2011年01月30日
ノスタルジー
ノスタルジーは、「郷愁」 と訳される。
故郷の風景などを思い出したとき、鼻腔をツゥーンとかすめていく、あの “懐かしい空気” のようなものを指す言葉だ。
故郷の風景でなくても、その時代によく聞いていた音楽。
あるいは、よく食べていた食べ物。
そういうものに接したとき、私たちは、センチな気分で胸がいっぱいになったり、不思議な高揚感に満たされたりする。
そういった意味で、すべてのノスタルジーは 「対象」 を伴っている。
懐かしい 「風景」
懐かしい 「音楽」
懐かしい 「味」
ノスタルジーは、常に “懐かしさ” を呼び出すための 「対象」 とセットになっている。
この 「対象」 という言葉を、 「記号」 と表現し直してもいい。
『ALWAYS 三丁目の夕日』 という映画は、団塊世代の人々が感じる 「懐かしさ」 を、すべて 「記号」 に置き換えた映画だった。

映画の舞台となったのは、昭和33年の東京。
そこに登場する 「完成前の東京タワー」 や 「オート3輪」 、あるいは 「お下げ髪の少女」 などという映像は、すべて昭和33年の “記号” といってよかった。
これらの “記号” は、釣り針が魚の口を捕らえたかのように、半ば強引に、人の記憶の底に眠っていた 「当時の気分」 を浮上させる。
不意に耳を襲ったナツメロが、一瞬にして、人を過去の世界に連れ戻すように。
深海から突然釣り上げられた記憶は、鮮度がいい。
それは、まだ汚れを知らない記憶であり、可能性を保持したままの記憶であり、生きることのほろ苦さを知らない記憶である。
だから、心地良い。
それがノスタルジーの正体だ。
しかし、この世には、もうひとつ 「記号」 を持たないノスタルジーというものが存在する。
懐かしいんだけど、その “懐かしさ” の理由が分からないというやつ。
どこかで見たような……、だけど記憶がない。
記憶がないけど、何か懐かしい……
私たちは、ときどきそういう気分に襲われることがある。
デジャブ (既視覚) というのも、その一つかもしれない。
しかし、デジャブでなくても、私たちは、はじめて接した風景や、絵画、音、匂いのなかに、
「遠い昔、どこかでこれと出会っている」
という不思議な感覚を味わうことがある。
たいていの 「懐かしさ」 には、それを 「懐かしい」 と感じる根拠があるはずだが、その手の 「懐かしさ」 には、根拠……すなわち 「対象」 がない。
対象のないノスタルジーには、どこか 「不安」 の影が忍び寄る。
「懐かしい」 と感じながら、 「懐かしさ」 を感じているはずの “自己” をその場に見出すことができないからだ。
「その場にいなかったはずの自分が、なぜその光景に懐かしさを感じるのか?」
あるいは、
「もし、自分が懐かしいと感じるのだとしたら、そのとき自分はどこに立っていたのか?」
ノスタルジーが、やわなセンチメンタリズムを離れて、虚無の深淵を見せるのはこのときだ。
すべての人間は、みな自分が原初の光景として見た 「荒野」 を抱えている。
ノスタルジーとは、実は、この原初の荒野のことをいう。
そこには誰もいない。
何もない。
だから、そこがどこなのか、そこには、どんな風が吹いているのか。
それは、誰も言葉にできない。
多くの学者や宗教家が、なんとかその 「荒野」 に解明のメスを入れようとした。
生物学者たちは、この人間が共通して持っている 「荒野の原像」 を 「DNAに書きこまれた “生命情報” 」 などと説明するかもしれない。
精神分析学者たちがいう 「集合無意識」 などというのも、その一つかもしれない。
東洋の説明体系においては、この 「対象を持たないノスタルジー」 のことを 「前世の記憶」 などと説明することがある。
だけど、人間が抱いている 「原初の荒野」 は、科学や、哲学や、宗教では解明することができない。
私は、この 「荒野」 の感覚こそが 「文学」 の原点だと思っている。
それは、 「絵画」 の原点でもあり、 「音楽」 の原点でもある。

