町田の独り言 キャンピングカーのガイド本を編集する町田が語るよもやま話

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桐野夏生のダーク

《 Ⅰ 読者に与えた衝撃 》

 桐野夏生さんの 『ダーク』 という小説は、彼女の華々しい作家活動の中では、特に賞の対象になったわけでもなく、映画化の話が出ることもなかった作品だ。

 しかし、21世紀を迎えたばかりの日本社会とは、何であったのか。
 また、そこに生きた個人はどういう状態に置かれていたのか。
 それらのことを、これほど適切に捉えた小説は類例がなく、彼女の作品群の中でも、きわめて鋭く時代と切り結んだ作品の一つだといえよう。

桐野夏生ダーク

 同書が発表されたのは2002年。
 すでに桐野さんは、『顔に降りかかる雨』 で江戸川乱歩賞を受賞し、『OUT』 では日本推理作家協会賞を受賞。『柔らかな頬』 で直木賞を獲得していた。
 小説家としては揺るぎない地位を確立した時期の作品といってよい。

 そうなると、どうしても作家というのは、その時に支持してくれるファン層を大事にしたくなるものだ。
 冒険するよりも、すでに獲得した多くの読者ニーズに合わせて芸風を確立していくという “守りの姿勢” に入りがちになる。

 しかし 『ダーク』 は、ある意味、「それまでの読者を裏切った」 作品だった。

 ここに登場するヒロイン 「ミロ」 は、いうまでもなく著者のデビュー作である 『顔に降りかかる雨』 に主役として登場し、『天使に見捨てられた夜』 などで、新しいハードボイルド・ヒロインとして認知された女探偵の村野ミロである。

 固定ファンに愛され、作者にとっても大切なはずの主人公ミロは、ここでは、父を殺し、韓国人の愛人になり、やくざな男にレイプされ、殺人犯として追われる。

 多くのミロファンは、この新しいミロ像に衝撃を受けた。
 事実、それまで桐野さんの愛読者を務めていた一部の人たちは、この救いのないミロ像に幻滅して、作家とファンとしての距離を少し空けるようになった。

 しかし、そのような代償を支払いながら小説家桐野夏生が新しく切り開いた地平は雄大だった。

 結論から先にいうと、これは 「閉ざされた世界からの脱出」 をテーマにした作品なのだ。

 20世紀末から21世紀に移るときの世界的な激動期を経験しながら、実はな~んにも変わっていない 「日本」 という国のどうしようもなさ。
 そのことから生じる閉塞感。

 多くの人が、窒息しそうになっていても、そのことに気づせないほど巧妙に練り上げられた密閉社会の安定感。
 そういう状況からの脱出は可能なのか?
 出口はどこにあるのか?

 それが、この単行本にして厚さ6センチというブ厚い物語の中の、最後の最後に明かされる。

 だが、そこに至るまでのストーリーは読者にとっては辛い。
 まず読者は、40歳になったら死ぬつもりでいる38歳の陰鬱なミロに出会わなければならない。

《 Ⅱ すべてが閉ざされた国日本 》

桐野夏生1
 ▲ 桐野夏生さん

 ミロの心の中を吹き抜けるニヒリズムは、それまで彼女の心を支えていた男 (成瀬) が、出獄を前に、獄中で自殺してしまったところから生まれた。

 彼女の抱えた喪失感は、やがて、自分をそのような状態に追い込んだものすべてに対する異和感へと変わるのだが、そのような 「異和」 がどうして湧き起こってきたのか、またその 「異和意識」 は誰に向けられたものなのか、それは彼女自身にもまだよくつかめない。

 彼女が、自分の養父の住む北海道に渡り、久しぶりにその養父と顔を合わせてみようと思ったのも、周りの世界に 「異和」 を抱く自分の秘密を探ろうという衝動があったからだ。

 ミロの養父である村野善三は、ミロが幼い少女であった頃から決して彼女を愛そうとはしなかった。
 そして、今もミロの出現に冷ややかな態度を崩さない善三が、目の前にいる。

 突然の心臓発作で苦しむ善三に対し、ミロは手を差し伸べることもなく、冷ややかに死にゆく義父の姿を見つめる。

 読者は、まずこのミロの心の荒廃にたじろぐ。
 小説の主人公として見た場合、そこには読者の感情移入を拒むような冷酷さがにじみ出ているからだ。

 善三には、ミロの母親が亡くなった後につくった愛人がいた。
 久恵と名乗る盲目の女性である。
 久恵は、ミロが善三を殺したと思い込み、後にミロに対する復讐を開始する。

