たる暁色 (ぎょうしょく) にこめられて、日光僅に西川のいただきに上がる」……

 近代文学の黎明期を飾ったのは、このような美文調の文章であったという。
 しかし、その華美な装飾を取り払うことで、日本の近代文学は成熟した。

 辰濃さんが 「文章を削れ」 と主張するとき、その背景には、美文調を嫌って自分の文章を確立していった漱石の姿が浮かんでいる。
 だから、辰濃さんが使う 「風格」 とか 「豊かさ」 という言葉には、上のような美文調を惜しげなく削ってしまうことの 「贅沢感」 と 「緊張感」が含まれている。

 そういう背景にまで思いを馳せないと、この本は、ただ 「豊かさ」 とか 「風格」 というきれいな言葉でまとめられた退屈な本に思えてしまう。

 文章を削ることで、どのような効果が得られるのか。

 辰濃さんは、「日本一短い手紙」 として募集された文章のひとつとして、こんなサンプルを採り上げている。

   「いのち」 の終わりに三日ください。
   母とひなかざり。
   貴男 (あなた) と観覧車。
   子供達に茶碗蒸しを。

 命の終わりという言葉から、これを書かれた方が、余命いくばくもない運命を見据えていることが察せられる。

 辰濃さんは、この文章に次のようなコメントを捧げる。

 「いろいろなものを削ぎ落として残ったものが、『雛 (ひな) 』 と 『観覧車』 と 『茶碗蒸し』 だったのだろう。その三つのもので象徴される家族の絆が、読む人の心にしっかりと伝わってくる」

 文章を切り詰めたことによって、逆に表現されなかった大きなものが背後に浮かび上がる。
 これぞ、名文の極意。
 この本は、そういうことを教えてくれる。 

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:54 | コメント(2)| トラックバック(0)

セーヌ左岸の恋

セーヌ左岸1

 ガキの頃、母親が買い物に出て行くのが待ち遠しかった。
 「早く出ねぇかな」
 いつも、そればかり気にしていた。

 「じゃお留守番、頼んだわよ」
 と、玄関の手前で声がすると、
 「はぁ~い、いってらっしゃい」
 と、私はカワイゲな声を出して、本棚に一目散。
 
 読書好きの少年だったのだ。
 でも、その読書の傾向が片寄っていた。

 目指すのは、“大人の恋愛小説” 。 とびっきり、いやらしい場面が出てくるやつ。
 今読んだら、どうってことない普通のラブシーンなんだろうけれど、刺激的な情報が圧倒的に欠如していた時代だったから、
  「義和の手が、牧子の胸を割って、乳房を捉えた。
  あ、いけません…
  ずっと、貴女のことばかり思い続けていたんですよ。
  でも、典子さんに悪いわ。だめ…いけない人…」
 
 もう、これだけで顔から湯気が立つくらいに頭に血が昇り、胸バクバク。
 そんな箇所を探し出すと、アヘアヘアヘ! と、一人で興奮していた。

 こういう感覚は、パソコンを検索するだけで、すぐさま無修正の動画や画像が見られる今の時代の人には理解しづらいかもしれない。
 でも、私らが子供だった時代は、家の中で “いやらしい” 文物に接することができるのは、親の蔵書の中に隠されたワイセツ本でも探すしかなかったのだ。

 で、ある日、いやらしい本ないかな…と、例によって、留守番どきの独り遊びにふけっていたら、『文藝春秋』 が出てきた。
 けっこう硬派の文芸誌なわけだけれど、ガキの自分には、まだそれがポルノ系なのかどうかの見極めもつかない。
 「義和が、胸を割って乳房をつかみ…」
 というような箇所はないかしら、と、ページを繰っていると、
 グラビアページが出てきた。
 
 煙草を口にくわえた外人女のアップがある。
 ふと見とれた。

セーヌ左岸アン煙草1

 パリのサンジェルマンデプレで、無軌道な暮らしを続ける若者たちの生態を写し撮ったものだという。
 もちろん、サンジェルマンデプレがどこにあるのかも知らない。

 だけど、妙にその写真が気に入った。
 いやらしい小説の一コマを探していたことも忘れ、わずか5~6枚のモノクロ写真だったけれど、どれも食い入るように見つめた。
 エド・ヴァン・デル・エルンスケンというカメラマンが撮った 『セーヌ左岸の恋』 という写真集の紹介だった。
 ( という情報は、もっと大人になってから獲得したものだけど )

 どうやら、フォトストーリーのようになっているらしい。

 ある外国人の貧しい若者が、華やかさに憧れて、パリに流れ着く。
 1950年代。
 当時のパリには、「実存主義」 という “現代思想” にかぶれてアナーキーな暮らしにふける若者が世界中から集まっていた。

セーヌ左岸ジャズ
▲ 穴倉みたいなナイトクラブでは、夜通しジャズが流れていた
▼ 煙草の煙が物憂く流れるクラブには、朝がいつまでたっても訪れない
セーヌ左岸煙草の男

 酒、煙草、麻薬、ジャズ、アート。
 パリにたどり着いた主人公の若者は、すぐさまそのような生活に溺れるうちに、アンというダンサーと知り合い、一目ぼれしてしまう。
 しかし、アンは、男から男へ渡り歩くような暮らしを続けるだけで、決まった恋人をつくるような女じゃない。

セーヌ左岸アン煙草2
▲ 「火を貸して」 とアンはいった
▼ 住所不定の女アン。その日知りあった男のアパートが彼女の宿だ
セーヌ左岸アン3

 主人公の屈折した思い。
 アンという女性の、アンニュイ (けだるさ) に満ちた虚無的な生き方。
 それが、コントラストの強いモノクロ写真のなかで、暗い輝きを放っていた。

 私は、そこに 「大人の世界」 を見た。
 酒も煙草も知らない年で、もちろん、女性に恋こがれる胸の熱さも、振られることの挫折感も知らないというのに、「大人の味」 というものに触れたのだ。

 私は、今でも 「モノクロ画像」 、「ジャズ」 、「煙草」 という組み合わせに 「大人」 という言葉を結びつけてしまうのだが、それは、たぶんにこのときの印象がプリンティングされたものだと思う。

 アンは、主人公に誘惑的な微笑を投げかけるが、それは彼を好きになったわけでもなく、たぶらかすためでもなく、ただ 「意味なく」 笑っただけなのだ。
 笑いの奥には、空洞が開いている。

 女心のブラックホールに吸い込まれてしまう男の焦燥と快楽。そして無力感。
 恋愛など経験していなくても、そいつがチクチクと胸をくすぐった。

セーヌ左岸アン誘う1
▲ 「友だちのゲリの部屋が空いてる」 とアンは俺を誘った
▼ しかしゲリの顔を見ると、俺のことは眼中になかった
セーヌ左岸アン2


セーヌ左岸ムショ
▲ 「アンは、俺よりあの青年を愛している。ここ (ムショ) を出たら、国へ帰ろう」

 無銭飲食で刑務所へ放り込まれた主人公は、毎晩アンの夢をみながら、そうつぶやく。
 主人公のセンチメンタリズムが、麻薬のようにこちらの全身を駆けめぐっていく。

 1998年。
 47年ぶりに、この 『セーヌ左岸の恋』 の復刻版が出た。
 本屋で偶然見つけて、すぐ買った。

▼ 『セーヌ左岸の恋』
セーヌ左岸表紙

 少年の日に触れた 「大人の世界」 にもう一度接した。
 すごくカッコいい。

 でも、結局それは、この世のどこを探しても見つからない 「大人の世界」 だった。
 エルスケンが撮った、あの時代のパリだけにあったのか、それとも少年の私が見た幻だったのか。
 そいつが、よく分からない。
 
 不思議なことに、今この写真集を眺めている私の方が、そこに登場する若者たちより、はるかに年上だというのに、あいかわらず彼らの方が、私より 「大人」 に見えてしまう。

 「大人の世界」 というのは、優れたカメラマンや映画監督だけにしかつくれない、到達できない理想郷なのかもしれない。

 
※ PS 最近テレビでやっている 「MORIMTO」 のCMに出てくる音楽って、カッコいいと思いません?
 黒塗りの丸い積み木を重ねていくだけの、何のCMか分からないやつですが、バックに流れる音楽にしびれてます。
 US3 (アススリー) の 「Cantaloop (カンタループ) 」 という曲らしいですね。
 「MORIMOTO」  のHPを開けて、「TV-CM」 のところをクリックすると聞けます。YOU TUBEでも聞けるようです。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:11 | コメント(4)| トラックバック(0)

諸星大二郎の漫画

 諸星大二郎の 『暗黒神話』 を、また読み返す。
 何度読んでも、面白い。
 ストーリーが分かっていても、絵を観るだけで楽しい。

 特に、初期の諸星大二郎が描く、壮大な宇宙ロマンが好きだ。
 歴史、古代神話、考古学、宇宙科学という取り合わせは、デニケンの著作を連想するが、もっとスケールが大きく、奥行きもある。

暗黒神話・孔子暗黒伝

 『暗黒神話』 のテーマは宇宙の終わりである。
 主人公は、古代文明が滅亡していく過程を調べるうちに、どの文明の終焉にも、ある共通した特徴が現れていたことを知る。
 その 「特徴」 をたどっていくと、今われわれの住む世界が、最終的な破滅に向かっていることが推理されてくる。

 では一体、何が宇宙を破滅させようとしているのか?

 本書は、太古の恐竜を死滅させ、地球上の古代文明や古代国家を滅亡させ、今なお地球を壊滅させようとする “スサノオ” の秘密に迫ろうとする。

 スサノオとは、あの日本神話に出てくるスサノオノミコトのことだが、実はこの神様は、日本神話だけに登場したのではなかった。マヤやインダス文明のような謎の滅亡を遂げた文明には、その終焉を示唆する文献や出土品にすべてスサノオの影が刻印されていた…というわけである。

 ストーリーの後半部は、このスサノオの正体を解明することに費やされていく。
 それまで考古学的な遺物や古代史の文献に小さく閉じこめられていたスサノオの存在が、そこで一気にドドドォっと宇宙規模に拡大していくときのスケール感がすごい。

暗黒神話

 最初に読んだとき、私などは、思わず 「おおぉぉ!」 と声を上げてしまった。
 これは、マンガでなければ描けなかったパノラマ感であり、かつ、諸星大二郎でなければ創造できなかったビジュアルだろう。 

 スサノオが、宇宙空間を滅ぼす巨大なブラックホールのごときものであることを暗示するところなどは、光瀬龍のSF小説 『たそがれに還る』 や 『百億の昼と千億の夜』 などを下敷きにしている雰囲気もある。エンディングも謎めいた部分が残り、それが余韻につながる。

 この人の作品では、ほかに 『諸怪志異』 の連作や 『無面目・太公望伝』 なども好き。
 『碁娘伝』 なども夢中になって読んだ。 

 一番好きなのは、やはり 『孔子暗黒伝』 だ。
 古代中国や古代インドの呪術めいた風俗が、豊かな想像力と緻密な描写力によって鮮やかに描き出されている。

孔子暗黒伝

 これだけ、緻密な歴史絵巻を繰り広げながら、諸星大二郎が、一度も中国を旅した経験がないというのも面白い。
 すべて、美術書や歴史書から得られる情報を基に作画されたのだという。
 天才にとっては、実際の現場に立ち会うよりも、書籍という限定された世界で得られる情報の方が、はるかにイマジネーションを膨らますことができるのかもしれない。

 画風はおどろおどろしくて、不気味。
 人体描写などは、ときどき稚拙さのせいでバランスが崩れて見えるようなところもある。
 でも、構図の取り方や、遠景・近景を適切に組み合わせたコマ割りのバランスがすごく美しい。
 うまい絵ではないが、味がある。
 1コマだけ取り出して、額縁に入れて、部屋に飾っておきたくなるような絵だ。

諸星大二郎の絵

 毎晩、寝床に入ってから、眠くなるまで気に入った部分を少しずつ読む。
 閉じたまぶたの裏側に、暗黒星雲をも巻き込んだ広大な宇宙が広がっていく。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:45 | コメント(0)| トラックバック(0)

自然のなかの音楽

 晴天の日が続くとされる関東地方にも、朝、雪が舞った。
 寒いわけだ。
 「地球温暖化ってホントだろうか?」
 と疑いたくなるほど、ここのところ毎日寒い。

 1月になってからは、もう見栄も捨てて、ズボン下のお世話になっている。
 昔風にいうと 「モモヒキ」 というやつ。
 パンツの重ね履きというわけだ。

 キャンピングカーも、今年は水抜きをやった。
 日頃、「水タンク内に水を残しておくと、タンクや配管が凍り付いて破裂する恐れがある」 などと人には言っているものの、自分でやったことはなかった。
 それほど冷え込みの強い地域でもないし、今まで問題も起こらなかった。

 しかし、この冬はしっかりそれをやり、メインバッテリー周りには毛布を挟み込んで、バッテリー保護にも気を配った。
 それだけ、今年の冬は寒さを強く感じる。
 年をとったのかもしれない。

 でも、寒いという一点を我慢すれば、雪に覆われた景色というのも、けっして悪いものではない。

雪景色

 「日本は四季がはっきりしているので、同じ場所に旅行しても、四つの変化が楽しめる」 と言った人がいる。

 こんな狭い島国でも、いろいろ旅行してみたいという気分が募るのは、たぶんに四季の変化を味わうことができるからだろう。
 キャンピングカーによる 「日本一周旅行」 がテーマとして採り上げらるのも、そういう理由があるからだと思う。

 旅は、晴れた日ばかりが楽しいとは限らない。
 雨や雪の降る日のアウトドアだって面白い。

 先だって、インディアナRVさんの 「トーイング体験場」 を取材しに行ったときに、その週末にユーザーキャンプ大会を開くという話を降旗社長からうかがった。
 「晴れるといいですね」
 といったら、
 「雨が降ったら降ったで、それを楽しむことも考えないと、キャンプ大会なんかやってられないですよ」
 という答だった。

 「晴ばかりを期待している人は、キャンプの真髄に触れていない」
 ということらしい。
 この人は、根っからのアウトドアマンだと思った。

 キャンプ場運営者の人たちにいわせると、マスコミは 「もっと雨の日の楽しみ方」 をアピールしてくれると助かるという。

 私はキャンピングカーだから、キャンプ場で雨に降られても少しも困らない。
 コーヒーを入れて、車内から雨に煙る景色を眺めているだけで楽しい。
 遠くの山や森が、水墨画のようにかすむ風情をめでるのも悪くない。

 自然を丸ごと味わうためには、むしろ雨のもたらす効用に気づくべきかもしれない。

 雨は、自然がもたらす音楽ともいえる。
 都会の舗道に転がるさまざまなモノも、自然のなかにたたずむ木や草花も、雨滴を受けて、にわかに楽器に変わる。

雨の葉

 実際に、『悲しき雨音』 、『雨のプレリュード』 、『雨に唄えば』 、『雨にぬれても』 、『雨に泣いている』 、『雨の日と月曜日は』 など、雨にちなんだ名曲が多いのも、雨には人間の感性を解きほぐし、ある種の音響的な快感を与える力があることを物語っているのだろう。

 テレビやパソコンゲームが普及して、現代人は視覚から得る快感には敏感になった。
 その分、聴覚的な刺激にうとくなった。

 「風鈴の音がうるさい」 と隣りの家にどなりこむ人や、隣りが飼っている 「スズムシの鳴き声が騒音だ」 とクレームを付ける人たちが増えてきたのは、日本人の音に対する感受性が弱くなってきた証拠かもしれない。

 音楽は、CDやiPod だけから流れてくるとは限らない。
 自然のなかにも音楽はある。 

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:27 | コメント(0)| トラックバック(0)

ハードボイルド5

【 ハードボイルド研究ノート5 】

《 チャンドラーの後継者たち 》

 ハードボイルド小説は、ダシール・ハメットに始まり、チャンドラーによって発展し、その後継者たちをたくさん生み出した。

 どんな後継者がいるのだろうか。

 ここでは、その有名なところをリサーチしてみよう。
 きっと、「あ、聞いたことがある!」 と思える主人公たちの名が出てくることだろう。

ホッパー単色・街

● リュウ・アーチャー

 ハメット、チャンドラーの路線を継承したロス・マクドナルドは、有名なリュウ・アーチャーなる私立探偵を創造した。

リュウ・アーチャー表紙

 このリュウ・アーチャーは、T・J・ビニョン氏の指摘によると、チャンドラーのマーロウより、「はるかに複雑な人間であり、より現実的で、実在感があり、小説の途中で女性とベッドに入っても、けっして不自然ではない人物」 だという。
 そして、「マーロウよりも教養があり、心理学にも精通し、犯罪を心理学的に分析できる」 頭のいい人らしい。

 しかし、「マーロウよりも実在感はあるが、魅力的な人物とはいいがたい」 と指摘する声もある。

 もしかしたら、下手に心理学や精神分析学を勉強したために、犯人を推理するときには、必ず 「エディプス・コンプレックス」 がどうしたとか、「幼児期のトラウマ」がどうだったのとか、やたら周りを煙たがらせていたのではあるまいか。
 フロイトを読んだだけで犯人を特定できるのなら、フロイト自身が探偵をやって儲けていたに違いない。
 日本でも、不可解な事件を推理する心理学者たちが、犯人を特定できたためしがない。

 ま、ロス・マクは読んだことがないから、分からないや。

● マイク・ハマー

 よくも悪くも、ハードボイルド小説の主人公がタフでクールで、女とケンカに強いというイメージを一般読者に植え付けたのは、ミッキー・スピレイン描くところのマイク・ハマーによってだそうだ。

マイク・ハマー表紙

 ある評論家にいわせると、「ハードボイルドを誤解に導いた元凶」 ともいう。
 つまり、粗暴で、残虐で、犯罪者は容赦なく殺し、女と暴力以外に生きる価値を見いだせない。そんな 「単純マッチョ」 な男がマイク・ハマー。

 ほんとかな?

 とにかく、一般的にはコレが受けた。
 ハードボイルドを大衆娯楽として受けとめた人たちは、その暴力性と破壊性に、抑圧からの解放を重ね合わせた。
 派手なドンパチ、スカッとするもんね。
 そういう暴力の神様として、マイク・ハマーはリュウ・アーチャーよりも人気が出だ。
 でも、彼の出てくる小説も、私自身が読んだことのないので、これ以上のことはいえない。

ホッパー夜更かし人々

● スペンサー

 さぁて、いよいよロバート・B・パーカーのスペンサーに触れる時がやってきた。
 おそらく、この手の本を読む若い読者のなかには、マーロウの名を知らなくてもスペンサーの名を知らない人はいないに違いない。

 マーロウ型の私立探偵がすでに古典になったのに比べ、新しい時代のハードボイルド・ヒーローを代表するのがスペンサーである。

 スペンサーファンの声によると、
 「こういう新しいタイプの探偵小説を読むと、もうチャンドラー時代の古い小説は、時代錯誤に思えてしまう」 とのこと。
 きっと、ジャッキー・チェンが登場したことによって、その前のカンフー・ヒーローであったブルース・リーが伝説のかなたに消えてしまったようなものなのかもしれない。

 マーロウが、端正なイギリス風ジェントルマンの流れを引きながら、どこか陰うつで、若干、退廃の影を宿していたとすれば、スペンサーは、とにかくアメリカ的な健康さに満ちている。

 もちろん彼もマーロウと同じく、社会のはみ出し者としての影を引きずった男だが、オフは、マーロウのように独りで陰気なドライブを楽しんだりせず、YMCАのトレーニング・ルームで、バーベル・リフト、バッグ打ち、ナワ跳びをしたり、マサチューセッツ川沿いでジョギングしたりして、健康管理に余念がない。

 けっこう料理が得意で、恋人スーザン …… こいつがまったく料理をしない! …… に対して、マッシュルームで煮込んだ鳥料理や、スパニッシュ・オムレツを作ったりする。 家庭はないが、家庭的な男なのだ。 

 面白いのは、スペンサーのこだわりである。

 もちろん、マーロウもこだわる。しかし、マーロウのこだわりが、女に対してストイックだとか、男の友達は裏切らないといった、主に精神的なこだわりなのに比べ、スペンサーは 「モノ」 にこだわる。

 たとえば服なら、大富豪の家を訪れるときは、
 「白の麻のスーツ、紺のシマのシャツ、シルクのネクタイ、マホガニー色のロォーファー」 。

 州警察本部に行く場合は、
 「赤と黒のペイズリーのスポーツコート、黒のポロシャツ、黒のスラックス、金色のバックルのついたローファー」 。

 少し決めたときは、
 「紺のスーツに、ブルックス・ブラザースのボタン・ダウンシャツ、赤いレジメントタイ」 。

 主に伝統的なアイビー・ファッションである。ボストンで暮らしているのだから、当然かもしれないが。

ボストン

 銃ならスミス・アンド・ウェッソン38口径コルト・マグナム357。
 クルマは、最初は69年型シボレー・コンヴァーチブル。それを12万キロ乗ったので、次はエビ茶色のMGに乗り替える。
 
 体重195ポンドという大男のスペンサーが、この小さなMGに乗るのはいかにも窮屈だろうと思うが、そこはそれ、“こだわり” があるのだ。

 どんなこだわりか?

