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キリコの世界

 われわれは 「イタリア」 という言葉から、人間性を謳歌する享楽的で、現世的な文化風土を想像しがちである。

 しかし、そのような 「明るく陽気な」 風土が広がるイタリアというのは、ローマ以南、ナポリやシチリアのような地中海世界に限られたものだ。

 トリノのような北イタリアには、それとは違ったイタリアが存在する。
 春や夏のイタリアではなく、秋と冬のイタリアがある。

 シュールレアリズムの祖といわれるジョルジョ・デ・キリコは、そのようなイタリアを描いた画家だ。

キリコ002

 かーんと晴れ渡った、限りなく透明な空の下に横たわる、人のいない街。
 あまりにも晴れ渡った空が、遠近感をなくして、 「空」 に思えないように、キリコの描く空は、すでに 「空」 とはいえない別の空間になっている。

 午後の一瞬を、 「永劫の時」 に凝固させたまま動かない太陽。
 その太陽が浮かんだ空もまた、秋の日差しを凍結させたまま、流れの止まった 「時」 の中に眠っている。

キリコ_11

 地上に立たされた人影は、人なのか彫刻なのか区別もつかず、永劫の時間に閉じこめられた風景に 「不安」 の彩 (いろどり) を添える役割しか持たされていない。
 そこには、人間の住むことを拒むような、どこか超越的な気配に染められた世界が描かれている。

キリコ003

 キリコは、自らの絵画を 「形而上学絵画」 と呼んだ。
 この世を超越した思念や感性に満たされた 「絵」 という意味だ。

 つまりは 「この世ではない世界」 を描いた絵であり、現実としては見ることのできない風景を捉えた絵ということである。

 かといって、それはダリやルネ・マグリットの描いたシュールレアリズム絵画のように、「この世に存在しないもの」 が描き込まれた絵ではない。
 イタリアには普遍的に存在するファサード、広場、噴水、彫刻などが描かれているに過ぎない。

 この世にないものなど一つも描かれていないのに、なぜ彼の絵からは 「非現実感」 が伝わってくるのか。
 
 それを考えることは、われわれの住む 「世界」 ……具体的には、「近代」 という時代区分の中で生きている私たちの 「精神風景」 がどんなものであるのかを考えることにつながってくる。

遠近法的な世界観の誕生

 キリコの絵に漂う 「非現実感」 というのは、作図的な分析をしてしまうと、キリコが近代絵画の手法を意図的に “無視した” ところから生まれている。
 具体的にいうと、 「消失点作図法」 という作画方法を、 「取り入れながら、壊した」 ところにある。

 「消失点作図法」 というのは、一般的に 「遠近法」 といわれる絵画技法で、画面の中心に、すべての物を吸い込んでしまう 「消失点」 を設け、そこから放射状に逆放射される “架空” の放射線に沿って、建物、人物などを配置していく描き方をいう。

遠近法002

 遠景の建物は、それらの放射線に沿って小さく描かれ、手前の建物は大きく描かれることによって、見かけ上の “奥行き” を演出するというのが、近代的遠近法の考え方だ。

 この遠近法は、ルネッサンス絵画の中で生まれ、その後、近代絵画に至る過程のうちに、より精緻に理論化され、今では現代美術のリアリズムを支える根幹となる作図法として定着したが、その成立には 「近代的世界観」 が大きく関係してくる。

遠近法001

 現在のわれわれは、これらの絵を観たときに、人間の眼の動きに忠実に 「世界」 を捉えているように感じる。
 しかし、それは人間の自然な眼の動きではなく、実は、数学的に計算された人工的な “視線” でしかない。

 それは江戸時代の浮世絵とか、ルネッサンス初期の宗教画のような、近代絵画が誕生する前のフラットな絵画と比較してみると、よく分かる。

浮世絵01

 近代以前の人々が描いた 「空間」 は、近代以降の人々と同じ 「空間」 を見ていたはずなのに、奥行きを失った、ベタっとした平面で描かれている。

ジョット宗教画01

 これを、 「昔の絵描きは幼稚で、現代の絵描きは上手くなった」
 と、捉えてはいけない。
 近代以前の絵描きたちは、それでも十分に、この世の 「現実」 を描いたと信じていたのだ。

 近代絵画は、 「消失点作図法」 の完成によって、それまでの絵画にはなかった 「立体感のある現実」 を実現させたわけだが、それが、人間に何をもたらしたかというと、 「世界」 には “奥行きがある” という啓示を授けたといってもいい。

 近代に生を受けた人間たちは、 “奥行き” という概念を持つことによって、近いモノと遠いモノの距離を 「計測可能なもの」 として眺める視点を確保したことになる。
 それは合理主義に則った 「自然科学的な目」 を持つことを意味する。

 たかが絵画が、人間の意識構造を変えるなどということは、現代人には信じられないことだろう。
 しかし、写真や映画のような映像文化が誕生しない前の時代を想像してみると、絵画が人間の精神に多大な影響を及ぼしていたことが見えてくる。

 ヨーロッパ中世から近世にかけての時代。
 遠くから旅を続け、各地に散らばる町の教会を訪れた巡礼たちは、そこに掲げられる宗教画を眺め、人智を超えた神の世界から届くメッセージを受け止めたはずだ。

聖母像01

 それらを眺めた彼らは、キリストの受難に涙し、背徳にまみれた町が劫火に包まれることに恐怖し、赤子を抱きかかえるマリア像に癒されたことだろう。
 写真も映画も知らない時代の人にとって、絵画は圧倒的な迫真性を持つ唯一無二のビジュアル文化だったのだ。

