2009年07月05日
TFwayのリアル
会社のパソコンのファイルに、なぜかひとつだけゲームソフトが埋まっていた。
「TFway」 という自動車レースのゲームだ。
たぶん、パソコンゲームが普及し始めた頃の、最も初期のゲームなのだろう。ヴィジュアルがおそろしく単純だ。
サーキットではなく、ルマンのような公道で速さを競うゲームなのだが、ライバルのクルマはすべて真四角な赤いハコ。
コースの両側は、芝生を思わせるベタなグリーン一色の大地。
ところどころに登場する木々は、垂直の棒に、四角いダークグリーンの枝が載せられているだけ。
映画 『マッドマックス1』 に登場する荒涼とした近未来のオーストラリアを、さらに単純化したような風景だ。

▲ TFway
最近のリアルな3D画面で処理されるパソコンゲームに比べると、実にシンプルな画面なので、きっと今のゲームに慣れた人たちなら遊ぶ気も起こらないだろう。

▲ 緻密な画像でファンタジックな映像をつくり出す最近のゲーム
しかし、そこに最近のゲームには見られないリアリティというものがあって、ハッとした。
それは、ロケーションのリアリティではなく、こんな寂しい大地に一人で残されたらどんな怖いだろう…ともいうべき 「寂しさのリアリティ」 ともいえるものだ。初期のドラクエにもこの雰囲気はあった。
CG技術が発達して、ファンタジーの世界がリアルに構築できる今の世の中にいると、逆にこのような象徴的ともいえる初期のゲームの方が、なにか不思議な感動を与えてくれる。
ファンタジー映画や怪物映画のリアリティというものは、案外退屈なものだ。
CG技術の大いなる到達点といわれた 『ジュラシックパーク』 をはじめて見たとき、最初のうちはリアルな恐竜たちに驚愕したが、見ているうちに、それが “当たり前” になってしまい、動物園でトラやライオンを見ているのと変わらなくなったことを思い出す。
そうなると、人を襲ってくる生物たちが別に恐竜である必要がなくなってくる。

あまりにも巧妙にビジュアル化された宇宙人や妖怪は、それが “当たり前” に見えてくることによって、逆に恐怖も驚愕も遠のいていく。
それに比べると、初期のコンピューターゲームの世界には、人間が感じる原初的な恐怖や驚愕や寂寥感がある。
「TFway」 では、あの恐ろしいほどの単純化が、なにやらわれわれの生きている世界とは別の世界に接しているような恐さを呼び覚ます。

たぶん、人間の感性を刺激する映像というのは、情報の緻密さとは無関係なのだ。
むしろ 「欠如した情報」 こそが、感覚を研ぎ澄ませる力となる。
情報の欠如を、人はなんとか自分の想像力で補おうとするからだ。
恐怖も驚愕も感動も、しょせんは想像力の中で生まれるしかないのだ。
「TFway」 という自動車レースのゲームだ。
たぶん、パソコンゲームが普及し始めた頃の、最も初期のゲームなのだろう。ヴィジュアルがおそろしく単純だ。
サーキットではなく、ルマンのような公道で速さを競うゲームなのだが、ライバルのクルマはすべて真四角な赤いハコ。
コースの両側は、芝生を思わせるベタなグリーン一色の大地。
ところどころに登場する木々は、垂直の棒に、四角いダークグリーンの枝が載せられているだけ。
映画 『マッドマックス1』 に登場する荒涼とした近未来のオーストラリアを、さらに単純化したような風景だ。
▲ TFway
最近のリアルな3D画面で処理されるパソコンゲームに比べると、実にシンプルな画面なので、きっと今のゲームに慣れた人たちなら遊ぶ気も起こらないだろう。
▲ 緻密な画像でファンタジックな映像をつくり出す最近のゲーム
しかし、そこに最近のゲームには見られないリアリティというものがあって、ハッとした。
それは、ロケーションのリアリティではなく、こんな寂しい大地に一人で残されたらどんな怖いだろう…ともいうべき 「寂しさのリアリティ」 ともいえるものだ。初期のドラクエにもこの雰囲気はあった。
CG技術が発達して、ファンタジーの世界がリアルに構築できる今の世の中にいると、逆にこのような象徴的ともいえる初期のゲームの方が、なにか不思議な感動を与えてくれる。
ファンタジー映画や怪物映画のリアリティというものは、案外退屈なものだ。
CG技術の大いなる到達点といわれた 『ジュラシックパーク』 をはじめて見たとき、最初のうちはリアルな恐竜たちに驚愕したが、見ているうちに、それが “当たり前” になってしまい、動物園でトラやライオンを見ているのと変わらなくなったことを思い出す。
そうなると、人を襲ってくる生物たちが別に恐竜である必要がなくなってくる。
あまりにも巧妙にビジュアル化された宇宙人や妖怪は、それが “当たり前” に見えてくることによって、逆に恐怖も驚愕も遠のいていく。
それに比べると、初期のコンピューターゲームの世界には、人間が感じる原初的な恐怖や驚愕や寂寥感がある。
「TFway」 では、あの恐ろしいほどの単純化が、なにやらわれわれの生きている世界とは別の世界に接しているような恐さを呼び覚ます。
たぶん、人間の感性を刺激する映像というのは、情報の緻密さとは無関係なのだ。
むしろ 「欠如した情報」 こそが、感覚を研ぎ澄ませる力となる。
情報の欠如を、人はなんとか自分の想像力で補おうとするからだ。
恐怖も驚愕も感動も、しょせんは想像力の中で生まれるしかないのだ。
2009年06月27日
夏の広がり
「夏」 というのは、季節のことを指すのではなく、 「広がり」 を暗示するときの別名ではないかと思うことがある。
「春」 とか 「秋」 という言葉に、広がりは感じられない。
さらに 「冬」 という言葉には、背を丸めて首を縮めるという印象が絡んできて、より一層 「広がり」 とは結びつかない。
しかし、「夏」 という言葉には、海や山で遊ぶというイメージが刷り込まれているせいもあって、言葉の背後にとんでもなく広大な世界が広がっているという印象があるのだ。
「夏の午後」 といえば、暑さと同時に、生き物の気配すら途絶えたような静寂が広がっていく雰囲気があるし、 「夏の夜」 といえば、トロリとした闇の深さが足元を浸すような気分になる。

「夏」 は、目に見えている世界の彼方に、もう一つの別の世界が口を開けていることを暗示する特別な季節である。
自分がそんな思いを抱くようになったのは、一つの演劇がきっかけとなっている。
文字どおり、 『夏』 というタイトルの劇だった。
1960年代の末頃。
たぶん、まだ高校生ではなかったかと思う。
誰かと一緒に見に行ったと思うが、それが誰だったのか思い出せない。
どうして、そういう劇を見に行くことになったのか。
それも定かではない。
つまり、劇にまつわる周辺の記憶はすっぽりと抜け落ちているのに、「夏」 を感じたという印象だけは、強烈なものとなって残っているということだ。
場所は東京・新宿。
劇場名は 『蠍座 (さそりざ) 』 。
商業的な成功をめざす劇場では採り上げてもらえないような、前衛的な演劇、実験的な映画を専門的に扱う小劇場だった。
小劇場公演というのははじめてだったので、客席に座ったときは、そのあまりにもシンプルな舞台設定に目が飛び出るほど驚いた。
それまで、「劇」 というのは、舞台上の役者を遠く離れた客席で眺めるものだという思い込みがあった。
しかし、蠍座の舞台は、そういう演劇の常識を180度ひっくり返すものだった。
まずステージがないのである。
もちろん、幕などもない。
出番を待つ役者が隠れるような場所もない。
一応、ステージらしきスペースはあった。
しかしそれは、客席最前列の前にかろうじて空けられた “通路” のようなもので、もし劇が始まれば、最前列の客は、セリフと同時に吐かれる役者の吐息すら顔に浴びることになるだろうと思われるような “舞台” だった。
演じられたのは、ロマン・ヴェンガルテンという人が書いた 『夏』 。
演出家は、当時日本でも活躍していたフランスの演出家ニコラ・バタイユ。
主役は加賀まりこだった。
その加賀まりこが客席の前に設けられた狭い空間で、ほとんど一人でセリフをしゃべっていた。

▲ 「小悪魔」 と呼ばれて人気を博した若き日の加賀まりこ
ところが、これが凄いのだ。
冬の公演だったというのに、舞台の奥から濃密な 「夏」 の匂いがどんどん溢れ出し、それが止まらないのだ。
舞台装置なんて単純なのである。
照明器具を備え付けるための足場のようなパイプに、人工の葉っぱをたくさん絡み付けたものが置かれているだけなのだ。
それが “夏の森” を表現しているわけだが、そのチープでシンプルな舞台装置から、熱帯のアマゾンに広がっているような 「夏」 が押し寄せてくる。
役者の足元を照らす、直径1mほどのスポットライトですら、物憂い午後を暗示する夏の木漏れ日のように見えてくる。
観ているうちに、濃密な夏がねっとりと肌に絡みつき、鼻孔から脳内に侵入し、身体中の細胞を夏の漿液 (しょうえき) に満たしていった。
演劇というものの 「魔法」 をはじめて知った。
舞台装置がシンプルならばシンプルなほど、逆に、役者の演技やセリフが 「魔術化」 する。
加賀まりこさんは、客全員に 「ほら夏よぉ~!」 という催眠術をかけていた。
それ以来、自分には、現実の 「夏」 と同時にイリュージョン (幻影) の 「夏」 が存在するようになった。
イリュージョンの夏は、いつまで経っても常夏である。
イリュージョンの夏では、時計が午後を指したまま止まっている。
イリュージョンの夏の朝には、夜よりもさらに深い闇が訪れる。
夏は文学が生まれる季節であり、詩が育つ季節だと思う。
「春」 とか 「秋」 という言葉に、広がりは感じられない。
さらに 「冬」 という言葉には、背を丸めて首を縮めるという印象が絡んできて、より一層 「広がり」 とは結びつかない。
しかし、「夏」 という言葉には、海や山で遊ぶというイメージが刷り込まれているせいもあって、言葉の背後にとんでもなく広大な世界が広がっているという印象があるのだ。
「夏の午後」 といえば、暑さと同時に、生き物の気配すら途絶えたような静寂が広がっていく雰囲気があるし、 「夏の夜」 といえば、トロリとした闇の深さが足元を浸すような気分になる。
「夏」 は、目に見えている世界の彼方に、もう一つの別の世界が口を開けていることを暗示する特別な季節である。
自分がそんな思いを抱くようになったのは、一つの演劇がきっかけとなっている。
文字どおり、 『夏』 というタイトルの劇だった。
1960年代の末頃。
たぶん、まだ高校生ではなかったかと思う。
誰かと一緒に見に行ったと思うが、それが誰だったのか思い出せない。
どうして、そういう劇を見に行くことになったのか。
それも定かではない。
つまり、劇にまつわる周辺の記憶はすっぽりと抜け落ちているのに、「夏」 を感じたという印象だけは、強烈なものとなって残っているということだ。
場所は東京・新宿。
劇場名は 『蠍座 (さそりざ) 』 。
商業的な成功をめざす劇場では採り上げてもらえないような、前衛的な演劇、実験的な映画を専門的に扱う小劇場だった。
小劇場公演というのははじめてだったので、客席に座ったときは、そのあまりにもシンプルな舞台設定に目が飛び出るほど驚いた。
それまで、「劇」 というのは、舞台上の役者を遠く離れた客席で眺めるものだという思い込みがあった。
しかし、蠍座の舞台は、そういう演劇の常識を180度ひっくり返すものだった。
まずステージがないのである。
もちろん、幕などもない。
出番を待つ役者が隠れるような場所もない。
一応、ステージらしきスペースはあった。
しかしそれは、客席最前列の前にかろうじて空けられた “通路” のようなもので、もし劇が始まれば、最前列の客は、セリフと同時に吐かれる役者の吐息すら顔に浴びることになるだろうと思われるような “舞台” だった。
演じられたのは、ロマン・ヴェンガルテンという人が書いた 『夏』 。
演出家は、当時日本でも活躍していたフランスの演出家ニコラ・バタイユ。
主役は加賀まりこだった。
その加賀まりこが客席の前に設けられた狭い空間で、ほとんど一人でセリフをしゃべっていた。
▲ 「小悪魔」 と呼ばれて人気を博した若き日の加賀まりこ
ところが、これが凄いのだ。
冬の公演だったというのに、舞台の奥から濃密な 「夏」 の匂いがどんどん溢れ出し、それが止まらないのだ。
舞台装置なんて単純なのである。
照明器具を備え付けるための足場のようなパイプに、人工の葉っぱをたくさん絡み付けたものが置かれているだけなのだ。
それが “夏の森” を表現しているわけだが、そのチープでシンプルな舞台装置から、熱帯のアマゾンに広がっているような 「夏」 が押し寄せてくる。
役者の足元を照らす、直径1mほどのスポットライトですら、物憂い午後を暗示する夏の木漏れ日のように見えてくる。
観ているうちに、濃密な夏がねっとりと肌に絡みつき、鼻孔から脳内に侵入し、身体中の細胞を夏の漿液 (しょうえき) に満たしていった。
演劇というものの 「魔法」 をはじめて知った。
舞台装置がシンプルならばシンプルなほど、逆に、役者の演技やセリフが 「魔術化」 する。
加賀まりこさんは、客全員に 「ほら夏よぉ~!」 という催眠術をかけていた。
それ以来、自分には、現実の 「夏」 と同時にイリュージョン (幻影) の 「夏」 が存在するようになった。
イリュージョンの夏は、いつまで経っても常夏である。
イリュージョンの夏では、時計が午後を指したまま止まっている。
イリュージョンの夏の朝には、夜よりもさらに深い闇が訪れる。
夏は文学が生まれる季節であり、詩が育つ季節だと思う。
2009年06月25日
独女の時代?
世に 「婚活 (こんかつ) 」 という言葉が定着した時代というのは、どんな時代かというと、 「婚活」 を目指さない人々が、マーケットのキーを握る時代になったということである。
一つのムーブメントが起きると、その流れに乗る人、乗らない人双方の意識にさざ波が立つ。
人間の消費行動というのは、ブームが起こればそのブームに乗ろうとする人々だけで促進されるわけではない。
ブームが起きることによって、それと異なるライフスタイルを目指す人たちも生まれるわけで、そこにまた別のマーケットが生まれる可能性がある。
こういうことにマスコミは目敏くて、 『AERA』 の6月29日号では、 「 “独女マイ消費” 不況知らず」 というタイトルを掲げて、シングルライフを楽しむ女性たちの消費行動を特集していた。

世の中 「婚活」 ブームで、シングル女性の結婚願望がどんどん高まっているように思えるが、その一方で、なんらかの事情で結婚できなかったり、あるいは離婚したり、さらに人生に結婚以外の価値を見出そうという女性たちも輩出している。
『AERA』 を見ると、そういう “独女” (シングルウーマン) たちは、同年代の既婚女性の2.7倍も、外食や洋服の購入にお金をかけているという。
2008年に総務省がまとめた 「勤労者の単身女性」 の収支バランスでは、手取り収入の半分が 「食費」 「居住費」 「その他」 に当てられていたとも。
注目するのは 「その他」 。
ここに 「理美容」 「交際費」 など、生活を楽しむ、趣味を持つ、ゆとりを得るという人生をエンジョイするためのあらゆる消費が集中しているという。
不況、給料カット、リストラなどと雇用をめぐる社会情勢が一向に明るさを取り戻せない状況のなかで、 “独女” たちの消費行動は、日本経済をけん引していくほどの活力に満ちている。
…というような観測が、『AERA』 の特集で試みられていたように思う。
とにかく、上野千鶴子さんの 『おひとりさまの老後』 という本が社会現象化したせいもあるのか、シングル女性の生き方にやたらとスポットライトを当てる企画が多くなった。
私は以前から、シングル女性のキャンピングカーライフというものもありかな…と思っていた。
もちろん現状では、キャンピングカー市場は圧倒的にファミリーかシニア夫婦で占められている。
そのため、キャンピングカーメディアで展開される各業者さんの広告展開も、基本的にシニア夫婦とファミリーを中心に構成されるものが多く、シングルという視点を打ち出すときは、「男がきままにくつろげる書斎」 的な扱いにとどまるものだった。
このような家族中心キャンペーンというのは、確かに 「キャンピングカーは家族の絆を強めるもの」 という発想に基づくものなので当然といえば当然なのだが、時にはメインストリームとは少し離れたところで起こっている動きに注目することも、新しい販売戦略を思いつく上で大事なことだと思う。
『AERA』 の特集では、週末は一人で海に行ってウインドサーフィンを堪能する女性や、一人でスキーを楽しむ女性たちの颯爽としたシングルライフが紹介されていた。
しかし、それは記事だけにとどまるものだった。
このようなシングル女性の “一人遊び” をビジュアル的にカッコよく捉えるという視点がまだ日本のデザインにはない。
また、そこにカッコよさを感じる消費者も育っていない。
ハバナのバーで、独りで海を眺めながらフローズンダイキリを飲むヘミングウェイのカッコよさを理解するデザイナーたちはいても、同じ状況で女性をカッコよく見せる手法をまだ知らない。
つまり、「温かい家族愛」 的な発想からは生まれてこないシャープさが、日本の広告界…特にキャンピングカー業界の広告には欠けていると思うのだ。
既婚女性の2.7倍も、洋服の購入や理美容にお金をかけているといわれる彼女たちは、商品や広告展開を見る視点もシビアだ。イメージだけのカッコ良さなどには騙されないが、イメージ喚起力の乏しい宣伝の商品も信じない。
独身女性の目にとまるような広告展開が行われるようになったときが、この業界の広告デザインのレベルが上がったときだと思う。
一つのムーブメントが起きると、その流れに乗る人、乗らない人双方の意識にさざ波が立つ。
人間の消費行動というのは、ブームが起こればそのブームに乗ろうとする人々だけで促進されるわけではない。
ブームが起きることによって、それと異なるライフスタイルを目指す人たちも生まれるわけで、そこにまた別のマーケットが生まれる可能性がある。
こういうことにマスコミは目敏くて、 『AERA』 の6月29日号では、 「 “独女マイ消費” 不況知らず」 というタイトルを掲げて、シングルライフを楽しむ女性たちの消費行動を特集していた。
世の中 「婚活」 ブームで、シングル女性の結婚願望がどんどん高まっているように思えるが、その一方で、なんらかの事情で結婚できなかったり、あるいは離婚したり、さらに人生に結婚以外の価値を見出そうという女性たちも輩出している。
『AERA』 を見ると、そういう “独女” (シングルウーマン) たちは、同年代の既婚女性の2.7倍も、外食や洋服の購入にお金をかけているという。
2008年に総務省がまとめた 「勤労者の単身女性」 の収支バランスでは、手取り収入の半分が 「食費」 「居住費」 「その他」 に当てられていたとも。
注目するのは 「その他」 。
ここに 「理美容」 「交際費」 など、生活を楽しむ、趣味を持つ、ゆとりを得るという人生をエンジョイするためのあらゆる消費が集中しているという。
不況、給料カット、リストラなどと雇用をめぐる社会情勢が一向に明るさを取り戻せない状況のなかで、 “独女” たちの消費行動は、日本経済をけん引していくほどの活力に満ちている。
…というような観測が、『AERA』 の特集で試みられていたように思う。
とにかく、上野千鶴子さんの 『おひとりさまの老後』 という本が社会現象化したせいもあるのか、シングル女性の生き方にやたらとスポットライトを当てる企画が多くなった。
私は以前から、シングル女性のキャンピングカーライフというものもありかな…と思っていた。
もちろん現状では、キャンピングカー市場は圧倒的にファミリーかシニア夫婦で占められている。
そのため、キャンピングカーメディアで展開される各業者さんの広告展開も、基本的にシニア夫婦とファミリーを中心に構成されるものが多く、シングルという視点を打ち出すときは、「男がきままにくつろげる書斎」 的な扱いにとどまるものだった。
このような家族中心キャンペーンというのは、確かに 「キャンピングカーは家族の絆を強めるもの」 という発想に基づくものなので当然といえば当然なのだが、時にはメインストリームとは少し離れたところで起こっている動きに注目することも、新しい販売戦略を思いつく上で大事なことだと思う。
『AERA』 の特集では、週末は一人で海に行ってウインドサーフィンを堪能する女性や、一人でスキーを楽しむ女性たちの颯爽としたシングルライフが紹介されていた。
しかし、それは記事だけにとどまるものだった。
このようなシングル女性の “一人遊び” をビジュアル的にカッコよく捉えるという視点がまだ日本のデザインにはない。
また、そこにカッコよさを感じる消費者も育っていない。
ハバナのバーで、独りで海を眺めながらフローズンダイキリを飲むヘミングウェイのカッコよさを理解するデザイナーたちはいても、同じ状況で女性をカッコよく見せる手法をまだ知らない。
つまり、「温かい家族愛」 的な発想からは生まれてこないシャープさが、日本の広告界…特にキャンピングカー業界の広告には欠けていると思うのだ。
既婚女性の2.7倍も、洋服の購入や理美容にお金をかけているといわれる彼女たちは、商品や広告展開を見る視点もシビアだ。イメージだけのカッコ良さなどには騙されないが、イメージ喚起力の乏しい宣伝の商品も信じない。
独身女性の目にとまるような広告展開が行われるようになったときが、この業界の広告デザインのレベルが上がったときだと思う。
2009年06月18日
女が強いワケ
オフィス街の昼下がり。
歯医者に行ったついでに、お好み焼き屋でランチの 「麦とろ定食」 を食べていたときだ。
隣のテーブルでは、昼間から鉄板でヤキソバを焼く主婦4人が盛り上がっていた。
「うちの旦那が来年65だからさ。いよいよ年金が入ってくるのよ」
「ああ、うちももう直ね」
…というような会話を交わしているところをみると、奥様方の年齢もいちおう60代をクリアしているのだろう。
何の集まりなのか分からないけれど、とにかく、皆やたら元気だ。
よく飲み (…といってもウーロン茶だけど) 、よく食べ、よくしゃべる。
盗み聞きしようと思ったわけではないが、彼女たちのおおらかなしゃべりが、自然に耳に入ってくるので、ついつい聞いてしまった。
「年金が入るようになるとさ、男ってとたんにシビアになるから、今のうちから自由になるお金をしっかり確保しておかないとダメよ」
「へそくりね」
「それって常識じゃない」
「大丈夫よ。うちは昔から生涯小遣いは4万円。それ以上はどんなことがあっても融通できませんからって、しっかり言い聞かせてあるから」
う~む。
奥様が家計をしっかり管理しているという昨今の家庭事情が、ここでも貫かれている感じだ。
旦那さんの小遣いが 「4万円」 というところがリアルだ。
各種の調査によっても、だいたい今時のサラリーマン家庭の旦那の小遣いは4万円から4万2~3千円の間らしい (うちはもっと安いけど…) 。

どこかの週刊誌で、 「アラフィ男の哀しい小遣い」 とかいう特集をやっていたけど、アラフィ…つまりアラウンドフィフティ (45歳~54歳) くらいの男性が奥様から得られる小遣いは、 「ランチを500円以内で済ます」 ことを前提として計算されているらしく、そこで取材された男性の中には、 「週に2回は駅構内の立ち食いソバで済ませていますね。安くて量があるし…」 というような、リアリティ溢れるレポートも掲載されていた。
その週刊誌の記事によると、今のアラフィ男の一番の “夢” というのは、
「一人の部屋がほしい」
「気兼ねなくタバコを吸いたい」
とかいったものらしい。
う~む。
なんとも “夢” のない夢だ。
「サイフのヒモを奥さんが握るようになった」 といわれて久しい。
カネを握るということは、権力を握るということと同義だから、今の 「家庭」 の実質的な支配者は 「奥様」 ということになる。
いったいいつ頃から、どうして、そうなったのだろうか。
「それは日本が豊かになったからだ」
という人がいる。
「戦後、とにかく今日食べていくのが精いっぱい」
という時代、夫婦のどちらがサイフのヒモを握るかなどという問題は、どうでもよかった。
お金が入れば、それは家庭を維持する資金として夫婦・親子に平等に分配された。
ところが、1964年の東京オリンピックあたりを境に、日本がだんだん豊かになっていく。
日本の豊かさは、洗濯機や掃除機といった家電の発達とシンクロしたから、専業主婦が携わる家事が少しずつ楽になるとともに、主婦に、家計を維持するためのノウハウを考案する時間が生まれる。
80年代になると、政府が内需拡大の音頭を取るようになる。
新製品や贅沢品を買うことが、国を繁栄させることにつながるという風潮が生まれ、消費することが美徳であるというモラルが誕生するようになる。
こういう個人消費を促進する時代風潮のなかで、主婦たちは、 「何をどのように買えば、賢い買い物になるのか」 という “消費のプロフェッショナル” になるスキルを身につけていく。
そのような動きに、旦那さんたちは完全に乗り遅れた。
旦那たちは、会社の利潤追求やコスト削減には骨身を削って知恵を絞るワザを覚えさせられたが、家庭に戻ってまで経営のプロになろうとは思わなかった。
その頃になると、すでにどの家庭でも 「経営のプロ」 である主婦層が育っていたからである。
男にとっても、家の煩わしいマネッジメントを奥さんが肩代わりしてくれることは楽だった。その方が毎晩気楽に飲み歩けるし、休日はゴルフに通えた。
それでいて、男たちは小遣いに不自由することはなかった。
なぜかというと、バブルまでの日本では会社の社交費がさんざん使えたからだ。不思議なことに、日本のサラリーマンのお父さんたちは、自分の小遣いで遊んだり、飲み食いする必要がない時代を持っていたのだ。
(余談だけど、今までの日本の男たちの趣味がみな画一的なのは、接待費で遊べる分野でしか遊ばなかったからだ)
で、お父さんたちが、経営権も含め家庭のリーダーシップを奥様から取り戻そうと思っても、それはもう無理だろう。
個々の家庭では、それが可能になる家もあるだろうけれど、それは例外的な家庭になるのではなかろうか。
なんといったって、奥様方の方には “ネットワーク” という強力な武器がある。
長年に渡って築いてきた地域コミュニティ、子供の同窓コミュニティ、趣味の会といった生きた情報交換が活発に交わされるネットワークがある。
「うちの旦那がこんな文句を言ってきた」
と一人の奥様が、そのネットワーク内で相談を持ちかければ、
「あ、そういうときはこういう対応がいい」
と、即座にあちこちからノウハウが伝授される。
ノウハウの伝授に留まらず、共感や支援のエールがふんだんに贈られる。
現に、お好み焼き屋でヤキソバを食べていた主婦たちの会話は、こんな風に進んでいった。
「やっぱさぁ、食事を作ってあげたときにはさぁ、男なら “美味しい” の一言ぐらい言うのが義務よね」
「そうそう。黙ったまま平然と口に運んでいる姿を見ると、腹が立つわよね」
「でね、何か言ったら? と言ったらね、何も言わないことこそ “美味しい” と思っている証拠で、不味いと思ったらそう言うよ、だって」
「サイテー!」
そうなのである。
この女性たちの 「共感の嵐」 こそ、彼女たちの活力を生んでいるのである。
こういう主婦層のネットワークに対し、旦那の方は、会社のネットワークを失うと、もう何も残っていないというのが現状ではなかろろうか。
さぁ、旦那さんたち、どうすればいいのだろう。
長年フェミニズムの論客としてならしてきた社会学者の上野千鶴子さんは、こういう。
「奥様が旦那を大事にしてくれないといって、男性が寂しがるのは自業自得。女に気を使ってもらうのが当たり前と思っていた反動。
寂しいと思うなら、女にサービスするしかない。少なくとも一緒に食事をして楽しいと思われる相手にならないと」
ここに旦那族が生き延びていくヒントがありそうだ。
「つまりチャーミングな旦那になれ」
ということだ。
経済的に自立した女性にとって、結婚相手は 「生活資金の供給者」 である必要がなくなった。
つまり、 「カネならあるぞ、どぅだぁ!」 という武器が、男に使えなくなったわけだ。
では、今時の主婦層は、旦那に何を求めるようになったのか。
「エンターティメント性である」
という人がいる。
確かに、芸能界では、お笑い系の男性にやたら結婚話が多い。
「いっしょにいると楽しそう、面白そう」
こいつが、今の女性の結婚観の根幹を占めているとか。
けど、それは男性にとっては、意外としんどい条件かもしんない。
自分のキャラクターとはまったく合わない 「お笑い芸」 なんかを無理して身につけている男性って、ハタから見ていても痛いものな。
歯医者に行ったついでに、お好み焼き屋でランチの 「麦とろ定食」 を食べていたときだ。
隣のテーブルでは、昼間から鉄板でヤキソバを焼く主婦4人が盛り上がっていた。
「うちの旦那が来年65だからさ。いよいよ年金が入ってくるのよ」
「ああ、うちももう直ね」
…というような会話を交わしているところをみると、奥様方の年齢もいちおう60代をクリアしているのだろう。
何の集まりなのか分からないけれど、とにかく、皆やたら元気だ。
よく飲み (…といってもウーロン茶だけど) 、よく食べ、よくしゃべる。
盗み聞きしようと思ったわけではないが、彼女たちのおおらかなしゃべりが、自然に耳に入ってくるので、ついつい聞いてしまった。
「年金が入るようになるとさ、男ってとたんにシビアになるから、今のうちから自由になるお金をしっかり確保しておかないとダメよ」
「へそくりね」
「それって常識じゃない」
「大丈夫よ。うちは昔から生涯小遣いは4万円。それ以上はどんなことがあっても融通できませんからって、しっかり言い聞かせてあるから」
う~む。
奥様が家計をしっかり管理しているという昨今の家庭事情が、ここでも貫かれている感じだ。
旦那さんの小遣いが 「4万円」 というところがリアルだ。
各種の調査によっても、だいたい今時のサラリーマン家庭の旦那の小遣いは4万円から4万2~3千円の間らしい (うちはもっと安いけど…) 。
どこかの週刊誌で、 「アラフィ男の哀しい小遣い」 とかいう特集をやっていたけど、アラフィ…つまりアラウンドフィフティ (45歳~54歳) くらいの男性が奥様から得られる小遣いは、 「ランチを500円以内で済ます」 ことを前提として計算されているらしく、そこで取材された男性の中には、 「週に2回は駅構内の立ち食いソバで済ませていますね。安くて量があるし…」 というような、リアリティ溢れるレポートも掲載されていた。
その週刊誌の記事によると、今のアラフィ男の一番の “夢” というのは、
「一人の部屋がほしい」
「気兼ねなくタバコを吸いたい」
とかいったものらしい。
う~む。
なんとも “夢” のない夢だ。
「サイフのヒモを奥さんが握るようになった」 といわれて久しい。
カネを握るということは、権力を握るということと同義だから、今の 「家庭」 の実質的な支配者は 「奥様」 ということになる。
いったいいつ頃から、どうして、そうなったのだろうか。
「それは日本が豊かになったからだ」
という人がいる。
「戦後、とにかく今日食べていくのが精いっぱい」
という時代、夫婦のどちらがサイフのヒモを握るかなどという問題は、どうでもよかった。
お金が入れば、それは家庭を維持する資金として夫婦・親子に平等に分配された。
ところが、1964年の東京オリンピックあたりを境に、日本がだんだん豊かになっていく。
日本の豊かさは、洗濯機や掃除機といった家電の発達とシンクロしたから、専業主婦が携わる家事が少しずつ楽になるとともに、主婦に、家計を維持するためのノウハウを考案する時間が生まれる。
80年代になると、政府が内需拡大の音頭を取るようになる。
新製品や贅沢品を買うことが、国を繁栄させることにつながるという風潮が生まれ、消費することが美徳であるというモラルが誕生するようになる。
こういう個人消費を促進する時代風潮のなかで、主婦たちは、 「何をどのように買えば、賢い買い物になるのか」 という “消費のプロフェッショナル” になるスキルを身につけていく。
そのような動きに、旦那さんたちは完全に乗り遅れた。
旦那たちは、会社の利潤追求やコスト削減には骨身を削って知恵を絞るワザを覚えさせられたが、家庭に戻ってまで経営のプロになろうとは思わなかった。
その頃になると、すでにどの家庭でも 「経営のプロ」 である主婦層が育っていたからである。
男にとっても、家の煩わしいマネッジメントを奥さんが肩代わりしてくれることは楽だった。その方が毎晩気楽に飲み歩けるし、休日はゴルフに通えた。
それでいて、男たちは小遣いに不自由することはなかった。
なぜかというと、バブルまでの日本では会社の社交費がさんざん使えたからだ。不思議なことに、日本のサラリーマンのお父さんたちは、自分の小遣いで遊んだり、飲み食いする必要がない時代を持っていたのだ。
(余談だけど、今までの日本の男たちの趣味がみな画一的なのは、接待費で遊べる分野でしか遊ばなかったからだ)
で、お父さんたちが、経営権も含め家庭のリーダーシップを奥様から取り戻そうと思っても、それはもう無理だろう。
個々の家庭では、それが可能になる家もあるだろうけれど、それは例外的な家庭になるのではなかろうか。
なんといったって、奥様方の方には “ネットワーク” という強力な武器がある。
長年に渡って築いてきた地域コミュニティ、子供の同窓コミュニティ、趣味の会といった生きた情報交換が活発に交わされるネットワークがある。
「うちの旦那がこんな文句を言ってきた」
と一人の奥様が、そのネットワーク内で相談を持ちかければ、
「あ、そういうときはこういう対応がいい」
と、即座にあちこちからノウハウが伝授される。
ノウハウの伝授に留まらず、共感や支援のエールがふんだんに贈られる。
現に、お好み焼き屋でヤキソバを食べていた主婦たちの会話は、こんな風に進んでいった。
「やっぱさぁ、食事を作ってあげたときにはさぁ、男なら “美味しい” の一言ぐらい言うのが義務よね」
「そうそう。黙ったまま平然と口に運んでいる姿を見ると、腹が立つわよね」
「でね、何か言ったら? と言ったらね、何も言わないことこそ “美味しい” と思っている証拠で、不味いと思ったらそう言うよ、だって」
「サイテー!」
そうなのである。
この女性たちの 「共感の嵐」 こそ、彼女たちの活力を生んでいるのである。
こういう主婦層のネットワークに対し、旦那の方は、会社のネットワークを失うと、もう何も残っていないというのが現状ではなかろろうか。
さぁ、旦那さんたち、どうすればいいのだろう。
長年フェミニズムの論客としてならしてきた社会学者の上野千鶴子さんは、こういう。
「奥様が旦那を大事にしてくれないといって、男性が寂しがるのは自業自得。女に気を使ってもらうのが当たり前と思っていた反動。
寂しいと思うなら、女にサービスするしかない。少なくとも一緒に食事をして楽しいと思われる相手にならないと」
ここに旦那族が生き延びていくヒントがありそうだ。
「つまりチャーミングな旦那になれ」
ということだ。
経済的に自立した女性にとって、結婚相手は 「生活資金の供給者」 である必要がなくなった。
つまり、 「カネならあるぞ、どぅだぁ!」 という武器が、男に使えなくなったわけだ。
では、今時の主婦層は、旦那に何を求めるようになったのか。
「エンターティメント性である」
という人がいる。
確かに、芸能界では、お笑い系の男性にやたら結婚話が多い。
「いっしょにいると楽しそう、面白そう」
こいつが、今の女性の結婚観の根幹を占めているとか。
けど、それは男性にとっては、意外としんどい条件かもしんない。
自分のキャラクターとはまったく合わない 「お笑い芸」 なんかを無理して身につけている男性って、ハタから見ていても痛いものな。
2009年06月16日
小説になって本物
ある乗り物文化が、どれだけ人々の生活の中に定着化しているかどうかを測るバロメーターがひとつある。
それは、その乗り物が 「小説」 の中に登場したかどうか?
…である。
自動車はいうに及ばず、船、飛行機、鉄道などには、それぞれ傑作小説が残っている。
自動車なら、たとえば五木寛之さんには自動車小説集があるし、古今東西のハードボイルド小説には、クルマそのもののうんちくに数ページを費やすなんていうのがザラにある。
船を舞台にした小説ともなれば 『蟹工船』 などが最近は脚光を浴びたけれど、古典をあげれば 『白鯨』 、 『宝島』 などの名作が目白押し。
航空機小説となると、古典として有名なサン・テクジュペリの 『夜間飛行』 をはじめとして、これも第二次世界大戦ものから、現代のジェット戦闘機をテーマにしたものまで数えればきりがない。
鉄道が鍵を握る有名作となれば、アガサ・クリスティの 『オリエント急行殺人事件』 を筆頭に、これまた枚挙にいとまがない。
では、キャンピングカーがテーマとなるような小説はあるのか?
…となると、ないんだなぁ、これが…。
(少なくとも、自分の得ている情報の範囲にはない)
かろうじてジョン・スタインベックの 『チャーリーとの旅』 があるが、あれは小説というより、作者のアメリカ分析を試みるためのエッセイという趣 (おもむき) に近い。
キャンピングカーが絡んだ小説というのがない理由は、自動車、鉄道、船舶などに比べると普及度が低く、それを扱ってもマーケット的な広がりを期待できない…というのが一つ。
また、キャンピングカーの基礎知識を持っている作家が少ないというのもあるだろう。
さらには、キャンピングカーは家族単位のレジャーに使う 「平和な乗り物」 というイメージが強いから、 “手に汗握るアクション小説” などの小道具として使いにくいという理由もありそうだ。
TVや雑誌で採り上げられるキャンピングカー特集を見ていると、“家族や夫婦で和気あいあい” という切り口のものばかり。
もちろん、そこにキャンピングカーの意義があるのだけれど、家族や夫婦で使う乗り物であるならば、対立や葛藤まで含めて、ホームドラマ以上に面白く扱える人間模様が生まれているはずなのだ。
ドラマの脚本家たちは、 「家庭」 の中にドラマを見つけることは得意でも、キャンピングカーの中のドラマには思いを馳せることがないらしい。
いずれにせよ、本格的なキャンピングカー小説というのが登場しないのは、乗り物の中での普及度が低いという一言に尽きそうだ。
しかし、TVや雑誌にキャンピングカーが採り上げられる頻度も高くなり、それをきっかけに関心を持つ人々も増加している今日このごろ。そろそろ、その手の小説が出てきても良さそうに思える。

ふと真剣になって考えると、キャンピングカーの中というのはドラマの宝庫なのだ。
まずホームドラマの舞台としても、キャンピングカーは格好の場となる。
例えば、長年連れ添った夫婦が、旦那さんの定年を機にキャンピングカーの長旅を始めたとしよう。
たぶん 「運転席+1部屋」 というような限られた室内で、夫婦がずっと隣り合わせに移動しながら生活するというのは、はじめての経験となるはずだ。
そういう旅を始めてみると、
「俺たちには共通の会話ってものないんだな…」
などと気づく夫婦もいるかもしれないし、
「あ、あなたそんな素敵な考え方を持っていたの!」
と、お互いに相手の中に未知なるものを発見して気持ちがリフレッシュされるかもしれない。
もうそういう設定だけで、十分にドラマが発生するじゃないか。
もしスリリングな展開に持っていきたいときは、奥さんが 「食事の用意でも…」 と思って食器棚を開けると、そこに見たこともない女性用のマグカップが…
とかね。
キャンピングカーを使った男の一人旅なんていうテーマもいい。
主人公は、定年退職した独り暮らしの中年。
失われいく “日本の原風景” などをスケッチすることを趣味かなんかにして、全国を回っている。
ところが彼は現職時代は、凄腕のデカだったのだ。
気に入った町や村があると、しばらく長逗留するのだが、いつもそこで事件に遭遇。
地元の警官でも解決できない難事件を難なく解決してしまう。
犯人の行動を監視する張り込みの舞台にキャンピングカーを使っていいし、捜査を助けるための小道具が何でも収納庫に収まっているなんていう設定もあり。
口の堅い関係者から秘密の話を聞き出すときに、キャンピングカーの室内をうまく使って、相手の気持ちを解きほぐす…なんてのはどうだ?
「最近ペットボトルのお茶しか飲んだことがないですか? たまにはお湯を沸かしてお茶を飲みましょうよ。いい煎茶を仕入れてあるんです。
なあに、この車載のコンロに火をつければ、すぐにお湯が湧きますから。
ところで、殺された重吉さんには、確か一人息子がいましたよねぇ?」
…とかさ。
“キャンピングカー刑事” なんて荒唐無稽だけど、まぁ、タクシーの運転手をしている元刑事が主役のサスペンスドラマなんてのもあるくらいだからさ。
誰か書かないかなぁ…。
キャンピングカー小説。
もし、そういう小説がうっかり直木賞でも取ったりしたら、どんな広告よりも効果のある宣伝になること間違いなしなんけどさ。
それは、その乗り物が 「小説」 の中に登場したかどうか?
…である。
自動車はいうに及ばず、船、飛行機、鉄道などには、それぞれ傑作小説が残っている。
自動車なら、たとえば五木寛之さんには自動車小説集があるし、古今東西のハードボイルド小説には、クルマそのもののうんちくに数ページを費やすなんていうのがザラにある。
船を舞台にした小説ともなれば 『蟹工船』 などが最近は脚光を浴びたけれど、古典をあげれば 『白鯨』 、 『宝島』 などの名作が目白押し。
航空機小説となると、古典として有名なサン・テクジュペリの 『夜間飛行』 をはじめとして、これも第二次世界大戦ものから、現代のジェット戦闘機をテーマにしたものまで数えればきりがない。
鉄道が鍵を握る有名作となれば、アガサ・クリスティの 『オリエント急行殺人事件』 を筆頭に、これまた枚挙にいとまがない。
では、キャンピングカーがテーマとなるような小説はあるのか?
…となると、ないんだなぁ、これが…。
(少なくとも、自分の得ている情報の範囲にはない)
かろうじてジョン・スタインベックの 『チャーリーとの旅』 があるが、あれは小説というより、作者のアメリカ分析を試みるためのエッセイという趣 (おもむき) に近い。
キャンピングカーが絡んだ小説というのがない理由は、自動車、鉄道、船舶などに比べると普及度が低く、それを扱ってもマーケット的な広がりを期待できない…というのが一つ。
また、キャンピングカーの基礎知識を持っている作家が少ないというのもあるだろう。
さらには、キャンピングカーは家族単位のレジャーに使う 「平和な乗り物」 というイメージが強いから、 “手に汗握るアクション小説” などの小道具として使いにくいという理由もありそうだ。
TVや雑誌で採り上げられるキャンピングカー特集を見ていると、“家族や夫婦で和気あいあい” という切り口のものばかり。
もちろん、そこにキャンピングカーの意義があるのだけれど、家族や夫婦で使う乗り物であるならば、対立や葛藤まで含めて、ホームドラマ以上に面白く扱える人間模様が生まれているはずなのだ。
ドラマの脚本家たちは、 「家庭」 の中にドラマを見つけることは得意でも、キャンピングカーの中のドラマには思いを馳せることがないらしい。
いずれにせよ、本格的なキャンピングカー小説というのが登場しないのは、乗り物の中での普及度が低いという一言に尽きそうだ。
しかし、TVや雑誌にキャンピングカーが採り上げられる頻度も高くなり、それをきっかけに関心を持つ人々も増加している今日このごろ。そろそろ、その手の小説が出てきても良さそうに思える。
ふと真剣になって考えると、キャンピングカーの中というのはドラマの宝庫なのだ。
まずホームドラマの舞台としても、キャンピングカーは格好の場となる。
例えば、長年連れ添った夫婦が、旦那さんの定年を機にキャンピングカーの長旅を始めたとしよう。
たぶん 「運転席+1部屋」 というような限られた室内で、夫婦がずっと隣り合わせに移動しながら生活するというのは、はじめての経験となるはずだ。
そういう旅を始めてみると、
「俺たちには共通の会話ってものないんだな…」
などと気づく夫婦もいるかもしれないし、
「あ、あなたそんな素敵な考え方を持っていたの!」
と、お互いに相手の中に未知なるものを発見して気持ちがリフレッシュされるかもしれない。
もうそういう設定だけで、十分にドラマが発生するじゃないか。
もしスリリングな展開に持っていきたいときは、奥さんが 「食事の用意でも…」 と思って食器棚を開けると、そこに見たこともない女性用のマグカップが…
とかね。
キャンピングカーを使った男の一人旅なんていうテーマもいい。
主人公は、定年退職した独り暮らしの中年。
失われいく “日本の原風景” などをスケッチすることを趣味かなんかにして、全国を回っている。
ところが彼は現職時代は、凄腕のデカだったのだ。
気に入った町や村があると、しばらく長逗留するのだが、いつもそこで事件に遭遇。
地元の警官でも解決できない難事件を難なく解決してしまう。
犯人の行動を監視する張り込みの舞台にキャンピングカーを使っていいし、捜査を助けるための小道具が何でも収納庫に収まっているなんていう設定もあり。
口の堅い関係者から秘密の話を聞き出すときに、キャンピングカーの室内をうまく使って、相手の気持ちを解きほぐす…なんてのはどうだ?
「最近ペットボトルのお茶しか飲んだことがないですか? たまにはお湯を沸かしてお茶を飲みましょうよ。いい煎茶を仕入れてあるんです。
なあに、この車載のコンロに火をつければ、すぐにお湯が湧きますから。
ところで、殺された重吉さんには、確か一人息子がいましたよねぇ?」
…とかさ。
“キャンピングカー刑事” なんて荒唐無稽だけど、まぁ、タクシーの運転手をしている元刑事が主役のサスペンスドラマなんてのもあるくらいだからさ。
誰か書かないかなぁ…。
キャンピングカー小説。
もし、そういう小説がうっかり直木賞でも取ったりしたら、どんな広告よりも効果のある宣伝になること間違いなしなんけどさ。
2009年06月15日
遠大な計画
たぶん、井上靖さんの小説かエッセイに出てきたエピソードだったかと思う。
ひょっとしたら、司馬遼太郎さんか。
原典を明らかにしないまま書くと信憑性を損ねることになるとは思うが、
「遠大な計画」
というものが、どういうものであるのか。
それを象徴的に語る格好の例として、ときどき人に紹介する話がある。
古代中国の墓堀泥棒の話だ。
エジプトのピラミッドのように、絶大な権力を持つ王が残した墳墓には、財宝が山のように埋められているというのは、古代から庶民の間でも常識だった。
だから、それを盗もうとするために、ありとあらゆる手口が使われたという。
古代中国においてもしかり。
秦の始皇帝クラスの権力者ともなれば、その陵墓に、生前と同じぐらいの生活ができるほどの富を埋めた。
そういう財宝を、誰にも気づかれず、確実に盗み出す方法はあるのか。
ある。
…ということを、その小説に出てくる主人公は知るのである。
主人公がどんな人間だったか、とんと記憶がないのだけれど、要は彼が田舎の一軒家を訪れるわけである。
古代中国の貧しい農家だ。
ろくに食べるようなものすらない家に、主人公は世話になる。
( このあたりは記憶の欠如を想像で補っているので、原典と異なっている可能性大!)
そこの家族は、昼間は荒れた土地を耕して、ささやかな耕作物を作っている。
しかし、夜になると、みんなで家の下にトンネルを掘っているのである。
主人公が 「何をしているのだ?」 と聞くと、その家のオヤジが 「王様の墓のなかに眠っている財宝を盗むんだよ」 と答えるのである。
「王様の墓だって? いったいどこにあるんだよ?」
と主人公は、見渡す限りの平原を見つめて尋ねる。
「あの山の向こうさ」
オヤジはこともなげに答える。
「………」
主人公はそこで絶句。

確かに、山の向こう側には王家の墓がある。
そして、墓の周辺には警護の兵士が充満していて、庶民には近づくもできない。
だからといって、こんな遠くから掘っていれば、山の麓にたどり着くまでに死んでしまうだろう。
主人公は 「こいつ、気は確かか?」 と疑う。
オヤジは、主人公の気持ちを察知してニヤリと笑う。
「もちろんオレの代で財宝を手に入れようとなんて思っちゃいないよ。
だけどオレが死ねば、今度は息子が穴を掘る。
息子が死ねば、孫が掘る。
そのうち、俺の家族の誰かが莫大な財宝を手に入れる」
話はそこで終わるわけだが、このくだりには 「遠大な計画」 とはどういうものかというエッセンスが凝縮しているように思う。
「さすが、中国人は考えることがデッカイやぁ!」
…と感嘆する人もいるだろうし、
「家族への信頼とはそういうものか」
…とうなずく人もいるかもしれないし、
「夢を実現するための努力」
…といったものを感じる人いるかもしれない。
でも、私はこの話を 「ビジネスと文化」 の話としてときどき引き合いに出す。
つまり、キャンピングカー販売ならキャンピングカー販売といったビジネスが、なかなか思うように進展しないと嘆く人がいたときに、それが目に見える成果をもたらすまでには、携わる人たちの 「父、子、孫」 といった3世代ほどの継続的な努力が必要だ…という例として、この話を持ち出す。
今の世の中、 「一世代で儲けられる」 という話が多すぎる。
世で人気のある 「サクセスストーリー」 は、みな一世代で成功した人の話ばかりだ。
しかし、一世代でボロ儲けできるような商売は、その一世代だけで終わる可能性だってある。
ビジネスとして継続する力は、そこで扱われる商品が 「文化」 として定着することによって生まれる。
文化として定着するには、それこそ父、子、孫といった3世代ほどのサイクルが必要になる。
文化というのは、
「ほら、このバーナーは使いやすいだろう。しかも、壊れにくい。こいつはお爺ちゃんも使っていたヤツで、他のものとはここの細工が違っていてね…」
という形で、受け継がれていくものだ。
今キャンピングカー産業においては、業界的にも市場として、ようやく父から子に移りかけているぐらいの頃かな…と思ったりする。
この前、 『日本のキャンピングカーの歴史』 という資料を編纂するために、日本RV協会の前会長であった増田英樹氏を取材したとき、彼がこんなことを言っていた。
「30年ほど前にこの仕事を始めて、その時気づいたのは、自分たちより年上のお客さんがまったくいないということだったのね。
考えてみれば当たり前のことで、当時、僕ら以上の年齢の大人は、キャンピングカーがある生活なんて想像したこともなかったんだよ」
この話からも分かるとおり、キャンピングカーを売るという商売そのものが、日本ではたかだか30年くらい前に発生したばかりなのだ。
産業としては、オヤジが王様の陵墓に向かって、最初のトンネルを掘り出し、ようやく息子がそれを手伝い始めたぐらいのタイミングなのだ。
業界の皆様、 「パイが小さい」 とか、アセることはないんじゃないんでしょうか。
だって始まったばかりなんだもの。
こういうことは、泥棒の 「たとえ話」 で話しちゃまずかったのかもしれないけれど。
ひょっとしたら、司馬遼太郎さんか。
原典を明らかにしないまま書くと信憑性を損ねることになるとは思うが、
「遠大な計画」
というものが、どういうものであるのか。
それを象徴的に語る格好の例として、ときどき人に紹介する話がある。
古代中国の墓堀泥棒の話だ。
エジプトのピラミッドのように、絶大な権力を持つ王が残した墳墓には、財宝が山のように埋められているというのは、古代から庶民の間でも常識だった。
だから、それを盗もうとするために、ありとあらゆる手口が使われたという。
古代中国においてもしかり。
秦の始皇帝クラスの権力者ともなれば、その陵墓に、生前と同じぐらいの生活ができるほどの富を埋めた。
そういう財宝を、誰にも気づかれず、確実に盗み出す方法はあるのか。
ある。
…ということを、その小説に出てくる主人公は知るのである。
主人公がどんな人間だったか、とんと記憶がないのだけれど、要は彼が田舎の一軒家を訪れるわけである。
古代中国の貧しい農家だ。
ろくに食べるようなものすらない家に、主人公は世話になる。
( このあたりは記憶の欠如を想像で補っているので、原典と異なっている可能性大!)
そこの家族は、昼間は荒れた土地を耕して、ささやかな耕作物を作っている。
しかし、夜になると、みんなで家の下にトンネルを掘っているのである。
主人公が 「何をしているのだ?」 と聞くと、その家のオヤジが 「王様の墓のなかに眠っている財宝を盗むんだよ」 と答えるのである。
「王様の墓だって? いったいどこにあるんだよ?」
と主人公は、見渡す限りの平原を見つめて尋ねる。
「あの山の向こうさ」
オヤジはこともなげに答える。
「………」
主人公はそこで絶句。
確かに、山の向こう側には王家の墓がある。
そして、墓の周辺には警護の兵士が充満していて、庶民には近づくもできない。
だからといって、こんな遠くから掘っていれば、山の麓にたどり着くまでに死んでしまうだろう。
主人公は 「こいつ、気は確かか?」 と疑う。
オヤジは、主人公の気持ちを察知してニヤリと笑う。
「もちろんオレの代で財宝を手に入れようとなんて思っちゃいないよ。
だけどオレが死ねば、今度は息子が穴を掘る。
息子が死ねば、孫が掘る。
そのうち、俺の家族の誰かが莫大な財宝を手に入れる」
話はそこで終わるわけだが、このくだりには 「遠大な計画」 とはどういうものかというエッセンスが凝縮しているように思う。
「さすが、中国人は考えることがデッカイやぁ!」
…と感嘆する人もいるだろうし、
「家族への信頼とはそういうものか」
…とうなずく人もいるかもしれないし、
「夢を実現するための努力」
…といったものを感じる人いるかもしれない。
でも、私はこの話を 「ビジネスと文化」 の話としてときどき引き合いに出す。
つまり、キャンピングカー販売ならキャンピングカー販売といったビジネスが、なかなか思うように進展しないと嘆く人がいたときに、それが目に見える成果をもたらすまでには、携わる人たちの 「父、子、孫」 といった3世代ほどの継続的な努力が必要だ…という例として、この話を持ち出す。
今の世の中、 「一世代で儲けられる」 という話が多すぎる。
世で人気のある 「サクセスストーリー」 は、みな一世代で成功した人の話ばかりだ。
しかし、一世代でボロ儲けできるような商売は、その一世代だけで終わる可能性だってある。
ビジネスとして継続する力は、そこで扱われる商品が 「文化」 として定着することによって生まれる。
文化として定着するには、それこそ父、子、孫といった3世代ほどのサイクルが必要になる。
文化というのは、
「ほら、このバーナーは使いやすいだろう。しかも、壊れにくい。こいつはお爺ちゃんも使っていたヤツで、他のものとはここの細工が違っていてね…」
という形で、受け継がれていくものだ。
今キャンピングカー産業においては、業界的にも市場として、ようやく父から子に移りかけているぐらいの頃かな…と思ったりする。
この前、 『日本のキャンピングカーの歴史』 という資料を編纂するために、日本RV協会の前会長であった増田英樹氏を取材したとき、彼がこんなことを言っていた。
「30年ほど前にこの仕事を始めて、その時気づいたのは、自分たちより年上のお客さんがまったくいないということだったのね。
考えてみれば当たり前のことで、当時、僕ら以上の年齢の大人は、キャンピングカーがある生活なんて想像したこともなかったんだよ」
この話からも分かるとおり、キャンピングカーを売るという商売そのものが、日本ではたかだか30年くらい前に発生したばかりなのだ。
産業としては、オヤジが王様の陵墓に向かって、最初のトンネルを掘り出し、ようやく息子がそれを手伝い始めたぐらいのタイミングなのだ。
業界の皆様、 「パイが小さい」 とか、アセることはないんじゃないんでしょうか。
だって始まったばかりなんだもの。
こういうことは、泥棒の 「たとえ話」 で話しちゃまずかったのかもしれないけれど。
2009年06月11日
80年代的感性
村上春樹の 『1Q84』 が社会現象となるくらい売れているようだ。
1984年の時代を扱った小説だという。

なぜ1984年なのか。
その小説自体まだ読んでいないので、中身まで語ることはできないけれど、私は村上春樹とほぼ同年代なので、なぜ彼が1980年代にこだわるのか、その気分だけは分かる気がするのだ。
たぶん、村上春樹には自分の 「青春」 が二つあるのではないか。
ひとつは、肉体年齢の若い時期に訪れる、世間一般でいうところの 「青春」 。
そしてもう一つは、精神が成熟することによって、世界が再び新鮮なものに見えてきたときに感じる 「青春」 。
村上春樹は、おそらく1980年代に、「世界」 をもう一度自分の手元に手繰り寄せたのだ。
そして、あの時代の不思議な輝きが、 「なぜ自分にとって魅力的に思えるのか?」 、それを自分自身に問う作業を行なっているのではなかろうか。
その気持ちは私にもあるのだ。
私は1950年代の生まれだから、 「60年代文化・70年代文化」 のなかで “青春” を費やしてきた。
だから、感受性の核となるようなものは 「60年代文化・70年代文化」 によって形成されたはずなのだが、なぜかそれ以上に、 「80年代文化」 が自分の感受性の核に横たわっているように思う。

80年代を過ごしたのは自分が30歳代のときだった。
結婚して子供もいた。
だから、仕事に関わる知識や情報の取得は別として、いわゆる 「一般教養」 的な “お勉強” はとっくに卒業している年齢のはずだった。
しかし、実はこの時期が、自分の生涯の中でもっとも “お勉強” なるものに励んだ時代だった。
とにかく夢中で本を読んで、大事だと思われたフレーズには赤ペンで印を付け、深夜には読書日記をつけ、興味を抱いた著者には、仕事にかこつけてアポを取って会い、その談話はテープにとって取材記録として残した。
なんでそんなことをしていたか。
面白かったからである。
“お勉強” などにほとんど縁のない高校・大学時代を送り、一般教養も専門知識もまったく身につけずに社会に出てしまった自分が、遅ればせながら、30代に入ってはじめて勉強の面白さに気がついたのだ。
時代が良かった。
時は折しもニューアカ時代。
「ニューアカデミズム」 とマスコミに称された一連の文化ムーブメントが、時代の精神を表現するものとして脚光を浴びていた。
当時26歳だった京大助手の浅田彰が 『構造と力』 で評判を取って以来、中沢新一の 『チベットのモーツァルト』 などが人気を博し、フェミニストとして上野千鶴子が活動を開始し、既成のアカデミズムの傍流にいた研究者たちに、一気にスポットライトが当たった。

それまで、戦後の知識人として評価されていた小林秀雄、丸山真男、吉本隆明といった人気者の仕事以外に、山口昌男、中村雄二郎といったサブカルに言及できる学者の仕事ぶりにも注目が集まり、文学では柄谷行人、映画では蓮見重彦らがカリスマ評論家としてもてはやされるようになった。
これらの思想家たちは、それまでの学問や教養というものとは一線を画した世界を披露することで自分の発言力を高めようとした人たちであったから、とにかくその主張が、一から十まで目新しかった。
私などは、彼らが書くもの、しゃべること全て対し 「へぇーそうかいな!」 と、目からウロコの連続だった。
「今まで見てきた世界が、まったく違うものに見えてきた」
そんな経験を持ったのは、生まれてはじめてだった。

今日、この 「ニューアカ」 現象は揶揄 (やゆ) の対象にしかなっていない。
それにカブれた人も、それを外から批判した人も、今や 「ニューアカ」 という言葉を使うのは侮蔑的な文脈の場合だけに限られている。
ニューアカブームというのは、基本的に商業主義の先端と結びついた現象で、資本主義の要請から生まれたものに過ぎないという人もいる。
また、単に軽薄なだけであり、スノッブ (俗物的) で、ナルシスティックで、自己顕示欲の強い人種のみに支持された風潮だという人もいる
でも、そんな批判は私にはどうでもいい。
勝手にほざいてろ、と思う。
自分が 「面白い」 と思えることに没頭できることが、意義のあることなのだから。
「ニューアカ」 と称される作家たちの本を読み漁るうちに、自分は “世界” を2度見ることになった。
1度目は、親・学校・会社などから教育を受けることによって見ることのできた世界。
そして2度目は、30代になって、自分で本を読むことによって発見した世界。
この2度目に見えた 「世界」 として、現実的に目の前に展開されたのが 「80年代」 の光景なのである。
80年代の諸風景が自分の感性の原点となったのは、たぶん、80年代に 「世界が新しく見えた」 という体験をしたからだと思う。
80年代というのは、非常に多義的な時代で、ムーブメントや流行などに関しても、否定的に見ようとおもえばいくらでも否定的に眺められるし、肯定的に評価しようと思えば、いくらでも肯定的な視点が生まれてくる時代であった。
一般的には、 「バブルの興隆期」 として見られ、華やかだが、軽薄で、底が浅く、“泡” のようにはかない時代とされることが多い。
また、 「60年代、70年代にはあった人間の温かみが失われ、殺伐とした無味乾燥時代の始まり」 と捉える人もいる。
しかし、そうとばかりいえるかどうか。
80年代はすべてが 「両義的」 だ。
“はかなさ” の裏には透明度の高い哀しみがあり、軽薄さの影には、奇抜なパロディと巧妙なアイロニーが生まれていた。
80年代現象には、常に良い評価と悪い評価が、常に背中合わせにくっ付いている。
そういう時代の美意識もまた 「両義的」 にならざるを得ず、従来グロテスクなものと忌み嫌われたもの中に 「美」 があったり、美的と評価されていたものにメスを入れたら、 「退屈」 という膿みが吹き出してきたなどという発見がよくあった。
たとえば、映画 『エイリアン』 の中に出てくるグロテクスなエイリアン像や、彼らが乗っていた奇怪な宇宙船に 「美」 を見いだすという精神は、80年代に生まれてきたものだし、クラフトワークやYMOのような無機的なデジタルビートに 「美」 を感じるような感受性も、80年代に生まれてきたものだ。
村上春樹の 「読者を突き放すような冷たい文体」 が、なぜか叙情的に感じられたりするのも、80年代からの現象といえるだろう。
また、ガラスと鉄の近代的なビルに覆われた都市空間が、物質的で非人間性な抑圧空間ではなく、幻想的で哀愁をたたえた遊戯空間として認知するような考え方も80年代に生まれた。
リドリー・スコットが描いた 『ブレードランナー』 の近未来都市 (2019年のロサンゼルス) などは、まさに80年代の美意識が生み出した都市美の典型である。

こういう80年代的な光景が自分の感性の中に根を降ろし始めると、どんな時代のアートや映画を見ても、いつのまにか 「80年代の眼差し」 で見てしまうことがある。
たとえば、ミケランジェロ・アントニオーニの一連の60年代映画や、ジョルジョ・デ・キリコの40年代絵画などに接しても、私はそこに80年代の匂いを嗅ぐ。彼らの無機的で人工的な風景の中に、きわめて80年代的な孤独感・寂寥感といったものを見出してしまう。

「心の原風景」 という言葉があるけれど、たいていの人にとって、 「原風景」 とは幼少期に見た光景のことを意味する。それは 「最初に見た世界」 だからだ。
でも私には、幼少期に裸足で駆け回った赤土の風景と、社会人になってから見つけた宙に浮遊する高層ビルの二つの 「原風景」 がある。
竹やぶの隙間から漏れてくる夕陽も美しいが、光の刃物となって地に突き刺さるガラスのビルの反射も美しい。
前者は、自分の生の体験から見えた世界像。
後者は、80年代になって見えた世界像。
そのどちらも、自分にとっては真実であるように思う。
1984年の時代を扱った小説だという。
なぜ1984年なのか。
その小説自体まだ読んでいないので、中身まで語ることはできないけれど、私は村上春樹とほぼ同年代なので、なぜ彼が1980年代にこだわるのか、その気分だけは分かる気がするのだ。
たぶん、村上春樹には自分の 「青春」 が二つあるのではないか。
ひとつは、肉体年齢の若い時期に訪れる、世間一般でいうところの 「青春」 。
そしてもう一つは、精神が成熟することによって、世界が再び新鮮なものに見えてきたときに感じる 「青春」 。
村上春樹は、おそらく1980年代に、「世界」 をもう一度自分の手元に手繰り寄せたのだ。
そして、あの時代の不思議な輝きが、 「なぜ自分にとって魅力的に思えるのか?」 、それを自分自身に問う作業を行なっているのではなかろうか。
その気持ちは私にもあるのだ。
私は1950年代の生まれだから、 「60年代文化・70年代文化」 のなかで “青春” を費やしてきた。
だから、感受性の核となるようなものは 「60年代文化・70年代文化」 によって形成されたはずなのだが、なぜかそれ以上に、 「80年代文化」 が自分の感受性の核に横たわっているように思う。
80年代を過ごしたのは自分が30歳代のときだった。
結婚して子供もいた。
だから、仕事に関わる知識や情報の取得は別として、いわゆる 「一般教養」 的な “お勉強” はとっくに卒業している年齢のはずだった。
しかし、実はこの時期が、自分の生涯の中でもっとも “お勉強” なるものに励んだ時代だった。
とにかく夢中で本を読んで、大事だと思われたフレーズには赤ペンで印を付け、深夜には読書日記をつけ、興味を抱いた著者には、仕事にかこつけてアポを取って会い、その談話はテープにとって取材記録として残した。
なんでそんなことをしていたか。
面白かったからである。
“お勉強” などにほとんど縁のない高校・大学時代を送り、一般教養も専門知識もまったく身につけずに社会に出てしまった自分が、遅ればせながら、30代に入ってはじめて勉強の面白さに気がついたのだ。
時代が良かった。
時は折しもニューアカ時代。
「ニューアカデミズム」 とマスコミに称された一連の文化ムーブメントが、時代の精神を表現するものとして脚光を浴びていた。
当時26歳だった京大助手の浅田彰が 『構造と力』 で評判を取って以来、中沢新一の 『チベットのモーツァルト』 などが人気を博し、フェミニストとして上野千鶴子が活動を開始し、既成のアカデミズムの傍流にいた研究者たちに、一気にスポットライトが当たった。
それまで、戦後の知識人として評価されていた小林秀雄、丸山真男、吉本隆明といった人気者の仕事以外に、山口昌男、中村雄二郎といったサブカルに言及できる学者の仕事ぶりにも注目が集まり、文学では柄谷行人、映画では蓮見重彦らがカリスマ評論家としてもてはやされるようになった。
これらの思想家たちは、それまでの学問や教養というものとは一線を画した世界を披露することで自分の発言力を高めようとした人たちであったから、とにかくその主張が、一から十まで目新しかった。
私などは、彼らが書くもの、しゃべること全て対し 「へぇーそうかいな!」 と、目からウロコの連続だった。
「今まで見てきた世界が、まったく違うものに見えてきた」
そんな経験を持ったのは、生まれてはじめてだった。
今日、この 「ニューアカ」 現象は揶揄 (やゆ) の対象にしかなっていない。
それにカブれた人も、それを外から批判した人も、今や 「ニューアカ」 という言葉を使うのは侮蔑的な文脈の場合だけに限られている。
ニューアカブームというのは、基本的に商業主義の先端と結びついた現象で、資本主義の要請から生まれたものに過ぎないという人もいる。
また、単に軽薄なだけであり、スノッブ (俗物的) で、ナルシスティックで、自己顕示欲の強い人種のみに支持された風潮だという人もいる
でも、そんな批判は私にはどうでもいい。
勝手にほざいてろ、と思う。
自分が 「面白い」 と思えることに没頭できることが、意義のあることなのだから。
「ニューアカ」 と称される作家たちの本を読み漁るうちに、自分は “世界” を2度見ることになった。
1度目は、親・学校・会社などから教育を受けることによって見ることのできた世界。
そして2度目は、30代になって、自分で本を読むことによって発見した世界。
この2度目に見えた 「世界」 として、現実的に目の前に展開されたのが 「80年代」 の光景なのである。
80年代の諸風景が自分の感性の原点となったのは、たぶん、80年代に 「世界が新しく見えた」 という体験をしたからだと思う。
80年代というのは、非常に多義的な時代で、ムーブメントや流行などに関しても、否定的に見ようとおもえばいくらでも否定的に眺められるし、肯定的に評価しようと思えば、いくらでも肯定的な視点が生まれてくる時代であった。
一般的には、 「バブルの興隆期」 として見られ、華やかだが、軽薄で、底が浅く、“泡” のようにはかない時代とされることが多い。
また、 「60年代、70年代にはあった人間の温かみが失われ、殺伐とした無味乾燥時代の始まり」 と捉える人もいる。
しかし、そうとばかりいえるかどうか。
80年代はすべてが 「両義的」 だ。
“はかなさ” の裏には透明度の高い哀しみがあり、軽薄さの影には、奇抜なパロディと巧妙なアイロニーが生まれていた。
80年代現象には、常に良い評価と悪い評価が、常に背中合わせにくっ付いている。
そういう時代の美意識もまた 「両義的」 にならざるを得ず、従来グロテスクなものと忌み嫌われたもの中に 「美」 があったり、美的と評価されていたものにメスを入れたら、 「退屈」 という膿みが吹き出してきたなどという発見がよくあった。
たとえば、映画 『エイリアン』 の中に出てくるグロテクスなエイリアン像や、彼らが乗っていた奇怪な宇宙船に 「美」 を見いだすという精神は、80年代に生まれてきたものだし、クラフトワークやYMOのような無機的なデジタルビートに 「美」 を感じるような感受性も、80年代に生まれてきたものだ。
村上春樹の 「読者を突き放すような冷たい文体」 が、なぜか叙情的に感じられたりするのも、80年代からの現象といえるだろう。
また、ガラスと鉄の近代的なビルに覆われた都市空間が、物質的で非人間性な抑圧空間ではなく、幻想的で哀愁をたたえた遊戯空間として認知するような考え方も80年代に生まれた。
リドリー・スコットが描いた 『ブレードランナー』 の近未来都市 (2019年のロサンゼルス) などは、まさに80年代の美意識が生み出した都市美の典型である。
こういう80年代的な光景が自分の感性の中に根を降ろし始めると、どんな時代のアートや映画を見ても、いつのまにか 「80年代の眼差し」 で見てしまうことがある。
たとえば、ミケランジェロ・アントニオーニの一連の60年代映画や、ジョルジョ・デ・キリコの40年代絵画などに接しても、私はそこに80年代の匂いを嗅ぐ。彼らの無機的で人工的な風景の中に、きわめて80年代的な孤独感・寂寥感といったものを見出してしまう。
「心の原風景」 という言葉があるけれど、たいていの人にとって、 「原風景」 とは幼少期に見た光景のことを意味する。それは 「最初に見た世界」 だからだ。
でも私には、幼少期に裸足で駆け回った赤土の風景と、社会人になってから見つけた宙に浮遊する高層ビルの二つの 「原風景」 がある。
竹やぶの隙間から漏れてくる夕陽も美しいが、光の刃物となって地に突き刺さるガラスのビルの反射も美しい。
前者は、自分の生の体験から見えた世界像。
後者は、80年代になって見えた世界像。
そのどちらも、自分にとっては真実であるように思う。
2009年05月01日
幻の町の幻の銭湯
子供がまだ小さかった頃、よく一緒に銭湯に通った。
もちろん家に風呂もあったのだが、やはり銭湯の広々した空間がもたらす独特の解放感が心地よく思えたからだ。
家の近くの銭湯に行くときは、歩いたり、自転車に乗る。
少し離れた街の銭湯に行くときは、クルマまで使った。
ちょっと熱めの湯に浸かり、頭に手ぬぐいなど載せて、富士山などの壁絵を眺める。

