町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

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ファイアーボール

 これまでの日本文学が避けて通っていた領域にも、敢然と足を踏み入る作家として知られる桐野夏生さんは、その作品においても、人間の暗部に鋭く切り込むような作風を確立している。

桐野夏生氏1

 そのため、読後に荒涼とした世界が広がるような印象を受けるものが多いのだが、この 『ファイアボールブルース』 は、珍しく読後に 「爽やかな哀しみ」 が広がっていく名品だ。

 火渡抄子 (ひわたり・しょうこ) という “たぐい希なる強さを持った女子プロレスラー” を主人公とした話なのだが、選手たちの日常生活を克明に描きながら、そこにサスペンス仕立ての事件を絡ませるという構成になっていて、「プロレス・ミステリ」 とも呼べる類例のない小説となっている。

 面白いのは、女子プロレス選手たちの、悲喜こもごもの人間模様。
 まるで、すべての登場人物にモデルが実在すると思えるほどリアル。
 読者は、一気に彼女たちの練習所や控え室に引きずりこまれ、その汗や、くしゃみや、怒号や、嘲笑にさらされる。
 こういう描写力はこの作家の天性のものだ。

 現在、比較的手に入りやすい文春文庫から発行されているのは2冊。
 1冊目は一貫したストーリーを持つ書き下ろしで、2冊目は、雑誌に間欠的に掲載された作品を寄せ集めた連作集となる。
 骨太のストーリー構成でぐいぐい押していく1冊目と、味わい深いエピソードをたくさん拾い集めた2冊目。 
 この関係は、司馬遼太郎の 『燃えよ剣』 と 『新撰組血風録』 のつながりを連想させる。

ファイアーボール1 ファイアーボール2

 本としての面白さからいえば、書き下ろしの1冊目の方が読みごたえがあるが、深みを感じさせるのは2冊目。
 特に 「嫉妬」 、「グッドバイ」 、「近田によるあとがき」 と、本書の後半部分を盛り上げる3章が逸品である。

 この 『ファイアーボールブルース』 が発表されたのは1995年。
 江戸川乱歩賞を取った 『顔に降りかかる雨』 (1993年) と、日本推理作家協会を取って映画化もされた 『OUT』 (1997年) の間に書かれた作品である。

 女性を主人公にしたハードボイルド小説の書き手としてスタートした桐野さんは、やがて 『OUT』 のようなクライムノベルに手を染め、さらに 『OUT』 以降は、文学のジャンルを大胆に横断していくスケールの大きな作家に成長していく。
 この 『ファイアーボールブルース』 という小説は、その 『顔に降りかかる雨』 から 『OUT』 へ至る橋渡しを務めた重要な作品である。

 なぜなら、この小説は、『顔に降りかかる雨』 、『天使に見捨てられた夜』 という桐野流ハードボイルドの “プロレス版” でありながら、同時に、ハードボイルドからの脱出が示唆された作品だからだ。

 ハードボイルド小説とは何かというと、単純にいえば 「カッコいい主人公」 が登場する小説といい切ってよい。
 たとえ主人公が、失敗、敗北、悔恨などという負のエレメントを背負おうとも、そこに 「美意識」 を付加してしまえば、それがハードボイルドのテイストを生む。

 このようなハードボイルド小説の叙述形式は、主人公自身が語り手となるという 「一人称形式」 を取ることが多い。
 桐野さんのデビュー作 『顔に降りかかる雨』 は、まさにこの手法で書かれた小説であり、女性探偵のミロは、「私」 という一人称を使って、自分に降りかかる事件を、自分の 「目」 を通して語っていく。

 しかし、そのスタイルには限界がある。
 主人公の “カッコよさ” が描けないのだ。

 主人公が 「語り手」 である以上、「生きざま」 や 「ポリシー」 などというメンタルなカッコよさは表現できても、その主人公が他者からどのように見られているかということは描けない。

 外から見たときのカッコよさを判断するのは、あくまでも第三者である。
 自分自身がおのれカッコよさに言及してしまえば、それは 「自意識」 になってしまい、主人公が自意識に拘泥すればハードボイルドのテイストは失われる。