 相棒の黒人ホークと、スペンサーの会話を聞いてみよう。
 ホークの歩いている歩道に、スペンサーがMGを止めて、ホークがそれに乗るシーンだ。

スペンサーとホーク

 「こいつは俺たち2人には小さすぎるよ」
 彼 (ホーク) がいった。
 「いつになったら、2人が乗れるようなものを買うんだ?」
 「これが俺のプレッピィ・ルックに合うんだ。こいつに乗っていると、ノース・ショアをドライブしたり、ポロを見物したり、なんでも好きなことをやらせてくれる」
 私は車を走らせて、ダートマスで右に折れた。

 「この車で、女が迫ってきたらどうするんだ?」
 「お前さんは、プレッピィというのが分かっていないんだ。なにもお前さんのせいじゃないことは分かっている。ジャングルから出てきて、まだ2世代くらいしか経っていないんだ。
 その点は、俺もよく分かってるよ。
 とにかく、プレッピィな人間は車の中じゃやらないんだ」
 「それなら、プレッピィはどこでやるんだ?」
 私は鼻を鳴らした。 「やらないんだよ」

 …いかにも、ハードボイルド小説らしい小気味いい会話である。

 ところで、「プレッピィ」 って何のことだ?
 その意味も分からず、よくも 「小気味いい会話である…」 なんて言えたものだが、ハードボイルドは正統的ミステリと違って、ロジックではなくハートで読むものだから、雰囲気を楽しめれば、それでいいのである。

 とにかく、MGとプレッピィの関係などから、スペンサーという男が、ただ単にモノにこだわるだけでなく、モノのこだわり方を通じて、自分のライフスタイルをメッセージとして発信していることが分かる。
 そういうところが、情報化社会に即応した新しいハードボイルド小説を感じさせるところだろう。

初秋

 このスペンサーとつき合って、私は 『初秋』 と 『儀式』 が気に入った。
 なかなかいいヤツだ。
 たぶん、友達になったら仲良くなれるだろう。

 もっともマーロウと仲良くなれるヤツはいない。
 あれは読者が仲良くなるような 「男」 ではなく、読者が、自分がなってみたい 「男」 なんだから…。
 (続く)

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音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:35 | コメント(0)| トラックバック(0)

スターリングラード

《 昔の映画の現代的観賞法 6 》
「 スターリングラード」

 この世で、もっとも 「非人間的な組織」。
 それが軍隊である。

 第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍とソ連軍によって戦われたスターリングラード攻防戦は、凄惨を極めた。
 「祖国を守る」 という名目で、にわかに駆り出されたソ連の新兵たちは、最初の戦場で、軍隊という組織が、いかに非人間的な組織であるかという冷厳な事実に直面する。

 この映画は、ソ連兵によるスターリングラード突入シーンから始まる。

スターリングラードパンフ

 新兵たちは、小舟にぎっしり詰め込まれて、対岸のドイツ軍陣地に向かう。
 ドイツ軍の砲撃や、戦闘機による機銃掃射が繰り返されても、小舟の中で揺られる新兵たちは、なすすべがない。
 身動きの取れない小舟の中では、行き場もなく、身を守るものもないからだ。

 あれよ、あれよという間に、初めて軍服に手を通したような若者たちが、次々と命を落としていく。

 その修羅場の中で、ソ連軍の指揮官が、ハンドマイクを片手に怒鳴る。

 祖国の母たちからのメッセージだ。お前たちよく聞け!
 「勇敢な息子たちよ、命を犠牲にしても祖国を守れ」
 お前たちの母は、そう叫んでいる。

 新兵の母たちが、ソ連のために彼らが死ぬことを願っているというのである。
 ウソに決まっている。

 軍隊という組織が、家族の絆を絶ちきることによって成立するという事実が、このシーンでは象徴的に語られている。

 命を落とさず、ようやく上陸した新兵たちにも、次の試練が待ちかまえている。
 供給される銃が、2人に1挺という貧しさなのだ。

 またしても、上官がハンドマイクで指令を出す。
 「前の者が倒されたら、後ろの者が、その銃を拾って使え」

 銃を手にできない兵士は、丸腰で突入せよ、といっているわけだ。

 「退却する臆病者は、射殺する」
 若者たちの背中に、さらに上官の声が追い討ちをかける。
 そして実際に、逃げ帰ってくる自軍の兵士に対しては、“貴重なはず”の弾丸が容赦なく浴びせられる。

 ソ連赤軍の本性…というより、戦争というものの本質が、この冒頭のスターリングラード突入シーンで象徴的に描かれている。

 この、人間を 「戦闘マシーン」 としてしか見ない軍隊の中に、一人だけ異能を発揮する青年がいた。
 主人公ヴァーシリ (ジュード・ロー) だ。
 牧畜業を営んでいる平凡な若者にすぎない。
 ただ射撃だけが、天才的にうまい。

 彼の常人ならざる射撃の腕を、ソ連共産党の宣伝部に属する記者が、発見する。
 「こいつを、ドイツ軍の指揮官だけを暗殺するスナイパー (狙撃兵) に育てよう」
 ヴァーシリは、ソ連軍司令部の判断により、非人間的な組織の一員として生きるしかすべのない新兵グループから抜擢され、「スペシャリスト」 としての待遇を受ける。

 ナチスの将校たちを確実に暗殺していけば、やがてドイツ軍の指揮系統は乱れ、彼らの戦意も低下する。
 そのことをソ連の新聞で報道していけば、味方の士気は高まり、国民の意気も上がる。
 そう判断したソ連軍上層部の命を受けて、ヴァーシリの “仕事” が始まる。

 彼は卓越した射撃術を駆使して、ナチス将校を一人ずつ、しかし確実に血祭りにあげていく。
 その結果が、連日 『プラウダ』 紙のトップを飾り、ソ連側の士気は日増しに高まり、逆にドイツ軍はパニックに陥る。

 物陰に潜み、望遠レンズ付きのライフルを構えて、じっとドイツ軍陣地を見張るヴァーシリの表情には、一兵卒としてドイツ軍の砲撃にさらされていた時の怯えも戸惑いも、浮かんでいない。
 純朴なロシア青年は姿を消し、魔界を仕切る 「憂鬱な魔王」 がとって代わる。

スターリングラード1

 この映画のなかに、「組織」 対 「個人」 の対立図式を見出したのは、パンフレットの解説を書いた粉川哲夫氏である。

 彼はいう。
 「戦争は、徹頭徹尾システムによる作業である。そこでは司令部の描いた戦略・戦術を機械のように正確にトレースする人間だけが存在を許される。
 兵士が “個人” として、自由に判断したり対処したりすることは、戦争全体の中では無駄なことであり、むしろ危険なことだ。
 100パーセント自分を殺し、司令部の意図する方針を無批判に遂行すること。
 それが、戦場で人間に要求される役割だ」

 粉川氏はさらに続ける。
 「それに対して、スナイパー (狙撃兵)だけが、戦場において、自分だけの判断に頼り、自分だけの行動を許され、そして自分だけが (失敗の) 責任を負う。
 戦争マシンの歯車としてしか存在しない兵士たちのなかで、スナイパーだけが自由な “個人” を獲得する」

 「その証拠に…」
 と、粉川氏は例を出す。

 「主人公がナチス将校を射殺するという殺伐たるシーンが、なぜ観客に爽やかな印象を与えるのか?」
 それは、「非人間的な組織の中で、狙撃者だけが個人としての力量を最大限に試され、そしてその行為が成功した瞬間を、主人公と観客が一体となって共有するからだ」 という。
 異論はあろうが、卓越した見方である。

 ヴァーシリにライバルが登場する。

 連日将校クラスを狙撃されたドイツ側も、黙ってはいない。
 本国から、主人公を上回るほどの腕を持ったプロフェッショナルな狙撃兵が乗り込んでくることになる。

 ケーニッヒ少佐 (エド・ハリス)だ。

スターリングラード2

 登場の仕方がいい。
 敗残兵のみすぼらしさを漂わせてきたドイツ兵たちが見守るなかを、彼は、白いテーブルクロスを敷いた専用列車にひとりだけ座り、優雅にワインを飲みながら任地にやってくる。

 そこに注がれる、羨望と、好奇心と、憎しみをたたえたドイツ兵たちの視線。
 列車の中を覗き込むドイツ兵の顔が並ぶと、ケーニッヒ少佐は、おもむろに窓のカーテンを引き、憂鬱な顔つきで、金の吸い口のついたシガレットに火を付ける。
 その優雅な物腰から、彼が貴族出身の高級官僚であることが分かる。

 いかにも典型的なドイツ将校を思わせる、重厚で丹精な顔立ち。
 感情を表に出さない冷静な思索家の雰囲気。

 観客には、それがヴァーシリと対決するドイツ側のスナイパーであるとは、その場では分からない。そのうちヴァーシリに撃たれてしまうナチスの大物ぐらいにしか思わない。

 だから、彼が優雅な立ち居振る舞いを捨て、汚い身なりで地に潜み、泥にまみれながら、建物の影に隠れてヴァーシリを狙い始めたときに、観客は衝撃を受けることになる。

 主人公ヴァーシリには、彼に憧れ、いつも後をついて回る靴磨きの少年の友達がいる。

 策略家のケーニッヒ少佐は、この靴磨きのロシア人少年を、ベーコンやチョコレートで篭絡し、ヴァーシリの行動パターンや性格などを聞き出そうとする。
 スナイパー同士の戦いは、相手の趣味やクセまで分析する情報戦としてスタートするわけだ。

 ケーニッヒは、スパイをさせていた少年が、実は逆スパイとして、自分の情報をヴァーシリ側に漏らしているのではないかと疑念を抱く。
 疑念を持ちながらも、それを承知で彼は戦いに赴くわけだが、最後に少年にこう誓わせる。

 「よいな。俺がこれから (狙撃のために) 潜む場所は、お前を信じてお前だけに教えたものだ。
 だから誰にも言ってはいけないよ。約束できるね。
 そして、もうひとつ約束がある。明日はぜったいに家から出るんじゃないよ」

 少年は、「うん」 と頷くが、当然ヴァーシリにとっておきの情報を知らせたくて、狙撃者同士が戦おうとしている現場の下見にやってくる。

 それを捕まえたケーニッヒ少佐。
 「可愛いサーシャ。でもやっぱり裏切ったね」

 画面は変わり、少年の死体が戦場の瓦礫の柱に吊るされるていシーンが映しだされる。
 観客は、少佐の冷酷非情な一面を知ることになる。

 このような、無垢な少年を騙して利用しようとするケーニッヒ少佐の冷徹ぶりに、映画のパンフレットの論調は、みな 「冷酷なドイツ将校」 という表現を与えている。

 だが、エド・ハリスの演技はなかなかどうして、冷たさのなかにふと見せる優しさ、詩人のような憂愁、戦士としての潔さなど表現して、単なる冷酷非情な人間を超えた人間的な魅力をまきちらす。

 そもそも逆スパイと分かっていた少年に、少佐はなぜ、「明日は家を離れるな」 と、言ったのか。
 それは、少年を殺したくなかったからではないか。

 最後の戦いに臨む前。
 ケーニッヒ少佐は、今まで胸に付けていた金ピカのカギ十字勲章を外し、代わりに、鉄サビの浮いたみすぼらしい十字勲章を胸につける。
 それは、このスターリングラードの戦場で命を落とした、自分の息子がつけていた勲章だった。
 観客は、何も語らぬケーニッヒ少佐の胸に秘めた悲しい過去を、そこで知ることになる。

 ヴァーシリとケーニッヒ少佐の、知謀と射撃術を駆使した死闘が始まる。

 互いに相手を欺きながら、自分の射撃が有利になる場所を探す2人。
 プロとプロの、秘術を尽くした騙し合いに観客は息を呑む。

 謀略戦を勝ち抜いたのは、ヴァーシリだった。

 ヴァーシリが、撃たれたように装ってケーニッヒを罠にかけたのだ。
 相手をしとめたと錯覚した少佐が、潜んでいた場所から、用心深く姿を現す。

 だが、彼の視線はすぐに、あとは引き金を引く瞬間を待っているだけのヴァーシリの姿を捉える。

 勝負は決まった。

 ヴァーシリの銃弾を避けるすべはないことを悟った少佐は、ゆっくりとヴァーシリに向き直り、まるで挨拶を送るように、帽子を脱ぎかける。
 その少佐の額に、ヴァーシリの銃弾が穴をあける。

 撃たれる直前の、ケーニッヒ少佐の表情が素晴らしい。
 秘術を尽くした戦いに破れた悔しさと、自分の作戦をしのいだヴァーシリに対する敬意、そして同じスナイパーとしての苦しみを共有したという友情に近い共感。
 その万感こもごもの感情が、無言の表情にすべて語られていた。

エド・ハリス画像

 エド・ハリスはうまい役者だなぁ、とつくづく感心した。
 この映画の主役は、エド・ハリスの演じたケーニッヒ少佐だと思う。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:16 | コメント(4)| トラックバック(0)

ハードボイルド4

【 ハードボイルド研究ノート4 】

《 ハードボイルドな女たち 》

 ハードボイルド小説には、裏切る女が必ず登場する。
 …と指摘しているのは、評論家の川本三郎さんである。

 以下、川本氏の分析を抜粋する。

● 「 ハードボイルドの特色は、暴力や推理よりも、あるいは男の感傷やダンディズムよりも、“裏切る女” なのではないか (中略) 。
 たとえば、代表的なものをあげれば、ダシール・ハメットの 『マルタの鷹』 のブリジッド。

マルタの鷹表紙1

 ジェイムズ・ケインの 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 のコーラ。
 同じくケインの 『殺人保険』 のフィリス。

 彼女たちは、必ず男を殺そうとしたり、愛人を裏切ろうとする。
 そういった意味で、彼女たちは、男を滅亡に導いていくファム・ファタール (宿命の女) である。
 チャンドラーの代表作 『さらば愛しき女よ』 のヴェルマや、『かわいい女』 のドロレスも、自分を愛してくれた男を裏切る。
 彼女たちは、ただ金という現実的なものしか信じない 」

さらば愛しき人よポスター表紙

 …と書きながら川本さんは、ハードボイルドの主人公たちはみな、そういう彼女たちを、男として愛さずにはいられないのだという。

● 「 なぜなら、裏切る女は、みなアンダーワールド出身の不幸な女であり、その点では、同じようにアンダーワールドを生きる主人公たちと同類だからだ。

セーヌのアン1

 彼女たちは美貌のほかに、何ひとつ武器がない。
 家柄がいいわけでもない。教養があるわけでもない。
 安酒場で歌い、ヤクザな男たちのなぐさみ物になる。
 そんななかで、彼女たちがサバイバルしようとするなら、裏切る女になるしかない 」

ピンナップガール1

● 「 裏切る女たちを描いた小説が、1940年代、50年代と、“男の時代” の産物であったことも見逃してはならないだろう。
 女の幸福が結婚であった時代、裏切る女は、逆にそれとは違う生き方、すなわち男に頼らない生き方を、鮮やかに見せつけたのである 」

ホッパー9

● 「 悪女こそ自立した女の先駆者だという仮説があるが、チャンドラーの描いたヴェルマやドロレスを見ていると、そういう仮説にもうなづける。
 彼女たちは、男など頼らずに生き抜こうとした“自立した女”だった。
 ただ、時代があまりにも早すぎたため、彼女たちは傷だらけになっていった。
 そしてそこがまた、マーロウたちだけでなく、私たち男性読者を引きつけることになった 」

 …ごもっとも!
 という感じのご説です。はい。

 基本的に、ハードボイルド小説の主人公たちは、ナルシシズムからはもっとも遠い。
 ハードボイルドというと、タフなマッチョを気取ったり、センチな自己陶酔に陥ったりと、ともすればナルシストの典型のように思われがちだが、彼らはそのような心情とは無縁だ。
 
 どちらかというと、自己陶酔とは対極に位置するストイックなペシミストであることが多い。少なくとも、フィリップ・マーロウなどはその一人だ。
 だから女にも、家庭的で情こまやかなキャラクターなどを期待していない。
 「裏切る女」 の方が、むしろ付きあいやすかったかもしれない。

《 フィリップ・マーロウはホモ? 》

 チャンドラー描くマーロウは、クールで、ストイック。
 女には優しいが、女からの誘惑にはめっぽう強い。
 いわゆる (男だけ? が認める) 「カッコいい男」 の典型として描かれている。
 
 ところが、このマーロウのカッコよさとは、実はホモであることの裏返しにすぎない…という見方がある。
 これはこれで、すごく面白い見解だ。

 その説を開陳しているマイクル・メイスン氏の文章を、部分的に紹介しよう。

● 「 チャンドラーの作品は、セックスに関してきわめて異質で、明らかに男の友情を強調している傾向がある。
 まず女嫌い。特定の男性登場人物に対する好みがキツい。主人公の行動に女っぽいところがいつも漂う。
 彼がホモであることの最大の証拠は、悪役が、必ず女であること。
 そして、なかなか女との関係を持たないこと。

 女性の肉体的特徴についても、感情の込められた表現がなく、枕に残った髪の毛のような、無機的なものはエロチックに描くことあるが、それ以外は、性欲をそそるような、温かく愛情のこもった女性との触れ合いがいっさい出てこない。逆に、女性に対する憎悪だけはしつこく描かれる 」

● 「 それに比べ、男に対しては、
 “彼の声は低く、快く、体の大きさに似合わず、はっとするほど優しかった” (大鹿マロイの描写) など、女以上にセクシーに描写する。

 また、マーロウの日常生活には、ずいぶん女っぽく見える行動が多い。
 “部屋ではしょっちゅうベッドメイクする”
 “部屋の空気をいつも入れ替え、灰皿のカスを捨てる”
 “丹念にコーヒーを入れる” など、家庭的で、優雅で、男らしくない行動をいつも繰り返している 」

 …というのが、ホモ説の根拠のようだが、これはどうなんだろうか?
 村上春樹の小説に出てくる男たちなら、みなやっていることだ。

ホッパー10

 マーロウがホモであるという説は、深読みの妙味はあるが、多くの読者の共感をそそるには、チト弱い。 
 小生の見解では、マーロウは別にホモでないと思う。

 ただ、若さだけを武器とする肉体派の女たちには、禁欲的だったに違いない。
 ひょっとして 「熟女趣味」 だったかもしれない。
 おバアちゃんの恋人が小説の中に登場しないのは、ただ読者が喜ばないと判断したからだろう。

チャンドラー肖像

 なにしろ、原作者チャンドラーの恋女房シシーは、18歳も年上だった。
 18歳ですよ!
 …ということは、チャンドラーが52歳という脂の乗り切った中年男になったとき、女房は70歳。
 そういう老女を愛していれば、小説の中とはいえ、若い女の誘惑にフラフラ迷う主人公なんて、堅物のチャンドラーには、とても書けなかったに違いない。
 (続く)

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音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:27 | コメント(0)| トラックバック(0)

合戦実況中継

《 スポーツ番組 「エキサイティング大合戦」 》

【司会】 皆さんおはようございます。「エキサイティング大合戦」 の時間がまいりました。
 今日は 「織田・徳川連合軍」 対 「浅井・朝倉連合軍」 による姉川の合戦を実況中継したいと思います。

 解説には、合戦 (かっせん) 評論家の関東関西大学の町田先生をお迎えしております。先生おはようございます。
【町田】 はい、おはようございます。

【司会】 先生、今日の対戦はですねぇ、武田信玄と上杉謙信の戦った川中島の第4戦以来のですね、久しぶりの大規模な合戦となりましたが、天候にも恵まれ、絶好の合戦びよりとなりまして、両軍とも必勝態勢で臨んでいる感じがですねぇ、非常に強くこちらまで伝わってくるように思えますが…。

【町田】 そうですねぇ、まぁ、こういう大部隊が正面きって向かい合うという戦いは、なかなかそう簡単に実現しないものでしてね。
 今日はどちらが勝ってもですねぇ、これは歴史に残る名勝負となると思いますよ。

【司会】 こういう、無傷のままの大部隊が正面切ってぶつかり合う大開戦というのは、珍しいケースかもしれませんね。

【町田】 そうですね。ま、やはり兵力を消耗するのは誰もが避けたいでしょうから、大合戦になれば、たとえ勝っても兵力の損傷は避けられないわけでね、本音をいえば、どちらも全面衝突は避けたいわけですね。

 しかし、今回はどちらもここで決戦を挑まなければ、この後の政治・軍事的展開がないという思いは同じでね。今回はやむを得ずの全面衝突になったと思いますがね。

【司会】 はい。……ええ、現在、早朝の午前5時を迎えたばっかりですが、すでに両軍の布陣は完了しており、姉川を挟んで 南に織田・徳川軍、その北側に 浅井・朝倉軍が布陣を終りまして、両者ともに戦闘開始の合図を待っているという、非常に張り詰めた空気が伝わっております。

 …ええ、それでは両軍のスターティング・ラインナップを紹介します。まず織田・徳川軍ですが、こちらは全軍を12段に分けて構えております。

 第1陣は坂井政尚、第2陣が池田恒興、そして第3陣が木下藤吉郎。
 以下、柴田勝家軍、 明智光秀軍、 稲葉一鉄軍と続いております。
 そして、織田軍12段の左翼には 徳川家康率いる三河軍団が控えるという布陣です。

 一方、浅井・朝倉軍の布陣は、右翼に朝倉軍、左翼に浅井軍が陣取り、浅井軍の第1陣を 磯野丹波守が受け持ち、こちらは全軍が一丸となって密集する、いわゆる魚燐の陣を展開しております。

 兵力は、織田・徳川軍が2万5千。対する浅井・朝倉軍1万8千。
 兵力的には織田・徳川軍が優位に立っておりますが、士気においては両軍ともに気合が入っている様子で、決着がどうつくか、いまだ予断を許さないという状況になっております。
 さて、町田先生、この両軍の布陣をどう思われますか?