銭湯の中には、露天風呂まで備えたところもあり、ちょっとした温泉気分も味わえる。
身体が温まったら、縁せきの岩の上に座り、夜風に身体をさらす。
風呂から上がれば、扇風機の前に座り、コーヒー牛乳かヤクルトを飲む。
それが私と息子の銭湯の楽しみ方だった。
あるとき、隣町の銭湯を探しているとき、偶然にも不思議な一角に出た。
人気のない静かな住宅街のど真ん中に、古びた銭湯があり、その周辺だけが、小さな町になっていたのだ。
町といっても、5~6軒の商店街を抜けると、そこから先はストンと切って落とされたように、静まり返った家々が濃い闇に包まれて眠っている。住宅街というより、森の感じに近い。
銭湯の周辺だけが、村の神社の夜祭りにように、わずかな灯りが集まっている。
銭湯の隣りには、昭和30年代の風情を感じさせる小さなマーケットがあり、店先に野菜や果物、その奥に乾物などを並べられている。
店を照らす蛍光灯がやけに薄暗いために、黄色い裸電球が吊るされているような古めかしさが漂ってくる。
その隣りには、屋台の焼き鳥屋が店を構えていて、小さなコンロの上に置かれた焼き鳥から、静かに煙が上がっている。
のれんの陰に顔を隠した店主は、客も来ないのに、ていねいに串をひっくり返している。
「純喫茶」 などという古風な呼び方がふさわしい昔風の喫茶店もある。
喫茶店の出窓には、ホコリのかかったスパゲティのロウ細工の見本が置かれ、時間が止まったような印象を与える。
店の窓の奥からは明かりが漏れてくるのだが、中に人がいるのかどうか、定かではない。
町は全体的に活気が乏しい。
店の前を横切る人の姿も、影絵のようにぼんやりしている。
影絵の主人公が、ふと振り向くと、みな猫か狐のような顔をしているのではないかとさえ思えてくる。

まるでおとぎ話の世界にさまよいこんだ気分になり、私も息子もその町の珍しさに惹かれ、銭湯に入る前に、その小さな町を一回りしたくらいだった。
「 “ここ過ぎて悲しみの町” だね」
と息子がいう。
昔、淋しい風景の中を一緒にドライブしたとき、私がふと口に出した言葉を覚えていたのだ。
確か、太宰治の小説の中に出てくるフレーズだったと思う。
この息子は奇妙な小僧で、幼い頃、遊びから帰ってきたときに開口一番、
「さっき、町外れのおじさんがいたよ」
などと教えてくれることがある。
“町外れのおじさん” が、どういうおじさんなのか、彼にも説明ができない。
しかし、その言葉に、なんともいえぬ趣き (おもむき) が込められていて、面白い。
そういう小僧だから、こういう町は楽しくて仕方がないようだ。
銭湯の中も不思議な雰囲気だった。
ちょっと山里の湯治場的な空気が流れている。
旧家の天井のハリのような木材が、脱衣所の上に覆い被さり、床には、脱衣した着物を入れるための竹を編んだカゴが黒光りした板敷きの上に置かれている。
湯に浸かってじっとしていると、まるで丸一日かけて、山奥の温泉まで旅してきたような気分になった。
私たちは、その銭湯を 「ここ過ぎて悲しみのお風呂」 と名づけ、それから何回か通った。
もちろん、今はもう行っていない。
それから15~16年ほど経つ。
おとぎの話の町は、まだ残っているのだろうか。
もちろん家に風呂もあったのだが、やはり銭湯の広々した空間がもたらす独特の解放感が心地よく思えたからだ。
家の近くの銭湯に行くときは、歩いたり、自転車に乗る。
少し離れた街の銭湯に行くときは、クルマまで使った。
ちょっと熱めの湯に浸かり、頭に手ぬぐいなど載せて、富士山などの壁絵を眺める。
銭湯の中には、露天風呂まで備えたところもあり、ちょっとした温泉気分も味わえる。
身体が温まったら、縁せきの岩の上に座り、夜風に身体をさらす。
風呂から上がれば、扇風機の前に座り、コーヒー牛乳かヤクルトを飲む。
それが私と息子の銭湯の楽しみ方だった。
あるとき、隣町の銭湯を探しているとき、偶然にも不思議な一角に出た。
人気のない静かな住宅街のど真ん中に、古びた銭湯があり、その周辺だけが、小さな町になっていたのだ。
町といっても、5~6軒の商店街を抜けると、そこから先はストンと切って落とされたように、静まり返った家々が濃い闇に包まれて眠っている。住宅街というより、森の感じに近い。
銭湯の周辺だけが、村の神社の夜祭りにように、わずかな灯りが集まっている。
銭湯の隣りには、昭和30年代の風情を感じさせる小さなマーケットがあり、店先に野菜や果物、その奥に乾物などを並べられている。
店を照らす蛍光灯がやけに薄暗いために、黄色い裸電球が吊るされているような古めかしさが漂ってくる。
その隣りには、屋台の焼き鳥屋が店を構えていて、小さなコンロの上に置かれた焼き鳥から、静かに煙が上がっている。
のれんの陰に顔を隠した店主は、客も来ないのに、ていねいに串をひっくり返している。
「純喫茶」 などという古風な呼び方がふさわしい昔風の喫茶店もある。
喫茶店の出窓には、ホコリのかかったスパゲティのロウ細工の見本が置かれ、時間が止まったような印象を与える。
店の窓の奥からは明かりが漏れてくるのだが、中に人がいるのかどうか、定かではない。
町は全体的に活気が乏しい。
店の前を横切る人の姿も、影絵のようにぼんやりしている。
影絵の主人公が、ふと振り向くと、みな猫か狐のような顔をしているのではないかとさえ思えてくる。
まるでおとぎ話の世界にさまよいこんだ気分になり、私も息子もその町の珍しさに惹かれ、銭湯に入る前に、その小さな町を一回りしたくらいだった。
「 “ここ過ぎて悲しみの町” だね」
と息子がいう。
昔、淋しい風景の中を一緒にドライブしたとき、私がふと口に出した言葉を覚えていたのだ。
確か、太宰治の小説の中に出てくるフレーズだったと思う。
この息子は奇妙な小僧で、幼い頃、遊びから帰ってきたときに開口一番、
「さっき、町外れのおじさんがいたよ」
などと教えてくれることがある。
“町外れのおじさん” が、どういうおじさんなのか、彼にも説明ができない。
しかし、その言葉に、なんともいえぬ趣き (おもむき) が込められていて、面白い。
そういう小僧だから、こういう町は楽しくて仕方がないようだ。
銭湯の中も不思議な雰囲気だった。
ちょっと山里の湯治場的な空気が流れている。
旧家の天井のハリのような木材が、脱衣所の上に覆い被さり、床には、脱衣した着物を入れるための竹を編んだカゴが黒光りした板敷きの上に置かれている。
湯に浸かってじっとしていると、まるで丸一日かけて、山奥の温泉まで旅してきたような気分になった。
私たちは、その銭湯を 「ここ過ぎて悲しみのお風呂」 と名づけ、それから何回か通った。
もちろん、今はもう行っていない。
それから15~16年ほど経つ。
おとぎの話の町は、まだ残っているのだろうか。
2009年04月25日
今風ジャズ喫茶
印刷・製本の過程で、「出張校正」 というものがある。
初稿に赤字を入れて、それが正しく反映されているかどうかをチェックする校正だ。
なぜ 「出張」 なのかというと、初稿校正をチェックしたものからどんどん印刷工程に回して行くために、印刷所まで出向いて校正をするからである。
『キャンピングカースーパーガイド 2009』 も、ようやくその出張校正の段階まで漕ぎつけた。
で、昨日がその 「出張校正」 の日だった。
夕方16:00時から初稿の直しが出るという段取りだったので、15:40頃、印刷所のある駅までたどりついた。
ちょっと時間が早い。
「コーヒーブレイク」 でも取るか…
と、駅の周辺を散策していたら、『ジャズ喫茶』 という看板を見つけた。
言葉の響きそのものが懐かしい。
60年代から70年代初期にかけて、日本の大都市圏には、「ジャズ喫茶」 なるものが乱立していた。
特に、東京の新宿あたりには、10軒以上あったと思う。
狭い階段を降りていくと、分厚い扉があり、それを開けると、耳をつんざくようなサックスの咆哮が空気を揺るがし、
「ここは騒音テストの実験室か?」
と、はじめての人なら勘違いするというのが、典型的な “ジャズ喫茶” のたたずまいだった。
室内はひたすら暗い。
夜霧がたなびくように煙草の煙が充満し、奥の方はかすんで見えない。
コーヒーは、高くて、苦くて、まずい。
「私語禁止」 などという張り紙が堂々と張ってあったりする。
そこに出入する人間は、たいてい、神経質そうな音楽青年あるいは文学青年で、沈思黙考する風情で、ひたすら流れる音に耳を傾けるか、あるいは分厚い書籍に一心不乱に目を通しているような人間ばかりだった。
“モテない男” の溜まり場だったように思う。
そういう喫茶店が、バブルの時代まで生き延びられるわけはなく、80年代になると、“名門” といわれるジャズ喫茶が軒並み店をたたんでいった。
だから、『ジャズ喫茶』 という看板を見つけたとき、時間が20年くらい逆戻しになったような気分になった。
出張校正のために、印刷所が用意してくれた時間まで20分しかなかったが、ためらわず、ドアを開けて中に入った。
窓ガラスの面積が大きいため、室内はやたらと明るい。
椅子・テーブルは、デパートの家具売り場に並ぶようなモダニズム様式のデザインで統一され、やたらとトレンディ。
壁に埋め込まれたでっかいJBLのスピーカーと、窓際に並ぶ30㎝LPのジャケットがなければ、若い女性たちが、「ちょっとスィーツを食べながらおしゃべり…」 したくなるような、清潔で、上品なインテリアだった。
音も適度に絞ってあって、昔だったら “野獣の雄たけび” を連想した金管楽器の咆哮が、清流のせせらぎのように聞こえた。
客は?
……と眺め回してみると、これまた30年~40年前に、薄暗い 「ジャズ喫茶」 の片隅で、ひがな一杯のコーヒーをちびちび舐めながら時間を過ごしていたと思われる青年が、そのままオヤジになったという人ばかり。
優雅なジャケットにアスコットタイなど絡ませたりして、今は “功なり名を遂げた” 人生を送っている人たちが、青春時代を回顧するために集まってきたという風情だった。
店主は50代の白髪頭の品の良いオヤジで、カウンターの常連客を相手に、にこやかにジャズやオーディオの話題を提供しているところを見ると、きさくで饒舌な人という感じだ。
昔のジャズ喫茶には、無口で恐い店主が多くて、リー・モーガンの 「サイドワインダー」 などリクエストすると、
「うちはロック喫茶じゃないんだから」
とか、
オスカー・ピーターソンなどをリクエストすると、
「ナイトクラブにでも行ったら」
なんて言ったものだ。
しかし、この店の店主は、いかにも愛想がいい。
お客がレジでお金を払うと、
「またお越しください」
と、ていねいに頭を下げて、わざわざドアを自分で開けたりしている。
時代が変ったな…と思った。
その店主が、コーヒーを運んできたとき、
自分もちょっと “社交性” を発揮して、
「いま流れているミルト・ジャクソンなかなかいいですね」
と、お愛想を言った。
「ええ、やっぱりMJQでやっているときと、ソロでやっているときは全然違いますね。ソロでやると、すごくエモーショナルでファンキーですものね」
と、こちらが尋ねた10倍以上の答が返ってきた。
ああ…やっぱりジャズが好きな人なんだな、と思った。

▲ 店の壁には、ブルーノート盤の 「ブルートレイン」 のジャケットを引き伸ばしたフレーム付きポスターが立てかけられていた。
出張校正が始まる前だったので、わずか20分ほどで店を出たのだけれど、気持ちのよい時間を過ごした。
こういう形でジャズ喫茶が復活するのは、とても良いことだと思う。
だけど、何かが違う。
…と、かすかに思う。
ジャズさえあれば、女なんていらねぇ…
という、あの自虐が反転して高揚していくときの気分。
こぎれいなスーツに身を固めた大人たちなんか信用できるかよ…
と、未熟さの裏っ返しから生まれる反発心が沸騰していくときの激情。
昔の暗くて、汚くて、うるさいジャズ喫茶には、そういう 「負の意識」 をプラスに反転させるような魔術性があった。
その店には、そういったものが生まれてくる余地がなかった。
かつてのジャズ喫茶が持っていた 「祝祭的な空間」 は、もう今の都会の中には必要なくなったのだろう。
今の大都市は、いわば “毎日が祝祭” 。
そうなれば、明るく、清潔で、万人が心地よいという環境が大事になる。
ジャズもまた、万人の音楽を目指すようになったのかもしれない。
近年、小じゃれたカフェや和風創作料理などを自称するダイニングでは、やたらBGMとしてジャズが使われるようになった。
即興性の強いジャズは、あまりメロディに対するこだわりがない。
だから、耳を傾けるのもよし。
聞き流しながら、雑談にふけるのもよし。
「大人のムード」 を演出するときに、ジャズは格好の “環境音楽” になる。
だから、昔に比べると、今の方がはるかにジャズを耳にする機会は増えている。
ただ、それはジャズにとっていいことなのか、どうか。
昔風のジャズ喫茶がなくなって、ジャズの魔術性が薄れていくことと、ジャズが和風ダイニングのBGMで使われるようになったことは、相関関係にあるような気がする。
初稿に赤字を入れて、それが正しく反映されているかどうかをチェックする校正だ。
なぜ 「出張」 なのかというと、初稿校正をチェックしたものからどんどん印刷工程に回して行くために、印刷所まで出向いて校正をするからである。
『キャンピングカースーパーガイド 2009』 も、ようやくその出張校正の段階まで漕ぎつけた。
で、昨日がその 「出張校正」 の日だった。
夕方16:00時から初稿の直しが出るという段取りだったので、15:40頃、印刷所のある駅までたどりついた。
ちょっと時間が早い。
「コーヒーブレイク」 でも取るか…
と、駅の周辺を散策していたら、『ジャズ喫茶』 という看板を見つけた。
言葉の響きそのものが懐かしい。
60年代から70年代初期にかけて、日本の大都市圏には、「ジャズ喫茶」 なるものが乱立していた。
特に、東京の新宿あたりには、10軒以上あったと思う。
狭い階段を降りていくと、分厚い扉があり、それを開けると、耳をつんざくようなサックスの咆哮が空気を揺るがし、
「ここは騒音テストの実験室か?」
と、はじめての人なら勘違いするというのが、典型的な “ジャズ喫茶” のたたずまいだった。
室内はひたすら暗い。
夜霧がたなびくように煙草の煙が充満し、奥の方はかすんで見えない。
コーヒーは、高くて、苦くて、まずい。
「私語禁止」 などという張り紙が堂々と張ってあったりする。
そこに出入する人間は、たいてい、神経質そうな音楽青年あるいは文学青年で、沈思黙考する風情で、ひたすら流れる音に耳を傾けるか、あるいは分厚い書籍に一心不乱に目を通しているような人間ばかりだった。
“モテない男” の溜まり場だったように思う。
そういう喫茶店が、バブルの時代まで生き延びられるわけはなく、80年代になると、“名門” といわれるジャズ喫茶が軒並み店をたたんでいった。
だから、『ジャズ喫茶』 という看板を見つけたとき、時間が20年くらい逆戻しになったような気分になった。
出張校正のために、印刷所が用意してくれた時間まで20分しかなかったが、ためらわず、ドアを開けて中に入った。
窓ガラスの面積が大きいため、室内はやたらと明るい。
椅子・テーブルは、デパートの家具売り場に並ぶようなモダニズム様式のデザインで統一され、やたらとトレンディ。
壁に埋め込まれたでっかいJBLのスピーカーと、窓際に並ぶ30㎝LPのジャケットがなければ、若い女性たちが、「ちょっとスィーツを食べながらおしゃべり…」 したくなるような、清潔で、上品なインテリアだった。
音も適度に絞ってあって、昔だったら “野獣の雄たけび” を連想した金管楽器の咆哮が、清流のせせらぎのように聞こえた。
客は?
……と眺め回してみると、これまた30年~40年前に、薄暗い 「ジャズ喫茶」 の片隅で、ひがな一杯のコーヒーをちびちび舐めながら時間を過ごしていたと思われる青年が、そのままオヤジになったという人ばかり。
優雅なジャケットにアスコットタイなど絡ませたりして、今は “功なり名を遂げた” 人生を送っている人たちが、青春時代を回顧するために集まってきたという風情だった。
店主は50代の白髪頭の品の良いオヤジで、カウンターの常連客を相手に、にこやかにジャズやオーディオの話題を提供しているところを見ると、きさくで饒舌な人という感じだ。
昔のジャズ喫茶には、無口で恐い店主が多くて、リー・モーガンの 「サイドワインダー」 などリクエストすると、
「うちはロック喫茶じゃないんだから」
とか、
オスカー・ピーターソンなどをリクエストすると、
「ナイトクラブにでも行ったら」
なんて言ったものだ。
しかし、この店の店主は、いかにも愛想がいい。
お客がレジでお金を払うと、
「またお越しください」
と、ていねいに頭を下げて、わざわざドアを自分で開けたりしている。
時代が変ったな…と思った。
その店主が、コーヒーを運んできたとき、
自分もちょっと “社交性” を発揮して、
「いま流れているミルト・ジャクソンなかなかいいですね」
と、お愛想を言った。
「ええ、やっぱりMJQでやっているときと、ソロでやっているときは全然違いますね。ソロでやると、すごくエモーショナルでファンキーですものね」
と、こちらが尋ねた10倍以上の答が返ってきた。
ああ…やっぱりジャズが好きな人なんだな、と思った。
▲ 店の壁には、ブルーノート盤の 「ブルートレイン」 のジャケットを引き伸ばしたフレーム付きポスターが立てかけられていた。
出張校正が始まる前だったので、わずか20分ほどで店を出たのだけれど、気持ちのよい時間を過ごした。
こういう形でジャズ喫茶が復活するのは、とても良いことだと思う。
だけど、何かが違う。
…と、かすかに思う。
ジャズさえあれば、女なんていらねぇ…
という、あの自虐が反転して高揚していくときの気分。
こぎれいなスーツに身を固めた大人たちなんか信用できるかよ…
と、未熟さの裏っ返しから生まれる反発心が沸騰していくときの激情。
昔の暗くて、汚くて、うるさいジャズ喫茶には、そういう 「負の意識」 をプラスに反転させるような魔術性があった。
その店には、そういったものが生まれてくる余地がなかった。
かつてのジャズ喫茶が持っていた 「祝祭的な空間」 は、もう今の都会の中には必要なくなったのだろう。
今の大都市は、いわば “毎日が祝祭” 。
そうなれば、明るく、清潔で、万人が心地よいという環境が大事になる。
ジャズもまた、万人の音楽を目指すようになったのかもしれない。
近年、小じゃれたカフェや和風創作料理などを自称するダイニングでは、やたらBGMとしてジャズが使われるようになった。
即興性の強いジャズは、あまりメロディに対するこだわりがない。
だから、耳を傾けるのもよし。
聞き流しながら、雑談にふけるのもよし。
「大人のムード」 を演出するときに、ジャズは格好の “環境音楽” になる。
だから、昔に比べると、今の方がはるかにジャズを耳にする機会は増えている。
ただ、それはジャズにとっていいことなのか、どうか。
昔風のジャズ喫茶がなくなって、ジャズの魔術性が薄れていくことと、ジャズが和風ダイニングのBGMで使われるようになったことは、相関関係にあるような気がする。
2009年04月02日
忘れえぬ女(人)
たまに、風呂に入るために、家に帰る。
久しぶりに、夜の電車に乗った。
「WBCって、日本が勝ったの?」」
…ってなくらい、浦島太郎的な生活をしているので、電車に乗ると新鮮だ。
吊り革につかまって、何気なく車内吊りの広告を見ていたら、4月4日から 「Bunkamura ザ・ミュージアム」 で、ロシアの 『 トレチャコフ美術展 』 が開かれるという広告が載っていた。
「ああ、時代が一回りしたのかな…」
と思った。
昔…といっても、1993年のことだ。
上野の東京都立美術館で、やはり 「トレチャコフ美術展」 が開かれて、カミさんと観にいったことがったあったからだ。
やはり、同じ季節だったろうか。
その日は雨の休日で、上野の森の新緑が雨に煙って濃い影をつくっていて、美術館に入る前から、すでに絵画の世界を歩いているような日だった。
トレチャコフというのは、帝政ロシア時代の画商の名前で、当時の帝政ロシア画壇アカデミズムに反抗した “革命派” の絵画集団を支援した人の名である。
当時、そういう革命派の画家たちを 「移動派」 と呼んだらしい。
なんで、 「移動派」 なのかというと、それには訳があったようだ。
当時のロシア画壇というのは、ヨーロッパ文化志向の政府方針により、イタリア古典絵画の手法をそのまま踏襲する絵画が主流だった。
しかし、そこには、帝政ロシアの貴族政治の下であえいでいた庶民の生活は描かれなかった。
「移動派」 は、その手法ではロシアの現状を描写することができないと画壇の主流派と決別して、ロシアの腐敗した貴族政治を風刺したり、農民や一般大衆の悲惨さをテーマにした絵を描き始めた。
「移動派」 という名称は、彼らが絵画を一部の特権階級のサロンから解放し、村から村へと自分たちの作品を移動させながら展覧会を行ったことに由来している。
だから、彼らの描く絵画は、一般に 「ロシア・リアリズム」 などともいわれる政治性の濃い絵画であった。
彼らの描く絵のテーマは、権力と癒着した僧侶階級の腐敗だったり、プロレタリアートの過酷な労働の状況を克明に写し取るといった、メッセージ性の強いものばかりだった。
実は正直、昔この手の絵画が嫌いだった。
あまりにも直接的な政治的メッセージが、なんだか底が浅いような気がしたからだ。
それまでは、政治風刺や権力批判などというテーマを盛り込んだ絵画は二流の絵画だという思い込みを持っていた。
しかし、実際のロシア・リアリズムに接してみると、自分が持っていた先入観とは少し違うかな…という印象を持った。
紋切り型のメッセージ性というのは確かにあるけれど、それが 「悪いことか?」 という気もしたのである。
政治性が強く出ているので美学が後退している…なんていう見方をするよりも、当時展開された歴史的 「瞬間」 に立ち会っている! という衝撃をそのまま感受した方がいいのではないか…と思ったのだ。
「ロシア・リアリズム」 と言われるだけあって、政治性も濃いけれど、描写力も迫真的だ。
実際、本物の絵画の前に立ってみると、実にリアルである。
メッセージの部分に誇張があるとはいえ、ディテールは、まぎれもなく100年も前のロシアで展開された歴史の一瞬が凍結されたまま保存されている。
もちろん絵画は作者のイスピレーションで構成されるのだから、それがそのまま事実であるわけはないのだか、こういう素朴なリアリズムの 「豪速球」 迫ってこられると、歴史の一瞬に立ち会っているという素直な感動がわき起こってくる。
それともうひとつ、ロシアの風俗が面白い。
人々の着るもの、街、村の景色。特に貴族階級の婦女子の衣服。
ヨーロッパというよりアジアに近く、かといって中国でもモンゴルでもない独特の装束は見ていて飽きない。
玉葱型の屋根を持つクレムリン宮殿独特の建築様式もじっくり見るとなんとも奇妙だ。
こういう文化様式はどうして生まれてきたのだろう…と、考えれば考えるほど興味が湧いてくる。
革命前の19世紀帝政ロシアは、ひょっとした人類史上まれにみる不思議な国家空間を形作っていたのではなかろうか。
西洋近代的な衣装をまとった古代アジア的専制政治。
フランス的教養で染められたはずの貴族文化の中にはびこる、魔術や呪術。
科学とオカルト、インターナショナリズムと土俗主義。
そんなものが渾然一体となって渦巻いていたのが革命前のロシアだ。
ドフトエフスキーは、非ユークリッド幾何学の 「平行線は無限延点で交わる」 という公理に刺激を受けて、その “無限延点” という彼方に、神の立つ場所を確信したというが、あの時代のロシアは、数学や科学の最先端の成果と、神学やメルヘンがひとつの坩堝の中で溶け合って、国民全体がものすごい創造的パワーに振り回されていた時代なのかもしれない…と思う。
今回の 「トレチャコフ美術展」 では、クラムスコイ 「忘れえぬ女 (ひと) 」 が目玉になるらしい。

馬車に乗る一人の貴婦人が、傲慢と思えるほどの眼差しで、路上にいる人間を見下ろしている絵だ。
「移動派」 のような画家たちからすれば、憎むべき貴族階級のいやらしさを身に帯びた女性のように見えたのかもしれない。
しかし、この絵が注目されたのは、一見 “傲慢” な彼女に瞳の奥に宿された、どうしようもない憂い。
その瞳の奥に、涙が描き込まれていると指摘する人もいる。
彼女は何者なのか。
モデルは誰なのか。
なぜ悲しんでいるのか。
すべては謎であるらしく、そのために 「ロシアのモナリザ」 とも呼ばれているそうな。
実は、この女性を見ていると、自分は、どうしても、もう死んでしまったペットのクッキーを思い出す。
絵に描かれた彼女には失礼なのかもしれないけれど、自分にとっては、この女性はクッキー (↓) なのだ。
http://campingcar.blog.hobidas.com/archives/article/63382.html
今の仕事が一段楽したら、自分はもう一度 “クッキー” に会いにいってこようと思っている。
久しぶりに、夜の電車に乗った。
「WBCって、日本が勝ったの?」」
…ってなくらい、浦島太郎的な生活をしているので、電車に乗ると新鮮だ。
吊り革につかまって、何気なく車内吊りの広告を見ていたら、4月4日から 「Bunkamura ザ・ミュージアム」 で、ロシアの 『 トレチャコフ美術展 』 が開かれるという広告が載っていた。
「ああ、時代が一回りしたのかな…」
と思った。
昔…といっても、1993年のことだ。
上野の東京都立美術館で、やはり 「トレチャコフ美術展」 が開かれて、カミさんと観にいったことがったあったからだ。
やはり、同じ季節だったろうか。
その日は雨の休日で、上野の森の新緑が雨に煙って濃い影をつくっていて、美術館に入る前から、すでに絵画の世界を歩いているような日だった。
トレチャコフというのは、帝政ロシア時代の画商の名前で、当時の帝政ロシア画壇アカデミズムに反抗した “革命派” の絵画集団を支援した人の名である。
当時、そういう革命派の画家たちを 「移動派」 と呼んだらしい。
なんで、 「移動派」 なのかというと、それには訳があったようだ。
当時のロシア画壇というのは、ヨーロッパ文化志向の政府方針により、イタリア古典絵画の手法をそのまま踏襲する絵画が主流だった。
しかし、そこには、帝政ロシアの貴族政治の下であえいでいた庶民の生活は描かれなかった。
「移動派」 は、その手法ではロシアの現状を描写することができないと画壇の主流派と決別して、ロシアの腐敗した貴族政治を風刺したり、農民や一般大衆の悲惨さをテーマにした絵を描き始めた。
「移動派」 という名称は、彼らが絵画を一部の特権階級のサロンから解放し、村から村へと自分たちの作品を移動させながら展覧会を行ったことに由来している。
だから、彼らの描く絵画は、一般に 「ロシア・リアリズム」 などともいわれる政治性の濃い絵画であった。
彼らの描く絵のテーマは、権力と癒着した僧侶階級の腐敗だったり、プロレタリアートの過酷な労働の状況を克明に写し取るといった、メッセージ性の強いものばかりだった。
実は正直、昔この手の絵画が嫌いだった。
あまりにも直接的な政治的メッセージが、なんだか底が浅いような気がしたからだ。
それまでは、政治風刺や権力批判などというテーマを盛り込んだ絵画は二流の絵画だという思い込みを持っていた。
しかし、実際のロシア・リアリズムに接してみると、自分が持っていた先入観とは少し違うかな…という印象を持った。
紋切り型のメッセージ性というのは確かにあるけれど、それが 「悪いことか?」 という気もしたのである。
政治性が強く出ているので美学が後退している…なんていう見方をするよりも、当時展開された歴史的 「瞬間」 に立ち会っている! という衝撃をそのまま感受した方がいいのではないか…と思ったのだ。
「ロシア・リアリズム」 と言われるだけあって、政治性も濃いけれど、描写力も迫真的だ。
実際、本物の絵画の前に立ってみると、実にリアルである。
メッセージの部分に誇張があるとはいえ、ディテールは、まぎれもなく100年も前のロシアで展開された歴史の一瞬が凍結されたまま保存されている。
もちろん絵画は作者のイスピレーションで構成されるのだから、それがそのまま事実であるわけはないのだか、こういう素朴なリアリズムの 「豪速球」 迫ってこられると、歴史の一瞬に立ち会っているという素直な感動がわき起こってくる。
それともうひとつ、ロシアの風俗が面白い。
人々の着るもの、街、村の景色。特に貴族階級の婦女子の衣服。
ヨーロッパというよりアジアに近く、かといって中国でもモンゴルでもない独特の装束は見ていて飽きない。
玉葱型の屋根を持つクレムリン宮殿独特の建築様式もじっくり見るとなんとも奇妙だ。
こういう文化様式はどうして生まれてきたのだろう…と、考えれば考えるほど興味が湧いてくる。
革命前の19世紀帝政ロシアは、ひょっとした人類史上まれにみる不思議な国家空間を形作っていたのではなかろうか。
西洋近代的な衣装をまとった古代アジア的専制政治。
フランス的教養で染められたはずの貴族文化の中にはびこる、魔術や呪術。
科学とオカルト、インターナショナリズムと土俗主義。
そんなものが渾然一体となって渦巻いていたのが革命前のロシアだ。
ドフトエフスキーは、非ユークリッド幾何学の 「平行線は無限延点で交わる」 という公理に刺激を受けて、その “無限延点” という彼方に、神の立つ場所を確信したというが、あの時代のロシアは、数学や科学の最先端の成果と、神学やメルヘンがひとつの坩堝の中で溶け合って、国民全体がものすごい創造的パワーに振り回されていた時代なのかもしれない…と思う。
今回の 「トレチャコフ美術展」 では、クラムスコイ 「忘れえぬ女 (ひと) 」 が目玉になるらしい。

馬車に乗る一人の貴婦人が、傲慢と思えるほどの眼差しで、路上にいる人間を見下ろしている絵だ。
「移動派」 のような画家たちからすれば、憎むべき貴族階級のいやらしさを身に帯びた女性のように見えたのかもしれない。
しかし、この絵が注目されたのは、一見 “傲慢” な彼女に瞳の奥に宿された、どうしようもない憂い。
その瞳の奥に、涙が描き込まれていると指摘する人もいる。
彼女は何者なのか。
モデルは誰なのか。
なぜ悲しんでいるのか。
すべては謎であるらしく、そのために 「ロシアのモナリザ」 とも呼ばれているそうな。
実は、この女性を見ていると、自分は、どうしても、もう死んでしまったペットのクッキーを思い出す。
絵に描かれた彼女には失礼なのかもしれないけれど、自分にとっては、この女性はクッキー (↓) なのだ。
http://campingcar.blog.hobidas.com/archives/article/63382.html
今の仕事が一段楽したら、自分はもう一度 “クッキー” に会いにいってこようと思っている。
2009年03月18日
粋なRVとは
最近の世の中で分かりづらくなっている概念のひとつに、「粋」 がある。
粋 (いき)
三省堂の 『大辞林』 によると、粋とは、 「気性、態度、身なりがあか抜けてしていて、さっぱりとしており、自然な色気が感じられること」 とある。
さらには、 「遊里・遊興に精通していること」 という項目も加えられているから、 「色っぽさ」 への理解が根底にある概念であることもつけ加えていいかもしれない。
江戸文化から出てきた言葉だから、たぶん江戸町人の間で理想とされた精神構造なのだろう。
そう思って、あらためてこの言葉を噛みしめてみると、イケメンの歌舞伎役者などが、切れ長の目を光らせて、キセルの灰をさらりと盆に落としたりする情景が浮かんだりする。
ところが、この 「粋」 が、現代社会ではなかなか通じない。
言葉としては残っていても、その言葉が成立した時代とはだいぶ違ったニュアンスのものになっているように思う。
「あか抜けた」 とか 「さっぱりした」 といった情感は、今でもその言葉の中から嗅ぐことはできるが、 『大辞林』 が触れているような 「自然な色気」 といったものは、かなり後退している。
その理由は、日本の現代社会においては、 「あか抜けてさっぱりしている」 感覚と、 「自然な色気」 というものが両立していないからだ。
「さっぱり」 路線を目指したものは、いつのまにか 「爽やか」 、「清潔」 、「健康」 といった文脈にからめ取られ、冒険のない退屈な生き方を奨励する思想に行き着いてしまう。
逆に 「色気」 路線をたどると、卑猥でエゲツない風俗文化に埋没し、ずぶずぶと退廃の極みに沈んでいく。
この2極分解が起こったあたりから、たぶん、日本人は 「粋」 という感覚を失ってきたのだろうと思う。
ところが、アメリカ人などは、案外この 「粋」 の感覚をつかんでいるのではないか、という人がいる。
キャンピングカービルダー 「カトーモーター」 の社長、加藤次己智さんだ。
加藤さんがアメリカで暮らしていた頃の体験を聞かせてくれたことがある。

▲ カトーモーター 加藤次己智さん
「アメリカ人の間では、男女を問わず、最高の誉め言葉として通用するのは “セクシー” という言葉なんですよ。You are sexy …というと、“あなたは本当に素晴らしい魅力がある”という意味なんです」
つまり、加藤さんは、アメリカ人が使う 「セクシー」 という言葉の響きに、日本の 「粋」 に近いニュアンスを嗅いだらしいのだ。
彼らは 「セクシーだ」 と誉められると、男なら 「ハンサム」 、女なら 「ビューティフル」 などと言われるよりも率直に喜ぶという。
「ハンサム」 といえば、向こうでは、外見の良さに頭の良さが加味された程度の言葉でしかない。
同じように 「ビューティフル」 というのも、外形的な美しさを表明するに過ぎない。
しかし、 「セクシー」 という言葉には、人の心をときめかせ、辺り一面にさざ波を広げていくような力があるのだそうだ。
もちろんそこには、性的な情感を喚起するという意味も含まれるが、それ以上に、 「洗練された」 とか 「あか抜けた」 という意味があって、そこにこの言葉としての価値が生まれているという。
ところが、日本では、男が女に 「セクシーだね」 というと、 「やらせろよ」 という表現になり、女が男に 「セクシーよ」 といえば、 「お相手するからバッグを買ってね」 という意味になってしまう。
要するに、日本では「粋」という言葉もあいまいならば、「セクシー」 という感覚も誤解されて伝わっていると、加藤さんはいう。
加藤さんが、なぜそのような話を私に始めたかというと、要するに、キャンピングカーに 「粋」 の精神を取り込む方法はあるのか。そしてまた、それをユーザーに理解してもらう方法があるのか…という問題を抱えていたからだ。

以前から加藤さんは、カトーモーターで造っているキャンピングカーを、メディアの人たちが 「高級」 、「上質」 などという言葉で飾ってくれることを、うれしいと思う反面、どこか違うように感じていた。
「高級」 や 「上質」 では、何かが欠けている。
少なくとも、それらの言葉には、わくわく感、ぞくぞく感、うっとり感が含まれていない。
自社製品の中に、 「わくわく感」 やら 「うっとり感」 を追求し、少しはそれを実現してきたように思っている加藤さんは、そのことをうまく伝える言葉が見つからず、広告のキャッチ考えるときなども、いつも考えあぐねていた。

かろうじてイメージの中にあったのは、 「色気」 という言葉。
しかし、その言葉をストレートに使うと、日本ではどこか下品な響きが漂ってしまう。
そんなとき出会った言葉が、 「粋」 であり、アメリカ人たちが使う 「セクシー」 であったという。
こうして、加藤さんは、 「粋」 について、古典落語なども研究しながら、さらにその意味を調べていくようになった。
分かってきたのは、粋というのは見た感じのことだけを言うのではなく、人の態度や意志としても存在するということだった。
つまり、 「粋」 の反対が 「野暮」 だとしたら、加藤さんは、少なくとも野暮なクルマは造りたくないし、野暮な宣伝はしたくない、と思うようになった。
どういうクルマが野暮かというと、 「価格が安い」 ことだけが取り柄となるような、造り手の志が感じられないようなクルマ。
ブームとなったレイアウトだけを採り入れて、ブームが去れば絶版にしてしまうような節操のないクルマ。
そういうクルマは野暮なので、自分では造りたくないという。
また、宣伝の仕方においても、一般的に普及している技術を、ことさら 「うちの専売特許」 だと誇張するような野暮な宣伝もしたくないとも。
技術というものは、製品のクオリティを支える “黒子” であり、本来ならば、表舞台には立たないものだ、というのが彼の持論だ。
もちろん、カトーモーターにも、他社に先駆けて力を入れて開発してきた技術があり、声を大にしてその効力を訴えたいというものがある。
しかし、そのような技術を宣伝するとしたら、それは 「さりげなく、さっぱりと」 行うことがあか抜けているし、洒落ているのではなかろうか…
加藤さんはそういうセンスを大事にしたいというのだが、そのセンスをどうお客さんに伝えればいいのか。なかなか、その方法が見つからないという。

確かに、 「粋」 という感覚的なものを、キャンピングカー造りの中に生かすのはとても難しいことだし、それを言葉で伝えることは、さらに難しい。
しかし、加藤さんは、とても “良い問題” に直面しているように思った。
たぶん、日本にキャンピングカーを普及させるという課題の中で、いま一番問われているところがそこの部分なのだ。
つまり、 「粋」 という言葉に代表されるような感覚的で抽象的な概念を、日本のビルダーも、またメディアの方も掘り下げることなく、今日まで来てしまったのだ。

私が思うに、カトーモーターさんのキャンピングカーは、そうとう昔から 「粋」 という基準を確立していた。
しかし、私も含め、キャンピングカージャーナリズムはそれを表現する言葉を持たなかった。
同社のキャンピングカーは、常に精緻をきわめた木工家具の出来映えを特徴としていたので、私なども記事を書くときは、長い間 「精度の高い木工家具が創り出す贅沢な空間」 などと、通りいっぺんの言葉で飾っていた。

しかし、 「粋」 という観点から見てくると、また違った相が現れてくる。
カトーモーターのクルマには、目立たないところにも、しっかりとしたこだわりが貫かれ、こだわりの蓄積が内装全体としてまとまったときには他車には追従できないような、華が生まれ、洒落が匂い、色気が漂ってくる。
人は、まったく同じ物を見せられたとしても、言葉によって説明が加えられた物と、そうでない物では見え方が違ってくることがある。
スポットライトの当て方で、舞台に立つ役者の表情が変わるように。
たとえば、同社の造り出すクルマを 「粋」 という光の中で見てみると、ベッドを支えるポールを埋めるために設けられた木枠などが、突然、機能を超えたアートとして立ち上がってくるのが分かる。
断熱効果と密閉性を得るために設けられた窓の木枠なども、それが外の風景を絵画に見立てたときの額縁として見えるようになる。
言葉の力はバカにできない。
加藤さんは、いまキャンピングカーというものに異なる角度からスポットライトを当て、それによって、キャンピングカーを語る新しい言葉を開拓しようとしているように思う。

粋 (いき)
三省堂の 『大辞林』 によると、粋とは、 「気性、態度、身なりがあか抜けてしていて、さっぱりとしており、自然な色気が感じられること」 とある。
さらには、 「遊里・遊興に精通していること」 という項目も加えられているから、 「色っぽさ」 への理解が根底にある概念であることもつけ加えていいかもしれない。
江戸文化から出てきた言葉だから、たぶん江戸町人の間で理想とされた精神構造なのだろう。
そう思って、あらためてこの言葉を噛みしめてみると、イケメンの歌舞伎役者などが、切れ長の目を光らせて、キセルの灰をさらりと盆に落としたりする情景が浮かんだりする。
ところが、この 「粋」 が、現代社会ではなかなか通じない。
言葉としては残っていても、その言葉が成立した時代とはだいぶ違ったニュアンスのものになっているように思う。
「あか抜けた」 とか 「さっぱりした」 といった情感は、今でもその言葉の中から嗅ぐことはできるが、 『大辞林』 が触れているような 「自然な色気」 といったものは、かなり後退している。
その理由は、日本の現代社会においては、 「あか抜けてさっぱりしている」 感覚と、 「自然な色気」 というものが両立していないからだ。
「さっぱり」 路線を目指したものは、いつのまにか 「爽やか」 、「清潔」 、「健康」 といった文脈にからめ取られ、冒険のない退屈な生き方を奨励する思想に行き着いてしまう。
逆に 「色気」 路線をたどると、卑猥でエゲツない風俗文化に埋没し、ずぶずぶと退廃の極みに沈んでいく。
この2極分解が起こったあたりから、たぶん、日本人は 「粋」 という感覚を失ってきたのだろうと思う。
ところが、アメリカ人などは、案外この 「粋」 の感覚をつかんでいるのではないか、という人がいる。
キャンピングカービルダー 「カトーモーター」 の社長、加藤次己智さんだ。
加藤さんがアメリカで暮らしていた頃の体験を聞かせてくれたことがある。
▲ カトーモーター 加藤次己智さん
「アメリカ人の間では、男女を問わず、最高の誉め言葉として通用するのは “セクシー” という言葉なんですよ。You are sexy …というと、“あなたは本当に素晴らしい魅力がある”という意味なんです」
つまり、加藤さんは、アメリカ人が使う 「セクシー」 という言葉の響きに、日本の 「粋」 に近いニュアンスを嗅いだらしいのだ。
彼らは 「セクシーだ」 と誉められると、男なら 「ハンサム」 、女なら 「ビューティフル」 などと言われるよりも率直に喜ぶという。
「ハンサム」 といえば、向こうでは、外見の良さに頭の良さが加味された程度の言葉でしかない。
同じように 「ビューティフル」 というのも、外形的な美しさを表明するに過ぎない。
しかし、 「セクシー」 という言葉には、人の心をときめかせ、辺り一面にさざ波を広げていくような力があるのだそうだ。
もちろんそこには、性的な情感を喚起するという意味も含まれるが、それ以上に、 「洗練された」 とか 「あか抜けた」 という意味があって、そこにこの言葉としての価値が生まれているという。
ところが、日本では、男が女に 「セクシーだね」 というと、 「やらせろよ」 という表現になり、女が男に 「セクシーよ」 といえば、 「お相手するからバッグを買ってね」 という意味になってしまう。
要するに、日本では「粋」という言葉もあいまいならば、「セクシー」 という感覚も誤解されて伝わっていると、加藤さんはいう。
加藤さんが、なぜそのような話を私に始めたかというと、要するに、キャンピングカーに 「粋」 の精神を取り込む方法はあるのか。そしてまた、それをユーザーに理解してもらう方法があるのか…という問題を抱えていたからだ。
以前から加藤さんは、カトーモーターで造っているキャンピングカーを、メディアの人たちが 「高級」 、「上質」 などという言葉で飾ってくれることを、うれしいと思う反面、どこか違うように感じていた。
「高級」 や 「上質」 では、何かが欠けている。
少なくとも、それらの言葉には、わくわく感、ぞくぞく感、うっとり感が含まれていない。
自社製品の中に、 「わくわく感」 やら 「うっとり感」 を追求し、少しはそれを実現してきたように思っている加藤さんは、そのことをうまく伝える言葉が見つからず、広告のキャッチ考えるときなども、いつも考えあぐねていた。
かろうじてイメージの中にあったのは、 「色気」 という言葉。
しかし、その言葉をストレートに使うと、日本ではどこか下品な響きが漂ってしまう。
そんなとき出会った言葉が、 「粋」 であり、アメリカ人たちが使う 「セクシー」 であったという。
こうして、加藤さんは、 「粋」 について、古典落語なども研究しながら、さらにその意味を調べていくようになった。
分かってきたのは、粋というのは見た感じのことだけを言うのではなく、人の態度や意志としても存在するということだった。
つまり、 「粋」 の反対が 「野暮」 だとしたら、加藤さんは、少なくとも野暮なクルマは造りたくないし、野暮な宣伝はしたくない、と思うようになった。
どういうクルマが野暮かというと、 「価格が安い」 ことだけが取り柄となるような、造り手の志が感じられないようなクルマ。
ブームとなったレイアウトだけを採り入れて、ブームが去れば絶版にしてしまうような節操のないクルマ。
そういうクルマは野暮なので、自分では造りたくないという。
また、宣伝の仕方においても、一般的に普及している技術を、ことさら 「うちの専売特許」 だと誇張するような野暮な宣伝もしたくないとも。
技術というものは、製品のクオリティを支える “黒子” であり、本来ならば、表舞台には立たないものだ、というのが彼の持論だ。
もちろん、カトーモーターにも、他社に先駆けて力を入れて開発してきた技術があり、声を大にしてその効力を訴えたいというものがある。
しかし、そのような技術を宣伝するとしたら、それは 「さりげなく、さっぱりと」 行うことがあか抜けているし、洒落ているのではなかろうか…
加藤さんはそういうセンスを大事にしたいというのだが、そのセンスをどうお客さんに伝えればいいのか。なかなか、その方法が見つからないという。
確かに、 「粋」 という感覚的なものを、キャンピングカー造りの中に生かすのはとても難しいことだし、それを言葉で伝えることは、さらに難しい。
しかし、加藤さんは、とても “良い問題” に直面しているように思った。
たぶん、日本にキャンピングカーを普及させるという課題の中で、いま一番問われているところがそこの部分なのだ。
つまり、 「粋」 という言葉に代表されるような感覚的で抽象的な概念を、日本のビルダーも、またメディアの方も掘り下げることなく、今日まで来てしまったのだ。
私が思うに、カトーモーターさんのキャンピングカーは、そうとう昔から 「粋」 という基準を確立していた。
しかし、私も含め、キャンピングカージャーナリズムはそれを表現する言葉を持たなかった。
同社のキャンピングカーは、常に精緻をきわめた木工家具の出来映えを特徴としていたので、私なども記事を書くときは、長い間 「精度の高い木工家具が創り出す贅沢な空間」 などと、通りいっぺんの言葉で飾っていた。
しかし、 「粋」 という観点から見てくると、また違った相が現れてくる。
カトーモーターのクルマには、目立たないところにも、しっかりとしたこだわりが貫かれ、こだわりの蓄積が内装全体としてまとまったときには他車には追従できないような、華が生まれ、洒落が匂い、色気が漂ってくる。
人は、まったく同じ物を見せられたとしても、言葉によって説明が加えられた物と、そうでない物では見え方が違ってくることがある。
スポットライトの当て方で、舞台に立つ役者の表情が変わるように。
たとえば、同社の造り出すクルマを 「粋」 という光の中で見てみると、ベッドを支えるポールを埋めるために設けられた木枠などが、突然、機能を超えたアートとして立ち上がってくるのが分かる。
断熱効果と密閉性を得るために設けられた窓の木枠なども、それが外の風景を絵画に見立てたときの額縁として見えるようになる。
言葉の力はバカにできない。
加藤さんは、いまキャンピングカーというものに異なる角度からスポットライトを当て、それによって、キャンピングカーを語る新しい言葉を開拓しようとしているように思う。
2009年03月16日
ブランドとは物語
キャンピングカーの造り方、売り方が変わってきたという印象を持つ。
最近のことだ。
何がどう変わったのか?
どこのビルダーも 「ブランド」 というものを意識するようになってきた。
もちろん、 「ブランド」 という言葉から連想するものは人さまざまで、この言葉を口にする人たちは、それぞれ自分なりのイメージを抱いていると思うけれど、私なりに、この言葉を解釈すると、それは 「物語」 ということに尽きる。
つまり、読者を魅了し、その世界に引きずり込み、次のページをめくる時に、未知の世界に踏み込むようなドキドキ感を与えるもの。
そのような力を与えるものを 「物語」 と呼んでいいだろう。
世にブランドとして認められた品々もまた、みな固有の 「物語」 を持っている。
たとえば、ルイ・ヴィトンは、創業期はただのトランク工場に過ぎなかったが、トランクの上に布地を張るというアイデアを生み出し、さらに、創業期が馬車の時代であったことに注目して、
「馬車の荷台に載せても壊れないバッグ」
「濡れても平気な革製品」
という物語を作り、それを伝説化したことによってブランド化に成功した。
フェラーリが自動車の中のブランドとして輝き続けているのも、その背後に背負った物語の力だ。
レースに情熱を傾けていたエンツォ・フェラーリは、サーキットで陣頭指揮を執るときは、安全なマージンを取って完走することよりも、車体が砕け散ろうが1位に向かって爆走することを常に目指し、それをイタリア人のプライドだと誇示した。

▲ テスタロッサ
そのような、エンツォ・フェラーリのレースに賭ける情熱。
「美しいものは速い」 という狂気としか思えないような信念。
それが 「物語」 となって、フェラーリというブランドの輝きを作っているのである。
トヨタの送り出したプリウスというハイブリッド車がブランドになったのも、同じ原理が働いている。
世界でも最も早くハイブリッド車の量産化に成功したトヨタは、これを徹底して 「クリーン」 「エコ」 「省エネ」 という文脈のなかで喧伝した。
ラッキーなことに、それがハリウッドの大スターたちに注目された。
「これからの世は、環境を大切にする意識を持たないと人気を維持できない」 と感じたスターたちは、それまで、大型リムジンで乗り付けていたようなアカデミー賞の授賞式などにも小型のプリウスで乗り付け、観客やメディアに向かって、 「自分は環境意識の高い俳優である」 というイメージを植え付けようとした。
そういう役者の中には、レオナルド・ディカプリオ、オーランド・ブルーム、キャメロン・ディアスなどの名が含まれていたという。
これなども、プリウスが獲得した 「物語」 の例といえるだろう。

▲ ディカプリオ
マーケティングの世界では、よく 「needs (ニーズ = 必要) 」 という言葉に対して、 「wants (ウォンツ = 欲求) 」 を対比させる。
「物語」 というのは、この 「ウォンツ」 に属するものだ。
つまり、食欲を満たすために、とりあえず街の弁当屋で買った弁当を食べるというのが 「ニーズ」 。
それに対し、高級レストランに行って、ビルの夜景などを眺めながらワインを楽しみ、フランス料理を食べる…というのがウォンツ。
お腹に入ってしまえば、どちらもただの “栄養素” に過ぎないが、後者には消費を楽しむ 「ストーリー」 が存在している。
大げさにいえば、そこには 「ライフスタイル」 の創造がある。
キャンピングカーというのは、実は最も 「物語」 を作りやすいところに位置する商品である。
今までこの業界から、そのような 「物語性」 を打ち出した広告展開がなされてこなかったのは、製品としての成熟度…つまりは、機械的な完成度を高める途上にあったからである。
開発技術や製作技術が躍進している間は、広告戦略やパブリシティ戦略においても、技術の向上によって達成できた部分を拡大するようなアプローチが中心となる。
技術的な完成度が上がってこないかぎり、 「物語」 の展開などに智恵を絞る余裕は生まれないからだ。
ところが、ここ最近のキャンピングカー業界からは、そのような技術主義から少しずつ離れ、 「ライフスタイルの提案」 や 「雰囲気づくり」 に力点を置いた商品展開や広告戦略が増えてきた。
その傾向は、キャブコンよりバンコンに顕著だ。
日本のキャブコンはまだ発展途上の段階にあり、技術的な完成度を高めるためには、ベース車と架装部分の連携においても、いくつか乗り越えなければならない課題を残している。
当然、キャブコンの開発者たちは、個々の課題に取り組むことで精いっぱいとなり、その課題をクリアしていくプロセスが、広告戦略やパブリシティ展開の軸になっている。
しかし、ベース車をさほどいじることのなバンコンの場合は、キャブコンに先駆けて、自動車部分が抱える問題点からフリーとなった。
そのことによって、バンコンビルダーたちには、 「ブランドとして生き残るにはどうしたらいいか?」 という次なるステップを考える余裕が生まれた。
こうして、現在、日本のバンコンビルダーの中では、かなり意図的に 「ブランド化」 を目指している会社が生まれており、そのうちの何社かは、 「物語」 の作り方に関心を示しつつある。
ただ、CM戦略として 「物語」 を取り込もうという試みは、今に始まったことではない。
実は、1980年代の末期、電通のスタッフたちの間で 「ストーリー・マーケティング」 という手法が編み出されたことがある。
こういう考え方の背景には、この当時に流行ったボードリヤールなどの記号論の影響があった。
この時代、 「商品には使用価値のほかに、記号的価値がある」 というような言説がマーケッターや広告代理店の間に大流行して、各企業のCMが一斉にイメージ広告化したことがあった。
コップひとつ売るのにも、 「お洒落なコップは、水を飲む道具ではなく、インテリアを飾るアートだ」 といった意味付けがなされ、コップの “物語性” がむりやりに高められて、食器コーナーの棚に置かれていたコップはインテリア家具のコーナーに移ったりもした。
しかし、このストーリー・マーケティング的な広告展開は、バブルの崩壊と同時に廃れてしまう。
バブルが破れて、夢から醒めた人たちは、商品としての実態がないものが、どんな 「物語」 にくるまれようが、そのことの無意味さを分かってしまったからだ。
しかし、キャンピングカーは、バブル期のストーリー・マーケティングで 「物語性」 を付与された商品群とは大いに異なる。
その時代に 「物語」 の体裁を与えられた商品のほとんどは、実態とは縁もゆかりもない 「心地よいイメージ」 だけにくるまれた無内容なものばかりだったが、キャンピングカーには実態がある。
ユーザーが、 「乗って」 「遊んで」 「泊まって」 という実体験の中で、すでにそれぞれの 「物語」 を醸成しているような商品なのだ。
だから、キャンピングカービルダーが 「物語」 を構築するのはすごく簡単。
すでに、ユーザーが獲得している 「世界」 に、雰囲気のよい演出や美しい映像を加味するだけで十分だからだ。
そこに提案者のちょっとした 「哲学」 が込められていれば、もう完璧。
たぶん、ここ1~2年の間に、キャンピングカーの商品展開や広告手法には大きな変化が訪れるはずだ。
私はそれを興味深く観察していきたいと思っている。
最近のことだ。
何がどう変わったのか?
どこのビルダーも 「ブランド」 というものを意識するようになってきた。
もちろん、 「ブランド」 という言葉から連想するものは人さまざまで、この言葉を口にする人たちは、それぞれ自分なりのイメージを抱いていると思うけれど、私なりに、この言葉を解釈すると、それは 「物語」 ということに尽きる。
つまり、読者を魅了し、その世界に引きずり込み、次のページをめくる時に、未知の世界に踏み込むようなドキドキ感を与えるもの。
そのような力を与えるものを 「物語」 と呼んでいいだろう。
世にブランドとして認められた品々もまた、みな固有の 「物語」 を持っている。
たとえば、ルイ・ヴィトンは、創業期はただのトランク工場に過ぎなかったが、トランクの上に布地を張るというアイデアを生み出し、さらに、創業期が馬車の時代であったことに注目して、
「馬車の荷台に載せても壊れないバッグ」
「濡れても平気な革製品」
という物語を作り、それを伝説化したことによってブランド化に成功した。
フェラーリが自動車の中のブランドとして輝き続けているのも、その背後に背負った物語の力だ。
レースに情熱を傾けていたエンツォ・フェラーリは、サーキットで陣頭指揮を執るときは、安全なマージンを取って完走することよりも、車体が砕け散ろうが1位に向かって爆走することを常に目指し、それをイタリア人のプライドだと誇示した。

▲ テスタロッサ
そのような、エンツォ・フェラーリのレースに賭ける情熱。
「美しいものは速い」 という狂気としか思えないような信念。
それが 「物語」 となって、フェラーリというブランドの輝きを作っているのである。
トヨタの送り出したプリウスというハイブリッド車がブランドになったのも、同じ原理が働いている。
世界でも最も早くハイブリッド車の量産化に成功したトヨタは、これを徹底して 「クリーン」 「エコ」 「省エネ」 という文脈のなかで喧伝した。
ラッキーなことに、それがハリウッドの大スターたちに注目された。
「これからの世は、環境を大切にする意識を持たないと人気を維持できない」 と感じたスターたちは、それまで、大型リムジンで乗り付けていたようなアカデミー賞の授賞式などにも小型のプリウスで乗り付け、観客やメディアに向かって、 「自分は環境意識の高い俳優である」 というイメージを植え付けようとした。
そういう役者の中には、レオナルド・ディカプリオ、オーランド・ブルーム、キャメロン・ディアスなどの名が含まれていたという。
これなども、プリウスが獲得した 「物語」 の例といえるだろう。
▲ ディカプリオ
マーケティングの世界では、よく 「needs (ニーズ = 必要) 」 という言葉に対して、 「wants (ウォンツ = 欲求) 」 を対比させる。
「物語」 というのは、この 「ウォンツ」 に属するものだ。
つまり、食欲を満たすために、とりあえず街の弁当屋で買った弁当を食べるというのが 「ニーズ」 。
それに対し、高級レストランに行って、ビルの夜景などを眺めながらワインを楽しみ、フランス料理を食べる…というのがウォンツ。
お腹に入ってしまえば、どちらもただの “栄養素” に過ぎないが、後者には消費を楽しむ 「ストーリー」 が存在している。
大げさにいえば、そこには 「ライフスタイル」 の創造がある。
キャンピングカーというのは、実は最も 「物語」 を作りやすいところに位置する商品である。
今までこの業界から、そのような 「物語性」 を打ち出した広告展開がなされてこなかったのは、製品としての成熟度…つまりは、機械的な完成度を高める途上にあったからである。
開発技術や製作技術が躍進している間は、広告戦略やパブリシティ戦略においても、技術の向上によって達成できた部分を拡大するようなアプローチが中心となる。
技術的な完成度が上がってこないかぎり、 「物語」 の展開などに智恵を絞る余裕は生まれないからだ。
ところが、ここ最近のキャンピングカー業界からは、そのような技術主義から少しずつ離れ、 「ライフスタイルの提案」 や 「雰囲気づくり」 に力点を置いた商品展開や広告戦略が増えてきた。
その傾向は、キャブコンよりバンコンに顕著だ。
日本のキャブコンはまだ発展途上の段階にあり、技術的な完成度を高めるためには、ベース車と架装部分の連携においても、いくつか乗り越えなければならない課題を残している。
当然、キャブコンの開発者たちは、個々の課題に取り組むことで精いっぱいとなり、その課題をクリアしていくプロセスが、広告戦略やパブリシティ展開の軸になっている。
しかし、ベース車をさほどいじることのなバンコンの場合は、キャブコンに先駆けて、自動車部分が抱える問題点からフリーとなった。
そのことによって、バンコンビルダーたちには、 「ブランドとして生き残るにはどうしたらいいか?」 という次なるステップを考える余裕が生まれた。
こうして、現在、日本のバンコンビルダーの中では、かなり意図的に 「ブランド化」 を目指している会社が生まれており、そのうちの何社かは、 「物語」 の作り方に関心を示しつつある。
ただ、CM戦略として 「物語」 を取り込もうという試みは、今に始まったことではない。
実は、1980年代の末期、電通のスタッフたちの間で 「ストーリー・マーケティング」 という手法が編み出されたことがある。
こういう考え方の背景には、この当時に流行ったボードリヤールなどの記号論の影響があった。
この時代、 「商品には使用価値のほかに、記号的価値がある」 というような言説がマーケッターや広告代理店の間に大流行して、各企業のCMが一斉にイメージ広告化したことがあった。
コップひとつ売るのにも、 「お洒落なコップは、水を飲む道具ではなく、インテリアを飾るアートだ」 といった意味付けがなされ、コップの “物語性” がむりやりに高められて、食器コーナーの棚に置かれていたコップはインテリア家具のコーナーに移ったりもした。
しかし、このストーリー・マーケティング的な広告展開は、バブルの崩壊と同時に廃れてしまう。
バブルが破れて、夢から醒めた人たちは、商品としての実態がないものが、どんな 「物語」 にくるまれようが、そのことの無意味さを分かってしまったからだ。
しかし、キャンピングカーは、バブル期のストーリー・マーケティングで 「物語性」 を付与された商品群とは大いに異なる。
その時代に 「物語」 の体裁を与えられた商品のほとんどは、実態とは縁もゆかりもない 「心地よいイメージ」 だけにくるまれた無内容なものばかりだったが、キャンピングカーには実態がある。
ユーザーが、 「乗って」 「遊んで」 「泊まって」 という実体験の中で、すでにそれぞれの 「物語」 を醸成しているような商品なのだ。
だから、キャンピングカービルダーが 「物語」 を構築するのはすごく簡単。
すでに、ユーザーが獲得している 「世界」 に、雰囲気のよい演出や美しい映像を加味するだけで十分だからだ。
そこに提案者のちょっとした 「哲学」 が込められていれば、もう完璧。
たぶん、ここ1~2年の間に、キャンピングカーの商品展開や広告手法には大きな変化が訪れるはずだ。
私はそれを興味深く観察していきたいと思っている。
2009年03月14日
父が老いた日
父親というのは、息子に何を教えてやれるのだろう。
よく、テレビや雑誌の有名人インタビューなど見ていると、
「……そういう厳しさってのは、父から学びましたね」
などと言っている人を見かけるが、ホントかな? っていう印象を持つことがある。
父親を語るとき、とりあえずそう言っておけばカッコがつくので、ポロっと口から出ちゃったけれど、本当は、
「……そういうだらしなさってのは、父から学びましたね」
と思っている人だって、けっこういるに違いない。
何が言いたいかというと、もし自分がどこかの雑誌とか新聞からインタビューを受け、
「町田さんが、お父さまから教えられたものって何ですか?」
などと聞かれたら、はて、…なんて答えるだろう? と思ったからだ。
なーんにも浮かばないのだ。
もちろん、私の親父は立派な勤め人で、世間的にも、人の尊敬だって集めるような仕事をしていたけれど、
「親父のあの一言が、俺の人生を変えた!」
なんていうドラマチックな思い出を、何も残してくれなかった。
ただ、親父から学んだと思えることが、一つだけある。
麻雀 (マージャン) だ。
親父の趣味といえば、これしかなかった。
正月などに親戚縁者の家に遊びに行ったときも、やぁやぁ、まぁまぁ、久しぶり…とかいう挨拶が終わり、お茶を一杯飲んだらマージャンが始まっていた。

家にも、マージャンをやる客たちが大勢集まった。
休日になると、親父の4畳半の仕事部屋は “雀荘 (じゃんそう) ” になり、昼間から、チー、ポン、ロン…とかいうかけ声が家中に響きわたった。
その部屋で4卓のメンバーを集めたことがある。
わずか4畳半に、計12人の人々がひしめき合ったわけだ。
満員電車の中にいるような状態で、ほぼ1日過ごすのだから、ストレスだってそうとう溜まるだろうに、集まっている連中は嬉々としていた。
そんなにマージャンって面白いのか?
興味も出てきたし、ヒマもあったので、いつの間にか、マージャン客の後ろに座って、牌 (はい) の流れなどを観察するようになった。
「あ、おじちゃんのところには、何も描いていない真っ白なヤツが三つも並んでいる!」
「シー! だめだめみんなに教えちゃぁ」
ってな、会話を客たちと交わしながら、少しずつマージャンを学んだ。
親父は、若い頃、仲の良いポン友と組んで、街の怪しげなマージャン屋によくくり出していたらしい。
「御一人様でも大歓迎」
などという看板を出している雀荘には、昔は、ギャラリーを装って、仲間に 「通し」 のサインを送る人間がいたりして、そういう連中に囲まれると、ほとんど身ぐるみ剥がされてしまうこともあったという。
ところが、こちらも2人で組むと対抗できるのだそうだ。
相手が大きな手を仕掛けていそうなときは、自分たちも呼吸を合わせ、仲間の安い手にわざと打ち込んで、その局を流してしまう。
そんな武勇伝を日常的に聞いているから、マージャンの裏世界の雰囲気も、子供の頃から覚えてしまう。
ある日、徹夜マージャンの最中に、親父が具合が悪くなったことがあった。
ゲームの途中で、 「これ以上やるのが辛い」 と言い出したから、まだ起きていた私も、心配で様子を見にいった。
あれだけ好きな親父が中断する気になったのだから、よほど体調が悪かったのだろう。
残された3人は困った。
もう終電も出てしまった時間なので、帰るあてがない。
「お前、代わりに打て」
と、なんと親父は、中学1年生だった私を 「代打ち」 に指名したのだ。
「いくら負けても、払うのは俺だから、好きなように打て」
…といって、親父はさっさと寝室に入ってしまった。
ようやく親父の仲間たちとマージャンを打てるという喜びはあったが、はて困った。
並べることはできても、役も知らないし、点棒の計算もできない。
第一、いくらのレートで打っていたのか、そんなことすら見当もつかない。
残された3人は…というと、これでゲームも続行できるし、しかもカモが入ってきたので、 「チャンス!」 とばかりにニコニコしている。
打ち始めた頃は、
「ボク、分からないことがあったら、遠慮しないで聞いていいんだよ」
「誰かの牌で上がったと思ったら、間違ってもいいから、堂々と言うんだよ」
…などと、みな優しい。
しかし、こういうときって、だいたい何も知らない方が勝ったりするものなのである。
マージャンはツキのゲームであるが、その晩は、恐ろしいほど私はツイた。
「あ、それ上がりです。当たり…」
と、手を開くと、ほとんどが満貫だった。
もちろん、高い手も安い手も分からないから、とにかく無心に上がりの形だけに持っていく。
そういう邪気のない打ち方が幸いしたのかもしれない。
優しかった3人は、最後の方になると、もう口すら聞いてくれなかった。

そんな形で、私はマージャンにハマった。
学生時代…それも後半の頃は、一番遊んだ時期だったと思う。
昼は、授業をサボって学校近くの雀荘にくり出し、学生同士のマージャンを打った。
私の通った学校には、 「全国学生麻雀大会」 などでチャンピオンになったという学生もいたりして、そういう卓で打っている連中には凄みがあった。
雀荘でも、彼らが囲む卓の周りにだけはギャラリーが集まり、みんな固唾 (かたず) を呑んで、牌の流れを見守っている。
シーンと静まり返った対局中に、誰かが有効牌を引いたりすると、おぉー! というギャラリーたちの声にならないため息が気配として伝わってきた。
日頃そういう卓で打っているメンバーが1人でも入ってくると、私たちのレベルでは誰も勝てない。
ある日、私が1人負けしていた状態を見るに見かねた、そのメンバーの1人が、
「町田、もし字牌の孤立牌をツモってきたら、とっておけよ」
と、目配せしたことがある。
言われるとおり、字牌のツモ牌をとっておいたら、いつのまにか、手の内で大三元ができあがっていた。
当時は、手積みの時代。
詰め込みの技術を持っていた人間には、簡単にツモ牌をコントロールすることができたのだ。
勉強もせずに、学校ではそんなことばかり繰り返していた。
週末になると、今度は近所のポン友が誘いに来る。
こっちは社会人マージャン。
相手は、美容師とか旋盤工、ヤクザ。
ヤクザといっても、昔から知っていた友だちの兄貴なので、別に怖いことはない。
そのヤクザの家で開かれる家庭マージャンにときどき招待された。
スナックのママさんあがりの奥さんが作ってくれた稲荷寿司などをツマミに、酒を飲みながらの “和気あいあいマージャン” がスタートする。
しかし、さすがに家主が酔ってくると、めちゃくちゃなマージャンになった。
「おぉっらぁ、当たるもんなら当たってみやがれぇ!」
まるでドスでも振り回す勢いで、卓に牌を叩きつけてくる。
そういうときは、さすがに訓練のたまものなのか、この手の人たちは相手をビビらせるのが上手い。
眼の光り方が尋常ではなくなってくるのだ。
その勢いに飲まれ、満貫クラスの上がりを何度も見逃したことがあった。
そんなところでマージャンを打っていたから、もう親父の仲間たちと打つマージャンは気楽なものだった。
ある日、親父と対戦していて、ふと気づいたことがある。
たぶんチンイツ (清一色) かホンイツ (混一色) 系の手だったのだろう。
親父は自分の手を見て、少しリーパイ (理牌) し、待ちが分かるように、待ち牌と、他の牌との間を、ちょっとだけ開けたのだ。
他の牌から切り離されたのが2枚並んだ牌だったから、たぶんリャンメン受けだったのだろう。
「あ、老いたな」
と思った。
そんなことをしなければ、待ちが分からないようになっていたのだ。
マージャン打ちにも、盛りのときと衰運のときというのがある。
あれだけ強かったはずの親父が、その頃から、大敗を喫することが多くなった。
年を取って、勝負に執着する気持ちが薄れていったからだろう。