 しかし、ここではその話には触れない。
 それよりも、ミロと善三、そして久恵という3人の登場人物が、それぞれ何を象徴しているのかということを考えてみたい。

 まず、村野善三。
 彼は、知性に長け、感受性も豊かな紳士だ。
 若い頃から、やり手の私立探偵としてならした男で、裏社会で生き抜くしたたかさと怜悧な判断力を持っている。
 平均的な日本の父親に比べ、はるかに 「カッコ良くて上等な男」 である。

 にもかかわらず、彼は、娘と真正面からぶつかったことが一度もないという意味で、親子の対立を恐れる日本の父親の典型だった。
 常に親の愛情を疑い、親の視線の真意を探ろうとするミロのような存在は、善三にとっては、落ち着かない気分にさせる 「他人」 でしかない。

 彼が相手にできるのは、自分の庇護をそのまま 「愛」 と受け取ってくれる久恵のような従順な女だ。

 愛人の久恵が盲目であるという設定は、非常に象徴的である。
 久恵は、目は見えないが、勘だけは異様に研ぎ澄まされた女性として描かれている。
 その鋭敏な勘によって、彼女は常人のセンスを遥かに超える特異な美意識をつくりだしている。

 しかし、久恵の美意識は、目の見える健常者から見れば滑稽であり、時に醜悪ですらある。
 彼女の美意識が通用するのは、彼女と価値観を共有する人々が住む狭い世界の話でしかない。
 久恵は、その価値観を認めてくれる絶対的な後ろ盾としてのみ善三を必要とした。

 この善三と久恵の関係に、読者は何を読みとればいいのだろうか。

 そこに、高度成長期からバブルの時代に至るまで、日本国内でしか通用しない価値観を練り上げることに腐心してきた、日本の平均的な中流家庭の 「父と母」 の姿を読みとることは可能だろう。

 このような善三と久恵に対し、ミロは一人の 「外国人」 として登場する。
 もちろん彼女は、人種的には日本人でしかない。
 しかし、若い頃から自分の周りを包む空気に同調できないものを感じていたミロは、意識の上ではすでに 「外国人」 だった。

 彼女が 「外国人」 として生きざるを得なかったのは、その生い立ちにおいて、日本では当たりと思われる親子関係から疎外されていたからである。

 表面的にはひとつの家族であるように装われていたが、その裏で、ミロは自分の大切な母親を養父である善三と奪い合わなければならなかった。
 そんな奇形的な親子関係を、むしろ 「常態」 として生きてきたミロの目から眺めれば、周囲にいる普通の親子たちは、よその国の家族に思えたことだろう。

 ミロは、普通の日本人が無邪気に尊ぶものに何一つなじめなかった。
 「植物の芽が黒い土から現れるような豊かな春の気配」 をベタ付いた嫌なものと感じ、電車の中で戯れる小学生たちが発する 「日向の犬のような匂い」 を嫌悪した。
 彼女は、日本人なら当たり前のように尊んでいる日常生活の価値観を信じられない人間として成長した。

 善三とミロの関係は、激動する世界の動きに首をひそめて、おのれの安定だけを希求する日本人と日本社会に対し、そのような社会の欺瞞性と閉塞性に窒息しそうになった人間の悲鳴を暗示したといえよう。

《 Ⅲ 激動する世界 》

桐野夏生2

 1990年代から2000年代にかけて、国内では失業者が大量に誕生し、リストラによる自殺者も急増した。
 しかし日本は、世界の状況から比べると信じられないくらいの安逸な空気に包まれた 「平和な国」 だった。

 餓死者が当たり前のように出る北朝鮮。
 今なおテロ事件が絶えないイラクやアフガニスタン。
 富者と貧者の格差がますます拡大していく南米諸国。
 内戦が絶えないアフリカ諸国。

 そのような国々の実状を伝える映像がテレビに映ったとしても、そこに現れる戦禍に苦しむ外国人たちは、日本のお茶の間でテレビを見ている視聴者に対して、物乞いもしなければ、窮状を訴えることもない。

 しかし、突然家を訪問したミロは、善三にとって 「窮状を訴え、物乞いをする外国人」 に見えた。
 つまり彼女の来訪は、善三にとって、今まで直視して来なかった自分のいびつな親子関係を問い直し、その修正を迫り、反省を促すまがまがしい 「事件」 であった。
 彼の突然の心臓発作は、そのことへの耐え難き負担を暗示している。