【町田】 面白いのはですねぇ、今ちょうど徳川軍には朝倉軍、そして織田軍には 浅井軍が向き合う形になっていますけれど、これ両者が、どちらも少ない軍勢と多い軍勢が向き合うという形なんですね。
 徳川軍5千に対して、朝倉軍1万。いっぽう織田軍2万に対して浅井軍8千。
 両方がですねぇ、少ない部隊で敵の多い部隊を迎え撃つという布陣ですが、このあたりがどういう展開になるのか、興味深いところですね。

【司会】 そうですね。さぁ、時間が刻々と過ぎていきまして、果たしてどちらから先しかけていくか、ますます緊迫した空気がみなぎり始めています。

 ここで、織田軍の本陣の様子をレポートしてみたいと思います。ええ、織田信長の本陣には木村レポーターがおります。
 木村さん、木村さん、織田軍営の様子をどうなっておりますでしょうか?

【木村記者】 はい、木村です。ただいま私はですねぇ、織田信長の本陣がある龍ヶ鼻 (りゅうがばな) におります。
 今日は、、朝からすでに陽射しが強く照り付けておりましてですね、そのせいか、もうセミがジンジンとうるさいほどの、鳴き声をあげております。

 私のいる50m先にはですね、織田信長が指揮を採る陣幕がありまして、陣幕の周りには、黄色い絹地にですね、「永六銭」 を染め抜いた馬印がはためいておりまして、いかにも織田本営がここにあるという威厳をですねぇ、あたりに振りまいております。

 ここからは陣幕の中までは見えないわけですが、中は意外と静かで、人の話し声もあまり聞こえてきません。
 すでに作戦会議は終了してですねぇ、各人がそれぞれに持ち場に散って待機している状況で、今は静かに戦端が開かれるのを待っている状況かと思われます。

 ええ、陣幕の周りにはですね、ものものしい甲冑で身を包んだ警護の武士達が鋭い目つきで警戒しておりまして、ちょっと報道陣も近づけない状況です。

 現在、陣幕の中は見えないのですが、先ほど 黒の南蛮塗りカサを被った織田信長が中に入っていく様子が見えました。

 これほどの大決戦の前だというのに、織田信長の衣装は予想外に軽装で、白いユカタビラにですね、銀箔で喋の紋様を抜いた、黒い陣羽織を羽織っただけという、まるで 花見にでも出かけるようなスタイルでですね、今日は陣幕につめかけております。
 織田信長の本陣からの中継を終ります。

影武者隆大介

【司会】 はい、木村さんありがとうございました。
 それでは、本日の第3陣を勤めることになった木下藤吉郎部隊のところにバッキー記者が行っております。
 そのバッキー記者とマイクがつながったようです。
 バッキーさん、バッキーさん、木下部隊の状況をお伝えください。

【バッキー記者】 はーい。私は今、木下部隊の中でその先頭を受け持っているですねぇ、蜂須賀小六大将の隣にいます。
 こちらはですねぇ、先ほど主だった部隊長を集めた軍議が催されてですね、参謀役の竹中半兵衛を囲んで、個々の作戦が言い渡された模様です。

 部隊長の蜂須賀小六さんに ちょっとお時間を頂いておりますので、簡単なインタビューをしたいと思います。

 「蜂須賀さん、今のご心境はどうでしょう?」
 「それがし、先ほどより味方の陣形をうかがうに、右手先鋒には徳川殿の堅陣にて、われらの前方は坂井、池田の備えにござりますれば、まず何の心配もなきものと存知たてまつります」

 「はぁ、それで、今日の戦いの目標をどこにおかれておりますか?」
 「ハハハ、それがしがごときは、取るに足らぬ武辺ものにて、目指すべきものなど特にあらず。
 ひたすら武辺の技を競い、運良く一命をながらしえば、ただただ浅井の本陣をめざし、久政の首取るまでにござりまする」
 「分かりました。武運長久をお祈り申し上げます」
 蜂須賀小六さんでした。

【司会】 バッキーさんありがとうございます。
 ところで、今ですね、どうやら浅井軍の前衛部隊が姉川を渡河しはじめた模様です!。
 あ、動き始めてますね。
 いよいよ、この夏最大の合戦といわれる姉川の戦いの火蓋が切って落とされた模様であります。

影武者2

 それではマイクを切り替えて、浅井軍の先鋒隊に密着している塩沢記者に切り替えます。

 塩沢さん、塩沢さん、ついに朝井軍が動き始めましたね。

【塩沢記者】 はい、塩沢です。先ほど、織田勢の鉄砲射撃に呼応する形でですね、浅井側の猛将として知られる 磯野丹波守の先陣が、雄たけびを上げながら、ついに突撃を開始しました。

 いま私はですね、戦闘集団より10mほど後ろをですね、マイクを持ちながら追いかけているところですが、騎馬武者の勢いが強くてですね、時々馬のひずめに駆けられ、転びそうになっております。

 私の前後は、槍を小脇に抱えた雑兵部隊が、形相も荒々しく、ときの声を上げながら、全速力に近い速さで河を渡っていきます。

 ええ、すでにですね、対岸からの織田軍の鉄砲も激しさをましてですね、私の耳元にもヒューン、シューンという弾丸のかすめる音がしきりに鳴っています。

 ひとり、またひとりとですね、弾丸に貫かれて立ち止まり、そのまま 水の中に足を折ってしゃがみこむ兵士が続出していますが、ほとんどの兵はですね、倒れる仲間を振り向くこともなく、いま対岸目指して突進しています。

【司会】 塩沢さん、塩沢さん、気をつけてくださいね!
【塩沢】 はい、大丈夫でーす! あ、撃たれました! わぁ、右肩に衝撃が…

【司会】 塩沢さん、塩沢さん、大丈夫ですか?
【塩沢】 もう…だめです。妻と子をよろしく…

【司会】 ええ、浅井軍の戦闘部隊に随行していた塩沢記者が負傷した模様です。
 ええ、それでは織田軍にいるバッキー記者にマイクを切り替えます。

 バッキーさん、織田軍の様子をお伝えください。

影武者3

【バッキー】 はーい、織田軍の前衛です。
 こちらはですね、先ほど突撃してくる浅井軍に対して、第1陣の坂井政尚隊が しきりに鉄砲を撃ちかけて、食い止めようとしていたのですが、どうやら、浅井軍が鉄砲の射程距離内に完全に入りこんだためにですね、もう白兵戦に突入しています。

 なにしろ、水に足を取られての闘いですから、両軍とも思うように身体が動かなくてですね、刀と槍を振るった体力勝負の闘いになってきている模様です。

 とにかくですね、わぁ! いま私の隣にですね、すでに大きな刀を振り回した相撲取りのような浅井軍の兵士が突入してきておりまして…、
 わぁ! もうどちらが敵か味方か分からない大乱戦になっております。あぁ…! 

 もう 「報道」 の腕章もあまり効果がありません。すでに戦闘開始5分ぐらいでですね、織田軍の坂井部隊は 完全に指揮系統が混乱して、壊滅状態になっています。
 そして、逃げる坂井隊の兵が第2陣の池田隊に逃げ込んできておりましてですね、もう池田隊も大混乱に陥っています。

 わぁ…! 今、弓矢が私のですね、ズボンをかすってちょっと血がにじんでますね。

【司会】 バッキーさん、バッキーさん、もう結構です。そこを避難してください。
【バッキー】 はい、いま私はですね……………

【司会】 バッキーさん、バッキーさん? 聞こえますか? バッキーさん…
 ちょっとバッキー記者との連絡が悪いようです。

 ええ、残念ながら放送時間がそろそろ終了しそうです。
 この合戦の結果はですね、今晩の 「ニュース24時」 でたっぷりご紹介したいと思います。どうぞそちらの方をお見逃しなく。

 それでは、姉川からの実況を終わらせていただきます。先生、今日はどうもありがとうございました。
【町田】 はい、どうもありがとうございました。
【司会】 「エキサイティング大合戦」 を終ります。

 戦国ネタ 「敵は本能寺にあり」

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 02:48 | コメント(2)| トラックバック(0)

キレやすい人たち

 最近の人はキレやすい。
 みんな、仕事のことやら家族のことやらで、悩みやプレッシャーをたくさん抱えているのだろうか。

 今日、朝の通勤電車に座って揺られていると、隣の席が空いて、そこに割り込んできた男性がいた。
 30後半から40前半というサラリーマンである。

 座ると同時に、左肩に力を入れて、グイグイ押してくる。
 
 …そりゃ確かに私は、まぁメタボ系の人間だから、普通の人間よりは横幅だってたっぷりしているかもしれない。
 でもそれだって、標準体型のせいぜい5~10パーセント増しといったところだろうと自分では密かに自負しているのだけれど、どうも、隣りの男性から見ると、20~30パーセント増しのデブにでも見えたようなのだ。

 要するに、「はみ出すな!」
 というメッセージを左肩に込めていると、読んだ。

 私は黙って本を読んでいたのだが、さすがにこの肩グイグイに困り果てた。
 で、ちょっとだけ押し返した。

 こいつが大変なことになってしまった。

 「なんだよ、やるのかよ? どういうつもりなんだよ。ええ? てめぇ、おい、何が不満なんだよ。どういう気でいるんだ? なんだよ、このぉ」

 私はびっくらたまげたよ。
 ちょっと押し返しただけなのに、堤が決壊して、鉄砲水が押し寄せたかのごとくの罵詈雑言。

 相手の顔つきをチラと横目で見ると、とてもケンカを売るような人には見えないのだ。
 どちらかというと、職場で同僚に話しかけられても、つつましやかにニッコリと笑顔を浮かべただけで、寡黙にやり過ごすという風情の人なのだ。

 ところが、それが、
 「え? なんだよ、やるのかよ。どうなんだよ? おい、答えろよ」
 
 言葉を返す気力もなくし、黙って本の続きを読もうと思うのだけれど、やまないだんよな、コレが。

 「死ねこのやろ。死んじまえ。バカやろ。どうなんだよ?」

 さすがの私もついにキレて、席を立ち上がって、コートを脱ぎ捨て、相手の胸ぐらをつかんで、グイと手元に引き寄せ…
 ……る自分の姿を頭の中で想像しながら、本を閉じて、目をつぶった。

 しばらくして、相手もおさまったけど、私の頭の中では、そいつはホームの上で引き回され、コンクリートに額を押しつけられ、
 「ヒェー、二度としません、お許しを!」
 と泣き叫んでいるのであった。

電車中

 これなんか、まだいい方である。

 女同士のケンカというのも、増えた。
 これも朝の通勤電車内での話だ。

 ひとりはOL。もうひとりは女学生…というか、専門学校の生徒風。

 「なんだ、このぉ!」
 「何すんだよぉ!」
 いきなり車内で怒号が飛び交ったかと思うと、アッという間に取っ組み合いが始まった。

 肩が触れたのか、カバンでも当たったのか。
 「今日はハッキリ決着をつけるわよ、私のカレと別れて!」
 …というようなワケあり喧嘩でもなさそうで、単なる偶発的なドンパチだと思うが、もう、草原でしとめた獲物を争うハゲタカとハイエナの猛々しさ。

 すげぇんだ!
 髪の毛の引っ張り合い。
 もう、ホントにお互いの毛がちぎれそうなんだわ。

 こういうときに仲裁に入るのが、たいてい中年オヤジなんだけど、どうして女同士のケンカを止めに入る男って、みんな余裕ぶっこいたニヤニヤ顔なんだろう。

 「まぁ、みっともないから止めなさいよ。かわいい顔が傷つくよ」
 なんて、中途半端に “大人の男” を演じようとするから、かえって火に油を注ぐだけ。
 「消えろよ! ハゲ」
 と2人に言われて、あっさり引っ込んじゃうんだから、男の時代も終わったよな。

 あとは、もう人間のいないジュラ紀か白亜紀の大地。

 「このやろう、やったわねぇ!」
 「うるせぇ黙れ! このバカ」
 「てめぇ、逃げるんじゃネェよ、こいつぅ!」
 「死ねぇ、このバカやろぉ」

 言葉だけ聞いていると、もう男だか女だか分からない。

 取っ組み合った女同士は、そのまま転がるようにホームに降りて戦闘を継続していたけれど、残念ながら(?)、電車がホームを離れてしまったため、リングを変えた第2ラウンドは観ることができなかった。

 それにしても、男も女もイライラしている。
 みんな生きるのが大変な世の中になったようだ。
 人がキレやすい時代というのは、いったいどういう時代なんだろう。

 自分が巻き込まれるのはイヤだけど、野次馬としては、楽しみが増えた。


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 02:05 | コメント(2)| トラックバック(0)

Woo Child

 小さな病院の狭い病室で、親父は息を吐いていた。
 すでに、喉の筋肉が衰え、溜まったタンを一人で吐き出すことができない。
 先生の勧めで、喉に穴を開けた。

 そこから管を差し込み、タンを吸い取ってビーカーに移す。
 通常は20分から30分おきに、その作業を繰り返す。
 しかし、タンの量が多くて、喉が苦しそうに鳴るときは、その作業が10分間隔に縮まる。
 
 穴を開けたところに異物を直接突っ込むのだから、神経が正常であれば痛いに違いない。
 でも、その痛さを訴える声が、もう親父の喉から出ない。

 夜間、付き添いで世話をしてくれている女性の看護人が、その日はさすがに応援を求めてきた。
 ここ3日ほど、ほとんど寝ていないらしい。
 タンを取らなければならない時間が、刻々と短くなっているという。

 会社から戻って、風呂に入ることもなく、病院まで自転車をとばした。
 寒気が強まり、空気が澄み渡ってきたせいか、月が凍って見える。

 病院に人影はなかった。
 ナースセンターのドアから明かりが漏れているが、物音はしない。

 病室に入ると、看護人が疲れた微笑を浮かべて、
 「深夜なのにありがとう」 といった。
 「お礼をいうのはこちらの方ですよ。ずいぶん面倒をおかけしたみたいで…」
 「今日は少し落ち着いているの。タンが収まってくれれば、本人も眠れると思うわ」
 「仮眠をとってください。後は僕がタンを引きますから」
 「そうさせてもらうわね」

 ベッドの横に敷いたマットに横たわり、彼女はすぐにイビキをかき始めた。

 親父は目をつぶっている。
 声をかけても、答えはない。
 寝ているのか、起きているのか、意識があるのか、それも分からない。
 開けた喉の穴から、タンが絡まるかすかな音だけが響いてくる。

 覚えたばかりの方法で、その穴に管を刺し込み、タンを引く。
 瞬間、眉間にしわが寄る。
 痛いのだろう。
 でも、タンを取り除かなければ窒息してしまう。
 ある程度取り終わると、少し安らかな顔に戻った。

 その作業が終わると、さしあたりすることがなかった。

 テレビをつけて、深夜映画を観た。
 岸谷五朗がタクシーの運転手を演じている。在日韓国人のドラマらしい。
 音量を大きくできないので、会話はほとんど聞き取れない。
 話の筋も、よく分からない。

 でも、不思議な雰囲気に満たされた空気がブラウン管の中を流れていく。

 放映が終わって、エンドタイトルが流れる。
 催洋一監督の 『月はどっちに出ている』 という映画だった。

 出演者のクレジットが流れる画面に、憂歌団の歌がかぶさった。
 木村充揮が独特のだみ声で、内田勘太郎のギターに合わせてバラードを歌っていた。

   風が吹く夜は
   いつも目を覚ます
   まるで、お前が、窓を叩くようで
   耳を澄ませば、声が聞こえる
   道に迷って、俺を呼ぶようで
   Woo Child 泣かないで
   Woo Child きっといつか
   Woo Child 逢えるから
   Woo Chird 風の中で
 
 歌が終わって、画面が布団メーカーのコマーシャルに変ってからも、歌が頭の中に鳴り響いた。
 なんで、この歌がこんなに身に沁みてくるのか、よく分からない。
 たぶん、もうじき一人の人間の生命が終わるという感慨が、どこかで神経を刺激していたのだろう。

公園の林

 結局それが、親父と一緒に聞いた最後の歌になった。
 翌日親父は、その歌のように、そのまま風になって去った。

 憂歌団の 『ウー・チャイルド』 は、私が親父を思い出すときの歌になった。
 
 だから、風が吹く夜は、いつも目を覚ます。
 親父が、窓を叩いているような気がする。
 耳を澄ますと、親父の呼ぶ声が聞こえるようにも思える。
 でも、きっといつか逢える。

 親父が亡くなって、今日で13年目になる。

●WOO CHILD


ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 03:25 | コメント(2)| トラックバック(0)

ハードボイルド3

【 ハードボイルド研究ノート3 】

《 マーロウのロサンゼルス 》

街のネオン1

 今日は、フィリップ・マーロウが活躍する舞台について語ろう。
 レイモンド・チャンドラーは、マーロウを終始一貫、カリフォルニアのロサンゼルスで働く探偵として描いた。それが実に、マーロウという人間の陰影を深める役割を果たした。

 ロサンゼルスとは、どういう街か?
 評論家の海野弘さんが、『チャンドラーのロサンゼルス』 というエッセイで、それについてうまい解説をしている。
 以下、海野氏の文を部分的に抜粋する。

● 「チャンドラーは、郊外が突然発達して巨大となったロサンジェルスを背景としたミステリを書いた。
 1920年代、ロスはサンフランシスコを抜いて、ウエストコーストの首都となる。
 石油、土地、そして映画。まるでハリウッド映画のセットそのままの、おとぎの城のような、とてもつもないマンションが次々と建てられていった。
 そこは、あらゆる産業が渦を巻いた、映画と現実が倒錯した街だった」

モノクロ夜景

● 「ロスというのは、ひどく捉えにくい街で、中心があまりはっきりせず、茫漠と広がっている。ニューヨークやサンフランシスコのように、核となるオールド・タウンを持っていないのだ。都市は散在し、歩いてまわれるような親密さを欠いている」

● 「マーロウのロスは、自動車でなければ移動できない都市である。マーロウの都市は点と線によって構成されていて、連続的な面を構成していない。
 ダシール・ハメットの小説に出てくるサンフランシスコのチャイナタウンが、一本ずつの路地、一軒ずつの家がたどれそうなほど具体的な細部を持っているのに対し、チャンドラーのロスは抽象的で、全てがハイスピードで飛ばされ、目にもとまらない」

● 「 『かわいい女』 の13章は、ほとんど本筋と関係がない。マーロウは、まっすぐ家に戻らず、あてどなくロスをクルマで走りまわり、この街へのセンチメンタルな想いを吐露する。

 ……私は、サンセットブルヴァードを東へ走ったが、家へは帰らなかった。(中略) 往来は自動車で混み合っていた。くたびれたクーペやセダンに乗った疲れた男たちが、スポーツ・ペイジと、やかましいラジオと、うるさい子供たちと、愚かな妻がまっている家路に急いでいた…… (清水俊二訳)

 ……ネオン・サインは素晴らしい。ネオン・サインを発明した男の記念碑を建てなければいけない。15階ぐらいの大理石で建てるのだ。彼こそ、無から有を生んだ男なのだ…… (清水俊二訳)」

americaネオン

 この 「家路に向かう男たち」 を眺める目。
 そして、「ネオン・サイン」 への省察。

 ここには、疲れた中年男の皮肉に満ちた眼差し以外の、何か人間の根底を揺るがす不安感が描かれている。
 そして、その不安感の底には、「甘いけだるさ」 がよどんでいる。

ホッパー夜の店

 ハイウェイを走っていく自動車、そしてネオン・サインといった都市風景は、1920~30年代に成立したものばかりである。
 しかし、そこにはまだ発展途上の街が持つ、不安定な空虚さも残されていた。マーロウが見ているのは、ベニヤ板とネオン・サインでつくりあげられたばかりの、表だけの、裏には何もない街の風景である」

 以上の海野弘さんの分析でも分かるとおり、ロサンゼルスは、確かに、人間のつくった街のなかでは飛び抜けて “いびつ” な街である。
 あんな街は世界中探したって、そう滅多にあるものではない。
 なぜなら、あの街は 「人間の尺度」 (ヒューマンスケール) でつくられていないからだ。

 では、何のスケールでつくられているのか?