私もまた、結局、息子にはマージャンしか教えてやれなかった。
ただ、これだけは熱心に指導した。
仕事帰りに息子を呼び出して、居酒屋などに連れていったときも、割り箸の入っていた袋の裏に、ボールペンで牌を描きながら、
「イースーチーとか、リャンウーパーとかいうのは、いわゆる筋。だけどホントに気を付けなければならないのは、裏筋といって…」
そんなことを、居酒屋のカウンターで教える父親というのを見たこともない店主から、
「 (麻雀) 連盟か何かのお仕事ですか?」
なんて聞かれたこともある。
しかし、マージャンというのは、ちょっと間を空けてしまうと、もう勝負勘というものが失われてしまうゲームだ。
ゲームは行えても、牌の流れが読めなくなっているのだ。
「今、この牌は危ない!」 とか、
「打つならこれが最後のチャンス」
とかいったゲームの流れを読む力は、10年も遠ざかってしまうと、もう甦ることはない。
マージャンから遠ざかって、それこそ10年後ぐらいに、昔のメンバーが集まってマージャンをやろうということになった。
メンバーが1人足りない。
そこで、私はまだ高校生だった自分の息子を呼び出すことにした。
しかし、その日のマージャンは、私の1人負け。
対戦相手の1人に役満まで振り込んでしまい、その落ち込みをカバーしようと思えば思うほどドツボにハマって、マイナス街道ひた走りとなった。
ところが、私の負け分を、息子がしっかりカバーしていたのである。
トータルトップにはならなかったものの、彼は乱戦を勝ち抜いて、私の負け分をフォローしつつ、さらに自分の小遣いまで稼いでいた。
息子に借りを作ってしまった日だった。
そのときヤツは、私のことをどう思ったか。
きっと、
「老いたな」
と、心の中でつぶやいたことだろう。
よく、テレビや雑誌の有名人インタビューなど見ていると、
「……そういう厳しさってのは、父から学びましたね」
などと言っている人を見かけるが、ホントかな? っていう印象を持つことがある。
父親を語るとき、とりあえずそう言っておけばカッコがつくので、ポロっと口から出ちゃったけれど、本当は、
「……そういうだらしなさってのは、父から学びましたね」
と思っている人だって、けっこういるに違いない。
何が言いたいかというと、もし自分がどこかの雑誌とか新聞からインタビューを受け、
「町田さんが、お父さまから教えられたものって何ですか?」
などと聞かれたら、はて、…なんて答えるだろう? と思ったからだ。
なーんにも浮かばないのだ。
もちろん、私の親父は立派な勤め人で、世間的にも、人の尊敬だって集めるような仕事をしていたけれど、
「親父のあの一言が、俺の人生を変えた!」
なんていうドラマチックな思い出を、何も残してくれなかった。
ただ、親父から学んだと思えることが、一つだけある。
麻雀 (マージャン) だ。
親父の趣味といえば、これしかなかった。
正月などに親戚縁者の家に遊びに行ったときも、やぁやぁ、まぁまぁ、久しぶり…とかいう挨拶が終わり、お茶を一杯飲んだらマージャンが始まっていた。
家にも、マージャンをやる客たちが大勢集まった。
休日になると、親父の4畳半の仕事部屋は “雀荘 (じゃんそう) ” になり、昼間から、チー、ポン、ロン…とかいうかけ声が家中に響きわたった。
その部屋で4卓のメンバーを集めたことがある。
わずか4畳半に、計12人の人々がひしめき合ったわけだ。
満員電車の中にいるような状態で、ほぼ1日過ごすのだから、ストレスだってそうとう溜まるだろうに、集まっている連中は嬉々としていた。
そんなにマージャンって面白いのか?
興味も出てきたし、ヒマもあったので、いつの間にか、マージャン客の後ろに座って、牌 (はい) の流れなどを観察するようになった。
「あ、おじちゃんのところには、何も描いていない真っ白なヤツが三つも並んでいる!」
「シー! だめだめみんなに教えちゃぁ」
ってな、会話を客たちと交わしながら、少しずつマージャンを学んだ。
親父は、若い頃、仲の良いポン友と組んで、街の怪しげなマージャン屋によくくり出していたらしい。
「御一人様でも大歓迎」
などという看板を出している雀荘には、昔は、ギャラリーを装って、仲間に 「通し」 のサインを送る人間がいたりして、そういう連中に囲まれると、ほとんど身ぐるみ剥がされてしまうこともあったという。
ところが、こちらも2人で組むと対抗できるのだそうだ。
相手が大きな手を仕掛けていそうなときは、自分たちも呼吸を合わせ、仲間の安い手にわざと打ち込んで、その局を流してしまう。
そんな武勇伝を日常的に聞いているから、マージャンの裏世界の雰囲気も、子供の頃から覚えてしまう。
ある日、徹夜マージャンの最中に、親父が具合が悪くなったことがあった。
ゲームの途中で、 「これ以上やるのが辛い」 と言い出したから、まだ起きていた私も、心配で様子を見にいった。
あれだけ好きな親父が中断する気になったのだから、よほど体調が悪かったのだろう。
残された3人は困った。
もう終電も出てしまった時間なので、帰るあてがない。
「お前、代わりに打て」
と、なんと親父は、中学1年生だった私を 「代打ち」 に指名したのだ。
「いくら負けても、払うのは俺だから、好きなように打て」
…といって、親父はさっさと寝室に入ってしまった。
ようやく親父の仲間たちとマージャンを打てるという喜びはあったが、はて困った。
並べることはできても、役も知らないし、点棒の計算もできない。
第一、いくらのレートで打っていたのか、そんなことすら見当もつかない。
残された3人は…というと、これでゲームも続行できるし、しかもカモが入ってきたので、 「チャンス!」 とばかりにニコニコしている。
打ち始めた頃は、
「ボク、分からないことがあったら、遠慮しないで聞いていいんだよ」
「誰かの牌で上がったと思ったら、間違ってもいいから、堂々と言うんだよ」
…などと、みな優しい。
しかし、こういうときって、だいたい何も知らない方が勝ったりするものなのである。
マージャンはツキのゲームであるが、その晩は、恐ろしいほど私はツイた。
「あ、それ上がりです。当たり…」
と、手を開くと、ほとんどが満貫だった。
もちろん、高い手も安い手も分からないから、とにかく無心に上がりの形だけに持っていく。
そういう邪気のない打ち方が幸いしたのかもしれない。
優しかった3人は、最後の方になると、もう口すら聞いてくれなかった。
そんな形で、私はマージャンにハマった。
学生時代…それも後半の頃は、一番遊んだ時期だったと思う。
昼は、授業をサボって学校近くの雀荘にくり出し、学生同士のマージャンを打った。
私の通った学校には、 「全国学生麻雀大会」 などでチャンピオンになったという学生もいたりして、そういう卓で打っている連中には凄みがあった。
雀荘でも、彼らが囲む卓の周りにだけはギャラリーが集まり、みんな固唾 (かたず) を呑んで、牌の流れを見守っている。
シーンと静まり返った対局中に、誰かが有効牌を引いたりすると、おぉー! というギャラリーたちの声にならないため息が気配として伝わってきた。
日頃そういう卓で打っているメンバーが1人でも入ってくると、私たちのレベルでは誰も勝てない。
ある日、私が1人負けしていた状態を見るに見かねた、そのメンバーの1人が、
「町田、もし字牌の孤立牌をツモってきたら、とっておけよ」
と、目配せしたことがある。
言われるとおり、字牌のツモ牌をとっておいたら、いつのまにか、手の内で大三元ができあがっていた。
当時は、手積みの時代。
詰め込みの技術を持っていた人間には、簡単にツモ牌をコントロールすることができたのだ。
勉強もせずに、学校ではそんなことばかり繰り返していた。
週末になると、今度は近所のポン友が誘いに来る。
こっちは社会人マージャン。
相手は、美容師とか旋盤工、ヤクザ。
ヤクザといっても、昔から知っていた友だちの兄貴なので、別に怖いことはない。
そのヤクザの家で開かれる家庭マージャンにときどき招待された。
スナックのママさんあがりの奥さんが作ってくれた稲荷寿司などをツマミに、酒を飲みながらの “和気あいあいマージャン” がスタートする。
しかし、さすがに家主が酔ってくると、めちゃくちゃなマージャンになった。
「おぉっらぁ、当たるもんなら当たってみやがれぇ!」
まるでドスでも振り回す勢いで、卓に牌を叩きつけてくる。
そういうときは、さすがに訓練のたまものなのか、この手の人たちは相手をビビらせるのが上手い。
眼の光り方が尋常ではなくなってくるのだ。
その勢いに飲まれ、満貫クラスの上がりを何度も見逃したことがあった。
そんなところでマージャンを打っていたから、もう親父の仲間たちと打つマージャンは気楽なものだった。
ある日、親父と対戦していて、ふと気づいたことがある。
たぶんチンイツ (清一色) かホンイツ (混一色) 系の手だったのだろう。
親父は自分の手を見て、少しリーパイ (理牌) し、待ちが分かるように、待ち牌と、他の牌との間を、ちょっとだけ開けたのだ。
他の牌から切り離されたのが2枚並んだ牌だったから、たぶんリャンメン受けだったのだろう。
「あ、老いたな」
と思った。
そんなことをしなければ、待ちが分からないようになっていたのだ。
マージャン打ちにも、盛りのときと衰運のときというのがある。
あれだけ強かったはずの親父が、その頃から、大敗を喫することが多くなった。
年を取って、勝負に執着する気持ちが薄れていったからだろう。
私もまた、結局、息子にはマージャンしか教えてやれなかった。
ただ、これだけは熱心に指導した。
仕事帰りに息子を呼び出して、居酒屋などに連れていったときも、割り箸の入っていた袋の裏に、ボールペンで牌を描きながら、
「イースーチーとか、リャンウーパーとかいうのは、いわゆる筋。だけどホントに気を付けなければならないのは、裏筋といって…」
そんなことを、居酒屋のカウンターで教える父親というのを見たこともない店主から、
「 (麻雀) 連盟か何かのお仕事ですか?」
なんて聞かれたこともある。
しかし、マージャンというのは、ちょっと間を空けてしまうと、もう勝負勘というものが失われてしまうゲームだ。
ゲームは行えても、牌の流れが読めなくなっているのだ。
「今、この牌は危ない!」 とか、
「打つならこれが最後のチャンス」
とかいったゲームの流れを読む力は、10年も遠ざかってしまうと、もう甦ることはない。
マージャンから遠ざかって、それこそ10年後ぐらいに、昔のメンバーが集まってマージャンをやろうということになった。
メンバーが1人足りない。
そこで、私はまだ高校生だった自分の息子を呼び出すことにした。
しかし、その日のマージャンは、私の1人負け。
対戦相手の1人に役満まで振り込んでしまい、その落ち込みをカバーしようと思えば思うほどドツボにハマって、マイナス街道ひた走りとなった。
ところが、私の負け分を、息子がしっかりカバーしていたのである。
トータルトップにはならなかったものの、彼は乱戦を勝ち抜いて、私の負け分をフォローしつつ、さらに自分の小遣いまで稼いでいた。
息子に借りを作ってしまった日だった。
そのときヤツは、私のことをどう思ったか。
きっと、
「老いたな」
と、心の中でつぶやいたことだろう。
2009年03月06日
ピーズの畑中氏
日産車をベースにしたキャンピングカーで、その存在感を示している 「日産ピーズフィールドクラフト」 の畑中一夫常務。

飲み友だちなのである。
例えば、お台場のキャンピングカーショーでは、会場内で開かれる夕食会にいつも招待してもらい、夜更けまで飲み明かす。
大阪のショーでは、行きつけの立ち飲み串揚げ屋にくり出し、安焼酎を酌み交わす。
あごヒゲが自慢の、一見 「野人」 。
宴の席で話す内容も、たいていヨタ話、ホラ話。
しかし、ふと真面目な話になると、都会的な明晰さと、奥行きの深いインテリジェンスを感じさせる知的な風貌になる。
不思議な魅力を湛えた人だ。
この人との宴の席は、まぁ最初は、業界の動向に対する情報交換などから始まる。
業界は、ここ数年、団塊の世代にキャンピングカーの魅力を訴求することに力を注いできた。
しかし、畑中さんは数年前から、その次の訴求対象を模索して、市場分析を行っていた。
「確実に若い世代の時代が来る! 今の市場調査では、キャンピングカーショーに来る若者の減少や購買欲の低下を嘆いているけれど、その理由を、彼らの所得水準の低下に求めてはならない。
業界が、彼らにとって、魅力ある商品を創り出していないのではないか。
そこで、きっちりとした答を出していけば、この業界は若い世代で溢れかえる可能性がある」
…というのが彼の持論であって、ライバル社が開発する新車を眺める視線にも、常にそういう意識を絡ませている。
「アトランティス」 というキャブコンまで開発するようになった同社は、今や幅広い年齢層の顧客を対象とする総合的なビルダーとしての道を歩んでいる。
しかし、畑中氏が常に考えているのは、 「今の時代が終わった後の、その次に来るもの」 。

▲ アトランティス
アンテナ感度を研ぎ澄ませて、彼は、キャンピングカー以外のカスタムカーの動向を観察する作業も怠りないし、趣味の釣りやジェットスキーなどのフィールドを観察して、アウトドア人口の動向を探ることにも気を配る。
このような畑中氏の才覚を全面的に信頼して、彼に大きな活躍の場を保証している人物として、同社の田村幸彦社長の存在は大きい。
田村社長は今のところ、畑中さんの前向きの提案に全面的に信頼を寄せているように思える。
もちろん、畑中さんも、その信頼を裏切らないように、営業方針の立案においても最大限の注意を払っているように見受けられる。
周りの状況は、決して彼らにとって甘くはない。
トヨタハイエースをベースにしたバンコンで埋め尽くされる市場の中で、日産キャラバンを売っていくのは、ハタから見ると、まさに 「孤軍奮闘」 といった感じだ。

▲ キャラバン・グルーヴィー
なにしろ、開発されてからだいぶ時間が経ってしまったキャラバンに比べ、後から登場したハイエースは、顧客に与えるインパクトにおいても新鮮さを保っている。
しかし、畑中氏は、そのへんをまったく気にしていない。
「時代が変わりましたからね。僕らが若い頃は、クルマに注目する視点というのは、まずエンジン出力、ギヤ比、足回りでしたよね。
だけど、今の人たちは、居住性、ファッション性、使い勝手を重視する。
つまりね、かつては “付加価値” のようなものとして扱われていた領域が、今の時代では、クルマの “性能” を決める重要なファクターになってきたんですよ。
要するに、ベース車の機械的な能力よりも、生活空間としての能力が問われる時代になっているんですね。
そこで勝負するのが、キャンピングカービルダーの仕事だと思いません?」
…だから、モデルチェンジのサイクルが来るごとに、ころころ変わっていくベース車に振り回されるのではなく、ビルダーとして、いかに魅力ある生活空間をデザインして、それをブランド化するが鍵となるという。

▲ キャラバン・カノン
…ってな話が進んでいるうちは、2人ともまだ酔いがあまり回っていない。
が、少しいい気分になって、仕事に関わる話がメンドォーになると、次第に昔ばなしに移っていく。
この人、キャンピングカーの仕事に関わる前は、モータースポーツの世界で生きていた人なのだ。
日産プリンスでメカニックをやっているうちにレースの面白さに気づき、プライベートチームを組んで、富士スピードウェイにくり出していたという経歴の持ち主なのである。
チーム名は 「ランダムカンパニー」 。
自己主張が強い人間が集まりだったので、いつも統制はバラバラ。
それが、チーム名の由来になったという。
「だって、どこそこの “頭” やっていたなんていう夜走 (よばしり) が得意なヤツが平気で入ってきたりするんですよ。もうワケが分かんねぇ… (笑) 」
そのプライベートチームで、畑中氏は、1200ccの 「110サニー」 をチューニングしてスピードを競った。

ライバルは、トヨタのスターレット1200。
同排気量同士のクルマであっても、スターレット勢からは 「TOM'S (トムス) 」 のようなトヨタの支援を受けるショップが参戦し、サニー勢は苦境に立たされる。
TOM'S仕様のスターレットは、ほぼフルチューン。
後にトヨタの耐久マシン (グループCカー) まで開発するようになるTOM'Sは、この頃からすでにセミワークスだった。
にもかかわらず、好成績を収めたのはたいていサニー勢だった。
この時代、私は畑中さんとは違った立場からレースの現場を見ていた。
私の方は、彼とは逆に、仕事の取材を通じて 「TOM'S」 に出入りすることが多く、自然とトヨタ側を応援するようになっていた。
だから、私が最初に買ったクルマも、スターレットST。
(そのノーマル車に、ステッカーだけはTOM'Sの “トビウオ” を大仰に貼って走り回っていた)
そのうち、ラリーやレース、ジムカーナの取材がどんどん増え、2T-GエンジンをチューンしたTE27レビンなどを操るラリーストやレーサーのところにも足しげく取材に回るようになった。
ボアアップ、スープアップなどという言葉も覚え、そういう言葉を使って記事を書くことが面白くてたまらなかった。

今思うと、畑中さんとは、FISCOのピット裏あたりで、すれ違っていたのかもしれない。

…ってな感じの話になってくると、私と畑中さんとの酒宴は、だいぶ盛り上がってきたことになる。
プライベートチームでレース活動をしていた畑中さんは、やがてプライベーターの限界を感じ、その後は、グラチャンマシンを整備する日産レーシングチームのエンジニアとして活躍するようになる。
その頃は、ピットに入るマシンのエンジン音を聞くだけで、あと何回転ぐらい回るかもすぐ察知できたという。
当時、グラチャンのヒーローといえば、日産勢では星野一義、高橋国光、長谷見昌弘。
「みんな面白いおっちゃんたちでね… (笑) 」
畑中さんは、いまだに彼らと共にピットの中で過ごしているような気分で語る。
「なにしろ、あの頃はキャブレターを替えただけで10馬力アップ、マフラー替えただけで5馬力アップ…そういう世界だからさぁ、クルマとチューナーのレスポンスが密でしたよね。
あの時代のクルマは、いじれば必ず応えてくれたわけじゃない?
クルマの鼓動が聞こえてきてさ、そのメッセージを感じて、こっちも応えてやるという、まぁ、人とマシンの交流があったよね」
乾いたマシンの世界にも、人間と同じような “命の躍動” を感じるのが、畑中さんなのである。
感受性も豊かならば、表現も詩的だ。
そういう時代のクルマを知っている彼からすると、
「今はみんなコンピューターチューンになったから、いじれるのは一部の専門家だけ。
今の若者がクルマに魅力を感じなくなってきたというのも、たぶん、クルマとの対話ができなくなったからだろうね」
…ということになる。
だから、「対話のできる」 余地をいっぱい残したキャンピングカーの方が、これからは若者の心を惹き付ける、といういつもの持論になっていく。
そんな彼でも、会社の方針に従ってキャンピングカーを売る世界に移ったときは、さすがに面食らったそうだ。
それまで生きてきた世界とは180度違う世界なので、最初は、何をどうすればいいのか見当も付かなかった。
しかし、すぐにレースの世界と似ていることに気がついた。
F1のようなものを別にすれば、レース業界もキャンピングカー業界も、裾野は広くとも、頂上までの層が薄いという。
「広大な裾野を持つ産業というのは、普通は裾野の上にそびえ立つ “峰” も高いんですよ。
ところが、両方とも峰が形成されずに、すぐフラットなてっぺんに行き着いてしまう」
そのため、なかなか “うまみ” のある商売にはならない。
「でもね、逆にいうと、この業界では誰もが “天下を取る” チャンスを持っているということなんですね。
てっぺんまでの距離が短いから、誰が天下を取ってもおかしくはない」
まさに、戦国時代のようなもの。
「ビルダーの社長さんたちの顔を最初に見たとき、ホントみな戦国時代の大名に見えましたもの (笑) 」
いちばん戦国武将の顔つきに近い畑中さんがそう言うのだから、間違いはない。

「で、この業界がレースの世界と似ているのはね、社長さんたちがみな一家言を持っていることなんですね。
レース界では、チューナーたちが、みな自分がこの世界では一番だと思っているんですよ。まさに、ワンパク小僧がそのまま大人になった感じ。キャンピングカー業界もそっくり (笑) 」
そういう “乱世の時代” が、畑中さんにとっては面白くて仕方がないようだ。
しかし、女性たちを交えた宴の世界で、彼はいつもそんなことを語っているわけではない。
「旦那のウソの見分け方」
「旦那が朝帰りの言い訳に使うベスト3」
「思わず旦那が惚れ直す、奥様の会話術」
……女性週刊誌のネタにでもなりそうな話題をつぎつぎとくり出して、クラブキャンプで焚き火を囲んでいる奥様方の好奇心を、ずばりとワシづかみ。
女性たちだけでなく、マグカップに焼酎を注いだ男衆も、おもわず身を乗り出して、畑中さんのしゃべりに耳を傾ける。
ウソがホントか分からぬが、畑中さんの魔術のノリを持った会話術は、酒が回るにつれて、金を取ってもおかしくない 「話芸」 の域まで突き進む。
「私のことをホラ吹きと呼んでください」
畑中さんはそう広言する。
ウソつきは人を不幸にするけれど、ホラ吹きは、人を楽しませる。
どうやら、そういうことらしい。
この業界に、一人のエンターティナーが生まれようとしている。
飲み友だちなのである。
例えば、お台場のキャンピングカーショーでは、会場内で開かれる夕食会にいつも招待してもらい、夜更けまで飲み明かす。
大阪のショーでは、行きつけの立ち飲み串揚げ屋にくり出し、安焼酎を酌み交わす。
あごヒゲが自慢の、一見 「野人」 。
宴の席で話す内容も、たいていヨタ話、ホラ話。
しかし、ふと真面目な話になると、都会的な明晰さと、奥行きの深いインテリジェンスを感じさせる知的な風貌になる。
不思議な魅力を湛えた人だ。
この人との宴の席は、まぁ最初は、業界の動向に対する情報交換などから始まる。
業界は、ここ数年、団塊の世代にキャンピングカーの魅力を訴求することに力を注いできた。
しかし、畑中さんは数年前から、その次の訴求対象を模索して、市場分析を行っていた。
「確実に若い世代の時代が来る! 今の市場調査では、キャンピングカーショーに来る若者の減少や購買欲の低下を嘆いているけれど、その理由を、彼らの所得水準の低下に求めてはならない。
業界が、彼らにとって、魅力ある商品を創り出していないのではないか。
そこで、きっちりとした答を出していけば、この業界は若い世代で溢れかえる可能性がある」
…というのが彼の持論であって、ライバル社が開発する新車を眺める視線にも、常にそういう意識を絡ませている。
「アトランティス」 というキャブコンまで開発するようになった同社は、今や幅広い年齢層の顧客を対象とする総合的なビルダーとしての道を歩んでいる。
しかし、畑中氏が常に考えているのは、 「今の時代が終わった後の、その次に来るもの」 。
▲ アトランティス
アンテナ感度を研ぎ澄ませて、彼は、キャンピングカー以外のカスタムカーの動向を観察する作業も怠りないし、趣味の釣りやジェットスキーなどのフィールドを観察して、アウトドア人口の動向を探ることにも気を配る。
このような畑中氏の才覚を全面的に信頼して、彼に大きな活躍の場を保証している人物として、同社の田村幸彦社長の存在は大きい。
田村社長は今のところ、畑中さんの前向きの提案に全面的に信頼を寄せているように思える。
もちろん、畑中さんも、その信頼を裏切らないように、営業方針の立案においても最大限の注意を払っているように見受けられる。
周りの状況は、決して彼らにとって甘くはない。
トヨタハイエースをベースにしたバンコンで埋め尽くされる市場の中で、日産キャラバンを売っていくのは、ハタから見ると、まさに 「孤軍奮闘」 といった感じだ。
▲ キャラバン・グルーヴィー
なにしろ、開発されてからだいぶ時間が経ってしまったキャラバンに比べ、後から登場したハイエースは、顧客に与えるインパクトにおいても新鮮さを保っている。
しかし、畑中氏は、そのへんをまったく気にしていない。
「時代が変わりましたからね。僕らが若い頃は、クルマに注目する視点というのは、まずエンジン出力、ギヤ比、足回りでしたよね。
だけど、今の人たちは、居住性、ファッション性、使い勝手を重視する。
つまりね、かつては “付加価値” のようなものとして扱われていた領域が、今の時代では、クルマの “性能” を決める重要なファクターになってきたんですよ。
要するに、ベース車の機械的な能力よりも、生活空間としての能力が問われる時代になっているんですね。
そこで勝負するのが、キャンピングカービルダーの仕事だと思いません?」
…だから、モデルチェンジのサイクルが来るごとに、ころころ変わっていくベース車に振り回されるのではなく、ビルダーとして、いかに魅力ある生活空間をデザインして、それをブランド化するが鍵となるという。
▲ キャラバン・カノン
…ってな話が進んでいるうちは、2人ともまだ酔いがあまり回っていない。
が、少しいい気分になって、仕事に関わる話がメンドォーになると、次第に昔ばなしに移っていく。
この人、キャンピングカーの仕事に関わる前は、モータースポーツの世界で生きていた人なのだ。
日産プリンスでメカニックをやっているうちにレースの面白さに気づき、プライベートチームを組んで、富士スピードウェイにくり出していたという経歴の持ち主なのである。
チーム名は 「ランダムカンパニー」 。
自己主張が強い人間が集まりだったので、いつも統制はバラバラ。
それが、チーム名の由来になったという。
「だって、どこそこの “頭” やっていたなんていう夜走 (よばしり) が得意なヤツが平気で入ってきたりするんですよ。もうワケが分かんねぇ… (笑) 」
そのプライベートチームで、畑中氏は、1200ccの 「110サニー」 をチューニングしてスピードを競った。
ライバルは、トヨタのスターレット1200。
同排気量同士のクルマであっても、スターレット勢からは 「TOM'S (トムス) 」 のようなトヨタの支援を受けるショップが参戦し、サニー勢は苦境に立たされる。
TOM'S仕様のスターレットは、ほぼフルチューン。
後にトヨタの耐久マシン (グループCカー) まで開発するようになるTOM'Sは、この頃からすでにセミワークスだった。
にもかかわらず、好成績を収めたのはたいていサニー勢だった。
この時代、私は畑中さんとは違った立場からレースの現場を見ていた。
私の方は、彼とは逆に、仕事の取材を通じて 「TOM'S」 に出入りすることが多く、自然とトヨタ側を応援するようになっていた。
だから、私が最初に買ったクルマも、スターレットST。
(そのノーマル車に、ステッカーだけはTOM'Sの “トビウオ” を大仰に貼って走り回っていた)
そのうち、ラリーやレース、ジムカーナの取材がどんどん増え、2T-GエンジンをチューンしたTE27レビンなどを操るラリーストやレーサーのところにも足しげく取材に回るようになった。
ボアアップ、スープアップなどという言葉も覚え、そういう言葉を使って記事を書くことが面白くてたまらなかった。
今思うと、畑中さんとは、FISCOのピット裏あたりで、すれ違っていたのかもしれない。
…ってな感じの話になってくると、私と畑中さんとの酒宴は、だいぶ盛り上がってきたことになる。
プライベートチームでレース活動をしていた畑中さんは、やがてプライベーターの限界を感じ、その後は、グラチャンマシンを整備する日産レーシングチームのエンジニアとして活躍するようになる。
その頃は、ピットに入るマシンのエンジン音を聞くだけで、あと何回転ぐらい回るかもすぐ察知できたという。
当時、グラチャンのヒーローといえば、日産勢では星野一義、高橋国光、長谷見昌弘。
「みんな面白いおっちゃんたちでね… (笑) 」
畑中さんは、いまだに彼らと共にピットの中で過ごしているような気分で語る。
「なにしろ、あの頃はキャブレターを替えただけで10馬力アップ、マフラー替えただけで5馬力アップ…そういう世界だからさぁ、クルマとチューナーのレスポンスが密でしたよね。
あの時代のクルマは、いじれば必ず応えてくれたわけじゃない?
クルマの鼓動が聞こえてきてさ、そのメッセージを感じて、こっちも応えてやるという、まぁ、人とマシンの交流があったよね」
乾いたマシンの世界にも、人間と同じような “命の躍動” を感じるのが、畑中さんなのである。
感受性も豊かならば、表現も詩的だ。
そういう時代のクルマを知っている彼からすると、
「今はみんなコンピューターチューンになったから、いじれるのは一部の専門家だけ。
今の若者がクルマに魅力を感じなくなってきたというのも、たぶん、クルマとの対話ができなくなったからだろうね」
…ということになる。
だから、「対話のできる」 余地をいっぱい残したキャンピングカーの方が、これからは若者の心を惹き付ける、といういつもの持論になっていく。
そんな彼でも、会社の方針に従ってキャンピングカーを売る世界に移ったときは、さすがに面食らったそうだ。
それまで生きてきた世界とは180度違う世界なので、最初は、何をどうすればいいのか見当も付かなかった。
しかし、すぐにレースの世界と似ていることに気がついた。
F1のようなものを別にすれば、レース業界もキャンピングカー業界も、裾野は広くとも、頂上までの層が薄いという。
「広大な裾野を持つ産業というのは、普通は裾野の上にそびえ立つ “峰” も高いんですよ。
ところが、両方とも峰が形成されずに、すぐフラットなてっぺんに行き着いてしまう」
そのため、なかなか “うまみ” のある商売にはならない。
「でもね、逆にいうと、この業界では誰もが “天下を取る” チャンスを持っているということなんですね。
てっぺんまでの距離が短いから、誰が天下を取ってもおかしくはない」
まさに、戦国時代のようなもの。
「ビルダーの社長さんたちの顔を最初に見たとき、ホントみな戦国時代の大名に見えましたもの (笑) 」
いちばん戦国武将の顔つきに近い畑中さんがそう言うのだから、間違いはない。
「で、この業界がレースの世界と似ているのはね、社長さんたちがみな一家言を持っていることなんですね。
レース界では、チューナーたちが、みな自分がこの世界では一番だと思っているんですよ。まさに、ワンパク小僧がそのまま大人になった感じ。キャンピングカー業界もそっくり (笑) 」
そういう “乱世の時代” が、畑中さんにとっては面白くて仕方がないようだ。
しかし、女性たちを交えた宴の世界で、彼はいつもそんなことを語っているわけではない。
「旦那のウソの見分け方」
「旦那が朝帰りの言い訳に使うベスト3」
「思わず旦那が惚れ直す、奥様の会話術」
……女性週刊誌のネタにでもなりそうな話題をつぎつぎとくり出して、クラブキャンプで焚き火を囲んでいる奥様方の好奇心を、ずばりとワシづかみ。
女性たちだけでなく、マグカップに焼酎を注いだ男衆も、おもわず身を乗り出して、畑中さんのしゃべりに耳を傾ける。
ウソがホントか分からぬが、畑中さんの魔術のノリを持った会話術は、酒が回るにつれて、金を取ってもおかしくない 「話芸」 の域まで突き進む。
「私のことをホラ吹きと呼んでください」
畑中さんはそう広言する。
ウソつきは人を不幸にするけれど、ホラ吹きは、人を楽しませる。
どうやら、そういうことらしい。
この業界に、一人のエンターティナーが生まれようとしている。
2009年02月27日
村上龍氏を取材
人に取材するとき、特にその人が作家やアーティストのような場合は、最低限その人の作品の一つか二つは事前に接しておくべきだろう。
それは相手に対する礼儀でもあろう。
しかし、取材記者のなかには、「事前に作品を読むと、先入観が生じて冷静な観察ができなくなるから、体当たりで会うようにしている」 と豪語する人もいるらしい。
私にはそういう人の神経が不思議でならない。
特に作家に取材する場合、その人の生身の生活がどうであれ、作家というのは活字を通して自分を主張する人間なのだから、結局は 「書かれたもの」 がすべてなのだ。
作品を読まずして、趣味はゴルフですか? 休日はどう過ごされますか? などと聞いても意味がない。
昔、自動車メーカーのPR誌の企画で、作家の村上龍さんに取材したことがあった。
スポーティなキャラクターを持つ新型セダンのイメージキャラクターに彼が選ばれ、CM撮影のこぼれ話を聞きながら、宣伝するクルマの 「良さ」 を語ってもらおうという主旨だった。

そのとき、私は既にその編集部を離れ、キャンプ関係の媒体を手伝いながら徳大寺有恒さんの単行本などを手掛けていたが、その取材だけは、こっちに役目が回ってきた。
正直、私は村上龍さんのそれほど良き読者ではなかった。
デビュー作の 『限りなく透明に近いブルー』 を読んだほか、あとは折に触れ、雑誌に掲載された対談やエッセイに目を通しているぐらいだった。
しかし、取材ともなれば、最近作を読んでいなければ話にならない。
インタビューの4日ぐらい前、急いで本屋に行って小説 『テニスボーイの憂鬱』 とエッセイ集の 『龍言飛語』 、『すべての男は消耗品である』 などを買い込み、3日ほどで読んで “読書ノート” を作った。

そして、私は私なりに 「作家・村上龍」 のイメージを掴むことができた。
取材当日、私たち取材班が向かったのは都内の豪華ホテルだった。
そのスイートルームを、広告代理店とそのクライアントがわざわざ用意したというのである。
部屋に着くと、自動車メーカーの広報部や宣伝部の責任者たち、広告代理店のスタッフたちが、ロココ調の調度に囲まれた部屋の中を、にぎにぎしく埋め尽くしていた。
誰もがピリピリ緊張していた。
その中で、徹夜で原稿書きをしていたという龍さんは、少し眠そうな目をしばたかせながら、ぼんやりとソファに沈んでいた。
カメラマンがカメラを構え、一同が龍さんを囲んでソファに腰を落とす。
広告代理店のチーフ格のスタッフが口火を切った。
アルマーニ風のシルエットのスーツを着こなし、薄いヒゲを唇の上に品よく整えた、お洒落な人だった。
CMの想定ターゲット層を、どのような人たちに絞り込んだか、という話が始まった。
「このクルマに乗っていただきたい人は、常に新しいものを探していたり、お洒落にも気を配ったりする人なんです。
そして “いい男” になればいい女が見逃さない…という感覚を分かる人というのが、今回の想定ユーザーです。
そこで、都会的な洗練さに、先端的な知性を合わせ持った村上龍さんをイメージキャラクターに選び、龍さんへの憧れが同時にこのクルマへの期待へ変るという設定で…」
という風に話が進んでいったように思う。
聞いていて、外しているなぁ…という印象を持った。
たぶん、そのようなコンセプトメイクをしてしまう人というのは、村上龍作品を読んだことのない人だろうと感じたが、黙っていた。
村上龍の書く小説やエッセイの世界というのは、“危険” がいっぱいだ。
世の中の倫理や道徳が、平気で踏みにじられようとする世界だ。
当時、彼が映画監督として撮ろうとしていた作品が 『トパーズ』 であったことからも、それは分かる。
彼がどれほど “アブナイ作家” であるか。
たとえば、『龍言飛語』 の第二章には、こんなことが書かれている。
「日本ではリスクを背負うなんていう発想はないよ。道路の信号を見てみろよ。右折なんていつでもできるのに、右折のサインが出ないと (日本人は) 曲がれない。あんな理不尽な信号機に何の疑問も抱かずに従って、『私はリスクを背負っている』 はないだろう」
世の中のルールやモラルなんて 「ヘッ!」 と軽蔑している人なのである。
もちろん彼の脳裏には、信号機などを平気で無視しながらも、それでも交通社会を維持しているイタリアのイメージがある。
だけど、それは日本の交通社会を維持しているルールやモラルと真っ向から対立するものだ。
同じ本では、こんな記述もある。
「タバコは喫った方がいいよ。格好いい女がタバコを喫うと格好いいんだよな。
パリなんか、本当にきれいなマドモアゼルが運転しながら吸って、消しもしないで窓からポーンと捨てている。
そりゃゴミは捨てない方がいいに決まっているけれど、俺は捨てた方がいい場合もあると思っている」
当時は、今ほど喫煙に対する規制は厳しくはなかったけれど、どう考えても、この発言はアンモラルだ。
私が広告立案者だったら、とてもそんな “アブナイ作家” を、万人向けの量産型セダンのCMなどに起用しない。
この広告代理店の人たちは、何を考えているのだろうと思った。
しかし、逆にいえば、そういうところに 「作家・村上龍」 の魅力もあるといえる。
たとえ世の中から 「非道徳的な人間」 「エエカッコしい」 「差別主義者」 などというレッテルを貼られようが、そういう挑発的でアブナイ発言を堂々とやってしまうところに、彼のカッコよさがあった。
誰からも非難されないような耳障りのいい発言だけを繰り返して金を稼いでいる人たちよりも、嫌なヤツだと嫌われようが、危ない領域に踏み込むことに作家生命を賭けている龍さんの方がいさぎよいに決まっている。
そういう村上龍の真髄を逃すことなく、かつ周りに集っているCM作成のクライアントや広告代理店の人たちの希望に沿えるような取材って、果たしてどう進めればいいのか。
私は、自分が非常にアクロバティックな立場にいることを悟った。
しかし、大事なことは、彼に 「この取材は面白い」 と思ってもらうことに尽きる。
龍さんを “ノセる” ことが大事だと思った私は、フェラーリの話から始めることにした。
『龍言飛語』 という本には、彼がエンツォ・フェラーリの自伝を読んだときの感想が書かれていたからだ。

「エンツォ・フェラーリの自伝を読んでいて、ひとつ、俺がウッと思ったことがある。
昔のミッレミリアのレースの途中で、彼のフェラーリの調子が悪くなった。
そのままトップグループで走ると壊れる可能性もある。でも様子を見ながら走れば完走できそうだ。
どうしますか? とエンツォ・フェラーリに連絡が入ったんだよ。
そのときフェラーリが何と答えたかというと、『私たちはイタリア人だろう』 。
もうこれで答が出てるんだよ。
『走れ』 と。 死んでもいいから行けってことだよ」

…確か、そうお書きになっていたと思うんですが…
と私が言ったとき、彼の目が輝いた。
「よく覚えていますねぇ!」
初めて、今日の取材は面白いかな…と思ってくれたような顔だった。
次に私が質問したのは、キューバの音楽についてだった。
当時彼はキューバの音楽にとても凝っていて、その素晴らしさついても同書で触れていた。
「キューバのルンバというと、ドンドコドコドコという太鼓のリズムとバタバタと動き回る原住民の踊りを思い浮かべる人が多い。
しかし、そんな素朴なものじゃない。それは恐ろしくソフィストケイトされた音楽とダンスだ。
メッキの剥げたトランペットとトロンボーンから一気に立ち上がるハイトーンの美しいこと。
スパニッシュとナイジェリア、コンゴの血が混じり合った強靭な声帯から出る圧倒的な歌声。
そして暴風雨のようなパーカッション。
ひょっとしたらカストロは、このような偉大な音楽をアメリカン・カルチャーから守るために革命を起こしたのではないか、と考えたほどだ」

そのくだりが、とても印象に残った…ということを述べたとき、彼ははっきりとこう言った。
「本当によく読んでますね。そこまで読んでいただくと、僕も非常に光栄です。うれしいです。ありがとうございます」
こちらは読書ノートまで作って取材に臨んでいるのだ。
そのあたりは、原文を読みあげなくても頭に入っている。
そこから、しばらくはキューバ音楽に対する彼の想いが語られた。
「キューバにあって日本に欠けているものは、国民のプライドなんですね。アメリカと完全に敵対しているから、自分たちのプライドが問われる。
それはお金なのか。それとも、嫌なことは嫌だとはっきり言うことなのか。
それを、いつもキューバの人たちは、自分自身に問うてきたと思うんですよ。
プライドというのは、自然に生まれてくるものではなく、何かによってつくられるものだと…」
要するに、国は貧しくとも、世界一の超大国であるアメリカに対抗するという気構えが、キューバの音楽を先鋭にしているということを、彼は言いたかったのだ。
そのようなキューバの尖んがり方に魅せられていることを告白することで、彼は暗に、自分の本音の “クルマ観” というものも語っていたように思う。
龍さんの舌は、ようやく滑らかに回り始めたのだけれど、周りの人たちが、焦り始めていたのも見えた。
広告代理店の人たちは、早くCMに使うクルマの感想を聞いてくれ、といわんばかりの表情だった。
しかし、そのような心配も、もう無用だった。
彼は自分の方から、今回のCM撮影にイメージキャラクターとしてどう臨んだのか、対象となったクルマに対してどう感じたのかということを、広告代理店の人たちが、ほっと胸を撫でおろすような答で飾ってくれたのだ。
たぶん、自分の文学の真髄を理解してくれているのなら、CM制作の人たちが望むような答を出しても、その言動に潜むさまざまな思いも嗅ぎ取ってくれるだろう、という期待があったのだと思う。
そして、私はクライアントやCM制作者たちが望むような原稿を完璧に仕上げ、その原文のまま、ひと言の修正もなしに龍さんの承諾をもらった。
この取材のために作った読書ノートは、その後も役に立った。
何かの原稿を書いているとき、そのときの読書ノートに書きとめた言葉がふと浮かんでくることがある。
自分の表現の幅も、それから少し広がったように思う。
それは相手に対する礼儀でもあろう。
しかし、取材記者のなかには、「事前に作品を読むと、先入観が生じて冷静な観察ができなくなるから、体当たりで会うようにしている」 と豪語する人もいるらしい。
私にはそういう人の神経が不思議でならない。
特に作家に取材する場合、その人の生身の生活がどうであれ、作家というのは活字を通して自分を主張する人間なのだから、結局は 「書かれたもの」 がすべてなのだ。
作品を読まずして、趣味はゴルフですか? 休日はどう過ごされますか? などと聞いても意味がない。
昔、自動車メーカーのPR誌の企画で、作家の村上龍さんに取材したことがあった。
スポーティなキャラクターを持つ新型セダンのイメージキャラクターに彼が選ばれ、CM撮影のこぼれ話を聞きながら、宣伝するクルマの 「良さ」 を語ってもらおうという主旨だった。
そのとき、私は既にその編集部を離れ、キャンプ関係の媒体を手伝いながら徳大寺有恒さんの単行本などを手掛けていたが、その取材だけは、こっちに役目が回ってきた。
正直、私は村上龍さんのそれほど良き読者ではなかった。
デビュー作の 『限りなく透明に近いブルー』 を読んだほか、あとは折に触れ、雑誌に掲載された対談やエッセイに目を通しているぐらいだった。
しかし、取材ともなれば、最近作を読んでいなければ話にならない。
インタビューの4日ぐらい前、急いで本屋に行って小説 『テニスボーイの憂鬱』 とエッセイ集の 『龍言飛語』 、『すべての男は消耗品である』 などを買い込み、3日ほどで読んで “読書ノート” を作った。
そして、私は私なりに 「作家・村上龍」 のイメージを掴むことができた。
取材当日、私たち取材班が向かったのは都内の豪華ホテルだった。
そのスイートルームを、広告代理店とそのクライアントがわざわざ用意したというのである。
部屋に着くと、自動車メーカーの広報部や宣伝部の責任者たち、広告代理店のスタッフたちが、ロココ調の調度に囲まれた部屋の中を、にぎにぎしく埋め尽くしていた。
誰もがピリピリ緊張していた。
その中で、徹夜で原稿書きをしていたという龍さんは、少し眠そうな目をしばたかせながら、ぼんやりとソファに沈んでいた。
カメラマンがカメラを構え、一同が龍さんを囲んでソファに腰を落とす。
広告代理店のチーフ格のスタッフが口火を切った。
アルマーニ風のシルエットのスーツを着こなし、薄いヒゲを唇の上に品よく整えた、お洒落な人だった。
CMの想定ターゲット層を、どのような人たちに絞り込んだか、という話が始まった。
「このクルマに乗っていただきたい人は、常に新しいものを探していたり、お洒落にも気を配ったりする人なんです。
そして “いい男” になればいい女が見逃さない…という感覚を分かる人というのが、今回の想定ユーザーです。
そこで、都会的な洗練さに、先端的な知性を合わせ持った村上龍さんをイメージキャラクターに選び、龍さんへの憧れが同時にこのクルマへの期待へ変るという設定で…」
という風に話が進んでいったように思う。
聞いていて、外しているなぁ…という印象を持った。
たぶん、そのようなコンセプトメイクをしてしまう人というのは、村上龍作品を読んだことのない人だろうと感じたが、黙っていた。
村上龍の書く小説やエッセイの世界というのは、“危険” がいっぱいだ。
世の中の倫理や道徳が、平気で踏みにじられようとする世界だ。
当時、彼が映画監督として撮ろうとしていた作品が 『トパーズ』 であったことからも、それは分かる。
彼がどれほど “アブナイ作家” であるか。
たとえば、『龍言飛語』 の第二章には、こんなことが書かれている。
「日本ではリスクを背負うなんていう発想はないよ。道路の信号を見てみろよ。右折なんていつでもできるのに、右折のサインが出ないと (日本人は) 曲がれない。あんな理不尽な信号機に何の疑問も抱かずに従って、『私はリスクを背負っている』 はないだろう」
世の中のルールやモラルなんて 「ヘッ!」 と軽蔑している人なのである。
もちろん彼の脳裏には、信号機などを平気で無視しながらも、それでも交通社会を維持しているイタリアのイメージがある。
だけど、それは日本の交通社会を維持しているルールやモラルと真っ向から対立するものだ。
同じ本では、こんな記述もある。
「タバコは喫った方がいいよ。格好いい女がタバコを喫うと格好いいんだよな。
パリなんか、本当にきれいなマドモアゼルが運転しながら吸って、消しもしないで窓からポーンと捨てている。
そりゃゴミは捨てない方がいいに決まっているけれど、俺は捨てた方がいい場合もあると思っている」
当時は、今ほど喫煙に対する規制は厳しくはなかったけれど、どう考えても、この発言はアンモラルだ。
私が広告立案者だったら、とてもそんな “アブナイ作家” を、万人向けの量産型セダンのCMなどに起用しない。
この広告代理店の人たちは、何を考えているのだろうと思った。
しかし、逆にいえば、そういうところに 「作家・村上龍」 の魅力もあるといえる。
たとえ世の中から 「非道徳的な人間」 「エエカッコしい」 「差別主義者」 などというレッテルを貼られようが、そういう挑発的でアブナイ発言を堂々とやってしまうところに、彼のカッコよさがあった。
誰からも非難されないような耳障りのいい発言だけを繰り返して金を稼いでいる人たちよりも、嫌なヤツだと嫌われようが、危ない領域に踏み込むことに作家生命を賭けている龍さんの方がいさぎよいに決まっている。
そういう村上龍の真髄を逃すことなく、かつ周りに集っているCM作成のクライアントや広告代理店の人たちの希望に沿えるような取材って、果たしてどう進めればいいのか。
私は、自分が非常にアクロバティックな立場にいることを悟った。
しかし、大事なことは、彼に 「この取材は面白い」 と思ってもらうことに尽きる。
龍さんを “ノセる” ことが大事だと思った私は、フェラーリの話から始めることにした。
『龍言飛語』 という本には、彼がエンツォ・フェラーリの自伝を読んだときの感想が書かれていたからだ。
「エンツォ・フェラーリの自伝を読んでいて、ひとつ、俺がウッと思ったことがある。
昔のミッレミリアのレースの途中で、彼のフェラーリの調子が悪くなった。
そのままトップグループで走ると壊れる可能性もある。でも様子を見ながら走れば完走できそうだ。
どうしますか? とエンツォ・フェラーリに連絡が入ったんだよ。
そのときフェラーリが何と答えたかというと、『私たちはイタリア人だろう』 。
もうこれで答が出てるんだよ。
『走れ』 と。 死んでもいいから行けってことだよ」
…確か、そうお書きになっていたと思うんですが…
と私が言ったとき、彼の目が輝いた。
「よく覚えていますねぇ!」
初めて、今日の取材は面白いかな…と思ってくれたような顔だった。
次に私が質問したのは、キューバの音楽についてだった。
当時彼はキューバの音楽にとても凝っていて、その素晴らしさついても同書で触れていた。
「キューバのルンバというと、ドンドコドコドコという太鼓のリズムとバタバタと動き回る原住民の踊りを思い浮かべる人が多い。
しかし、そんな素朴なものじゃない。それは恐ろしくソフィストケイトされた音楽とダンスだ。
メッキの剥げたトランペットとトロンボーンから一気に立ち上がるハイトーンの美しいこと。
スパニッシュとナイジェリア、コンゴの血が混じり合った強靭な声帯から出る圧倒的な歌声。
そして暴風雨のようなパーカッション。
ひょっとしたらカストロは、このような偉大な音楽をアメリカン・カルチャーから守るために革命を起こしたのではないか、と考えたほどだ」
そのくだりが、とても印象に残った…ということを述べたとき、彼ははっきりとこう言った。
「本当によく読んでますね。そこまで読んでいただくと、僕も非常に光栄です。うれしいです。ありがとうございます」
こちらは読書ノートまで作って取材に臨んでいるのだ。
そのあたりは、原文を読みあげなくても頭に入っている。
そこから、しばらくはキューバ音楽に対する彼の想いが語られた。
「キューバにあって日本に欠けているものは、国民のプライドなんですね。アメリカと完全に敵対しているから、自分たちのプライドが問われる。
それはお金なのか。それとも、嫌なことは嫌だとはっきり言うことなのか。
それを、いつもキューバの人たちは、自分自身に問うてきたと思うんですよ。
プライドというのは、自然に生まれてくるものではなく、何かによってつくられるものだと…」
要するに、国は貧しくとも、世界一の超大国であるアメリカに対抗するという気構えが、キューバの音楽を先鋭にしているということを、彼は言いたかったのだ。
そのようなキューバの尖んがり方に魅せられていることを告白することで、彼は暗に、自分の本音の “クルマ観” というものも語っていたように思う。
龍さんの舌は、ようやく滑らかに回り始めたのだけれど、周りの人たちが、焦り始めていたのも見えた。
広告代理店の人たちは、早くCMに使うクルマの感想を聞いてくれ、といわんばかりの表情だった。
しかし、そのような心配も、もう無用だった。
彼は自分の方から、今回のCM撮影にイメージキャラクターとしてどう臨んだのか、対象となったクルマに対してどう感じたのかということを、広告代理店の人たちが、ほっと胸を撫でおろすような答で飾ってくれたのだ。
たぶん、自分の文学の真髄を理解してくれているのなら、CM制作の人たちが望むような答を出しても、その言動に潜むさまざまな思いも嗅ぎ取ってくれるだろう、という期待があったのだと思う。
そして、私はクライアントやCM制作者たちが望むような原稿を完璧に仕上げ、その原文のまま、ひと言の修正もなしに龍さんの承諾をもらった。
この取材のために作った読書ノートは、その後も役に立った。
何かの原稿を書いているとき、そのときの読書ノートに書きとめた言葉がふと浮かんでくることがある。
自分の表現の幅も、それから少し広がったように思う。
2009年02月25日
不思議なエミリー
黒髪を持った、黒い瞳の、黒い服を着た、不思議な女の子。
「エミリー」 というんだそうだ。

ちょっと調べものをしているときに、偶然開いた外国のサイトで、このエミリーちゃんに出会った。
一目惚れ!

なんだろう?
この子の目は…
ものすごくキュートで、セクシーなんだけど、まったく人間に媚びていない。

人間の原理を超えた世界で生きている女の子。
そういう 「超越性」 が備わっていて、とっても魅せられる。

で、調べてみたら、やっぱり “魔女” なんだそうだ。
しかも、13歳という魔女だ。

英語文化圏では、「Emily the Strange (エミリー・ザ・ストレンジ) 」 で通っているらしい。

Wikによると、サンフランシスコのアーティスト集団 「コズミック・デブリ」 のバズ・パーカーという人が創作したキャラクターなんだとか。

当初はステッカーのキャラクターとして発売されたが、後に、衣服、バッグ、スケートボード、絵本、ノート、などのキャラクターとして、活躍の舞台を広げた女の子らしい。
日本では、2003年に宇多田ヒカルが翻訳した絵本があるそうだ。

彼女のお供は4匹の猫。
猫の名前は、サバス、ニーチェ、マイルズ、ミステリー。
ニーチェって、あの哲学者のニーチェか?
彼女には、人間の友達はいないらしいので、猫を相手に哲学談義でもしているのかもしれない。

彼女が暮らしているのは、人間の影すら漂うことのない、赤、黒、白だけで満たされた独りぼっちの空間。
そこは、たぶん時間の止まっている世界なんだろう。

赤地を背景に、黒ベタと、力強い線だけで構成された、素気ないほどシンプルなデザインが実に雄弁。
黒ベタのボリュームがたっぷりで、それが余白の部分をよけい魅力的に見せている。
この感覚が、もうこの世のモノじゃない。
エミリーという商品キャラクターの背後に、一生かかっても読みきれないほどの 「物語」 が存在しているような雰囲気が伝わってくる。

イノセントな処女性と、妖艶な魔女性が、何の矛盾もなく共存する少女。
現代のビアズリーが描いたサロメだ。

ホームページもあるみたいだ。
http://www.emilystrange.com/

「エミリー」 というんだそうだ。
ちょっと調べものをしているときに、偶然開いた外国のサイトで、このエミリーちゃんに出会った。
一目惚れ!
なんだろう?
この子の目は…
ものすごくキュートで、セクシーなんだけど、まったく人間に媚びていない。
人間の原理を超えた世界で生きている女の子。
そういう 「超越性」 が備わっていて、とっても魅せられる。
で、調べてみたら、やっぱり “魔女” なんだそうだ。
しかも、13歳という魔女だ。
英語文化圏では、「Emily the Strange (エミリー・ザ・ストレンジ) 」 で通っているらしい。
Wikによると、サンフランシスコのアーティスト集団 「コズミック・デブリ」 のバズ・パーカーという人が創作したキャラクターなんだとか。
当初はステッカーのキャラクターとして発売されたが、後に、衣服、バッグ、スケートボード、絵本、ノート、などのキャラクターとして、活躍の舞台を広げた女の子らしい。
日本では、2003年に宇多田ヒカルが翻訳した絵本があるそうだ。
彼女のお供は4匹の猫。
猫の名前は、サバス、ニーチェ、マイルズ、ミステリー。
ニーチェって、あの哲学者のニーチェか?
彼女には、人間の友達はいないらしいので、猫を相手に哲学談義でもしているのかもしれない。
彼女が暮らしているのは、人間の影すら漂うことのない、赤、黒、白だけで満たされた独りぼっちの空間。
そこは、たぶん時間の止まっている世界なんだろう。
赤地を背景に、黒ベタと、力強い線だけで構成された、素気ないほどシンプルなデザインが実に雄弁。
黒ベタのボリュームがたっぷりで、それが余白の部分をよけい魅力的に見せている。
この感覚が、もうこの世のモノじゃない。
エミリーという商品キャラクターの背後に、一生かかっても読みきれないほどの 「物語」 が存在しているような雰囲気が伝わってくる。
イノセントな処女性と、妖艶な魔女性が、何の矛盾もなく共存する少女。
現代のビアズリーが描いたサロメだ。
ホームページもあるみたいだ。
http://www.emilystrange.com/
2009年02月18日
中村達さんの視点
アウトドア・ジャーナリストで、数々のアウトドアイベントなどをプロデュースされる中村達 (なかむら・とおる) さんをご案内して、幕張の 「キャンピング&RVショー」 会場を回る機会があった。

金曜日のウィークデイのことだったが、場内を眺めた中村さんが、
「最近、ウィークデイにこれだけの人を集められる有料イベントって、すごいことですよ」
と話されたのが印象的だった。
ただ、キャンピングカーショーに集まって人たちの数に比べ、キャンピングカーの販売台数は思ったほどには伸びていない…と、『キャンピングカー白書2008』 を分析された中村さんはいう。
最も買いやすい価格帯のものとして、300万円台ぐらいのキャンピングカーから用意されているというのに、それが年間5,000台~6,000台という販売数しか達していないというのは、600万~700万人もいる日本のキャンプ人口の構成比と比べてみると、数が合わないのではないか?
…というのが、中村さんの見立てなのだ。
本来ならば、もっと伸びてしかるべき商品なのに、それがまだ普及の途上になるとしたら、何が問題となっているのか。
中村さんは、キャンピングカーが産業として伸びていくには、まだ超えなければならないいくつかのハードルがあるとお考えのようだ。
それらのハードルの中には、日本の休暇が短いという問題、キャンプ場をはじめ、キャンピングカーを受け入れてくれるインフラがまだ未整備だという問題、さらにユーザーの車庫事情の問題など、ハード面の問題が多く横たわっていることは確かだという。
しかし、中村さんは、それ以前の問題として、「日本には、まだキャンピングカーを十分に使いこなすだけの文化が育っていないのではないか」 と指摘する。
キャンピングカーは結局は遊びのクルマである。
それも、旅行やアウトドア・アクティビティに密接したものである。
しかし、遊びにはスキルが必要となる。
せっかくキャンピングカーを使って、目的地に着いても、毎回バーベキューと焼き肉を食べて、お酒を飲んで寝るだけでは飽きが来る。
中高年がリタイヤ後にキャンピングカーで旅をするというのは素敵だが、それにはそこそこのトレーニングがいる。
……というのが、中村さんの基本的な考え方のようだ。
では、中村さんのいうような、「遊びのスキル」 を育てるためのトレーニングとはどういうものなのか。
このブログでも、中村さんの基本的な考え方をご紹介させていただいたことがあるので、もし未読に方は下記をどうぞ。
《中村達さんの講演》
日本のアウトドアの考察1
日本のアウトドアの考察2
金曜日のウィークデイのことだったが、場内を眺めた中村さんが、
「最近、ウィークデイにこれだけの人を集められる有料イベントって、すごいことですよ」
と話されたのが印象的だった。
ただ、キャンピングカーショーに集まって人たちの数に比べ、キャンピングカーの販売台数は思ったほどには伸びていない…と、『キャンピングカー白書2008』 を分析された中村さんはいう。
最も買いやすい価格帯のものとして、300万円台ぐらいのキャンピングカーから用意されているというのに、それが年間5,000台~6,000台という販売数しか達していないというのは、600万~700万人もいる日本のキャンプ人口の構成比と比べてみると、数が合わないのではないか?
…というのが、中村さんの見立てなのだ。
本来ならば、もっと伸びてしかるべき商品なのに、それがまだ普及の途上になるとしたら、何が問題となっているのか。
中村さんは、キャンピングカーが産業として伸びていくには、まだ超えなければならないいくつかのハードルがあるとお考えのようだ。
それらのハードルの中には、日本の休暇が短いという問題、キャンプ場をはじめ、キャンピングカーを受け入れてくれるインフラがまだ未整備だという問題、さらにユーザーの車庫事情の問題など、ハード面の問題が多く横たわっていることは確かだという。
しかし、中村さんは、それ以前の問題として、「日本には、まだキャンピングカーを十分に使いこなすだけの文化が育っていないのではないか」 と指摘する。
キャンピングカーは結局は遊びのクルマである。
それも、旅行やアウトドア・アクティビティに密接したものである。
しかし、遊びにはスキルが必要となる。
せっかくキャンピングカーを使って、目的地に着いても、毎回バーベキューと焼き肉を食べて、お酒を飲んで寝るだけでは飽きが来る。
中高年がリタイヤ後にキャンピングカーで旅をするというのは素敵だが、それにはそこそこのトレーニングがいる。
……というのが、中村さんの基本的な考え方のようだ。
では、中村さんのいうような、「遊びのスキル」 を育てるためのトレーニングとはどういうものなのか。
このブログでも、中村さんの基本的な考え方をご紹介させていただいたことがあるので、もし未読に方は下記をどうぞ。
《中村達さんの講演》
日本のアウトドアの考察1
日本のアウトドアの考察2
2009年02月17日
田中ケンさん
幕張で開かれた 「キャンピング&RVショー」 の会場で、アウトドア・ライフを広くプロデュースする田中ケンさんとお会いする機会があった。
ファーストカスタムさんのブースで佐藤社長に取材していたとき、なんと隣りに座っていたのがケンさんだったのである。

アウトドア専門誌 『ガルヴィ』 にも連載を持ち、ライターとしても活躍している田中ケンさんだが、そもそも 『ポパイ』 や 『メンズクラブ』 でモデルを務めていた方だけに、こちらを向いてにっこり笑ってくれただけで、草原を吹き抜ける風のような爽やかさが広がった。
ファーストカスタムの佐藤社長によると、今後は同社の商品開発においても、「キャンピングカーを使ったアウトドアライフ」 という広い視点からのアドバイスをもらうことになったのだとか。
ケンさんの後ろには、さっそくケンさんがモデルを務めるファーストカスタムのポスターが貼られていた。
「町田さん紹介しましょうか?」
と、佐藤社長がいってくださったので、のこのこと隣りの席に移って、ちょいとケンさんにインタビューさせてもらうことになった。
そもそも、ケンさんがアウトドアに興味を持ったのは、どういうきっかけからだったのだろう。
「僕の父親はドイツ系なんですけど、山が好きな男で、僕が小さい頃から “遊び” といえば山歩き。
普通の旅行に行ったときでも、泊まるところいえばコテージのような場所。料理といえばバーベキューなどが多かったんですよ」
とケンさんは語る。
そういうわけで、遊ぶフィールといえば 「自然の中」 が当たり前という状態で過ごした少年時代。
その後、モデルを務めた関係上、一時は東京の六本木、青山を遊び場所としたこともあったが、20代の頃に先輩とキャンプに行ったことがきっかけで、再びアウトドアの楽しさを再発見することになったという。
ケンさんのアウトドア歴は20数年。
テレビ、ラジオに出演するほか、原稿の執筆やイベントの企画、プロデュースなどの仕事をこなしながら、今でも年間200日はフィールドにいる。
肩書きの 「快適生活研究家」 というのも、生活の中にアウトドアを採り入れることによって生活はもっと快適になる…という信念のもとに考案した肩書きだという。
昨年の4月26日。念願のキャンプ場もオープンすることになった。
『outside BASE (アウトサイドベース) 』
というのが、キャンプ場名。
場所は群馬県の北軽井沢。
東京ドームの3倍ほどの広さを誇る大自然をできるだけ素直に残した作りが特徴だ。

「管理人はスタッフの方にお願いしていますが、仕事があるとき以外は、僕もできるだけキャンプ場に出向いて、お客様といっしょにトレッキングを楽しんだりしています。
近くにはロッククライミングもできる場所があるので、チャレンジしてみたい方がいらっしゃったら、ご一緒してもいいですよ」
と、あくまでもきさくな田中ケンさん。

仕事のコラボを通じて感じたファーストカスタムさんのキャンピングカーについて、印象を聞いてみた。

「よそのメーカーさんのクルマに比べると、若干価格が高いような印象もありますが、僕は、その分良くできたキャンピングカーだという気がしています。
特に、佐藤社長の造られているクルマだという安心感がありますね。
社長とは、2年ほど前に、ある雑誌のページを作るときにご一緒させていただいてからのつき合いになりますが、とても信頼のできる方です。
ちょっとガンコ (笑) 。
でも、それは良い製品を造るためのこだわりから来るガンコなので、それがとても頼もしく感じられます」

ファーストカスタムさんも、素敵な人と仕事を共にするようになったものだ。
最後に、田中ケンさんから “アウトドア観” を一言。

「僕が思うアウトドアというのは、あくまでも遊び心が中心となったものなんですね。ドイツ系の父がそれを教えてくれました。
アウトドアには、しっかりとした理念が必要ですが、それを表に出してしまったらつまらない。
日本人は、それを表に出してしまって、ちょっと理屈っぽく語ってしまう傾向がありますね。
でも、基本は遊び。
あくまでも、ゆったりした気持ちで楽しまないとね」
今の仕事が一段落したら、私もさっそくケンさんのキャンプ場を訪ねてみるつもりだ。
ファーストカスタムさんのブースで佐藤社長に取材していたとき、なんと隣りに座っていたのがケンさんだったのである。
アウトドア専門誌 『ガルヴィ』 にも連載を持ち、ライターとしても活躍している田中ケンさんだが、そもそも 『ポパイ』 や 『メンズクラブ』 でモデルを務めていた方だけに、こちらを向いてにっこり笑ってくれただけで、草原を吹き抜ける風のような爽やかさが広がった。
ファーストカスタムの佐藤社長によると、今後は同社の商品開発においても、「キャンピングカーを使ったアウトドアライフ」 という広い視点からのアドバイスをもらうことになったのだとか。
ケンさんの後ろには、さっそくケンさんがモデルを務めるファーストカスタムのポスターが貼られていた。
「町田さん紹介しましょうか?」
と、佐藤社長がいってくださったので、のこのこと隣りの席に移って、ちょいとケンさんにインタビューさせてもらうことになった。
そもそも、ケンさんがアウトドアに興味を持ったのは、どういうきっかけからだったのだろう。
「僕の父親はドイツ系なんですけど、山が好きな男で、僕が小さい頃から “遊び” といえば山歩き。
普通の旅行に行ったときでも、泊まるところいえばコテージのような場所。料理といえばバーベキューなどが多かったんですよ」
とケンさんは語る。
そういうわけで、遊ぶフィールといえば 「自然の中」 が当たり前という状態で過ごした少年時代。
その後、モデルを務めた関係上、一時は東京の六本木、青山を遊び場所としたこともあったが、20代の頃に先輩とキャンプに行ったことがきっかけで、再びアウトドアの楽しさを再発見することになったという。
ケンさんのアウトドア歴は20数年。
テレビ、ラジオに出演するほか、原稿の執筆やイベントの企画、プロデュースなどの仕事をこなしながら、今でも年間200日はフィールドにいる。
肩書きの 「快適生活研究家」 というのも、生活の中にアウトドアを採り入れることによって生活はもっと快適になる…という信念のもとに考案した肩書きだという。
昨年の4月26日。念願のキャンプ場もオープンすることになった。
『outside BASE (アウトサイドベース) 』
というのが、キャンプ場名。
場所は群馬県の北軽井沢。
東京ドームの3倍ほどの広さを誇る大自然をできるだけ素直に残した作りが特徴だ。
「管理人はスタッフの方にお願いしていますが、仕事があるとき以外は、僕もできるだけキャンプ場に出向いて、お客様といっしょにトレッキングを楽しんだりしています。
近くにはロッククライミングもできる場所があるので、チャレンジしてみたい方がいらっしゃったら、ご一緒してもいいですよ」
と、あくまでもきさくな田中ケンさん。
仕事のコラボを通じて感じたファーストカスタムさんのキャンピングカーについて、印象を聞いてみた。
「よそのメーカーさんのクルマに比べると、若干価格が高いような印象もありますが、僕は、その分良くできたキャンピングカーだという気がしています。
特に、佐藤社長の造られているクルマだという安心感がありますね。
社長とは、2年ほど前に、ある雑誌のページを作るときにご一緒させていただいてからのつき合いになりますが、とても信頼のできる方です。
ちょっとガンコ (笑) 。
でも、それは良い製品を造るためのこだわりから来るガンコなので、それがとても頼もしく感じられます」
ファーストカスタムさんも、素敵な人と仕事を共にするようになったものだ。
最後に、田中ケンさんから “アウトドア観” を一言。
「僕が思うアウトドアというのは、あくまでも遊び心が中心となったものなんですね。ドイツ系の父がそれを教えてくれました。
アウトドアには、しっかりとした理念が必要ですが、それを表に出してしまったらつまらない。
日本人は、それを表に出してしまって、ちょっと理屈っぽく語ってしまう傾向がありますね。
でも、基本は遊び。
あくまでも、ゆったりした気持ちで楽しまないとね」
今の仕事が一段落したら、私もさっそくケンさんのキャンプ場を訪ねてみるつもりだ。
2009年02月11日
俺流ブログ術
…ってなタイトルを付けるほど、何か訴えたいものがあるわけではないのだ。
エラソーなことを言える立場でもないし、それほどのブログを管理しているわけでもないので、熟達のブロガーが見れば 「笑っちゃう」 タイトルだろうけれど、2年半ほどブログを続けてきて、ちょっと気づいたことをメモ書きしておきたい…とは思った。