ジョット002

 その時代、絵画の与える “感動” は現代人には及びもつかないものがあり、信仰心の厚い人たちは、宗教画の前で、感涙にむせび、ひれ伏していたはずなのだ。

聖母像02

 近代以前の人々は、絵画に “奥行き” を求める必要がなかった。
 そこに描かれた 「世界」 がストレートなメッセージだったからだ。
 彼らの 「世界観」 は、見る物、触れる物すべてを、神のメッセージとして捉えるところから生まれてきたから、近代絵画から生まれた 「遠近法的空間」 などを知ったとしても、彼らは何の興味を示さなかっただろう。

 しかし、近代社会が成立するようになると、宗教的世界観に代わり、自然科学的な世界観が浮上してくることになる。
 自然界は、数学的に、物理的に計測可能なものになり、その数学的な計算に従って、絵画空間を再構築しようという動きが出てくる。
 「消失点作図法」 という遠近法は、そのような “近代の眼差し” から生まれたものだ。

 あるいは、こうも言える。
 絵画で実現された 「遠近法的な視覚」 が“近代の眼差し” を生んだ、とも。

 両者は、童話の 『ちびくろサンボ』 に出てくるトラのように、お互いの尻尾をくわえて、木の周りをグルグル回っているうちに、バターに変容したのだ。 

遠近法001

 そのような、 “奥行き” のある絵画を眺めることによって、人は、それを見ている揺るぎない 「自己」 と、そして自然科学的に計測可能な 「対象物」 の分離を、次第に意識するようになっていく。

 世界を眺める 「自己」 。
 眺められる 「世界」 。

 この二つが明瞭に分離できるという思想こそ、近代合理主義の源になっている。
 どのように自然界が混沌としたものに見えようとも、それを眺めている 「自分」 だけは揺るがない。

 「近代的個人」 というのは、そこから生まれた。

 近代哲学の祖デカルトの 「コギト」 も、実はそのような近代的感受性の中から育 (はぐく) まれたものだといえよう。

自己が不安にさらされる

 ジョルジョ・デ・キリコは、その近代に確立された 「揺るぎない自分」 というものを、再び解体するような絵を描いた人だ。

 キリコの絵を前にすると、理由のはっきりしない不安、けだるいメランコリー (憂鬱) 、得体の知れない恐怖が、足音を忍ばせながら、そぉっと近づいてくるような気配を感じる。

 彼の絵は、 「近代的な個人」 というものが、実は仮構の存在であり、その寄る辺 (よるべ) となる合理主義的な思考というものが、安定感を欠いた危ういものであることを教えてくれる。

 それを作図的に分析すると、近代的遠近法を狂わせる手法が使われていることに、まず注目しなければならない。

 下の絵は、有名な 「街の神秘と憂鬱」 という絵だが、左側の白い建物と、右側の黒い建物の輪郭をなぞる線が、それぞれ別の消失点に向かっていることが分かるだろう。
 さらに、黒い建物の隅にうずくまる馬車は、両側の建物とはまた別の方向に向かう輪郭線を示しており、この絵の中に、無数の 「消失点」 が存在することを伝えてくる。

街の神秘と憂鬱01
 ▲ 「街の神秘と憂鬱」

 キリコは、この絵で、近代絵画の遠近法を忠実に取り入れながら、同時にそれを壊している。

 つまり、ここには、「世界」 を見る確固たる 「自分」 は存在しない。
 「自分の眼」 は無数に増えて散らばり、 「統一された自己」 を裏切り続ける。
 キリコの絵に漂う 「非現実感」 というのは、 「現実を捉えきれなくなった自己」 へのおののきから生まれてくる。

 そこにはまぎれもなく、 「自己の絶対性」 を主張して止まない 「近代」 への懐疑が潜んでいる。
 だから、ここに描かれているのは、近代の意匠に包まれた人間が、その意匠を剥ぎ取られたときの、生々しい 「生の実感」 そのものなのだ。
 人は、本来は、このようにして 「世界」 を観ているといっていい。

 今われわれが、絵画、写真、映画、ゲーム類を通してさんざんなじんできた 「3D画像」 は、実は 「安定した自己」 を前提とした “近代的感受性” に支えられたものでしかない。
 それは、「見る自己」 と 「見える対象」 の間には、科学的に計測可能な 「距離」 があるという盲目的信仰に依拠するもので、その  「距離」 への信頼を失ってしまえば、 「世界」 はたちどころに、夢のような世界に近づいていく。

 しかし、それは、ダリやマグリットが描く幻想世界とは別のものだ。

ダリ「内乱の予感」 
 ▲ ダリ 「内乱の予感」

マグリット「ピレネーの城」
 ▲ マグリット 「ピレネーの城」

 絵画の中には 「幻想的な絵」 というものが数多くあるが、多くの幻想画が、単なる“不可解”なるものをたくさん集めたコラージュによって荒唐無稽の世界を描いているのに比べ、キリコは近代的な作図法そのものに中に、その破綻を見出した。

 そこには、揺るぎないと信じていたものが遠のいていくときの、取り残された者を襲う 「根源的な寂しさ」 が宿っている。
 そして、その寂しさは、人が、様々な近代的意匠を脱がされて、原始の人間に戻っていくときの懐かしさにも通じている。

 キリコの絵に漂うメランコリー (憂鬱) が、ノスタルジー (郷愁) ともつながっているのは、そこに理由がある。

キリコ005

コラム&エッセイ | 投稿者 町田編集長 21:32 | コメント(4) | トラックバック(0)
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