 自動車のスケールである。
 人類の能力を何十倍、何百倍と拡大した自動車によって、すべての基準が打ち立てられているのだ。
 
 そういった意味で、ロサンゼルスは、モータリゼーションという文化を初めて手にした人類の、壮大な実験都市といっていい。

 だからロスは、クルマに乗っているかぎり、極めて快適な街だ。
 しかし、ひとたびクルマを降りると、なんとも空虚な、それこそ、人間でいることの無力感をドッと味わうような、索漠たる街に感じられる。

 カフカの描くプラハのように、人間の原理を超える、異質な原理に貫かれた魔法の街。
 そこでは、どんな異常な犯罪も、けっして異常ではなく当たり前に発生する。
 現代のミステリの舞台として、こんな最適な街はほかにあろうか。
 …なんちゃって (←死語)。

ホッパー夕焼けの絵

《 チャンドラーの扱ったクルマ 》

 先ほどの分析から分かるとおり、ハードボイルド小説というのは、ロサンゼルスという、人類が初めて手にした “自動車空間” によって成立した小説だ。
 当然、チャンドラーはクルマという小道具に敏感である。

 チャンドラーは、主人公のマーロウに、どんなクルマを与えているのだろう。

 有瀬瑠範 (アルセ・ルハン…すごいペンネームだ!) 氏による 『車はミステリの名脇役』 という本から抜粋する。

● 「マーロウの乗る車は、オールズモビル。GMのバリエーションでは中位にランクされる車種である。マーロウと同じように、車にさしたる関心はないが、車がないと生活できないといった中産階級が所有する典型的な車である。

オールズモビル1

 マーロウが活躍した40~50年代、とりわけ50年代は戦勝国アメリカの絶頂期。この時代のアメリカ車は、どれも大きく、力強く、ゆったりして快適そのものだった。
 判で押したように大排気量のV8エンジンを搭載し、スタイルは、毎年定例的にモデルチェンジされた。シンプルな構造とあいまって、マーロウ同様、タフそのものであった」

● 「オールズモービルはかなりの量産車だけに、さして目立つ車でもなく、尾行したり、車中に身を潜ませて待ち伏せなどには好都合だったろう。
 また、マーロウの懐具合や、車のブレーキの修理に出した文中にポツリと書かれていることからみて、彼のオールズモービルは、ピカピカの新車ではなく、凹みもかなり目立つような中古車とみた方が正解だろう」

 チャンドラーは、マーロウにはこのような目立たない車種を与えながら、その他の人物には、その人物のキャラクターを表現するのに最適な車種を、見事に与えている (…そうだ)。

 『長いお別れ』 に登場するテリー・レノックスには、ロールスロイスのシルバー・レイスとジャウィッド・ジュピターという2シーターのスポーツカーの2台を与え、彼が、金持ちだがいかがわしいところもあり、かつ洒落たセンスの持ち主であるということを、見事に表現することに成功した (…そうだ)。

 概して、チャンドラーはイギリス車が好きであり、またアメリカ車ではGMが好みで、フォードはほとんど作品には登場しないらしい。
 その理由は、著者 (有瀬瑠範氏) にも分からないという。
 (続く)

 関連記事 「ハードボイルドって何だ? 1」
 関連記事 「ハードボイルド会話術 2」 

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 03:00 | コメント(2)| トラックバック(0)

くちゃくちゃ

 恋人やガールフレンドと食事をするとき、相手は男のどこを見ているか分からない。
 気張って、フレンチなどに相手を誘い、ナイフやフォークの扱いを完璧にこなし、気の利いた会話で相手を楽しませ、最後に、レジで大枚はたいて感謝されても、
 「あんたサイテー…」
 ってな、視線で見つめられることがある。

 店を出て、歩道を歩き始めて、いつもなら組んでくる腕を、そのときは組んでこない。

 「食事、おいしくなかった? なんか不満?」
 って、さりげなく尋ねると、
 「もうちょっときれいに食べたら?」
 …なんて言われることがある。

 くちゃくちゃ口を鳴らしながら食べるのは、サイテーなんだそうだ。

 今日発行された 『週刊朝日』 の倉田真由美さんの 「フリドラ男」 を読んでいたら、女心が凍えて乾くフリドラ男のサンプルとして、「くちゃくちゃ大きな音を立ててモノを食う男」 という例が出ていた。

 そうなんだよなぁ!
 私も、これでガールフレンドにふられたことがある。

 別れ話が出た最後の日。
 「なんか俺のこと、不満あった?」
 と尋ねたら、
 「そうねぇ……。あの、ひとつだけ言っとくけど、次の女の子とデートするときは、くちゃくちゃ口を鳴らして、モノを食べない方がいいわよ」
 って言われた。

 食事の作法って、目に見える部分だけに気をつけていればいいわけじゃない。
 視角、聴覚も含めた “五感” を総動員する必要があるようだ。
 でも、そいつは一夕一朝に身につくものでもない。

 食事のマナーには、その人間の 「育ち」 が表れる、とよく言われる。
 テーブルマナーを完璧にこなしていれば、「良家の坊ちゃん」 に見られるのかというと、そうではなさそうだ。

食卓

 フランス映画最高のイケメン男優として名を馳せたアラン・ドロンは、チンピラ役からギャング役、育ちの良い貴族の役など、あらゆる役を見事にこなした。
 姿勢の良い男なので、タキシードでも何でも、上流階級の衣裳も天晴れなくらい着こなす。

アラン・ドロン画像

 しかし、もとは貧しい家の出で、俳優になる前は、かなりいかがわしい生き方に甘んじながらも、上昇志向で這いあがってきた人だという。

 彼が、ある映画で、上流階級の人々が列席するテーブルで食事をとるシーンに登場したらしい。
 それを観察していたのは、イタリア史の仕事では右に並ぶ者もいないといわれる塩野七生さん。

 「あ、この人は育ちの貧しい人だな」
 と、すぐ分かったという。
 確か、エッセイ集 『男たちよ』 のなかの一節だと記憶しているが、原典が手元にないので、確証はない。

 うろ覚えながら、塩野さんの記述を思い出すと、
 「アラン・ドロンのテーブルマナーは完璧だった。礼儀作法のセオリーを寸分とも狂わすものではなかった。
 しかし、幼い頃から、厳しく食事の作法を教育されてきた人は、逆にどこかで作法が狂うものである。
 ただ、その狂い方が自然であり、余裕もあり、他人に不快感を与えない。
 アラン・ドロンのマナーは、後になって一生懸命勉強して獲得したマナーだった。機械が正確に作動していくような完璧な作法なのに、ゆとりがない。そこに、彼の貧しい生い立ちがほのみえていた」

 もちろん塩野さんの原文は、もっと格調高く、適切な表現になっているはずだが、まぁ、そんなようなことが書かれていた。

 それにしても、目のつけ所が怖い。
 さすが、古代ローマやルネッサンス時代を生きた凛々しい男たちに精通している専門家の見立てだと思った。

 私は、あんまり他人から 「育ち」 を推測されるような食事の席には縁がない。
 でも、いつもの牛丼屋で、食後にお茶で口をすすいだり、楊枝をシーハー口にくわえたまま 「ネエちゃんお勘定!」 なんてことは、言わないように心掛けている。
 当たり前か…。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 01:31 | コメント(4)| トラックバック(0)

ハードボイルド2

【 ハードボイルド 研究ノート2 】

《 チャンドラーに見るハードボイルド会話術 》

 ハードボイルド小説は、「会話」 の小説である。
 心理描写をことさら排し、登場人物の会話と行動だけでストーリーを進めていくわけだから、その会話の面白さが重要になる。

americaネオン

 ただ、日本語で読む場合、翻訳者の力量や好みで、かなりニュアンスに差が出てくる。
 たとえば、レイモンド・チャンドラーの訳では、基本的に日本では、村上春樹版が出るまでは、清水俊二氏の訳が正統派として任じられてきた。
 意訳が多いという批判もあるが、センチメンタリズムが横溢していて、そこに、ちょっと退廃の影を落とすという文芸的な香りが、清水訳の特徴となっている。
 そこが、けっこう純文学系の読者を巻き込むことにも成功した理由だろう。

 英文のニュアンスを知っている人たちにいわせると、田中小実昌氏の訳の方が、原文の雰囲気に近いという。
 ただ、同じフィリップ・マーロウでも、清水訳の “屈折した紳士” ふうのマーロウになじんでしまうと、田中訳のマーロウは、あんちゃん臭い。
 
 たとえば、清水俊二氏の訳だと、
 「私は、飲み物を半分飲んで、ミス・リアードンに笑ってみせた。彼女は空虚な表情で私を見返した」
 となる。

 これを、田中小実昌氏の訳だと、
 「おれはニヤッと笑った。交換台の金髪の女の子は、貝殻みたいな耳をピンと立て、かすかにほほえんでいる」
 となる。雰囲気がまったく違うので、読者の脳裏の浮かぶマーロウ像も、それぞれ変ってくるだろう。

 これに対する評価は、どちらを先に読んでしまったかにもよるし、好みの問題かもしれない。

夜更かし人UP

 いずれにせよ、ハードボイルド小説に出てくる会話が見事であることは、どんな訳でも変わらない。
 特にチャンドラーの描く登場人物たちの会話は、この手の小説のなかでも群を抜いている。
 いくつか拾ってみよう。

チャンドラー老け肖像

●(マーロウの自宅の居間で、マーロウとリンダ・ローリングの会話)

 「シャンペンをあけようと思っていた」 と、私はいった。
 「氷を入れるバケツはないが、シャンペンは冷えている。永い間しまっておいたものが、2本ある。コードン・ルージュです。いい品物だと思うんだがね。僕にはよく分からない」
 「なんのためにしまっておいたの?」 と、彼女は尋ねた。
 「君のためにさ」

 ………………………………………………『長いお別れ』

●(ワルツとピートの会話)

 「このあたりではネズミがどんな目にあうか、知っているだろう?」
 「知ってるよ、ナイトクラブをやっている」 と、ピート・アングリアはいった。

 ………………………………………………『ヌーン街で拾ったもの』

●(刑務所から出てきた大鹿マロイと酒を飲むマーロウ)

 「この8年間、俺はどこにいたと思う?」
 「蝶々をつかまえていたのかね?」

 ………………………………………………『さらば愛しき女よ』

ウィスキーグラス

●(テリー・レノックスとフィリップ・マーロウの会話)

 「彼女は酔っぱらいがきらいだと言ったぜ」
 「彼女が言うのは金のない酔っぱらいさ。金さえあれば、ただ酒が強いだけの人間ということになるんだ。ベランダにゲロを吐いても、召使いが後始末をするだけのことなんだ」

 ………………………………………………『長いお別れ』

さらば愛しき画像

●(マーロウとメイヴィス)

 「1日25ドルなのね」 と、彼女はいった。
 「哀れな淋しいドルさ」
 「とても淋しい?」
 「灯台のように淋しい」

 ………………………………………………『かわいい女』

ホッパー灯台

●(ヴィヴィアン・リーガンがマーロウを見て)

 「背は高く、色はあさ黒く、好男子のけだものさん。ビュイックを1台ぶつけてやりたいくらいよ」

 ………………………………………………『大いなる眠り』

大いなる眠りポスター

●(マーロウとキングズリー)

 「君の態度が気に入らんね」
 と、キングズリーはアーモンドの果を砕いてしまいそうな声でいった。
 「かまいません。そいつを売っているわけではないんでね」

 ………………………………………………『湖中の女』

●(マーロウがマール・デイビスに)

 「よすんだ。私は知っている。マーロウはなんでも知っている。どうしたらまっとうに暮らせるかということ以外はね」

 ………………………………………………『高い窓』

●(マーロウが、テリー・レノックスの恋人のことを擁護していうセリフ)

 「女だって人間なんだ。汗もかくし、醜くもなる。便所に行かなければならないんだ。いったい君は何を期待しているんだ? ばら色の霧の中に飛んでいる金色の蝶々か?」

 ………………………………………………『長いお別れ』

 ●(事務所を訪ねてきたアン・リアードンとマーロウの会話)

 「私にはすすめないのね」 と、彼女は冷ややかにいった。
 「まだ11時だし、それに、君は飲まないと思ったんだ」
 「それ、お世辞なの?」
 「僕らの仲間ではね」

 ………………………………………………『さらば愛しき女よ』

●(ドーとマーロウ)

 「あんたはゴム紐のついたボールのようなものだ。遠く離れれば離れるほど、強くはずみがついて、飛び戻ってくる」
 私は、いった。
 「ところがそのゴム紐が腐ってたってね」

 ………………………………………………『指さす男』

●(マーロウとヴィヴィアン・リーガンの会話)

 「かみそりがあったら喉をかき切ってやるから。何が流れ出るか見たいもんだわ」
 「出るのは芋虫の血さ」

 ………………………………………………『大いなる眠り』

●(マーロウがスペンサーに自分を語る)

 「もうだいぶ永い間、私立探偵をやっています。独身の中年者で、金はありません。留置場に入れられたのは1回だけでなく、離婚問題は扱いません。
 好きなものは金と女とチェスといったところ。
 警官にはきらわれていますが、仲のいいものも2人ほどいます。
 サンタ・ローザ生まれのこの土地の人間で、両親とも死んでいて、兄妹は1人もなく、この稼業によくあるように、暗い路地裏で往生しても悲しがる人間は1人もいません」

 ………………………………………………『長いお別れ』

長いお別れ表紙


 まだまだ、いっぱいある。この倍ぐらい用意したけれど、長くなるので省略。

 大体こんなところで、チャンドラー作品の会話のセンスが分かっていただけたかと思う。
 ま、日常生活で、こんなことを言う男がいたら、ただのおバカだけど、小説や映画の中では、無類にカッコいい。

 一言でいえばキザ。
 しかし、そのキザが、自分を強引に前に押し出していくキザではなく、一歩退いていくキザであることが分かる。
 相手がどんどん押してくれば、その分、主人公は引く。相手との距離は、常に冷静に保たれる。

 この距離感が、チャンドラーの文体に、「クール」 、「洒落ている」 、「大人だ…」 などとという評価を与える秘密になっているのだろう。

 彼が描くマーロウのセリフには、どこか 「さめた淋しさ」 がある。
 「成熟」 と引き替えに得た 「諦念」 の味がある。
 この感覚を大事にしたいわけね。

 最近の中高年はみな、もがくじゃない?
 しゃかりきになる人を、みな 「元気だ」 という言うけれど、元気じゃないカッコよさがあってもいい。
 そいつを 「エレガンス」 っていってもいい。
 (続く)

 関連記事 「ハードボイルド1」

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:59 | コメント(4)| トラックバック(0)

ハードボイルド1

【 ハードボイルド研究ノート1 】

《 ハードボイルドをリサイクルする 》

 「ハードボイルド」 という言葉は、今はもう死語に近い。
 かろうじて “老人医療施設” の片隅のような場所で、ひっそりと生きながらえていたとしても、誤解と偏見に満たされた言葉であることは間違いない。

 最近では、ハードボイルドの大御所レイモンド・チャンドラーの 『ロング・グッドバイ (長いお別れ) 』 が、村上春樹の新訳を得て評判になったけれど、その表紙や帯には、「ハードボイルド」 という言葉が表4の帯に、小さくたった一言出てくるだけである。
 村上春樹は、「ハードボイルド」 という古い先入観で自分の翻訳が偏見にさらされるのを嫌ったのだろう。

村上ロンググッバイ

 かつて 「ハードボイルド」 という言葉が、カッコいい男の生き様を表現していた時代があった。
 しかし、その響きに、どこか 「マッチョ」 な匂いが立ち込めていたため、マッチョ文化が廃れるとともに、「ハードボイルド」 もフェイドアウトしていった。
 今、もうこの言葉は、ギャグとしても使われないようだ。

 でも、ハードボイルドの誤解を解いてやらなければならない。
 それは、ある意味で、今の時代に失われてしまった 「大人の文化」 を取り戻すことにもなるかもしれないからだ。

 ハードボイルドは、マッチョとも、男根主義…ごめん! 男権主義とも、家父長制などとも無縁な思想だ。
 自分の行動の責任を自分で取る、というだけの思想である。
 でも、そいつが今の時代には見失われている。

 新しい思想は、案外、見捨てられたクズかごの中に、ひっそりと眠っていることが多い。
 リサイクルの時代だ。
 クズかごの中に、ごそごそと手を突っ込んで、「ハードボイルド」 を取り出し、そこにつもったホコリをていねいに取り除いてやろう。

 とびとびの連載になると思うが、興味ある人だけに読んでほしい。

《 ハードボイルドって何だ? 》

 ハードボイルドという言葉は、その全盛時代には、次のようなイメージで見られていた。

 クールでタフな主人公が、暴力的なアクションを駆使して事件を解決していく探偵小説 (もしくは映画)。
 あるいは、女々しいセンチメンタリズムをポーカーフェイスにくるんで、強がってみせる男が登場する推理小説 (もしくは映画)。

 ま、かつては、そんなところが 「ハードボイルド」 という言葉から普通の人々が連想するイメージだった。

 …と、ここまで書いてきて、じゃ、そうじゃない 「ハードボイルド」 って何だ? と言われてしまうと、実はよく分からない。テヘヘ…なのである。

 とりあえず、文献をひもとくことにする。
 アンチョコ本は、早川書房の 『ミステリ・ハンドブック』 と 『レイモンド・チャンドラー読本』 …等々である。
 「ハードボイルド研究」 など大上段に構えると、実は恥ずかしい。ほとんど“抜き書き”だからだ。
 ただ、それらの本の中の“おいしい部分”を拾いつつ、若干だが、私見も添えている。

《まず初歩的なことから》

 ハードボイルドとは、まず 「文体」 のことを指す。
 この言葉に特別の愛着を感じている人々は、すぐトレンチコートを着たハンフリー・ボガートのたたずまいや、ソフト帽をあみだに被ったロバート・ミッチャムなどを連想してしまうが、そういうファッションやら、「男の生き様」 的なライフスタイルをいうわけではない。

ボギーphoto1 さらば1

 そのようなハードボイルド風俗が誕生してきたのは、まず、それがカッコいいと感じさせる小説としての 「文体」 が誕生してからだ。

 その文体とは何か。

 多くは、登場人物の心理を、一人称の記述によって、セリフと行動だけで描写していく手法で、元祖はヘミングウェイだということになっている。

ヘミングウェイ

 アメリカ文学の研究者である佐伯彰一氏は、次のように言う。

 「ハードボイルド派の、あの寡黙で、しかも切れ味の鋭い文体は、ヘミングウェイという見事な先例がもたらしたものであり、口語的、俗語的ダイアローグ (対話) の絶妙な巧さも、ヘミングウェイを抜きにしては語れない。
 ハードボイルド派とヘミングウェイに共通するものは、主人公たちの、一種ストイックな寡黙ぶりで、彼らは辛いこと、苦しいことに唇を結んで耐えしのび、決して、泣き言をもらさない」

 う~む。まぁ、かつては、こういうのが 「男らしい」 といわれたわけだ。
 男でも 「感動にむせび泣く」 時代となった現代では、ちょっと通用しない考え方かもしれない。
 早くも自信を失いかけたが、あきらめず、もう少し行ってみる。