2年半やってきて気づいたことは、自分の書いたものでも 「読みやすい」 ものと 「読みづらい」 ものがあるということだった。
読んでいただいた方々の感想をうかがっても、読みやすい記事の方が評判がいい。
「読みやすい」
というのは、記事内容そのものもそうだが、文章の区切り、行の空け方、画像配分など、パッと見の “とっつきやすさ” のことをいう。
最初は、その案配が分からなくて、とにかくペーパー媒体のイメージで記事を書いていた。
すなわち、行間を詰め気味にして、びっしりと文字を埋めるという手法だ。
でも、パソコン画面でそれをやると、実に読みにくい。
自分はかなり前から老眼になっているせいもあって、改行もなく文字がびっしりと続いている文章は、どんなに面白そうな内容が想像できても、まず読まなくなった。
ブログのようなネットで公開する文章は、せいぜい4~5行 「文字」 が続いたら、1行 「余白」 という感じで行を進めていかないと息苦しくなる。
このことは、ネット世代として育った若い方はよく心得ているようだが、一定程度上の世代にいくと、なかなか守られてはいない。
たぶん、ペーパー媒体に慣れ親しんできた世代は、改行が多かったり、空白の行が多かったりする文を 「軽い」 と感じる傾向があるからだろう。また、それが 「手抜き」 に感じられることもあるかと思う。
私もそうだった。
一番最初に司馬遼太郎の小説を読んだとき、あまりにも改行が多かったために、手抜きする作家なのか? といぶかしく思ったくらいだった。
しかし、読んでいくにつれ、司馬さんの行と行の隙間には、イメージがびっしりつまっていることが分かってきた。
行間の空白は、時に文字で埋まった行よりも雄弁である…ぐらいに思った方がいいかもしれない。
《 字間にも気配りを 》
余白は 「行間」 を調整することである程度つくり出せるが、「文字間」 の詰まり具合も調整しておくと、さらに読みやすくなる。
特にギュッと詰まっている印象を与えるのは、カッコ類のところ。
「 」 とか、『 』 とか、( ) である。
たとえば、カッコを使った文章として、次のような例はどうだろうか。
① 『TheRoad』(早川書房)という本は「SF」のジャンルに入る。
② 『 The Road 』 (早川書房) という本は 「SF」 のジャンルに入る。
同じ文章でも ② の方が余裕が感じられて、目に優しいはずだ。
ある文字を 「 」 でくくる場合、自分はなるべくその前後の文字の間に1角スペースを入れている。 ( ) の場合は半角スペース。
手間はかかるけど、読者が行を追うときに、その方が目に優しい感じがするのではないかと思っている。
《 間の空けすぎには注意 》
これとは反対に、行間の空けすぎも、ちょっと考えもの。
若い人のブログなどでよくあるが、最後の結論にたどり前に相当なスクロールを要求するものがある。
だらだらっと画像なし文字なしの思わせぶりの画面が続き、3ページぐらいスクロールが続いたところで、やっと…
「…やっぱりフラれちゃったのでありました!」
なんて結論が書いてあったりする。
意表を突くにはいいスタイルなので、当たったときは “拍手喝采” になるけれど、戦略が当たらないときは惨め。
「なんだよ、こんなことを言うために、こんなにスクロールさせやがって…」
と思われることもある。
意表を突きたいときは、文章そのもので勝負する方がやはり王道であるように思う。
《 軽薄な文章の見本 》
読んでいて、「こいつ軽薄だなぁ」 と感じる文章の一番の特徴は、安直なカタカナ用語ばかりで飾られた文章である。
バブル時代に、当時の業務を通じて、大手の広告代理店の営業マンや制作サイドの人たちと一緒に仕事をする機会があった。
その人たちが、クライアントにプレゼンテーションする席上に何度か同席させてもらったが、やたらカタカナ用語が多くて閉口したことがある。
「キッチュでエキゾチック…というのが時代を表すキータームとなってきた現在ですねぇ、エンドユーザーへのインターフェースにおいても、非日常感覚をシュミレートするようなエキセントリック・デザインをプライオリティのトップに掲げて…」
……ってな感じであった。
プレゼンターだけがうっとりするような業界用語を、そのままユーザーに訴えても通じるわけがないことは、歴戦錬磨の広告のプロである彼らには十分に分かっているはずだけれど、それでもそういう表現を使うと、時代の先端を行っているような雰囲気だけは出るので、クライアントを煙に巻いて企画を通すにはいい場合もある。
しかし、これは諸刃の剣で、賞味期限が切れるのも早い。
新しい言葉は、時代が変ると、真っ先に古びてしまう。
広告というのは、とにかく新しいことが 「価値」 になるから、古い広告がすぐさま “古くなって” くれないと、新しい広告のプレゼン価値がなくなる。
それはよく分かるけれど、しかし、それでは文化として熟成しない。よって、「ケイハク」 に感じられてしまうのである。
もし、まだ一般的にはなじみがないようなカタカナ言葉を仕入れて、それを使ってみたいと思ったときは、その記事の中では、その一言だけを使うと決めた方が効果的である。
そして、当然使った用語の意味が、日本語では何相当するのかを匂わすような書き方は必要だろう。
そこまですれば完璧。
新しい外来語は、人がまだ耳になじんでいない分、逆にいうと 「手垢」 が付いていない。
ということは、使い古された日本語を使うよりも、それを外来語に置き換えた方が、言葉に “生命” が宿る場合もあるのだ。
そういった意味で、何が何でもカタカナ言葉を使わない方がいいというわけではない。
珍しいカタカナ用語を覚えて使いたくなったら、ただ一点、これだけを自分に問うた方がいい。
「自分はその言葉を使うことで、今までになかった新しい意味を読者に伝えることができるのだろうか?」
もし 「新しい意味」 に対するイメージがくっきりと浮かんでいたとしたら、そこで使われる言葉は、当然読者に強いインパクトを与えるはずだ。

《 嫌われるオレオレブログ 》
ブログというのは、自己表現の場である。
だから、ブログをネットで公開する以上、書き手は、一人でも多くの人に読んでもらいたいと願うのは当然のことだろう。
それは、「多くの人に自分を評価してもらいたい」 という欲望と重なっている。
だから、人によってはつい力が入ってしまい、自分を過剰にPRしがちになるものだが、自分を誇大にPRすることは、PRされた受け手側を敵に回すことも覚悟しなければならない。
なぜかというと、日本人は他人の 「自画自賛」 を疎ましく感じる気質というものを持ち合わせているからだ。
欧米文化圏では、幼児教育の段階から自己PRの訓練を施されている。
そして、相手の自己PRをくじき、自分のPRを優勢にさせるためのディベートなる教科も組まれている。
こういう思考を身につけた人たちからは、日本人は 「自己主張も弱く、個性もなく、周りばかりに気をつかう」 というネガティブな評価を下されがちだが、それは一面的な見方というものだろう。
日本の文化には、ことさら “オレオレPR” などしなくても、ちゃんとその人キャラクターの妙味なり、その思索の奥行きなどを吟味して評価する土壌がある。
それは、書き手がどんな奥ゆかしさを装うとも自然に滲み出てくるものであり、古来より日本人は、書き手の奥ゆかしさの背後に潜む 「本当の力」 を、読み手がすくい上げる訓練を重ねてきた。
近年、そういう国語教育を 「実用的でない」 と否定する人たちの 「文章読本」 なども出回るようになり、欧米文化圏で通用する自己PR型の文章をいかに書くかという手ほどきをする本が売れたりするけれど、アサハカである。
読み書きの世界で、自己PRばかり熱心な文章を賞賛する風潮が強まれば、そのうち、人々の間に、奥ゆかしさの中に 「凄み」 を漂わせている文章を読む力がなくなっていく。
そうなると、誰もが 「オレオレ度」 をもっと強くしないと自分を分かってもらえないのではないかという不安に駆られ、ついつい自慢話をどう巧妙に展開しようかと、いろいろ画策することになる。
しかし、やっぱりそれは “浮く” 。
では、どうすればいいのか。
自分をPRするのではなく、伝えたい内容を先鋭化するしかない。
誰もが納得いく結論で、お茶を濁してはいないだろうか?
ありきたりの言葉を使って手を抜いてはいないだろうか?
そこだけを守っていれば、ことさら 「オレオレ度」 を強めることなど意識しなくても、自然に自分の個性なりキャラクターというものは、相手に伝わっていくものだ。
《 結論のまとめ方 》
ブログを書いていて、そろそろ結論を…と思ったとき、何が必要となるだろう。
気の利いた一言で締め括りたいと思うのは誰でも同じだろうし、自分が体験した感動を、念のためにもう一度強調しておきたいというのも、人情として分かる。
しかし、結論をまとめるときのコツは、たった一つ。
「ありきたりの言葉」 を使わないというだけのことなのだ。
ありきたりの言葉とは何か?
「美しい」
「清らか」
「温かい」
「優しい」 等々…。
その言葉を使えば、誰も反論できなくなる 「水戸黄門の印篭」 のような言葉のことである。
こういう言葉で結論を飾ってはならない。
なぜなら、どのような論旨を展開しようが、これらの言葉が結論に来れば、すべて問題は丸く収まってしまうからである。
めでたし、めでたし…では、人の心に届かない。
「○○さんの清く美しい心に触れ、温かい優しさに包まれ、幸せでした」
こういう文章からは、何も伝わってこない。
結論は大々的に飾ろうとせず、むしろ、一番言いたいことの一歩手前で止めておく。
それが余韻を生かすときの王道である。
…と、ここまで書いてきて、ふとこのエントリータイトルを思い出した。
『俺流ブログ術』 。
…… ま、そういうことなんである。
人間どこかで無意識のうちに 「オレオレ度」 は出てしまうのだ。
そういうことを理解する意味でも、考えながらブログを書くことは大事である。
ハハハ。
最後は笑ってごまかせばいいのである。
エラソーなことを言える立場でもないし、それほどのブログを管理しているわけでもないので、熟達のブロガーが見れば 「笑っちゃう」 タイトルだろうけれど、2年半ほどブログを続けてきて、ちょっと気づいたことをメモ書きしておきたい…とは思った。
2年半やってきて気づいたことは、自分の書いたものでも 「読みやすい」 ものと 「読みづらい」 ものがあるということだった。
読んでいただいた方々の感想をうかがっても、読みやすい記事の方が評判がいい。
「読みやすい」
というのは、記事内容そのものもそうだが、文章の区切り、行の空け方、画像配分など、パッと見の “とっつきやすさ” のことをいう。
最初は、その案配が分からなくて、とにかくペーパー媒体のイメージで記事を書いていた。
すなわち、行間を詰め気味にして、びっしりと文字を埋めるという手法だ。
でも、パソコン画面でそれをやると、実に読みにくい。
自分はかなり前から老眼になっているせいもあって、改行もなく文字がびっしりと続いている文章は、どんなに面白そうな内容が想像できても、まず読まなくなった。
ブログのようなネットで公開する文章は、せいぜい4~5行 「文字」 が続いたら、1行 「余白」 という感じで行を進めていかないと息苦しくなる。
このことは、ネット世代として育った若い方はよく心得ているようだが、一定程度上の世代にいくと、なかなか守られてはいない。
たぶん、ペーパー媒体に慣れ親しんできた世代は、改行が多かったり、空白の行が多かったりする文を 「軽い」 と感じる傾向があるからだろう。また、それが 「手抜き」 に感じられることもあるかと思う。
私もそうだった。
一番最初に司馬遼太郎の小説を読んだとき、あまりにも改行が多かったために、手抜きする作家なのか? といぶかしく思ったくらいだった。
しかし、読んでいくにつれ、司馬さんの行と行の隙間には、イメージがびっしりつまっていることが分かってきた。
行間の空白は、時に文字で埋まった行よりも雄弁である…ぐらいに思った方がいいかもしれない。
《 字間にも気配りを 》
余白は 「行間」 を調整することである程度つくり出せるが、「文字間」 の詰まり具合も調整しておくと、さらに読みやすくなる。
特にギュッと詰まっている印象を与えるのは、カッコ類のところ。
「 」 とか、『 』 とか、( ) である。
たとえば、カッコを使った文章として、次のような例はどうだろうか。
① 『TheRoad』(早川書房)という本は「SF」のジャンルに入る。
② 『 The Road 』 (早川書房) という本は 「SF」 のジャンルに入る。
同じ文章でも ② の方が余裕が感じられて、目に優しいはずだ。
ある文字を 「 」 でくくる場合、自分はなるべくその前後の文字の間に1角スペースを入れている。 ( ) の場合は半角スペース。
手間はかかるけど、読者が行を追うときに、その方が目に優しい感じがするのではないかと思っている。
《 間の空けすぎには注意 》
これとは反対に、行間の空けすぎも、ちょっと考えもの。
若い人のブログなどでよくあるが、最後の結論にたどり前に相当なスクロールを要求するものがある。
だらだらっと画像なし文字なしの思わせぶりの画面が続き、3ページぐらいスクロールが続いたところで、やっと…
「…やっぱりフラれちゃったのでありました!」
なんて結論が書いてあったりする。
意表を突くにはいいスタイルなので、当たったときは “拍手喝采” になるけれど、戦略が当たらないときは惨め。
「なんだよ、こんなことを言うために、こんなにスクロールさせやがって…」
と思われることもある。
意表を突きたいときは、文章そのもので勝負する方がやはり王道であるように思う。
《 軽薄な文章の見本 》
読んでいて、「こいつ軽薄だなぁ」 と感じる文章の一番の特徴は、安直なカタカナ用語ばかりで飾られた文章である。
バブル時代に、当時の業務を通じて、大手の広告代理店の営業マンや制作サイドの人たちと一緒に仕事をする機会があった。
その人たちが、クライアントにプレゼンテーションする席上に何度か同席させてもらったが、やたらカタカナ用語が多くて閉口したことがある。
「キッチュでエキゾチック…というのが時代を表すキータームとなってきた現在ですねぇ、エンドユーザーへのインターフェースにおいても、非日常感覚をシュミレートするようなエキセントリック・デザインをプライオリティのトップに掲げて…」
……ってな感じであった。
プレゼンターだけがうっとりするような業界用語を、そのままユーザーに訴えても通じるわけがないことは、歴戦錬磨の広告のプロである彼らには十分に分かっているはずだけれど、それでもそういう表現を使うと、時代の先端を行っているような雰囲気だけは出るので、クライアントを煙に巻いて企画を通すにはいい場合もある。
しかし、これは諸刃の剣で、賞味期限が切れるのも早い。
新しい言葉は、時代が変ると、真っ先に古びてしまう。
広告というのは、とにかく新しいことが 「価値」 になるから、古い広告がすぐさま “古くなって” くれないと、新しい広告のプレゼン価値がなくなる。
それはよく分かるけれど、しかし、それでは文化として熟成しない。よって、「ケイハク」 に感じられてしまうのである。
もし、まだ一般的にはなじみがないようなカタカナ言葉を仕入れて、それを使ってみたいと思ったときは、その記事の中では、その一言だけを使うと決めた方が効果的である。
そして、当然使った用語の意味が、日本語では何相当するのかを匂わすような書き方は必要だろう。
そこまですれば完璧。
新しい外来語は、人がまだ耳になじんでいない分、逆にいうと 「手垢」 が付いていない。
ということは、使い古された日本語を使うよりも、それを外来語に置き換えた方が、言葉に “生命” が宿る場合もあるのだ。
そういった意味で、何が何でもカタカナ言葉を使わない方がいいというわけではない。
珍しいカタカナ用語を覚えて使いたくなったら、ただ一点、これだけを自分に問うた方がいい。
「自分はその言葉を使うことで、今までになかった新しい意味を読者に伝えることができるのだろうか?」
もし 「新しい意味」 に対するイメージがくっきりと浮かんでいたとしたら、そこで使われる言葉は、当然読者に強いインパクトを与えるはずだ。
《 嫌われるオレオレブログ 》
ブログというのは、自己表現の場である。
だから、ブログをネットで公開する以上、書き手は、一人でも多くの人に読んでもらいたいと願うのは当然のことだろう。
それは、「多くの人に自分を評価してもらいたい」 という欲望と重なっている。
だから、人によってはつい力が入ってしまい、自分を過剰にPRしがちになるものだが、自分を誇大にPRすることは、PRされた受け手側を敵に回すことも覚悟しなければならない。
なぜかというと、日本人は他人の 「自画自賛」 を疎ましく感じる気質というものを持ち合わせているからだ。
欧米文化圏では、幼児教育の段階から自己PRの訓練を施されている。
そして、相手の自己PRをくじき、自分のPRを優勢にさせるためのディベートなる教科も組まれている。
こういう思考を身につけた人たちからは、日本人は 「自己主張も弱く、個性もなく、周りばかりに気をつかう」 というネガティブな評価を下されがちだが、それは一面的な見方というものだろう。
日本の文化には、ことさら “オレオレPR” などしなくても、ちゃんとその人キャラクターの妙味なり、その思索の奥行きなどを吟味して評価する土壌がある。
それは、書き手がどんな奥ゆかしさを装うとも自然に滲み出てくるものであり、古来より日本人は、書き手の奥ゆかしさの背後に潜む 「本当の力」 を、読み手がすくい上げる訓練を重ねてきた。
近年、そういう国語教育を 「実用的でない」 と否定する人たちの 「文章読本」 なども出回るようになり、欧米文化圏で通用する自己PR型の文章をいかに書くかという手ほどきをする本が売れたりするけれど、アサハカである。
読み書きの世界で、自己PRばかり熱心な文章を賞賛する風潮が強まれば、そのうち、人々の間に、奥ゆかしさの中に 「凄み」 を漂わせている文章を読む力がなくなっていく。
そうなると、誰もが 「オレオレ度」 をもっと強くしないと自分を分かってもらえないのではないかという不安に駆られ、ついつい自慢話をどう巧妙に展開しようかと、いろいろ画策することになる。
しかし、やっぱりそれは “浮く” 。
では、どうすればいいのか。
自分をPRするのではなく、伝えたい内容を先鋭化するしかない。
誰もが納得いく結論で、お茶を濁してはいないだろうか?
ありきたりの言葉を使って手を抜いてはいないだろうか?
そこだけを守っていれば、ことさら 「オレオレ度」 を強めることなど意識しなくても、自然に自分の個性なりキャラクターというものは、相手に伝わっていくものだ。
《 結論のまとめ方 》
ブログを書いていて、そろそろ結論を…と思ったとき、何が必要となるだろう。
気の利いた一言で締め括りたいと思うのは誰でも同じだろうし、自分が体験した感動を、念のためにもう一度強調しておきたいというのも、人情として分かる。
しかし、結論をまとめるときのコツは、たった一つ。
「ありきたりの言葉」 を使わないというだけのことなのだ。
ありきたりの言葉とは何か?
「美しい」
「清らか」
「温かい」
「優しい」 等々…。
その言葉を使えば、誰も反論できなくなる 「水戸黄門の印篭」 のような言葉のことである。
こういう言葉で結論を飾ってはならない。
なぜなら、どのような論旨を展開しようが、これらの言葉が結論に来れば、すべて問題は丸く収まってしまうからである。
めでたし、めでたし…では、人の心に届かない。
「○○さんの清く美しい心に触れ、温かい優しさに包まれ、幸せでした」
こういう文章からは、何も伝わってこない。
結論は大々的に飾ろうとせず、むしろ、一番言いたいことの一歩手前で止めておく。
それが余韻を生かすときの王道である。
…と、ここまで書いてきて、ふとこのエントリータイトルを思い出した。
『俺流ブログ術』 。
…… ま、そういうことなんである。
人間どこかで無意識のうちに 「オレオレ度」 は出てしまうのだ。
そういうことを理解する意味でも、考えながらブログを書くことは大事である。
ハハハ。
最後は笑ってごまかせばいいのである。
2009年02月10日
マンガ家志望の頃
若い頃、将来の方針が定まらなかった。
実際に自分ができることと、漠然とやりたいと思っているものとの乖離 (かいり) 。
その乖離を、時に人は 「夢」 という。
しかし、それは、若い人たちが一度は落ち込むワナに過ぎなくて、たいていの人は不承不承ながらも何かを選び取って、社会に出ていく。
自分の場合は、どうしてもそれができなくて、大学を卒業する頃になっても、何を目指せばいいのか見当もつかず、就職活動もしないまま悶々とした時を過ごしていた。
今から思えば、とてつもなく 「甘い」 と言わざるを得ないのだけれど、一度マンガ家になるつもりで、自分の作品を出版社に持ち込んだことがある。
行った先は、思い出せば 「畏れ多い」 という言葉がぴったりの、『ガロ』 を出していた青林堂だった。
当時、自分が描いていたのはビアズリーのタッチの “芸術マンガ” で、ストーリーもなく、ただ意味ありげなシーンが続くだけの不条理マンガだった。
当時の 『ガロ』 は白土三平を筆頭に、水木しげる、つげ義春、林静一などが活躍していた時代で、私はその中でもつげ義春、林静一風の、ストーリーよりもイメージを主体としたマンガを目指していたのだ。
▼ 林静一 画
← つげ義春 画
マンガは自分でも得意の方だった。
小学生ぐらいの頃から描き始め、授業中に作った “紙芝居” を、休み時間にクラスメイトに見せると、それだけで、みながドォーッと盛り上がってくれるという 「絵を認めてもらう」 ことの快感は知っていた。
中学に入ると石ノ森章太郎の 『マンガ家入門』 をバイブルに、Gペン、丸ペン、墨汁などを揃え、アート紙にコマ割りを作って、貸し本屋あたりに流布しているような活劇漫画を描くようになった。
← マンガ家入門
高校に進むと、ビアズリーや宇野亜喜良のような幻想タッチのイラストに興味を覚え、それらを模写するようになった。

▲ ビアズリー 「サロメ」
だから、筆づかいは慣れているつもりでいた。
しかし、プロの人に見てもらったことはない。
その最初の機会を、当時の最も先端的な漫画家たちを揃えた 『ガロ』 の編集部に求めたというのだから、いま思えば、その厚かましいくらいの無謀さには我ながら驚く。
門前払いを食らわされるかと思いながら、ドキドキしてデスクの前に座り、初老の紳士 (たぶんあの伝説の長井勝一氏) の前におずおずと作品を差し出した。
黙って、ぱらぱらとめくっていた編集者が、それを束ねて、私の方に返し、
「基本的なことができていませんね」
と言った。
「普通、コマ割りは大小取り混ぜて、変化をつけるものですが、あなたの描かれたものは、コマ割りが均等で、芝居の舞台がつながっているだけに見えます。そのへんを解消しないとね」
それ以上、何も言ってくれない。
答えてくれた内容は、実に基本的なことで、それはある程度自分でも意識的なところがあったから、拍子抜けした。
絵が下手だとか、モノにならないとはっきり言ってくれた方が、まだ心の収まりがつく。
なのに、編集者はただ穏やかに笑っているだけで、帰りなさいとも、また来なさいとも言わない。
仕方なく、「また新しいものを描いたら来ます」 とだけ言って、狭くて雑然とした編集室を後にした。
家に戻って、自分の作品をしげしげと眺めてみる。
ヘタな絵であることは分かっている。
でも、せめて 「この方向で頑張るように」 とか、あるいは 「あなたは諦めなさい」 という言葉が欲しかった。
← 宇野亜喜良 画
気持ちの収まりがつかなったので、今度は新聞の求人欄を見て、「アニメーションの下絵描き」 を募集している会社を訪ねることにした。
薄い口髭を整えた、いかにも 「芸術家」 という感じの社長が、私のマンガを見てくれた。
見終わってから、この人も、何の感想を述べてくれない。
しばらくして、彼がいきなり切り出した言葉は、次のようなものだった。
「あなたは、本当にこの世界で食べていくつもりなんですか?」
痛いところを突かれたと思った。
実のところ、そんな覚悟も気構えも持ち合わせていなかったのだ。
「あなたは、いま大学にまで進んでいるわけですよね。普通に就職すれば、もっと楽な生活もできるわけでしょ?
なのに、なぜマンガとかアニメの世界を目指そうとするんですか?」
「いや、その…ちょっと…」
いきなり言葉に詰まってしまった。
彼は続けて言う。
「この世界に入ろうとしている人は、ほとんど中学か高校の頃からしっかり進路を定め、普通のサラリーマンとは比べものにならないくらいの薄給で頑張るんです。
はっきり言いますと、あなたの絵からは、そのことに耐えられるようなものが伝わってこない」
自分の頬から火が吹き出すのが分かるほど、厳しい言葉に思えた。
「でも、一度チャンスを与えましょう。まず外に出て、何か写生をしてきてください。
公園に植わっている木などを描かれたらどうでしょう。
ただし、最後までしっかり描くんですよ。見たとおりに、忠実に、葉の1枚1枚に至るまで間違いなく描き切る。
その絵を持ってきたら、またお話ししましょう」
そう言われ、私は家の近くの公園に行き、画用紙に木を写生した。
描き始めてみてすぐに分かったのだが、忠実に描写するということが、こんなにも根気が必要で、むずかしいものであることをはじめて知った。

最初は時間をかけて、なんとかねばり強く描く。
そのうち疲れてきて、後は葉の形をしっかり見ることもなく、枝にただ同じ形の葉を付け足していった。
そのスケッチを携えて、もう一度アニメ会社に出向くと、芸術家のような風貌を持った社長さんは、スケッチを一目見ただけで、
「考え直した方がいいね」
と一言いった。
「途中から飽きてしまいましたね。このへんの葉っぱはもう実物ではなく、あなたの頭の中に浮かんだ葉を描いているに過ぎない。
それじゃこの世界ではやっていけないんですよ。
つまり、あなたには向いていないということです」
頭を後ろからドーンと叩かれたような衝撃を食らった。
しかし、それに続く言葉は、ある意味で、今の私を支えてくれた言葉になった。
「でも、あなたはモノを見る力はある。立体感の捉え方はしっかり知っている。
センスはとてもいいんです。この前持って来られたマンガを見ても、勉強はしているし、教養もあることはすぐに分かった。
ただし、それは文学的なセンスなんですよ。絵を描くセンスではない。
あなたは知的な好奇心を、“言葉” で満たそうとする傾向がある。
つまり、観念性の方が勝っている。だから、どこかで、葉っぱを緻密に描くというような努力をバカにしているようなところがある」
そう言ってから、彼はふと優しい顔になり、こう語った。
「文学の方をやりなさいよ。
こういうところに就職を求めに来るということは、あなた自身が普通のサラリーマンになるのを嫌がっているということなんでしょ?
だったら、“言葉” の世界で生きた方がいい」
そう言われたからといって、「文学」 なんて、さらに遠い世界の話だった。
いずれにせよ、私は 「才能なし」 のレッテルを貼られ、肩を落として、その会社を後にしたに過ぎない。
だけど、結果的にそれが転機になった。
たった二度しか会ったことのないアニメのプロが、ある意味で、私の進むべき道を自信を持って指し示してくれたことになる。
若い頃というのは、他人のちょっとした言葉が、案外、自分の進むべき道を示唆してくれるように思えるものだ。
それが、相手のお世辞であり、自分の錯覚に過ぎなくても、人はそれを信じて動き始めてしまう時がある。
文章でも書くか…。
漠然とそんなことを考え、当時、中村とうよう氏が主宰していた 『ニューミュージックマガジン』 の読者投稿欄に、日本のロックンロールをテーマにした原稿を送ってみた。
それが採用されて、自分の書いた記事が、はじめて活字になる瞬間を経験した。
よし、音楽ライターってのを目指すか。
まだまだ甘い夢に過ぎなかったが、ようやく自分の進むべき方向が見えてきたような気がした。
だから大学を卒業してフリーターを始めても、そういう生活を楽しめる余裕が生まれた。
大学生の自分が、あの時、どの町の何という名前のアニメ会社を訪ねたか忘れてしまったが、その社長さんが言ってくれた言葉は、今でも明瞭に思い出すことができる。
実際に自分ができることと、漠然とやりたいと思っているものとの乖離 (かいり) 。
その乖離を、時に人は 「夢」 という。
しかし、それは、若い人たちが一度は落ち込むワナに過ぎなくて、たいていの人は不承不承ながらも何かを選び取って、社会に出ていく。
自分の場合は、どうしてもそれができなくて、大学を卒業する頃になっても、何を目指せばいいのか見当もつかず、就職活動もしないまま悶々とした時を過ごしていた。
今から思えば、とてつもなく 「甘い」 と言わざるを得ないのだけれど、一度マンガ家になるつもりで、自分の作品を出版社に持ち込んだことがある。
行った先は、思い出せば 「畏れ多い」 という言葉がぴったりの、『ガロ』 を出していた青林堂だった。
当時、自分が描いていたのはビアズリーのタッチの “芸術マンガ” で、ストーリーもなく、ただ意味ありげなシーンが続くだけの不条理マンガだった。
当時の 『ガロ』 は白土三平を筆頭に、水木しげる、つげ義春、林静一などが活躍していた時代で、私はその中でもつげ義春、林静一風の、ストーリーよりもイメージを主体としたマンガを目指していたのだ。
▼ 林静一 画
マンガは自分でも得意の方だった。
小学生ぐらいの頃から描き始め、授業中に作った “紙芝居” を、休み時間にクラスメイトに見せると、それだけで、みながドォーッと盛り上がってくれるという 「絵を認めてもらう」 ことの快感は知っていた。
中学に入ると石ノ森章太郎の 『マンガ家入門』 をバイブルに、Gペン、丸ペン、墨汁などを揃え、アート紙にコマ割りを作って、貸し本屋あたりに流布しているような活劇漫画を描くようになった。
高校に進むと、ビアズリーや宇野亜喜良のような幻想タッチのイラストに興味を覚え、それらを模写するようになった。
▲ ビアズリー 「サロメ」
だから、筆づかいは慣れているつもりでいた。
しかし、プロの人に見てもらったことはない。
その最初の機会を、当時の最も先端的な漫画家たちを揃えた 『ガロ』 の編集部に求めたというのだから、いま思えば、その厚かましいくらいの無謀さには我ながら驚く。
門前払いを食らわされるかと思いながら、ドキドキしてデスクの前に座り、初老の紳士 (たぶんあの伝説の長井勝一氏) の前におずおずと作品を差し出した。
黙って、ぱらぱらとめくっていた編集者が、それを束ねて、私の方に返し、
「基本的なことができていませんね」
と言った。
「普通、コマ割りは大小取り混ぜて、変化をつけるものですが、あなたの描かれたものは、コマ割りが均等で、芝居の舞台がつながっているだけに見えます。そのへんを解消しないとね」
それ以上、何も言ってくれない。
答えてくれた内容は、実に基本的なことで、それはある程度自分でも意識的なところがあったから、拍子抜けした。
絵が下手だとか、モノにならないとはっきり言ってくれた方が、まだ心の収まりがつく。
なのに、編集者はただ穏やかに笑っているだけで、帰りなさいとも、また来なさいとも言わない。
仕方なく、「また新しいものを描いたら来ます」 とだけ言って、狭くて雑然とした編集室を後にした。
家に戻って、自分の作品をしげしげと眺めてみる。
ヘタな絵であることは分かっている。
でも、せめて 「この方向で頑張るように」 とか、あるいは 「あなたは諦めなさい」 という言葉が欲しかった。
気持ちの収まりがつかなったので、今度は新聞の求人欄を見て、「アニメーションの下絵描き」 を募集している会社を訪ねることにした。
薄い口髭を整えた、いかにも 「芸術家」 という感じの社長が、私のマンガを見てくれた。
見終わってから、この人も、何の感想を述べてくれない。
しばらくして、彼がいきなり切り出した言葉は、次のようなものだった。
「あなたは、本当にこの世界で食べていくつもりなんですか?」
痛いところを突かれたと思った。
実のところ、そんな覚悟も気構えも持ち合わせていなかったのだ。
「あなたは、いま大学にまで進んでいるわけですよね。普通に就職すれば、もっと楽な生活もできるわけでしょ?
なのに、なぜマンガとかアニメの世界を目指そうとするんですか?」
「いや、その…ちょっと…」
いきなり言葉に詰まってしまった。
彼は続けて言う。
「この世界に入ろうとしている人は、ほとんど中学か高校の頃からしっかり進路を定め、普通のサラリーマンとは比べものにならないくらいの薄給で頑張るんです。
はっきり言いますと、あなたの絵からは、そのことに耐えられるようなものが伝わってこない」
自分の頬から火が吹き出すのが分かるほど、厳しい言葉に思えた。
「でも、一度チャンスを与えましょう。まず外に出て、何か写生をしてきてください。
公園に植わっている木などを描かれたらどうでしょう。
ただし、最後までしっかり描くんですよ。見たとおりに、忠実に、葉の1枚1枚に至るまで間違いなく描き切る。
その絵を持ってきたら、またお話ししましょう」
そう言われ、私は家の近くの公園に行き、画用紙に木を写生した。
描き始めてみてすぐに分かったのだが、忠実に描写するということが、こんなにも根気が必要で、むずかしいものであることをはじめて知った。
最初は時間をかけて、なんとかねばり強く描く。
そのうち疲れてきて、後は葉の形をしっかり見ることもなく、枝にただ同じ形の葉を付け足していった。
そのスケッチを携えて、もう一度アニメ会社に出向くと、芸術家のような風貌を持った社長さんは、スケッチを一目見ただけで、
「考え直した方がいいね」
と一言いった。
「途中から飽きてしまいましたね。このへんの葉っぱはもう実物ではなく、あなたの頭の中に浮かんだ葉を描いているに過ぎない。
それじゃこの世界ではやっていけないんですよ。
つまり、あなたには向いていないということです」
頭を後ろからドーンと叩かれたような衝撃を食らった。
しかし、それに続く言葉は、ある意味で、今の私を支えてくれた言葉になった。
「でも、あなたはモノを見る力はある。立体感の捉え方はしっかり知っている。
センスはとてもいいんです。この前持って来られたマンガを見ても、勉強はしているし、教養もあることはすぐに分かった。
ただし、それは文学的なセンスなんですよ。絵を描くセンスではない。
あなたは知的な好奇心を、“言葉” で満たそうとする傾向がある。
つまり、観念性の方が勝っている。だから、どこかで、葉っぱを緻密に描くというような努力をバカにしているようなところがある」
そう言ってから、彼はふと優しい顔になり、こう語った。
「文学の方をやりなさいよ。
こういうところに就職を求めに来るということは、あなた自身が普通のサラリーマンになるのを嫌がっているということなんでしょ?
だったら、“言葉” の世界で生きた方がいい」
そう言われたからといって、「文学」 なんて、さらに遠い世界の話だった。
いずれにせよ、私は 「才能なし」 のレッテルを貼られ、肩を落として、その会社を後にしたに過ぎない。
だけど、結果的にそれが転機になった。
たった二度しか会ったことのないアニメのプロが、ある意味で、私の進むべき道を自信を持って指し示してくれたことになる。
若い頃というのは、他人のちょっとした言葉が、案外、自分の進むべき道を示唆してくれるように思えるものだ。
それが、相手のお世辞であり、自分の錯覚に過ぎなくても、人はそれを信じて動き始めてしまう時がある。
文章でも書くか…。
漠然とそんなことを考え、当時、中村とうよう氏が主宰していた 『ニューミュージックマガジン』 の読者投稿欄に、日本のロックンロールをテーマにした原稿を送ってみた。
それが採用されて、自分の書いた記事が、はじめて活字になる瞬間を経験した。
よし、音楽ライターってのを目指すか。
まだまだ甘い夢に過ぎなかったが、ようやく自分の進むべき方向が見えてきたような気がした。
だから大学を卒業してフリーターを始めても、そういう生活を楽しめる余裕が生まれた。
大学生の自分が、あの時、どの町の何という名前のアニメ会社を訪ねたか忘れてしまったが、その社長さんが言ってくれた言葉は、今でも明瞭に思い出すことができる。
2009年02月01日
マンハッタン追想
ウッディ・アレンが監督を務め、かつ主演を張った 『マンハッタン』 が公開されたのは、1979年だった。
公開前から、このクィーンズボロー・ブリッジのベンチの写真が色々な媒体で紹介されていて、それを見るたびに、僕はその美しさにため息をついた。

だから、この映画が上映されるやいなや、僕はすぐに封切館に飛び込んだと思う。
観た印象はどうであったかというと、実は、あまり記憶に残っていない。
たぶん、期待したものが大きすぎて、ちょっと裏切られたような気分であったからだ。
都会的なセンスを身に付けた教養人といわれたウッディ・アレンであったが、彼の 「都会性」 と 「教養」 は多分に複雑すぎて、僕の頭と感性ではついていけなかった。
きっと、今もう一度観ると、この映画の良さが分かるのかもしれない。
でも観ないだろう。
このクィーンズボロー・ブリッジのスチール写真だけ眺めていれば、それで十分だという気もするからだ。
だから、今日ここで書くのは、映画 『マンハッタン』 の話ではない。
このスチール写真がきっかけで知り合った、一人の女の人の話だ。
映画を観終わって、少し索莫とした気分でいた僕は、家に帰るまでの時間を持て余していた。
夕飯を食うことを思いつき、ついでに酒を飲むつもりで、ときどき顔を出したことのある地下の居酒屋の階段を下りた。
その店に特徴があるとしたら、酒と料理が安いこと。
それ以外に、何の魅力もない居酒屋だった。
店内は混み合っていて、相席となった。
客の98パーセントは中年男性のサラリーマンで占められ、僕が相席を勧められたテーブルだけが、残りの2パーセントである女性の二人連れだった。
一人は、都会生活に慣れたOL風。25~26歳ぐらい。
もう一人は、田舎から遊びにきたその友だち風。27~28歳ぐらい。
二人は何を間違えて、この中年男たちの 「巣窟」 に迷い込んでしまったのか。
酔狂な女たちもいるもんだと思いながら、僕は一人でコップ酒をあおり始めた。
「あら…」
田舎から遊びに来た風の女性が、僕がテーブルの上に置いたウッディ・アレンの 『マンハッタン』 のパンフレットに視線を注いだ。
この映画に興味を持っている風情だった。
化粧気の薄い、地味な顔立ちの女性だったが、好奇心をみなぎらせた目が美しかった。
「ご覧になりますか?」
そう言って、僕はパンフレットをテーブルの上に滑らせて、相手の方に押しやった。
「いいんですか?」
そう発した声に、どこかの地方のなまりがあった。
「今日、これを観ようと思って新宿に出てきたんです。だけど時間が間に合わなくて」
と、彼女はパンフレットを手に取ってから、同僚の同意を求めるように振り向き、二人でクスっと笑った。
その後は、たぶんその映画の話になったと思う。
僕は正直に、映像はきれいだったけれど、話はよく分からなかったと伝えた。
「いいんです。映像がきれいなら、ストーリーなんてどうでもいいんです」
妙に自信を持った彼女の言いっぷりが面白くて、僕は 「なぜです?」 と聞き返した。
どうやら彼女は絵を描く女性だったようだ。
しかも、テンペラという、今ではあまり使われない技法で描いているというのだ。
「テンペラって、ルネッサンス期の画家たちが教会の壁なんかに描いていたやつでしょ?」
「あら、ご存知なんですね」
笑うと、浅黒い肌から白い歯がのぞき、南国育ちのおおらかさのようなものが、彼女の笑顔からこぼれ出た。
話題は、それから絵画の話になった。
それがつまらなかったのか、もう一人の女性が 「明日早いから」 と席を立った。
取り残された田舎から遊びに来た風の女性も、一緒に店を出ようとするのだが、
「いいの、いいの。あなたはいなさい」
と、立ち上がったOLは取り合おうとしない。
たぶん気を利かせたつもりだったのだろう。
僕たちは、取り残されたことで、なぜか幸運を手にしたような気分になり、その後しばらく店の喧騒に負けないくらいの声で、絵画について、映画について語り合った。
その女性とは、その後一度だけデートしたことがある。
どういう経緯で逢うことになったか思い出せないのだが、たぶん別れ際に渡した会社の名刺を頼りに、彼女が電話をくれたのだと思う。
僕たちは、銀座で落ち合って、食事をしてから、ジャズのライブを聞きに行った。
絣の和服を着た彼女は、どこかしら都会のライブハウスでは浮いていた。
肌の色が浅黒かったその女性に、暗色の和服は、地味で暗い印象を与えていた。
でも、それは、もしかしたら彼女の精いっぱいの盛装だったのかもしれない。
僕はそれを愛しいと思った。
曲と曲の合間に、尻切れトンボになりつつも彼女が語ったのは、やはり自分の目指している絵のことだった。
平凡でも幸せな主婦になるつもりで普通の勤めを始めたのだが、自分の中に巣くう絵に対する炎のようなものをかき消すことができない、と言う。
でも、絵で食べていくのはあまりにもリスキーだ。
もし失敗したら、自分には帰る場所がない。
そういう彼女の話には、せっぱ詰まったものが鬱積していて、今ようやくそれを吐き出せる相手が見つかったといわんばかりだった。
詳しいことは分からなかったが、どうやら家族の反対を押し切って家を飛び出してきたという雰囲気がある。
きっと、それにまつわる様々な葛藤や事件があったのだろう。
彼女の話が激しさを帯びるにつれ、ライブを演じるジャズメンたちの顔が間延びした表情に思えてきて、彼らの出す音が薄っぺらな音に聞こえた。
店を出て、夜の舗道を歩いた。
「一度、絵を見せてもらえませんか」
と僕は言った。
「駄目なんです。描けてないんです。今はどうしてもうまく描けないんです。たぶん焦っているのでしょうね」
そういうとき、なんて励ませばいいのか。
「頑張ってください」
と月並みな言葉をかける気にならなくて、たぶん僕は言葉を探しながら、黙って自分たちの足音に聞いていたのだと思う。
彼女の個展の招待状が届いたのは、それから4~5年経ってからのことだった。
名前が変っていたが、「旧姓」 として、出会った頃の苗字も添えられていたから、僕はすぐ彼女だと分かった。
その頃、僕も結婚をしていて、子供も生まれていた。
その招待状が届かなければ、僕はもう彼女のことを思い出すこともなかったろう。
久しぶりに会った彼女は、相変わらず暗色の絣の着物に身を包み、浅黒い肌に白い歯を見せて、以前と同じように美しい目で笑った。
彼女が描いたという数点の絵の前にたたずみ、それが想像したようなものとはおよそ違っていたので、僕はびっくりした。
みな裸婦だったのだ。
それも、赤身の強い、まるで林武の描く 「赤富士」 のような筆致で描かれた雄渾 (ゆうこん) な裸婦だった。
「男の人が描いた絵だと思いました」
月並みな表現しかできなかったが、それに続く感想として、そのデフォルメの妙が生んだ、裸婦たちのみなぎるような生命感を讃える言葉を探した。
ソファに座り、あるいは壁を背にして立ち、そして窓にもたれかかる裸婦たちは、どれもゴーギャンの描くタヒチの女性のような体躯を与えられ、自分の内なる叫びを必死になってその体躯の中に押し込めようとしているように思えた。
それは、「自分の内なる炎を抑えることができない」 とライブハウスの中でうめいた彼女そのものに見えた。
もしかしたら、モデルも彼女自身なのだろうか。
そう思ったとたん、赤黒い肌を与えられた裸婦たちが、画家の分身であるかのように一斉にこちらに目を向けたような気がした。
この話はこれで終わりである。
それから、もう個展の招待状は届かなかった。
たぶん、彼女は自分の “内なる炎” を封じ込めることができるくらい、幸せな結婚生活を送ることになったのだろう。
『マンハッタン』 のスチール写真を眺めると、僕はときどきそのパンフレットを手に取った彼女のことを思い出す。

公開前から、このクィーンズボロー・ブリッジのベンチの写真が色々な媒体で紹介されていて、それを見るたびに、僕はその美しさにため息をついた。
だから、この映画が上映されるやいなや、僕はすぐに封切館に飛び込んだと思う。
観た印象はどうであったかというと、実は、あまり記憶に残っていない。
たぶん、期待したものが大きすぎて、ちょっと裏切られたような気分であったからだ。
都会的なセンスを身に付けた教養人といわれたウッディ・アレンであったが、彼の 「都会性」 と 「教養」 は多分に複雑すぎて、僕の頭と感性ではついていけなかった。
きっと、今もう一度観ると、この映画の良さが分かるのかもしれない。
でも観ないだろう。
このクィーンズボロー・ブリッジのスチール写真だけ眺めていれば、それで十分だという気もするからだ。
だから、今日ここで書くのは、映画 『マンハッタン』 の話ではない。
このスチール写真がきっかけで知り合った、一人の女の人の話だ。
映画を観終わって、少し索莫とした気分でいた僕は、家に帰るまでの時間を持て余していた。
夕飯を食うことを思いつき、ついでに酒を飲むつもりで、ときどき顔を出したことのある地下の居酒屋の階段を下りた。
その店に特徴があるとしたら、酒と料理が安いこと。
それ以外に、何の魅力もない居酒屋だった。
店内は混み合っていて、相席となった。
客の98パーセントは中年男性のサラリーマンで占められ、僕が相席を勧められたテーブルだけが、残りの2パーセントである女性の二人連れだった。
一人は、都会生活に慣れたOL風。25~26歳ぐらい。
もう一人は、田舎から遊びにきたその友だち風。27~28歳ぐらい。
二人は何を間違えて、この中年男たちの 「巣窟」 に迷い込んでしまったのか。
酔狂な女たちもいるもんだと思いながら、僕は一人でコップ酒をあおり始めた。
「あら…」
田舎から遊びに来た風の女性が、僕がテーブルの上に置いたウッディ・アレンの 『マンハッタン』 のパンフレットに視線を注いだ。
この映画に興味を持っている風情だった。
化粧気の薄い、地味な顔立ちの女性だったが、好奇心をみなぎらせた目が美しかった。
「ご覧になりますか?」
そう言って、僕はパンフレットをテーブルの上に滑らせて、相手の方に押しやった。
「いいんですか?」
そう発した声に、どこかの地方のなまりがあった。
「今日、これを観ようと思って新宿に出てきたんです。だけど時間が間に合わなくて」
と、彼女はパンフレットを手に取ってから、同僚の同意を求めるように振り向き、二人でクスっと笑った。
その後は、たぶんその映画の話になったと思う。
僕は正直に、映像はきれいだったけれど、話はよく分からなかったと伝えた。
「いいんです。映像がきれいなら、ストーリーなんてどうでもいいんです」
妙に自信を持った彼女の言いっぷりが面白くて、僕は 「なぜです?」 と聞き返した。
どうやら彼女は絵を描く女性だったようだ。
しかも、テンペラという、今ではあまり使われない技法で描いているというのだ。
「テンペラって、ルネッサンス期の画家たちが教会の壁なんかに描いていたやつでしょ?」
「あら、ご存知なんですね」
笑うと、浅黒い肌から白い歯がのぞき、南国育ちのおおらかさのようなものが、彼女の笑顔からこぼれ出た。
話題は、それから絵画の話になった。
それがつまらなかったのか、もう一人の女性が 「明日早いから」 と席を立った。
取り残された田舎から遊びに来た風の女性も、一緒に店を出ようとするのだが、
「いいの、いいの。あなたはいなさい」
と、立ち上がったOLは取り合おうとしない。
たぶん気を利かせたつもりだったのだろう。
僕たちは、取り残されたことで、なぜか幸運を手にしたような気分になり、その後しばらく店の喧騒に負けないくらいの声で、絵画について、映画について語り合った。
その女性とは、その後一度だけデートしたことがある。
どういう経緯で逢うことになったか思い出せないのだが、たぶん別れ際に渡した会社の名刺を頼りに、彼女が電話をくれたのだと思う。
僕たちは、銀座で落ち合って、食事をしてから、ジャズのライブを聞きに行った。
絣の和服を着た彼女は、どこかしら都会のライブハウスでは浮いていた。
肌の色が浅黒かったその女性に、暗色の和服は、地味で暗い印象を与えていた。
でも、それは、もしかしたら彼女の精いっぱいの盛装だったのかもしれない。
僕はそれを愛しいと思った。
曲と曲の合間に、尻切れトンボになりつつも彼女が語ったのは、やはり自分の目指している絵のことだった。
平凡でも幸せな主婦になるつもりで普通の勤めを始めたのだが、自分の中に巣くう絵に対する炎のようなものをかき消すことができない、と言う。
でも、絵で食べていくのはあまりにもリスキーだ。
もし失敗したら、自分には帰る場所がない。
そういう彼女の話には、せっぱ詰まったものが鬱積していて、今ようやくそれを吐き出せる相手が見つかったといわんばかりだった。
詳しいことは分からなかったが、どうやら家族の反対を押し切って家を飛び出してきたという雰囲気がある。
きっと、それにまつわる様々な葛藤や事件があったのだろう。
彼女の話が激しさを帯びるにつれ、ライブを演じるジャズメンたちの顔が間延びした表情に思えてきて、彼らの出す音が薄っぺらな音に聞こえた。
店を出て、夜の舗道を歩いた。
「一度、絵を見せてもらえませんか」
と僕は言った。
「駄目なんです。描けてないんです。今はどうしてもうまく描けないんです。たぶん焦っているのでしょうね」
そういうとき、なんて励ませばいいのか。
「頑張ってください」
と月並みな言葉をかける気にならなくて、たぶん僕は言葉を探しながら、黙って自分たちの足音に聞いていたのだと思う。
彼女の個展の招待状が届いたのは、それから4~5年経ってからのことだった。
名前が変っていたが、「旧姓」 として、出会った頃の苗字も添えられていたから、僕はすぐ彼女だと分かった。
その頃、僕も結婚をしていて、子供も生まれていた。
その招待状が届かなければ、僕はもう彼女のことを思い出すこともなかったろう。
久しぶりに会った彼女は、相変わらず暗色の絣の着物に身を包み、浅黒い肌に白い歯を見せて、以前と同じように美しい目で笑った。
彼女が描いたという数点の絵の前にたたずみ、それが想像したようなものとはおよそ違っていたので、僕はびっくりした。
みな裸婦だったのだ。
それも、赤身の強い、まるで林武の描く 「赤富士」 のような筆致で描かれた雄渾 (ゆうこん) な裸婦だった。
「男の人が描いた絵だと思いました」
月並みな表現しかできなかったが、それに続く感想として、そのデフォルメの妙が生んだ、裸婦たちのみなぎるような生命感を讃える言葉を探した。
ソファに座り、あるいは壁を背にして立ち、そして窓にもたれかかる裸婦たちは、どれもゴーギャンの描くタヒチの女性のような体躯を与えられ、自分の内なる叫びを必死になってその体躯の中に押し込めようとしているように思えた。
それは、「自分の内なる炎を抑えることができない」 とライブハウスの中でうめいた彼女そのものに見えた。
もしかしたら、モデルも彼女自身なのだろうか。
そう思ったとたん、赤黒い肌を与えられた裸婦たちが、画家の分身であるかのように一斉にこちらに目を向けたような気がした。
この話はこれで終わりである。
それから、もう個展の招待状は届かなかった。
たぶん、彼女は自分の “内なる炎” を封じ込めることができるくらい、幸せな結婚生活を送ることになったのだろう。
『マンハッタン』 のスチール写真を眺めると、僕はときどきそのパンフレットを手に取った彼女のことを思い出す。
2009年01月30日
江戸再発見とRV
「江戸時代」 が再び見直されている感じがする。
『週刊文春』 の2月5日号を読んでいたら、「私の読書日記」 というコーナーで、フランス文学者の鹿島茂さんが、こんなことを書かれていた。
「最近、(江戸時代の) 鎖国に興味を持ちだしたのだが、それには二つ理由がある。
一つは、地球温暖化による水飢饉と干ばつで世界崩壊の兆しが見えてきた中で、日本は、鎖国の間、幕府の将来を見据えた指導によって持続性のある資源消費率を達成したことにより、エコロジー的な破産を免れたこと。
つまり、鎖国体制は、水資源と森林資源の保存に与って力があったのである。
もう一つは、グローバル経済の破綻で、貿易立国が成り立たなくなった以上は、自給自足を根幹とした一国経済を目指すほかなくなったこと。鎖国体制は、この意味でまたとない模範を示しているわけだ」

かつては、誰もが江戸時代の鎖国を 「日本の後進性と閉鎖性」 の元凶と捉えた。
しかし、鹿島さんがいろいろ海外の研究を調査してみると、どうやら日本の 「鎖国」 というのは、金融危機やら環境対策が問題となる現代社会を考える場合、けっこう見直されるべきシステムであるらしい。
また最近の研究においては、「鎖国時代」 の初期というのは、実は日本は貿易依存体質の国家であり、通常その言葉からイメージされる実態とはかなり異なっていたともいう。
鎖国といっても、長崎の 「出島」 では中国・朝鮮を相手にした海外貿易が行われていた。
ところが、この時に 「銀・銅という鉱物資源が流出し、日本の貿易収支が赤字になっていた」 とも。
それを時の八代将軍吉宗が、輸入に頼っていた生糸や砂糖を国産化するなどして、国内産業を発達させる政策に舵を切った。
そのおかげで、「国産品の品質・価格両面における国際競争力が上昇し、19世紀を迎えるころには、消費財の貿易依存体質から脱却することに成功した」 というのである。
以上の説は、まったくの孫引きで、学者でもない私はことの真偽を確かめるほどの知識も教養もない。
ただ何となく、「温暖化対策」 とか 「水・森林資源保護」 、「内需拡大」 などといった、いま日本が直面している課題を考えるヒントが、江戸期の鎖国体制にありそうな “気配” だけは感じとれる。
こんなことが気になったのは、実はキャンピングカー業界でも、そのような問題に関心を持ち、自分なりにいろいろ考えている人たちが多いという事情があったからだ。
まずRVランドの阿部和麿社長は、将来的な起こりそうな水飢饉や干ばつに備え、「農業の推進」 を提唱されて、業界でもいち早く農園づくりを始められた方だ。

阿部さんの “RVランドファーム” 計画は、キャンピングカーユーザーのクラインガルテンを開発するというビジネス戦略でもあるのだが、その視線は大胆なくらい遠くにまで及び、わが国の産業を興隆させる契機の一つとして、「農業立国」 という選択肢があることまで射程に入れている。
江戸時代が、持続性のある資源消費率を達成した時代であったことを評価しているのは、キャンピングカーランドの増田英樹社長だ。

彼は、西洋が産業資本主義を確立し、工業社会化していく過程で、石油資源への依存度を強め、結果的に資源の枯渇を招き、さらには二酸化炭素の排出を前提とした産業社会を造り上げてしまったこと反省すべきだと主張する。
そして、それへのアンチテーゼを早くから提唱していたのが、江戸期の鎖国政策を切り盛りした徳川政権であったことに着目する。
さらに彼は、いま未曾有の大不景気時代といわれる厳しい情勢の中で、江戸期の文化・伝統を見直すことで、そこから脱出する方向を模索しなければならないとし、その 「不況をチャンスに変える」 推進力となるものこそ、キャンピングカー (RV) 産業であるという。
彼にとって、キャンピングカー産業の将来は、そのような問題意識をどれだけ関係者が自覚的に捉えるかどうかにかかってくる。
このような人たちの話を聞いていると、なかなかキャンピングカー業界というのは 「英知の宝庫」 だという気もしてくる。
幸い、お二方の談話をこのブログにて収録することができた。
いま一度、ここに紹介してみたい。
「RVランド式農業」 阿部和麿
「不況時代のRV」 増田英樹
『週刊文春』 の2月5日号を読んでいたら、「私の読書日記」 というコーナーで、フランス文学者の鹿島茂さんが、こんなことを書かれていた。
「最近、(江戸時代の) 鎖国に興味を持ちだしたのだが、それには二つ理由がある。
一つは、地球温暖化による水飢饉と干ばつで世界崩壊の兆しが見えてきた中で、日本は、鎖国の間、幕府の将来を見据えた指導によって持続性のある資源消費率を達成したことにより、エコロジー的な破産を免れたこと。
つまり、鎖国体制は、水資源と森林資源の保存に与って力があったのである。
もう一つは、グローバル経済の破綻で、貿易立国が成り立たなくなった以上は、自給自足を根幹とした一国経済を目指すほかなくなったこと。鎖国体制は、この意味でまたとない模範を示しているわけだ」
かつては、誰もが江戸時代の鎖国を 「日本の後進性と閉鎖性」 の元凶と捉えた。
しかし、鹿島さんがいろいろ海外の研究を調査してみると、どうやら日本の 「鎖国」 というのは、金融危機やら環境対策が問題となる現代社会を考える場合、けっこう見直されるべきシステムであるらしい。
また最近の研究においては、「鎖国時代」 の初期というのは、実は日本は貿易依存体質の国家であり、通常その言葉からイメージされる実態とはかなり異なっていたともいう。
鎖国といっても、長崎の 「出島」 では中国・朝鮮を相手にした海外貿易が行われていた。
ところが、この時に 「銀・銅という鉱物資源が流出し、日本の貿易収支が赤字になっていた」 とも。
それを時の八代将軍吉宗が、輸入に頼っていた生糸や砂糖を国産化するなどして、国内産業を発達させる政策に舵を切った。
そのおかげで、「国産品の品質・価格両面における国際競争力が上昇し、19世紀を迎えるころには、消費財の貿易依存体質から脱却することに成功した」 というのである。
以上の説は、まったくの孫引きで、学者でもない私はことの真偽を確かめるほどの知識も教養もない。
ただ何となく、「温暖化対策」 とか 「水・森林資源保護」 、「内需拡大」 などといった、いま日本が直面している課題を考えるヒントが、江戸期の鎖国体制にありそうな “気配” だけは感じとれる。
こんなことが気になったのは、実はキャンピングカー業界でも、そのような問題に関心を持ち、自分なりにいろいろ考えている人たちが多いという事情があったからだ。
まずRVランドの阿部和麿社長は、将来的な起こりそうな水飢饉や干ばつに備え、「農業の推進」 を提唱されて、業界でもいち早く農園づくりを始められた方だ。
阿部さんの “RVランドファーム” 計画は、キャンピングカーユーザーのクラインガルテンを開発するというビジネス戦略でもあるのだが、その視線は大胆なくらい遠くにまで及び、わが国の産業を興隆させる契機の一つとして、「農業立国」 という選択肢があることまで射程に入れている。
江戸時代が、持続性のある資源消費率を達成した時代であったことを評価しているのは、キャンピングカーランドの増田英樹社長だ。
彼は、西洋が産業資本主義を確立し、工業社会化していく過程で、石油資源への依存度を強め、結果的に資源の枯渇を招き、さらには二酸化炭素の排出を前提とした産業社会を造り上げてしまったこと反省すべきだと主張する。
そして、それへのアンチテーゼを早くから提唱していたのが、江戸期の鎖国政策を切り盛りした徳川政権であったことに着目する。
さらに彼は、いま未曾有の大不景気時代といわれる厳しい情勢の中で、江戸期の文化・伝統を見直すことで、そこから脱出する方向を模索しなければならないとし、その 「不況をチャンスに変える」 推進力となるものこそ、キャンピングカー (RV) 産業であるという。
彼にとって、キャンピングカー産業の将来は、そのような問題意識をどれだけ関係者が自覚的に捉えるかどうかにかかってくる。
このような人たちの話を聞いていると、なかなかキャンピングカー業界というのは 「英知の宝庫」 だという気もしてくる。
幸い、お二方の談話をこのブログにて収録することができた。
いま一度、ここに紹介してみたい。
「RVランド式農業」 阿部和麿
「不況時代のRV」 増田英樹
2009年01月28日
まず取材ありき2
昔から、人に取材するときは、その談話をすべてテープに収録している。
だからキャンピングカーの取材で人に会うときなど、たまにノートを取り出してメモったりすると、
「あれ、今日はテープレコーダーは出てこないの?」
などとよくからかわれる。

今では、顔なじみの人はみな慣れてしまって、テープレコーダーを突き出しても、その存在すら忘れていろいろ話してくれるけれど、最初の頃は、みなギョッとした。
「何のマネなのさ? 証拠でも取ろうという気?」
とか、
「後で、他の人に聞かせるのとちゃう?」
などと警戒もされた。
こちらも、できればテープなどに頼りたくない。
第一、後で起こすのが面倒くさい。
しかし、そうしなければならない致命的な欠陥が私にはある。
自分で書いた字が、自分で読めないのだ。
特に、あわてて書いたときのメモなどは、まず判読不可能になっている。
メモ帳を開いても、そこに浮かんでいるのは、ナメクジが通った跡か、カラスの足跡に過ぎない。
取材したすぐ後に記事を書くのなら、記憶を頼りになんとか原稿が書ける。
しかし、取材した時間と、記事を書く時間が離れた場合は、記憶も遠ざかってしまうので、取材内容の細かい部分を正確に思い出すことが難しくなる。
そうなると、もうお手上げだ。
それでも取材を始めた最初の頃は、普通の記者と同じように、談話を聞きながらメモするだけの取材を心掛けていた。
ところが、昔私が携わっていた雑誌で、SF作家の小松左京さんにインタビューしたときは、ついにメモをとるという作業の限界に行き当たった。
取材のテーマは 「宇宙人が存在する可能性」 といったようなものだったと思う。
当時、『未知との遭遇』 とか、『エイリアン』 などといった宇宙人とのコンタクトをテーマにした映画がブームになっていたので、それにちなんだ企画だった。

小松左京さんは、日本のSFの大家らしく、興味深い知見をいろいろ披露してくださった。
しかし、博覧強記の人であるため、とにかく話す世界がとてつもなく広がっていく。
いろいろな固有名詞も出てくるし、それを解説するためのボキャブラリーも無尽蔵に連なっていく。
さらに、早口の方だった。
こっちは出てくる単語をメモすることに追われ、話の内容を追う余裕すらなかった。
会社に戻り、自分のメモ帳を見て、愕然とした。
自分の字が読みづらいのは覚悟していたが、メモ帳に踊っていた言葉は、
「そこで」 「しかし」 「それゆえ」
というような言葉だけだった。
豊穣な内容に満たされた談話を追いきれず、言葉の最初の部分だけを書き取るのに必死だったのだ。
いざ小松さんのインタビュー記事を書く段になって、さぁ困った。
メモには頼れない。
かといって、記憶を頼りに原稿をまとめようとしても、話が膨大に広がっているために、焦点が定まらない。
「こんな内容じゃなかったよな…。こんな話でもないよな…」
書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、ついに収拾がつかなくなった。
結局小松さんの、取材に応じてくれた貴重な時間をほとんど棒に振ったようなものだった。
仕方なく、わずかな記憶を頼りに当り障りのない文章を連ね、小松さんの修正を仰ぐことにした。
幸い、小松さんがその原稿に加筆修正してくださったおかげで、なんとか印刷に回すことができた。
原稿チェックに苦労をかけさせた小松さんには、今でも申し訳ない気持ちいっぱいでいる。
取材に応じてくださった方の談話をテープに採ろうと思ったのは、それからである。
談話をいったんテープに採っておけば、取材内容を平気で “忘れる” ことができる。
後で起こす手間はかかるが、談話の微妙なニュアンスが再現されるので、それを基にすれば臨場感のある原稿が仕上がる。
特に、いろいろな人の談話が交錯するような記事を仕上げるときは、テープに残された話っぷりを参考にして、それぞれのキャラクターを書き分けることができる。
面白いもので、話を聞いているときにはものすごく感銘を受けたインタビューでも、後でテープを起こしてみると、肝心な部分が抜けていたり、話の前後が矛盾していたりするということがある。
それでも、その人から聞いた話の素晴らしさは、身体に刻み込まれるくらい記憶に残っている。
これは、どういうことだろう。
「話の力」 なのだ。
話の力を持っている人は、肝心の部分が抜けていたり、あいまいであったりしても、聞き手の想像力を刺激し、聞き手が勝手に欠けた部分を補えるような話を、ちゃんとしているのだ。
テープを聞き直してみると、そういうこともよく分かる。
今のところテープレコーダーは、自分の取材ツールの一番大事なものとなっている。
だからキャンピングカーの取材で人に会うときなど、たまにノートを取り出してメモったりすると、
「あれ、今日はテープレコーダーは出てこないの?」
などとよくからかわれる。
今では、顔なじみの人はみな慣れてしまって、テープレコーダーを突き出しても、その存在すら忘れていろいろ話してくれるけれど、最初の頃は、みなギョッとした。
「何のマネなのさ? 証拠でも取ろうという気?」
とか、
「後で、他の人に聞かせるのとちゃう?」
などと警戒もされた。
こちらも、できればテープなどに頼りたくない。
第一、後で起こすのが面倒くさい。
しかし、そうしなければならない致命的な欠陥が私にはある。
自分で書いた字が、自分で読めないのだ。
特に、あわてて書いたときのメモなどは、まず判読不可能になっている。
メモ帳を開いても、そこに浮かんでいるのは、ナメクジが通った跡か、カラスの足跡に過ぎない。
取材したすぐ後に記事を書くのなら、記憶を頼りになんとか原稿が書ける。
しかし、取材した時間と、記事を書く時間が離れた場合は、記憶も遠ざかってしまうので、取材内容の細かい部分を正確に思い出すことが難しくなる。
そうなると、もうお手上げだ。
それでも取材を始めた最初の頃は、普通の記者と同じように、談話を聞きながらメモするだけの取材を心掛けていた。
ところが、昔私が携わっていた雑誌で、SF作家の小松左京さんにインタビューしたときは、ついにメモをとるという作業の限界に行き当たった。
取材のテーマは 「宇宙人が存在する可能性」 といったようなものだったと思う。
当時、『未知との遭遇』 とか、『エイリアン』 などといった宇宙人とのコンタクトをテーマにした映画がブームになっていたので、それにちなんだ企画だった。
小松左京さんは、日本のSFの大家らしく、興味深い知見をいろいろ披露してくださった。
しかし、博覧強記の人であるため、とにかく話す世界がとてつもなく広がっていく。
いろいろな固有名詞も出てくるし、それを解説するためのボキャブラリーも無尽蔵に連なっていく。
さらに、早口の方だった。
こっちは出てくる単語をメモすることに追われ、話の内容を追う余裕すらなかった。
会社に戻り、自分のメモ帳を見て、愕然とした。
自分の字が読みづらいのは覚悟していたが、メモ帳に踊っていた言葉は、
「そこで」 「しかし」 「それゆえ」
というような言葉だけだった。
豊穣な内容に満たされた談話を追いきれず、言葉の最初の部分だけを書き取るのに必死だったのだ。
いざ小松さんのインタビュー記事を書く段になって、さぁ困った。
メモには頼れない。
かといって、記憶を頼りに原稿をまとめようとしても、話が膨大に広がっているために、焦点が定まらない。
「こんな内容じゃなかったよな…。こんな話でもないよな…」
書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、ついに収拾がつかなくなった。
結局小松さんの、取材に応じてくれた貴重な時間をほとんど棒に振ったようなものだった。
仕方なく、わずかな記憶を頼りに当り障りのない文章を連ね、小松さんの修正を仰ぐことにした。
幸い、小松さんがその原稿に加筆修正してくださったおかげで、なんとか印刷に回すことができた。
原稿チェックに苦労をかけさせた小松さんには、今でも申し訳ない気持ちいっぱいでいる。
取材に応じてくださった方の談話をテープに採ろうと思ったのは、それからである。
談話をいったんテープに採っておけば、取材内容を平気で “忘れる” ことができる。
後で起こす手間はかかるが、談話の微妙なニュアンスが再現されるので、それを基にすれば臨場感のある原稿が仕上がる。
特に、いろいろな人の談話が交錯するような記事を仕上げるときは、テープに残された話っぷりを参考にして、それぞれのキャラクターを書き分けることができる。
面白いもので、話を聞いているときにはものすごく感銘を受けたインタビューでも、後でテープを起こしてみると、肝心な部分が抜けていたり、話の前後が矛盾していたりするということがある。
それでも、その人から聞いた話の素晴らしさは、身体に刻み込まれるくらい記憶に残っている。
これは、どういうことだろう。
「話の力」 なのだ。
話の力を持っている人は、肝心の部分が抜けていたり、あいまいであったりしても、聞き手の想像力を刺激し、聞き手が勝手に欠けた部分を補えるような話を、ちゃんとしているのだ。
テープを聞き直してみると、そういうこともよく分かる。
今のところテープレコーダーは、自分の取材ツールの一番大事なものとなっている。
2009年01月26日
まず取材ありき
取材をして、記事を書く。
そういう編集ライターのような仕事を、かれこれ30年ほど続けてきたけれど、いまだに修行の途中。
野村進さんの 『調べる技術・書く技術』 (講談社現代新書) などという本を読んでいると、やはりプロのライターたちの意気込みというか、情熱というか、「書く仕事」 に対する真摯な取り組み姿勢に接して、この身の至らなさを痛感することが多い。