 そのパラドックスを、「観察者」 を設定することによって解決したのが、この小説である。
 つまり、主人公火渡抄子 (ひわたり・しょうこ) の生き方を読者に伝える人物として、近田ひさ子という 「付け人」 を置いたのだ。

 近田ひさ子は、火渡を 「神」 のように尊敬し、「スター」 として憧れ、「恋人」 のように愛情を注ぎ、「我が子」 のように面倒を見ている。

 しかし、その一方で近田は、女子プロレスラーを目指す人間の一人として、いつかは火渡をリングの上で叩きのめし、自分の力を世間にアピールしなければならない。

 その屈折した近田の視線によって、火渡というプロレスラーが秘めているダイヤの原石のような魅力が鋭利に磨き込まれ、多面的な光彩を放つことになる。

 火渡自身は、寡黙なハードボイルドヒーローを演じているだけなのだが、近田の目を通すと、火渡の 「寡黙」 はミステリアスな色に染められ、火渡の 「タフさ」 は、内面から滲み出た強靭さを帯び、火渡の 「優しさ」 は、少女のような繊細な神経からもたらされるものとなる。

 このような手法でヒーローを描く方法は、歴史小説の世界などでは、以前からときどき試みられていた。
 たとえば、塩野七生がチェーザレ・ボルジアを描くときにマキャベリの視点を導入したり、司馬遼太郎が、織田信長を描くときに秀吉の視点を添えたりする部分である。

 チェーザレ・ボルジアも織田信長も、あれほどの歴史を動かした人物でありながら、発言自体の記録が少ない。
 彼らは、言動による自己表現を潔しとせず、寡黙を貫きながら、行動で意思を示すという政治手法を採った。

 そういう人間たちを主役にした読み物では、どうしても主役に 「愛」 を寄せる、マキャベリや秀吉のような人たちの眼差しが必要となる。
 チェーザレも信長も、愛ある理解者がいなければただの 「暴君」 でしかなかったが、愛ある者の視点を獲得することによって、「ヒーロー」 となった。

 近田ひさ子もまた、火渡抄子に 「愛のオーラ」 を与えた。
 読者は、この愛のオーラを通じて、はじめてカッコよい火渡を見ることができたのだ。

 しかし、火渡のオーラ役を務めていた近田は、いつかは自分自身がオーラにならなければならない。
 近田は、いつの日か 「付け人生活」 に終止符を打ち、自分もまた火渡のように、リングの上で花開きたいと思っていたからだ。

桐野夏生氏2

 1冊目のあとがきで、著者自身はこう書いている。
 「近田は、火渡の観察者であると同時に、勝者の舞台からこぼれ落ちた敗者でもある」

 作者の言を信じれば、この2冊の小説は、常勝を続ける火渡の快進撃を味わう小説であると同時に、敗者である近田の復活戦を見守る話でもあるのだ。

女史プロレス

 そして、ついに敗者復活戦のリングに上がった近田。
 その前に立ちはだかるのは、あの火渡。

 読者には、読む前からその結果が見えている。

 自分の限界というものを痛いほど知った近田は、やがてプロレスをあきらめ、普通のOLに戻っていく。

 火渡という 「神」 と、プロレスという 「家」 を失った近田の哀しみは、読者の胸を打つ。
 しかし、その哀しみの底に、読者をどこかホッとさせるような暖かみが流れている。
 平凡な人生と引き替えに得られる 「幸せ」 。
 それをつかもうとしている近田に、読者はスタンディングオベーションを送ることをためらわない。

 一方、庶民となった近田の目を通して眺めた女子プロレスの世界は、相変わらず、ツンドラ地帯で獲物を奪いあう野獣たちのように哀しい。

 しかし、その哀しみには 「凛 (りん)」 とした香気がある。

 黄昏の光りを追うような静かな終わり方は、本を閉じても、余韻が残る。


音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 01:38 | コメント(2) | トラックバック(0)
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