《 「ハードボイルド」 の語源 》

 ハードボイルドという言葉の意味は、“固ゆで” である。
 「ゆで玉子は、ハードボイルド (固ゆで) にしてくれ」…なんて使うようだ。

 それが、「タフでクールな人物」 を指すようになったのは、アメリカ軍の新兵訓練にネを上げた兵士たちが、その冷酷非情なシゴキを行う下士官の服の白い襟を見て、その白さが卵の殻を連想させるため、「ハードボイルド・エッグ」 と呼んで、忌み嫌ったことに由来する(…とか)。
 そういう説が有力だが、本当のことは分からない。

《最初のハードボイルド小説》

 このヘミングウェイ・チックな文体を、いちばん最初に推理小説に採用したのは、ダシール・ハメットである (…らしい)。
 1923年(ぐらい)に、ハメットが書いた 『放火罪および』 という短編、ならびに1929年の 『血の収穫』 という長編には、コンチネンタル・オプという私立探偵が登場する。
 その主人公の叙述が、きびきびしていて、無駄がなく、スラングを多用していたために、後にハードボイルドの元祖といわれることになる。

 ちなみに、このコンチネンタル・オプというのは、主人公の名前ではなく、コンチネンタル探偵社のサンフランシスコ支局に勤める、雇われ探偵 (オプ) という意味。
 デブの中年男だそうだ。
 ハメットが、この探偵に名前をつけてやらなかった理由は今も分からない。

マルタ鷹本

 ダシール・ハメットの名声を確立したのは、1930年刊行の 『マルタの鷹』 で、ここで彼は、サム・スペードなるタフでクールな私立探偵を登場させる。
 このサム・スペードこそ、史上最初に登場したハードボイルド野郎ということになる。
 映画では、ハンフリー・ボガードが好演している。

マルタボギー

《 チャンドラーの登場 》

 このハメットとともに、ハードボイルド小説の元祖と並び称されるのが、有名なレイモンド・チャンドラー。
 作家デビューは1933年の 『脅迫者は射たない』 という短編らしいが、フィリップ・マーロウなる私立探偵が登場する 『大いなる眠り』 (1939年) で、チャンドラーの名前はブレイクする。

チャンドラー肖像1

 その後マーロウが主役を務める 『さらば愛しき女(ひと)よ』 (1940年)、『長いお別れ』 (1953年) が大ヒットし、チャンドラーはハードボイルドの大御所という名声を確立していく。

 彼の一連の作品は、みな会話が粋だ。
 大人の会話である。
 もちろん、日常生活で使えるような言葉ではない。
 しかし、去っていく女の後ろ姿を見つめながら、また、宙を舞うハズレ馬券を眺めながら、ボソっと独り言をいうときにはピッタリ!
 声として発しなくても、心の片隅にとどめておくだけで豊かな気分になる。

夜更かし人

 実は、その会話の雰囲気を紹介したいがために、これを書き始めたようなところがある。
 でも、それは後のお楽しみ。
 もう少し、学術論文を続けたい。

《主人公たちの職業と、活躍する場所》

 ハードボイルド小説の主人公は、ほとんどの場合私立探偵だが、新聞記者、弁護士、保険調査員などが加わることがある。
 小説の舞台は、大多数がカリフォルニアであり、ハナの差でニューヨークが並び、第3位にシカゴが続いている (…とか)。

摩天楼1

《 文体の特徴 》

 先ほどの 「文体」 の話を少し詳しく述べる。
 ハードボイルドといわれる小説の文体は、次のように言われることが多い。

① 作者は、主人公の行動と会話だけで、読者が知らなくてはならないことを全て伝える。
 立ち止まって、登場人物の考えを説明したり、動機を分析したりせずに、めまぐるしい一連の出来事を、ただ彼らに経験させる。 (パトリシア・ハイスミス)

② ハメットにおけるハードボイルドの骨格は、まず第一に心理描写を排すこと。それはとりもなおさず、人間の行動をいったん動物行動学の次元に置き換えることに他ならない。
 そのため暴力が克明に描写されることになるのだが、人間の営為のうち、暴力行動こそが動物に近いものだという判断が、ハメットのなかでは働いていたのだろう。 (船戸与一)

③ チャンドラーは、精密な描写の上に、苦い自嘲や鋭い皮肉、つまり微苦笑を含んだ大人の視点を文章に盛り込む。
 それが、簡潔な文体や巧妙なレトリックによってぴたりとキマっている。(小泉喜美子)

 これらの人々の指摘を総合すると、どうやらハードボイルド文体というのは、1に 「簡潔」 。2に 「乾いている」 。3に 「登場人物の心理描写をしない」 ということがいえそうだ。 

 これらをまとめていうと、
 「カメラ・アイのように…」
 という表現が適切かもしれない。

 つまり、レンズに写るものを選り好みしないカメラのように、画面に写ったものだけを切り取っていくという手法だ。
 ちょうど説得力のある写真が、キャプションなしでもメッセージを伝えることができるように、適切なハードボイルド表現は、作者の思想をことさら言語化しなくても、十分読者に伝えられるというわけだ。

カメラ1

 そういった意味で、ハードボイルド小説は、カメラがこの世に登場した 「近代」 の文学であり、絵画と連動していた古典文学と一線を画するものなのかもしれない。
 (続く)

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 05:46 | コメント(2)| トラックバック(0)

ホラーの時代

 昔から、自分の好きな小説のジャンルに 「ホラー」 がある。
 「ホラー」というと、幽霊や、怪物や、性格異常者が登場し、不可解で残酷きわまりない怪事件がたくさん起こるというイメージを持たれている人は多いと思う。
 事実そのとおりなのだが、ただ、昔のホラーと比べると、最近のホラーは、恐怖を運んでくる主体が確実に変わっている。

 昔のホラーは、その恐怖の根源となる役目は、だいたい 「幽霊」 が負っていた。
 そして、その幽霊が、なぜその場に登場するのかという因果関係も、だいたいはっきりと読者に伝えられていた。

 恨みをはらすためにせよ、呪いをかけるためにせよ、恋慕したにせよ、幽霊が出てくるのは、「この世に残した未練」 のせいであり、その未練が、出現の 「動機」 である限り、幽霊の存在には (非科学的だけど) 合理性が貫かれていた。

 ところが、だんだん、なぜ出現してくるのか分からない 「幽霊」 が増えてきた。
 というか、それが幽霊なのかどうかも分からなくなってきた。

 たとえば、貴志祐介がよく描くところの “怪物” たちは、生物学的には人間であることが多いのだが、その思考や行動や様相が 「人間」 ではない。人間を逸脱して、別の生命体となった “何か” なのだ。

 岩井志麻子の小説に登場する “怪物” も、貴志祐介の路線と似ているが、その出世作である 『ぼっけぇ、きょうてぇ』 に出てくる謎の人物は、もう生命体なのか幽霊なのかも分からない存在になっている。

ぼっけぇきょてぇ

 そういう傾向が顕著になってきたのは、日本では1990年代に入ってからだという。
 (※ 「ホラー小説」 という言葉が生まれたのもその頃で、それ以前の 「怪談」 に近い物語は、「恐怖小説」 などと呼ばれていた) 。

 そして、この新しいホラー小説は、長らくエンターティメントとしての読書を支えてきたのはミステリー (推理小説) に、今や取って代わろうという勢いだという。

 このような、娯楽小説における主役交代の舞台裏では、いったい何が起こったのだろう?
 それを知るには、まず最初にミステリーという文学を支えている 「思想」 を解明してみると面白い。

 ミステリーにも様々なジャンルがあるが、その頂点に立つとされているものは 「本格派」 と呼ばれるものだ。

 本格派では、人間がまったく入ることのできない密室で、なぜ殺人事件が起こったのか? …という感じの、それこそパズルを解くのに似た知的ゲームの面白さが追求される。
 
 そういう小説を支えているものは、因果律に対する盲目的な信頼である。
 「起きた事件は必ず解決される」
 「逃げた犯人は必ず逮捕される」

 つまり、事件にはすべて原因があり、原因があるかぎりは、結果 (事件の解決) が必ず訪れる。
 そして、結果をつぶさに調べることによって、隠された原因にさかのぼることもできる。

 このような 「因果律への盲目的な信頼」 は、まさに近代合理主義の精神そのものがもたらしたものといっていい。

 近代合理主義というのは、物事の 「原因」 と 「結果」 には、「必ず科学的な因果関係がある」 とする考え方である。
 それまでの、「火山の爆発は神様の怒りだ」 とするような考え方に変わり、近代合理主義以降は、「火山の爆発は地殻変動による地下のマグマの噴出だ」 という解釈に変わった。

 そして、このような近代合理主義の旗印が掲げられた世界では、
 「時代が進めば進むほど、世の中の謎は解明され、人々の暮らしをおびやかしていた迷妄・迷信は払拭されていく」
 と信じられた。

 そういう思想の流れを決定づけたのは、ダーウィンの 『進化論』 だった。
 『進化論』 は、単なる生物学上の進化を説明したのみならず、そのように人間の社会も進化するものだというイデオロギーとして機能し、近代合理主義思想の根幹を成した。

 本格派ミステリーというのは、こういう近代合理主義イデオロギーを前提として生まれたエンターティメントであり、それが娯楽文学の上位にいるかぎり、非科学的な怪談においても、幽霊が出現する要因として因果関係が語られねばならなかったのだ。

 ところが、20世紀が終わろうとする頃から、近代合理主義的な考え方では、どうしても理解できないような、さまざまな事件が起こるようになってくる。
 政治や経済が、予測不能な動き方をするようになってきたのだ。

 そういう傾向が顕著に現れてきたのは、「冷戦」 が終わった頃からだった。
 面白いことに、その時期が、日本で近代ホラー小説が誕生してきたといわれる1990年頃と重なる。

 世界的に見ると、1989年の11月に冷戦時代の象徴として君臨してきたベルリンの壁が崩壊する。
 それからほぼ2年後の1991年12月に、ソビエト連邦が崩壊し、冷戦は資本主義の勝利に終わる。

 ところが、これらの世界史的な転換は、大方の予想に反して、「明るく自由な資本主義」 の時代が来たことを意味しなかった。
 むしろ、「理念なきカネ儲け競争」 の幕開けだった。
 規制緩和、保護政策撤廃、資本の自由化などの美名のもとに、どろどろした人間のナマの欲望が、歯止めなく泳ぎ回る時代が訪れたわけだ。

 それを可能にしたのは、80年代から急速に巨大化した国際通貨市場だった。
 この時代、1日の取引高は約1兆ドルといわれているが、その8割が投機的資金だった。
 コンピューターのキーを数個押すだけで、何10億ドルという巨額な資金が瞬時に国境を駆けめぐり、一瞬にして、一国の経済に大打撃を与えるような事態が発生するようになった。
 
 金融市場の構造というのは、多くの人にとって、合理的な因果関係の世界に属するように見える。
 しかし、実態は違う。
 むしろ、合理的な数学理論で把握できない世界といっていい。

 1990年代の終わりに、神憑りの投機家として名を挙げたジョージ・ソロスはこういう。
 「マーケットというのは、論理的でも自然に均衡するものでもなく、極端な乱高下を繰り返す“混沌”だ。そして、その混沌の中心にあるのは理論ではなく、群衆心理だ」

 このように、地球規模にまで拡大した金融市場の底流においては、実は、合理的な因果律が崩れたカオス (混沌) が出現していたわけだ。
 そして、それがホラー小説の興隆とシンクロしていたというのは、実に興味深いことのように思える。

 1990年代に入り、日本はアメリカのグローバリゼーションを受け入れることによって、バブルの恩恵に属し、そしてすぐに、その反動を受けて奈落の底に転落する。

 経済の崩壊は、人間社会の崩壊をも意味した。
 かつて日本社会が持っていた、
 「人々の和を大事にして、団結して事に当たる」
 「弱者の立場を尊重する」
 などという精神は、バブルの膨張による拝金主義の蔓延によって、すでに跡形もなくなっていた。

 年功序列や終身雇用制度といった日本的なセーフティネットに対する考え方は、グローバリズムを妨げるものとして既に切り捨てられてしまっていた。

 ちょうどその頃から、奇妙な事件が日本の各地で起こり始める。
 その第一弾は、1990年のはじめに起きた宮崎勤事件だった。
 幼女を何のためらいもなく惨殺し、その理由を 「ネズミの頭をした人間たちが示唆したから」 と供述した宮崎勤という青年の存在は、日本中を震撼させた。

 「従来は、犯人逮捕によって事件は解決され、終わりがやってきたにもかかわらず、宮崎勤事件では、むしろ犯人逮捕によって事件が始まり、かえって終わりも解決も見えない世界が現れたように感じられた」

 『ホラー小説でめぐる 「現代文学論」 』 (宝島社新書) の著者である高橋敏夫氏は、その本でそう述懐する。

ホラーでめぐる現代文学論

 高橋氏は、
 「ホラー的なものが文学において突出してきたのは1995年からである」
 と書く。

 「1995年という年は、バブル崩壊のあとまだわずかに残っていた余裕を、私たちから最終的に奪い去った年であった。
 阪神淡路大震災は、都市と最新技術への信頼を消滅させ、オウム真理教事件は人を救うための宗教という神話を葬り去り、薬害エイズ問題は、高級官僚の大ウソを暴き出した。

 “常識” の根幹が無効になり、その結果、現実は “なんだかわからないもの” の塊と化した。
 家庭が、子供が、主婦が、集団が、社会が、そして経済が “なんだかわからないもの” へと止めどなく変形 (怪物化) していき、最後にとどめを刺すように、97年、神戸児童連続殺傷事件=酒鬼薔薇聖斗事件が起こった」

 高橋氏はこう記した後に、それまでの 「解決可能性」 を信じられた時代が崩壊し、代わりに 「解決不可能性」 が突出してきた時代が訪れたという。
 そして、この世の中に漂い出した 「解決不可能性」 という時代の気分が、ミステリーからホラーへの橋渡しを行ったと結論づける。

 モダンホラーでは、まずハッピーエンドが訪れない。
 だからといって、形のはっきりしたカタルシスが描かれることもまれだ。

 「夢から醒めたら、また夢の中…」
 というように、永遠に続く悪夢を示唆するがごとく、静かにフェイドアウトしていくものが多い。
 それは、この世に起こるすべての事件はもう金輪際、解決することがないのかもしれないという、「解決不可能性」 の時代にハマってしまったわれわれの心細さを暗示している。

 ところが、氏の論考がユニークなのは、その 「解決不可能性」 を提示したホラーにこそ、人類救済の大きな可能性があると読みとったことだ。

 長くなるので、一例を挙げるにとどめる。

 「1990年代をとおして、学校は、いじめに現れる関係崩壊、ついでに学級崩壊、そして学校崩壊へ至る内部の自壊がもっともはっきりと現れた場所だった。
 そのような自壊してしまった場所から、子供たちが逃げ出しはじめ、それが登校拒否や不登校となった。それは子供たちによる “緊急避難” だった。

 ところが2001年頃から、大阪の池田小学校で、小学校に進入して男が多数の小学生を殺傷する事件が起こり、その反動として、学校が “聖域化” され、内部の崩壊などないものとされた。
 このことが、どれだけ子供たちの精神をさらに崩壊に追いやったか想像に難くない。

 1999年に高見広春が書いた 『バトルロワイヤル』 は、そのような遮蔽された聖域で何か起こっているのかを暴く “レポート” となった。
 中学生たちが、閉じこめられた小さな空間で殺し合いを強いられる物語は、アンモラルだと非難されようと、その切迫感は、現に中学生たちが日常感じていたものそのものであるし、何よりも、現在の学校内部の崩壊、そして社会内部の崩壊を世間に知らしめる情報として機能した」

 ちょっと意訳になってしまったが、高橋氏の主張の一端は、上の文章から読みとれると思う。
 小説 『バトルロワイヤル』 の影響で生徒たちが暴力的になったのではなく、学校の荒廃が、『バトルロワイヤル』 という表現になって、世に出ることを求めたのだ。

バトルロワイヤル

 ホラーが蔓延してきたことは、逆に、時代が 「何を隠蔽しようとしているか」 を暴きだすことも意味している。

 それを、高橋敏夫氏的に表現すると、たぶんこうなるはずだ。
 
 人間は、他人に絶対言えないようなことを、たくさん抱えている。憎悪、嫉妬、虚栄心、孤独感、異常な性的関心、破壊欲…。ときには 「犯罪」 に近接するような欲望がこみ上げてくることがあるかもしれない。
 そのような、自分の内にざわめく危険な 「悪」 を、堂々と見据える力をつけさせてくれるものが 「文学」 だった。

 ところが、グローバリズムの時代が訪れることによって、世の中の価値判断は、経済効率から導き出された 「有用」 か 「無用」 かの二元論で語られるようになり、「文学」 はカネを生み出す価値の低いものとして、「無用」 の領域に押しやられていった。

 その二元論の構造では、「悪」 もまた 「無用」 の代名詞に格下げされた。
 格下げされた 「悪」 は軽くなり、同時に、悪に染まることの 「罪悪感」 も軽くなった。

 しかし、「悪」 は、単なる 「無用」 ではない。
 「有用」 と 「無用」 という二元論を超越した、絶対的な輝きを放つものだ。

 だから、悪を克服する力は、悪の強さや魅力から、一歩も退くことなく向き合うことからしか生まれない。
 優れたホラーの多くは、そのことを教えてくれる。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:51 | コメント(4)| トラックバック(0)

2008年日本経済

《覆面 座談会》

【A】 今回は、久しぶりに皆さまにお集まりいただきまして…
【B】 何やるの?
【A】 「2008年度の日本経済」 を占う。
【B】 帰ろ!
【A】 まぁ、まぁ…
【B】 だって、そんなもん喋れへん。毎晩480円の定食しか食ってないワシが、よう喋れるかい、そんなこと。
【C】 なんで大阪弁になってるの?
【B】 タコ焼きが好きやねん。

【A】 ところで、正月明けの大発会では、日経平均の終値が616円安の14,691円となり、大発会としては過去最大の下げとなったわけですが…
【B】 ……本気かよ。
【C】 ねぇ、新年会にしない? 酒あるし…

【A】 この座談会が終わってからね。…で、日本株暴落の背景には、1バレル100ドルという原油の高騰と、急速な円高があったわけですが、最大の原因は、サブプライム問題に端を発した米国景気の減速懸念に基づくもので…
【B】 スルメうまいね。こっちにも氷くれない?
【C】 レモン入れる?

【A】 君たち聞いてる?
【B】 聞いてる、聞いてる!
【C】 そうだよね、日本はサブプライムになっちゃったんだよね。そうなんでしょ?

【A】 で、今までアメリカの好景気に支えられて、日本もその恩恵に浴してきたわけですが、ここにきて、サブプライム問題が表面化することによりまして、まぁ、アメリカからおカネが逃げだしまして…
【B】 …正月休みにさぁ、定期券が切れているの知らなくてさ…
【C】 スイカ使ってるんでしょ?

【A】 で、米国から逃れた出たおカネが、原油や金などの先物市場に流れ込んだわけですね。このようなァ、世界的な 「ドル離れ」 が起こったことによりましてですねぇ、その結果、ニューヨークの株価が下がり…。
【B】 あれ、便利だよな。最近はさぁ、バスでも私鉄でも共有できるのね。
【C】 そう。駅構内でも買い物できるしね。

【A】 ニューヨーク株が下がった影響を受けて、日本株も下落したわけですが、今年は、さらに日本にとって脅威なのは、ここ5年間2ケタ成長を続けてきた中国がですねぇ、いよいよオリンピックを迎えるにあたり…。
【B】 で、切れた定期のままさぁ、そのまま千葉まで乗っちゃったのよ、親戚の家に行くつもりだったからさ。
【C】 なまじいくらかチャージしていると、かえって気づかないよね。…あ、オレにも氷ちょうだい。

【A】 ちょっとぉ! 2人でナニ話てんだよ。今日は座談会だぜ。
【B】 だから、中国の話でしょ。
【C】 万里の長城。

【A】 違うだろ! 北京五輪が終わったら、いったいどうなると思うの?
【B】 聖火台から火が消えますが。 それがなにか?