特に本著の場合、「プロの物書き」 であるためには、まず前提条件として 「プロの社会人」 であるというところから説き起こされている。
正直、「この身の至らなさ」 というのは、そこのところでも、耳が痛いと思えるほどのことがいっぱいあったからだ。
その本の前半を読んだだけの段階に過ぎないが、「取材」 に対する “姿勢” ともいうべきものを熱く吹き込まれたおかげで、それについてのみ、自分の感想と方法論のようなものを、(恥ずかしながら) 少しだけ開陳したいという誘惑に駆られた。
『調べる技術・書く技術』 という本は、ノンフィクションというジャンルにおいて、ライターがどのようにテーマを見つけ、どのように資料を収集し、取材する人にどのように接するかという、取材記者の基本から書き起こされている。
ネットが充実して、どんな情報でも簡単に検索できるような時代になると、ライターはともすれば記者としての基本を忘れがちになる。
使えそうな情報をパソコン画面で探し、コピー&ペーストで簡単に自分のファイルに取り込むことを覚えてしまうと、誰もが取材の重要性というものに無頓着になる。
しかし、この 『調べる技術・書く技術』 という本で強調されているように、記事を書く基本は、結局 「取材」 に尽きる。
たとえば、本を読んでその内容をブログなどで紹介する場合でも、多少 「書評」 のようなものを意識する限りは、やはり著者と面と向き合って直接に話を聞くくらいの 「取材」 が必要となる。
その場合の 「取材」 とは、たとえばテーマの核となる部分にアンダーラインを引いて、暗記するくらいに読み込むことだったり、その部分を正確に筆記する読書ノートを作成することだったりする。
この 「取材」 がしっかりと定まっていない記事は、本人の主観だけで構成される日記もしくは感想文の域を出ない。
ノンフィクションライターの野村さんの場合は、文献的な資料に当たるときには、「資料としての本は乱暴に扱え」 と主張されている。
記事に生かすときに大切と思われる箇所は、赤ペンでアンダーラインを引く、蛍光ペンでなぞる、場合によっては引きちぎって袋ファイルに保管する。
そうやって 「情報管理」 されるそうだ。
私もまた本に関しては、アンダーラインや蛍光ペンで汚すことにためらいを持たないが、さすがにページを破ってファイルに収めるということまではしていない。
しかし、自分にとって必要だと思える文章を、そういう形で管理しようという気持ちは、痛いほど分かる。
野村さんのような多忙を極めるプロのライターの場合、本のページを切り取るという作業は、時間の節約という意味では、情報管理の立派な方法論のひとつなのだろう。
私はそこまではしないけれど、時間があれば、単行本や週刊誌で気になった記事をキーボード入力で筆写し、ファイルの形で保存している。
昔、小説家志望の人は、自分の好きな作家の文章を、一字一句間違うことなく原稿用紙に書き写すという修行を行っていたという。
私自身は小説などあまり書かないので、そういう作業はしたことがないけれど、作業自体はきわめて大切だという気がする。
文章というのは、同じ内容をそっくり同じ字数内に書いたとしても、仔細に比べてみると、句読点の位置や漢字とひらがなの配分などが、人によってすべて違う。
そのような違いは、読んでいるだけでは認識できない。書き写すことによって初めて認識できる。
良い文章には 「リズム」 がある。
読者の心にスゥーッと溶け込んでいくリズムというのは、句読点の位置、改行位置、漢字とひらがなの配分などによって織り出される。
一流のプロが書いている文章は、それらのアンサンブルが絶妙で、それがその人自身の固有のリズムとなっている。
そういうことを学ぶためにも、文章を書き写すという身体を使った修行はとてもためになる。
気になる記事を自ら筆写するということは、また、情報のプライオリティー (優先順位) を考える訓練にもなる。
本でも雑誌でもそうだが、いくら 「気に入った記事」 があったとしても、書き出しから結論に至るまですべてを丸ごと筆写することはできないし、また意味がない。
だから、私は、気に入った文章はそのまま一字一句損なわずに筆写するとしても、その文章をつながらせるために存在する前後の文章は、思い切って要約するようにしている。
人の書いた文章を要約するためには、もう一度自分の頭の中で、文章全体を再構成しなければならない。
この 「再構成」 が、意外と訓練になる。
オリジナルの文章を縮めてファイルするためには、時には、作者が使っていた単語とは異なる言葉を探して当てはめなければならないし、数行~数十行にわたって大胆に省略するときには、あえてオリジナルにない短い文章を書き加えなければならないこともある。
しかし、そういう作業が、その本のテーマに近づくための 「近道」 になる。
要約するために自分なりの文章に直すことによって、初めてオリジナルの内容が血肉化する。
要約してファイルした文章が、たとえ著者が本当に主張したいこととかけ離れようともかまわない。
本というのは、誤読する権利も読者に与えられているのだから、作者の主張をそのまま受け入れる必要はない。
読んだ自分が気になったことや気に入った文章を保存することが大事なのだ。
そうやってファイルしてきた本や週刊誌…ときにはネットの情報が、私のハードディスクの中には7~8年分のファイルとして保存されている。保存したデータには、必ず 「年代と日時」 「情報発信者」 「発表媒体」 をつけておく。
その中には、時代状況の変化についていけずに、使えなくなってしまったデータもたくさんある。
しかし、意外なときに、意外なところで役に立つデータというものもある。
たとえば、バブル時代の 「バニング」 を考察したある週刊誌のエッセイを筆写していたファイルは、『日本のキャンピングカーの歴史』 という資料を作成するときに、「時代の気分」 を知る意味において非常に役立った。
しかも、それを記事にする場合、保存されていたデータをそのままコピペすればよかったので、とても楽だった。
自分の場合、キャンピングカーをテーマにした仕事であっても、社会状況や経済状況の推移と絡めてキャンピングカーを扱う場合には、そういう過去のファイルがとても重要となる。
面白いもので、最初はランダムに集めていた情報でも、ある程度 「量」 が蓄積されてくると、個々バラバラな情報をお互いに関連づけて眺める 「視点」 のようなものが生まれてくる。
そういう 「視点」 は、すぐには公表しなくても、時間をかけて発酵させていくうちに、次第に 「思想」 のようなものに育っていく。
だから、気になった記事を拾ったときは、それを筆写することを続けていたいのだけれど、もちろん仕事が忙しくなって時間がないときは、とてもそんな余裕がない。
そういうときは、蛍光ペンで気になる箇所にマークを入れるだけで我慢する。
それだけでも、なんらかの情報は頭の中に入るものだ。
そういう編集ライターのような仕事を、かれこれ30年ほど続けてきたけれど、いまだに修行の途中。
野村進さんの 『調べる技術・書く技術』 (講談社現代新書) などという本を読んでいると、やはりプロのライターたちの意気込みというか、情熱というか、「書く仕事」 に対する真摯な取り組み姿勢に接して、この身の至らなさを痛感することが多い。
特に本著の場合、「プロの物書き」 であるためには、まず前提条件として 「プロの社会人」 であるというところから説き起こされている。
正直、「この身の至らなさ」 というのは、そこのところでも、耳が痛いと思えるほどのことがいっぱいあったからだ。
その本の前半を読んだだけの段階に過ぎないが、「取材」 に対する “姿勢” ともいうべきものを熱く吹き込まれたおかげで、それについてのみ、自分の感想と方法論のようなものを、(恥ずかしながら) 少しだけ開陳したいという誘惑に駆られた。
『調べる技術・書く技術』 という本は、ノンフィクションというジャンルにおいて、ライターがどのようにテーマを見つけ、どのように資料を収集し、取材する人にどのように接するかという、取材記者の基本から書き起こされている。
ネットが充実して、どんな情報でも簡単に検索できるような時代になると、ライターはともすれば記者としての基本を忘れがちになる。
使えそうな情報をパソコン画面で探し、コピー&ペーストで簡単に自分のファイルに取り込むことを覚えてしまうと、誰もが取材の重要性というものに無頓着になる。
しかし、この 『調べる技術・書く技術』 という本で強調されているように、記事を書く基本は、結局 「取材」 に尽きる。
たとえば、本を読んでその内容をブログなどで紹介する場合でも、多少 「書評」 のようなものを意識する限りは、やはり著者と面と向き合って直接に話を聞くくらいの 「取材」 が必要となる。
その場合の 「取材」 とは、たとえばテーマの核となる部分にアンダーラインを引いて、暗記するくらいに読み込むことだったり、その部分を正確に筆記する読書ノートを作成することだったりする。
この 「取材」 がしっかりと定まっていない記事は、本人の主観だけで構成される日記もしくは感想文の域を出ない。
ノンフィクションライターの野村さんの場合は、文献的な資料に当たるときには、「資料としての本は乱暴に扱え」 と主張されている。
記事に生かすときに大切と思われる箇所は、赤ペンでアンダーラインを引く、蛍光ペンでなぞる、場合によっては引きちぎって袋ファイルに保管する。
そうやって 「情報管理」 されるそうだ。
私もまた本に関しては、アンダーラインや蛍光ペンで汚すことにためらいを持たないが、さすがにページを破ってファイルに収めるということまではしていない。
しかし、自分にとって必要だと思える文章を、そういう形で管理しようという気持ちは、痛いほど分かる。
野村さんのような多忙を極めるプロのライターの場合、本のページを切り取るという作業は、時間の節約という意味では、情報管理の立派な方法論のひとつなのだろう。
私はそこまではしないけれど、時間があれば、単行本や週刊誌で気になった記事をキーボード入力で筆写し、ファイルの形で保存している。
昔、小説家志望の人は、自分の好きな作家の文章を、一字一句間違うことなく原稿用紙に書き写すという修行を行っていたという。
私自身は小説などあまり書かないので、そういう作業はしたことがないけれど、作業自体はきわめて大切だという気がする。
文章というのは、同じ内容をそっくり同じ字数内に書いたとしても、仔細に比べてみると、句読点の位置や漢字とひらがなの配分などが、人によってすべて違う。
そのような違いは、読んでいるだけでは認識できない。書き写すことによって初めて認識できる。
良い文章には 「リズム」 がある。
読者の心にスゥーッと溶け込んでいくリズムというのは、句読点の位置、改行位置、漢字とひらがなの配分などによって織り出される。
一流のプロが書いている文章は、それらのアンサンブルが絶妙で、それがその人自身の固有のリズムとなっている。
そういうことを学ぶためにも、文章を書き写すという身体を使った修行はとてもためになる。
気になる記事を自ら筆写するということは、また、情報のプライオリティー (優先順位) を考える訓練にもなる。
本でも雑誌でもそうだが、いくら 「気に入った記事」 があったとしても、書き出しから結論に至るまですべてを丸ごと筆写することはできないし、また意味がない。
だから、私は、気に入った文章はそのまま一字一句損なわずに筆写するとしても、その文章をつながらせるために存在する前後の文章は、思い切って要約するようにしている。
人の書いた文章を要約するためには、もう一度自分の頭の中で、文章全体を再構成しなければならない。
この 「再構成」 が、意外と訓練になる。
オリジナルの文章を縮めてファイルするためには、時には、作者が使っていた単語とは異なる言葉を探して当てはめなければならないし、数行~数十行にわたって大胆に省略するときには、あえてオリジナルにない短い文章を書き加えなければならないこともある。
しかし、そういう作業が、その本のテーマに近づくための 「近道」 になる。
要約するために自分なりの文章に直すことによって、初めてオリジナルの内容が血肉化する。
要約してファイルした文章が、たとえ著者が本当に主張したいこととかけ離れようともかまわない。
本というのは、誤読する権利も読者に与えられているのだから、作者の主張をそのまま受け入れる必要はない。
読んだ自分が気になったことや気に入った文章を保存することが大事なのだ。
そうやってファイルしてきた本や週刊誌…ときにはネットの情報が、私のハードディスクの中には7~8年分のファイルとして保存されている。保存したデータには、必ず 「年代と日時」 「情報発信者」 「発表媒体」 をつけておく。
その中には、時代状況の変化についていけずに、使えなくなってしまったデータもたくさんある。
しかし、意外なときに、意外なところで役に立つデータというものもある。
たとえば、バブル時代の 「バニング」 を考察したある週刊誌のエッセイを筆写していたファイルは、『日本のキャンピングカーの歴史』 という資料を作成するときに、「時代の気分」 を知る意味において非常に役立った。
しかも、それを記事にする場合、保存されていたデータをそのままコピペすればよかったので、とても楽だった。
自分の場合、キャンピングカーをテーマにした仕事であっても、社会状況や経済状況の推移と絡めてキャンピングカーを扱う場合には、そういう過去のファイルがとても重要となる。
面白いもので、最初はランダムに集めていた情報でも、ある程度 「量」 が蓄積されてくると、個々バラバラな情報をお互いに関連づけて眺める 「視点」 のようなものが生まれてくる。
そういう 「視点」 は、すぐには公表しなくても、時間をかけて発酵させていくうちに、次第に 「思想」 のようなものに育っていく。
だから、気になった記事を拾ったときは、それを筆写することを続けていたいのだけれど、もちろん仕事が忙しくなって時間がないときは、とてもそんな余裕がない。
そういうときは、蛍光ペンで気になる箇所にマークを入れるだけで我慢する。
それだけでも、なんらかの情報は頭の中に入るものだ。
2009年01月25日
アウトドア考察2
前回に続き、日本RV協会さんが開かれた 『キャンピングカーを考える会』 における中村達 (なかむら・とおる) さんの講演会の内容をご紹介します。
【日本のアウトドアの考察 2】
中村達氏のプロフィール
・1949年生まれ 滋賀県湖南市在住。
・株式会社 ネーチャーインテリジェンス代表取締役
・アウトドアアナリスト&コンセプター
・アウトドアジャーナリスト
《 ようやく必要性が認識された自然体験学習 》
アメリカやフランスのアウトドアズというのは、国家がしっかりとした基本プランを作成し、その土台の上に成り立っているということを、今までの話の流れからご理解いただけたかと思うのですが、こういう諸外国の例と比べてみると、日本のアウトドア文化や自然体験などの教育システムが、いかに遅れているかということもお分かりいただけたかと思います。

一言でいうと、「アウトドアライフデザイン」 が日本には欠けていると思います。
長年、メディアやアウトドア業界は、さんざん 「アウトドア」 という言葉を使っておきながら、それをライフスタイルとしてデザインする作業を怠ってきました。
そのために、生活者のマインドにアウトドアライフデザインが育たなかった。そしてモノが先行するだけで、理念や思想といったものが欠落していたように思います。
だから結果として、アウトドアズに対するインフラ整備も思いつかない。これでは欧米に追いつけないのも当たり前ですね。

しかし、近年ようやくわが国の政府も本腰を上げるようになりました。子どもたちには自然体験が必要だと気がつきました。子どもたちの自然体験が、この国の将来に欠かすことのできない要素だと、行政レベルでも分かってきました。
アメリカやヨーロッパのレジャー産業がなぜ活発なのか。
それは子どもの頃から自然に親しみ、自然を愛することを教えるという教育が充実していたからです。その結果、アウトドアズが大きなマーケットになって、産業も発達した。
私たちのスタンスからも、日本のアウトドアマーケットを広げるためには、まず子どもの自然体験学習や活動から始めることが重要だと、認識する必要があります。

では、国は何を始めているのか。
まず、子どもたちに連続1週間、野外で自然体験や農業体験をさせるということを考えています。5年間のうちに、120万人の子どもたちにそれを体験させようということで、農林水産省ではおよそ450億円、文部科学省では35億円、合わせて500億円近くの予算を組み、今年からスキームを始めています。
確かに 「ゆとり教育」 はちょっと問題になりまして、いろいろな批判も浴びましたが、自然体験活動だけはしっかりやり抜くと国は明言しています。
自然に接することが、教育上いかに大事か。
ノーベル賞を受賞した先生方が、何が一番大切ですか、という質問に、そろって 「自然」 と答えられました。
つまり、自然は人間の好奇心を萌芽させる宝庫であり、人間の能力開発に一番重要なものである。
自然の中に入れば、不思議なことに出合ったり、さまざまな発見があります。自然は、子どもたちの好奇心を育て、発見する力、チャレンジする力をはぐくむということだと思います。

《 今こそ国に働きかけるチャンス 》
このように、国家レベルでも 「自然体験」 のためのプロジェクトが始まってきたいま、国や自治体は私たちに何を求めているのでしょうか。
それは、提案だと思います。
いかにしたら、国民が自然と触れ合い、健康になり、その触れ合いを地域の活性化と産業の振興とに結びつけることができるか。そういう提案が必要な時代になってきたと思います。
実は、そういう提案へのひとつとして、私は、多くの人々に自然の素晴らしさを体験してもらい、かつ地域の活性化にもつながるような “自然体験活動の指導機関” を提唱して、長野県のある山岳観光地に 『自然学校』 を立ち上げました。
これはスキー場内にその関連施設としてつくったものですが、トレッキング、フラワーウォッチング、スターウォッチングなどといった様々な自然体験プログラムを組んで、多くの人に大自然を堪能してもらおうという、インタープリテーションのための自然学校です。
おかげさまで、これがすごく評判がいい。
このスキー人口が下降しているというご時世で、スキー来場者は昨年の12月では、前年同月比の20パーセントアップ。スノーシューイングなどというスキー以外のインタープリテーション授業も好評で、今年の3月まで予約が満杯になっています。
さらに、現在、この 『自然学校』 を中心に、170kmの 「ロングトレイル」 を構想中です。
トレイルというのは、「景観の豊かな土地をつないで自然に親しみながら歩く道」 …というような意味ですが、アメリカやヨーロッパには、このトレイルがたくさん整備されています。

アメリカには、有名なアパラチアン・トレイルという3,500kmのトレイルを筆頭に、バックパッカーやハイカー専用のコースが用意され、多くの人々がウォーキングを楽しんでいます。
ヨーロッパに行くと、北欧から地中海まで5本のトレイルが走っていますし、イギリスには2万kmのフット・パスがあります。
では、日本はどうかというと、このようなトレイルとして 「四国のお遍路の道」 が有名ですが、ロングトレイルとして整備されたところは、非常に少ない。
そこで、国や自治体と連携して、この日本の豊かな自然を堪能しながら、「歩く旅」 が楽しめるトレイルをつくろうと、いま活動しています。
現在6つのスキームを進めているところですが、その一つが浅間山麓を回るロングトレイルです。6市町村が連携しています。
このトレイルが国土交通省が進めている 「日本風景街道」 に認定され、その整備のために予算もつき始めています。
「風景街道」 というのは、アメリカでいう 「シーニックバイウェイ」 の日本版で、景観に優れた道路をつなぎ合わせ、国民に旅を楽しんでもらうというものです。
現在、浅間山麓ロングトレイルは実行委員会を組織し、コース上のキャンプ場、温泉や様々な宿泊施設と有機的に結びつけるための調査を行っています。
このようなスキームに対し、RV協会さんなども有識者の団体として、何らかの形でコミットしていくことが必要だと思います。
このようなトレイルの整備は、キャンピングカー産業と決して無縁ではないと思っています。
まずキャンピングカーで、トレイルの途中にあるキャンプ場などで宿泊する。
そして、自然の景観を堪能したり、地元のおいしい料理などを味わいながらウォーキングやトレッキングを楽しむ。
それによって、トレイルの周辺が活性化を果たす見通しが立てば、国や自治体も、例えば 「キャンピングカー&ウォーキング」 という提案に対して、興味や関心を持って耳を傾けてくれるでしょう。

《 学校でミニRV体験会を開く 》
キャンピングカーの普及のための方法のひとつとして、国の政策や自治体のプロジェクトを視野に入れ、さまざまな提案や提言を行いながら、協働していくことも必要でしょう。
特に、それが子どもたちの教育や青少年の育成活動に資するようなもの、さらに地域の活性化、なかでも観光の活性化につながるようなものであれば、積極的に採り上げてくれる可能性は高いと思います。
そこで提案なのですが、例えば、キャンピングカーを販売されている業者の方々が、ご近所の学校にキャンピングカーを持ち込み、そこで 「RV・キャンピング教室」 のようなものを開かれたらいかがでしょう。
学校には総合的学習時間が設けられていますから、子どもたちに何かを体験させるという企画は、学校側も興味を持つはずです。
学校の先生は忙しいので、学外授業を行いたくてもそのプログラムを組んでいる余裕がありません。
だから、学外で行う良い体験活動があれば取り入れてくれる学校もあると思います。
ある日、突然校庭にキャンピングカーが登場する。子どもたちは、きっと驚き、目を輝かせることでしょう。そして、手で触れて、乗ってみて、ベッドに寝転がり、いろいろな機能を学習します。
子どもたちの脳裏に、冒険心や、はるか彼方のアウトドアフィールド、森の情景、広大な平原が浮かぶのでは、と想像します。
また、コンロでお湯を沸かしてお茶を入れたり、簡単な野外クッキングを体験させてもいいと思います。「ミニ・アウトドア教室」 ですね。

そうやって、キャンピングカーを子どもたちに広く知ってもらう。その子が家に帰ってきて、今までキャンピングカーに関心を示さなかった親に対しても、「キャンピングカーショーに行こうよ!」 とおねだりするかもしれない。「キャンプに連れてって」 というかも知れない。これが大事ですね。
このような試みが一定程度の成果を収めるようになれば、大きなムーブメントとして成熟する可能性がある。学校で開いた 「ミニRV教室」 が、いつしか連鎖して、伝播して、全国的なプロジェクトにならないとも限りません。
《 外国人向けレンタルキャンピングカー 》
もう一つの提案ですが、いま日本の観光地は、外国人観光客でにぎわっています。彼らに、レンタルキャンピングカーを提供するというアイデアもあると思うのです。
現在、日本の一部の観光地は、まるで日本とは別の国になったかのような様相を呈しています。
私は、毎年ゴールデンウィークには立山にスキーに出かけているのですが、昨年の4月に行ったときは、ちょっとびっくりしました。
山麓駅で写真を撮っていたのは、シンガポール人、韓国人、台湾人の観光客ばかりでした。山麓駅から山上まで、これらの外国人観光客ばかりなのです。
バスに乗っても日本語が聞こえなかった。みんな日本の雪景色が珍しくて見物に来ています。雪山体験といったところです。
昨年の夏、北アルプスを縦走したときも、同じような経験をしました。これまでは日本人登山客でにぎわった槍ヶ岳ですが、それに外国人登山者も加わってきています。
山や小屋の標識は、今や英語、韓国語、中国語が日本語とともに記載されています。山小屋に宿泊客の1割が外国人といわれています。山もいい意味で国際化が進んでいるといえるわけです。
そういう時代になったんですね。
日本の観光地も、もう外国観光客を受け入れないとやっていけない、ということが分かってきて、インフラやシステムの整備が進んでいるといったところです。
これには日本の国策として 「観光立国」 が挙げられているという背景があります。
日本は、観光が重要な産業として位置づけられています。日本に多くの外国人に来てもらうには、諸外国のまねではなく、日本、つまり豊かな森の文化。和の文化をどのように見てもらうか、体験してもらうかということが大きなポイントであると思います。

日本の温泉、日本の庭園、日本の家屋、日本の伝統芸能といった、「和の文化」 を外国人向けの観光コンテンツとして見直そうという考え方も生まれてきています。
それと同時に、そういう施設を効率よく、経済的に回るためのレンタルキャンピングカーという移動システムも、将来的に期待されてくるのではないかと思っています。
すべての外国観光客に向いているとはいいませんが、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアといったキャンピングカー先進国の観光客なら、日本人よりはるかにキャンピングカーの扱いに慣れている人たちも多いでしょうし、そのような旅行形態を望んでいる人々も多いと思います。
もちろん、このようなレンタルキャンピングカーシステムを、今のキャンピングカー業界の人たちが運営するのは、マンパワーや資金的な問題、さらにメンテナンスの問題などからして、むずかしい面も多々あるでしょうが、業界をあげて実証実験をおこない、可能性を検証し、ビジネスモデルを研究する必要があると思います。
一方で、国内向けにはキャンピングカーの利用のためのインストラクターを養成する必要も生まれてくるかもしれません。RVインストラクターを養成していくうちに、キャンピングカーに興味を持つ人々が増加する可能性が高いと思われます。
《 三世代のアウトドアライフ 》
そろそろ最後のまとめに入ろうと思うのですが、結局、「遊び」 というものは、すぐには身につかないということですね。
「定年退職を迎え、さぁ自分の自由時間が持てるようになった。よしキャンピングカーでも買って日本一周でも…」 と思っても、キャンプやキャンピングカー旅行の方法がライフスタイルとして身についていないと、すぐにはできません。
およそ40年間、仕事に明け暮れしてきたサラリーマンが、いきなり放り出されて、「明日から自由時間を楽しんで」 と言われても、何をどう遊んだらいいのか分からない…というのが実状ではないでしょうか。
やはり、子どもの頃から継続して野外で過ごす時間を持たない限りは、ライフスタイルとして具現化できないと思います。

しかし、よくよく考えてみれば、団塊の世代は、子どもの頃の遊びといえば野山でした。
田んぼにドジョウを捕りに行ったり、竹馬を作ったり、笹の葉で舟を作って川に浮かべたり…。そんな経験をたくさん持っている人が多いですね。
また、キャンプもアウトドアにも縁のないサラリーマン時代を過ごしていた中高年も、学生の頃は黄色い三角テントで、林間学校や臨海学校を体験しています。
パソコンゲームや携帯電話もない時代、レクリェーションの王道はハイキングや飯盒炊飯 (はんごうすいはん)、そしてキャンプでした。
そこで、例えば孫を連れてキャンピングカーで郊外に行く。そして、おもちゃもテレビゲームもないような場所で、孫をどう楽しませるかを考える。そのような提案を秘めた 「三世代でアウトドアライフを楽しませる」 という発想もRV業界には必要でしょう。
自分が楽しむことに関しては途方にくれる中高年は多いのですが、青春時代の野外経験を生かして孫を遊ばせるとなると、また違ってくるのでは、と思います。
《 まとめ 》
最後になりましたが、これからのRVやアウトドアズの普及は、私たち日本人の生き方、言い換えるならライフデザインを抜きに考えることはできません。
と同時に、時代を担う子どもたちの教育をどうするのか、という視点も大変重要です。

これまでは、生活者の後追い的なマーケティングに終始していたきらいもなきにしもあらずです。
生活者をマーケティングで追っていけば、中高年ばかりになってしまって、先が不透明になってきた、というのが実感です。
米国のアウトドアアクティビティの人口構成は、各年代ともフラットです。
それに比べてこの国の状況は、若者たちほど構成人口が減少しているという、憂慮すべき状態です。これでは、明日がありません。
足元のビジネスとして、中高年にフォーカスを定めることは当然として、同時に子どもたちをアウトドアに連れ出す、自然で遊ばせるといった、志の高いスキームも考える必要があります。
と同時に、この国の観光施策なども研究しながら、国や地方自治体、関係諸機関にも提言や提案をしていくことも、大変重要であると思います。
(終わり)
前の記事 「日本のアウトドアの考察 1」
【日本のアウトドアの考察 2】
中村達氏のプロフィール
・1949年生まれ 滋賀県湖南市在住。
・株式会社 ネーチャーインテリジェンス代表取締役
・アウトドアアナリスト&コンセプター
・アウトドアジャーナリスト
《 ようやく必要性が認識された自然体験学習 》
アメリカやフランスのアウトドアズというのは、国家がしっかりとした基本プランを作成し、その土台の上に成り立っているということを、今までの話の流れからご理解いただけたかと思うのですが、こういう諸外国の例と比べてみると、日本のアウトドア文化や自然体験などの教育システムが、いかに遅れているかということもお分かりいただけたかと思います。
一言でいうと、「アウトドアライフデザイン」 が日本には欠けていると思います。
長年、メディアやアウトドア業界は、さんざん 「アウトドア」 という言葉を使っておきながら、それをライフスタイルとしてデザインする作業を怠ってきました。
そのために、生活者のマインドにアウトドアライフデザインが育たなかった。そしてモノが先行するだけで、理念や思想といったものが欠落していたように思います。
だから結果として、アウトドアズに対するインフラ整備も思いつかない。これでは欧米に追いつけないのも当たり前ですね。
しかし、近年ようやくわが国の政府も本腰を上げるようになりました。子どもたちには自然体験が必要だと気がつきました。子どもたちの自然体験が、この国の将来に欠かすことのできない要素だと、行政レベルでも分かってきました。
アメリカやヨーロッパのレジャー産業がなぜ活発なのか。
それは子どもの頃から自然に親しみ、自然を愛することを教えるという教育が充実していたからです。その結果、アウトドアズが大きなマーケットになって、産業も発達した。
私たちのスタンスからも、日本のアウトドアマーケットを広げるためには、まず子どもの自然体験学習や活動から始めることが重要だと、認識する必要があります。
では、国は何を始めているのか。
まず、子どもたちに連続1週間、野外で自然体験や農業体験をさせるということを考えています。5年間のうちに、120万人の子どもたちにそれを体験させようということで、農林水産省ではおよそ450億円、文部科学省では35億円、合わせて500億円近くの予算を組み、今年からスキームを始めています。
確かに 「ゆとり教育」 はちょっと問題になりまして、いろいろな批判も浴びましたが、自然体験活動だけはしっかりやり抜くと国は明言しています。
自然に接することが、教育上いかに大事か。
ノーベル賞を受賞した先生方が、何が一番大切ですか、という質問に、そろって 「自然」 と答えられました。
つまり、自然は人間の好奇心を萌芽させる宝庫であり、人間の能力開発に一番重要なものである。
自然の中に入れば、不思議なことに出合ったり、さまざまな発見があります。自然は、子どもたちの好奇心を育て、発見する力、チャレンジする力をはぐくむということだと思います。
《 今こそ国に働きかけるチャンス 》
このように、国家レベルでも 「自然体験」 のためのプロジェクトが始まってきたいま、国や自治体は私たちに何を求めているのでしょうか。
それは、提案だと思います。
いかにしたら、国民が自然と触れ合い、健康になり、その触れ合いを地域の活性化と産業の振興とに結びつけることができるか。そういう提案が必要な時代になってきたと思います。
実は、そういう提案へのひとつとして、私は、多くの人々に自然の素晴らしさを体験してもらい、かつ地域の活性化にもつながるような “自然体験活動の指導機関” を提唱して、長野県のある山岳観光地に 『自然学校』 を立ち上げました。
これはスキー場内にその関連施設としてつくったものですが、トレッキング、フラワーウォッチング、スターウォッチングなどといった様々な自然体験プログラムを組んで、多くの人に大自然を堪能してもらおうという、インタープリテーションのための自然学校です。
おかげさまで、これがすごく評判がいい。
このスキー人口が下降しているというご時世で、スキー来場者は昨年の12月では、前年同月比の20パーセントアップ。スノーシューイングなどというスキー以外のインタープリテーション授業も好評で、今年の3月まで予約が満杯になっています。
さらに、現在、この 『自然学校』 を中心に、170kmの 「ロングトレイル」 を構想中です。
トレイルというのは、「景観の豊かな土地をつないで自然に親しみながら歩く道」 …というような意味ですが、アメリカやヨーロッパには、このトレイルがたくさん整備されています。
アメリカには、有名なアパラチアン・トレイルという3,500kmのトレイルを筆頭に、バックパッカーやハイカー専用のコースが用意され、多くの人々がウォーキングを楽しんでいます。
ヨーロッパに行くと、北欧から地中海まで5本のトレイルが走っていますし、イギリスには2万kmのフット・パスがあります。
では、日本はどうかというと、このようなトレイルとして 「四国のお遍路の道」 が有名ですが、ロングトレイルとして整備されたところは、非常に少ない。
そこで、国や自治体と連携して、この日本の豊かな自然を堪能しながら、「歩く旅」 が楽しめるトレイルをつくろうと、いま活動しています。
現在6つのスキームを進めているところですが、その一つが浅間山麓を回るロングトレイルです。6市町村が連携しています。
このトレイルが国土交通省が進めている 「日本風景街道」 に認定され、その整備のために予算もつき始めています。
「風景街道」 というのは、アメリカでいう 「シーニックバイウェイ」 の日本版で、景観に優れた道路をつなぎ合わせ、国民に旅を楽しんでもらうというものです。
現在、浅間山麓ロングトレイルは実行委員会を組織し、コース上のキャンプ場、温泉や様々な宿泊施設と有機的に結びつけるための調査を行っています。
このようなスキームに対し、RV協会さんなども有識者の団体として、何らかの形でコミットしていくことが必要だと思います。
このようなトレイルの整備は、キャンピングカー産業と決して無縁ではないと思っています。
まずキャンピングカーで、トレイルの途中にあるキャンプ場などで宿泊する。
そして、自然の景観を堪能したり、地元のおいしい料理などを味わいながらウォーキングやトレッキングを楽しむ。
それによって、トレイルの周辺が活性化を果たす見通しが立てば、国や自治体も、例えば 「キャンピングカー&ウォーキング」 という提案に対して、興味や関心を持って耳を傾けてくれるでしょう。
《 学校でミニRV体験会を開く 》
キャンピングカーの普及のための方法のひとつとして、国の政策や自治体のプロジェクトを視野に入れ、さまざまな提案や提言を行いながら、協働していくことも必要でしょう。
特に、それが子どもたちの教育や青少年の育成活動に資するようなもの、さらに地域の活性化、なかでも観光の活性化につながるようなものであれば、積極的に採り上げてくれる可能性は高いと思います。
そこで提案なのですが、例えば、キャンピングカーを販売されている業者の方々が、ご近所の学校にキャンピングカーを持ち込み、そこで 「RV・キャンピング教室」 のようなものを開かれたらいかがでしょう。
学校には総合的学習時間が設けられていますから、子どもたちに何かを体験させるという企画は、学校側も興味を持つはずです。
学校の先生は忙しいので、学外授業を行いたくてもそのプログラムを組んでいる余裕がありません。
だから、学外で行う良い体験活動があれば取り入れてくれる学校もあると思います。
ある日、突然校庭にキャンピングカーが登場する。子どもたちは、きっと驚き、目を輝かせることでしょう。そして、手で触れて、乗ってみて、ベッドに寝転がり、いろいろな機能を学習します。
子どもたちの脳裏に、冒険心や、はるか彼方のアウトドアフィールド、森の情景、広大な平原が浮かぶのでは、と想像します。
また、コンロでお湯を沸かしてお茶を入れたり、簡単な野外クッキングを体験させてもいいと思います。「ミニ・アウトドア教室」 ですね。
そうやって、キャンピングカーを子どもたちに広く知ってもらう。その子が家に帰ってきて、今までキャンピングカーに関心を示さなかった親に対しても、「キャンピングカーショーに行こうよ!」 とおねだりするかもしれない。「キャンプに連れてって」 というかも知れない。これが大事ですね。
このような試みが一定程度の成果を収めるようになれば、大きなムーブメントとして成熟する可能性がある。学校で開いた 「ミニRV教室」 が、いつしか連鎖して、伝播して、全国的なプロジェクトにならないとも限りません。
《 外国人向けレンタルキャンピングカー 》
もう一つの提案ですが、いま日本の観光地は、外国人観光客でにぎわっています。彼らに、レンタルキャンピングカーを提供するというアイデアもあると思うのです。
現在、日本の一部の観光地は、まるで日本とは別の国になったかのような様相を呈しています。
私は、毎年ゴールデンウィークには立山にスキーに出かけているのですが、昨年の4月に行ったときは、ちょっとびっくりしました。
山麓駅で写真を撮っていたのは、シンガポール人、韓国人、台湾人の観光客ばかりでした。山麓駅から山上まで、これらの外国人観光客ばかりなのです。
バスに乗っても日本語が聞こえなかった。みんな日本の雪景色が珍しくて見物に来ています。雪山体験といったところです。
昨年の夏、北アルプスを縦走したときも、同じような経験をしました。これまでは日本人登山客でにぎわった槍ヶ岳ですが、それに外国人登山者も加わってきています。
山や小屋の標識は、今や英語、韓国語、中国語が日本語とともに記載されています。山小屋に宿泊客の1割が外国人といわれています。山もいい意味で国際化が進んでいるといえるわけです。
そういう時代になったんですね。
日本の観光地も、もう外国観光客を受け入れないとやっていけない、ということが分かってきて、インフラやシステムの整備が進んでいるといったところです。
これには日本の国策として 「観光立国」 が挙げられているという背景があります。
日本は、観光が重要な産業として位置づけられています。日本に多くの外国人に来てもらうには、諸外国のまねではなく、日本、つまり豊かな森の文化。和の文化をどのように見てもらうか、体験してもらうかということが大きなポイントであると思います。
日本の温泉、日本の庭園、日本の家屋、日本の伝統芸能といった、「和の文化」 を外国人向けの観光コンテンツとして見直そうという考え方も生まれてきています。
それと同時に、そういう施設を効率よく、経済的に回るためのレンタルキャンピングカーという移動システムも、将来的に期待されてくるのではないかと思っています。
すべての外国観光客に向いているとはいいませんが、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアといったキャンピングカー先進国の観光客なら、日本人よりはるかにキャンピングカーの扱いに慣れている人たちも多いでしょうし、そのような旅行形態を望んでいる人々も多いと思います。
もちろん、このようなレンタルキャンピングカーシステムを、今のキャンピングカー業界の人たちが運営するのは、マンパワーや資金的な問題、さらにメンテナンスの問題などからして、むずかしい面も多々あるでしょうが、業界をあげて実証実験をおこない、可能性を検証し、ビジネスモデルを研究する必要があると思います。
一方で、国内向けにはキャンピングカーの利用のためのインストラクターを養成する必要も生まれてくるかもしれません。RVインストラクターを養成していくうちに、キャンピングカーに興味を持つ人々が増加する可能性が高いと思われます。
《 三世代のアウトドアライフ 》
そろそろ最後のまとめに入ろうと思うのですが、結局、「遊び」 というものは、すぐには身につかないということですね。
「定年退職を迎え、さぁ自分の自由時間が持てるようになった。よしキャンピングカーでも買って日本一周でも…」 と思っても、キャンプやキャンピングカー旅行の方法がライフスタイルとして身についていないと、すぐにはできません。
およそ40年間、仕事に明け暮れしてきたサラリーマンが、いきなり放り出されて、「明日から自由時間を楽しんで」 と言われても、何をどう遊んだらいいのか分からない…というのが実状ではないでしょうか。
やはり、子どもの頃から継続して野外で過ごす時間を持たない限りは、ライフスタイルとして具現化できないと思います。
しかし、よくよく考えてみれば、団塊の世代は、子どもの頃の遊びといえば野山でした。
田んぼにドジョウを捕りに行ったり、竹馬を作ったり、笹の葉で舟を作って川に浮かべたり…。そんな経験をたくさん持っている人が多いですね。
また、キャンプもアウトドアにも縁のないサラリーマン時代を過ごしていた中高年も、学生の頃は黄色い三角テントで、林間学校や臨海学校を体験しています。
パソコンゲームや携帯電話もない時代、レクリェーションの王道はハイキングや飯盒炊飯 (はんごうすいはん)、そしてキャンプでした。
そこで、例えば孫を連れてキャンピングカーで郊外に行く。そして、おもちゃもテレビゲームもないような場所で、孫をどう楽しませるかを考える。そのような提案を秘めた 「三世代でアウトドアライフを楽しませる」 という発想もRV業界には必要でしょう。
自分が楽しむことに関しては途方にくれる中高年は多いのですが、青春時代の野外経験を生かして孫を遊ばせるとなると、また違ってくるのでは、と思います。
《 まとめ 》
最後になりましたが、これからのRVやアウトドアズの普及は、私たち日本人の生き方、言い換えるならライフデザインを抜きに考えることはできません。
と同時に、時代を担う子どもたちの教育をどうするのか、という視点も大変重要です。
これまでは、生活者の後追い的なマーケティングに終始していたきらいもなきにしもあらずです。
生活者をマーケティングで追っていけば、中高年ばかりになってしまって、先が不透明になってきた、というのが実感です。
米国のアウトドアアクティビティの人口構成は、各年代ともフラットです。
それに比べてこの国の状況は、若者たちほど構成人口が減少しているという、憂慮すべき状態です。これでは、明日がありません。
足元のビジネスとして、中高年にフォーカスを定めることは当然として、同時に子どもたちをアウトドアに連れ出す、自然で遊ばせるといった、志の高いスキームも考える必要があります。
と同時に、この国の観光施策なども研究しながら、国や地方自治体、関係諸機関にも提言や提案をしていくことも、大変重要であると思います。
(終わり)
前の記事 「日本のアウトドアの考察 1」
2009年01月24日
アウトドア考察1
《 日本のアウトドアの考察 1 》
「外部の声を聞く」 ということは、どんな企業にとっても組織にとっても大事なことだろう。
百戦錬磨の専門家が集まった集団でも、固定されたメンバーだけで物事を運営していくには限界がある。
時にみんなの考えが行き詰まり、発展性を失ってしまうことはよくあることだ。
そんなとき、日頃自分たちが考えもしなかったような視点からアドバイスを与えてくれる 「外部の声」 は、発想の行き詰まりを打開してくれる大きな力となる。
日本RV協会 (JRVA) さんには、そのような 「外部の声」 を聞く場として 『キャンピングカーを考える会』 というものがある。
昨年の秋に発足してから、3回の会議が開かれた。
会の構成はテーマに応じて臨機応変。
一人の講師をお招きして、講演会のような形を採ることもあれば、数人のゲストを交えて、意見交換会という形を採ることもある。
テーマは毎回異なるが、RV協会以外の方々に 「日本のキャンピングカー産業をどう見ているか」 を尋ね、キャンピングカー文化やアウトドア文化をどう育成するかということに関して意見を求めるという基本姿勢は一貫している。
幸い、私はこの 『キャンピングカーを考える会』 の1回目から傍聴させてもらっている。
先の1月16日 (金曜日) に開かれた会では、アウトドア・ジャーナリストの中村達 (なかむら・とおる) さんの講演を聞くことができた。
その講演録のまとめをお手伝いさせてもらった関係上、中村さんとRV協会さんのご承諾を得て、協会内部の事業でありながら、講演内容の一部をこのブログにて公開するご許可をいただいた。
以下、中村さんが行われた講演の抜粋をご紹介する。
あくまでも 「キャンピングカー業界への提言」 という形を採ったものだが、広くアウトドア産業やアウトドア文化の興隆に関心を示す方々には得がたいアドバイスに溢れているものと確信する。

【キャンピングカー業界への提案】
中村達 (なかむら・とおる) 氏のプロフィール
・1949年生まれ 滋賀県湖南市在住
・株式会社 ネーチャーインテリジェンス代表取締役
・アウトドアアナリスト&コンセプター
・アウトドアジャーナリスト
《 日本のアウトドアズは今どうなっているのか 》
日本の地勢というのは、国土の68パーセントが山 (森林) なんですね。フィンランドについで2番目に広い森林面積があるわけです。自然が破壊されたといわれながらも、日本の自然というものはとても豊かです。
しかし、日本人はこのような自然資源を生かしているかというと、残念ながらそうではない。
日本には言葉だけ 「アウトドア」 というものがありますが、そのアウトドアが実はなかなか広がっていかないし、定着しない。
日本のアウトドアマーケットというのは、メーカー出荷額でだいたい1,200億円ぐらいだといわれています。その大半はナベ、カマ、ヤカン、登山靴、ウェアなどが中心となっているのですが、こういうものが売れているといっても、実はライフスタイルとして根づいていないのです。
確かに若者の間にアウトドアウェアは売れています。しかし、彼らはアウトドアには行っていないんですね。あくまでもそれを着て街を歩いているだけです。要するにカジュアルファッションですね。
今の若者たちの 「クルマ離れ」 がよく話題になりますが、若者たちの間には 「自然離れ」 も進行しています。
たとえば、かつて若者に人気のあった登山。山に向かう若者は大きく減少しています。
大学の山岳部あるいは、ワンダーフォーゲルといったクラブ活動は停滞していて、まさに 「開店休業」 状態です。
かつて登山の名門といわれた大学の山岳部でも、今や新入部員は1人か2人。
笑い話のようですが、そのトラの子の新人が辞めないように、先輩たちはその新人に軽い荷物を背負わすなど、腫れ物にさわるような扱いをしています。

同じように、15年ほど前は空前のブームを巻き起こしていたスキーも、凋落の一途をたどっています。
例えば、最盛期のスキー板の流通量は、200数十万台を記録していました。しかし、今年は30万台を切るのではないかといわれています。この14~15年で10分の1近くに落ちているわけです。
一方で、若者の間にスノーボードが広まって、一時はこれが若者たちの新しいウィンタースポーツになると期待されていたのですが、今はそのスノーボードも減少の一途をたどっています。

オートキャンプに関しても、「オートキャンプ白書」 などを見ると、最も盛んだった'98年には1,306万人のキャンプ人口を誇っていましたが、'07年度はその半分の720万人です。しかも、その中で20代のキャンプ人口は5.2パーセントしかおりません。
このような状況を見ると、「クルマ」 と 「自然」 をコンセプトとしているキャンピングカーの場合、とてもゆゆしき事態が起こっているといえるのかもしれません。
《 中高年の登山ブームが消え去る日? 》
このような若い世代を中心にアウトドア離れが進行している中で、唯一アウトドア・アクティビィティが活発なのは、中高年の山歩きですね。
山歩きは、健康のため、仲間つくり、自己啓発、旅などの要素を満足させるのには、格好の行為です。歩くだけなら、だれにでも簡単にできるわけです。
去年の夏、富士山に登った人たちの数が前年より20パーセント伸びて、24万人の登山客を記録しました。
これは、メディアが自然遺産として採り上げたという効果が大きかったのですが、なんといっても日本人なら一度は登ってみたいのが富士山です。中高年の嗜好にフィットしたからだろうと思います。これには若い人たちも大勢登っています。
しかし、問題があります。彼らは富士山に登った後、山歩きを継続するのかというと、そうではない。
一度富士山に登ってしまえば、それで終わりなんですね。富士登山も観光的なアクティビティになっていて、一過性の感が強い。
結局、「なぜ山に登るのか」 というアウトドア・アクティビィティを支えるフィロソフィー (哲学) が確立されていないのです。だから、メディアに採り上げられた 「富士山」 には登るけれど、登山一般に興味を持つわけではない。
もちろん富士山以外の山々にも、中高年の方は登っています。東京の高雄山などは、今やシニア登山のメッカのようになっています。
しかし、「山に登る」 あるいは 「自然に親しむ」 という基本的なフィロソフィーが根づいていないため、ブームが去れば、一気にしぼんでいく可能性があります。
こうして見てくると、いまアウトドアズを支えているのは、山歩きを楽しむ中高年だけだという非常に寂しい現状が浮き彫りにされてきます。
そうなると、この山歩きをしている中高年たちがリタイヤした後、日本のアウトドア文化やアウトドアマーケットはいったいどうなるのか。このままでは、何も残らないのではないかと心配しています。
日本RV協会さんの出された 『キャンピングカー白書2008』 を読ませていただきました…非常によくまとまった白書であるとは思いましたけれど、結局、ここでレポートされている内容も、「中高年」 「温泉」 「道の駅」 という三つのキーワードに集約されるだけで、その後の展望が見えて来ない。
この白書からも、今後 「中高年」 が抜けたらどうなるだろう…という先行き不透明性感が漂うことは否めません。
アウトドアライフを楽しむ層が脆弱になってくれば、当然、用品などの開発力、そして購買力も落ちてきます。
今月の末、アメリカのソルトレイクシティで、全米最大ともいわれるアウトドアショーがあります。
そこには、アウトドアマーケットに商品を供給する用品メーカーがおよそ850社も出展します。そして世界各国から1万5,000人を超えるバイヤーたちが集まってきます。
こういう大きなショーにもかかわらず、参加する日本企業は数えるほどしかない。
これは今の日本には、世界に通用するアウトドアのブランド力を持っているところが少ないということなんですね。
つまり、世界の人々の好奇心を集めるようなアウトドア文化が創造されていない。発信するものが少ない。自分たちの自己評価も低いし、海外からも評価されるようなものが少ない。それが、日本のアウトドア産業の現状だと思います。
《 海外でアウトドア活動が活発な理由 》
では、世界のアウトドアシーンはどうなっているのでしょうか。まずアメリカです。
アメリカという国は、今や金融不安を撒き散らした元凶の国として、かなり評判を落としていますが、この国で信用できると思えるものが、私の知っている限り、少なくとも二つあります。
ひとつは、この国のアウトドアズ。
もうひとつは、国立公園の保護活動です。
特に、アメリカのアウトドアズというのは、非常にストロングです。コンテンツもしっかりしているし、哲学がある。そして、そのようなアウトドア哲学・思想によってアメリカの国立公園はしっかり守られています。

アメリカ人というのは、幌馬車の時代から野外生活の伝統をつちかってきましたから、アウトドアズが思想にまで結実し、国家の基本理念のひとつとして確立されています。
彼らは、人間が自然から学ぶべきことがいっぱいあるということを理解しています。
だから、例えば両親が子どもを連れて、長期間バックパッキングなどをしている間は、学校に行かなくても親が、学校の代わりに教えることができます。
つまり、アウトドアズも教育の一環であるということが広く認識されている。だから、彼らは、「学校の授業よりも自然の方が偉大な教師だ」 とはっきりと言います。
こういう国ですから、アメリカのアウトドア人口というのは1億6,000万人に達します。
そういう厚みを持った層が形成されてこそ、初めて 「マーケット」 といえるものが成立するわけですね。
彼らのアウトドアマーケットというのは、アウトドアズを 「教育」 の中にしっかり位置づけ、国をあげて取り組むという姿勢から生まれてきたといえるでしょう。
もうひとつ、フランスの例を見てみます。
ご存知のように、フランスという国は非常にバカンスが盛んです。夏などは多くの人がロングバケーションを取って、アウトドアズを楽しみます。
しかし、これは自然発生的にそうなったわけではないんですね。実は、しっかりした制度がそういうバカンスを支えています。
フランスには国民の余暇活動を支援するための、いわば 「指導者」 を育成する制度があります。
この指導者たちを 「アニマトゥール」 といいます。その多くは17歳から25歳くらいの青年で、およそ100時間くらいのトレーニングを受けてアニマトゥールの資格を取得し、子どもたちにアウトドアの手ほどきをします。フランスでは、このアニマトゥールが毎年4万人くらい誕生するといわれています。
夏になると、彼らは1週間から1ヶ月ぐらいのサマーキャンプに子どもたちを連れ出し、さまざまなアウトドアズの指導を行っています。
そして子どもたちがサマーキャンプに行っている間、夫婦水入らずの旅行を楽しみたい親たちは、自分たちだけの長距離旅行に出かける。
このように、フランス人たちのバカンスというものは、実は国家が整えたシステムによって実現されているわけです。
フランス革命の頃から、政治の世界においてはヨーロッパ随一の先進国であったフランスは、国民の余暇に関しても先見性があったんです。
要するに、国民の “自由時間” を国家がコントロールして、「余暇」 という分野で産業を創出し、雇用を発生させることに早くから成功していました。
彼らのロングバケーションというのは、このようなしっかりした、社会的基盤の上に形成されているわけです。
(次回へ続く)
※ 次回は、このような諸外国の動きをにらみながら、日本の政府や行政がどのような対応を開始したか。また、そのような行政側の動きに対して、キャンピングカー業界、アウトドア業界はどういう反応を示せばいいのかということをお届けします。
続き 「日本のアウトドアの考察 2」
「外部の声を聞く」 ということは、どんな企業にとっても組織にとっても大事なことだろう。
百戦錬磨の専門家が集まった集団でも、固定されたメンバーだけで物事を運営していくには限界がある。
時にみんなの考えが行き詰まり、発展性を失ってしまうことはよくあることだ。
そんなとき、日頃自分たちが考えもしなかったような視点からアドバイスを与えてくれる 「外部の声」 は、発想の行き詰まりを打開してくれる大きな力となる。
日本RV協会 (JRVA) さんには、そのような 「外部の声」 を聞く場として 『キャンピングカーを考える会』 というものがある。
昨年の秋に発足してから、3回の会議が開かれた。
会の構成はテーマに応じて臨機応変。
一人の講師をお招きして、講演会のような形を採ることもあれば、数人のゲストを交えて、意見交換会という形を採ることもある。
テーマは毎回異なるが、RV協会以外の方々に 「日本のキャンピングカー産業をどう見ているか」 を尋ね、キャンピングカー文化やアウトドア文化をどう育成するかということに関して意見を求めるという基本姿勢は一貫している。
幸い、私はこの 『キャンピングカーを考える会』 の1回目から傍聴させてもらっている。
先の1月16日 (金曜日) に開かれた会では、アウトドア・ジャーナリストの中村達 (なかむら・とおる) さんの講演を聞くことができた。
その講演録のまとめをお手伝いさせてもらった関係上、中村さんとRV協会さんのご承諾を得て、協会内部の事業でありながら、講演内容の一部をこのブログにて公開するご許可をいただいた。
以下、中村さんが行われた講演の抜粋をご紹介する。
あくまでも 「キャンピングカー業界への提言」 という形を採ったものだが、広くアウトドア産業やアウトドア文化の興隆に関心を示す方々には得がたいアドバイスに溢れているものと確信する。
【キャンピングカー業界への提案】
中村達 (なかむら・とおる) 氏のプロフィール
・1949年生まれ 滋賀県湖南市在住
・株式会社 ネーチャーインテリジェンス代表取締役
・アウトドアアナリスト&コンセプター
・アウトドアジャーナリスト
《 日本のアウトドアズは今どうなっているのか 》
日本の地勢というのは、国土の68パーセントが山 (森林) なんですね。フィンランドについで2番目に広い森林面積があるわけです。自然が破壊されたといわれながらも、日本の自然というものはとても豊かです。
しかし、日本人はこのような自然資源を生かしているかというと、残念ながらそうではない。
日本には言葉だけ 「アウトドア」 というものがありますが、そのアウトドアが実はなかなか広がっていかないし、定着しない。
日本のアウトドアマーケットというのは、メーカー出荷額でだいたい1,200億円ぐらいだといわれています。その大半はナベ、カマ、ヤカン、登山靴、ウェアなどが中心となっているのですが、こういうものが売れているといっても、実はライフスタイルとして根づいていないのです。
確かに若者の間にアウトドアウェアは売れています。しかし、彼らはアウトドアには行っていないんですね。あくまでもそれを着て街を歩いているだけです。要するにカジュアルファッションですね。
今の若者たちの 「クルマ離れ」 がよく話題になりますが、若者たちの間には 「自然離れ」 も進行しています。
たとえば、かつて若者に人気のあった登山。山に向かう若者は大きく減少しています。
大学の山岳部あるいは、ワンダーフォーゲルといったクラブ活動は停滞していて、まさに 「開店休業」 状態です。
かつて登山の名門といわれた大学の山岳部でも、今や新入部員は1人か2人。
笑い話のようですが、そのトラの子の新人が辞めないように、先輩たちはその新人に軽い荷物を背負わすなど、腫れ物にさわるような扱いをしています。
同じように、15年ほど前は空前のブームを巻き起こしていたスキーも、凋落の一途をたどっています。
例えば、最盛期のスキー板の流通量は、200数十万台を記録していました。しかし、今年は30万台を切るのではないかといわれています。この14~15年で10分の1近くに落ちているわけです。
一方で、若者の間にスノーボードが広まって、一時はこれが若者たちの新しいウィンタースポーツになると期待されていたのですが、今はそのスノーボードも減少の一途をたどっています。
オートキャンプに関しても、「オートキャンプ白書」 などを見ると、最も盛んだった'98年には1,306万人のキャンプ人口を誇っていましたが、'07年度はその半分の720万人です。しかも、その中で20代のキャンプ人口は5.2パーセントしかおりません。
このような状況を見ると、「クルマ」 と 「自然」 をコンセプトとしているキャンピングカーの場合、とてもゆゆしき事態が起こっているといえるのかもしれません。
《 中高年の登山ブームが消え去る日? 》
このような若い世代を中心にアウトドア離れが進行している中で、唯一アウトドア・アクティビィティが活発なのは、中高年の山歩きですね。
山歩きは、健康のため、仲間つくり、自己啓発、旅などの要素を満足させるのには、格好の行為です。歩くだけなら、だれにでも簡単にできるわけです。
去年の夏、富士山に登った人たちの数が前年より20パーセント伸びて、24万人の登山客を記録しました。
これは、メディアが自然遺産として採り上げたという効果が大きかったのですが、なんといっても日本人なら一度は登ってみたいのが富士山です。中高年の嗜好にフィットしたからだろうと思います。これには若い人たちも大勢登っています。
しかし、問題があります。彼らは富士山に登った後、山歩きを継続するのかというと、そうではない。
一度富士山に登ってしまえば、それで終わりなんですね。富士登山も観光的なアクティビティになっていて、一過性の感が強い。
結局、「なぜ山に登るのか」 というアウトドア・アクティビィティを支えるフィロソフィー (哲学) が確立されていないのです。だから、メディアに採り上げられた 「富士山」 には登るけれど、登山一般に興味を持つわけではない。
もちろん富士山以外の山々にも、中高年の方は登っています。東京の高雄山などは、今やシニア登山のメッカのようになっています。
しかし、「山に登る」 あるいは 「自然に親しむ」 という基本的なフィロソフィーが根づいていないため、ブームが去れば、一気にしぼんでいく可能性があります。
こうして見てくると、いまアウトドアズを支えているのは、山歩きを楽しむ中高年だけだという非常に寂しい現状が浮き彫りにされてきます。
そうなると、この山歩きをしている中高年たちがリタイヤした後、日本のアウトドア文化やアウトドアマーケットはいったいどうなるのか。このままでは、何も残らないのではないかと心配しています。
日本RV協会さんの出された 『キャンピングカー白書2008』 を読ませていただきました…非常によくまとまった白書であるとは思いましたけれど、結局、ここでレポートされている内容も、「中高年」 「温泉」 「道の駅」 という三つのキーワードに集約されるだけで、その後の展望が見えて来ない。
この白書からも、今後 「中高年」 が抜けたらどうなるだろう…という先行き不透明性感が漂うことは否めません。
アウトドアライフを楽しむ層が脆弱になってくれば、当然、用品などの開発力、そして購買力も落ちてきます。
今月の末、アメリカのソルトレイクシティで、全米最大ともいわれるアウトドアショーがあります。
そこには、アウトドアマーケットに商品を供給する用品メーカーがおよそ850社も出展します。そして世界各国から1万5,000人を超えるバイヤーたちが集まってきます。
こういう大きなショーにもかかわらず、参加する日本企業は数えるほどしかない。
これは今の日本には、世界に通用するアウトドアのブランド力を持っているところが少ないということなんですね。
つまり、世界の人々の好奇心を集めるようなアウトドア文化が創造されていない。発信するものが少ない。自分たちの自己評価も低いし、海外からも評価されるようなものが少ない。それが、日本のアウトドア産業の現状だと思います。
《 海外でアウトドア活動が活発な理由 》
では、世界のアウトドアシーンはどうなっているのでしょうか。まずアメリカです。
アメリカという国は、今や金融不安を撒き散らした元凶の国として、かなり評判を落としていますが、この国で信用できると思えるものが、私の知っている限り、少なくとも二つあります。
ひとつは、この国のアウトドアズ。
もうひとつは、国立公園の保護活動です。
特に、アメリカのアウトドアズというのは、非常にストロングです。コンテンツもしっかりしているし、哲学がある。そして、そのようなアウトドア哲学・思想によってアメリカの国立公園はしっかり守られています。
アメリカ人というのは、幌馬車の時代から野外生活の伝統をつちかってきましたから、アウトドアズが思想にまで結実し、国家の基本理念のひとつとして確立されています。
彼らは、人間が自然から学ぶべきことがいっぱいあるということを理解しています。
だから、例えば両親が子どもを連れて、長期間バックパッキングなどをしている間は、学校に行かなくても親が、学校の代わりに教えることができます。
つまり、アウトドアズも教育の一環であるということが広く認識されている。だから、彼らは、「学校の授業よりも自然の方が偉大な教師だ」 とはっきりと言います。
こういう国ですから、アメリカのアウトドア人口というのは1億6,000万人に達します。
そういう厚みを持った層が形成されてこそ、初めて 「マーケット」 といえるものが成立するわけですね。
彼らのアウトドアマーケットというのは、アウトドアズを 「教育」 の中にしっかり位置づけ、国をあげて取り組むという姿勢から生まれてきたといえるでしょう。
もうひとつ、フランスの例を見てみます。
ご存知のように、フランスという国は非常にバカンスが盛んです。夏などは多くの人がロングバケーションを取って、アウトドアズを楽しみます。
しかし、これは自然発生的にそうなったわけではないんですね。実は、しっかりした制度がそういうバカンスを支えています。
フランスには国民の余暇活動を支援するための、いわば 「指導者」 を育成する制度があります。
この指導者たちを 「アニマトゥール」 といいます。その多くは17歳から25歳くらいの青年で、およそ100時間くらいのトレーニングを受けてアニマトゥールの資格を取得し、子どもたちにアウトドアの手ほどきをします。フランスでは、このアニマトゥールが毎年4万人くらい誕生するといわれています。
夏になると、彼らは1週間から1ヶ月ぐらいのサマーキャンプに子どもたちを連れ出し、さまざまなアウトドアズの指導を行っています。
そして子どもたちがサマーキャンプに行っている間、夫婦水入らずの旅行を楽しみたい親たちは、自分たちだけの長距離旅行に出かける。
このように、フランス人たちのバカンスというものは、実は国家が整えたシステムによって実現されているわけです。
フランス革命の頃から、政治の世界においてはヨーロッパ随一の先進国であったフランスは、国民の余暇に関しても先見性があったんです。
要するに、国民の “自由時間” を国家がコントロールして、「余暇」 という分野で産業を創出し、雇用を発生させることに早くから成功していました。
彼らのロングバケーションというのは、このようなしっかりした、社会的基盤の上に形成されているわけです。
(次回へ続く)
※ 次回は、このような諸外国の動きをにらみながら、日本の政府や行政がどのような対応を開始したか。また、そのような行政側の動きに対して、キャンピングカー業界、アウトドア業界はどういう反応を示せばいいのかということをお届けします。
続き 「日本のアウトドアの考察 2」
2009年01月23日
犬はパートナー
「ペット」 というと、まず犬か猫。
その次が金魚、小鳥。
ときどきウサギかブタ。
最近はヘビ、トカゲという、首がニュルッと回る系も増えているようだけど、そういうのは逃げ出した時が大変そうに思える。
飼っていたヘビが隣りの家に逃げ込んだとしても、まず、無事に返してもらえるかどうか。
フトン叩きでめっちゃくちゃに叩かれ、哀れ、きしめん状になっていそうな気もする。
ワニなんかお風呂場で飼おうものなら、飼い主はいつお風呂に入るのよ? って感じになるだろうし…。
やっぱ無難なのは犬・猫のたぐい。
ペットのキング格は 「犬」 で、「猫」 がクィーン格という基本は揺るがない。
キャンピングカーユーザーはけっこうペットが好きだ。
旅行するときに、ペット連れで泊まれるホテルや旅館が少ないということで、キャンピングカーを購入する人もいる。

キャンプ場などに宿泊したとき、隣のサイトもキャンピングカーだった場合、お互いにペットがいれば、まずペットの話から交流が始まる。
そして仲良くなって、お互いがそれぞれのペットの居場所を覗かせてもらうことになるのだが、多くの場合、人間より立派なスペースをもらっていることが多い。
高級輸入キャンピングカーを販売しているお店で、こんな話を聞いたことがある。
「冬はペットが可哀想だからということで、床暖房のクルマを購入されたお客様もいらっしゃいました」
う~む…。うらやましいペットだ。
そのペットがどんな動物かは聞き漏らしたが、温かい部屋を好む生き物となれば、ペンギン、シロクマのたぐいでなさそうだ。
ということからも想像できるとおり、キャンピングカーユーザーのペット普及率は、一般的な所帯に比べると、若干高めである。
日本人家庭の平均的ペット保有率は 30.1パーセントだが、キャンピングカーユーザーの場合は 38.3パーセント (キャンピングカー白書2008) だそうな。
また、ユーザーの年齢が上がってくるに従ってペット普及率も増える。
『オートキャンプ白書』 によると、キャンパー全体のペット保有率は 21.4パーセントにとどまるが、50歳代だけ取り出してみると、その保有率は 44.3パーセントに上昇。さらに60歳代では 50.0パーセントに跳ね上がるのだそうだ。
子育てを終え、キャンピングカーで夫婦2人の旅を楽しむような人たちにとっては、ペットは子供の “替わり” なのだろう。
ところで、犬と猫のペット比率はどちらが高いのか?