 そして、ミロ自身も、何年も会うことのなかった養父と顔を合わせたことで、ようやく、自分が村野家では一人の 「外国人」 であったことに、そして、自分は日本という国においても 「外国人」 であったことに気づく。

《 Ⅳ 閉域からの脱出 》

 善三の死に立ち会い、自分の置かれた状況を納得したミロに、やがて転機が訪れる。
 転機をもたらしたのは、徐鎮浩という韓国人の男だった。

 徐は、バッグや貴金属のコピー商品を売ることを生業にする男だが、時には覚醒剤や銃の密輸も平気でやってのける。
 言ってしまえば、儲けるためには何でも行う冷酷なやくざ者でしかない。

 しかし、彼は韓国の民主化を実現するきっかけとなった光州事件に参加して、そこで繰り広げられた殺戮、テロ、リンチを自分の身体で体験していた。
 そういった意味で、徐は、現在世界中の貧困社会ではどこにでも溢れ、60年前には日本にも当たり前のように溢れていた、たくさんの死体が発する 「死臭」 を知っている男である。
 つまり、観念ではなく生理として戦争や悲惨を感じとれる人間だった。

 ミロは、その徐に、日本の男たちが持っていない 「毒」 と 「強さ」 を感じる。

 彼女は徐と愛人契約を結び、やがて本物の愛に目覚めていく。
 なぜなら徐は、日本においては 「外国人」 でしかなかった自分を、当たり前のように受けとめてくれた最初の人間だったからだ。

 彼女は、徐の仕事を手伝うために在日朝鮮人になりすまし、衣裳もヘアスタイルも変え、ついには日本の国籍さえ捨て去る。
 そして、偽造パスポートをあやつりながら、日本と韓国の国境にとらわれない自由人として生き始める。

 しかし 「自由人」 とは、逆に、国家のルールに守られることのない人間であることも意味する。
 自分の才覚だけで、いかようにも稼げる自由がある代わりに、降りかかる危険を自分でかわさなければならなくなる。
 警察も、やくざ組織も、彼らにとっては同じような 「敵」 でしかない。

 身を焦がすような快楽と、胃の縮まるような不安が、彼らの毎日を彩る。
 しかし、そういう暮らしこそ、実は 「日本」 という閉塞社会で押しつぶされそうになっていたミロが求めていたものだった。
 彼女は、ついに生きることの実感と躍動感を手に入れる。

 しかし、代償も大きかった。
 彼女が愛した徐は、久恵の企む復讐によって下半身不随になり、さらに警察に逮捕されてしまう。

 ミロ自身も、ヤクザ組織に関わる男にレイプされ、その極限状況の中でその男を殺してしまう。
 レイプした男は死んだが、彼女のお腹の中には、その男のタネが宿ることになる。

 警察からもヤクザからも追われ、これ以上の悲惨さはないだろうという最悪の状態に落ち込んでいくミロ。

 しかし、彼女は、そこからたくましく生き始める。
 多くの日本人が直面することのない、人間の根元的な力が試される機会を経験して、彼女は生き抜くための最終的な武器を手に入れる。
 その武器こそ 「私にはまだ命が残されている」 という “開き直り” だった。

《 Ⅴ ダークの意味 》

桐野夏生3

 ラストシーンは象徴的である。
 ミロは、レイプされた時にはらんだ息子の手を引き、自分たちを追う者を出し抜いて、未知の土地 (沖縄) の見知らぬ町に逃れていく。

 住むところも仕事もない逃避行の果てに、心細さと闘いながら、ミロは徐が出所するまで、その子供を育てながら強く生き抜く決意を固める。

 普通の日本人なら 「破滅」 という言葉でくくるしかないような絶望的な状況を、彼女は自分の活路を切り開くチャンスに変えようとする。
 そこには、負を積み重ねることによって逆にプラスに転じようとした 『OUT』 の雅子にも似た強さが感じられる。

 タイトルとなった 「ダーク」 とは何を意味するのか。
 ミロの心が抱えた闇を表現していることは容易に想像がつく。
 しかし、この闇は、その奥に踏み込んでいくことによって、逆に開けていく世界があることも暗示している。

 光明にあふれた世界は、行ってはならない場所、触れてはならない物を明示する。だから、光りは 「人間が行うことには限界がある」 ことを示すものとなる。

 だが、闇は、その限界を突き抜ける力を人間に与える。
 この本に限っていえば、ダークの同義語はフリーダム (自由) である。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 00:22 | コメント(2) | トラックバック(0)
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