聖火

【A】 そういうミクロの部分をほじくるんじゃなくてさぁ、もっとマクロで答えてよ。
【B】 トロ、赤身。
【C】 そりゃマグロ。

【A】 ………
【B】 ………
【C】 ………

【A】 アホらしくなった。オレにも酒くれ。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:22 | コメント(0)| トラックバック(0)

ブラック音楽2題

ギルスコット

 カッコいいしょ? この人。
 好きな顔です。
 Gil Scotto Helon (ギル・スコット・ヘロン)

 詩人、ジャズメン、R&Bシンガー、ラッパー。
 黒人音楽文化の中軸を担いながら、時代を走り続けてきた人です。
 
 …というのは、つい昨日、ネットで仕入れた情報なんですが…。

 名前だけしか知らなかったんだなぁ。
 それも、やっと昨年。
 JRVAのY氏と音楽談義となり、「町田さんの好みなら、きっと絶対合うはずですよ」 と教えてもらったミュージシャンが、彼だったんですね。

 そして、奇しくも、昨年末。
 バンドでベーシストを勤める友人と音楽談義になったときにも、「ご推薦!」 として名前が出てきた人が、このギル・スコット・ヘロンでした。

 昨日の深夜 (…というか、日付でいえば今日ですが)、ブログを書きながら、ベーシストの友人が送ってくれたギルのアルバムを聞きました。

 タイトル名は 『Pieces Of A Man 』 。

 最初の曲は、「Revolution Will Not Be Televised」
 のっけから、なかなか刺激的なヒップホップ。
 結構こゆい感じのメッセージを挑発的に発信していそうな、危険な香りを持つ曲です。
 いかにも、最近の黒人音楽。
 新しい音を聞く機会はなかなかないので、とても勉強になります。

 2曲目。
 うって変わって、メローなミディアムテンポのバラード。
 ……???
 これは、けっこう古めの感じ。

 70年代ソウルの “ゆるゆる感” と、朝の冷気のようなクール感がほどよく解け合って、まるでマービン・ゲイの 「ホワッツ・ゴーイング・オン」 にも近い清々しさが漂ってきます。

 バンド構成はシンプル。フルートが楽器の主要パートを占めているため、ジャズ的な味わいもあるのですが、どこか牧歌的。 「ホワッツ・ゴーイング・オン」 のような雰囲気といいつつも、白人のジェシー・コリン・ヤングがライブでカバーをやったときの曲調に似ています。

 そうかと思うと、今度はスライを思わせる 「もろファンク」 のベースが響いてきたりで、はて? いったい新しいのか、古いのか…。

 そこで、ようやくネットで、このアルバムのことを調べてみるとに…

 おおぉ!
 なんと、1971年の制作だというではありませんか!
 (ということは、ジャケ写のギルも22~23歳ということか?)

 それを知って、まったく考えが改まってしまいました。
 もし、このアルバムが71年当時のものだとしたら、この人は、なんと時代を先取りした音をつくっていたのでしょう。

 1曲目の 「Revolution Will Not Be Televised」 などは、もうほとんど現代のヒップホップそのもの。
 ネット情報によると、確かに、ギルのことを 「元祖ラッパー Hip Hopのルーツ的存在」 と呼んでいます。

 そういうサウンドクリエイターとしての凄さもあるのですが、この人の本領は、文学性も高くメッセージ性も強い 「詩」 の領域において、発揮されるのだとか。

 おそれ入りました!
 すごい人もいたもんだ。

 JRVAのY氏も、友人のバンドマンもともにベーシスト。
 そういえば、2人ともファンクベースのことを話していたっけ。
 今度、この方々を招きして、お2人に音楽の話をさせたら面白そうです。



 二つ目のブラックミュージックの話は、今日のこと。

 昼休みに、最近できたばかりのローカル牛丼屋へ。
 夜は、お酒を飲ませる串揚げ屋さんのようです。

 昼だけ、
 牛丼 560円
 ふわふわ玉子とじ牛丼 600円
 生姜焼き定食 680円…というランチをやっていました。

 カウンターに座ると、店内に静かに流れるカーティス・メイフィールド。

superfly

 72年のアルバム 『スーパーフライ』 なのですが、「エディ・ユー・シュッド・ノウン・ベター」 のテイクが違うので、おそらく98年に出た25THアニヴァーサリー版のようです。

 有線か、ラジオか…

 次にかかった曲が 「リトル・チャイルド・ランニング・ワイルド」 。
 どうやらCDのトップに入っている曲に戻ったようです。
 間違いなし!
 店内のスタッフが、個人的なソースを流しているに間違いありません。

 で、カウンター越しに厨房を覗くと、
 メガネをかけた、ちょっと知的な風貌のやせたお兄さんが、フライパンの上に踊っている豚肉に、タレをふりかけているところです。
 年齢は、20代半ば。

 牛丼を食べ終わった後、お勘定を払うついでに、
 「いま流れている曲は有線?」
 と、わざとカマかけて、尋ねてみました。

 「いえ、僕のi-pod ですが…」
 ちょっと怪訝そうな表情。

 「カーティスだよね。スーパーフライ…」

 そう言ったたけで、お兄さんの顔に満面の笑みが浮かびあがりました。
 「あ、そうです! 昔、レコードしかなくて、欲しくても買えなかったんで、最近ようやくCD手に入れました」

 「それにしても、30年以上も前の曲でしょ。よくご存知ですね」
 「リアルタイムでは聞いていないです。だけど、オヤジがよく聞いていたんで、そのうち、自然に耳になじんじゃったらしくて」

 「けっこう、このアルバムカッコいいよね」
 「いやぁ、もうサイコー素敵です! 聞いていて飽きないです。マービン・ゲイとかご存知ですか? あ、知ってますよね、当然」
 「うん、好きだよ」

 おつりをもらってから、70年代ソウルの話を少々立ち話。
 お兄さんは、もっと話していたそうな感じでしたが、お客さんが来たので、バイバイ。

 「いいお父さんを持ちましたね」
 と最後に私は、店の戸を閉めながら言いました。

 お兄さんは、うれしそうに、目を細めて笑いを返してくれました。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 17:21 | コメント(4)| トラックバック(0)

著者よりコメント

 深夜の2時半。
 風呂から上がって、「さぁ、ブログでも書いて、寝るか…」
 と、パソコンのスイッチを入れ、今日手に入れたばかりの 「GIL SCOTT-HERON」 のCDをかけて、立ち上がったモニターを覗き込んだ瞬間、

 目が点!

 一昨日の記事にコメントを寄せられた方の名前。
 「中川右介」 さん

 どこかで聞いたような…

 あっ! と思った。
 一昨日のブログで紹介させたいただいた 『松田聖子と中森明菜』 の著者ご自身からのコメントではないか。

聖子と明菜本


 「松田聖子と中森明菜」の著者、中川右介です。
 お読みいただき、また、丁寧に書いていただき、
 ありがとうございます。
 楽しんで読んでいただけたようで、とても光栄です。
 ここにあとがきみたいものを書いています。よかった
 ら、お読みください。
 http://www.alphabeta-cj.co.jp/aisatsu.html
 別の日にあった、阿木・宇崎についての文章も読みまし
 た。あの二人についても、もっと語られていいはずです
 ね。阿久悠みたいに、死んでから持ち上げても意味があ
 りません。
            投稿者 中川右介 2008/01/10 19:27

 もう、びっくりしたのなんの!
 このブログで、読んだ本の感想文をいろいろ書いたことはあったが、直接著者からコメントをいただいたのは初めてだった。
 
 あまりにも光栄なことなので感激はひとしおなのだけれど、反面、申し訳ない気分で、いても立ってもいられなくなった。

 なぜなら、ずいぶん失礼なことを書いてしまったからだ。

 「 (この本は) ときどき記述に矛盾があったり、勇み足が目立ってほころびが見えたりするところがある…」
 
 「ちょっと、そう結論づけるのは “勇み足だろ!” と、私などは思う。
  大げさすぎて、逆に底が浅くなっている! と、不満のひとつも言いたくなる」
 
 まさか、著者にお読みいただくなどとは夢にも思わなかったから、無遠慮にあけすけなことを、さんざん書いてしまった。
 それにもかかわらず、こんな丁寧なお返事をいただけるなんて、夢のようだ。

 「中川さん、ありがとうございます!」

 それにしても、あらためてブログの力を感じた。
 好きな本の著者と、こうしてコメントを通じて意思疎通できるなんて。
 ネットの時代でなければ体験できないことだった。

 ブログを書いたらすぐ寝るつもりでいたけれど、今はちょっと興奮状態。

 関連記事 「聖子と明菜」
 関連記事 「竜童と燿子の世界」

 
ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 03:57 | コメント(0)| トラックバック(0)

倉田さんて面白い

 「週刊朝日」 に連載コラムを執筆している倉田真由美さんて、ほんとうに書いているものが面白い。
 一般的には、漫画家で知られる人だが、『だめんず・うぉ~か~』 などの代表作からうかがえるように、文章が軽妙でお洒落。そこに表現された男性批評には激辛のユーモアが漂っている。

だめんず

 見習うべきは、その文章の “息づかい” で、地の文と、会話の配置の按配が、なかなか素人には真似できない。

倉田女史

 たとえば、こんな感じ。

 ……私の場合 「テカテカの日焼け肌 + 開襟シャツの胸ボタン三つ開け + 首に光りモノ」 の男がどうしても受けつけられない。生理的にダメなのだ。

 つい先日も友人の紹介で、絵に描いたようなこの手のおやじに会った。
 会社経営者らしいが、会って5秒後に、
 「僕、日本人に見えないでしょ? 戸籍と血筋は日本人だけど、中身はイタリア人だから。親しい仲間には、マルコって呼ばれてる」
 ヨット焼けの肌をヘソ上までがっちり見せ、ぶっといゴールドチェーンを首にきらめかせた彼は、にっこり微笑んで言った。

 そのとき、紹介者の友人から、
 「この人、女に手が早いから気をつけてね。クラタマってこういうワイルドなタイプ好きなんじゃないの?」
 などと言われたときは、本気で友人の首を絞めそうになった。

 それでも、鳥肌立つほど拒否反応が起こるワイルド系と、拒絶反応も起こらないが視野にも入らないジャニ系。無人島にこの2タイプと残されたら、ワイルド系を選びそうな自分がちょっと嫌。
  『ほやじ日記 102回』 (週刊朝日 2005 9/9号)

 ▲ ゴールドチェーンを首に巻いた 「マルコ」 の姿が目に浮かぶようだ。
 確かに、「マルコ」 氏は、鼻持ちならないキザ男なんだろうけれど、憎めない愛嬌が漂っている。
 そこに、倉田さんの冷静な人間観察を、裏で支えている温かみを感じることができる。

 この人、男の描き方がうまい。
 さすが、漫画家。姿が目に浮かぶような表現力に長けている。

 こういうのもある。


 ……やさ男系モテおやじの代表格リチャード・ギアは来日した際、
 「一体どうしたら、そんなに女性にモテるんですか?」
 という質問に対し、「女性の話を、ちゃんと最後まで聞くことかな」 と答えた。
 さすが、正しい。

 実際、人の話を聞けない男が多すぎる。それでいて話を聞けない男はそれを自覚していない。
 仕事でホストクラブに通っていた頃、ホストとの会話が面白くなかったのも、 「話を聞けない」 男が多かったからだ。

 「そんなことないっすよ。オレ、女の話を聞いてやるの、得意っすよ」
 と、彼らは言うかもしれない。
 しかし、彼らは単に時間をつぶすために、機械的に聞いているに過ぎない。女はそういうのを敏感に見抜く。

 初対面のホストに多い質問で、「生まれはどちらですか」 というのがある。
 これなんて本当に脱力する質問の典型だ。本当はそんなことに興味がないことがミエミエだからだ。

 試しに 「福岡です」 とでも答えると、
 「福岡かあ。いいですね。とんこつラーメン。オレ醤油よりとんこつ派ですよ」

 途方もなく白けた気分になってくる。
 頼むから 「どうやったら女騙せるんですかね」 でもいいから、聞きたいことを聞いてくれ。
  『ほやじ日記89回』 (週刊朝日 2005 6/3号)

 ▲ これも笑えた。
 私は、ホストクラブの内実などさっぱり分からないのだが、こういうホストがいそうな感じは、ビンビンと伝わってくる。

 実は、私は、ブログなどのヨタ話を書くときに、密かにこの “倉田節” を参考にしている。
 もちろん、こんな達者な描写はできないけれど、会話部分の息つぎとか、間の取り方などを学ばせてもらっている。

 彼女のこんな話はどうか。


 ……夢を語る男って、最高にかっこよくも、かっこ悪くも見える。
 「オレ、係長になりたいんだけど」
 こんな夢では、女心は揺れない。

 先日、取材で会った男性が、夢を語る場面があった。
 「オレ、自分で会社を立ち上げたいんすよ。でもそのためには資金が必要でしょ。いつも夢想していることがあって…」
 で、その夢はなにかというと、
 「オレが道を歩いている時、ベンツとかの高級車にちょこっとだけぶつけられるんですよ。
 ベンツの運転席から出てくるのは、松嶋菜々子ばりの美女で大金持ち。
 おわびに、オレの会社設立資金を出すって言ってくれるんです」

 気持ちよさそうに語る男。
 目が死んでいく私。
  『フリドラ男36』 (週刊朝日 2007 7/20号)

 ▲ かなり省略してしまったけれど、倉田さんの文章は、こういうタッチなのだ。
 特に、
 「気持ちよさそうに語る男」
 「目が死んでいく私」
 というところの“呼吸”がなんともいえずに、いい!

 こんなのもある。
 キャバクラ嬢に、お客として来る男たちのことを取材したときの話らしい。


 ……私は過去、キャバクラ大好きな男とは付き合ったことがない。物足りないのだ。
 ああいう場で繰り広げられる会話の空虚さ、それに対して鈍感でいられる感覚がどうも好きになれない。
 キャバクラで働く娘さんたちは、どう思っているかというと、
 「客を本気で好きになることなんてない!」
 と言い切った。

 「客とはいえ、好きでもない男と、どうでもいい話するのって辛くない? 私、一方的なオレ自慢・オレトークって、ジンマシンが出そうなほど苦手だけどなあ」
 と私が言うと、
 「オレトーク大歓迎ですよ。適当に相槌打って、喋らなくてもいいから楽だし」
 意外な答えが返ってきた。

 こういう現実をある程度意識できている男ならいいけれど、まったく勘違いしちゃってる男って、痛い。
 「キャバクラ行くと、いつも理不尽だなって思うんだよ。客のオレばっかり喋って女の子を楽しませているんだから。それでこっちが金を払ってるんだからね、おかしな話だよ」
 おかしいのはお前だよ!
  『フリドラ男 12』 (週刊朝日 2007 7/27号)

 ▲ これも、最後の 「おかしいのはお前だよ!」 ってところのたたみ方がいい。
 言葉自体は、テレビのバラエティなどでもさんざん使われているものだが、文章でこう決められると、うなる。

 最近では、次のようなものある。


 ……自分と感動のポイントが近い人には、親近感を抱くものだが、逆にズレが大きいと白けたり困惑したりもする。
 たとえば 「感動した映画」 という話で、ハリウッドの大作や誰もが知る有名タレントではなく、小むずかしいフランス映画とか、イタリア映画とか、イスラエル映画とかを好んで挙げる人がいる。

 「うん、皆が知らないのも無理はない。日本人でパララビッチョ監督作を観たことがある人はあまりいないからね。彼が描く世界はハリウッド映画のように派手じゃない、何気ない日常の一コマを切り取ったものばかりなんだけど、なんていうか、魂を持っていかれるんだよ……」

 語っている時の顔はおそらく、小鼻の膨らんだエクスタシー顔である。この手のかっこつけを見ると、
 「本当に? 本当に感動したの? ねぇどこで? どの部分で感動したの?」
 と、しつこく追求したくなる。
 「誰も知らない映画に感動する自分」 に、感動しているヤツは寒い。

 とはいえ、あまりに無防備に感動作を開帳されても、戸惑うことがある。
 「 『いま、会いにゆきます』 観た? オレさぁ~、映画館で泣いちゃった。竹内結子がまたいいんだよ~……」

 困るなぁ、困る。
 どう相槌を打てばいいのか、見当もつかない。
 少なくともいえるのは、この人との間に恋が芽生えることはなさそうだ、ということ。
 『フリドラ男 36』 (週刊朝日 2008 1/18号)


 ▲ 芸術派を気取る男にも、感動男にも、どちらにもうんざりしている感じ。ヒジョーによく分かる!
 「軽薄な男」 を描くときの彼女の筆は、とてつもなく冴えわたる。

 男の私としては、とても勉強になるのだけれど、もし仮にこの人との対談話などが持ち上がったら、オレ絶対に逃げ回るだろうなぁ…。あとで何書かれるか、分からないもの。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 03:52 | コメント(4)| トラックバック(0)

聖子と明菜

松田聖子画像 

 中川右介さんが書かれた 『松田聖子と中森明菜』 (幻冬舎新書) は、ときどき記述に矛盾があったり、勇み足が目立ってほころびが見えたりするところがあるのだが、それでも無類に面白い本だった。
 立派な1980年代論になっていて、80年代を、政治や経済の文脈で捉えた専門書などより、はるかに時代の意味を伝えてくれる本に思えた。

 ネットなどで、この本のレビューを見る限り、批判的な評価を下されている方々も多かった。それぞれの意見も十分に理解できた。
 しかし、「私が面白いと思える本」 が、私にとって 「良い本」 なのである。

聖子と明菜本

 読書をエンターティメントとして楽しむ場合は、面白いかどうかが、最良の基準となる。その基準をこの本は満たしている。

 もっともそれは、私があまりこの時代のアイドル・ポップスが成立してきた背景を知らなかったという事情があるからかもしれない。
 古くからのファンにとっては、この本で書かれた事柄はすでに自明なものばかりで、私が面白がった部分などは、ただ 「退屈」 に感じられるのかもしれない。
 そのへんは分からない。

 でも、次のようなくだりは、私の想像力をビンビンと刺激してくれた。
 特に松田聖子の歌を、「社会学的に分析したテキストは豊富にあっても、作品論的に語ったものはなかった」 というくだり。
 
 原文を引用すると、
 「松本隆と松田聖子の作品論がめったに論じられないのは、松本・松田作品そのものに、論じられることを拒む要素があったからだろう。
 何も意味はない、意味を持ってはいけない、世の中と関わるな、恋人にも深い期待はするな、一瞬のきらめきこそが素晴らしい。
 ……そんなことを歌った曲を、肯定的に評価するのは難しい。
 しかも、いま挙げたことを、ストレートなメッセージとして伝えたのであれば、まだ分かりやすいが、そうではなかった。
 たとえば “何も意味はない” ことを、“すみれ・ひまわり・フリージア” と三つの花の名前を並べることで表現するという、かなり屈折した方法が駆使されていた」
 
  いきなり引用したのでは何のこっちゃ? であろうけれど、ここでは、松田聖子のヒット曲の大半を手掛けた、松本隆の世界観が語られている。

 松本隆は知る人ぞ知る、「はっぴぃえんど」 の伝説的なドラマー。ドラマーというよりも、むしろ作詞家としての才能の方が世に知られ、日本語のロックの創始者という評価を受けている。
 松田聖子の代表的ヒット曲 『赤いスイートピー』 、『小麦色のマーメイド』 、『渚のバルコニー』 、『秘密の花園』 などはみな彼の作品である。

 松田聖子は、松本隆の 「世界」 を歌い込むことで、80年代に日本の歌謡曲シーンを劇的に変革した。
 
 どのように変革したのか?

 それまでの日本の歌謡曲の主流は、演歌から反戦フォークに至るまで、基本的に 「自虐ソング」 だったと、著者の中川さんはいう。
 
 「私は不幸だ」
 「生い立ちが貧しい」
 「恋人に捨てられた」

 不幸の原因を、裏切った恋人に求めたものが 「演歌」 で、政治や社会のせいにしたのが 「反戦フォーク」 だというわけだ。

 それらの歌は、基本的には情緒性を喚起するところに主眼が置かれ、そこにドラマとしての構成は認められなかった。
 そこに阿久悠が登場し、3分から5分という歌謡曲の世界に、一篇の映画や小説にも匹敵するドラマを盛り込んだ。

 そこから歌謡曲の流れが変わった。
 沢田研二やピンクレディーが歌謡曲の主役に躍り出て、感情に流されてばかりいた演歌的世界に、メリハリの利いた時代性を吹き込んだ。

 で、松田聖子と松本隆がつくり出したものは、その阿久悠が構築した 「今の時代の雰囲気」 をさらに洗練させ、そこから、阿久悠が目指した 「ドラマ」 を抜き取ったものだという。

 どういう意味か?