ペットフード工業会が2007年に調査した 「犬猫飼育率調査」 によると、犬を飼っている所帯率は 18.9パーセント。
猫の所帯率は 11.2パーセントで、やはり犬の方がちょっと高い。
犬を飼う人々は日増しに増え続け、2,000年に1,000万頭だった犬は、2007年には 1,250万頭に達したという。
日本では、人間が少子化に向かっているというのに、犬の躍進は目覚ましい。
犬には、人間の幼児の2~3歳程度の知能があるらしいので、そのうち犬を労働資源として活用しようという動きが活発化するかもしれない。
すでに 「介護犬」 として訓練されている犬がいっぱいいるから、次に養成されるのは 「買い物犬」 だろう。
高齢化社会が到来して、飼い主たちの体が思うように動かなくなってくると、日本全国のスーパーやコンビニは、「ネギ」 「醤油」 などというメモを首輪のところに挟み、買い物袋を首から垂らした犬たちで溢れかえることが予想される。
もっとも、専門家の見方によると、注文主の頼んだ商品がそのまま家まで満足に届けられる確率は、期待できる数値に届かないという。
「トンカツ」 「コロッケ」 などを買って帰る犬たちのうち、はたして何頭が、途中で味見したくなる誘惑を抑えて飼い主のところまで食料品を届けられるか。
彼らの “克己心” との勝負となる。
これからの時代は、犬も、おのれの欲望に負けない心の鍛錬を積んでいかないと、生きづらい世の中になっていくのかもしれない。
ところで、彼ら犬たちは、人間社会をどう見ているのだろう。
九州でキャンピングカービルダーを営まれている池田健一さんから、犬をテーマにした最新エッセイが送られてきた。
そこには、犬の気持ちを知る上で、とても参考になる面白い考察が載せられている。
犬が飼い主を見つめるとき、その目に何が映っているのか。
彼らの精神は、何によって支えられているのか。
それを説き起こした名エッセイ 『答は風の中 39話 犬は人のパートナー』 。
とても面白いです!
まずご一読を (↓) 。
http://www.campingcar-guide.com/kaze/039/
その次が金魚、小鳥。
ときどきウサギかブタ。
最近はヘビ、トカゲという、首がニュルッと回る系も増えているようだけど、そういうのは逃げ出した時が大変そうに思える。
飼っていたヘビが隣りの家に逃げ込んだとしても、まず、無事に返してもらえるかどうか。
フトン叩きでめっちゃくちゃに叩かれ、哀れ、きしめん状になっていそうな気もする。
ワニなんかお風呂場で飼おうものなら、飼い主はいつお風呂に入るのよ? って感じになるだろうし…。
やっぱ無難なのは犬・猫のたぐい。
ペットのキング格は 「犬」 で、「猫」 がクィーン格という基本は揺るがない。
キャンピングカーユーザーはけっこうペットが好きだ。
旅行するときに、ペット連れで泊まれるホテルや旅館が少ないということで、キャンピングカーを購入する人もいる。
キャンプ場などに宿泊したとき、隣のサイトもキャンピングカーだった場合、お互いにペットがいれば、まずペットの話から交流が始まる。
そして仲良くなって、お互いがそれぞれのペットの居場所を覗かせてもらうことになるのだが、多くの場合、人間より立派なスペースをもらっていることが多い。
高級輸入キャンピングカーを販売しているお店で、こんな話を聞いたことがある。
「冬はペットが可哀想だからということで、床暖房のクルマを購入されたお客様もいらっしゃいました」
う~む…。うらやましいペットだ。
そのペットがどんな動物かは聞き漏らしたが、温かい部屋を好む生き物となれば、ペンギン、シロクマのたぐいでなさそうだ。
ということからも想像できるとおり、キャンピングカーユーザーのペット普及率は、一般的な所帯に比べると、若干高めである。
日本人家庭の平均的ペット保有率は 30.1パーセントだが、キャンピングカーユーザーの場合は 38.3パーセント (キャンピングカー白書2008) だそうな。
また、ユーザーの年齢が上がってくるに従ってペット普及率も増える。
『オートキャンプ白書』 によると、キャンパー全体のペット保有率は 21.4パーセントにとどまるが、50歳代だけ取り出してみると、その保有率は 44.3パーセントに上昇。さらに60歳代では 50.0パーセントに跳ね上がるのだそうだ。
子育てを終え、キャンピングカーで夫婦2人の旅を楽しむような人たちにとっては、ペットは子供の “替わり” なのだろう。
ところで、犬と猫のペット比率はどちらが高いのか?
ペットフード工業会が2007年に調査した 「犬猫飼育率調査」 によると、犬を飼っている所帯率は 18.9パーセント。
猫の所帯率は 11.2パーセントで、やはり犬の方がちょっと高い。
犬を飼う人々は日増しに増え続け、2,000年に1,000万頭だった犬は、2007年には 1,250万頭に達したという。
日本では、人間が少子化に向かっているというのに、犬の躍進は目覚ましい。
犬には、人間の幼児の2~3歳程度の知能があるらしいので、そのうち犬を労働資源として活用しようという動きが活発化するかもしれない。
すでに 「介護犬」 として訓練されている犬がいっぱいいるから、次に養成されるのは 「買い物犬」 だろう。
高齢化社会が到来して、飼い主たちの体が思うように動かなくなってくると、日本全国のスーパーやコンビニは、「ネギ」 「醤油」 などというメモを首輪のところに挟み、買い物袋を首から垂らした犬たちで溢れかえることが予想される。
もっとも、専門家の見方によると、注文主の頼んだ商品がそのまま家まで満足に届けられる確率は、期待できる数値に届かないという。
「トンカツ」 「コロッケ」 などを買って帰る犬たちのうち、はたして何頭が、途中で味見したくなる誘惑を抑えて飼い主のところまで食料品を届けられるか。
彼らの “克己心” との勝負となる。
これからの時代は、犬も、おのれの欲望に負けない心の鍛錬を積んでいかないと、生きづらい世の中になっていくのかもしれない。
ところで、彼ら犬たちは、人間社会をどう見ているのだろう。
九州でキャンピングカービルダーを営まれている池田健一さんから、犬をテーマにした最新エッセイが送られてきた。
そこには、犬の気持ちを知る上で、とても参考になる面白い考察が載せられている。
犬が飼い主を見つめるとき、その目に何が映っているのか。
彼らの精神は、何によって支えられているのか。
それを説き起こした名エッセイ 『答は風の中 39話 犬は人のパートナー』 。
とても面白いです!
まずご一読を (↓) 。
http://www.campingcar-guide.com/kaze/039/
2009年01月22日
不況時代のRV
「クルマが売れない」 と言われる時代。
しかも、“百年に一度” といわれる大不況。
キャンピングカー (RV) を販売している会社の経営者たちは、どんな気持ちでいるのだろうか。
大手キャンピングカー販売店 「キャンピングカーランド」 の社長を務める増田英樹さん (前 日本RV協会会長・レクビィ会長) とお会いする機会があったので、雑談かたがた、この不況時代をどう見ているのかというお話をうかがってみた。

《 キャンピングカーは生き延びられるか 》
【町田】 いま “百年に一度” の大不況といわれ、しかも自動車販売がかつてないほど冷え込んでしまっているわけですね。
そうなると、「キャンピングカーなんか遊びのクルマだから、さらに売れないだろう」 と予測する人々も出てきそうですが、ずばりどう思われますか?
【増田】 今その話をうちの社員などにすると、みんなしぼんじゃうので、僕はあまりそういう話は、社員の前ではしないんですよ。
僕が話さなくても時代の厳しさなんてニュースを見ていれば分かるだろうし、社長が朝礼を開いて、「さぁ、厳しい時代を乗り切るためには身を引き締めて…」 なんて演説ぶち始めたら、みんな凍りついちゃうと思うのね。
【町田】 じゃ社員の方々にはどういう指示を?
【増田】 この前、全員会議をやったんですけど、そのときどういう話をしたかというとね、
「僕は25年商売をやってきて、バブルも経験したし、バブルの崩壊も経験した。残念ながらバブルには乗れずに儲からなかったが、代わりにバブルが弾けても崩れもしなかった。
ここ数年、世の中は再び好景気に沸いた。それが第二のバブルだとしたら、それが崩れても、この業界は心配ないんだ」 と。
もちろん、これだけ景気が悪化したら、どんな業界でも苦しいことには変わりなくて、われわれの販売も相当苦戦を強いられることは間違いないけれど、それでもキャンピングカーは、ピンチをチャンスに変える可能性を持っていると思うんですよ。
【町田】 具体的には、どういうことですか?
【増田】 キャンピングカーって、「物」 じゃないんですよ。「物」 として扱ってしまうと、「じゃ、要らないから手放そう」 となってしまう。
しかし、キャンピングカーは 「物」 ではなくて、「価値」 なのね。価値である限り、人間は手放すことができない。
つまり、人間にこれからの時代をどう生きたらいいのか。それを提案してくれる商品だろうし、人間関係が壊れていきそうな社会の中で 「人のつながり」 、「家族の温かみ」 を約束してくれるクルマだろうと思っているんですよ。

《 不況は地球の命を延ばした? 》
【町田】 「これからの時代をどう生きたらいいのか」 という課題に対し、キャンピングカーが教えてくれるものって何でしょう?
【増田】 今の世界的な不況をどう捉えるか、という問題と関連するんですけれど、従来どおり 「経済成長」 を目的とする視点で見てしまうと、とんでもないマイナスですよね。
しかし、地球温暖化を促進する二酸化炭素 (CO2) の排出を抑制することに視点を合わせると、違った見え方も出てくるでしょ。
二酸化炭素の排出量を少なくする、…いわゆる 「低炭素社会」 ですよね。いつかは、人類はそういう社会を目指さねばならないのだし、限られた石油資源を大切に扱い、かつ石油に替わるエネルギー資源の開発速度を早めるためにもね、今回の “世界不況” は、意味のないことではない、と思っているんですよ。

【町田】 確かに、企業はモノが売れないことで悩みもがいて、メーカーは減産につぐ減産を行ってきているけれど、その分 「低炭素化」 は進み、資源も温存された…と。
皮肉だけれど、どちらが人間にとっていいのか、判断のむずかしいところですね。
【増田】 もちろん、低炭素化社会の実現と産業の振興というのは、国家や企業が真剣に取り組む問題でしょうけれど、僕ら消費者だって、日常生活のなかでそういう問題を考える必要があるよね。
そういうことはキャンピングカーから学べる。
【町田】 なるほど! キャンピングカーって 「贅沢なクルマ」 だと思われがちですけれど、使ってみると分かるんですが、あれほど 「無駄を省け!」 とやかましく訴えてくるクルマって、他にないですものね。
タンクに積んだ水だって無尽蔵ではない。だから歯を磨きながら、蛇口を閉める。
電気を使うときも、常にバッテリーの状況をチェックしなければならないし、ガスだっていつも充填を意識していなければならない。
ホントにキャンピングカーは、低炭素社会を生き抜くときのいい 「教材」 になりますね。

《 リユースとリフォームの時代 》
【増田】 でしょ。…それに、キャンピングカーそのものが、「使い捨て」 ではなくて、「リユース」 を促進するような特徴を持っているんですね。
キャンピングカーって、1台のサイクルがだいたい10年~15年ぐらいだと言われているんですよ。走るよりも滞在型のクルマなので、走行距離がそんなに伸びない。
そのため駆動系の傷みが遅い。
だから、家具のニスを塗り直すとか、シートや壁を張り替えるという作業を加えれば、長く乗り続けることができるんですね。
もちろん、新車が売れてくれた方が僕らにとってはありがたいけれど、乗用車メーカーのように、毎日ラインに乗って何千台と出荷される商品ではないので、在庫調整の幅を持てる。
また、乗用車メーカーさんにはできないけれど、僕らは、ユーザーさんが今乗っているクルマの 「リフォーム部門」 を充実させるというビジネスモデルも構築できるしね。

【町田】 確かに、リユース、リフォームという考え方は大事ですよね。今まではあまりにも 「使い捨て文化」 が蔓延し過ぎていましたものね。
【増田】 そう。たとえば、トースターとか電子レンジ、冷蔵庫のような一般的な家電だって、まだ十分使えるにもかかわらず、どんどん使い捨てにして、新しい製品に買い替えてきたわけですよね。
今は、そういう消費構造を問い直すいい時期だと思うんですよ。
【町田】 いつ頃からか、自動車も家電も、ちょっと不具合が出るとアッセンブリー交換が主流になっていましたものね。
【増田】 そうですね。…結局、人件費が高くなっちゃったからでしょうね。修理するとなると、専門家が出向いて、時間をかけて調べて、不具合なパーツを取り出して交換する。
それだと、ものすごく無駄な時間と労力が生まれる。
…というわけで、ユニットごと交換しちゃえば安いし楽だ、という発想が生まれてきたわけですね。
だけど、それって 「100のパーツの中の一つがダメになっただけで、正常に機能している残りの99を捨ててしまう」 ということになるわけでしょ。
【町田】 すごい資源の無駄使いですよね。

【増田】 幸いキャンピングカーはほとんど手作り商品なので、ブラックボックスのようなものがないんですよ。だから修理するときも、それほど無駄なものが出ない。
【町田】 構造的にも 「低炭素社会」 に適合する商品というわけですね。
《 豊かな社会を実現した江戸時代 》
【増田】 結局、働き過ぎて余剰なものをつくり過ぎてしまい、その余剰なものをさばくために、さらに歯を食いしばって売らねばならない…という労働サイクルを見直す時期に来たんでしょうね。
日本人は今は8時間労働が当たり前になって、さらにサービス残業などを繰り返して10時間を超える労働に勤しんでいますけれど、江戸時代に働いていた大工さんとか職人さんとかの労働時間というのは、だいだい4~5時間だといわれているんですよ。
武士だって、3日に1日お城務めすれば、後は 「精神修養」 といって家で読書したり、「武芸の鍛錬」 とかいって、木刀振ってスポーツしているだけなんです。

【町田】 江戸時代の人々は、「何時になったから何をしよう」 という意識などもっていなかったといいますよね。
ある意味、気ままに自分の時間を決めていた。
確かに、生産性は低かったかもしれないけれど、精神性は豊かだったという見方ができますね。
【増田】 そうですよね。「江戸時代」 というと、今までは産業も文化もドロンと停滞していた時代だと思われがちでしたけれど、300年も平和が続いた国なんて、あの当時、世界のどこにもなかったわけで、そのおかげで、ものすごく文化的には洗練されたわけでしょ。
【町田】 浮世絵みたいに、世界のアートを刺激するほどの文化が生まれたのも、平和が続いたことで、庶民の審美眼が研ぎ澄まされたことの結果ですものね。

【増田】 生け花、茶道、剣道。今にも残る日本文化というのは、みなあの時代に熟成したものだもんね。
今 「持続できる社会」 という意味で、「ロハス」 という言葉を使いたがるけれど、江戸時代の方がよっぽどロハスですよ。
日本は、西洋が産業革命に振り回されていた時代に、すでに 「低炭素社会」 を実現していたのね。
《 若者のクルマ離れの意味 》
【町田】 で、今回の世界的な大不況は、日本人がそういうことを思い浮かべるいいチャンスになると?
【増田】 これからは1日4時間しか働かないとか、給料が20万だったら、そのうちの10万で生活していくとか。好むと好まざるにかかわらず、そういう生活に方向転換するように、神様がハンドルを切ったのではないかな。
確かにこの大不況は、人々の生活に閉鎖感も不安感ももたらしたけれど、一方では確実に、低酸素社会の実現に結びついたわけでしょ。
結果的にこの大不況は、地球破壊を2割ぐらいほど押し止めることになったように思うんですね。

【町田】 そういうふうに考えると、「若者のクルマ離れ」 とか 「モノを買わない若者」 というのも意味があることなのかしら?
【増田】 「物さえあれば豊かな人生を送れる」 という考え方が必ずしも正しくないことに、今の若い子たちは気づいたのかもしれないね。
たとえばね、若い子に 「これあげようか」 と言っても、今の子たちはものすごくシビアな価値観を持っていて、自分にとって必要のないものは、はっきり 「要らない」 っていうんですよ。
極端な話 「クルマをあげようか」 といっても、自分が乗らないと分かっていれば、「いいです」 と断ってくるのね。
彼らの物質欲の乏しさには驚かされるばかり。
団塊の世代といわれる僕たちの方が、まだモノやカネに対する執着心って強いよね。

【町田】 無意識のうちに、彼らは 「低炭素社会」 の到来に向けて準備していると?
【増田】 本当にそうかもしれないと思うことがあるんですよ。
明治のはじめに3千万人ぐらいだった日本の人口が、たった100年の間に1億人増えて、今では1億3千万人になったわけでしょ。
日本だけでなく、中国もロシアもこの100年のうちに、石油エネルギーを使って、二酸化炭素を放出する人々の数を何倍も増やしてしまったわけですね。
こういう地球が持つわけないんでね。
だから、日本の若者の物質欲が薄れてきたり、さらに世界に率先して少子化になってきたりという現象は、むしろ人類が生き延びるための智恵だったりするのかもしれない。
【町田】 少子化を 「滅びへの第一歩」 と捉える人の方が多いですけどね。
【増田】 だけど、生命の遺伝子情報には、すべて 「生きのびよ」 という “盲目的な意志” が書き込まれているわけだから、少子化といったって、それは 「人類」 が滅亡するためのシナリオとは限らないじゃないですか。
むしろ生き延びるためには、「少子化」 という選択肢も必要だということなのかもしれない。
とにかく、これからの社会では、今までプラスが当たり前と思われていたものの多くがマイナスに転じていくことを覚悟しなければならないでしょうね。
人口も減る。所得も減る。お父ちゃんの小づかいも減る。マグロも食べられなくなるとかね (笑) 。
《 文化にお金を払う時代 》
【町田】 そのマイナスを 「苦痛」 だと思ってはいけないと…。
【増田】 そう。経済成長が全体的に鈍化したとしても、文化的な産業は伸びる可能性があるわけで、江戸時代の人々はそれを実践していたわけでしょ。
彼らは不動産や株に投資しなくても、歌舞伎の観賞や祭りにはふんだんにお金を使っていたわけで、「粋」 っていう精神構造はそこから生まれてきたんだものね。

【町田】 そうですよね。これからは 「何にお金を使うか」 ということで、その人の価値観とか存在感が問われるようになるんでしょうね。
【増田】 だから 「キャンピングカーの出番」 なんですよ。
なんたって、キャンピングカーのメインコンセプトは、「自然の中でゆっくりくつろぐ」 ところにあるわけでしょ。
そういう自然に親しむ生活の中から、低炭素社会へ向かう筋道が思い浮かんでくるわけですよね。
この前、アウトドア・ジャーナリストの中村達 (とおる) さんという方の講義を受けたんですけれど、その人が言うには、「自然を大事にする」 とか 「自然に親しむ」 というのは、もう子供のときの教育がすべてなんだってね。

【町田】 分かりますね。キャンプ好きのお父さんの子供は、キャンプ好きになる。
【増田】 僕だって、キャンピングカーの仕事に携わるようになったのは、子供の頃にボーイスカウトに入って、自然と親しんできたからなんですよ。
結局 「木々の緑は美しいよね」 というような審美眼は、親が子供に実物の木々を指差すことによって形成されるんですね。
…ということはね、もうキャンピングカーって 「文化」 なんですよ。子供の感受性を刺激するための教育装置なのね。
【町田】 大人同士だって、生まれ変わりますよね。シニア夫婦だってキャンピングカーに乗って、山の温泉やキャンプ場に行って、心ゆくまで自然を楽しんだりすれば、お互いが相手を 「かけがいのない者」 として見直すことができるようになりますよね。
【増田】 夫婦の絆を生む 「装置」 ね。まさに 「文化」 とはそういうことをいうんだろうね。
関連記事 「江戸再発見とRV」
しかも、“百年に一度” といわれる大不況。
キャンピングカー (RV) を販売している会社の経営者たちは、どんな気持ちでいるのだろうか。
大手キャンピングカー販売店 「キャンピングカーランド」 の社長を務める増田英樹さん (前 日本RV協会会長・レクビィ会長) とお会いする機会があったので、雑談かたがた、この不況時代をどう見ているのかというお話をうかがってみた。
《 キャンピングカーは生き延びられるか 》
【町田】 いま “百年に一度” の大不況といわれ、しかも自動車販売がかつてないほど冷え込んでしまっているわけですね。
そうなると、「キャンピングカーなんか遊びのクルマだから、さらに売れないだろう」 と予測する人々も出てきそうですが、ずばりどう思われますか?
【増田】 今その話をうちの社員などにすると、みんなしぼんじゃうので、僕はあまりそういう話は、社員の前ではしないんですよ。
僕が話さなくても時代の厳しさなんてニュースを見ていれば分かるだろうし、社長が朝礼を開いて、「さぁ、厳しい時代を乗り切るためには身を引き締めて…」 なんて演説ぶち始めたら、みんな凍りついちゃうと思うのね。
【町田】 じゃ社員の方々にはどういう指示を?
【増田】 この前、全員会議をやったんですけど、そのときどういう話をしたかというとね、
「僕は25年商売をやってきて、バブルも経験したし、バブルの崩壊も経験した。残念ながらバブルには乗れずに儲からなかったが、代わりにバブルが弾けても崩れもしなかった。
ここ数年、世の中は再び好景気に沸いた。それが第二のバブルだとしたら、それが崩れても、この業界は心配ないんだ」 と。
もちろん、これだけ景気が悪化したら、どんな業界でも苦しいことには変わりなくて、われわれの販売も相当苦戦を強いられることは間違いないけれど、それでもキャンピングカーは、ピンチをチャンスに変える可能性を持っていると思うんですよ。
【町田】 具体的には、どういうことですか?
【増田】 キャンピングカーって、「物」 じゃないんですよ。「物」 として扱ってしまうと、「じゃ、要らないから手放そう」 となってしまう。
しかし、キャンピングカーは 「物」 ではなくて、「価値」 なのね。価値である限り、人間は手放すことができない。
つまり、人間にこれからの時代をどう生きたらいいのか。それを提案してくれる商品だろうし、人間関係が壊れていきそうな社会の中で 「人のつながり」 、「家族の温かみ」 を約束してくれるクルマだろうと思っているんですよ。
《 不況は地球の命を延ばした? 》
【町田】 「これからの時代をどう生きたらいいのか」 という課題に対し、キャンピングカーが教えてくれるものって何でしょう?
【増田】 今の世界的な不況をどう捉えるか、という問題と関連するんですけれど、従来どおり 「経済成長」 を目的とする視点で見てしまうと、とんでもないマイナスですよね。
しかし、地球温暖化を促進する二酸化炭素 (CO2) の排出を抑制することに視点を合わせると、違った見え方も出てくるでしょ。
二酸化炭素の排出量を少なくする、…いわゆる 「低炭素社会」 ですよね。いつかは、人類はそういう社会を目指さねばならないのだし、限られた石油資源を大切に扱い、かつ石油に替わるエネルギー資源の開発速度を早めるためにもね、今回の “世界不況” は、意味のないことではない、と思っているんですよ。
【町田】 確かに、企業はモノが売れないことで悩みもがいて、メーカーは減産につぐ減産を行ってきているけれど、その分 「低炭素化」 は進み、資源も温存された…と。
皮肉だけれど、どちらが人間にとっていいのか、判断のむずかしいところですね。
【増田】 もちろん、低炭素化社会の実現と産業の振興というのは、国家や企業が真剣に取り組む問題でしょうけれど、僕ら消費者だって、日常生活のなかでそういう問題を考える必要があるよね。
そういうことはキャンピングカーから学べる。
【町田】 なるほど! キャンピングカーって 「贅沢なクルマ」 だと思われがちですけれど、使ってみると分かるんですが、あれほど 「無駄を省け!」 とやかましく訴えてくるクルマって、他にないですものね。
タンクに積んだ水だって無尽蔵ではない。だから歯を磨きながら、蛇口を閉める。
電気を使うときも、常にバッテリーの状況をチェックしなければならないし、ガスだっていつも充填を意識していなければならない。
ホントにキャンピングカーは、低炭素社会を生き抜くときのいい 「教材」 になりますね。
《 リユースとリフォームの時代 》
【増田】 でしょ。…それに、キャンピングカーそのものが、「使い捨て」 ではなくて、「リユース」 を促進するような特徴を持っているんですね。
キャンピングカーって、1台のサイクルがだいたい10年~15年ぐらいだと言われているんですよ。走るよりも滞在型のクルマなので、走行距離がそんなに伸びない。
そのため駆動系の傷みが遅い。
だから、家具のニスを塗り直すとか、シートや壁を張り替えるという作業を加えれば、長く乗り続けることができるんですね。
もちろん、新車が売れてくれた方が僕らにとってはありがたいけれど、乗用車メーカーのように、毎日ラインに乗って何千台と出荷される商品ではないので、在庫調整の幅を持てる。
また、乗用車メーカーさんにはできないけれど、僕らは、ユーザーさんが今乗っているクルマの 「リフォーム部門」 を充実させるというビジネスモデルも構築できるしね。
【町田】 確かに、リユース、リフォームという考え方は大事ですよね。今まではあまりにも 「使い捨て文化」 が蔓延し過ぎていましたものね。
【増田】 そう。たとえば、トースターとか電子レンジ、冷蔵庫のような一般的な家電だって、まだ十分使えるにもかかわらず、どんどん使い捨てにして、新しい製品に買い替えてきたわけですよね。
今は、そういう消費構造を問い直すいい時期だと思うんですよ。
【町田】 いつ頃からか、自動車も家電も、ちょっと不具合が出るとアッセンブリー交換が主流になっていましたものね。
【増田】 そうですね。…結局、人件費が高くなっちゃったからでしょうね。修理するとなると、専門家が出向いて、時間をかけて調べて、不具合なパーツを取り出して交換する。
それだと、ものすごく無駄な時間と労力が生まれる。
…というわけで、ユニットごと交換しちゃえば安いし楽だ、という発想が生まれてきたわけですね。
だけど、それって 「100のパーツの中の一つがダメになっただけで、正常に機能している残りの99を捨ててしまう」 ということになるわけでしょ。
【町田】 すごい資源の無駄使いですよね。
【増田】 幸いキャンピングカーはほとんど手作り商品なので、ブラックボックスのようなものがないんですよ。だから修理するときも、それほど無駄なものが出ない。
【町田】 構造的にも 「低炭素社会」 に適合する商品というわけですね。
《 豊かな社会を実現した江戸時代 》
【増田】 結局、働き過ぎて余剰なものをつくり過ぎてしまい、その余剰なものをさばくために、さらに歯を食いしばって売らねばならない…という労働サイクルを見直す時期に来たんでしょうね。
日本人は今は8時間労働が当たり前になって、さらにサービス残業などを繰り返して10時間を超える労働に勤しんでいますけれど、江戸時代に働いていた大工さんとか職人さんとかの労働時間というのは、だいだい4~5時間だといわれているんですよ。
武士だって、3日に1日お城務めすれば、後は 「精神修養」 といって家で読書したり、「武芸の鍛錬」 とかいって、木刀振ってスポーツしているだけなんです。
【町田】 江戸時代の人々は、「何時になったから何をしよう」 という意識などもっていなかったといいますよね。
ある意味、気ままに自分の時間を決めていた。
確かに、生産性は低かったかもしれないけれど、精神性は豊かだったという見方ができますね。
【増田】 そうですよね。「江戸時代」 というと、今までは産業も文化もドロンと停滞していた時代だと思われがちでしたけれど、300年も平和が続いた国なんて、あの当時、世界のどこにもなかったわけで、そのおかげで、ものすごく文化的には洗練されたわけでしょ。
【町田】 浮世絵みたいに、世界のアートを刺激するほどの文化が生まれたのも、平和が続いたことで、庶民の審美眼が研ぎ澄まされたことの結果ですものね。
【増田】 生け花、茶道、剣道。今にも残る日本文化というのは、みなあの時代に熟成したものだもんね。
今 「持続できる社会」 という意味で、「ロハス」 という言葉を使いたがるけれど、江戸時代の方がよっぽどロハスですよ。
日本は、西洋が産業革命に振り回されていた時代に、すでに 「低炭素社会」 を実現していたのね。
《 若者のクルマ離れの意味 》
【町田】 で、今回の世界的な大不況は、日本人がそういうことを思い浮かべるいいチャンスになると?
【増田】 これからは1日4時間しか働かないとか、給料が20万だったら、そのうちの10万で生活していくとか。好むと好まざるにかかわらず、そういう生活に方向転換するように、神様がハンドルを切ったのではないかな。
確かにこの大不況は、人々の生活に閉鎖感も不安感ももたらしたけれど、一方では確実に、低酸素社会の実現に結びついたわけでしょ。
結果的にこの大不況は、地球破壊を2割ぐらいほど押し止めることになったように思うんですね。
【町田】 そういうふうに考えると、「若者のクルマ離れ」 とか 「モノを買わない若者」 というのも意味があることなのかしら?
【増田】 「物さえあれば豊かな人生を送れる」 という考え方が必ずしも正しくないことに、今の若い子たちは気づいたのかもしれないね。
たとえばね、若い子に 「これあげようか」 と言っても、今の子たちはものすごくシビアな価値観を持っていて、自分にとって必要のないものは、はっきり 「要らない」 っていうんですよ。
極端な話 「クルマをあげようか」 といっても、自分が乗らないと分かっていれば、「いいです」 と断ってくるのね。
彼らの物質欲の乏しさには驚かされるばかり。
団塊の世代といわれる僕たちの方が、まだモノやカネに対する執着心って強いよね。
【町田】 無意識のうちに、彼らは 「低炭素社会」 の到来に向けて準備していると?
【増田】 本当にそうかもしれないと思うことがあるんですよ。
明治のはじめに3千万人ぐらいだった日本の人口が、たった100年の間に1億人増えて、今では1億3千万人になったわけでしょ。
日本だけでなく、中国もロシアもこの100年のうちに、石油エネルギーを使って、二酸化炭素を放出する人々の数を何倍も増やしてしまったわけですね。
こういう地球が持つわけないんでね。
だから、日本の若者の物質欲が薄れてきたり、さらに世界に率先して少子化になってきたりという現象は、むしろ人類が生き延びるための智恵だったりするのかもしれない。
【町田】 少子化を 「滅びへの第一歩」 と捉える人の方が多いですけどね。
【増田】 だけど、生命の遺伝子情報には、すべて 「生きのびよ」 という “盲目的な意志” が書き込まれているわけだから、少子化といったって、それは 「人類」 が滅亡するためのシナリオとは限らないじゃないですか。
むしろ生き延びるためには、「少子化」 という選択肢も必要だということなのかもしれない。
とにかく、これからの社会では、今までプラスが当たり前と思われていたものの多くがマイナスに転じていくことを覚悟しなければならないでしょうね。
人口も減る。所得も減る。お父ちゃんの小づかいも減る。マグロも食べられなくなるとかね (笑) 。
《 文化にお金を払う時代 》
【町田】 そのマイナスを 「苦痛」 だと思ってはいけないと…。
【増田】 そう。経済成長が全体的に鈍化したとしても、文化的な産業は伸びる可能性があるわけで、江戸時代の人々はそれを実践していたわけでしょ。
彼らは不動産や株に投資しなくても、歌舞伎の観賞や祭りにはふんだんにお金を使っていたわけで、「粋」 っていう精神構造はそこから生まれてきたんだものね。
【町田】 そうですよね。これからは 「何にお金を使うか」 ということで、その人の価値観とか存在感が問われるようになるんでしょうね。
【増田】 だから 「キャンピングカーの出番」 なんですよ。
なんたって、キャンピングカーのメインコンセプトは、「自然の中でゆっくりくつろぐ」 ところにあるわけでしょ。
そういう自然に親しむ生活の中から、低炭素社会へ向かう筋道が思い浮かんでくるわけですよね。
この前、アウトドア・ジャーナリストの中村達 (とおる) さんという方の講義を受けたんですけれど、その人が言うには、「自然を大事にする」 とか 「自然に親しむ」 というのは、もう子供のときの教育がすべてなんだってね。
【町田】 分かりますね。キャンプ好きのお父さんの子供は、キャンプ好きになる。
【増田】 僕だって、キャンピングカーの仕事に携わるようになったのは、子供の頃にボーイスカウトに入って、自然と親しんできたからなんですよ。
結局 「木々の緑は美しいよね」 というような審美眼は、親が子供に実物の木々を指差すことによって形成されるんですね。
…ということはね、もうキャンピングカーって 「文化」 なんですよ。子供の感受性を刺激するための教育装置なのね。
【町田】 大人同士だって、生まれ変わりますよね。シニア夫婦だってキャンピングカーに乗って、山の温泉やキャンプ場に行って、心ゆくまで自然を楽しんだりすれば、お互いが相手を 「かけがいのない者」 として見直すことができるようになりますよね。
【増田】 夫婦の絆を生む 「装置」 ね。まさに 「文化」 とはそういうことをいうんだろうね。
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2009年01月20日
母とのキャンプ
ひとつ心残りがあるとしたら、母をキャンピングカーの旅に連れて行ったことが、たった1回しかなかったことだ。

最初のキャンピングカーを買った頃、仕事が忙しくて休日も滅多に取れない時代だったから、たまに休みが取れると、まず 「カミさんと子ども」 という組み合わせになる。
“お祖母さんも一緒” となると、行く場所も、キャンプスタイルも大幅に変る。
当時、母は腸を手術して人工肛門を付けていたから、ケアする医療器具も必要となり、連泊もできない。
本人もそれを知っていたから、
「いいよ、いいよ。私はまたの日でいいから」
と、自分が負担になるのを嫌って、誘いにも応じなかった。
正直にいうと、それでホッとしたようなところもあった。
カミさんと子どもだけのキャンプなら気軽だけど、母が一緒となると、家族全員が気をつかう大掛かりなイベントになりそうな気がしたからだ。
しかし、さすがにそれじゃ可哀想と思い、ある日、カミさん・子ども抜きで、母だけ乗せて日帰りキャンプを試みた。
彼女は、キャンプというものがどんなものか知らない。
当日迎えに行くと、芝居でも観劇するときのようなピンクのワンピースを着て待っていた。
高速道路を使って2時間程度の近場のキャンプ場を選び、芝生のフリーサイトの上にキャンピングカーを止め、オーニングの下に椅子とテーブルを広げ、ささやかながらキャンプの真似事をした。

たぶん、母にとっては初めての “アウトドア” だったろう。
「いいねぇ、ありがたいね。こんな景色のところで過ごせるなんて」
あいにくの曇り日だったが、芝生の緑が連なる光景が、彼女の目をなごませたのだろう。
なんだか、後ろめたい気分になった。
カミさんと子どもだけで、そういう風景を独占していたことに、申し訳ない気がした。
パーコレーターを使って、コーヒーを煎れた。
車内のコンロでお湯を沸かせたが、わざわざ2バーナーを持ち出し、盛大に火を焚いた。
できるだけ、キャンプの雰囲気というものを伝えてやりたかったのだ。

一緒に座って、コーヒーを飲んでも、ことさら話す話題というものもない。
それでも、母はうれしそうにマグカップを支え、コーヒーをすすり、周りの景色を眺めていた。
「年取るとね、物がつかめないんだよ。指先の感覚がね、厚い手袋をはめている感じでね…」
大事そうにカップを抱え込んだのは、そういう事情からなのだろう。
もっと早く連れてきてやれば良かったな…。
そう思った。
座っているのに飽きたのか、母がキャンピングカーの周りを歩き始めた。
その背中が次第に遠ざかっていく。
花でも探しているようだ。
心は少女時代に戻っていたのかもしれない。
芝生の緑に映えて、ピンクのワンピースそのものが、花に見えた。

その母が死んで、今年でちょうど10年になる。
最初のキャンピングカーを買った頃、仕事が忙しくて休日も滅多に取れない時代だったから、たまに休みが取れると、まず 「カミさんと子ども」 という組み合わせになる。
“お祖母さんも一緒” となると、行く場所も、キャンプスタイルも大幅に変る。
当時、母は腸を手術して人工肛門を付けていたから、ケアする医療器具も必要となり、連泊もできない。
本人もそれを知っていたから、
「いいよ、いいよ。私はまたの日でいいから」
と、自分が負担になるのを嫌って、誘いにも応じなかった。
正直にいうと、それでホッとしたようなところもあった。
カミさんと子どもだけのキャンプなら気軽だけど、母が一緒となると、家族全員が気をつかう大掛かりなイベントになりそうな気がしたからだ。
しかし、さすがにそれじゃ可哀想と思い、ある日、カミさん・子ども抜きで、母だけ乗せて日帰りキャンプを試みた。
彼女は、キャンプというものがどんなものか知らない。
当日迎えに行くと、芝居でも観劇するときのようなピンクのワンピースを着て待っていた。
高速道路を使って2時間程度の近場のキャンプ場を選び、芝生のフリーサイトの上にキャンピングカーを止め、オーニングの下に椅子とテーブルを広げ、ささやかながらキャンプの真似事をした。
たぶん、母にとっては初めての “アウトドア” だったろう。
「いいねぇ、ありがたいね。こんな景色のところで過ごせるなんて」
あいにくの曇り日だったが、芝生の緑が連なる光景が、彼女の目をなごませたのだろう。
なんだか、後ろめたい気分になった。
カミさんと子どもだけで、そういう風景を独占していたことに、申し訳ない気がした。
パーコレーターを使って、コーヒーを煎れた。
車内のコンロでお湯を沸かせたが、わざわざ2バーナーを持ち出し、盛大に火を焚いた。
できるだけ、キャンプの雰囲気というものを伝えてやりたかったのだ。
一緒に座って、コーヒーを飲んでも、ことさら話す話題というものもない。
それでも、母はうれしそうにマグカップを支え、コーヒーをすすり、周りの景色を眺めていた。
「年取るとね、物がつかめないんだよ。指先の感覚がね、厚い手袋をはめている感じでね…」
大事そうにカップを抱え込んだのは、そういう事情からなのだろう。
もっと早く連れてきてやれば良かったな…。
そう思った。
座っているのに飽きたのか、母がキャンピングカーの周りを歩き始めた。
その背中が次第に遠ざかっていく。
花でも探しているようだ。
心は少女時代に戻っていたのかもしれない。
芝生の緑に映えて、ピンクのワンピースそのものが、花に見えた。
その母が死んで、今年でちょうど10年になる。
2009年01月15日
匈奴の話 4
【司会】 『歴史講座』 の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生のお話をうかがっております。
今日はその4回目として、シルクロード交易が生まれた背景と、遊牧文化が現代社会にもたらしたものなどについて語っていただくことにいたします。
それでは先生お願いします。
【町田】 はい、皆さまこんにちは。
さて、前回は、匈奴に対抗するためにですね、漢がユーラシアの西側に住む月氏 (げっし) という民族と軍事同盟を結ぼうというところまでお話したと思います。
で、その使者として張騫 (ちょうけん) という男が選ばれたわけですが、今日はこの張騫が漢にもたらしたものとは何であったのか、ということをお話することにいたしましょう。
月氏というのは、イラン系の人々といわれています。つまり、鼻が高く、目も青い人たちだったわけですね。
ですから、月氏の国に着いた張騫は、はじめてアジア系以外の民族と出会うことになります。

▲ 張騫
苦労に苦労を重ねてようやく月氏の国にたどり着いた張騫は、月氏の人々からとても親切にもてなしてもらうことができました。
けれども、月氏の方は、肝心の漢との軍事同盟の話だけには乗ってくれません。
月氏の王がいうには、
「そりゃ、昔は確かに匈奴は憎かったよ。しかし、だんだん月日が経ってくるとなぁ、恨みというのはやがて薄れるものじゃよ。
今、月氏はこの土地に来て民は愉快に暮らしておる。みんな匈奴と戦うよりも、今の平和な暮らしを続けることの方が大事なんじゃ。分かるかな? 張騫殿」
張騫が何度誘っても、月氏の答えは変わりませんでした。
張騫は仕方なく、中国に帰ることにします。
しかし、月氏の土地にいる間に、西域に関する様々な情報を手に入れます。
張騫はその情報を土産に、13年ぶりに武帝のいる長安に戻ってきます。
「なに? 漢の使者を勤めた張騫と名乗る男がお目通りを願っていると? 誰じゃそれは? いやぁ思い出したぞ。おうそうだった! 余が10数年前に月氏に使者として遣わした男だ。おお通せ! 通せ!」
武帝は、大喜びで張騫を迎え入れます。

▲ 武帝
「陛下、残念ながら月氏との同盟は結べませんでした。深くお詫び申し上げます」
「まぁよいよい。張騫よ、10年の間大儀であった。それよりいったい何があったんだ?」
張騫は匈奴に捕らえられたこと、そこから逃げ出したこと、そして月氏に行って今まで見たこともない、聞いたこともない物にたくさん出くわしたこと。そして、月氏の土地から、さらに西や南に広がる様々な国のことを武帝に話したのです。
武帝にとってはどれも初めて聞くことばかり。
しかも、張騫の話し方も上手だったのでしょう。その後張騫は毎晩武帝に招かれて、西域にまつわるいろいろなことを話すことになったわけですね。
この張騫の情報によって、中国人は西にはローマという大帝国があったり、南にはインドという広くて暑い国があるなど様々なことを知るようになります。
またこのとき、ナツメヤシとかキュウリ、葡萄酒などといった、中国の人々が口に入れたことがない食べ物や飲み物の情報ももたらされます。
しかし武帝を一番喜ばせたのは、西域に棲息する馬の情報でした。
なにしろ漢が匈奴に勝てない理由の一つが騎馬部隊の違いだったわけです。
匈奴の馬は、体は小さいのですが、そのかわり忍耐力が強く、粗食に耐え、よく走ります。
エサなども、人間が用意しなくても、放っておけば勝手に草原の草を食べてお腹を満たします。
それに対して、中国側にも騎馬部隊がいるのですが、中国の馬は走ることは早くても、持続力がない。食べ物も人が用意したエサしか食べない。これでは匈奴の騎馬隊に立ち向かうことはできません。
しかし張騫がいう西域の馬はどうもそれとは違うらしい。
「陛下。西域の馬は長距離を走り、力も強く、逞(たくま)しく、漢の馬よりも匈奴の馬よりも優れております。なんでも天馬の子孫とかいうことで、走った後は血の色をした汗をかきます」

▲ 血汗馬
血の汗というのが、どういうものかよく分かりませんが、記録には 「汗血馬」 という表現が残っています。
多分、今でいうアラブ馬みたいな馬だったんでしょうね。
この時代まだサラブレッドなどという馬はつくられていません。
サラブレッドというのはヨーロッパ人が、色々な速い馬をかけ合わせて人工的につくった馬ですから、それが生まれるまでは、アラブ馬が最高級の馬だったのでしょうね。
武帝は、その西域の汗血馬が欲しくて欲しくてたまらなくなりました。
「う~ん、その馬が欲しい! 陳 (ちん) はその馬を手に入れるぞよ」
こうして、張騫の話をきっかけに、漢と西域の間で、馬を手に入れるための交易ルートが開かれることになります。それがシルクロードの始まりともいえるでしょう。
やがて、西域の馬を手に入れた漢は、それに合わせて匈奴風の騎馬戦術を取り入れます。
匈奴風の騎馬戦術というのは、馬を走らせながら弓を射るという戦い方ですね。
これはなかなか慣れていないとできないことです。
しかし、匈奴の男たちは、生まれたばかりの頃から羊に跨って、ネズミを弓で討つ訓練をするぐらいですから、食べることも寝ることも、何でも馬の上でできてしまうわけですね。
で、この時代の乗馬術というのは、現代よりもっと高度な技術が要求されたわけですね。
どういうことかというと…専門的になってしまいますが…この時代にはまだ鐙 (あぶみ) というものが発明されていなかったわけですね。
鐙…。鐙というのはですね、鞍の下に吊るされているワッカのことですね。
そこに足を突っ込んで、姿勢を支えるわけです。これがないと、現代人は誰も馬に乗ることはできません。
しかし、昔はそれがなかったわけですね。
では、どうしていたか?
股に力を入れてですね、ギュっと馬の背中を締め付けていたわけですね。
これは凄い力がいるんです。
匈奴の人たちはそんな状態で弓を射ったり、刀を振るって突進したりしていたわけです。これには相当の訓練が必要だったことでしょう。

ま、そういう馬に慣れた兵士たちが、漢の歩兵部隊に全速力で向かってきて、一斉に矢を放つ。
漢の部隊が反撃に出ると、今度は一斉に逃げ散ってしまう。
で、漢の兵士が追うことに疲れてヘタリ始めると、まだ全速力で近づいてきて矢を放つ。
これが伝統的な遊牧民の戦い方で、弓と馬が基本になっているわけです。
しかも、それをこなすには幼い頃からの訓練の蓄積がいるわけですね。農耕しか経験のなかった漢の人々が長い間匈奴に勝てなかったのは、そういう理由もあったんですね。
しかし、やがて漢もですね、匈奴に対抗して、馬術と弓に優れた兵士たちを養成するようになります。
そして、服装も改めます。
なにしろ伝統的に中国の男はスカートのようにひらひらした着物を着ていたわけですね。軍隊も変わりありませんでした。
しかしそれじゃ馬に跨がれないというので、騎兵は全員が匈奴のようにズボンを履いて、バックルの付いたベルトを締めるようになります。この 「ズボン」 と 「バックルベルト」 というのも、遊牧文化がもたらしたものですね。
で、漢も匈奴のように馬を上手に乗る兵士をどんどん育成します。
兵を指導するには、まず将軍が馬術と弓が上手でなければならない…ということで、中には匈奴以上に、弓と馬が上手な将軍も出てくるようになります。

対匈奴戦で大きな手柄を立てる衛青 (えいせい) という将軍は、幼い頃に匈奴の友達から乗馬を習ったという人ですし、武帝に一番愛された将軍、霍去病 (かく・きょへい) などという人は、走る馬の上で逆立ちしながら矢を討って的に当てたというくらいの弓の名人でした。
この霍去病という人は、10万人に1人出るか出ないかと言われるほどの軍事の天才だったらしく、若くして…それこそ20歳そこそこで大将軍になり、華々しい戦果を上げますが、なんと23歳で死んでしまいます。
「去病」 という字は 「病気が去る」 という字を書きますが、名前にそんな字を当てるということは、幼い頃から病弱だったのかも知れません。
彼が死んだあとの武帝の嘆きは相当深かったという話です。
とにかく、霍去病や衛青といった優秀な将軍に軍を率いさせた漢は、徐々に匈奴を圧迫していきます。
最終的には漢が勝利し、匈奴は破れて分裂してしまうのですが、勝った漢の方も、この戦いでヘトヘトになってしまいます。
武帝の時代は、漢が国際国家へ雄飛する華々しい時代でもありましたが、反面、恒常的に戦争が行われていた苦しい時代でした。
その時代をつくった武帝という人は、どこかアメリカのケネディ大統領に似たようなところがあるように思えます。
ケネディは 「フロンティア」 という標語のもとに、アメリカ主導型の経済開発を発展途上国に向けて “輸出” します。

そして人工衛星を打ち上げ、ロケットを開発して宇宙開発を推進します。ちょうど漢の武帝が西域開発を押し進めていくのとよく似ていますよね。
しかし、そういう華々しい事業とともに、ケネディはベトナム戦争を開始するわけで、そんなところが対匈奴戦を開始した武帝とも似ていますね。
その結果多くの人々が死に、経済は破綻し、やがてそれが国を衰退させる原因になりました。
ケネディも武帝も、ともに人気のある為政者ですが、戦争による被害を人民に強いたという点では、手放しで喜べないリーダーだったともいえますね。
ま、しかし、それでもケネディがアメリカの第一次黄金時代を築いた大統領として人気が薄れることがないように、武帝も漢王朝を代表する皇帝として人気が薄れることはないでしょう。
えー、今回はですね、遊牧民族の歴史ということで、東アジア最初の遊牧文化を築いた匈奴をテーマにお話をしましたが、最後にこの遊牧が現代社会にもたらした意義について、お話いたしましょう。
遊牧という文化は、今の社会情勢から見ると、どんどん貧しくてなって、やがて滅び去る文化だと思われがちです。
しかし、私たちの生活の中に根を下ろした遊牧文化は不滅ですね。
例えば、バターやチーズを食べるとかですね、ズボンを履くとか、バックル付きのベルトを締めるとかですね。普段の身の回りの生活そのものの中に遊牧文化が根づいているわけですね。
しかも彼らの生き方は、これからの地球環境を保護するという視点で有力な智恵をもたらせてくれます。
なにしろ、人間の文化の発展というのは、みな自然環境を人為的に加工したり、破壊したりする方向で築かれたものばかりなわけですね。
文化のことを英語で 「カルチャー」 といいますが、その意味は 「耕す」 という意味ですね。
つまり大地を加工して耕すということが文化の始まりだったわけです。
そうやって人間は野に穴を掘り、山を崩し、木を切り倒し、獣を殺して文化を発展させてきたわけです。
しかし遊牧だけが、人間の方を、逆に自然に合わせようとした生き方だったんですね。
囲いを作ってそこで家畜を飼う方法と、遊牧の違いは何か?
遊牧というのは、動物を放し飼いにすることですね。動物は自然のままに放置しておくと、勝手に水飲み場に移動したり、季節に応じて草のおいしい地域に移動したりする習性があります。
遊牧というのは、基本的にはそういう動物の自然の習性に従って、それに伴って人間も移動していくという、ま、実に動物優先の思想に基づいているわけですね。
そういった意味で、動物に 「寄生」 して生きていくという、ま、実に奇妙な生活スタイルでもあるわけですが、ある意味は実にエコロジカルな暮らし方でもあるわけです。
動物が行きたい場所に人間も移動し、動物が寝泊まりするところで寝る。だから遊牧民は家を造らずテントで生活します。

で、彼らは基本的に、動物を殺しません。もちろん飼っている羊などの肉も食べたでしょうが、それは実に計画的に小規模で行われただけで、基本は動物の乳製品…バターやチーズ、ヨーグルトですね。そういうものを食べていたわけです。
彼らは自分たちの財産である動物を、簡単に殺して減らしてしまうようなバカなことはしません。
匈奴は確かに漢の土地へ略奪に行きました。
しかし、その気持ちの中には自然を守る匈奴が、自然を破壊する漢に対して抗議行動を行ったと解釈できないこともないわけです。
なにしろ、匈奴の生活の場である草原は、草が生えている限り豊かな土地であるわけですが、この土地を掘り返して畑などを作り始めると、とたんに砂漠になってしまいます。

乾燥した土地を無計画に耕作地にすると、1~2年はなんとか農作物も育つのでしょうけれど、やがてすぐにカラカラに乾いて砂漠化する。
そうなると、もともと生えていた草すらも二度と生えないわけですね。
これは現代になって、やっと農業科学の常識になったようですが、ほんの30年ぐらい前まではまだそれほど認識もされていなかったんですね。
現に共産中国も北朝鮮も、その初期の農業政策では、本来耕作に適さない山や草原を農地化して、逆に土地を荒廃させていました。つい最近までそんなことを繰り返していたわけです。
しかし、2000年前の匈奴たちは経験的にそういうことを知っていたのでしょう。
漢の人口がどんどん増えて、農民たちが草原に現れ、そこを開墾し始める。
ところが元来が農耕に不向きな土地だけに、結局そのまま草も生えない砂漠にしてしまう。
匈奴にしてみれば、動物を養うための大切な資源を損なわれてしまうわけで、そういう漢民族の行動がとても許せなかったでしょうね。
草がなければ、動物を養えない、仕方がないからその元凶をつくった漢の土地に略奪に行こう…。
彼らの意識の中にはそういった切羽詰まったものがあったかもしれませんね。
漢と匈奴の戦いも、単なる大国同士の勢力争いというだけでなく、こういう自然観の違い、生活思想の違いというふうに捉えていくと、また違った面が見えてくるかもしれません。
…というわけで、そんなところで今回のお話を終わらせて頂きます。では、皆様ごきげんよう。
【司会】 下連雀大学の町田先生のお話でした。
『歴史講座』 の 「遊牧民の文化と歴史」 は今回で終わります。
今日はその4回目として、シルクロード交易が生まれた背景と、遊牧文化が現代社会にもたらしたものなどについて語っていただくことにいたします。
それでは先生お願いします。
【町田】 はい、皆さまこんにちは。
さて、前回は、匈奴に対抗するためにですね、漢がユーラシアの西側に住む月氏 (げっし) という民族と軍事同盟を結ぼうというところまでお話したと思います。
で、その使者として張騫 (ちょうけん) という男が選ばれたわけですが、今日はこの張騫が漢にもたらしたものとは何であったのか、ということをお話することにいたしましょう。
月氏というのは、イラン系の人々といわれています。つまり、鼻が高く、目も青い人たちだったわけですね。
ですから、月氏の国に着いた張騫は、はじめてアジア系以外の民族と出会うことになります。
▲ 張騫
苦労に苦労を重ねてようやく月氏の国にたどり着いた張騫は、月氏の人々からとても親切にもてなしてもらうことができました。
けれども、月氏の方は、肝心の漢との軍事同盟の話だけには乗ってくれません。
月氏の王がいうには、
「そりゃ、昔は確かに匈奴は憎かったよ。しかし、だんだん月日が経ってくるとなぁ、恨みというのはやがて薄れるものじゃよ。
今、月氏はこの土地に来て民は愉快に暮らしておる。みんな匈奴と戦うよりも、今の平和な暮らしを続けることの方が大事なんじゃ。分かるかな? 張騫殿」
張騫が何度誘っても、月氏の答えは変わりませんでした。
張騫は仕方なく、中国に帰ることにします。
しかし、月氏の土地にいる間に、西域に関する様々な情報を手に入れます。
張騫はその情報を土産に、13年ぶりに武帝のいる長安に戻ってきます。
「なに? 漢の使者を勤めた張騫と名乗る男がお目通りを願っていると? 誰じゃそれは? いやぁ思い出したぞ。おうそうだった! 余が10数年前に月氏に使者として遣わした男だ。おお通せ! 通せ!」
武帝は、大喜びで張騫を迎え入れます。
▲ 武帝
「陛下、残念ながら月氏との同盟は結べませんでした。深くお詫び申し上げます」
「まぁよいよい。張騫よ、10年の間大儀であった。それよりいったい何があったんだ?」
張騫は匈奴に捕らえられたこと、そこから逃げ出したこと、そして月氏に行って今まで見たこともない、聞いたこともない物にたくさん出くわしたこと。そして、月氏の土地から、さらに西や南に広がる様々な国のことを武帝に話したのです。
武帝にとってはどれも初めて聞くことばかり。
しかも、張騫の話し方も上手だったのでしょう。その後張騫は毎晩武帝に招かれて、西域にまつわるいろいろなことを話すことになったわけですね。
この張騫の情報によって、中国人は西にはローマという大帝国があったり、南にはインドという広くて暑い国があるなど様々なことを知るようになります。
またこのとき、ナツメヤシとかキュウリ、葡萄酒などといった、中国の人々が口に入れたことがない食べ物や飲み物の情報ももたらされます。
しかし武帝を一番喜ばせたのは、西域に棲息する馬の情報でした。
なにしろ漢が匈奴に勝てない理由の一つが騎馬部隊の違いだったわけです。
匈奴の馬は、体は小さいのですが、そのかわり忍耐力が強く、粗食に耐え、よく走ります。
エサなども、人間が用意しなくても、放っておけば勝手に草原の草を食べてお腹を満たします。
それに対して、中国側にも騎馬部隊がいるのですが、中国の馬は走ることは早くても、持続力がない。食べ物も人が用意したエサしか食べない。これでは匈奴の騎馬隊に立ち向かうことはできません。
しかし張騫がいう西域の馬はどうもそれとは違うらしい。
「陛下。西域の馬は長距離を走り、力も強く、逞(たくま)しく、漢の馬よりも匈奴の馬よりも優れております。なんでも天馬の子孫とかいうことで、走った後は血の色をした汗をかきます」
▲ 血汗馬
血の汗というのが、どういうものかよく分かりませんが、記録には 「汗血馬」 という表現が残っています。
多分、今でいうアラブ馬みたいな馬だったんでしょうね。
この時代まだサラブレッドなどという馬はつくられていません。
サラブレッドというのはヨーロッパ人が、色々な速い馬をかけ合わせて人工的につくった馬ですから、それが生まれるまでは、アラブ馬が最高級の馬だったのでしょうね。
武帝は、その西域の汗血馬が欲しくて欲しくてたまらなくなりました。
「う~ん、その馬が欲しい! 陳 (ちん) はその馬を手に入れるぞよ」
こうして、張騫の話をきっかけに、漢と西域の間で、馬を手に入れるための交易ルートが開かれることになります。それがシルクロードの始まりともいえるでしょう。
やがて、西域の馬を手に入れた漢は、それに合わせて匈奴風の騎馬戦術を取り入れます。
匈奴風の騎馬戦術というのは、馬を走らせながら弓を射るという戦い方ですね。
これはなかなか慣れていないとできないことです。
しかし、匈奴の男たちは、生まれたばかりの頃から羊に跨って、ネズミを弓で討つ訓練をするぐらいですから、食べることも寝ることも、何でも馬の上でできてしまうわけですね。
で、この時代の乗馬術というのは、現代よりもっと高度な技術が要求されたわけですね。
どういうことかというと…専門的になってしまいますが…この時代にはまだ鐙 (あぶみ) というものが発明されていなかったわけですね。
鐙…。鐙というのはですね、鞍の下に吊るされているワッカのことですね。
そこに足を突っ込んで、姿勢を支えるわけです。これがないと、現代人は誰も馬に乗ることはできません。
しかし、昔はそれがなかったわけですね。
では、どうしていたか?
股に力を入れてですね、ギュっと馬の背中を締め付けていたわけですね。
これは凄い力がいるんです。
匈奴の人たちはそんな状態で弓を射ったり、刀を振るって突進したりしていたわけです。これには相当の訓練が必要だったことでしょう。
ま、そういう馬に慣れた兵士たちが、漢の歩兵部隊に全速力で向かってきて、一斉に矢を放つ。
漢の部隊が反撃に出ると、今度は一斉に逃げ散ってしまう。
で、漢の兵士が追うことに疲れてヘタリ始めると、まだ全速力で近づいてきて矢を放つ。
これが伝統的な遊牧民の戦い方で、弓と馬が基本になっているわけです。
しかも、それをこなすには幼い頃からの訓練の蓄積がいるわけですね。農耕しか経験のなかった漢の人々が長い間匈奴に勝てなかったのは、そういう理由もあったんですね。
しかし、やがて漢もですね、匈奴に対抗して、馬術と弓に優れた兵士たちを養成するようになります。
そして、服装も改めます。
なにしろ伝統的に中国の男はスカートのようにひらひらした着物を着ていたわけですね。軍隊も変わりありませんでした。
しかしそれじゃ馬に跨がれないというので、騎兵は全員が匈奴のようにズボンを履いて、バックルの付いたベルトを締めるようになります。この 「ズボン」 と 「バックルベルト」 というのも、遊牧文化がもたらしたものですね。
で、漢も匈奴のように馬を上手に乗る兵士をどんどん育成します。
兵を指導するには、まず将軍が馬術と弓が上手でなければならない…ということで、中には匈奴以上に、弓と馬が上手な将軍も出てくるようになります。
対匈奴戦で大きな手柄を立てる衛青 (えいせい) という将軍は、幼い頃に匈奴の友達から乗馬を習ったという人ですし、武帝に一番愛された将軍、霍去病 (かく・きょへい) などという人は、走る馬の上で逆立ちしながら矢を討って的に当てたというくらいの弓の名人でした。
この霍去病という人は、10万人に1人出るか出ないかと言われるほどの軍事の天才だったらしく、若くして…それこそ20歳そこそこで大将軍になり、華々しい戦果を上げますが、なんと23歳で死んでしまいます。
「去病」 という字は 「病気が去る」 という字を書きますが、名前にそんな字を当てるということは、幼い頃から病弱だったのかも知れません。
彼が死んだあとの武帝の嘆きは相当深かったという話です。
とにかく、霍去病や衛青といった優秀な将軍に軍を率いさせた漢は、徐々に匈奴を圧迫していきます。
最終的には漢が勝利し、匈奴は破れて分裂してしまうのですが、勝った漢の方も、この戦いでヘトヘトになってしまいます。
武帝の時代は、漢が国際国家へ雄飛する華々しい時代でもありましたが、反面、恒常的に戦争が行われていた苦しい時代でした。
その時代をつくった武帝という人は、どこかアメリカのケネディ大統領に似たようなところがあるように思えます。
ケネディは 「フロンティア」 という標語のもとに、アメリカ主導型の経済開発を発展途上国に向けて “輸出” します。
そして人工衛星を打ち上げ、ロケットを開発して宇宙開発を推進します。ちょうど漢の武帝が西域開発を押し進めていくのとよく似ていますよね。
しかし、そういう華々しい事業とともに、ケネディはベトナム戦争を開始するわけで、そんなところが対匈奴戦を開始した武帝とも似ていますね。
その結果多くの人々が死に、経済は破綻し、やがてそれが国を衰退させる原因になりました。
ケネディも武帝も、ともに人気のある為政者ですが、戦争による被害を人民に強いたという点では、手放しで喜べないリーダーだったともいえますね。
ま、しかし、それでもケネディがアメリカの第一次黄金時代を築いた大統領として人気が薄れることがないように、武帝も漢王朝を代表する皇帝として人気が薄れることはないでしょう。
えー、今回はですね、遊牧民族の歴史ということで、東アジア最初の遊牧文化を築いた匈奴をテーマにお話をしましたが、最後にこの遊牧が現代社会にもたらした意義について、お話いたしましょう。
遊牧という文化は、今の社会情勢から見ると、どんどん貧しくてなって、やがて滅び去る文化だと思われがちです。
しかし、私たちの生活の中に根を下ろした遊牧文化は不滅ですね。
例えば、バターやチーズを食べるとかですね、ズボンを履くとか、バックル付きのベルトを締めるとかですね。普段の身の回りの生活そのものの中に遊牧文化が根づいているわけですね。
しかも彼らの生き方は、これからの地球環境を保護するという視点で有力な智恵をもたらせてくれます。
なにしろ、人間の文化の発展というのは、みな自然環境を人為的に加工したり、破壊したりする方向で築かれたものばかりなわけですね。
文化のことを英語で 「カルチャー」 といいますが、その意味は 「耕す」 という意味ですね。
つまり大地を加工して耕すということが文化の始まりだったわけです。
そうやって人間は野に穴を掘り、山を崩し、木を切り倒し、獣を殺して文化を発展させてきたわけです。
しかし遊牧だけが、人間の方を、逆に自然に合わせようとした生き方だったんですね。
囲いを作ってそこで家畜を飼う方法と、遊牧の違いは何か?
遊牧というのは、動物を放し飼いにすることですね。動物は自然のままに放置しておくと、勝手に水飲み場に移動したり、季節に応じて草のおいしい地域に移動したりする習性があります。
遊牧というのは、基本的にはそういう動物の自然の習性に従って、それに伴って人間も移動していくという、ま、実に動物優先の思想に基づいているわけですね。
そういった意味で、動物に 「寄生」 して生きていくという、ま、実に奇妙な生活スタイルでもあるわけですが、ある意味は実にエコロジカルな暮らし方でもあるわけです。
動物が行きたい場所に人間も移動し、動物が寝泊まりするところで寝る。だから遊牧民は家を造らずテントで生活します。
で、彼らは基本的に、動物を殺しません。もちろん飼っている羊などの肉も食べたでしょうが、それは実に計画的に小規模で行われただけで、基本は動物の乳製品…バターやチーズ、ヨーグルトですね。そういうものを食べていたわけです。
彼らは自分たちの財産である動物を、簡単に殺して減らしてしまうようなバカなことはしません。
匈奴は確かに漢の土地へ略奪に行きました。
しかし、その気持ちの中には自然を守る匈奴が、自然を破壊する漢に対して抗議行動を行ったと解釈できないこともないわけです。
なにしろ、匈奴の生活の場である草原は、草が生えている限り豊かな土地であるわけですが、この土地を掘り返して畑などを作り始めると、とたんに砂漠になってしまいます。
乾燥した土地を無計画に耕作地にすると、1~2年はなんとか農作物も育つのでしょうけれど、やがてすぐにカラカラに乾いて砂漠化する。
そうなると、もともと生えていた草すらも二度と生えないわけですね。
これは現代になって、やっと農業科学の常識になったようですが、ほんの30年ぐらい前まではまだそれほど認識もされていなかったんですね。
現に共産中国も北朝鮮も、その初期の農業政策では、本来耕作に適さない山や草原を農地化して、逆に土地を荒廃させていました。つい最近までそんなことを繰り返していたわけです。
しかし、2000年前の匈奴たちは経験的にそういうことを知っていたのでしょう。
漢の人口がどんどん増えて、農民たちが草原に現れ、そこを開墾し始める。
ところが元来が農耕に不向きな土地だけに、結局そのまま草も生えない砂漠にしてしまう。
匈奴にしてみれば、動物を養うための大切な資源を損なわれてしまうわけで、そういう漢民族の行動がとても許せなかったでしょうね。
草がなければ、動物を養えない、仕方がないからその元凶をつくった漢の土地に略奪に行こう…。
彼らの意識の中にはそういった切羽詰まったものがあったかもしれませんね。
漢と匈奴の戦いも、単なる大国同士の勢力争いというだけでなく、こういう自然観の違い、生活思想の違いというふうに捉えていくと、また違った面が見えてくるかもしれません。
…というわけで、そんなところで今回のお話を終わらせて頂きます。では、皆様ごきげんよう。
【司会】 下連雀大学の町田先生のお話でした。
『歴史講座』 の 「遊牧民の文化と歴史」 は今回で終わります。
2009年01月14日
匈奴の話 3
【司会】 『歴史講座』 の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生のお話をうかがっております。
今日はその3回目として、匈奴 (きょうど) と漢をそれぞれ代表する重要人物たちを語っていただくことにいたします。
それでは先生お願いします。
【町田】 はい、皆さまこんにちは。
今日はですね、まずユーラシア平原に生まれた匈奴を統一した冒頓単于 (ぼくとつ・ぜんう) という英雄と、漢の国から旅立って、初めて 「西域」 の情報を漢にもたらした張騫 (ちょうけん) というヒーローのお話をすることにいたしましょう。
さて、前回お話したとおり、漢を属国のように扱い、まさに東アジア最強の国家になった匈奴なんですが、匈奴の最盛期をつくった冒頓には実に興味深いエピソードがあります。

冒頓が匈奴の実権を握り、北ユーラシア最大の勢力になっていく過程の話ですが、いかにも匈奴の王らしい、ある意味で残酷で、ある意味で勇壮な話ですので、ちょっと紹介しておきましょう。
冒頓の父親は頭曼 (とうまん) といいました。
で、冒頓はその頭曼の長男なわけですが、やがて頭曼がお気に入りのお妾さんに、別の男の子が産まれます。
頭曼はそちらの子の方が可愛くなりまして、やがてその子の方に 「単于 (ぜんう) 」 の位を継がせたいと思うようになります。
そうなると冒頓がだんだん邪魔になってくるわけですね。
どうしたか?
頭曼は、そこで冒頓を匈奴に西に住んでいる月氏 (げっし) という民族に人質に出すわけですね。
月氏というのは、当時は匈奴以上に有力な民族で、匈奴の力を持ってしてもなかなか滅ぼすことのできない勢力を持っていました。
頭曼は、冒頓を人質に出してから今度は月氏に戦争を仕掛けます。
戦争が始まったら人質はどうなるか。
当然、殺されてしまうわけですね。
冒頓にしてみれば 「オヤジ、そりゃないよォ~」 となるわけですね。
つまり頭曼としては、冒頓を殺させるために戦争を仕掛けたようなものなんですね。
ところが冒頓は殺されるどころか、月氏の中でも一番の名馬といわれる馬を盗み出し、それに乗って匈奴の土地まで逃げ帰ってきます。

そうなると、匈奴の人々の間で、冒頓は一躍大ヒーローとなってしまいます。
お父さんの頭曼にしても、冒頓を責めるわけにはいきません。
内心はいまいましく思いつつも、「息子よ、よくやった!」 と誉めて、彼を1万人の兵を指揮する司令官の一人に抜てきするわけですね。
冒頓の方も何食わぬ顔をして親父に従っているわけですが、内心は自分を殺そうとした父親の魂胆を見抜いているわけですから、このままではまた殺されると思い、密かにクーデターの準備を始めるわけです。つまり自分に与えられた直属の兵を鍛えていくわけですね。
そのときの、冒頓の部下の訓練が実にすさまじいんです。
匈奴の武器のひとつに鏑矢 (かぶら矢) という矢があります。弓で射ると、ヒュルヒュルという音を発する矢で、武器というよりも色々な合図の時に使う矢ですが、冒頓は自分の部下たちにこう言います。
「よいか、これから俺が鏑矢を放った物に関しては、全員が一斉に矢を放つように。言うことを聞かないヤツは叩き殺すぞ」
そういって、冒頓は、まず自分の愛馬に向けて矢を放ちます。
それは日頃冒頓が可愛がっている馬だということをみんな知っていますから、兵士の中には戸惑って矢を放たなかった者もいるわけです。すると、冒頓はその兵士を容赦なく斬り殺してしまいます。

そして次ぎに、冒頓は自分が愛するお后 (きさき) の一人に矢を向けます。
これにも戸惑う兵士が出てきます。
冒頓は命令を聞かなかった兵士をまたもやその場で斬り殺してしまいます。
兵士たちにしてみれば、だんだん冒頓の命令が善悪を超えて、絶対的なものに思えてくるわけですね。
そうやって、部下に対して命令の厳しさを植え付けた冒頓は、父親の頭曼を狩りに誘い、頃を見計らって、その頭曼に向けて鏑矢を放ちます。今度は部下の全員がためらいなく矢を放ったといわれています。
なんともすさまじい話ですが、まぁ、どこまで本当の話か分かりません。
でも、たぶん父の頭曼を殺したというのは本当でしょう。
冒頓がずるかったのは、…というか、そういうずるさというのは遊牧民のリーダーとして当然必要だったのでしょうけれど、自分一人で父を殺さなかったということしょうね。
つまり兵士全員に 「父殺しの罪」 を被せたわけです。
そうなると、兵士は誰も冒頓の 「父殺し」 を責めるわけにはいきません。自分たちも共犯者だからです。
そして共犯者になった以上、冒頓と一心同体となって、冒頓を支えていかなければならない。
そこが冒頓の狙い目だったわけですね。
まぁ、冒頓のクーデターの犠牲となって殺された愛馬やお后には気の毒なわけですが、とにかく冒頓はこうして、命令に対して忠実に服従する強力な軍団を養っていったわけです。
まぁ、このあたりは中国の歴史家、司馬遷の書いた 『匈奴列伝』 の中で生き生きと描かれております。
興味をお持ちの方は、ぜひそちらを読まれることをお薦めいたします。

さて、その後冒頓はですねぇ、かつて人質として出された西の月氏 (げっし) を滅ぼし、東の東胡 (とうこ) という民族を滅ぼし、モンゴル高原に強大な遊牧帝国をつくり上げていくわけです。
そして漢の劉邦にも勝利し、事実上の中国の覇者になったということは前回お話しした通りですね。

さて、漢では長い間、匈奴に対する従属的な同盟に甘んじた時代が続きました。
しかし、やがて 「それは面白くない」 と思う皇帝が出てきます。漢の武帝 (ぶてい) ですね。

武帝は、初代皇帝の劉邦から7代目の皇帝になります。
武帝の 「武」 は武力の武と書くらいですから、いかにも戦争が好きそうな感じがしますよね。事実、この人の一生はほとんどが匈奴との戦いに費やされた一生でした。
この武帝が即位する頃になると、漢の財政も潤ってきて、お金も潤沢に使えるようになってきます。つまり軍備にも多大なお金をかけられるようになってきたわけですね。
そこで武帝は考えます。
「そろそろ匈奴を甘やかす時代は終わった。やつらに漢の偉大さを見せつける時代がやってきた。これからもう匈奴の言い成りにはならないぞ」
…しかし、やはり独力で匈奴と戦うほどの自信はまだないわけですね。
そんなとき、たまたま捕まえた匈奴の捕虜がこんなことを言うのです。
「匈奴の西に月氏 (げっし) という部族が住んでいるんだが、漢の人間は知っておるか? その月氏がなぁ、昔な、無謀にも俺たち匈奴に戦いを挑んできたんだ。
だけど、月氏の王様はあっけなく戦死してしまったわけよ。
わが匈奴の単于は、月氏の王の頭蓋骨を切り取ってそれを器にして、酒を飲むときに使っているんじゃ。月氏のヤツラはみなそのことを恨みに思って、いつかは匈奴に対して復讐しようと思っているという話だぜ」
敵対していた王様の頭蓋骨を途中で割って杯 (さかずき) にするというのは、遊牧民にはよくある話らしく、日本では織田信長が浅井長政と朝倉義景を殺したときに、これをやっていますね。
とにかくその匈奴の捕虜の話から、武帝は匈奴の西に月氏という部族がいることを知ります。
「お、それはいい話だ!」
と武帝は思ったことでしょう。
「その月氏とやらと軍事同盟を結べば、匈奴を挟み撃ちすることができる。月氏の元へ誰かを使者としてつかわそう」
と、武帝は思いつきます。
しかし、その時代の中国の人は誰も月氏のことなど知らないわけですね。
まず、中国の西の砂漠の彼方にどんな世界が広がっているのか、誰も分からない。
どんな民族がいて何語をしゃべり、どんな食べ物を食べているのか、検討もつかない。
化け物がいるかもしれず、怪物がいるかもしれない。
今の感覚でいえば、宇宙探検に近いものがあったことでしょう。だから誰を使者にしたら成功するのか、それもおぼつかない。
そこで武帝は、使者となる人物を一般公募します。
前代未聞のことですね。今までは他国へ遣わす使者というのは、宮廷の役人の中から選ばれるもので、一般人から選ばれるということなど考えられなかったからです。それほど、武帝はやる気だったわけですね。
で、たくさんの冒険好きが集まりました。
中には、西の方の世界の珍しいものを探してきて、一山当てようという “山師” のようないかがわしい人間もたくさんいたでしょう。
その中で、武帝は張騫 (ちょうけん) という一人の人物を選び出します。
記録によると、この張騫は、顔も体格も立派で、責任感が強く、意志も強固な男だったようですが、職業は、宮廷などに出入りすることもできない下級役人だったという話です。

武帝は張騫に、匈奴出身の甘父 (かんぽ) という名の、通訳もできる弓の名人を付け、さらに荷物などを運ぶ200人ぐらいの人間を付けて月氏の土地に旅立たせたわけです。
漢の首都の長安を発った張騫の一行は、中国の農村地帯を抜け、やがて草がまばらに生えているだけの砂漠に近いような平原に入っていきます。
そこから先は、もう中国とはいわず、一般に 「西域」 と呼ばれる異国の地です。今まで中国人は誰ひとり通ったことがない場所ですね。