▲ ハンマースホイの描いた 『居間に射す光』
彼の絵は、まさに 「対象とつながらないノスタルジー」 を表現している。
この絵が、誰にとっても懐かしく感じられるとしたら、その温かそうな陽射しを、誰もがどこかで経験しているからだ。
しかし、その経験がいつ、どこのものであったかは、誰も特定できない。
特定しようとすればするほど、逆に自分と、自分の記憶が乖離していく。
だからハンマースホイの絵からは、懐かしさと同時にかすかな 「不安」 と 「寂寥(せきりょう) 」 が忍び寄ってくる。
故郷の風景などを思い出したとき、鼻腔をツゥーンとかすめていく、あの “懐かしい空気” のようなものを指す言葉だ。
故郷の風景でなくても、その時代によく聞いていた音楽。
あるいは、よく食べていた食べ物。
そういうものに接したとき、私たちは、センチな気分で胸がいっぱいになったり、不思議な高揚感に満たされたりする。
そういった意味で、すべてのノスタルジーは 「対象」 を伴っている。
懐かしい 「風景」
懐かしい 「音楽」
懐かしい 「味」
ノスタルジーは、常に “懐かしさ” を呼び出すための 「対象」 とセットになっている。
この 「対象」 という言葉を、 「記号」 と表現し直してもいい。
『ALWAYS 三丁目の夕日』 という映画は、団塊世代の人々が感じる 「懐かしさ」 を、すべて 「記号」 に置き換えた映画だった。

映画の舞台となったのは、昭和33年の東京。
そこに登場する 「完成前の東京タワー」 や 「オート3輪」 、あるいは 「お下げ髪の少女」 などという映像は、すべて昭和33年の “記号” といってよかった。
これらの “記号” は、釣り針が魚の口を捕らえたかのように、半ば強引に、人の記憶の底に眠っていた 「当時の気分」 を浮上させる。
不意に耳を襲ったナツメロが、一瞬にして、人を過去の世界に連れ戻すように。
深海から突然釣り上げられた記憶は、鮮度がいい。
それは、まだ汚れを知らない記憶であり、可能性を保持したままの記憶であり、生きることのほろ苦さを知らない記憶である。
だから、心地良い。
それがノスタルジーの正体だ。
しかし、この世には、もうひとつ 「記号」 を持たないノスタルジーというものが存在する。
懐かしいんだけど、その “懐かしさ” の理由が分からないというやつ。
どこかで見たような……、だけど記憶がない。
記憶がないけど、何か懐かしい……
私たちは、ときどきそういう気分に襲われることがある。
デジャブ (既視覚) というのも、その一つかもしれない。
しかし、デジャブでなくても、私たちは、はじめて接した風景や、絵画、音、匂いのなかに、
「遠い昔、どこかでこれと出会っている」
という不思議な感覚を味わうことがある。
たいていの 「懐かしさ」 には、それを 「懐かしい」 と感じる根拠があるはずだが、その手の 「懐かしさ」 には、根拠……すなわち 「対象」 がない。
対象のないノスタルジーには、どこか 「不安」 の影が忍び寄る。
「懐かしい」 と感じながら、 「懐かしさ」 を感じているはずの “自己” をその場に見出すことができないからだ。
「その場にいなかったはずの自分が、なぜその光景に懐かしさを感じるのか?」
あるいは、
「もし、自分が懐かしいと感じるのだとしたら、そのとき自分はどこに立っていたのか?」
ノスタルジーが、やわなセンチメンタリズムを離れて、虚無の深淵を見せるのはこのときだ。
すべての人間は、みな自分が原初の光景として見た 「荒野」 を抱えている。
ノスタルジーとは、実は、この原初の荒野のことをいう。
そこには誰もいない。
何もない。
だから、そこがどこなのか、そこには、どんな風が吹いているのか。
それは、誰も言葉にできない。
多くの学者や宗教家が、なんとかその 「荒野」 に解明のメスを入れようとした。
生物学者たちは、この人間が共通して持っている 「荒野の原像」 を 「DNAに書きこまれた “生命情報” 」 などと説明するかもしれない。
精神分析学者たちがいう 「集合無意識」 などというのも、その一つかもしれない。
東洋の説明体系においては、この 「対象を持たないノスタルジー」 のことを 「前世の記憶」 などと説明することがある。
だけど、人間が抱いている 「原初の荒野」 は、科学や、哲学や、宗教では解明することができない。
私は、この 「荒野」 の感覚こそが 「文学」 の原点だと思っている。
それは、 「絵画」 の原点でもあり、 「音楽」 の原点でもある。

▲ ハンマースホイの描いた 『居間に射す光』
彼の絵は、まさに 「対象とつながらないノスタルジー」 を表現している。
この絵が、誰にとっても懐かしく感じられるとしたら、その温かそうな陽射しを、誰もがどこかで経験しているからだ。
しかし、その経験がいつ、どこのものであったかは、誰も特定できない。
特定しようとすればするほど、逆に自分と、自分の記憶が乖離していく。
だからハンマースホイの絵からは、懐かしさと同時にかすかな 「不安」 と 「寂寥(せきりょう) 」 が忍び寄ってくる。