 「松田聖子を得た松本隆とその周辺の人々は、阿久悠の改革をさらに次のステージへと進めようとしていた。
 それは “物語” を解体させ、イメージのみを提示し、歌詞から意味性を排除することだった。
 瞬間のきらめきを、3分から4分にわたって持続的に積み重ねる。
 それによって、じめじめと湿っていた日本の歌をドライなものにする」
 …そういうことを松本隆は目指していた、と中川さん。

 つまり、怨念だとか、情念だとか、女の性 (さが) とか、運命とか、故郷とか、家族とか、そういった重苦しいものをすべて排除し、はかなくも美しいイメージの連鎖に終始する曲づくりを、松本隆は目指していたというわけだ。

 そのような松田聖子路線を支援する強力なパートナーとなったのが、「ユーミン」 こと松任谷由美だった。

 「松任谷由美は、自分の音楽を “中産階級サウンド”、“有閑階級サウンド” と命名し、その一方で、前の時代の音楽を “四畳半フォーク” と名付け、否定すべきものとしていた。
 松田聖子の歌は、リゾート地を舞台にした中産階級の若者の恋を描くことを目指しており、その意味でも、松任谷の目指していたものと、松本隆の世界観には共通するものがあった」

 松本隆とユーミンという両天才によるコラボレーションが、松田聖子という歌姫を通して、80年代の音楽シーンを完全に席巻してしまったことは、あらためて書くまでもなかろう。

 ユーミンが作曲を担当し、松本隆が詞を付けた松田聖子の歌からは、「社会」 が完全に排除された。
 彼らの歌には、外国の地名は出てきても、国内の具体的地名はまったく登場しない。
 そこには故郷も祖国もない。
 すべての組織・共同体と積極的な関わりを持とうとしない世界が出現した。

 これが、80年代というものの 「正体」 だ。
 と、中川さんは言いたいのである。

 ところで、この本のもうひとりの主役である中森明菜は、松田聖子に対して、どういう役割を与えられているのだろうか。

中森明菜画像

 「 『少女A』 で中森明菜は完全にブレイクした。当時は校内暴力が社会問題化しており、少年Aや少女Aが新聞紙上によく登場していた。
 NHKは “犯罪的で内容が挑発的すぎる” との理由で、この曲を放送しないことに決めた。
 歌詞には少女売春も、万引きも、暴走族の集会も出てこない。
 歌詞のどの部分が “犯罪的” なのかと追求されれば、NHKも返答に困ったであろう。
 ひとつひとつの単語、一節ずつのフレーズには、とりたてて問題はない。
 しかし、確かに、この曲には犯罪的なムードが漂っていた。曲やアレンジにも責任はあるだろうが、無表情に歌う中森明菜そのものに、犯罪的・挑発的なイメージがあった」
 と、中川さんは書く。

 松田聖子が、実態のないイメージのユートピアを歌い続けていたのに対し、中森明菜は、すでにデビュー2曲目から、「社会」 とのっぴきならない関係に立たされた、少女の決意と困惑を表現していたのだ。

 私にとって、中森明菜のイメージを決定づけたのは、1984年にリリースされた  『飾りじゃないのよ涙は』 のように思えてならない。
 作詞・作曲は井上陽水。

 中川さんも、この曲が、松田聖子的な世界に対する強烈なカウンターパンチを意識したものであることを認めている。

 松田聖子の代表的なヒット曲に 『瞳はダイヤモンド』 があるが、その最後の歌詞は、「涙はダイヤモンド」 という言葉で終わっている。

 それを、横目でにらみながら、井上陽水は中森明菜に、
 「ダイヤと違うの涙は」 と歌わせた。

 「1年の時間差があったので、気づいた人は少なかったかもしれないが、松田聖子のファンは、“あ、やったな!” と思ったに違いない」
 と、中川さんは、見事に突いている。

 『飾りじゃないのよ涙は』 という歌は、「私は泣いたことがない」 という出だしで始まる。
 そして、「灯の消えた街角で/速い車にのっけられ」 たり、
 「つめたい夜のまんなかで/いろいろな人とすれ違ったり」
 「友達が変わるたび/思い出ばかりがふえた」 けど、それは 「泣いた」 のとは違うと思う。
 そして、自分は 「ほんとの恋をしていない」 と悟る。

 晴れたビーチには、いつも上品でおとなしい 「あなた」 がいて、その 「あなた」 をウブな表情で誘いながら、密かに恋の主導権を取ろうとしている松田聖子の歌とは、またなんと違った世界が展開されていることだろう。

 中森明菜のこの歌では、ヒロインはまだ 「あなた」 に会っていない。
 いつの日か 「恋人に会える時」 が来て、その時にこそ 「泣いたりするんじゃないか」 と、ヒロインは感じるにすぎない。

 地方都市のコンビニを唯一のたまり場として、長く退屈な夜をもてあましながら、身の凍るような寂しさに耐えている少女の姿が浮かんでくる。

 井上陽水は、やっぱり凄い表現者だと思わざるを得ない。
 そして、それを歌いこなす明菜ののっぴきならない切なさも、じんじん伝わってくる。

 この本には、「松田聖子に対する記述の方が多く、中森明菜は添え物にすぎない」 という批評もあるようだ。
 確かに、文章的な量では、松田聖子を論じる部分の方が圧倒的に多い。
 
 しかし、著者が、どちらに密かにシンパシーを感じているかは、読めばすぐに伝わってくる。

 終章近くには、こんな記述も見えてくる。

 「松田聖子が歌う世界では、社会は無意味なものになり、男女の関係すら意味を失っていった。 “私” と “あなた” は、永遠に “私たち” にはならない。
 松田聖子が無自覚に、そして、松本隆が確信犯的に破壊した日本の旧来の男女関係や個人と社会との関係は、それ以降、修復されることがなかった。
 歌はますます意味がなくなっていき、言葉遊びすらなく、ただメロディーとリズムに乗せられるだけになっていった。歌詞カードなしでは、日本語なのか英語なのかも分からなくなっていった」

 ちょっと、そう結論づけるのは 「勇み足だろ!」 と、私などは思う。
 「大げさすぎて、逆に底が浅くなっている!」
 と、不満のひとつも言いたくなる。

 しかし、そういうレトリック (言い回し) に説得力を持たせてしまうのも、本書の力だ。

 本の面白さは、作者のレトリックの力に負うところが大きい。
 たとえ、それがウソであっても、シビレる表現にはシビレてしまうことがあるのだ。

 学術論文や思想を真剣に扱った評論などにおいては、レトリックの巧みさはむしろ警戒しなければならない。

 だけど、読書は 「遊び」 だと割りきっている私には、酔えるレトリックに出会うことが無上の喜びとなっている。
 この本は、そういうレトリックが比較的多いように感じられた。

 Jポップネタ 「竜童と燿子の世界」
 Jポップネタ 「モノリスの声 元ちとせ」
 Jポップネタ 「虎と龍 クレイジーケンバンド」 

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 03:01 | コメント(6)| トラックバック(0)

消せぬ欲望

 消すことのできぬ、ほの暗い欲望。
 一度そいつに取り憑かれると、たとえ破滅に至る道であっても、歩まざるを得ないときがある。
 今日の私が、そうだった。

 ラーメンが食いたかったのだ。
 終電まぎわの電車に乗って、駅までたどり着くと、その時間にメシが食えるのは、駅前の 「松屋」 か 「すき家」 しかない。
 どちらも、そのメニューから味付けにいたるまで、すべて脳髄に沁み込んでいる。

 いやだ!
 私の頭のどこかで、そういう叫びが炸裂した。
 いやだ!
 今日はラーメンが食べたい。

 消すことのできぬ、ほの暗い欲望が、太古の沼を渡る霧のように、意識の淵へ浮上した。

 しかし、この時間にラーメン屋まで行くのは、危険が伴う。
 2軒ほど知っているラーメン屋は、どちらもシャッターが下りる時間が迫っている。
 迷う時間などあるわけもないのに、じっと考え込む。

 こういうときは、得てして、日頃は考えたこともないような妙案を思いつくものだ。
 しかし、その妙案こそが、実は命取りになることもある。

 それも分かっていながら、突然降って湧いたアイデアに、私は恍惚と酔いしれた。

 それは、1駅戻って、隣町のラーメン屋に行くことだった。
 ただ、上りの電車はすでにない。
 行くなら、自転車で行くしかない。
 途中、人気のない公園を25分かけて通らなければならない。

 でも、ラーメンが食べたい。
 これは、もう食欲でも何でもなく、何か抗うことのできない神の与えた使命のようなものだった。
 ここでラーメンをあきらめることは、私の一生一代の不覚になることは火を見るより明らかだった。

 マフラーを首に巻き直し、コートのエリを立てて、25分の道のりに挑戦する。
 自転車の灯りが、頼りなく暗い路面に揺れる。
 どこまで続くのか、無明長夜の独り旅。

夜の道

 闇の奥では魔物がささやく。 
 ラーメンなぞ、もうないぞ
 ラーメンなぞ、もうないぞ

 やがて、ぼんやりと闇のかなたに隣町の灯りが浮かび上がり、みるみる目の前に広がってきた。
 着いた!
 砂嵐に迷いながら、オアシス都市の城門にたどり着いた隊商の気分だ。 

 が、お目当ての、深夜2時まで営業しているラーメン屋の扉には、
 そっけない張り紙が…。
 「新年の営業は8日からになります」
 
 コンビニに入って、ワンタン入りカップ麺と明太子おにぎりを買った。
 バカヤロ。
 最初からそうすればよかったんだ。 

 
ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 02:32 | コメント(4)| トラックバック(0)

午後のブルース

 この冬最後の休みかな…。
 そんな気分で、公園を歩きました。
 カミさんと犬に連れられて。
 
 池の周りは、正月休みの最後の午後を楽しむ人たちでいっぱい。
 風もなく、温かい陽射しのなかで、行き交う人々の表情にも、春の笑顔。
 
 短い足をせわしなく繰り出す犬は、枯れ葉のお掃除。
 忙しげに尻尾を左右に振りながら、道に積もった枯れ葉を吹き飛ばして歩きます。

 池のほとりのベンチで休憩。

 目のまえには、手漕ぎボートに乗った若者が3人。
 漕ぐ手を休めて、缶ビールを開け、水上の宴会の始まり。
 彼らがむさぼるポテトチップのクズが、池に舞い散ります。
 それを見つけて、群がるカモ。

 「ボートはやっぱり手漕ぎね。アヒルのボートは嫌ね」
 と、カミさん。

 いつ頃からかこの池にも、アヒル (もしかしたら白鳥) の頭を付けた足漕ぎボートが繁殖し始め、在来種の手漕ぎボートを絶滅の危機に追いやっています。
 アヒルボートが合わねぇんだな。池の風情と…
 これじゃ公園じゃなくて、遊園地じゃねぇか。

 「俺、今度、夜中にアヒルボートの顔に、マジックインキでドクロマーク描いちゃおうかな」
 「かえって人気が出るかも」

 …と笑いあったところで、犬の散歩を再会。

 公会堂の前まで歩くと、くすんだドブロギターの音に合わせて、独特のダミ声が。
 日に焼けた肌をさらした小柄な老人が、ブルースを演奏しています。

 ブルーム・ダスター・カン氏。
 伝説のブルースマン。

 ブギのリズムを刻み、ブルースハープを吹き鳴らし、足を地面に踏み鳴らして、一人で熱演。

ブルームダスターカン
 
 いつものように、池と道路を隔てている柵に腰かけて、カン氏の演奏に聞き入ります。
 
 「ときどき来る客だな」
 ってな、目線がこちらにチラリ。
 「ガット・マイ・モージョ・ワーキン」
 を唄いながら、にじり寄ってくるカン氏。

 「ガット・マイ・モージョー・ワーキン!」
 と唄うカン氏に挑発されて、こちらも間髪入れず、
 「ガット・マイ・モージョ-・ワーキン!」
 
 デルタブルースの雰囲気をとどめた演奏が多いのですが、この日は烈しいストロークのモダンブルース調。
 ついつい乗ってしまいます。

 実は、CDも持っているのです。
 2年ほど前、やはりこの場所でストリートパフォーマンスを繰り広げていたカン氏の演奏に感激して、買ったもの。
 (上の写真がそのジャケットです)

 ブルースに酔わされて、もうコートも脱ぎ捨てたくなるほど。
 隣りの土産物屋で、抹茶のソフトクリームを買って食べちゃいました。

 日が傾いてきたので、そろそろ帰途へ。
 抱っこされていた犬は、地面に降ろされて、再び枯れ葉のお掃除。

 「あなた、ああいう音楽好きなのね」
 と、カミさん。
 「あと20年若ければ、カンさんに弟子入りしていたかな」
 「雨が降っていても、聞きにいってあげたわよ」

 歩道に長く伸びた犬の影。 

 正月休みの終わりの日は、静かに暮れていきました。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 01:39 | コメント(6)| トラックバック(0)

思い出の温泉

 冬といえば、温泉!
 夏の汗くさい身体を、温泉でさっぱり洗い流すというのも爽快だけど、寒さで凍えそうになった身体を、温かいお湯に沈め、身体中に心地よさが広がっていくのをじっくり味わうのも、また冬ならではの愉楽です。

 これまで巡ったいろいろな温泉のうち、記憶に残っているものをいくつか挙げてみると…
 まず、キャンプ場のなかの温泉ということでは、その野生味、アウトドアムードでは日本一といえるお風呂を持っている 「合掌の森中尾キャンプ場」 。

 岐阜県高山市の奥飛騨温泉郷にあるキャンプ場ですが、ここのお風呂は、ジャングルの中に突然湧き出た 「泉」 という風情です。

合唱の森風呂

 ここは、私がキャンピングカーに乗って一人で取材旅行をしていた頃に、一番最初に 「家族を連れてきたい」 と思った温泉です。

 木漏れ日の光が、お湯の表面にゆらゆれ揺れる昼。
 木々の間から、凄絶な月と星が顔を覗かせる夜。
 そして、恐竜伝説を残したネス湖のように、湯船全体が神秘的な霧に包まれる朝。

 もう 「お湯に浸かる」 ということが、すなわち 「冒険旅行」 だと思わせるようなお風呂です。

 オーナーの近藤さんは、キャンプ文化を語る上でも外すことのできない理論家。
 その理論家肌の近藤さんが、一度、困り果てたという表情で語ってくれたことがありました。

 「いやぁさあ、雑誌の取材だからというんで、お風呂の撮影を気楽に許したことがあったんだ。だけど様子を確かめに行ったら、ヌード写真の撮影だったの。
 まいったよ!
 すぐやめさせたけれど、今度は、何の撮影なのか、事前に確かめてみないと駄目だね」

 ふ~む。
 写す方は、「太古の池でくつろぐ原始人の女性」 とかいうテーマだったのだろうか。
 
 いずれにせよ、野趣に富んだ風情を持つお風呂としては、一押しです。

 ただ、野趣に富みすぎて、ここには洗い場がありません。
 元湯ということもあり、環境保護の意味もあって、石鹸が使えないのです。
(身体を洗うのはシャワーで…)。

 だから、せっかく連れてきたカミさんは、
 「身体が洗えない?」
 と絶句。
 彼女にとっては、そこだけが不満に残る温泉でした。

 代わりに、子供は大喜び。
 探検家になったつもりなのか、しきりに、木陰の奥に恐竜でも潜んでいないかという目つきで、周囲を眺め回しておりました。

 ただ、残念ながら、冬季は営業しておりません。
 予約開始は3月から。
 でも、思い出すたびに、行ってみたくなる温泉です。


 本格的な温泉の醍醐味を味わうのなら、なんといっても 「塩原グリーンビレッジ」 が最高です。
 源泉100%の掛け流し。
 その湧出量は、1時間で20トン。

塩原グリーンV風呂1

 しかも大浴場、野天風呂、サウナ、あわ風呂、家族風呂などがすべて揃って、さながら 「温泉センター」 の雰囲気です。
 泉質は 「ナトリウム・炭酸水素塩泉」 で肌はつるつる。
 冬は、サイトに戻っても、いつまでも身体中ぽかぽかです。

塩原GV貸切風呂

 那須の山々を遠望する野天風呂からの眺めも、素晴らしいの一語。
 ただ、真夏の野天は、ときどきアブとハチが飛んでくることもあります。
 でも、それも大自然の風物詩。じっとしていれば、危害を受けることはありません。
 それでも、ハチが苦手な私は、そういうときは内湯へ。

 ここは、カミさんと2人だけでよく行くのですが、成人した息子を伴っての2人旅、取材のついでの独り旅などで、よく利用しています。

 そして湯上がりに、焼き鳥でビールを一杯!
 …てなことが楽しめる食堂がお風呂の建物内にあります。

 食堂では、冷や奴、餃子、ウィンナー焼き…。そんなツマミをテーブルに並べて、レモンハイをよく飲みます。
 少しほろ酔い気分になると、マイ食器に豚汁を入れてもらい、サイトに戻って焼酎のお茶割りを飲んで仕上げです。

 温泉特集、思い出したら、またやります。


 合掌の森中尾キャンプ場 
 岐阜県高山市奥飛騨温泉郷中尾温泉湯元
 予約電話 03-3408-8723

 塩原グリーンビレッジ
 栃木県那須塩原市塩原1230
 電話 0287-32-2751
 関連記事 「塩原でまず1泊」
 
旅&キャンプ | 投稿者 町田編集長 00:31 | コメント(8)| トラックバック(0)

人は見た目が全て

 最近、街を歩いていると、身なりの貧しい感じの人が増えた。
 定職にも付いていないという雰囲気がある。
 そういう人が、いま問題になっている 「ワーキングプア」 の人たちなのか、それとも、単に衣服などに関心のない人たちなのか、私には分からない。

 多くの人々は、そういう傾向に気づいているのだろうか。
 また、気づいているとしたら、そのことに、どういう感想を抱いているのだろうか。
 私としては、少々気になるところだ。

 というのは、実はこの私が、おそらく、ヨソ様からみると 「身なりの貧しい人」 に見られるだろうと思っているからだ。

 私は、夏でも冬でも綿パンが好きなので、10本以上持っているけれど、その綿パンのほとんどが機能不全に陥っている。
 つまり、前側のファスナーが壊れてしまっているため、文具用のクリップを代わりに穴に刺して、それで上下動させながら履いている。
 もちろん裾は擦り切れてボロボロ。糸くずが常に見え隠れしている。

 着ているコートも惨めだ。
 買ったときは、「艶消しの黒」 が遠目にも鮮やかなビューティーなダウンコートだったが、今は色落ちして、コンクリートの壁のような色に染め上げられている。 (カミさんに言わせるとドブネズミ色) 。
 しかも、袖が擦り切れて、白い糸くずがいつも宙に舞っている。

ぼろコート
▲愛用のぼろコート

 この前、飲み仲間と 「貧乏競争」 に興じた。
 相手は、新しい財布が買えなくて、ファスナー部分がほぐれつつあるのに、そのまま使っているという。

 私は、負けじと定期入れを出した。
 もう20年近く使っている定期入れで、一応ポールスチュワートブランドなのだが、苛酷な使用状況のために、3箇所に分断されてしまい、すでに原型をとどめていない。
 そのちぎれた3箇所を、荷造り用のカートンテープで固定して、その状態で5~6年ほど使っている。

 それでもまったく気にならない。

 一応、冠婚葬祭ともなれば、それなりの格好をするし、はじめて取材する人と会うときなどは、相手に礼を失しない程度の格好は心掛けている。

 だが、それ以外の時は、最低限の 「清潔感」 が保たれていて、通りすがりの人が 「不快感」 を持たなければ、もうそれで十分だという気がするのだ。

 ところが、どうも世の中は、そういう風に動いていないようだ。
 『人は見た目が9割』 という本が売れているという。

 私は、まだ読んでいないので、そのタイトルの真意は分からない。
 聞くところによると、 「言語と非言語」 の関係を論じた真面目なコミュニケーション論らしいのだが、タイトルだけをチラリと眺めた人は、
 「厳しい競争社会を生き抜くためには、見た目を整えることが大事!」
 …てな格差社会を生き抜くための “サバイバル書” として受け取ったのではないかしら。

 いま巷では、「格差社会」 の是正を論じる主張と同じくらい、格差社会を生き抜くためのサバイバル術が奨励されている。

 資産運用の案内などがその最たるものだけど、「進学率の高い中高学校」 とか、「将来性ある企業へ就職しやすい学部」 の進学法などという親子2代のサバイバル術が真剣に追求されている。
 親も子も必死なのだ。
 「富者」 と 「貧者」 に2極化していくなかで、かつての 「中流層」 が、みな船の難破をかぎわけたネズミたちのように浮き足立ってきたのかもしれない。

 そういう、“浮き足立ち現象” の結果として、「見た目を整える」 という意識が、最近にわかに 「旧中流層」 に浸透してきたように感じられる。

 「子供を進学率の高い学校に行かせるには、親が、豊かな資産を抱えているように見える格好をしなければならない」
 「衣食住のレベルが落ちてきていることを悟られると、周りの信用をなくすから、ここは見栄を張らねばならない」
 …等々。