しばらくの間、空を飛ぶ鳥や地面を走る獣の姿も見えていましたが、やがてそれもなくなり、あとは生き物の気配が途絶えた砂漠のような平原が連なるばかり。
そこを200人ぐらいの隊列をつくって歩いていけば、遠くからでも匈奴に発見されてしまいます。
現に張騫は、西域に入ったとたん、匈奴の騎馬部隊に見つかり、捕まってしまいます。
こうして張騫は匈奴の単于の幕舎に連行されます。
その頃の匈奴の単于は冒頓 (ぼくとつ) から数えて3代目。軍臣 (ぐんしん) 単于という王様の時代です。冒頓の孫ですね。
張騫は、軍臣単于から 「お前はどこに行くつもりだったんだ?」 と尋ねられます。
そのときの張騫の答え方次第で、もしかしたら張騫の命はなかったかもしれません。
おそらく張騫は正直に、自分が与えられた役目を単于に伝えたのでしょう。
ただその態度が毅然として、命を惜しむふうでもなく、堂々としていたので、匈奴の単于はいたく張騫のことを気に入ってしまいます。
「よし、張騫お前が気に入ったぞ。命は助けてやろう。そのかわり匈奴の仲間になれ」
と、言われるわけです。
もとより張騫にその気はありませんでしたが、いつか脱出する機会もあるだろうと思い、単于の言うことに従うわけですね。
張騫はそれからは匈奴の服を着て、匈奴の食べ物を食べ、匈奴の宿舎に寝て過ごすようになります。
生活は自由なのですが、監視も厳しくて、なかなか脱出の機会がありません。
そうこうしているうちに10年という月日が経ってしまいます。今では匈奴の妻がいて、その妻との間に子供さえできてしまいました。
そこまでいって、ようやく単于も気を許したのでしょう。監視がだんだん緩やかになりました。
ある夜、張騫はついに脱出を試みます。
従うのは妻と子、そして長安を発ったときに一緒に同行した案内役の甘父 (かんぽ) という従者だけです。
命からがらの脱出でしたが、なんとか逃げおおせることができて、張騫はついに月氏 (げっし) の土地にたどり着くことができたわけですね。
それでは、次回はこの張騫が月氏の国に行ってですね、それがきっかけとなって 「シルクロード交易」 が生まれたというお話をすることにいたしましょう。
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。
今日はその3回目として、匈奴 (きょうど) と漢をそれぞれ代表する重要人物たちを語っていただくことにいたします。
それでは先生お願いします。
【町田】 はい、皆さまこんにちは。
今日はですね、まずユーラシア平原に生まれた匈奴を統一した冒頓単于 (ぼくとつ・ぜんう) という英雄と、漢の国から旅立って、初めて 「西域」 の情報を漢にもたらした張騫 (ちょうけん) というヒーローのお話をすることにいたしましょう。
さて、前回お話したとおり、漢を属国のように扱い、まさに東アジア最強の国家になった匈奴なんですが、匈奴の最盛期をつくった冒頓には実に興味深いエピソードがあります。
冒頓が匈奴の実権を握り、北ユーラシア最大の勢力になっていく過程の話ですが、いかにも匈奴の王らしい、ある意味で残酷で、ある意味で勇壮な話ですので、ちょっと紹介しておきましょう。
冒頓の父親は頭曼 (とうまん) といいました。
で、冒頓はその頭曼の長男なわけですが、やがて頭曼がお気に入りのお妾さんに、別の男の子が産まれます。
頭曼はそちらの子の方が可愛くなりまして、やがてその子の方に 「単于 (ぜんう) 」 の位を継がせたいと思うようになります。
そうなると冒頓がだんだん邪魔になってくるわけですね。
どうしたか?
頭曼は、そこで冒頓を匈奴に西に住んでいる月氏 (げっし) という民族に人質に出すわけですね。
月氏というのは、当時は匈奴以上に有力な民族で、匈奴の力を持ってしてもなかなか滅ぼすことのできない勢力を持っていました。
頭曼は、冒頓を人質に出してから今度は月氏に戦争を仕掛けます。
戦争が始まったら人質はどうなるか。
当然、殺されてしまうわけですね。
冒頓にしてみれば 「オヤジ、そりゃないよォ~」 となるわけですね。
つまり頭曼としては、冒頓を殺させるために戦争を仕掛けたようなものなんですね。
ところが冒頓は殺されるどころか、月氏の中でも一番の名馬といわれる馬を盗み出し、それに乗って匈奴の土地まで逃げ帰ってきます。
そうなると、匈奴の人々の間で、冒頓は一躍大ヒーローとなってしまいます。
お父さんの頭曼にしても、冒頓を責めるわけにはいきません。
内心はいまいましく思いつつも、「息子よ、よくやった!」 と誉めて、彼を1万人の兵を指揮する司令官の一人に抜てきするわけですね。
冒頓の方も何食わぬ顔をして親父に従っているわけですが、内心は自分を殺そうとした父親の魂胆を見抜いているわけですから、このままではまた殺されると思い、密かにクーデターの準備を始めるわけです。つまり自分に与えられた直属の兵を鍛えていくわけですね。
そのときの、冒頓の部下の訓練が実にすさまじいんです。
匈奴の武器のひとつに鏑矢 (かぶら矢) という矢があります。弓で射ると、ヒュルヒュルという音を発する矢で、武器というよりも色々な合図の時に使う矢ですが、冒頓は自分の部下たちにこう言います。
「よいか、これから俺が鏑矢を放った物に関しては、全員が一斉に矢を放つように。言うことを聞かないヤツは叩き殺すぞ」
そういって、冒頓は、まず自分の愛馬に向けて矢を放ちます。
それは日頃冒頓が可愛がっている馬だということをみんな知っていますから、兵士の中には戸惑って矢を放たなかった者もいるわけです。すると、冒頓はその兵士を容赦なく斬り殺してしまいます。
そして次ぎに、冒頓は自分が愛するお后 (きさき) の一人に矢を向けます。
これにも戸惑う兵士が出てきます。
冒頓は命令を聞かなかった兵士をまたもやその場で斬り殺してしまいます。
兵士たちにしてみれば、だんだん冒頓の命令が善悪を超えて、絶対的なものに思えてくるわけですね。
そうやって、部下に対して命令の厳しさを植え付けた冒頓は、父親の頭曼を狩りに誘い、頃を見計らって、その頭曼に向けて鏑矢を放ちます。今度は部下の全員がためらいなく矢を放ったといわれています。
なんともすさまじい話ですが、まぁ、どこまで本当の話か分かりません。
でも、たぶん父の頭曼を殺したというのは本当でしょう。
冒頓がずるかったのは、…というか、そういうずるさというのは遊牧民のリーダーとして当然必要だったのでしょうけれど、自分一人で父を殺さなかったということしょうね。
つまり兵士全員に 「父殺しの罪」 を被せたわけです。
そうなると、兵士は誰も冒頓の 「父殺し」 を責めるわけにはいきません。自分たちも共犯者だからです。
そして共犯者になった以上、冒頓と一心同体となって、冒頓を支えていかなければならない。
そこが冒頓の狙い目だったわけですね。
まぁ、冒頓のクーデターの犠牲となって殺された愛馬やお后には気の毒なわけですが、とにかく冒頓はこうして、命令に対して忠実に服従する強力な軍団を養っていったわけです。
まぁ、このあたりは中国の歴史家、司馬遷の書いた 『匈奴列伝』 の中で生き生きと描かれております。
興味をお持ちの方は、ぜひそちらを読まれることをお薦めいたします。
さて、その後冒頓はですねぇ、かつて人質として出された西の月氏 (げっし) を滅ぼし、東の東胡 (とうこ) という民族を滅ぼし、モンゴル高原に強大な遊牧帝国をつくり上げていくわけです。
そして漢の劉邦にも勝利し、事実上の中国の覇者になったということは前回お話しした通りですね。
さて、漢では長い間、匈奴に対する従属的な同盟に甘んじた時代が続きました。
しかし、やがて 「それは面白くない」 と思う皇帝が出てきます。漢の武帝 (ぶてい) ですね。
武帝は、初代皇帝の劉邦から7代目の皇帝になります。
武帝の 「武」 は武力の武と書くらいですから、いかにも戦争が好きそうな感じがしますよね。事実、この人の一生はほとんどが匈奴との戦いに費やされた一生でした。
この武帝が即位する頃になると、漢の財政も潤ってきて、お金も潤沢に使えるようになってきます。つまり軍備にも多大なお金をかけられるようになってきたわけですね。
そこで武帝は考えます。
「そろそろ匈奴を甘やかす時代は終わった。やつらに漢の偉大さを見せつける時代がやってきた。これからもう匈奴の言い成りにはならないぞ」
…しかし、やはり独力で匈奴と戦うほどの自信はまだないわけですね。
そんなとき、たまたま捕まえた匈奴の捕虜がこんなことを言うのです。
「匈奴の西に月氏 (げっし) という部族が住んでいるんだが、漢の人間は知っておるか? その月氏がなぁ、昔な、無謀にも俺たち匈奴に戦いを挑んできたんだ。
だけど、月氏の王様はあっけなく戦死してしまったわけよ。
わが匈奴の単于は、月氏の王の頭蓋骨を切り取ってそれを器にして、酒を飲むときに使っているんじゃ。月氏のヤツラはみなそのことを恨みに思って、いつかは匈奴に対して復讐しようと思っているという話だぜ」
敵対していた王様の頭蓋骨を途中で割って杯 (さかずき) にするというのは、遊牧民にはよくある話らしく、日本では織田信長が浅井長政と朝倉義景を殺したときに、これをやっていますね。
とにかくその匈奴の捕虜の話から、武帝は匈奴の西に月氏という部族がいることを知ります。
「お、それはいい話だ!」
と武帝は思ったことでしょう。
「その月氏とやらと軍事同盟を結べば、匈奴を挟み撃ちすることができる。月氏の元へ誰かを使者としてつかわそう」
と、武帝は思いつきます。
しかし、その時代の中国の人は誰も月氏のことなど知らないわけですね。
まず、中国の西の砂漠の彼方にどんな世界が広がっているのか、誰も分からない。
どんな民族がいて何語をしゃべり、どんな食べ物を食べているのか、検討もつかない。
化け物がいるかもしれず、怪物がいるかもしれない。
今の感覚でいえば、宇宙探検に近いものがあったことでしょう。だから誰を使者にしたら成功するのか、それもおぼつかない。
そこで武帝は、使者となる人物を一般公募します。
前代未聞のことですね。今までは他国へ遣わす使者というのは、宮廷の役人の中から選ばれるもので、一般人から選ばれるということなど考えられなかったからです。それほど、武帝はやる気だったわけですね。
で、たくさんの冒険好きが集まりました。
中には、西の方の世界の珍しいものを探してきて、一山当てようという “山師” のようないかがわしい人間もたくさんいたでしょう。
その中で、武帝は張騫 (ちょうけん) という一人の人物を選び出します。
記録によると、この張騫は、顔も体格も立派で、責任感が強く、意志も強固な男だったようですが、職業は、宮廷などに出入りすることもできない下級役人だったという話です。
武帝は張騫に、匈奴出身の甘父 (かんぽ) という名の、通訳もできる弓の名人を付け、さらに荷物などを運ぶ200人ぐらいの人間を付けて月氏の土地に旅立たせたわけです。
漢の首都の長安を発った張騫の一行は、中国の農村地帯を抜け、やがて草がまばらに生えているだけの砂漠に近いような平原に入っていきます。
そこから先は、もう中国とはいわず、一般に 「西域」 と呼ばれる異国の地です。今まで中国人は誰ひとり通ったことがない場所ですね。
しばらくの間、空を飛ぶ鳥や地面を走る獣の姿も見えていましたが、やがてそれもなくなり、あとは生き物の気配が途絶えた砂漠のような平原が連なるばかり。
そこを200人ぐらいの隊列をつくって歩いていけば、遠くからでも匈奴に発見されてしまいます。
現に張騫は、西域に入ったとたん、匈奴の騎馬部隊に見つかり、捕まってしまいます。
こうして張騫は匈奴の単于の幕舎に連行されます。
その頃の匈奴の単于は冒頓 (ぼくとつ) から数えて3代目。軍臣 (ぐんしん) 単于という王様の時代です。冒頓の孫ですね。
張騫は、軍臣単于から 「お前はどこに行くつもりだったんだ?」 と尋ねられます。
そのときの張騫の答え方次第で、もしかしたら張騫の命はなかったかもしれません。
おそらく張騫は正直に、自分が与えられた役目を単于に伝えたのでしょう。
ただその態度が毅然として、命を惜しむふうでもなく、堂々としていたので、匈奴の単于はいたく張騫のことを気に入ってしまいます。
「よし、張騫お前が気に入ったぞ。命は助けてやろう。そのかわり匈奴の仲間になれ」
と、言われるわけです。
もとより張騫にその気はありませんでしたが、いつか脱出する機会もあるだろうと思い、単于の言うことに従うわけですね。
張騫はそれからは匈奴の服を着て、匈奴の食べ物を食べ、匈奴の宿舎に寝て過ごすようになります。
生活は自由なのですが、監視も厳しくて、なかなか脱出の機会がありません。
そうこうしているうちに10年という月日が経ってしまいます。今では匈奴の妻がいて、その妻との間に子供さえできてしまいました。
そこまでいって、ようやく単于も気を許したのでしょう。監視がだんだん緩やかになりました。
ある夜、張騫はついに脱出を試みます。
従うのは妻と子、そして長安を発ったときに一緒に同行した案内役の甘父 (かんぽ) という従者だけです。
命からがらの脱出でしたが、なんとか逃げおおせることができて、張騫はついに月氏 (げっし) の土地にたどり着くことができたわけですね。
それでは、次回はこの張騫が月氏の国に行ってですね、それがきっかけとなって 「シルクロード交易」 が生まれたというお話をすることにいたしましょう。
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。
2009年01月13日
匈奴の話 2
【司会】 『歴史講座』 の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生のお話をうかがっております。
今日はその2回目 「遊牧という文化とは何か」 をお送りいたします。
それでは先生お願いします。
【町田】 皆さん、こんにちは。
さて、前回は、中国史に登場する 「匈奴 (きょうど) 」 という謎の遊牧騎馬民族のお話をいたしましたけれど、今回その続きをお話する前に、「遊牧」 という生活がどのようなものであるのか、それをちょっとお話することにいたしましょう。

で、この 「遊牧」 とよく対比されるのが 「農耕」 なわけですが、皆さまは、遊牧と農耕はどちらが先に生まれたか、ご存知でしょうか。
一般的なイメージでいいますと、遊牧の方が原始的で、農耕の方が文明的というような印象がありますから、当然遊牧の方が農耕よりも古いと思われがちですね。
ところがですね、実は、遊牧の方が比較的新しい生活様式なんですね。農耕の方がはるかに古いわけです。
遊牧というのは、草食動物が棲む場所で、人間も一緒に生活するという技術ですが、動物が棲みやすい場所というのは、人間には住みづらい場所なんですね。草原がその典型ですね。
なにしろだだっ広い草原では、水を飲みに行きたくとも遠くまで歩かねばならない。
水場が遠ければ畑なども耕せない。
狩猟をしようにも、鹿やウサギだってすぐ走って遠くまで逃げてしまう。
逆に、平原のまっただ中で狼に取り囲まれることもある。

そんなわけで、草原というのは長い間人間が住むには適さない場所だと思われていました。
だから、人間は水場が近いオアシスのような場所か、河のほとりなど畑を耕しながら生活をすることを始めたわけです。
そして、その畑の周囲で、少しずつ野生の動物などを飼い慣らし、家畜として養うようになっていったわけですね。
で、オアシスの住民に飼われていた家畜の中に 「馬」 という動物がいました。
おそらく、最初はあまり大事にされていなかった家畜ではないかと思います。
食用にしても牛なんかよりも不味い。
すばしっこくて、なかなか人間の言うことをきかないので、牛や羊よりも扱いづらい。せいぜい殺して皮を利用するぐらいしか意味のない家畜でした。

その馬を相手に、ある日一人の若者が無謀な冒険を試みます。
その若者の名前は分かっていません。人種的に何人であるかも分かりません。もしかしたら若者でもなくて中年かもしれません。時代も、いつのことかはっきりしません。
…ま、おそらくは紀元前600年ぐらいに黒海北岸にたむろしていた民族の誰かだったと思いますが、その彼が、とにかくとんでもないチャレンジを行ったわけです。
その行為が、後の人類史を大きく書き換えるなどという自覚もまったくなしに…ですね。
それは、馬の背に跨ったということなんです。
最初は遊びだったのでしょう。
もちろん何度か振り落とされ、跳ね飛ばされて怪我をしそうになったことでしょう。
しかしその彼は、今までの人間と違って、そこで諦めなかった。
それまでの人々は、「無理だよ、無理! 馬に乗るなんてのは、竹槍でB29を落すようなもんだよ」 ……このたとえが分かる人は、もう相当のご年配かもしれませんが、まぁ 「馬に跨ろうなんてのは、太平洋を泳いでアメリカに渡ろうみたいなもんだよ」 っていうような感じで、ハナから無理なものと決めつけられていたわけですね。
しかしその若者はですね、諦めることなくトライし続けているうちに、ついに馬の背に乗って草原を走り始めたわけです。
その時の彼の気持ちがどんなものだったか!
彼が残した日記があるわけではないので、なんともいえませんが、ま、初めて空を飛んだライト兄弟みたいな気分だったのでしょうかね。
とにかく、これは自動車の発明や飛行機の発明以上に、人類にとっては空前絶後の画期的な大事件だったわけですね。
馬という機動力を得て、人類は初めて広大な大草原に踏み出していくことができたわけです。
草原を走り回るたくさんの羊や牛の群を管理するなどという遊牧は、この乗馬という技術抜きには語れません。
で、やがてオアシスの農耕民族の中からですねぇ、馬に乗って、郊外で羊や牛やラクダなど管理することを役目とする人たちが誕生します。
村から遠く離れるので、しばらく家に帰ってきませんので、そのうち奥さんや子供たちも草原に連れていくようになります。
すると、草原で暮らすのもまんざら悪いもんではないと分かってきたんですね。
なぜなら、食べ物はその家畜を利用すればよろしい。何も殺して肉を食べなくても、その乳をしぼってチーズやバターやヨーグルトを作ればよろしい。
喉が渇いたら、馬の乳を発行させた飲み物で乾きを癒す。この馬の乳はお酒…馬乳酒ですね…お酒にもなる。
着るものはその家畜の毛皮でよろしい。
寝る場所も、その毛皮で作ったテントの中で寝ればいい…ということになると、「ま、別に村に帰らんでもいいか…」 となるわけですね。
……ま、これが遊牧民の誕生ですね。
さて、馬に乗ることを覚えて、初めて可能になった遊牧生活。
それは同時に軍事力の獲得でもありました。

戦争というのは、相手より早く移動した方が勝ちという性格が非常に強いものです。
攻めるのみ逃げるのも早い方が有利なわけですね。
こうして、乗馬の技術を覚えた遊牧民は、また戦いの専門家にもなりました。
人類史上、最初の騎馬軍団をつくったのはスキタイと呼ばれる民族です。
これは今の黒海の北岸あたりに勢力を持った民族で、当時の強国として知られるペルシャやギリシャの人々をさんざん悩ませます。

▲ スキタイ人を描いたタペストリー
ま、このスキタイ風の遊牧騎馬文化というのが、草原づたいに東へ東へと伝わっていってですね、それが先ほど紹介した匈奴たちのいる東アジアまで広まっていくわけですね。
そしてスキタイ風の騎馬戦法を取り入れた匈奴は、中国に住む漢民族をさんざん悩ますようになります。
では、その匈奴は、一体いつ頃から歴史の舞台に登場するようになったのでしょう?
はっきりと名前が出てくるのは、秦の時代です。
秦の始皇帝という有名な皇帝がおりまして、彼が中国で最初の統一王朝を開くわけですが、その秦の始皇帝ですら退治できなかった強い勢力として、匈奴の名が登場します。
始皇帝は匈奴を絶滅することができず、仕方なくその侵略をくい止めるために、中国の北側をすべて守るような長大な長城を造ります。
それが 「万里の長城」 ですね。

しかし、始皇帝はこの長城を造るために莫大な費用をかけすぎ、財政的にも破綻して死後わずか17年にして、その帝国も滅びます。
それから中国は長い戦乱の時代に入るわけですが、やがて2人の英雄によって統一の兆しが見えはじめます。2人の英雄というのは、有名な項羽 (こうう) と劉邦 (りゅうほう) ですね。
最初は2人とも仲が良かったわけですが、国内の敵が少しずつ減っていくに従って、やがてどちらが国を統一するかということで敵対関係に入ります。
この項羽と劉邦の対決は、中国でも人気のある話で、おそらく三国志の次ぐらいに有名な話になっています。細かいことは省きますが、最終的に勝った劉邦がやがて中国を統一し、漢王朝を開くわけですね。
ところが、劉邦が漢を開いたと同じ頃、実は中国史の中ではもう一人の偉大な英雄が頭角を現していたわけです。それが匈奴の冒頓単于 (ぼくとつ・ぜんう) です。

この 「冒頓」 という字も、中国人がつけた当て字なんですね。
匈奴の方ではなんと発音していたか。
それははっきりと分からないのですが、たぶん 「ボクトゥル」 というような発音ではなかったかといわれています。
で、単于 (ぜんう) というのはいわば 「王様」 という意味ですね。
後に、遊牧民の王様を 「カーン」 とか 「ハーン」 とかいいますが、この時代は 「単于」 という名前を使っておりました。
で、とにかく匈奴には、冒頓単于という彼らの最盛期を開いた一大英雄が登場するわけですが、ほとんどの人は項羽や劉邦の名前は知っていても、冒頓の名前は知りません。
本当は最終的に勝ったのは、項羽でも劉邦でもなく、冒頓ではないかと言われているのに、中国史の中ではその名前は無視されています。
なぜなら、中国人があまり認めたくないような、漢にしては屈辱的な話がありまして、中国の歴史書はそのほとんどが、その表現を曖昧にしています。
どういうことかというとですね、どうやら、漢が匈奴の属国扱いを受けていた時代というのがあったようなんですね。
順を追って話しましょう。
とにかく、項羽を倒して漢を開いた劉邦は、いよいよ中国人の悩みのタネである匈奴を滅ぼそうと考えます。
なにしろ劉邦の起こした漢王朝には、中国を統一するぐらいの力があったわけですから、草原の野蛮人などやっつけるのは簡単だと思ったことでしょう。
そこで劉邦は、自ら30万という軍勢を引き連れて、はるか北の匈奴の土地まで大遠征を行います。
一方冒頓単于も漢の遠征軍が攻めてくるというので、自らも30万ぐらいの軍勢を引き連れて、これを迎え討つために南下します。
どちらも当時の東アジアで最強の軍勢同士だったわけで、司令官の力が互角だったらどちらが勝ってもおかしくないような状況だったでしょう。
しかし、匈奴の冒頓の方が一枚上手だったわけですね。
冒頓は、わざと痩せた馬に老人の兵を乗せて、チョコっと戦わせてはすぐ逃げる。
思慮深い司令官なら 「なんだか様子が変だぞ」 と思うところでしょうが、勢いに乗っていた劉邦は、「なんだ匈奴は弱いぞ」 とどんどん追いかけます。
すると、またまた弱い匈奴兵がチョコッと出てきて、戦ってはすぐ逃げる。
漢が追う。
それを繰り返しているうちに、劉邦はいつのまにか、漢の兵隊が苦手な広大な大平原のまっただ中に誘い込まれてしまったわけですね。
ある朝気づいて見ると、自分たちのいる丘の周囲をびっしりと匈奴の騎馬隊が囲んでいます。
それも今まで見たこともない逞 (たくま) しい馬に乗った力の強そうな若者ばかりの兵です。
その数は30万。

劉邦は、弱い匈奴兵を追いかけているうちに、いつのまにか歩兵の本隊より突出してしまい、気がつくと、自分の身を守るわずかな騎馬隊しか残っていませんでした。
「これは、まいったしくじった…」 と思ったことでしょう。
包囲されること7日間。
漢軍の食料もいよいよなくなり、万事休すという状況になってきました。
もしこのとき、匈奴の冒頓単于が総攻撃の命令をかけていたなら、劉邦の命はどうなっていたか分からず、漢という王朝もあっけなく滅亡し、その後の中国史も大きく変わったことでしょう。
しかし冒頓単于は、ここで劉邦を殺すよりも、降参させて、漢から貢ぎ物を稼いだ方がいいと判断したのでしょう。
わざと一部の囲みを解いて、劉邦が脱出できるような逃げ道をつくってやります。
一説によると、劉邦の部下に頭の良い男が一人いて、その男がですねぇ、こっそり冒頓単于の奥様に使者を立てたというんですね。
で、使者をして、冒頓の奥様にこう言わせたそうです。
「漢の宮廷には化粧も美しく、色っぽい若い女がたくさんいます。もし今単于殿がここで劉邦を滅ぼしたら、単于殿はその色っぽい女たちをゴソッと手に入れることでしょう。
それが嫌なら、奥様の方から単于に働きかけて、劉邦を逃がすように取り計らった方が賢明でございます」
「分かりました。私の方から冒頓にすぐさま囲みを解くように申し伝えましょう」
と、冒頓の奥様が、「劉邦を生かすように」 と冒頓に進言したというわけであります。
ま、そんなことが本当にあったかどうか分かりませんが、とにかく劉邦は命からがら匈奴の囲みから脱出し、なんとか漢の面目を保ちます。
しかし、心の中では負けたという意識がどうしても拭いきれないわけですね。
だから、匈奴の使者がやって来ると、どうしても頭が上がりません。
この頃、匈奴の使者が漢にどんなものを要求していたか。
匈奴の使者は、こう言うわけです。
「漢は匈奴に対し、毎年たくさんの宝物やご馳走、おいしいお酒、贅沢な絹の着物、それに王室のお姫様を差し出すこと」
こんな要求をされても、漢はそれを断ることができません。

もともと中国王朝は、臣下として服従の意を表明した周辺諸国には、ご褒美として、その諸国が献上した土産物よりも、さらに豪華な品々をたくさん持って帰らせるという態度を取ってきましたが、どうも匈奴に対しては、ちょっとニュアンスが違いますね。
明らかに、匈奴に対しては過剰に遇しているわけです。
どうもそこには、必死になって、なだめて、すかして、匈奴のご機嫌を取っているという感じが伝わってまいります。
しかし、このことは中国の歴史の中では大っぴらにされておりません。
中国史では、あくまでも匈奴と漢の関係は対等の平和条約ということになっておりますが、以上の事実から推測すると、どう考えても 「親分は匈奴で、漢は子分」 という関係であった気配が濃厚です。
これは言ってしまえば、戦後ずっと続いた日米安保条約…日米軍事同盟のようなものですね。
漢は匈奴の軍事力によって国の安定を維持し、外敵の脅威から守ってもらう。
そのかわり、匈奴の求める経済的な援助は何でも行う。
20世紀の日本とアメリカのような条約が、紀元前の漢と匈奴の間に交わされたのでしょうね。
現にこのあと漢は匈奴の軍事力に守られながら、国内整備に全力を傾け、やがて、匈奴と本格的な戦争を行えるほどの基礎体力をつけていくわけですが、ま、それはもう少し先の話です。
それでは、次回は匈奴の冒頓単于という王様が、いかにして強大な権力を手に入れるようになったか。そのお話してみようと思います。
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。
「匈奴の話 1」
今日はその2回目 「遊牧という文化とは何か」 をお送りいたします。
それでは先生お願いします。
【町田】 皆さん、こんにちは。
さて、前回は、中国史に登場する 「匈奴 (きょうど) 」 という謎の遊牧騎馬民族のお話をいたしましたけれど、今回その続きをお話する前に、「遊牧」 という生活がどのようなものであるのか、それをちょっとお話することにいたしましょう。
で、この 「遊牧」 とよく対比されるのが 「農耕」 なわけですが、皆さまは、遊牧と農耕はどちらが先に生まれたか、ご存知でしょうか。
一般的なイメージでいいますと、遊牧の方が原始的で、農耕の方が文明的というような印象がありますから、当然遊牧の方が農耕よりも古いと思われがちですね。
ところがですね、実は、遊牧の方が比較的新しい生活様式なんですね。農耕の方がはるかに古いわけです。
遊牧というのは、草食動物が棲む場所で、人間も一緒に生活するという技術ですが、動物が棲みやすい場所というのは、人間には住みづらい場所なんですね。草原がその典型ですね。
なにしろだだっ広い草原では、水を飲みに行きたくとも遠くまで歩かねばならない。
水場が遠ければ畑なども耕せない。
狩猟をしようにも、鹿やウサギだってすぐ走って遠くまで逃げてしまう。
逆に、平原のまっただ中で狼に取り囲まれることもある。
そんなわけで、草原というのは長い間人間が住むには適さない場所だと思われていました。
だから、人間は水場が近いオアシスのような場所か、河のほとりなど畑を耕しながら生活をすることを始めたわけです。
そして、その畑の周囲で、少しずつ野生の動物などを飼い慣らし、家畜として養うようになっていったわけですね。
で、オアシスの住民に飼われていた家畜の中に 「馬」 という動物がいました。
おそらく、最初はあまり大事にされていなかった家畜ではないかと思います。
食用にしても牛なんかよりも不味い。
すばしっこくて、なかなか人間の言うことをきかないので、牛や羊よりも扱いづらい。せいぜい殺して皮を利用するぐらいしか意味のない家畜でした。
その馬を相手に、ある日一人の若者が無謀な冒険を試みます。
その若者の名前は分かっていません。人種的に何人であるかも分かりません。もしかしたら若者でもなくて中年かもしれません。時代も、いつのことかはっきりしません。
…ま、おそらくは紀元前600年ぐらいに黒海北岸にたむろしていた民族の誰かだったと思いますが、その彼が、とにかくとんでもないチャレンジを行ったわけです。
その行為が、後の人類史を大きく書き換えるなどという自覚もまったくなしに…ですね。
それは、馬の背に跨ったということなんです。
最初は遊びだったのでしょう。
もちろん何度か振り落とされ、跳ね飛ばされて怪我をしそうになったことでしょう。
しかしその彼は、今までの人間と違って、そこで諦めなかった。
それまでの人々は、「無理だよ、無理! 馬に乗るなんてのは、竹槍でB29を落すようなもんだよ」 ……このたとえが分かる人は、もう相当のご年配かもしれませんが、まぁ 「馬に跨ろうなんてのは、太平洋を泳いでアメリカに渡ろうみたいなもんだよ」 っていうような感じで、ハナから無理なものと決めつけられていたわけですね。
しかしその若者はですね、諦めることなくトライし続けているうちに、ついに馬の背に乗って草原を走り始めたわけです。
その時の彼の気持ちがどんなものだったか!
彼が残した日記があるわけではないので、なんともいえませんが、ま、初めて空を飛んだライト兄弟みたいな気分だったのでしょうかね。
とにかく、これは自動車の発明や飛行機の発明以上に、人類にとっては空前絶後の画期的な大事件だったわけですね。
馬という機動力を得て、人類は初めて広大な大草原に踏み出していくことができたわけです。
草原を走り回るたくさんの羊や牛の群を管理するなどという遊牧は、この乗馬という技術抜きには語れません。
で、やがてオアシスの農耕民族の中からですねぇ、馬に乗って、郊外で羊や牛やラクダなど管理することを役目とする人たちが誕生します。
村から遠く離れるので、しばらく家に帰ってきませんので、そのうち奥さんや子供たちも草原に連れていくようになります。
すると、草原で暮らすのもまんざら悪いもんではないと分かってきたんですね。
なぜなら、食べ物はその家畜を利用すればよろしい。何も殺して肉を食べなくても、その乳をしぼってチーズやバターやヨーグルトを作ればよろしい。
喉が渇いたら、馬の乳を発行させた飲み物で乾きを癒す。この馬の乳はお酒…馬乳酒ですね…お酒にもなる。
着るものはその家畜の毛皮でよろしい。
寝る場所も、その毛皮で作ったテントの中で寝ればいい…ということになると、「ま、別に村に帰らんでもいいか…」 となるわけですね。
……ま、これが遊牧民の誕生ですね。
さて、馬に乗ることを覚えて、初めて可能になった遊牧生活。
それは同時に軍事力の獲得でもありました。
戦争というのは、相手より早く移動した方が勝ちという性格が非常に強いものです。
攻めるのみ逃げるのも早い方が有利なわけですね。
こうして、乗馬の技術を覚えた遊牧民は、また戦いの専門家にもなりました。
人類史上、最初の騎馬軍団をつくったのはスキタイと呼ばれる民族です。
これは今の黒海の北岸あたりに勢力を持った民族で、当時の強国として知られるペルシャやギリシャの人々をさんざん悩ませます。
▲ スキタイ人を描いたタペストリー
ま、このスキタイ風の遊牧騎馬文化というのが、草原づたいに東へ東へと伝わっていってですね、それが先ほど紹介した匈奴たちのいる東アジアまで広まっていくわけですね。
そしてスキタイ風の騎馬戦法を取り入れた匈奴は、中国に住む漢民族をさんざん悩ますようになります。
では、その匈奴は、一体いつ頃から歴史の舞台に登場するようになったのでしょう?
はっきりと名前が出てくるのは、秦の時代です。
秦の始皇帝という有名な皇帝がおりまして、彼が中国で最初の統一王朝を開くわけですが、その秦の始皇帝ですら退治できなかった強い勢力として、匈奴の名が登場します。
始皇帝は匈奴を絶滅することができず、仕方なくその侵略をくい止めるために、中国の北側をすべて守るような長大な長城を造ります。
それが 「万里の長城」 ですね。
しかし、始皇帝はこの長城を造るために莫大な費用をかけすぎ、財政的にも破綻して死後わずか17年にして、その帝国も滅びます。
それから中国は長い戦乱の時代に入るわけですが、やがて2人の英雄によって統一の兆しが見えはじめます。2人の英雄というのは、有名な項羽 (こうう) と劉邦 (りゅうほう) ですね。
最初は2人とも仲が良かったわけですが、国内の敵が少しずつ減っていくに従って、やがてどちらが国を統一するかということで敵対関係に入ります。
この項羽と劉邦の対決は、中国でも人気のある話で、おそらく三国志の次ぐらいに有名な話になっています。細かいことは省きますが、最終的に勝った劉邦がやがて中国を統一し、漢王朝を開くわけですね。
ところが、劉邦が漢を開いたと同じ頃、実は中国史の中ではもう一人の偉大な英雄が頭角を現していたわけです。それが匈奴の冒頓単于 (ぼくとつ・ぜんう) です。
この 「冒頓」 という字も、中国人がつけた当て字なんですね。
匈奴の方ではなんと発音していたか。
それははっきりと分からないのですが、たぶん 「ボクトゥル」 というような発音ではなかったかといわれています。
で、単于 (ぜんう) というのはいわば 「王様」 という意味ですね。
後に、遊牧民の王様を 「カーン」 とか 「ハーン」 とかいいますが、この時代は 「単于」 という名前を使っておりました。
で、とにかく匈奴には、冒頓単于という彼らの最盛期を開いた一大英雄が登場するわけですが、ほとんどの人は項羽や劉邦の名前は知っていても、冒頓の名前は知りません。
本当は最終的に勝ったのは、項羽でも劉邦でもなく、冒頓ではないかと言われているのに、中国史の中ではその名前は無視されています。
なぜなら、中国人があまり認めたくないような、漢にしては屈辱的な話がありまして、中国の歴史書はそのほとんどが、その表現を曖昧にしています。
どういうことかというとですね、どうやら、漢が匈奴の属国扱いを受けていた時代というのがあったようなんですね。
順を追って話しましょう。
とにかく、項羽を倒して漢を開いた劉邦は、いよいよ中国人の悩みのタネである匈奴を滅ぼそうと考えます。
なにしろ劉邦の起こした漢王朝には、中国を統一するぐらいの力があったわけですから、草原の野蛮人などやっつけるのは簡単だと思ったことでしょう。
そこで劉邦は、自ら30万という軍勢を引き連れて、はるか北の匈奴の土地まで大遠征を行います。
一方冒頓単于も漢の遠征軍が攻めてくるというので、自らも30万ぐらいの軍勢を引き連れて、これを迎え討つために南下します。
どちらも当時の東アジアで最強の軍勢同士だったわけで、司令官の力が互角だったらどちらが勝ってもおかしくないような状況だったでしょう。
しかし、匈奴の冒頓の方が一枚上手だったわけですね。
冒頓は、わざと痩せた馬に老人の兵を乗せて、チョコっと戦わせてはすぐ逃げる。
思慮深い司令官なら 「なんだか様子が変だぞ」 と思うところでしょうが、勢いに乗っていた劉邦は、「なんだ匈奴は弱いぞ」 とどんどん追いかけます。
すると、またまた弱い匈奴兵がチョコッと出てきて、戦ってはすぐ逃げる。
漢が追う。
それを繰り返しているうちに、劉邦はいつのまにか、漢の兵隊が苦手な広大な大平原のまっただ中に誘い込まれてしまったわけですね。
ある朝気づいて見ると、自分たちのいる丘の周囲をびっしりと匈奴の騎馬隊が囲んでいます。
それも今まで見たこともない逞 (たくま) しい馬に乗った力の強そうな若者ばかりの兵です。
その数は30万。
劉邦は、弱い匈奴兵を追いかけているうちに、いつのまにか歩兵の本隊より突出してしまい、気がつくと、自分の身を守るわずかな騎馬隊しか残っていませんでした。
「これは、まいったしくじった…」 と思ったことでしょう。
包囲されること7日間。
漢軍の食料もいよいよなくなり、万事休すという状況になってきました。
もしこのとき、匈奴の冒頓単于が総攻撃の命令をかけていたなら、劉邦の命はどうなっていたか分からず、漢という王朝もあっけなく滅亡し、その後の中国史も大きく変わったことでしょう。
しかし冒頓単于は、ここで劉邦を殺すよりも、降参させて、漢から貢ぎ物を稼いだ方がいいと判断したのでしょう。
わざと一部の囲みを解いて、劉邦が脱出できるような逃げ道をつくってやります。
一説によると、劉邦の部下に頭の良い男が一人いて、その男がですねぇ、こっそり冒頓単于の奥様に使者を立てたというんですね。
で、使者をして、冒頓の奥様にこう言わせたそうです。
「漢の宮廷には化粧も美しく、色っぽい若い女がたくさんいます。もし今単于殿がここで劉邦を滅ぼしたら、単于殿はその色っぽい女たちをゴソッと手に入れることでしょう。
それが嫌なら、奥様の方から単于に働きかけて、劉邦を逃がすように取り計らった方が賢明でございます」
「分かりました。私の方から冒頓にすぐさま囲みを解くように申し伝えましょう」
と、冒頓の奥様が、「劉邦を生かすように」 と冒頓に進言したというわけであります。
ま、そんなことが本当にあったかどうか分かりませんが、とにかく劉邦は命からがら匈奴の囲みから脱出し、なんとか漢の面目を保ちます。
しかし、心の中では負けたという意識がどうしても拭いきれないわけですね。
だから、匈奴の使者がやって来ると、どうしても頭が上がりません。
この頃、匈奴の使者が漢にどんなものを要求していたか。
匈奴の使者は、こう言うわけです。
「漢は匈奴に対し、毎年たくさんの宝物やご馳走、おいしいお酒、贅沢な絹の着物、それに王室のお姫様を差し出すこと」
こんな要求をされても、漢はそれを断ることができません。
もともと中国王朝は、臣下として服従の意を表明した周辺諸国には、ご褒美として、その諸国が献上した土産物よりも、さらに豪華な品々をたくさん持って帰らせるという態度を取ってきましたが、どうも匈奴に対しては、ちょっとニュアンスが違いますね。
明らかに、匈奴に対しては過剰に遇しているわけです。
どうもそこには、必死になって、なだめて、すかして、匈奴のご機嫌を取っているという感じが伝わってまいります。
しかし、このことは中国の歴史の中では大っぴらにされておりません。
中国史では、あくまでも匈奴と漢の関係は対等の平和条約ということになっておりますが、以上の事実から推測すると、どう考えても 「親分は匈奴で、漢は子分」 という関係であった気配が濃厚です。
これは言ってしまえば、戦後ずっと続いた日米安保条約…日米軍事同盟のようなものですね。
漢は匈奴の軍事力によって国の安定を維持し、外敵の脅威から守ってもらう。
そのかわり、匈奴の求める経済的な援助は何でも行う。
20世紀の日本とアメリカのような条約が、紀元前の漢と匈奴の間に交わされたのでしょうね。
現にこのあと漢は匈奴の軍事力に守られながら、国内整備に全力を傾け、やがて、匈奴と本格的な戦争を行えるほどの基礎体力をつけていくわけですが、ま、それはもう少し先の話です。
それでは、次回は匈奴の冒頓単于という王様が、いかにして強大な権力を手に入れるようになったか。そのお話してみようと思います。
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。
「匈奴の話 1」
2009年01月12日
匈奴の話 1
【司会】 『歴史講座』 の時間です。今回は “遊牧民の文化と歴史” というテーマで、下連雀大学の町田先生をお迎えしております。
それでは先生お願いします。
【町田】 えー、皆さんこんにちは。
今日はですね、東アジアの遊牧騎馬民族の歴史を解釈しながらですね、同時に遊牧というものが人類の文化に貢献した意義、あるいは現代文明のなかに今も残る遊牧文化の影響などといったものを考えていきたいと思います。
…で、皆様は遊牧民の歴史というと、何を最初に思い浮かべるでしょうか。日本人には馴染み深いジンギスカンと蒙古の話でしょうかね。

確かに、モンゴル人によるアジアからヨーロッパにまたがる大帝国の出現は、まさに世界史の中では画期的なことだったわけですね。
東は朝鮮半島から西は今の東欧諸国まで。北半球のほぼ半分を多い尽くすほどの大領土を実現した国家はそれまで地球上にはなく、またその後も出現することがなかったわけですね。
モンゴルによる世界帝国が実現したが故に、その領土内を安全に通行できるという保証が生まれ、マルコ・ポーロのような旅行家がイタリアから中国まで旅するようになったわけです。
そのときに始めて本当の意味の 「西と東の情報交流」 が生まれたわけで…つまりですね、ジパングなる黄金の国がある…なんていうことが、ヨーロッパ人にも知られるようになったりしたという意味で…、モンゴルの世界帝国は人類の歴史の一大事件といえるかもしれません。ある歴史家などは 「世界史はモンゴルによって始めて誕生した」 などといっているくらいです。

ま、それほど有名なジンギスカンと蒙古の話ではありますが、今回はその有名なお話はちょっと置いておいて、そのはるか昔、同じようにモンゴル高原に生まれ、広大なユーラシア平原をモンゴルと同じように縦横に駆け回り、当時の中国…漢の時代ですね…その漢に大いに恐れられたにもかかわらず、日本人はほとんど知られていない遊牧民族の話をいたしましょう。
モンゴルの時代が12世紀…日本では鎌倉幕府ができる頃ですが…その12世紀から遡ることさらに1千年。つまり今から2千年以上も昔の話です。今のモンゴル高原に 「匈奴 (きょうど) 」 という1部族が遊牧をしながら生活をしておりました。

これが東アジアでは最初の本格的な遊牧騎馬帝国をつくった民族といわれるのですが、どうも日本人にはあまり知られていません。
一つには、彼らが文字を残さなかった…つまり自分たちの生活を伝える言葉を何一つ後世に残さなかったということがあるでしょう。
もう一つは、記録を残した中国人から 「文化の遅れた野蛮人、未開の蛮族」 として見られたことによってですね、正統的な中国史の筋道から外れた扱いをされていたということもあるでしょう。匈奴は中国史の中では常に悪役、仇役だったわけで、ほとんどいい扱いをうけておりません。

実際 「匈奴」 という字は凄い字を書くんですね。「凶悪」 とか 「凶暴」 、「凶器」 などというときの 「凶」 の字がありますね。おみくじの 「大凶」 とかいうときの 「凶」 ですね。
その 「凶」 の字の上にツツミガマエ…漢字の 「包む」 という字がありますが、その上の部分を乗せたのが 「匈奴」 の 「匈 (きょう) 」 の字です。
実際匈奴の人たちはフェルトの頭巾 (ずきん) をよく被っていましたから、まさに “頭巾姿の凶悪なヤツ” といったイメージでしょうかね。
また、匈奴の 「奴(ど)」 は奴隷の 「奴」 と書きますから、これも当然いいイメージの字ではありません。ヤツとかヤッコとか言って、人をさげすむときに使う言葉ですね。
もちろんこの 「匈奴」 という字は、彼らを悪役に仕立てた中国人が当てはめたもので、実際匈奴の人たちが自分たちを表現した言葉でありません。
しかし、この漢字の当てはめからしても、いかに中国人が匈奴のことをバカにしながらも、恐れおののいていた…という感じが伝わってきませんか?
では、実際匈奴の人たちが自分たちのことを何と呼んでいたのか?
実はこれがはっきり分かっておりません。
多分、フンヌとかヒュンヌ…に近い発音をしていたのではないかといわれています。
だから 「匈奴」 という文字も、古代の中国人はそれをフンヌとかヒュンヌ…に近い音 (オト) で読ませていたのかも知れません。
とにかく匈奴に関しては謎だらけでして、彼らが人種的に何人なのか、それもよく分かっていません。
多分、後の蒙古人と同じようなモンゴル系…我々の顔立ちに近いアジア人だったろうという説が有力なのですが、一部にはトルコ系だったという説もあります。
また、昔、匈奴の王族の墓と思われる墓がロシア領内で発見されまして、その中に埋葬されていた人骨を調べてみると、アーリア人…白人ですね。それも北欧人のような体格をしていたというのです。
そんなわけで、匈奴の指導層は白人だったという説もあります。トルコ系かモンゴル系か、それともアーリア系か。このへんもはっきりしないのが実状です。

そしてもっと謎なのは、一大遊牧帝国を作った彼らが、その後どうなったのか。
もちろん長い漢との戦いのあと、匈奴は大分衰弱して仲間割れを起こし、その一部は漢に降伏して、中国内部で暮らすことになるのですが、仲間割れを起こしたもう一方のグループは、忽然と歴史の舞台から姿を消してしまうわけです。
いったい匈奴の主力はどこに行ったのか?
このあたりも歴史オタクたちの議論に登る大問題です。
…で、匈奴の主力グループが中国史の舞台から姿を消す頃…つまり4世紀から5世紀の頃ですが…今度はヨーロッパ史の舞台にフン族という騎馬民族が登場します。それが、「ゲルマン民族の大移動」 ……世界史の勉強で習いませんでしたか?… 「ゲルマン民族の大移動」 。
そのきっかけをつくったと言われる民族です。
ゲルマン人たちが大挙してローマ帝国の内部に移動してきたのは、東からやって来たフン族という騎馬民族に追われて、その玉突き現象によるものだというわけですね。
だから、ローマ帝国はこのフン族の侵略がきっかけで滅んだといってもいいかもしれません。

▲ フン族の 「偉大なる王」 といわれたアッティラ
で、このフン族こそ、実はアジアから姿を消した匈奴ではないかという説があるのです。
獰猛で残忍、野蛮で好戦的。ヨーロッパ史に描かれるフン族の描写は、まさに中国人が描いた匈奴にそっくりなわけですね。
しかも 「匈奴」 という文字は、古代にはフンヌとかヒュンヌとか読まれていたらしい。
これなんかも、フン族の 「フン」 に近い響きがありますよね。
さらに、匈奴が中国から姿を消した時期とフン族がヨーロッパに現れる時期が、計算的にもピッタリする…というわけで、「フン族=匈奴」 説を唱える学者もいるのですが、実はこれもはっきりしたことが分かりません。
なにしろ匈奴もフン族も文字を持たない民族なので、記録というのが一切残っていないのです。
もしフン族が匈奴ならば、彼らは、それこそ東アジアをスタートして西へ西へと進み、ついにはヨーロッパの中心地ローマの近くまで攻め登ったことになってですね、とてつもない広い地域を舞台に大暴れした民族ということになるのですが、それも現時点ではまったく証拠がないわけで、歴史上の謎になったままです。

ま、このようにですね、匈奴という民族を研究することは、様々な謎と向き合うことになるわけで、そこが 「匈奴ファン」 にとってはたまらない魅力になっているのでしょうね。
今 “匈奴ファン” という言葉を使いましたが、確かに、匈奴という民族は、阪神タイガースと同じようにですね、なんか強いようで弱い、獰猛でありながらすぐ腰砕けになる…連勝を始めたかと思って応援に力を入れると連敗を続けるという感じで、とにかくファン層を形成するための基本条件を完璧に備えた民族ですね。
人間は、あまりにも強くて完璧な民族や軍団にはファンになりませんね。ローマ軍ファンとかアメリカ人ファンとかいうのはあまり聞いたことがありません。
しかし匈奴ファンというのは、確かにいますね。私がそうなわけですから。余談ですが…。
では、匈奴はいったいなぜ中国の人々から恐れられたのか。
それについてお話しましょう。

「天高く、馬肥える秋」 という言葉があります。
日本では 「食欲の秋」 という言葉と同義語になっている言葉ですね。秋は食い物が旨いので、腹一杯食ってしまうので、つい太ってしまう…という意味合いで使われます。
しかし実は、これは古代中国の農民たちの “嘆きに満ちたつぶやき” だったわけですね。
馬肥える…つまり馬が逞 (たくま) しくなるという意味ですが、その馬は一体誰の馬か?
もちろんこれは匈奴の馬なわけです。夏草を思いのままに食べた匈奴の馬が、その逞しくなった体に残忍な主人を乗せて、中国人を襲いに来るというわけです。
つまり中国の農村では、秋の収穫時が近づいてくると、北の草原の彼方からやって来る匈奴に、農作物や家畜や人が奪われていたわけですね。
このへんは黒沢明の 『七人の侍』 や、西部劇の 『荒野の七人』 に出てくる野武士とか山賊のイメージでしょうね。
やっぱり匈奴は悪いんじゃん! ということになりますが、彼らは別に悪いことをしているという意識はなかったらしいんですね。
他国の領土に侵略して、物を盗み、家畜や人をさらっていく。これは立派な犯罪行為でしょうし、侵略された方からすれば戦争を仕掛けられたようなものでしょう。
しかし匈奴には戦争と狩猟の区別はそれほどなかったと言われています。
つまり匈奴にしてみれば、それは森の中で鹿を狩ったり、ウサギを狩ったりする狩猟の延長だったわけですね。だから、適当にエモノを手に入れると、さっさと北の草原に帰っていきます。

匈奴には、侵略した土地を占領するという考えは毛頭もありません。
第一彼らには 「国境」 という概念がありません。
遊牧というのは、馬や羊が食べる草を追って点々と移動して行くわけですから、彼らには町や村というものがありません。
馬や羊が生きていける草原が続く限り、そこは自分たちの領土ですし、ウサギや鹿を狩猟する森林がある限り、その果てしなく続く森林全体が領土です。草原があるかぎり、そこに暮らすウサギや鹿や人や農作物はみな取ったものが勝ちなわけですね。
随分自分勝手な考え方だと思うでしょうが、実際に匈奴にさらわれた中国の農民が悲惨だったかのかどうか。…そうとばかりはいえない面もあるようです。
というのは、匈奴と中国…その時代の中国は漢の時代ですが、匈奴と漢が停戦協定を結んで平和にしていた時代もあります。
その時、漢が匈奴に申し込んだことは、「匈奴に逃れようとした漢の農民を、匈奴は受け入れてはならない」 というのが条件だったというんですね。
つまり漢の搾取の方が農民には辛く、匈奴の奴隷になった方が生活が楽だったという面もあるらしいのです。
だから自分の田畑を捨てて、自ら奴隷になるために匈奴の土地に逃亡した農民たちも実に多かったといいます。
働いても働いても搾取される中国にいるよりも、匈奴の土地で適当に毛皮など縫ったりしていた方が生活が楽…という考えもあったのでしょう。
なにしろ中国人は一応文明人ですから、匈奴の世界ではとても重宝されます。
文字が書けたり、数を数えるのが上手だったりすれば、匈奴の世界でどんどん出世します。
そんなわけで、この時代は匈奴の宮廷の中に入って匈奴の王様に使えて活躍した中国人もいっぱいいたと言われています。

それでは、次回は 「遊牧」 というライフスタイルがどんなものであるのか。また、それはどういう文化を形成したのか。そんなことをお話してみようと思います。
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。
それでは先生お願いします。
【町田】 えー、皆さんこんにちは。
今日はですね、東アジアの遊牧騎馬民族の歴史を解釈しながらですね、同時に遊牧というものが人類の文化に貢献した意義、あるいは現代文明のなかに今も残る遊牧文化の影響などといったものを考えていきたいと思います。
…で、皆様は遊牧民の歴史というと、何を最初に思い浮かべるでしょうか。日本人には馴染み深いジンギスカンと蒙古の話でしょうかね。
確かに、モンゴル人によるアジアからヨーロッパにまたがる大帝国の出現は、まさに世界史の中では画期的なことだったわけですね。
東は朝鮮半島から西は今の東欧諸国まで。北半球のほぼ半分を多い尽くすほどの大領土を実現した国家はそれまで地球上にはなく、またその後も出現することがなかったわけですね。
モンゴルによる世界帝国が実現したが故に、その領土内を安全に通行できるという保証が生まれ、マルコ・ポーロのような旅行家がイタリアから中国まで旅するようになったわけです。
そのときに始めて本当の意味の 「西と東の情報交流」 が生まれたわけで…つまりですね、ジパングなる黄金の国がある…なんていうことが、ヨーロッパ人にも知られるようになったりしたという意味で…、モンゴルの世界帝国は人類の歴史の一大事件といえるかもしれません。ある歴史家などは 「世界史はモンゴルによって始めて誕生した」 などといっているくらいです。
ま、それほど有名なジンギスカンと蒙古の話ではありますが、今回はその有名なお話はちょっと置いておいて、そのはるか昔、同じようにモンゴル高原に生まれ、広大なユーラシア平原をモンゴルと同じように縦横に駆け回り、当時の中国…漢の時代ですね…その漢に大いに恐れられたにもかかわらず、日本人はほとんど知られていない遊牧民族の話をいたしましょう。
モンゴルの時代が12世紀…日本では鎌倉幕府ができる頃ですが…その12世紀から遡ることさらに1千年。つまり今から2千年以上も昔の話です。今のモンゴル高原に 「匈奴 (きょうど) 」 という1部族が遊牧をしながら生活をしておりました。
これが東アジアでは最初の本格的な遊牧騎馬帝国をつくった民族といわれるのですが、どうも日本人にはあまり知られていません。
一つには、彼らが文字を残さなかった…つまり自分たちの生活を伝える言葉を何一つ後世に残さなかったということがあるでしょう。
もう一つは、記録を残した中国人から 「文化の遅れた野蛮人、未開の蛮族」 として見られたことによってですね、正統的な中国史の筋道から外れた扱いをされていたということもあるでしょう。匈奴は中国史の中では常に悪役、仇役だったわけで、ほとんどいい扱いをうけておりません。
実際 「匈奴」 という字は凄い字を書くんですね。「凶悪」 とか 「凶暴」 、「凶器」 などというときの 「凶」 の字がありますね。おみくじの 「大凶」 とかいうときの 「凶」 ですね。
その 「凶」 の字の上にツツミガマエ…漢字の 「包む」 という字がありますが、その上の部分を乗せたのが 「匈奴」 の 「匈 (きょう) 」 の字です。
実際匈奴の人たちはフェルトの頭巾 (ずきん) をよく被っていましたから、まさに “頭巾姿の凶悪なヤツ” といったイメージでしょうかね。
また、匈奴の 「奴(ど)」 は奴隷の 「奴」 と書きますから、これも当然いいイメージの字ではありません。ヤツとかヤッコとか言って、人をさげすむときに使う言葉ですね。
もちろんこの 「匈奴」 という字は、彼らを悪役に仕立てた中国人が当てはめたもので、実際匈奴の人たちが自分たちを表現した言葉でありません。
しかし、この漢字の当てはめからしても、いかに中国人が匈奴のことをバカにしながらも、恐れおののいていた…という感じが伝わってきませんか?
では、実際匈奴の人たちが自分たちのことを何と呼んでいたのか?
実はこれがはっきり分かっておりません。
多分、フンヌとかヒュンヌ…に近い発音をしていたのではないかといわれています。
だから 「匈奴」 という文字も、古代の中国人はそれをフンヌとかヒュンヌ…に近い音 (オト) で読ませていたのかも知れません。
とにかく匈奴に関しては謎だらけでして、彼らが人種的に何人なのか、それもよく分かっていません。
多分、後の蒙古人と同じようなモンゴル系…我々の顔立ちに近いアジア人だったろうという説が有力なのですが、一部にはトルコ系だったという説もあります。
また、昔、匈奴の王族の墓と思われる墓がロシア領内で発見されまして、その中に埋葬されていた人骨を調べてみると、アーリア人…白人ですね。それも北欧人のような体格をしていたというのです。
そんなわけで、匈奴の指導層は白人だったという説もあります。トルコ系かモンゴル系か、それともアーリア系か。このへんもはっきりしないのが実状です。
そしてもっと謎なのは、一大遊牧帝国を作った彼らが、その後どうなったのか。
もちろん長い漢との戦いのあと、匈奴は大分衰弱して仲間割れを起こし、その一部は漢に降伏して、中国内部で暮らすことになるのですが、仲間割れを起こしたもう一方のグループは、忽然と歴史の舞台から姿を消してしまうわけです。
いったい匈奴の主力はどこに行ったのか?
このあたりも歴史オタクたちの議論に登る大問題です。
…で、匈奴の主力グループが中国史の舞台から姿を消す頃…つまり4世紀から5世紀の頃ですが…今度はヨーロッパ史の舞台にフン族という騎馬民族が登場します。それが、「ゲルマン民族の大移動」 ……世界史の勉強で習いませんでしたか?… 「ゲルマン民族の大移動」 。
そのきっかけをつくったと言われる民族です。
ゲルマン人たちが大挙してローマ帝国の内部に移動してきたのは、東からやって来たフン族という騎馬民族に追われて、その玉突き現象によるものだというわけですね。
だから、ローマ帝国はこのフン族の侵略がきっかけで滅んだといってもいいかもしれません。
▲ フン族の 「偉大なる王」 といわれたアッティラ
で、このフン族こそ、実はアジアから姿を消した匈奴ではないかという説があるのです。
獰猛で残忍、野蛮で好戦的。ヨーロッパ史に描かれるフン族の描写は、まさに中国人が描いた匈奴にそっくりなわけですね。
しかも 「匈奴」 という文字は、古代にはフンヌとかヒュンヌとか読まれていたらしい。
これなんかも、フン族の 「フン」 に近い響きがありますよね。
さらに、匈奴が中国から姿を消した時期とフン族がヨーロッパに現れる時期が、計算的にもピッタリする…というわけで、「フン族=匈奴」 説を唱える学者もいるのですが、実はこれもはっきりしたことが分かりません。
なにしろ匈奴もフン族も文字を持たない民族なので、記録というのが一切残っていないのです。
もしフン族が匈奴ならば、彼らは、それこそ東アジアをスタートして西へ西へと進み、ついにはヨーロッパの中心地ローマの近くまで攻め登ったことになってですね、とてつもない広い地域を舞台に大暴れした民族ということになるのですが、それも現時点ではまったく証拠がないわけで、歴史上の謎になったままです。
ま、このようにですね、匈奴という民族を研究することは、様々な謎と向き合うことになるわけで、そこが 「匈奴ファン」 にとってはたまらない魅力になっているのでしょうね。
今 “匈奴ファン” という言葉を使いましたが、確かに、匈奴という民族は、阪神タイガースと同じようにですね、なんか強いようで弱い、獰猛でありながらすぐ腰砕けになる…連勝を始めたかと思って応援に力を入れると連敗を続けるという感じで、とにかくファン層を形成するための基本条件を完璧に備えた民族ですね。
人間は、あまりにも強くて完璧な民族や軍団にはファンになりませんね。ローマ軍ファンとかアメリカ人ファンとかいうのはあまり聞いたことがありません。
しかし匈奴ファンというのは、確かにいますね。私がそうなわけですから。余談ですが…。
では、匈奴はいったいなぜ中国の人々から恐れられたのか。
それについてお話しましょう。
「天高く、馬肥える秋」 という言葉があります。
日本では 「食欲の秋」 という言葉と同義語になっている言葉ですね。秋は食い物が旨いので、腹一杯食ってしまうので、つい太ってしまう…という意味合いで使われます。
しかし実は、これは古代中国の農民たちの “嘆きに満ちたつぶやき” だったわけですね。
馬肥える…つまり馬が逞 (たくま) しくなるという意味ですが、その馬は一体誰の馬か?
もちろんこれは匈奴の馬なわけです。夏草を思いのままに食べた匈奴の馬が、その逞しくなった体に残忍な主人を乗せて、中国人を襲いに来るというわけです。
つまり中国の農村では、秋の収穫時が近づいてくると、北の草原の彼方からやって来る匈奴に、農作物や家畜や人が奪われていたわけですね。
このへんは黒沢明の 『七人の侍』 や、西部劇の 『荒野の七人』 に出てくる野武士とか山賊のイメージでしょうね。
やっぱり匈奴は悪いんじゃん! ということになりますが、彼らは別に悪いことをしているという意識はなかったらしいんですね。
他国の領土に侵略して、物を盗み、家畜や人をさらっていく。これは立派な犯罪行為でしょうし、侵略された方からすれば戦争を仕掛けられたようなものでしょう。
しかし匈奴には戦争と狩猟の区別はそれほどなかったと言われています。
つまり匈奴にしてみれば、それは森の中で鹿を狩ったり、ウサギを狩ったりする狩猟の延長だったわけですね。だから、適当にエモノを手に入れると、さっさと北の草原に帰っていきます。
匈奴には、侵略した土地を占領するという考えは毛頭もありません。
第一彼らには 「国境」 という概念がありません。
遊牧というのは、馬や羊が食べる草を追って点々と移動して行くわけですから、彼らには町や村というものがありません。
馬や羊が生きていける草原が続く限り、そこは自分たちの領土ですし、ウサギや鹿を狩猟する森林がある限り、その果てしなく続く森林全体が領土です。草原があるかぎり、そこに暮らすウサギや鹿や人や農作物はみな取ったものが勝ちなわけですね。
随分自分勝手な考え方だと思うでしょうが、実際に匈奴にさらわれた中国の農民が悲惨だったかのかどうか。…そうとばかりはいえない面もあるようです。
というのは、匈奴と中国…その時代の中国は漢の時代ですが、匈奴と漢が停戦協定を結んで平和にしていた時代もあります。
その時、漢が匈奴に申し込んだことは、「匈奴に逃れようとした漢の農民を、匈奴は受け入れてはならない」 というのが条件だったというんですね。
つまり漢の搾取の方が農民には辛く、匈奴の奴隷になった方が生活が楽だったという面もあるらしいのです。
だから自分の田畑を捨てて、自ら奴隷になるために匈奴の土地に逃亡した農民たちも実に多かったといいます。
働いても働いても搾取される中国にいるよりも、匈奴の土地で適当に毛皮など縫ったりしていた方が生活が楽…という考えもあったのでしょう。
なにしろ中国人は一応文明人ですから、匈奴の世界ではとても重宝されます。
文字が書けたり、数を数えるのが上手だったりすれば、匈奴の世界でどんどん出世します。
そんなわけで、この時代は匈奴の宮廷の中に入って匈奴の王様に使えて活躍した中国人もいっぱいいたと言われています。
それでは、次回は 「遊牧」 というライフスタイルがどんなものであるのか。また、それはどういう文化を形成したのか。そんなことをお話してみようと思います。
【司会】 お話は下連雀大学の町田先生でした。先生どうもありがとうございました。
【町田】 はい、ごきげんよう。
2009年01月10日
オレオレブログ
読んでいるうちに、次第に腰が引けてしまうブログというのがある。
オレオレブログだ。
オレの話を聞けぇ! ってやつ。
もともとブログというのは、個人の日記をウェブ上で公開しようというものだから、ネットで公開されている以上は、「ねぇねぇ読んでね!」 という気持ちが反映されているわけで、どんな慎ましやかな体裁をとろうが、基本的に 「オレオレブログ」 であることには変わりない。
それは分かるのだが、露骨に 「オレオレ」 度が強く匂ってくると、ちょっと腰が引ける。
匂いがさらに濃厚になると、反発心がわく。
そして、耐えきれないまでに臭くなってくると、逆に興味がわいて、書かれている記事のアラ探しをしたくなってくる。
アゲ足の1本か2本でも取ってやろうかいな…というイタズラ心も芽生えてしまうわけだ。
世の中には、炎上するブログというのがあるけれど、そういったブログは、きっとオレオレガスが充満してパンパンになっている状態なんだろうな。
だから、よそから火の粉が飛んできたら、ちょっとした火でも、あっという間に大爆発することになる。
で、ある日、調べものの最中に、なんとなく腰が引けてしまうブログを拾ってしまった。
書き手が中年のオバさんらしいので、「オレオレ」 というより 「ワタクシ・ワタクシ」 ブログなんだけど、もうどの記事を拾っても 「読んでね、読んでね、読んでね」 なのである。
読んでね…はいいのだけれど、「頭いいでしょ? 勉強しているでしょ? 実力あるでしょ?」 と他人の賞賛を露骨に期待しているところが、ちょっと痛い。

▲ オレオレキング
そのブログのテーマは何かというと、「マクロ経済」 。
作者はフリーの金融系ライターさんらしい。
プロフィールを拝読すると、
「どこか真っ直ぐなところのある私にとっては、○○誌は日本一の経済金融専門誌。そこで働けるようになって、天にも昇る気分…」
と書かれているのだが、自分のことを 「真っ直ぐな私」 とか、自分の働き先を 「日本一の…」 と表現する “素直さ” は、自分には持ち合わせがないので、腰がスゥーッと引けた。
要するに、「前に出よう、出よう」 とする作者のパワーに押されて、その分、自然にこっちが引いた感じなのだ。
で、この方のプロフィールも、オレオレ度が全開であった。
国立の一流 “ブランド大学” を卒業して、経済政策論を専攻し、日本の○○研究の第一人者である○○先生に師事した……らしいんだけど……別に書いたって悪かないけど、でも自分の仕事に自信があるなら、何も 「第一人者に師事した」 とか、ブランドを誇示する必要もないんじゃないのかな、という気がしたのだ。
ま、俺ならしない (というか、人に誇示するほどの学歴がない) 。

▲ オレオレブラザーズ
で、この方は、また自己セールス欲が旺盛なのである。
偉い経済学者さんとか、政治学者さんとかが運営する人気ブログにコメント送ったついでに、自分のブログのURLを張り、「一読していただいて、ご高評いただけたら感謝です」 と書き込んで、巧みにその先生や、多くの読者を自分のブログに誘導している。
まぁ、このくらいの努力がないと、フリーランスとして成功できないことは分かるけど、いきなり初コメントで、「自分の原稿読んでください」 とお願いするのはどうなんだろう…。
いくらブログとはいえ、論文ともなれば、それ相当の文字数もあるだろうし、相手の負担だって考えなければいけない。
俺はちょっと厚かましいように思う (人それぞれだけど) 。
で、この方がブログを開設された目的は、
「大手マスコミが金融経済リテラシーの普及をしないなら、私が専門用語を使わずに、分かりやすくやります」
というところにあるらしいのだけれど、俺、「リテラシー」 という専門用語でつまずいた。
で、この方が求めているものは、「金銭的な豊かさを維持できる楽しい社会」 であり、そのブログもそういう社会を実現するためのものだという。
で、「金銭的に豊かな社会」 を実現するためには何が必要かというと、「生産力を上げるしかない」 という。
「生産力が上がれば、子供も増えて、日本の人口も増え…」 、そうすれば市場も広がり、税収も増えて、社会が潤う、…というビジョンをお持ちのようなのだ。
だけど、この説にはちょっと疑問 (もしくは説明不足) を感じる。
「生産性の向上」 がすべてという発想には限界がある。
「生産性の向上」 といっても、今の産業構造をそのまま踏襲した形の 「生産性の向上」 では、「供給の過剰」 を避けることはできない。
それは、やがては 「需要の縮小」 に移行してしまう。
さらに、今の雇用システムを維持したままの 「生産性の向上」 では、新しい設備や生産法などが導入されてくると、その帰結として、労働力の省力化が図られ、労働者のリストラがさらに加速する。
だから、これからの時代は、「生産性の向上」 を従来の経済システムとは別の文脈の中で探さねばならないのだ。
言ってしまえば、「生産性の向上」 の前に、「経済システム」 の再編成があるように思う。
ところが、この方は 「生産性の向上」 を何よりも重視するから、それを阻害する要因を許しておくことができない。
「日本には、生産性の向上を目指す “市場主義” が嫌いな人たちが多くて困ったものだ」
と彼女はいう。
おそらく 「アメリカ金融資本主義は崩壊した」 とか声高に主張する文化人たちのことを指しているのだろう。
こういうアンチ市場主義的な言動に対して、彼女はこういう。
「日本では “市場主義” が極端に排斥されすぎて、それに代わって不公平きわまりない “私情主義” がはびこるようになった。
中高年・高齢者が、そういう私情主義を振りかざして、自分の既得権ばかり主張するから、20代~30代の若者にしわ寄せがいく」
したがって、
「ろくな仕事もせずに高賃金をもらっている中高年管理職を引退させ、若年労働者に仕事の場を与えろ」
と最後は、アクロバティックな結論に、宙返りジャンプで着地する。
若い世代の気持ちを代弁しているような説なので、よくぞ言ったと溜飲を下げる人もいるかもしれない。
だけど、この主張もロジックがねじれているように思える。
もちろん気持ちは分かるけれど、引退させた中高年をどう扱うのかというビジョンは、この記事を載せたブログの範囲では見つからない。

