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「炎の門」

 ギリシャ史のテルモピュライの戦いをテーマにした「300」(スリーハンドレッド)が6月9日から上映される。
 西洋チャンバラが好きな私としては、気になる映画だ。

 紀元前400年頃、ギリシャに押し寄せた約8万のペルシャ陸軍を、たった300人のスパルタ兵がテルモピュライという天険の要害で食い止め、全軍玉砕するも、ギリシャが最終的な勝利を得るための、貴重な時間稼ぎをしたという話だ。

300

 「グラディエーター」、「キングアーサー」、「トロイ」、「キングダム・オブ・ヘブン」、「アレキサンダー」などはすべて見てきたので、おそらくこれも見ることになるだろうけれど、映画以上に面白い本を読んでいるため、期待は半分といったところか。

 テルモピュライの戦は、日本ではあまり馴染みがないので、それをテーマにした小説というのは、意外と少ない。
 4年ぐらい前に発売された 『炎の門』(スティーブン・プレスフィールド作・三宅真理訳)は、日本で読めるテルモピュライの戦いの全貌を知るうえで、ほとんど唯一の文献になるのではないかと思っている。

炎の門

 私の“読書室”は、だいたい通勤電車の中だが、この小説を読んでいたときは、通勤電車に乗るが待ち遠しかった。
 それだけ、面白い本だった。

 なんといっても文章がうまい。
 原文も良いのだろうけれど、訳文もこなれていて、昔の翻訳もののようなギコチなさがまったくない。

 次に、この小説の特徴として挙げられるのは、豊かな情報量。
 文化史、風俗史、生活史に対する相当な資料的裏づけがあるのだろう。
 スパルタ人を含めた古代ギリシャ人が、何を食べ、どんなところで寝て、何を恥とし、どんな人生観、宗教観を抱いていたのか。
 それがあたかもホームドラマでも見ているような具体性をもって描かれている。

 特に軍事訓練の描写、戦闘シーンの描写などは、作者が特派員として戦場を駆け回りながら、食い入るようにビデオを回したかのような印象を受ける。

 古代の兵器が、肉体に与える損傷の描写が法医学的な実証性を持ち、なんとも凄絶だ。
 「膝を折ったまま、自分の腹からこぼれ出る内臓を呆然と眺めている兵士」
 なんて表現を読むと、ちょっとなぁ…という気分になるときすらある。
 記録に残ることもなく死んでいく敵兵(ペルシャ兵)に対しても、きっと悲しむ家族がいるだろうな…などと、いらぬ感情移入までさせてしまうような描写だ。

 そういう生々しいリアリティを実現させるために、この作家はきわめて戦略的な手法を採った。
 事件の流れを観察する“目”に徹した語り部をひとり設定したのだ。
 スパルタ兵の従者となって働いていた青年が、ペルシャ兵に捕虜となり、ペルシャ王であるクセルクセスの前で語るという設定なのである。

 これは実に巧妙な手法だ。
 クセルクセス王は、いうまでもなく、言語も文化もギリシャ人とは異なるペルシャ人である。
 当然、スパルタ人のことを知らない。
 そこで、この小説は、スパルタの文化や習慣などを、ペルシャ王に説明するという体裁をとって、ともすれば煩雑になりがちな文化や習慣の解説を、ごく自然な形で読者に提供することに成功した。

 その文体の構成がなかなか見事だ。
 まず読者に耳なじみの強い、現代的な比喩は一切使わない。
 たとえば、司馬遼太郎あたりなら、
 「おそらく、ペルシャ人が体験したものは、現代なら戦闘機による機銃掃射のようなものであったろう」
 などと書くところだが、この作者はそういう表現をしない。
 比喩はすべて、紀元前400年前に、ギリシャ人が見たもの、触ったもの、聞いたものに限られる。

 「海岸から矢が届くほどの距離にある平原」
 「競技場ほどもある天幕」
 「鏡のごとく磨き上げられた楯」
 「大蛇のウロコさながらに、整然と一糸乱れることなく前進する隊列」

 ホメロスの 『イリアス』 を彷彿とさせるような雅(みやび)な比喩が多用されるわけだが、そういう古典的な比喩とかみ合いながらも、「殲滅」、「殺戮」、「虐殺」などという物騒な現代漢語が随所に配され、優雅さを損なうことなく、緊張感を高めている。


 この本のテーマは「男」である。
 「スパルタ以外のポリスは、記念碑と詩をつくる。スパルタは男をつくる」
 という言葉があるらしいが、スパルタの理想とする男とは何であったのか?

 それが、スパルタの男たちに施される軍事訓練の描写から伝わってくる。
 
 機械のように正確に作動する殺人集団になるために、過酷な訓練を受ける少年たち。
 その訓練の途中で脱落する者は、容赦なく切り殺されてしまう。
 武芸より、芸術や文学を好む人間は、このスパルタでは生きていけない。
 近代的な反戦思想家が読んだら、目をむいて卒倒しそうな世界だ。

 そのスパルタ軍を象徴するのが、楯を並べて槍を林立させる密集部隊(ファランクス)である。
 この歩兵戦術は、自分の楯で自分を守るのではなく、常に左隣りの兵を守ることによって成立する。

 もし恐怖に駆られて逃げ出す人間が一人でも出れば、そこがほころびとなって、隊列全体が崩壊する。
 仲間への「責任」がこれほど試される陣形はほかにないだろう。

 個人の人格や生命すら無視するような過酷な訓練は、すべてこの密集隊形を維持させるためのものでしかない。
 スパルタは、この密集隊形の強固さで、全ギリシャ軍隊の頂点に立った。


 最後の戦いを前に、ある上官が部下たちに演説する。
 「今日、お前たちが守らなければならないものは何か?
  それは、スパルタという国家でもなければ、国に残る家族でもない。
  戦士としての名誉や死後の名声でもない。
  守らなければならないのは、自分の楯の左側に並んでいる仲間だ。
  そこにこそ、先に語ったすべてのもの(国家・家族・名誉)がある」

 このような密集歩兵部隊という完璧な「戦闘マシーン」をつくったスパルタは、歴史に何を残したのか。
 作者は、登場人物のひとりであるスパルタ王のレオニダスに、こう語らせている。

 「後世の著述家は、かつてスパルタがあったといわれる村々を訪れ、そこを発掘したあげく、ここにはアテネやテーバイ、コリントにあるような神殿、劇場、記念碑が何もないことを知るだろう。
 そして彼らは伝えるだろう。
 スパルタは遺跡として残るような文化を何ひとつ残さなかったと。
 しかし同胞よ。
 このテルモピュライの戦い…これこそ我がスパルタ人が、後世に残す“遺跡”なのだ」

 最後の戦いは凄惨を極める。
 破滅に向かって絶望的な戦いを続けるスパルタ兵たち。
 しかしその戦闘のなかで、かつてイジメに近い陰湿な処罰を部下に与えた上官が、その部下を死を賭してかばい、主人の死を1秒でも遅らせるために、従者が主人の楯となって、先に死んでいく。

 現在のテルモピュライには、このときのスパルタ兵をたたえる碑文があるという。
 
 「旅人よ、行ってラケダイモン(スパルタ)の民に伝えよ。
  われら国を守りて、ここに眠ると」

 ギリシャ史をひもとくと、必ず出てくる有名な句だ。
 この碑に詠われた300人のスパルタ人は、全滅したが、彼らが演じた死闘は、2,400年経った今でも、映画や小説で繰り返されている。

音楽&映画&本 | 投稿者 町田編集長 02:10 | コメント(4) | トラックバック(0)
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