 『人は見た目が9割』
 『女性の品格』
 『親の品格』
 というようなタイトルの本が売れているのも、 ( その内容とは関係なく ) 、格差社会の不安に脅える日本人中流層の心理を反映しているように思える。

 私自身は、「品格」 というものは、本を読んだところで身に付くものではないと思っている。
 「礼儀作法」 の知識は身につくだろうが、それは 「品格」 とは言わない。
 
 「品格」 とは、もうなんというか、5年、10年単位で身に付いていくものなのだ。
 そして、失うときには1日で失うものだ。

 よく日常会話で、「あの人間には“華 (はな)” がある」 などという言い方をするときがあるけれど、「品格」 とは、その 「華」 に似ている。

 「華がある人」 と 「ない人」 との差は何なのか?
 言われている本人たちだって、分からない場合が多い。
 でも、周りの人には、まざまざとその差が見えるときがある。

 「人は見た目が9割」 という言葉があると同時に、日本には 「ボロは着てても心は錦 (にしき) 」 という言葉がある。
 その 「錦」 が、いま言った 「華」 に当たる。

 ま、そういう言葉で、私は、自分のパンツのファスナーがクリップであることを言い訳するつもりでもないんだけど…。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 00:30 | コメント(6)| トラックバック(0)

竜童と燿子の世界

 松田聖子と中森明菜は、ともに1980年代の日本の音楽シーンをリードした2大女性シンガーだ。
 その2人の歌姫がつくり出した 「世界」 を、2人の個性、作詞家や作曲家の思惑、リスナーの評価などを総合しながら面白く語った本が、『松田聖子と中森明菜』 (中川右介・著 幻冬舎新書)。

聖子と明菜本

 この時代に、2人の歌に接したリスナーは、2人の歌をともに楽しみながら、どちらかに肩入れした。

 「聖子をビートルズとすれば、明菜はストーンズだよね」
 という松本隆の評が、本の冒頭に掲げられている。

 …ちょっと違うかな、と私などは思うのだけれど、昔から洋楽を好んでいた人たちのなかには、そういう解釈にうなづく人も多いのだろう。
 私は間違いなく “明菜派”であったけれど、彼女をストーンズのように聞いたことはなかった。

 ところで、ここで書きたいのは、その聖子と明菜の話ではない。
 …というか、そこに触れるまで、まだこの本を読み進んでいない。

 それよりも、山口百恵に歌を提供した、宇崎竜童と阿木燿子の話をしたい。
 なぜなら、この本は、聖子と明菜が活躍する場を切り開いた山口百恵の話で始まるからだ。

 「あなたが望むなら、私、なにされてもいいわ」 (青い果実)
 「あなたに、女の子の一番大切なものをあげるわ」 (ひと夏の経験)

 こういう、オジサンたちをニンマリさせるような、男性の性的幻想をくすぐる“危ない少女”から脱皮して、百恵が、「男と対等に張り合える自立した女性」 であることを主張したのは、宇崎竜童と阿木燿子コンビによる 『横須賀ストーリー』 からだ。

 続く、『イミテーション・ゴールド』 では、彼女は18歳という年齢にもかかわらず、立派に成熟した女の境地を唄う。

百恵イミテーションジャケ

 歌われている世界は、「情事の後」。
 「シャワーの後の髪のしずくを、乾いたタオルでふき取りながら…」
 という歌詞から分かるように、歌に出てくるヒロインは、情事のほてりから身体を冷ますように、快楽を与えてくれた今の彼と、去年までの恋人を、心のなかで比較する。

 「声が違う、 年が違う、 夢が違う、 ほくろが違う、 くせが違う、 汗が違う、 愛が違う、 きき腕が違う」

 おお! 
 私は、この歌を聞いて、ぶっとんでしまったよ。

 それまでの、
 「あなたが捜してくれるの待つわ、昔の名前で出ていますから…」
 ふうの、男に従属する女たちとは決別した、すごい女が歌の世界の登場したものだと思った。
  “快楽を与えてやった” と思い込んでいる男の身勝手な独りよがりを無視するように、この女は、男を無慈悲に、冷酷に分析している。

 女性たちは、ようやく 「自分たちの心境をストレートに唄った歌」 が登場したと思っただろうし、私たち男性は、「愛を得るために男に媚びる女性」 など、もうこの世に存在しない時代なったことを、まざまざと思い知った。

 この歌をつくったコンビが、宇崎竜童と阿木燿子夫妻であることを知ったとき、やぁ、なんとすごい才能に恵まれたカップルなんだと、びっくらたまげた。

 同コンビは、すでにダウンタウン・ブギウギバンドの 『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』 で、その才能の片鱗を見せていた。

港のヨーコジャケ

 それまでダウンタウン・ブギウギバンドという存在は、私にとってはキャロルの亜流のような、ただの突っ張りロックンロールバンドにしか思えなかった。

 しかし、『港のヨーコ』 には、キャロルのつくり出す曲とはまた違った、計算されたドラマの世界があった。
 ギターリフの繰り返しの上に歌詞が乗っただけの、今でいうラップに近い構成で、なじみやすいメロディも、感動を誘うフレーズも、その曲には出てこない。

 にもかかわらず、『港のヨーコ』 は、極上のハードボイルド小説を読むようなスリリングな展開を見せる。
 
 ヨーコという女性を探し求める 「私」 という存在が、その歌の主役なのだが、歌の世界には、いっさいその 「私」 が出てこない。
 すべて、「私」 が立ち寄った酒場のマスターやママのセリフだけで、ストーリーが進行していく。

 「ちょっと前なら覚えちゃいるが、1年前だとチト分からねぇな。…悪いな、ほかを当たってくれよ」

 次々と門前払いを食らわされながらも、「私」 は、次第にヨーコの居場所の核心に近づいていく。

 そして、最後に寄った店のマスターのセリフ。
 「たった今まで座っていたよ。…客がどこかを触ったって飛び出して行っちまったけれど、ウブなネンネじゃあるまいし、どうにかしているよ、あの子」

 探偵小説でいうならば、“犯人逮捕” にあと一歩!

 だけど、この曲は、そこでストンと終わる。
 その後の展開は、リスナーの想像にまかされてしまう。
 それがまた、曲の余韻を生む。

 こんなドラマチックな構成の歌を、それまで聞いたことがなかった。
 惚れた女を探し求める男の執念。
 それに気づかず、自分の過去から逃げるように刹那に生きる女の哀しさ。

 私は、これを 「ストーカーの歌」 だと思っているけれど、ヨーコという女性の傷つきやすい性格と切ない境遇、彼女を助けようとする男の純情が、危険な匂いに満ちたベース近くの飲屋街を舞台に、見事に浮き彫りにされていた。

 こんな歌詞をつくり出す阿木燿子さんという人は、どういう人なのだろう。
 無類に好奇心が湧いた。

 女の自立を訴える、バリバリのフェミニストなのだろうか?
 危険な飲み屋街も平気で渡り歩く、コワモテの女丈夫なのだろうか?

 でも、マスコミに登場する阿木さんは、いつも柔和な微笑を浮かべる上品な一人の主婦でしかない。
 特別に才気走ったことを言うでもなく、鋭い社会時評を語る人でもない。
 歌詞づくりの妙味を得意げに披露することもなく、有名人としての驕りも見せない。
 旦那の竜童氏といるときは、常に旦那を立て、仲むつまじいところを見せる。

 私は、この夫婦が大好きだ。

宇崎&阿木

 赤坂の一つ木通りに竜童・燿子夫妻が経営する 「ブギウギハウス」 がオープンしたとき、ミーハーな私はさっそく通いつめた。
 当時の私にとっては、少し料金の高い店だったが、ボトルを一本入れたこともある。

 経営者だからといって、オーナーが店に顔を出すとは限らない。
 しかし、ある日店のドアを開けたとき、中央の大テーブルに阿木さんが座っているのを見つけた。
 座って、お客に差し出すペーパーナフキンを折っていた。

 私は、どぎまぎしながら、椅子を一個隔てた隣の席を取った。
話しかけるチャンスとは思いつつ、言葉が浮かばない。

  ようやく出た言葉は、
 「紙ナフキンも折るのですか?」
 というもの。
 バカ! 見りゃ分かるじゃねぇか。

 とんちんかんな質問に、うるさがる様子もなく、
 「はい」
 と一言だけ、彼女は答えてくれた。
 口元には、つつましやかな、柔和な笑い浮かんでいた。

 それだけで十分だった。
 
  日本の音楽シーンを革命的に変貌させた、当代随一の 「才能」 が隣りに座っている。
 その興奮に満たされて、私は、いつもの乾きモノのツマミのほかに、発奮して店のオリジナル料理を何品か追加した。

 竜童・燿子のコンビのおかげで、私は日本の歌謡曲のおいしい部分をたっぷり味わうことができたと思っている。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:39 | コメント(0)| トラックバック(0)

伝説の麻雀師

 新年の2日深夜、フジテレビの 「THEわれめDEポン」 を観ていた。
 加賀まりこ、堺正章、はにわ、ワッキーというメンバー。
 彼らのパイさばきを観ているうちに、無性にマージャンがしたくなった。

 といって相手がいるわけでもなし。
 あきらめてブログを書くことにした。

 最近はとんとマージャンを打っていない。
 最後に遊んだのが、2ヶ月ほど前。それですら4~5年ぶりという感じ。

マージャン牌 

 いちばん遊んだのは学生時代。
 当時、今ほど娯楽がない時代だったので、仲間同士の遊びといえば、友人のアパートに転がり込んで、ギターなど弾きながら酒を飲むか、マージャンだった。
 
 その頃、いつもマージャンを打っていたメンバーのなかで、忘れられない人物が一人いる。

 名前を 「ジョージ」 という。
 本名である。
 漢字で書くと 「丈二」 。

 彼だけが、学生ではなかった。
 私の小学校の時の友人で、中学に行ってからは、その学校で 「番を張っていた」 という人間だ。
 
 もちろん、彼の通っていた中学というのは、私の中学とは違っていたので、番長時代の彼の姿を見たことはない。
 しかし、聞くところによると、彼は他校の不良たちから、自分の中学の生徒たちを守り、相手がどんなに多くとも、必ず自分ひとりで立ち向かっていったという。

 「あの頃のジョージさん、立派だったですよ」
 小学校時代の別の友人から、そんな話を聞いたこともある。
 
 中学を卒業したジョージは、進学することもなく、そのまま旋盤工への道を進んだ。 

 ある日、彼がひょっこり、私のいる学校のキャンパスを訪ねてきた。
 
 「おお、町田。ヒマそうだな」
 いきなり声をかけられてビックリした。

 「ジョージ、今日は仕事はないの?」
 「今日は休みなんだ。前の仕事は辞めて、今ドカチンなんだよ。だからいつも仕事があるとは限らねぇんだ」
 「で、何の用?」
 「マージャンやらねぇか」

 私も、そのときメンバーを募ろうとしていたときだから、異存はなかった。
 しばらくベンチに座っているだけで、いつものメンバーがすぐに集まる。

 「レートはどうする?」
 一応 “社会人” であるジョージを交え、雀荘に入ってから、私たちは多少緊張した。
 「俺たちが普段やっているのは、3か5なんだけど…」
 ひとりの学生が、おずおずとジョージに言う。

 「そりゃ今どきの高校生のレートでしょ。学生さんだったら都心じゃピンですよ」
 この一言で、すでに勝負は決まったようなものだった。
 いわゆる “呑まれてしまう” というヤツ。
 日頃経験しない高レートというだけで、普段のマージャンはできなくなる。

 マージャンは技量や経験以上に、パフォーマンスの差で勝負が決まることが多い。
 その点ジョージは、キャンパスの仲間同士しか知らない学生たちよりは、多少世間を知っていた。

 まずリーパイしない。
 ハイパイ後、しばらくは手の内を整理している学生たちをもどかしそうに眺めながら、彼は牌を伏せたまま、憂鬱な顔で待っている。
 
 やがて、それに気づいた学生たちがリーパイしないジョージを見て恐怖心を抱く。
 その段階でジョージはもう何馬身か先を走っているわけだ。

 リーチ前の演出が、また華麗だ。
 「見てろよ、次の牌でテンパイだからな。絶対来るぞォ」
そして思いっきり思わせぶりな動作でツモる。
 「来た! リーチ」

 すでにテンパイ状態のまま、テンパイ牌を引いたという “演技” をしただけかもしれない。

 しかし、そんなことが度重なると、対戦相手から見れば神憑りの勢いがあるように思えてくる。
 「一発ツモォ!」
 いざツモったとなると、上手投げのピッチャーが全力で振りかぶったようなモーションで、卓にツモ牌が叩きつけられる。
 そのとき、腰は競馬のジョッキーのように、椅子から浮き上がっている。

 「引きの強さじゃ、誰もオレには勝てないって。6千オール!」
 ニコリともしない傲然とした顔つきで、くわえ煙草のジョージが吠える。
 そして、グローブのような大きな手が卓の上に開かれ、有無をいわさずみんなの点棒が要求される。

 パフォーマンスは野蛮だが、相手のテンパイを推理するときなどは、ジョージはいちおう理論的な口舌を披露した。
 「3順目の7筒の切れからして、5-8筒、6-9筒は薄いよな。8筒が枯れているから9筒はワンチャンス…」

 「ピンフってどういうのだっけ?」
 というレベルの学生に対しては、この程度で立派な “雀士” だった。

 ジョージの打ち方は、未熟な学生たちからは嫌われたが、腕に自信を持つグループの興味をそそったらしく、やがて雀荘で知り合った他の学生グループたちとも卓を囲むようになった。

 2~3ヵ月経った頃は、私ですら口を利いたこともないヨソのクラスのメンバーと、ジョージは旧知の知り合いといった感じでマージャンを打つようになっていた。
 「マージャン学生選手権」 で優勝するようなメンツに混じって打っていたこともあったが、負けたという噂を聞いていないので、そこそこの戦いを展開していたのだと思う。

 こんなことがあった。

 私たちが “たまり” にしていた雀荘で、たまたま隣りが社会人の卓だったときがある。
 地元の商店街のオヤジたちという風情だった。
 ただ、普通の商売より少しだけ金づかいの荒い仕事をやっている連中かもしれない。どことなく目に剣があり、立ち居振る舞いがヤクザっぽかった。

 学生のマージャンは、周囲に遠慮がない。
 人がいようがいまいが、些細なことで罵声や高笑が渦巻く。

 その日も騒がしいマージャンだった。
 突然、
 「ここは幼稚園かよ、誰か先生を呼んできてくれよ」
 と、オヤジたちの卓から、挑発的な言葉が飛んできた。

 振り向くと、4人の男が牌を積む手を休めて、一斉にこちらをにらんでいる。

 私たちの牌を積む手も止まった。
 しかし、どう対応して良いのか、こういう場に不慣れな学生たちは困惑するばかりだ。
 ケンカを受けて立つほど度胸はないが、かといって素直にワビを入れる気もさらさらない。

 謝るタイミングを失って、無言のにらみ合いに入った。

 そのとき、退屈そうに牌を弄んでいたジョージが、にわかに鎌首…まさに、蛇が鎌首をもたげたという感じで首を回し、
 「何ですか」
 と、一言だけ応じた。

 この低く抑揚のない
 「何ですか」
 は、このとき千万の怒号より凄みが利いていた。
 おとなしい言葉づかいながら、底に無数の刃 (やいば) を隠した持った響きだったのだ。

 それをいうジョージの表情には、怒りも怯えも浮かんでいなかった。
 とてつもなく無表情で、人間の顔というより 「物」 に近かった。それこそ顔自体が一つの 「凶器」 になっていた。
 
 オヤジたちの視線がバラバラと宙をさまよいだし、一呼吸置いて、どちらの卓でも無言のうちにゲームが再開された。

 私は、それから30年以上経った今も、そのときのジョージの表情を忘れことができない。
 勝負に挑む男たちを描いた映画やドラマもさんざん見たが、鬼気迫るという意味で、あれほどの 「勝負師」 の表情を作れる役者を見たことがない。

 彼の晩年は、淋しかった。
 しかし、そのときのジョージの顔は、私の記憶の中に鮮明に生き続けている。
 そして、それを思い出すたびに、なんだか、マージャンというゲームが、とても神聖なゲームのように思えることがあるのだ。

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 04:12 | コメント(0)| トラックバック(0)

テレビ三昧の日々

 大晦日から元旦にかけて、テレビ三昧。
 こんなにテレビばかり見ていた日々は、近年珍しい。
 その間ちょこちょこ酒飲んでいて、奄美の黒糖焼酎 「れんと」 を4本空けてしまった。

 2日間とも酩酊状態。
 「社会復帰」 できるのだろうか?
 ちょっと心配。

 大晦日は、NHKの 「紅白歌合戦」 というものを、久しぶりにスルーでしっかり見た。
 ずいぶん変っている。
 この先、どうなっていくんだろう。
 いい意味でも、そうじゃない意味でも、昔の 「紅白」 とはずいぶん変ってきている。
 どうでもいいんだけれど、変った部分を見る限り、変らないものも分かった。
 
 それは 「歌の力」 というやつ。
 ステージにおける照明の変化とか、バックにダンサーなどが出てくる振り付けの変化などで、歌そのものに 「変化」 を与えるという演出が多いなか、歌だけで勝負できる人たちがいたということを見ただけで、なんか、すごく感心した。

 で、そう感じた人たちというのは、氷川きよしさんと、天童よしみさん。
 この人たちというのは、ブレス (息継ぎ) とか、転調などだけで、ステージの空気を変えてしまう。

 後ろで、踊っている人たちとか、スポットライトの当て方なんかとは関係なく、自分の歌だけで、「世界」 を変える。
 照明もバックバンドもいないような荒野でも、この人たちは 「歌の神様」 が降りてくる空間をつくれる人なんだなぁ…と、妙に感心してしまった。

 元旦の夜は、テレビ東京の 「たけしの新・世界七不思議」 を食い入るように見入ってしまった。
 この時間帯、NHKでは 「ピラミッドの秘密」 とかやっていて、その後 「地球温暖化」 の分析みたいなのをやっていて、テレビ朝日では 「相棒」 もやっていて、ほんと、どれを見たらいいのか、真剣に悩んでしまった。

 で、CMが入るごとにザッピングしてしまったけれど、最終的には 「新・世界の七不思議」 を中心に見てしまった。
 おもしろえぇんだ、やっぱ!
 マヤ文明の 「新事実」 とかいうのをやっていた。

 マヤ文明では、この地球の終焉というのを予言しているのだそうだ。
 なんでも、マヤの暦では、2012年に 「地球の崩壊」 が訪れるのだという。
 で、驚いたのは 「2012年の人類の終焉」 を予告した新刊本が、すでにいっぱい出ているのだとか。
 昔、ノスタルダムスの予言というのが流行ったけれど、人間というのは 「ハルマゲドン」 の話が好きらしい。

 2012年といったら、あと5年後じゃない!
 大変なことになってしまった。
 糖尿病だけど、今のうちにうまいものを食っておいた方が良さそうだ。

 0時過ぎからBSでは、大晦日に続き、リスナーの選んだロックベスト100みたいな特集をやっていた。
 60年代、70年代の貴重な映像がたくさん出てくる。

 マービン・ゲイの 「ホワッツ・ゴーイング・オン」 とか、ストーンズの 「サティスファクション」 など、涙モノの映像が立て続けに出てきて、もう一人で興奮しっぱなしだったけれど、一番感激したのはレイ・チャールズの 「ホワッド・アイ・セイ」 。
 59年の映像で、もちろんモノクロ。鮮明さに欠けるのだけれど、R&Bの原点ともいえる 「ブレイク」 と 「コール&レスポンス」 の格好のサンプルを見た思いだった。
 カッコいいなぁ、レイ・チャールズ!

レイ・チャールズ

 で、今日は飲まないつもりでいたけれど、それを見ていて、またガンガン酒を飲み始めた。
 で、あいかわらず今も酔っ払ってます。
 大切な1年の始まりが、またもやグダグダで始まっています。

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 03:28 | コメント(2)| トラックバック(0)

わぁお正月!

 わぁ、お正月!
 …っていうのは、二つの意味。
 年が明けて、さぁ、頑張るぞぉ!
 …という意味と、「ひぇ、もうお正月。時間がないぜぇ!」
 という意味。

 年が明けると、もう待ったなしなんですよ、私の仕事は。
 だから、「お正月」 という言葉には、どちらかというとプレッシャーを感じる響きがこもっているんですね、ここ15~16年。

 でも、元旦はしっかり休みます。
 とりあえず、犬の散歩でもいくか。
 
 とにかく、皆さま、明けましておめでとうございます!

yama1

ヨタ話 | 投稿者 町田編集長 11:32 | コメント(4)| トラックバック(0)
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