▲ オレオレファミリー
この方の論理展開には、どこか 「人間を置き去りにしている」 という匂いがある。
記事を読んでいると、「人にとってお金は大事」 という命題を支えるはずの 「そのお金で何を実現するのか」 というテーマが見えてこないのだ。
基本的に、投資家のメンタリティなのだろう。
投資の妙味を覚えてしまうと、世の中の関心事はお金の動きだけになってしまう。
そうなると、知的嗜好も、お金の動きを知るための情報領域に狭められていく。
この方のプロフィールの 「趣味欄」 にはこう書かれていた。
「読書は分野を問わず、文学以外なら、なんでも好きです」
さりげなく書かれているけれど、これは 「文学などが好きな人間には経済は語れない」 という、文学に対する猛烈な差別意識もしくは敵愾心 (てきがいしん) の表明だと読める。
「なんでも好きです」 と言っておきながら、「文学」 だけを名指しで排除しているわけだから、これははっきり 「嫌い」 といっていることになる。
きっと、読んでもお金の動かない 「文学」 よりも、お金がダイナミックに流動する 「金融経済」 の方に魅力を感じるということなのだろう。
しかし、文学は金融経済を扱えるが、金融経済は文学を扱えない。
「文学」 というのは、「人間学」 でもあるわけだから、そこには、人間が関わるすべての業が集約されている。
恋愛ありの、戦争ありの、哲学ありの、政治ありの…で、もちろん経済もそこに含まれる。
つまり、「政治」 や 「経済」 を人間を絡めて描くのが 「文学」 なのだから、それが理解できないということは、経済を人間の関わる学問として理解できないという致命的な欠陥となる。
結局、人があっての経済である。
だから、「経済の魔力」 に関心を示した鋭い作家たちは、その 「魔力」 にひれ伏したり翻弄されたりする人間のドラマも同時に思い浮かべることができた。
古くは、城山三郎、梶山季之、堺屋太一。
最近では、企業買収の裏側を暴いたドラマ 『ハゲタカ』 の原作者として脚光を浴びた真山仁。
彼らは、経済原理を描くことで、人間の原理も解明した。
「人間」 が分からないと、「中高年・高齢者」 も 「若者」 も等しく単なる 「労働力パーツ」 にしか見えなくなる。
「若者を救うために、中高年・高齢者を引退させろ」 という彼女の 「排除の論理」 はそこから出てきているように思う。
そうだとしたら、状況が変われば、今度は 「若者を切り捨てろ」 という話になっちゃうかもしれない。
…ってな揚げ足取りをさんざんやったけれど、ここに引用した文献以外の彼女の経済分析は、それなりに面白かったし、勉強になった。
それは素直に認めたい。
だけど、もう少し 「オレオレ」 度を下げたらいかがか。
上昇志向が強すぎて、読んでいると痛すぎる。
いいとこ突いてんだから、損していると思うけどなぁ。
オレオレブログだ。
オレの話を聞けぇ! ってやつ。
もともとブログというのは、個人の日記をウェブ上で公開しようというものだから、ネットで公開されている以上は、「ねぇねぇ読んでね!」 という気持ちが反映されているわけで、どんな慎ましやかな体裁をとろうが、基本的に 「オレオレブログ」 であることには変わりない。
それは分かるのだが、露骨に 「オレオレ」 度が強く匂ってくると、ちょっと腰が引ける。
匂いがさらに濃厚になると、反発心がわく。
そして、耐えきれないまでに臭くなってくると、逆に興味がわいて、書かれている記事のアラ探しをしたくなってくる。
アゲ足の1本か2本でも取ってやろうかいな…というイタズラ心も芽生えてしまうわけだ。
世の中には、炎上するブログというのがあるけれど、そういったブログは、きっとオレオレガスが充満してパンパンになっている状態なんだろうな。
だから、よそから火の粉が飛んできたら、ちょっとした火でも、あっという間に大爆発することになる。
で、ある日、調べものの最中に、なんとなく腰が引けてしまうブログを拾ってしまった。
書き手が中年のオバさんらしいので、「オレオレ」 というより 「ワタクシ・ワタクシ」 ブログなんだけど、もうどの記事を拾っても 「読んでね、読んでね、読んでね」 なのである。
読んでね…はいいのだけれど、「頭いいでしょ? 勉強しているでしょ? 実力あるでしょ?」 と他人の賞賛を露骨に期待しているところが、ちょっと痛い。
▲ オレオレキング
そのブログのテーマは何かというと、「マクロ経済」 。
作者はフリーの金融系ライターさんらしい。
プロフィールを拝読すると、
「どこか真っ直ぐなところのある私にとっては、○○誌は日本一の経済金融専門誌。そこで働けるようになって、天にも昇る気分…」
と書かれているのだが、自分のことを 「真っ直ぐな私」 とか、自分の働き先を 「日本一の…」 と表現する “素直さ” は、自分には持ち合わせがないので、腰がスゥーッと引けた。
要するに、「前に出よう、出よう」 とする作者のパワーに押されて、その分、自然にこっちが引いた感じなのだ。
で、この方のプロフィールも、オレオレ度が全開であった。
国立の一流 “ブランド大学” を卒業して、経済政策論を専攻し、日本の○○研究の第一人者である○○先生に師事した……らしいんだけど……別に書いたって悪かないけど、でも自分の仕事に自信があるなら、何も 「第一人者に師事した」 とか、ブランドを誇示する必要もないんじゃないのかな、という気がしたのだ。
ま、俺ならしない (というか、人に誇示するほどの学歴がない) 。
▲ オレオレブラザーズ
で、この方は、また自己セールス欲が旺盛なのである。
偉い経済学者さんとか、政治学者さんとかが運営する人気ブログにコメント送ったついでに、自分のブログのURLを張り、「一読していただいて、ご高評いただけたら感謝です」 と書き込んで、巧みにその先生や、多くの読者を自分のブログに誘導している。
まぁ、このくらいの努力がないと、フリーランスとして成功できないことは分かるけど、いきなり初コメントで、「自分の原稿読んでください」 とお願いするのはどうなんだろう…。
いくらブログとはいえ、論文ともなれば、それ相当の文字数もあるだろうし、相手の負担だって考えなければいけない。
俺はちょっと厚かましいように思う (人それぞれだけど) 。
で、この方がブログを開設された目的は、
「大手マスコミが金融経済リテラシーの普及をしないなら、私が専門用語を使わずに、分かりやすくやります」
というところにあるらしいのだけれど、俺、「リテラシー」 という専門用語でつまずいた。
で、この方が求めているものは、「金銭的な豊かさを維持できる楽しい社会」 であり、そのブログもそういう社会を実現するためのものだという。
で、「金銭的に豊かな社会」 を実現するためには何が必要かというと、「生産力を上げるしかない」 という。
「生産力が上がれば、子供も増えて、日本の人口も増え…」 、そうすれば市場も広がり、税収も増えて、社会が潤う、…というビジョンをお持ちのようなのだ。
だけど、この説にはちょっと疑問 (もしくは説明不足) を感じる。
「生産性の向上」 がすべてという発想には限界がある。
「生産性の向上」 といっても、今の産業構造をそのまま踏襲した形の 「生産性の向上」 では、「供給の過剰」 を避けることはできない。
それは、やがては 「需要の縮小」 に移行してしまう。
さらに、今の雇用システムを維持したままの 「生産性の向上」 では、新しい設備や生産法などが導入されてくると、その帰結として、労働力の省力化が図られ、労働者のリストラがさらに加速する。
だから、これからの時代は、「生産性の向上」 を従来の経済システムとは別の文脈の中で探さねばならないのだ。
言ってしまえば、「生産性の向上」 の前に、「経済システム」 の再編成があるように思う。
ところが、この方は 「生産性の向上」 を何よりも重視するから、それを阻害する要因を許しておくことができない。
「日本には、生産性の向上を目指す “市場主義” が嫌いな人たちが多くて困ったものだ」
と彼女はいう。
おそらく 「アメリカ金融資本主義は崩壊した」 とか声高に主張する文化人たちのことを指しているのだろう。
こういうアンチ市場主義的な言動に対して、彼女はこういう。
「日本では “市場主義” が極端に排斥されすぎて、それに代わって不公平きわまりない “私情主義” がはびこるようになった。
中高年・高齢者が、そういう私情主義を振りかざして、自分の既得権ばかり主張するから、20代~30代の若者にしわ寄せがいく」
したがって、
「ろくな仕事もせずに高賃金をもらっている中高年管理職を引退させ、若年労働者に仕事の場を与えろ」
と最後は、アクロバティックな結論に、宙返りジャンプで着地する。
若い世代の気持ちを代弁しているような説なので、よくぞ言ったと溜飲を下げる人もいるかもしれない。
だけど、この主張もロジックがねじれているように思える。
もちろん気持ちは分かるけれど、引退させた中高年をどう扱うのかというビジョンは、この記事を載せたブログの範囲では見つからない。
▲ オレオレファミリー
この方の論理展開には、どこか 「人間を置き去りにしている」 という匂いがある。
記事を読んでいると、「人にとってお金は大事」 という命題を支えるはずの 「そのお金で何を実現するのか」 というテーマが見えてこないのだ。
基本的に、投資家のメンタリティなのだろう。
投資の妙味を覚えてしまうと、世の中の関心事はお金の動きだけになってしまう。
そうなると、知的嗜好も、お金の動きを知るための情報領域に狭められていく。
この方のプロフィールの 「趣味欄」 にはこう書かれていた。
「読書は分野を問わず、文学以外なら、なんでも好きです」
さりげなく書かれているけれど、これは 「文学などが好きな人間には経済は語れない」 という、文学に対する猛烈な差別意識もしくは敵愾心 (てきがいしん) の表明だと読める。
「なんでも好きです」 と言っておきながら、「文学」 だけを名指しで排除しているわけだから、これははっきり 「嫌い」 といっていることになる。
きっと、読んでもお金の動かない 「文学」 よりも、お金がダイナミックに流動する 「金融経済」 の方に魅力を感じるということなのだろう。
しかし、文学は金融経済を扱えるが、金融経済は文学を扱えない。
「文学」 というのは、「人間学」 でもあるわけだから、そこには、人間が関わるすべての業が集約されている。
恋愛ありの、戦争ありの、哲学ありの、政治ありの…で、もちろん経済もそこに含まれる。
つまり、「政治」 や 「経済」 を人間を絡めて描くのが 「文学」 なのだから、それが理解できないということは、経済を人間の関わる学問として理解できないという致命的な欠陥となる。
結局、人があっての経済である。
だから、「経済の魔力」 に関心を示した鋭い作家たちは、その 「魔力」 にひれ伏したり翻弄されたりする人間のドラマも同時に思い浮かべることができた。
古くは、城山三郎、梶山季之、堺屋太一。
最近では、企業買収の裏側を暴いたドラマ 『ハゲタカ』 の原作者として脚光を浴びた真山仁。
彼らは、経済原理を描くことで、人間の原理も解明した。
「人間」 が分からないと、「中高年・高齢者」 も 「若者」 も等しく単なる 「労働力パーツ」 にしか見えなくなる。
「若者を救うために、中高年・高齢者を引退させろ」 という彼女の 「排除の論理」 はそこから出てきているように思う。
そうだとしたら、状況が変われば、今度は 「若者を切り捨てろ」 という話になっちゃうかもしれない。
…ってな揚げ足取りをさんざんやったけれど、ここに引用した文献以外の彼女の経済分析は、それなりに面白かったし、勉強になった。
それは素直に認めたい。
だけど、もう少し 「オレオレ」 度を下げたらいかがか。
上昇志向が強すぎて、読んでいると痛すぎる。
いいとこ突いてんだから、損していると思うけどなぁ。
2009年01月09日
レストランの深夜
人のいない部屋で、小さな物音がする。
何もない場所なのに、何かの匂いが漂う。
こういうことって、やはり…ちょっと人間を不安にさせる。
五感の働きが鈍い私は、かえって日常生活の中の小さな異変を誇大に考え過ぎてしまう傾向があるのだが、たいていは 「錯覚」 であることが多い。

しかし、いまだにどう考えても、腑に落ちない小さな事件がある。
私は勝手に、それを 「深夜レストラン事件」 と名付けて、友人たちと怪談話するときに、ときどき披露した。
ま、厳密にいえば 「怪談」 ではない。
たぶん、これも私の得意な 「錯覚」 ないしは 「妄想」 のたぐいだろうけれど、その奇妙な感覚がなかなか捨てがたいので、この場でもちょっと記しておく。
20代のはじめ、レストランでバイトをやっていた。
「イタリアン」 を看板にした店だったが、それ風の料理を出していたのは最初のシェフのときだけで、2代、3代とシェフが変わるに従って、カレーも出れば、ハンバーグも出るという普通の 「食堂」 に変わっていった。
それでも私はその店が好きだったので、けっこう長く勤めた。
建坪が狭いために縦方向に伸びた店で、1階がスナックと厨房。
2階が私の持ち場のレストラン。
3階が倉庫と更衣室だった。
私の勤めは、その2階レストランのウェイターだったが、1週間ほどでレジの売上げ管理を任され、3ヵ月ぐらいで、そことスナックの掛け持ちをやらされ、最後は店の鍵を託されて、シャッターを降ろす役目までもらった。
それだけ店主に信頼されていたのだと思う。
春先のことだった。
1階のカウンターに粘っていた最後の常連客を追い出し、看板の明かりを落とし、コップや皿を洗い場に運んだ。
洗い物や床掃除は、明日の早番の子がやるので、1階の片づけは照明を落とせば終わり。
3階の更衣室まで上がって、着替えることにした。
途中、階段の踊り場に立って、私の持ち場である2階のレストランに視線を向けた。
合板張りのドアの中心部分にはガラス窓が設けられていて、それを通して深い闇に閉ざされた室内が見えた。
そこを通り越して3階まで上がり、3階の電気をつける。
タタミ3畳ほどの更衣室は、従業員の休憩場所にもなるので、いつも読みかけのマンガ雑誌やコーラの空き瓶や、灰皿からはみ出したタバコの吸殻が散乱していた。
白シャツを脱ぎ、黒い蝶ネクタイを外す。
散らかった空き瓶を足で転がしながら、黒いウールのズボンを脱いで、ジーンズにはきかえる。
そのとき、2階レストランのドアが、そぉっと開くような音がした。
もう店内に残っている従業員はいない。
誰かが忘れ物を取りに戻るには、遅すぎる時間だ。
走っている電車などないのだ。
ただ、一度だけ前にもそんなことがあった。
商店街の旦那たちと麻雀していたマスターが、合い鍵でこっそり入ってきて、レジの引き出しを開けながら 「ちょっと軍資金借りるよ」 と、決まり悪そうに苦笑いしたことがあった。
またか…。
そう思って、ドアの前の踊り場に立つ。
窓ガラスの向こうは相変わらずの暗やみだった。
店主が戻ってきたなら、明かりが灯っているはずだ。
気のせいか…。
両手をポケットに突っ込んで、階段を降りようとしたとき、部屋の奥から小さな音がした。
カチッ…という微かな音。
オイルライターのフタを閉じる音だった。
…誰かがいる。
自分の動きも止まった。
しかし、手ぶらでうっかり踏み込んだりしたら、相手が強盗の場合は逆襲されてしまうかもしれない。
警察でも呼ぶか…
ドアのガラス窓から身体をずらし、向こう側から見えないような位置に立って、しばらく中の様子をうかがった。
10秒経ったか、20秒経ったか…。
それとも1分か2分か。
ずっと待ったが、それ以上の音は聞こえてこない。
考えてみれば、物盗りなら、ライターをつけてゆったりとタバコなどふかすはずがない。
合い鍵をもっている従業員はもう一人いたので、そいつが何かの理由で戻ってきたのかもしれない。
思い切ってドアを開け、スイッチに手を伸ばして、部屋中の明かりを付けた。
六つのテーブルと24脚の椅子が、仕事が始まる前の見慣れた光景のように浮かび上がった。
しかし、どの椅子にも主 (あるじ) はいない。
ただ、部屋がL字型になっているために、死角となる七つ目のテーブルが確認できない。
ゆっくりした歩調で、七つ目のテーブルが見える位置まで体を移動させた。
ぽっかり空いた空間には、きれいに片付けられたテーブルが広がり、そこに据えられた四つの椅子に、腰かけている者はいなかった。
だが、ひとつだけ、他の席とは異なることが起こっていた。
タバコの匂いが漂っていたのである。
外国タバコの匂い。
当時、ハイライトですら贅沢だった私にとって、2倍以上の価格のする外国タバコなど吸える機会はない。

しかし、この匂いだけは知っている。
ピースにも似たヴァージニア葉タバコの甘い香り。
イギリスのロスマンズだった。
友だちの家を訪ねたとき、海外旅行によく行くというそこの親父さんが、お土産だといってタバコをワンカートンくれた。
それがロスマンズだったので、その 「ありがたい匂い」 はよく覚えている。
だが、なぜその匂いがここに?
匂いが消えていないということは、たった今まで、誰かがここにいたということになる。
そう思ってテーブルを眺めると、虚空をたなびく煙の影さえ見えそうに思える。
窓の鍵を確認した。
全部内側からロックされているので、窓から人が飛び降りたとは考えられない。
室内には、人が隠れるようなスペースはない。
ドアから出て行った人間はいない。
先ほど感じた恐さとは、別の恐さが身体を貫いた。
七番目の席から目を離さないように、ゆっくり後ずさりながら遠ざかった。
念のため、レジのお金だけは確かめようと思った。
財布の中に収めたレジのキーを取り出して、中を調べる。
異常なし。
私が閉めたときと同じ状態で、1万円札と5千円札と千円札、さらにコインが100円玉、10円玉に分けられたまま、しっかり収まっていた。
レジの前に立ったまま、萎えそうになる心を奮い立たせ、しばらく立ち尽くした。
しかし、いくら考えても、ライターでタバコに火を付けた犯人が分かることはなさそうなので、私は帰ることにした。
帰り際、厨房もトイレもみなチェックしてみたが、隠れているような人物は一人もいなかった。
この話は人に何度か話しているうちに、実はあまり怖くなくなった。
タバコの匂いなど、外から単に排気口を伝わって流れてきたものかもしれない。
そう思うと、今ではあのロスマンズの香りが、なんだか懐かしいもののように思える。
何もない場所なのに、何かの匂いが漂う。
こういうことって、やはり…ちょっと人間を不安にさせる。
五感の働きが鈍い私は、かえって日常生活の中の小さな異変を誇大に考え過ぎてしまう傾向があるのだが、たいていは 「錯覚」 であることが多い。
しかし、いまだにどう考えても、腑に落ちない小さな事件がある。
私は勝手に、それを 「深夜レストラン事件」 と名付けて、友人たちと怪談話するときに、ときどき披露した。
ま、厳密にいえば 「怪談」 ではない。
たぶん、これも私の得意な 「錯覚」 ないしは 「妄想」 のたぐいだろうけれど、その奇妙な感覚がなかなか捨てがたいので、この場でもちょっと記しておく。
20代のはじめ、レストランでバイトをやっていた。
「イタリアン」 を看板にした店だったが、それ風の料理を出していたのは最初のシェフのときだけで、2代、3代とシェフが変わるに従って、カレーも出れば、ハンバーグも出るという普通の 「食堂」 に変わっていった。
それでも私はその店が好きだったので、けっこう長く勤めた。
建坪が狭いために縦方向に伸びた店で、1階がスナックと厨房。
2階が私の持ち場のレストラン。
3階が倉庫と更衣室だった。
私の勤めは、その2階レストランのウェイターだったが、1週間ほどでレジの売上げ管理を任され、3ヵ月ぐらいで、そことスナックの掛け持ちをやらされ、最後は店の鍵を託されて、シャッターを降ろす役目までもらった。
それだけ店主に信頼されていたのだと思う。
春先のことだった。
1階のカウンターに粘っていた最後の常連客を追い出し、看板の明かりを落とし、コップや皿を洗い場に運んだ。
洗い物や床掃除は、明日の早番の子がやるので、1階の片づけは照明を落とせば終わり。
3階の更衣室まで上がって、着替えることにした。
途中、階段の踊り場に立って、私の持ち場である2階のレストランに視線を向けた。
合板張りのドアの中心部分にはガラス窓が設けられていて、それを通して深い闇に閉ざされた室内が見えた。
そこを通り越して3階まで上がり、3階の電気をつける。
タタミ3畳ほどの更衣室は、従業員の休憩場所にもなるので、いつも読みかけのマンガ雑誌やコーラの空き瓶や、灰皿からはみ出したタバコの吸殻が散乱していた。
白シャツを脱ぎ、黒い蝶ネクタイを外す。
散らかった空き瓶を足で転がしながら、黒いウールのズボンを脱いで、ジーンズにはきかえる。
そのとき、2階レストランのドアが、そぉっと開くような音がした。
もう店内に残っている従業員はいない。
誰かが忘れ物を取りに戻るには、遅すぎる時間だ。
走っている電車などないのだ。
ただ、一度だけ前にもそんなことがあった。
商店街の旦那たちと麻雀していたマスターが、合い鍵でこっそり入ってきて、レジの引き出しを開けながら 「ちょっと軍資金借りるよ」 と、決まり悪そうに苦笑いしたことがあった。
またか…。
そう思って、ドアの前の踊り場に立つ。
窓ガラスの向こうは相変わらずの暗やみだった。
店主が戻ってきたなら、明かりが灯っているはずだ。
気のせいか…。
両手をポケットに突っ込んで、階段を降りようとしたとき、部屋の奥から小さな音がした。
カチッ…という微かな音。
オイルライターのフタを閉じる音だった。
…誰かがいる。
自分の動きも止まった。
しかし、手ぶらでうっかり踏み込んだりしたら、相手が強盗の場合は逆襲されてしまうかもしれない。
警察でも呼ぶか…
ドアのガラス窓から身体をずらし、向こう側から見えないような位置に立って、しばらく中の様子をうかがった。
10秒経ったか、20秒経ったか…。
それとも1分か2分か。
ずっと待ったが、それ以上の音は聞こえてこない。
考えてみれば、物盗りなら、ライターをつけてゆったりとタバコなどふかすはずがない。
合い鍵をもっている従業員はもう一人いたので、そいつが何かの理由で戻ってきたのかもしれない。
思い切ってドアを開け、スイッチに手を伸ばして、部屋中の明かりを付けた。
六つのテーブルと24脚の椅子が、仕事が始まる前の見慣れた光景のように浮かび上がった。
しかし、どの椅子にも主 (あるじ) はいない。
ただ、部屋がL字型になっているために、死角となる七つ目のテーブルが確認できない。
ゆっくりした歩調で、七つ目のテーブルが見える位置まで体を移動させた。
ぽっかり空いた空間には、きれいに片付けられたテーブルが広がり、そこに据えられた四つの椅子に、腰かけている者はいなかった。
だが、ひとつだけ、他の席とは異なることが起こっていた。
タバコの匂いが漂っていたのである。
外国タバコの匂い。
当時、ハイライトですら贅沢だった私にとって、2倍以上の価格のする外国タバコなど吸える機会はない。
しかし、この匂いだけは知っている。
ピースにも似たヴァージニア葉タバコの甘い香り。
イギリスのロスマンズだった。
友だちの家を訪ねたとき、海外旅行によく行くというそこの親父さんが、お土産だといってタバコをワンカートンくれた。
それがロスマンズだったので、その 「ありがたい匂い」 はよく覚えている。
だが、なぜその匂いがここに?
匂いが消えていないということは、たった今まで、誰かがここにいたということになる。
そう思ってテーブルを眺めると、虚空をたなびく煙の影さえ見えそうに思える。
窓の鍵を確認した。
全部内側からロックされているので、窓から人が飛び降りたとは考えられない。
室内には、人が隠れるようなスペースはない。
ドアから出て行った人間はいない。
先ほど感じた恐さとは、別の恐さが身体を貫いた。
七番目の席から目を離さないように、ゆっくり後ずさりながら遠ざかった。
念のため、レジのお金だけは確かめようと思った。
財布の中に収めたレジのキーを取り出して、中を調べる。
異常なし。
私が閉めたときと同じ状態で、1万円札と5千円札と千円札、さらにコインが100円玉、10円玉に分けられたまま、しっかり収まっていた。
レジの前に立ったまま、萎えそうになる心を奮い立たせ、しばらく立ち尽くした。
しかし、いくら考えても、ライターでタバコに火を付けた犯人が分かることはなさそうなので、私は帰ることにした。
帰り際、厨房もトイレもみなチェックしてみたが、隠れているような人物は一人もいなかった。
この話は人に何度か話しているうちに、実はあまり怖くなくなった。
タバコの匂いなど、外から単に排気口を伝わって流れてきたものかもしれない。
そう思うと、今ではあのロスマンズの香りが、なんだか懐かしいもののように思える。
2009年01月08日
チェ・ゲバラ
巷でチェ・ゲバラの人気が復活している。
なんでも、今年はキューバ革命から60年目に当たるらしい。
映画 『チェ28歳の革命』 、『チェ39歳別れの手紙』 という2本の映画も公開されているから、それもゲバラブームの原動力になっているようだ。

チェ・ゲバラ。
1959年のキューバ革命のとき、革命軍のリーダーとなったフィデル・カストロのナンバー2として活躍し、革命を成就させた立役者の一人。
世界的な人気が出たのは、むしろ死後のこととなる。
キューバに革命政府が樹立され、同志のカストロが首相となったにもかかわらず、ゲバラは政府の要職に就くこともなく、社会主義革命を世界に広げるために、ゲリラ部隊の1リーダーとしてボリビアに潜伏する。
1967年10月。
ゲリラを執拗に追い続けたボリビア政府軍に捕捉され、銃殺。
それにより彼は、当時世界的に広まっていた学生たちの反体制運動を支えるシンボルに昇華した。
まぁ、カッコよかった。
われわれの世代は、たいてい部屋に1枚はゲバラのポスターを貼ったり、その顔を染め抜いたTシャツを着たりしたものだ。
そういう行為は、革命家としてのゲバラを崇めるという意味以上に、彼の闘志をみなぎらせた目の力が、ヴィジュアル的にカッコよかった…ということだったと思う。
もちろん、私の部屋にも、しばらくこのポスターは貼られていた。
当時、自分の部屋に貼ったポスターが2枚あった。
1枚がこのゲバラ。もう1枚が、まだ 「Tレックス」 とは言わずに 「ティラノザウルス・レックス」 と名乗っていた頃のマーク・ボランだった。
まぁ、私にとって、その両者は同価値だったのだ。
さて、ゲバラ。
冷戦が終結して以降、「社会主義政権」 を標榜する国家が次々と倒壊し、革命期のリーダーの権威が次々と地に落ちていくなかで、「ゲバラ人気」 だけは生き残った。
たぶん、キューバ革命で失われた犠牲者たちの姿を、ラテンアメリカの陽気さが弾きとばしてしまったからだろう。
なにしろ、革命歌として歌われたのが 『グアンタナメラ』 なのである。
あの村祭りの陽気さしか想像できない 『グアンタナメラ』 を歌いながら行進する革命軍兵士たちが、残酷なわけがない。
歌を聞いて、誰もがそう思った。
そんな雰囲気的な明るさが、キューバ革命のイメージをよくしている。
事実、戦争も粛正もそれなりにあったが、他の社会主義革命が成就するときに伴う犠牲者の多さに比べれば、キューバ革命は微温的で牧歌的な革命だった。

そのような革命を指導した男というイメージがついて回って、ゲバラはちょっと得をしている。
ヒーローには 「優しさ」 も必要だからだ。
そういった意味で、彼は今日までヒーローであり続ける唯一の 「社会主義革命家」 ではなかろうか。
突き放したような残酷な言い方になるが、いい歳で死んだと思う。
39歳。
しかも、キューバ政府の高官という安定した地位を返上して、環境劣悪なジャングルの中で、最後まで理想を捨てずに迎えた戦死だった。
才能に恵まれ、高い理想を掲げながら、志半ばで夭逝 (ようせい) した者は 「神」 になるという法則がある。
もし生きながらえていれば、その人の掲げていた偉大な 「理想」 がきっと実現し、素晴らしい世の中が生まれていたに違いない…と人々が惜しむとき、死者が掲げていた 「理想」 は、ますます悲劇の純度を高め、天を焦がすほどの光彩を放っていく。
本当は、長生きをして、理想を達成した人の方がはるかに偉大なのだろうけれど、長生きし過ぎた偉人は、なかなか 「神」 には成れない。
このことは何を意味するのか。
人間は、本当は 「理想」 の実現など望んではいないのだ。
実現した退屈な 「理想」 より、実現しない輝かしい 「神」 。
当時、学生運動をやっていた人々が抱いていたホンネは、そんなものであったように思う。
『モーターサイクル・ダイアリーズ』 が観たいな…。
なんでも、今年はキューバ革命から60年目に当たるらしい。
映画 『チェ28歳の革命』 、『チェ39歳別れの手紙』 という2本の映画も公開されているから、それもゲバラブームの原動力になっているようだ。
チェ・ゲバラ。
1959年のキューバ革命のとき、革命軍のリーダーとなったフィデル・カストロのナンバー2として活躍し、革命を成就させた立役者の一人。
世界的な人気が出たのは、むしろ死後のこととなる。
キューバに革命政府が樹立され、同志のカストロが首相となったにもかかわらず、ゲバラは政府の要職に就くこともなく、社会主義革命を世界に広げるために、ゲリラ部隊の1リーダーとしてボリビアに潜伏する。
1967年10月。
ゲリラを執拗に追い続けたボリビア政府軍に捕捉され、銃殺。
それにより彼は、当時世界的に広まっていた学生たちの反体制運動を支えるシンボルに昇華した。
まぁ、カッコよかった。
われわれの世代は、たいてい部屋に1枚はゲバラのポスターを貼ったり、その顔を染め抜いたTシャツを着たりしたものだ。
そういう行為は、革命家としてのゲバラを崇めるという意味以上に、彼の闘志をみなぎらせた目の力が、ヴィジュアル的にカッコよかった…ということだったと思う。
もちろん、私の部屋にも、しばらくこのポスターは貼られていた。
当時、自分の部屋に貼ったポスターが2枚あった。
1枚がこのゲバラ。もう1枚が、まだ 「Tレックス」 とは言わずに 「ティラノザウルス・レックス」 と名乗っていた頃のマーク・ボランだった。
まぁ、私にとって、その両者は同価値だったのだ。
さて、ゲバラ。
冷戦が終結して以降、「社会主義政権」 を標榜する国家が次々と倒壊し、革命期のリーダーの権威が次々と地に落ちていくなかで、「ゲバラ人気」 だけは生き残った。
たぶん、キューバ革命で失われた犠牲者たちの姿を、ラテンアメリカの陽気さが弾きとばしてしまったからだろう。
なにしろ、革命歌として歌われたのが 『グアンタナメラ』 なのである。
あの村祭りの陽気さしか想像できない 『グアンタナメラ』 を歌いながら行進する革命軍兵士たちが、残酷なわけがない。
歌を聞いて、誰もがそう思った。
そんな雰囲気的な明るさが、キューバ革命のイメージをよくしている。
事実、戦争も粛正もそれなりにあったが、他の社会主義革命が成就するときに伴う犠牲者の多さに比べれば、キューバ革命は微温的で牧歌的な革命だった。
そのような革命を指導した男というイメージがついて回って、ゲバラはちょっと得をしている。
ヒーローには 「優しさ」 も必要だからだ。
そういった意味で、彼は今日までヒーローであり続ける唯一の 「社会主義革命家」 ではなかろうか。
突き放したような残酷な言い方になるが、いい歳で死んだと思う。
39歳。
しかも、キューバ政府の高官という安定した地位を返上して、環境劣悪なジャングルの中で、最後まで理想を捨てずに迎えた戦死だった。
才能に恵まれ、高い理想を掲げながら、志半ばで夭逝 (ようせい) した者は 「神」 になるという法則がある。
もし生きながらえていれば、その人の掲げていた偉大な 「理想」 がきっと実現し、素晴らしい世の中が生まれていたに違いない…と人々が惜しむとき、死者が掲げていた 「理想」 は、ますます悲劇の純度を高め、天を焦がすほどの光彩を放っていく。
本当は、長生きをして、理想を達成した人の方がはるかに偉大なのだろうけれど、長生きし過ぎた偉人は、なかなか 「神」 には成れない。
このことは何を意味するのか。
人間は、本当は 「理想」 の実現など望んではいないのだ。
実現した退屈な 「理想」 より、実現しない輝かしい 「神」 。
当時、学生運動をやっていた人々が抱いていたホンネは、そんなものであったように思う。
『モーターサイクル・ダイアリーズ』 が観たいな…。
2009年01月07日
生き残る言葉
たった1年…いや半年の間に、世界がこれほどまでに変わってしまった時代というのは、今まであったのだろうか。
毎日報道される 「不況の深刻化」 。
“派遣切り” などに象徴される 「雇用の不安定化」 。
連日そういうニュースがテレビやら新聞で流れ続けると、もうかなり前から大不況が世を襲っているように思えてしまうのだが、実はわずか半年前ぐらい前、庶民が抱える一番の悩みのタネは 「ガソリンの高騰」 だったのだ。

本屋を回って、棚に並ぶ本の背表紙を眺めていると、世の中の急転直下の変貌ぶりがよく分かる。
『 トヨタはなぜ強いのか 』
『 トヨタ式改善の進め方 』
『 ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか 』
そういう本が、「金融資本主義の崩壊」 を叫ぶ本の嵐にまぎれて、ひっそりと、まだ棚差しになっている。
もちろん内容的には今でも読むに値することが書かれているのだろうが、少なくともタイトルだけ眺めると、世の中の変化から取り残された本の悲哀が漂ってくる。
たぶんこの急変動を受けて、マスコミのプロジェクトの中には軌道修正を迫られた企画がずいぶんあったに違いない。
うちでも半年前に企画したものの中には、問題をさらに掘り下げないと使えない状態になってしまったものがある。
同じテーマを継続しても、より真剣に考えたものにしておかないと、今の不安定な社会の空気を呼吸している人たちには読んでもらえないという危惧がある。
この時代、どんなに “良いこと” を言っても、書いても、発言者に緊張感がないと受け手の胸に届かない。
その “緊張感” も、頭の中でこさえたものではなく、自分の身体で感受したものでないと、相手に通じない。
今ほど、ものを書いたり発言したりする人の 「本当の力」 が問われる時代はないのではなかろうか。
世間で活躍している物書きは、だいたい40歳代から団塊の世代あたりが中心となっているが、同じ時代の空気を吸っているはずなのに、すでに20歳代の人たちとは相当な意識のズレがあるように思える。
たとえば、日本の経済成長と自分の成長が、終始右肩上がりで重なってきた団塊の世代は、この未曾有の危機状況に向けて、「過去の成功体験を捨てて、一から出直そう」 などとよくいう。
しかし、「失われた10年」 に思春期を迎えた若い世代には、成功体験なるものが最初から存在しない。
つい10年ほど前は、ニートやフリーター志向の若者が 「自分探し」 をテーマに職を転々とすることを、まだ 「ロマンの追求」 といって温かく見守る人がいた。
一方、そのような若者傾向を 「甘え」 だと非難し、「辛い仕事に耐えることこそ自分のスキルアップにつながる」 と指摘する大人たちもいた。
しかし、今ではどちらの言い分も古色蒼然としたものになってしまった。
要するに、多くの物書きがストックしていた現代社会を解釈するための情報や知識は、いま急速に効力を失いつつあるように思う。
こういう時代に、人々の心を支える 「言葉」 を発することできる物書きというのは、どういう人たちなのだろう。
時代の変化に耐えうる言葉を持っている人。
身もフタもない言い方をすれば、そういうことになる。
氾濫する情報の渦に巻き込まれず、自分の頭で考え、自分で答を出してここまで歩いてきた人。
自分の吐いた言葉を、そのまま自分の生き方として貫いてきた人。
そして、吐いた言葉の責任をしっかり取ってきた人。
今、緊張感をはらんだ言葉を吐ける人というのは、たぶんそのような人たちだろうし、そういう人でなければ、他者の心も動かせない。
当然、そういう言葉を吐ける人になるためには、まず自分自身で考える習慣を持っていることが前提となる。
「情報」 に頼っている限り、そこから導き出されるのは 「分析」 だけとなる。
「分析」 だけになれば、「情報」 の変化によってころころ立ち位置も変わる。
「情報屋」 ではなく 「思索家」 が求められる時代になったと思う。
毎日報道される 「不況の深刻化」 。
“派遣切り” などに象徴される 「雇用の不安定化」 。
連日そういうニュースがテレビやら新聞で流れ続けると、もうかなり前から大不況が世を襲っているように思えてしまうのだが、実はわずか半年前ぐらい前、庶民が抱える一番の悩みのタネは 「ガソリンの高騰」 だったのだ。
本屋を回って、棚に並ぶ本の背表紙を眺めていると、世の中の急転直下の変貌ぶりがよく分かる。
『 トヨタはなぜ強いのか 』
『 トヨタ式改善の進め方 』
『 ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか 』
そういう本が、「金融資本主義の崩壊」 を叫ぶ本の嵐にまぎれて、ひっそりと、まだ棚差しになっている。
もちろん内容的には今でも読むに値することが書かれているのだろうが、少なくともタイトルだけ眺めると、世の中の変化から取り残された本の悲哀が漂ってくる。
たぶんこの急変動を受けて、マスコミのプロジェクトの中には軌道修正を迫られた企画がずいぶんあったに違いない。
うちでも半年前に企画したものの中には、問題をさらに掘り下げないと使えない状態になってしまったものがある。
同じテーマを継続しても、より真剣に考えたものにしておかないと、今の不安定な社会の空気を呼吸している人たちには読んでもらえないという危惧がある。
この時代、どんなに “良いこと” を言っても、書いても、発言者に緊張感がないと受け手の胸に届かない。
その “緊張感” も、頭の中でこさえたものではなく、自分の身体で感受したものでないと、相手に通じない。
今ほど、ものを書いたり発言したりする人の 「本当の力」 が問われる時代はないのではなかろうか。
世間で活躍している物書きは、だいたい40歳代から団塊の世代あたりが中心となっているが、同じ時代の空気を吸っているはずなのに、すでに20歳代の人たちとは相当な意識のズレがあるように思える。
たとえば、日本の経済成長と自分の成長が、終始右肩上がりで重なってきた団塊の世代は、この未曾有の危機状況に向けて、「過去の成功体験を捨てて、一から出直そう」 などとよくいう。
しかし、「失われた10年」 に思春期を迎えた若い世代には、成功体験なるものが最初から存在しない。
つい10年ほど前は、ニートやフリーター志向の若者が 「自分探し」 をテーマに職を転々とすることを、まだ 「ロマンの追求」 といって温かく見守る人がいた。
一方、そのような若者傾向を 「甘え」 だと非難し、「辛い仕事に耐えることこそ自分のスキルアップにつながる」 と指摘する大人たちもいた。
しかし、今ではどちらの言い分も古色蒼然としたものになってしまった。
要するに、多くの物書きがストックしていた現代社会を解釈するための情報や知識は、いま急速に効力を失いつつあるように思う。
こういう時代に、人々の心を支える 「言葉」 を発することできる物書きというのは、どういう人たちなのだろう。
時代の変化に耐えうる言葉を持っている人。
身もフタもない言い方をすれば、そういうことになる。
氾濫する情報の渦に巻き込まれず、自分の頭で考え、自分で答を出してここまで歩いてきた人。
自分の吐いた言葉を、そのまま自分の生き方として貫いてきた人。
そして、吐いた言葉の責任をしっかり取ってきた人。
今、緊張感をはらんだ言葉を吐ける人というのは、たぶんそのような人たちだろうし、そういう人でなければ、他者の心も動かせない。
当然、そういう言葉を吐ける人になるためには、まず自分自身で考える習慣を持っていることが前提となる。
「情報」 に頼っている限り、そこから導き出されるのは 「分析」 だけとなる。
「分析」 だけになれば、「情報」 の変化によってころころ立ち位置も変わる。
「情報屋」 ではなく 「思索家」 が求められる時代になったと思う。
2009年01月03日
松田優作
正月3日の午後、テレビ東京で俳優松田優作の生涯を描いた 『松田優作は生きている!』 という特番をやっていた。
観ていて、改めて凄まじい生き方を貫いた人だと思った。

その特番は、彼が生前から付き合っていた俳優、カメラマン、歌手、付き人などの証言で構成されていた。その人たちの発言によると、優作という人は、どんな仕事の現場においても、常に 「テンションを維持する気配り」 を怠らなかった人だという。
テンションとは、文字通り 「緊張」 であり、時に 「熱意」 であり、時に 「優しさ」 であったらしい。
具体的には、ダラけた人間への鉄拳であり、自信を失いかけた人間への励ましであり、打ちひしがれた人間に対する思いやりであったそうだ。
番組では、彼の姿を公私にわたって撮り続けた一人のカメラマンの証言が、一番多く紹介されていた。
プライベートの写真を撮られることを嫌った優作だが、そのカメラマンにだけは、どんな写真を撮ることも許した。
しかし、あるステージの写真を撮って本人のもとに持っていったとき、そのカメラマンは優作から、
「これは受け取らない。持って帰ってくれ。今後はもう俺の写真は撮るな」
と作品全部を突っ返された。
呆然としていたカメラマンに対して、優作はこう言った。
「撮るなら俺の “魂” を撮れ。しかし、そう簡単に魂は見せないぞ」
生前の松田優作の人付き合いというものがどんなものであったか、それを端的に語ったエピソードのひとつであるように思う。
自分に対して中途半端な接触を試みようとする人間を許さないという意味では、付き合いづらい人だったろうし、彼から何かを盗んでやろうというぐらいの意欲をみなぎらせる人にとっては、とてつもない包容力を秘めた人間に感じられたことだろう。
もちろん、私は素顔の松田優作に接したこともなければ、俳優として熱烈に崇拝したこともない。
『蘇る金狼』 も 『野獣死すべし』 も映画館に見に行ったし、刑事や探偵に扮したドラマもテレビでよく見ていた。
しかし、熱烈なファンになるというほどのことはなかった。

だが、リドリー・スコット監督の 『ブラック・レイン』 を観て、松田優作という俳優は、自分にとって生涯忘れることのできない役者となった。
彼の役は、日本のヤクザ界の勢力図を一気に書き換えようとする新興ヤクザの若いボス。
残忍で、冷徹で、内に狂気を宿したエキセントリックな役柄を、主役を食うほどに縦横無尽に演じていた。

画面に松田優作が登場するだけで怖かった。
彼が、短く刈り上げた頭髪をゆすりながら、黒いロングコートを羽織って画面の片隅に立つだけで、そこから、見る者を凍りつかせる絶対零度の冷気が噴き出していた。

松田優作が演じる若いヤクザの内面がどんなものであるのか。
観客はそれを想像することもできない。
ただ、そのヤクザが 「人間を超えた何ものかになろうとしている」 という恐ろしさだけは見事に伝わってきた。
彼が目をむいて凄むとき、その目は、東洲斎写楽の描く浮世絵の人物そのものだった。
研究熱心だった優作は、ハリウッド映画を意識して、写楽の絵に表出する東洋風エキゾチシズムを採りいれようとしたのかもしれない。古今東西の美術に関心の深いリドリー・スコットは、さぞやその演技に満足したことだろう。

しかし、写楽なんぞ知らなくたって、優作の目の演技は、人間が自分の肉体を使って表現する領域を軽々と超えていた。
古来より、人類があがめる神に 「慈悲の神」 と 「荒ぶる神」 がいたとしたら、優作の目は 「荒ぶる神」 の目であり、彼が大地を踏みしめて立ち尽くす姿は、破壊と創造を司るインド神話のシバ神の降臨を思わせた。
この映画を撮影していたとき、彼はすでにガンを患っていて、この作品が自分の最後の映画になることを知っていたという。
死を背中に背負った演技だからこそ迫真力がこもったのか、それとも、そのような演技を積み重ねてきたことが、彼の死期を早めたのか、それは分からない。
ただ言えることは、「人間を超えた存在」 をここまで表現しえた役者など、かつていたこともなかったし、これから先も、こういう役者が現れることはほとんどないかもしれない、ということだ。

松田優作1989年11月6日逝去。
享年40歳。
ちょうど20年前のことである。
観ていて、改めて凄まじい生き方を貫いた人だと思った。
その特番は、彼が生前から付き合っていた俳優、カメラマン、歌手、付き人などの証言で構成されていた。その人たちの発言によると、優作という人は、どんな仕事の現場においても、常に 「テンションを維持する気配り」 を怠らなかった人だという。
テンションとは、文字通り 「緊張」 であり、時に 「熱意」 であり、時に 「優しさ」 であったらしい。
具体的には、ダラけた人間への鉄拳であり、自信を失いかけた人間への励ましであり、打ちひしがれた人間に対する思いやりであったそうだ。
番組では、彼の姿を公私にわたって撮り続けた一人のカメラマンの証言が、一番多く紹介されていた。
プライベートの写真を撮られることを嫌った優作だが、そのカメラマンにだけは、どんな写真を撮ることも許した。
しかし、あるステージの写真を撮って本人のもとに持っていったとき、そのカメラマンは優作から、
「これは受け取らない。持って帰ってくれ。今後はもう俺の写真は撮るな」
と作品全部を突っ返された。
呆然としていたカメラマンに対して、優作はこう言った。
「撮るなら俺の “魂” を撮れ。しかし、そう簡単に魂は見せないぞ」
生前の松田優作の人付き合いというものがどんなものであったか、それを端的に語ったエピソードのひとつであるように思う。
自分に対して中途半端な接触を試みようとする人間を許さないという意味では、付き合いづらい人だったろうし、彼から何かを盗んでやろうというぐらいの意欲をみなぎらせる人にとっては、とてつもない包容力を秘めた人間に感じられたことだろう。
もちろん、私は素顔の松田優作に接したこともなければ、俳優として熱烈に崇拝したこともない。
『蘇る金狼』 も 『野獣死すべし』 も映画館に見に行ったし、刑事や探偵に扮したドラマもテレビでよく見ていた。
しかし、熱烈なファンになるというほどのことはなかった。
だが、リドリー・スコット監督の 『ブラック・レイン』 を観て、松田優作という俳優は、自分にとって生涯忘れることのできない役者となった。
彼の役は、日本のヤクザ界の勢力図を一気に書き換えようとする新興ヤクザの若いボス。
残忍で、冷徹で、内に狂気を宿したエキセントリックな役柄を、主役を食うほどに縦横無尽に演じていた。
画面に松田優作が登場するだけで怖かった。
彼が、短く刈り上げた頭髪をゆすりながら、黒いロングコートを羽織って画面の片隅に立つだけで、そこから、見る者を凍りつかせる絶対零度の冷気が噴き出していた。
松田優作が演じる若いヤクザの内面がどんなものであるのか。
観客はそれを想像することもできない。
ただ、そのヤクザが 「人間を超えた何ものかになろうとしている」 という恐ろしさだけは見事に伝わってきた。
彼が目をむいて凄むとき、その目は、東洲斎写楽の描く浮世絵の人物そのものだった。
研究熱心だった優作は、ハリウッド映画を意識して、写楽の絵に表出する東洋風エキゾチシズムを採りいれようとしたのかもしれない。古今東西の美術に関心の深いリドリー・スコットは、さぞやその演技に満足したことだろう。
しかし、写楽なんぞ知らなくたって、優作の目の演技は、人間が自分の肉体を使って表現する領域を軽々と超えていた。
古来より、人類があがめる神に 「慈悲の神」 と 「荒ぶる神」 がいたとしたら、優作の目は 「荒ぶる神」 の目であり、彼が大地を踏みしめて立ち尽くす姿は、破壊と創造を司るインド神話のシバ神の降臨を思わせた。
この映画を撮影していたとき、彼はすでにガンを患っていて、この作品が自分の最後の映画になることを知っていたという。
死を背中に背負った演技だからこそ迫真力がこもったのか、それとも、そのような演技を積み重ねてきたことが、彼の死期を早めたのか、それは分からない。
ただ言えることは、「人間を超えた存在」 をここまで表現しえた役者など、かつていたこともなかったし、これから先も、こういう役者が現れることはほとんどないかもしれない、ということだ。
松田優作1989年11月6日逝去。
享年40歳。
ちょうど20年前のことである。
2008年12月30日
最終電車
《 掌編小説・最終電車 》
乗客は静かだった。
眠っている中年男ひとり。
女性週刊誌を眺めている独身風の中年OLひとり。
抱き合っている学生のカップルが一組。
乗っているのは、私を含めその五人だった。
私は、席に座って眠ってしまうのを避けるために、車両の最後部に立ち、退屈ざましに、乗っている人間たちを観察した。
年末の最終電車。
休みに入った企業も多く、人の顔も緊張感を失ってまのびしている。

電車が減速してホームについた。
開いたドアから風が吹き込んでくる。
明かりの消えた町並みが冷気の底に沈んでいる。
眠っていた中年男が目を開けた。
男は寒そうに背を丸め、窓の外を眺めて、舌打ちをする。
郊外にローンで建てた家に、妻ひとり子供二人。いつもは会社が終わると真っ直ぐ帰宅。
今日はたまの忘年会に誘われて、気分が乗り切らないままお開きを迎え、若者グループから義理で誘われたカラオケを断って、そのまま帰る。
…そんな感じの男だ。
OLが雑誌から目を離して大あくびをする。
仲間の独身OLたちと映画の鑑賞。そのまま居酒屋で会社の男たちのうわさ話。
「いい男いないわね」 とみんなで愚痴を垂れ、自分だけは恋人探しに熱中していることは隠しつつ、表面的にはお互いに慰めあってきた。
…そんな感じの女。
若いカップル。抱き合ったまま話がない。
女の方は酔っているのか、男の肩に頬を預けてぐったりしている。
男は、早くアパートに寄って女の酔いが醒めないうちにモノしてしまうつもり。
…そんな感じ。
ドアがまだ開いている。
誰も乗らない。
忘年会の狂騒も峠を越えたこの時期に、終電まで飲み歩いている人間はこの辺にはいないようだ。
ドアが閉まる。
ふと後尾車両を覗くと、後ろの車両はどういうわけか乗客が多い。
本来なら、ひとつ後ろの車両だから、乗っている人間の顔など分からないはずなのに、連結部の窓ガラスを通して、後ろの車両に乗っている人間の顔がはっきりと見える。
「あれ?」
私は思わず、声を漏らした。
同僚の北村が乗っている。家とは反対方向だ。
終電に乗って、いったいどこにいくつもりか。
それにしても、北村を見るのは久しぶりだ。
同じ職場なのに、課が変わってからは会うことがなかった。
…はて、最後に顔を見てから、いったい何年経ったのだろう。
連れがいる。引退した前社長の島森だ。
島森が前社長だったなんて、もう記憶からすっかり抜け落ちていた。
二人とも椅子に腰掛けず、吊革につかまったまま立っている。
北村は熱心に島森に話しかけている。
島森はうんざりした顔でうなずいている。
業務の報告を、島森が北村から直接受けるはずはない。
何かプライベートな話なのか。
それにしても、ずいぶん珍しい取り合わせだ。
「や?」
その向こうには桜井がいる。
寒いのに半ズボンを履いている。手に持っているのは図画工作の作品のペーパークラフトだろうか。
黒く塗りつぶされた鳥のような形をした人形を抱えている。
ランドセルが膨らんで中からソロバンが頭を出している。
窓の外をじっと見ている。
室内の明かりが反射して外の景色は見えないはずだ。
窓に映った自分の顔でも眺めているのだろうか。
青い顔だ。体の具合でも悪いのだろうか。
立原もいる。
学生服の下に、相変わらず下駄を履いている。
アルバイトの新聞配達した余りをもらったのか、新聞の束を小脇に抱えている。夕刊のようだ。
同じ新聞を何部も抱えて何にするつもりなのだろう。
学生服につもった自分の頭のフケを手で払っている。
ふくらんだ鼻の穴が動物園のゴリラを思わせる。まだ独身のようだ。
その向こうは叔父だ。
パーティーの帰りか、フロックコートに山高帽だ。
丸い眼鏡の奥で、相変わらず険しそうな目を光らせている。
目を合わせれば、いまだに 「お前は、自分の親父の爪のアカでも飲んだほうがいい」 と言い出しかねない。
幸い、これも窓の外を凝視したまま視線を動かす気配がない。
座って居眠りをしているのは、私の祖父のようだ。
長い入院生活が続き、私は見舞いの時にしか祖父に会ったことがなかった。
父が 「孫が来ましたよ」 と報告すると、いつも静かに目を細めるだけだった。
何を見つめているのか、焦点の定まらぬ視線。
それがじっと私に向けられると、私は不気味でしょうがなかった。
今日はどんな目をしているのか。居眠りをしているので、目の “表情” までは読み取れない。
なんだ、叔母もいる。
いやだぜ! 今どき田舎でも見ないモンペを履いている。
何かの買い出しか、篭を背負っている。芋か、米か…。農産物が入っているようだ。
丸い眼鏡越しに、しわの寄った自分の手をじっと眺めている。
顔の色が白樺の幹のように白い。
しかし、どうしてこんなにも最後尾の車両には、私の顔見知りばかり乗っているのだろう。
考えているうちに、私の降りる駅がきた。
ドアから出て、私は後ろの車両をのぞき込んだが、誰ひとり私に気づかない。
声をかけようとした時、ドアがしまった。
最終電車は、宙を滑るように、トンネルのような闇に消えていく。
「…ま、いいか」
私は遠ざかる電車の明かりを眺めながら、つぶやいた。
見上げた空に、雪のようなものが舞い始めている。
私はコートの衿を立てながら、人影の絶えたホームの上を歩き始めた。
深夜の冷気が酔いを醒ましそうだった。

乗客は静かだった。
眠っている中年男ひとり。
女性週刊誌を眺めている独身風の中年OLひとり。
抱き合っている学生のカップルが一組。
乗っているのは、私を含めその五人だった。
私は、席に座って眠ってしまうのを避けるために、車両の最後部に立ち、退屈ざましに、乗っている人間たちを観察した。
年末の最終電車。
休みに入った企業も多く、人の顔も緊張感を失ってまのびしている。
電車が減速してホームについた。
開いたドアから風が吹き込んでくる。
明かりの消えた町並みが冷気の底に沈んでいる。
眠っていた中年男が目を開けた。
男は寒そうに背を丸め、窓の外を眺めて、舌打ちをする。
郊外にローンで建てた家に、妻ひとり子供二人。いつもは会社が終わると真っ直ぐ帰宅。
今日はたまの忘年会に誘われて、気分が乗り切らないままお開きを迎え、若者グループから義理で誘われたカラオケを断って、そのまま帰る。
…そんな感じの男だ。
OLが雑誌から目を離して大あくびをする。
仲間の独身OLたちと映画の鑑賞。そのまま居酒屋で会社の男たちのうわさ話。
「いい男いないわね」 とみんなで愚痴を垂れ、自分だけは恋人探しに熱中していることは隠しつつ、表面的にはお互いに慰めあってきた。
…そんな感じの女。
若いカップル。抱き合ったまま話がない。
女の方は酔っているのか、男の肩に頬を預けてぐったりしている。
男は、早くアパートに寄って女の酔いが醒めないうちにモノしてしまうつもり。
…そんな感じ。
ドアがまだ開いている。
誰も乗らない。
忘年会の狂騒も峠を越えたこの時期に、終電まで飲み歩いている人間はこの辺にはいないようだ。
ドアが閉まる。
ふと後尾車両を覗くと、後ろの車両はどういうわけか乗客が多い。
本来なら、ひとつ後ろの車両だから、乗っている人間の顔など分からないはずなのに、連結部の窓ガラスを通して、後ろの車両に乗っている人間の顔がはっきりと見える。
「あれ?」
私は思わず、声を漏らした。
同僚の北村が乗っている。家とは反対方向だ。
終電に乗って、いったいどこにいくつもりか。
それにしても、北村を見るのは久しぶりだ。
同じ職場なのに、課が変わってからは会うことがなかった。
…はて、最後に顔を見てから、いったい何年経ったのだろう。
連れがいる。引退した前社長の島森だ。
島森が前社長だったなんて、もう記憶からすっかり抜け落ちていた。
二人とも椅子に腰掛けず、吊革につかまったまま立っている。
北村は熱心に島森に話しかけている。
島森はうんざりした顔でうなずいている。
業務の報告を、島森が北村から直接受けるはずはない。
何かプライベートな話なのか。
それにしても、ずいぶん珍しい取り合わせだ。
「や?」
その向こうには桜井がいる。
寒いのに半ズボンを履いている。手に持っているのは図画工作の作品のペーパークラフトだろうか。
黒く塗りつぶされた鳥のような形をした人形を抱えている。
ランドセルが膨らんで中からソロバンが頭を出している。
窓の外をじっと見ている。
室内の明かりが反射して外の景色は見えないはずだ。
窓に映った自分の顔でも眺めているのだろうか。
青い顔だ。体の具合でも悪いのだろうか。
立原もいる。
学生服の下に、相変わらず下駄を履いている。
アルバイトの新聞配達した余りをもらったのか、新聞の束を小脇に抱えている。夕刊のようだ。
同じ新聞を何部も抱えて何にするつもりなのだろう。
学生服につもった自分の頭のフケを手で払っている。
ふくらんだ鼻の穴が動物園のゴリラを思わせる。まだ独身のようだ。
その向こうは叔父だ。
パーティーの帰りか、フロックコートに山高帽だ。
丸い眼鏡の奥で、相変わらず険しそうな目を光らせている。
目を合わせれば、いまだに 「お前は、自分の親父の爪のアカでも飲んだほうがいい」 と言い出しかねない。
幸い、これも窓の外を凝視したまま視線を動かす気配がない。
座って居眠りをしているのは、私の祖父のようだ。
長い入院生活が続き、私は見舞いの時にしか祖父に会ったことがなかった。
父が 「孫が来ましたよ」 と報告すると、いつも静かに目を細めるだけだった。
何を見つめているのか、焦点の定まらぬ視線。
それがじっと私に向けられると、私は不気味でしょうがなかった。
今日はどんな目をしているのか。居眠りをしているので、目の “表情” までは読み取れない。
なんだ、叔母もいる。
いやだぜ! 今どき田舎でも見ないモンペを履いている。
何かの買い出しか、篭を背負っている。芋か、米か…。農産物が入っているようだ。
丸い眼鏡越しに、しわの寄った自分の手をじっと眺めている。
顔の色が白樺の幹のように白い。
しかし、どうしてこんなにも最後尾の車両には、私の顔見知りばかり乗っているのだろう。
考えているうちに、私の降りる駅がきた。
ドアから出て、私は後ろの車両をのぞき込んだが、誰ひとり私に気づかない。
声をかけようとした時、ドアがしまった。
最終電車は、宙を滑るように、トンネルのような闇に消えていく。
「…ま、いいか」
私は遠ざかる電車の明かりを眺めながら、つぶやいた。
見上げた空に、雪のようなものが舞い始めている。
私はコートの衿を立てながら、人影の絶えたホームの上を歩き始めた。
深夜の冷気が酔いを醒ましそうだった。
2008年12月27日
今日だけの欲望
いつもこの時期に思うのですが、まぁなんと1年の短いこと。
公私ともども遣り残したことをいっぱい抱えたまま暮れを迎えてしまうのは毎度のことなんですけど、今年は一段と “遣り残した” ことが多い年でありました。

人間、年をとってくると、様々なことに対する我執も強くなって、あれもこれも…と欲張りになるような気がします。
「老人は欲が薄れて枯れていく」
と世間では思われがちですが、それはよほど “悟り” でも開いた人の心境か、ないしはそれを理想としたいというイメージの世界の話で、実際には、年をとるとますます 「欲」 が強くなりそうに思えます。
で、何を遣り残したかというと、たとえば仕事に関しても、あんな企画をやってみたい、こんな人に取材をしてみたいというものがどんどん膨れあがっているのに、それが少しも到達点に届かない。
私的なことに関しても、こういう知識がほしい、こんな世界に踏み込んでみたいという妄想ばかり膨れあがるのに、なんの成果もあげていない。
やりたいことのイメージがどんどん膨らんでも、実行力がそれに追いつかない。
…というのが、年を取ってきたことの何よりの証拠なんでしょうね。
いやいや、「欲」 とは恐ろしい。
モノに対する欲ならば、手に入れる手段も分かりやすい。
お金を貯めるとか、融通してくれる人を見つけるとか。
それがダメならあきらめることもできる。
しかし、形にならない欲というのは、「死に至る病」 ですね。
結局、死ぬまで手に入らない…ってか、死んでしまうわけだから永遠に手に入らない。
今年も、あとわずか。
残り少ない日々を、せいぜい 「今日だけ充足できる欲望」 に絞って生きのびることにいたします。
とりあえず、読み残した本でも読むか。
公私ともども遣り残したことをいっぱい抱えたまま暮れを迎えてしまうのは毎度のことなんですけど、今年は一段と “遣り残した” ことが多い年でありました。
人間、年をとってくると、様々なことに対する我執も強くなって、あれもこれも…と欲張りになるような気がします。
「老人は欲が薄れて枯れていく」
と世間では思われがちですが、それはよほど “悟り” でも開いた人の心境か、ないしはそれを理想としたいというイメージの世界の話で、実際には、年をとるとますます 「欲」 が強くなりそうに思えます。
で、何を遣り残したかというと、たとえば仕事に関しても、あんな企画をやってみたい、こんな人に取材をしてみたいというものがどんどん膨れあがっているのに、それが少しも到達点に届かない。
私的なことに関しても、こういう知識がほしい、こんな世界に踏み込んでみたいという妄想ばかり膨れあがるのに、なんの成果もあげていない。
やりたいことのイメージがどんどん膨らんでも、実行力がそれに追いつかない。
…というのが、年を取ってきたことの何よりの証拠なんでしょうね。
いやいや、「欲」 とは恐ろしい。
モノに対する欲ならば、手に入れる手段も分かりやすい。
お金を貯めるとか、融通してくれる人を見つけるとか。
それがダメならあきらめることもできる。
しかし、形にならない欲というのは、「死に至る病」 ですね。
結局、死ぬまで手に入らない…ってか、死んでしまうわけだから永遠に手に入らない。
今年も、あとわずか。
残り少ない日々を、せいぜい 「今日だけ充足できる欲望」 に絞って生きのびることにいたします。
とりあえず、読み残した本でも読むか。
2008年12月26日
悪役好き
「月光仮面」 という漫画界のヒーローを知っている人となると、年齢的に50代後半ということになるんだろうな。
まぁ、私なんかはその年代なんで、「月光仮面」 が 「少年クラブ」 に連載された第1回目から読んでいる。
もちろん、テレビドラマの方も欠かさず観ていた。

だけど、決して月光仮面のファンではなかったんだ。
むしろ敵役 (かたきやく) として出てくる悪役の方が好きだった。
特にお気に入りは、「パラダイ王国の秘宝」 編に出てくる 「サタンの爪」 。
ミイラ男がサングラスしているような月光仮面より、断然こっちの方がカッコいいと思っていた。
「サタンの爪」 には、一流の能面師が精魂込めて打ち込んだ般若面みたいな芸術性が感じられて、そっちを密かに応援している方が、大人の鑑賞法を知っているぐらいのマセた気分だった。
変なガキだったのである。
アマノジャクってのか、マイナー志向ってのか、よく分からないけれど、みんなが応援する “正義の味方” なんて、ケッていう感じだったの。
50年代後半の人たちは、きっと子供の頃 「西部劇」 も観ていただろうと思うけれど、当時の西部劇は、正義の味方の白人と、“悪者” インディアンが戦うという設定が多かった。
こういうときも、いつも最後にヤラれちゃうインディアンを応援してた。

後年になって、アメリカ大陸の開拓ってのは、白人が原住民のネイティブアメリカン (インディアン) を虐待して収奪していった過程である…という見方が主流になっていくわけだけど、ガキの頃はそんなこという人は周りにいなくて、こっちもそういう意識で西部劇なんか観ていない。
インディアンの方が、単純にビジュアル的にカッコよかったのだ。
駁 (まだら) の裸馬にまたがって、羽飾りをひるがえして、白人の小銃弾をものともせず、弓矢やトマホークで突進していくインディアンの方が、どう見たって、颯爽としていた。

なんで正義の味方より、敵役としてヤラれちゃう悪役の方が好きなのか。
あまり深く考えたこともなかったのだけれど、コーエイのパソコンゲームで 『ロイヤルブラッド Ⅱ』 というのを遊んでいたときに、ふと気がついた。

『ロイヤルブラッド Ⅱ』 というのは、「光の国」 (正義) と 「闇の国」 (悪) の戦いを描いたゲームなんだけど、ちょっと変っていて、プレイヤーはどちらの側に立つこともできるわけ。
つまり、ドラクエシリーズでいえばモンスター側の “大魔王” の立場も選べるわけね。
で、私なんかは 「悪好み」 だから、闇の国の方ばかり選んでプレイしていたわけだけど、そこにビジュアルとして表現されているヘビの頭を持った邪神とか、魔女とか魔導師ってのは、ケルト神話からヒントを得ているわけだったのね。
そのとき、すごく単純なことに気がついた。
つまり、人類が一貫して叙事詩とか昔物語に登場させてきた 「悪」 ってのは、結局は 「滅ぼされた民族」 だったというわけ。
ケルト人というのは、古代ヨーロッパで、ローマ帝国の支配に対抗して戦い抜いた民族なんだけど、宗教体系も文化体系も、ローマ人たちとは違うから、まぁ 「醜い」 わけよ。
彼らはドルイド教という宗教を持っていて、そこで崇拝される神々の像というのは、まぁミロのビーナスみたいなギリシャ・ローマ的な端正なカッコをしていなくて、いってしまえばヘビの頭を持った半獣神とかさ。
当然、そういう神々像なんかを崇拝する民族だから、衣装も武器も泥くさいし、不気味だし、要するに 「サタンの爪」 なんだわ。
滅ぼされた民族が、なぜ禍々しい衣装に身を包んで、暴力的で、戦闘的で、凶悪な顔をして登場するのか。
歴史は常に 「勝者の記録」 だってよくいわれるけれど、敗者がいつも凶悪に描かれるのは、最終的な勝利を飾った民族が、征服事業がいかに困難であったかを広報するための粉飾に毒々しく彩られているからなんだよね。
しかし、いかにデフォルメされようが、敵役にさせられた悪役たちの方にも、自分たちの正義もあれば美学もあるわけでね。
時には主役を圧倒する文化を誇る場合もあったと思う。
そういう輝きは、どんなに抹殺して変形させようと思っても、すべてを押しつぶすことは、やっぱりできないのね。
ねじ曲げられ、変形されるという勝者のデフォルメを通しても、なお滲み出てくる敗者の 「正義」 や 「美学」 や 「文化」 というのが、すなわち悪役の魅力なんだと気づいたの。
西部劇でインディアンがカッコいいのは、やっぱり白人的な美意識でろ過しようともしきれないインディアンの圧倒的な美学があったわけでさ。
でも、今そういうカッコいい悪役がドラマや映画にいなくなったなぁ。
というか、最近の漫画なんか見ていても、マッチョな主人公はみんな悪役みたいな顔形しているしさ。
インディアンの捉え方だって、白人の反省が行き届いておかげで、みんな立派な固有の文化を持った “偉大な民族” になっちゃって…。
それは正しい認識なんだけど、でも獰猛さが失われて、精悍さが抜け落ちたように思わないでもない。
う~ん、複雑な時代になってきた。
まぁ、私なんかはその年代なんで、「月光仮面」 が 「少年クラブ」 に連載された第1回目から読んでいる。
もちろん、テレビドラマの方も欠かさず観ていた。
だけど、決して月光仮面のファンではなかったんだ。
むしろ敵役 (かたきやく) として出てくる悪役の方が好きだった。
特にお気に入りは、「パラダイ王国の秘宝」 編に出てくる 「サタンの爪」 。
ミイラ男がサングラスしているような月光仮面より、断然こっちの方がカッコいいと思っていた。
「サタンの爪」 には、一流の能面師が精魂込めて打ち込んだ般若面みたいな芸術性が感じられて、そっちを密かに応援している方が、大人の鑑賞法を知っているぐらいのマセた気分だった。
変なガキだったのである。
アマノジャクってのか、マイナー志向ってのか、よく分からないけれど、みんなが応援する “正義の味方” なんて、ケッていう感じだったの。
50年代後半の人たちは、きっと子供の頃 「西部劇」 も観ていただろうと思うけれど、当時の西部劇は、正義の味方の白人と、“悪者” インディアンが戦うという設定が多かった。
こういうときも、いつも最後にヤラれちゃうインディアンを応援してた。
後年になって、アメリカ大陸の開拓ってのは、白人が原住民のネイティブアメリカン (インディアン) を虐待して収奪していった過程である…という見方が主流になっていくわけだけど、ガキの頃はそんなこという人は周りにいなくて、こっちもそういう意識で西部劇なんか観ていない。
インディアンの方が、単純にビジュアル的にカッコよかったのだ。
駁 (まだら) の裸馬にまたがって、羽飾りをひるがえして、白人の小銃弾をものともせず、弓矢やトマホークで突進していくインディアンの方が、どう見たって、颯爽としていた。
なんで正義の味方より、敵役としてヤラれちゃう悪役の方が好きなのか。
あまり深く考えたこともなかったのだけれど、コーエイのパソコンゲームで 『ロイヤルブラッド Ⅱ』 というのを遊んでいたときに、ふと気がついた。
『ロイヤルブラッド Ⅱ』 というのは、「光の国」 (正義) と 「闇の国」 (悪) の戦いを描いたゲームなんだけど、ちょっと変っていて、プレイヤーはどちらの側に立つこともできるわけ。
つまり、ドラクエシリーズでいえばモンスター側の “大魔王” の立場も選べるわけね。
で、私なんかは 「悪好み」 だから、闇の国の方ばかり選んでプレイしていたわけだけど、そこにビジュアルとして表現されているヘビの頭を持った邪神とか、魔女とか魔導師ってのは、ケルト神話からヒントを得ているわけだったのね。
そのとき、すごく単純なことに気がついた。
つまり、人類が一貫して叙事詩とか昔物語に登場させてきた 「悪」 ってのは、結局は 「滅ぼされた民族」 だったというわけ。
ケルト人というのは、古代ヨーロッパで、ローマ帝国の支配に対抗して戦い抜いた民族なんだけど、宗教体系も文化体系も、ローマ人たちとは違うから、まぁ 「醜い」 わけよ。
彼らはドルイド教という宗教を持っていて、そこで崇拝される神々の像というのは、まぁミロのビーナスみたいなギリシャ・ローマ的な端正なカッコをしていなくて、いってしまえばヘビの頭を持った半獣神とかさ。
当然、そういう神々像なんかを崇拝する民族だから、衣装も武器も泥くさいし、不気味だし、要するに 「サタンの爪」 なんだわ。
滅ぼされた民族が、なぜ禍々しい衣装に身を包んで、暴力的で、戦闘的で、凶悪な顔をして登場するのか。
歴史は常に 「勝者の記録」 だってよくいわれるけれど、敗者がいつも凶悪に描かれるのは、最終的な勝利を飾った民族が、征服事業がいかに困難であったかを広報するための粉飾に毒々しく彩られているからなんだよね。
しかし、いかにデフォルメされようが、敵役にさせられた悪役たちの方にも、自分たちの正義もあれば美学もあるわけでね。
時には主役を圧倒する文化を誇る場合もあったと思う。
そういう輝きは、どんなに抹殺して変形させようと思っても、すべてを押しつぶすことは、やっぱりできないのね。
ねじ曲げられ、変形されるという勝者のデフォルメを通しても、なお滲み出てくる敗者の 「正義」 や 「美学」 や 「文化」 というのが、すなわち悪役の魅力なんだと気づいたの。
西部劇でインディアンがカッコいいのは、やっぱり白人的な美意識でろ過しようともしきれないインディアンの圧倒的な美学があったわけでさ。
でも、今そういうカッコいい悪役がドラマや映画にいなくなったなぁ。
というか、最近の漫画なんか見ていても、マッチョな主人公はみんな悪役みたいな顔形しているしさ。
インディアンの捉え方だって、白人の反省が行き届いておかげで、みんな立派な固有の文化を持った “偉大な民族” になっちゃって…。
それは正しい認識なんだけど、でも獰猛さが失われて、精悍さが抜け落ちたように思わないでもない。
う~ん、複雑な時代になってきた。
2008年12月24日
1998年と現在
「不況」 「倒産」 「雇用危機」 「失業」…。
2008年の暮れは、このような言葉で覆われたまま終わろうとしている。
しかし、この光景は、今はじめて登場したものだろうか。
すでに、私たちはこのような光景を一度目にしているはずだ。
ちょうど10年前。
1998年に出された 『Voice』 (PHP研究所) という雑誌で、文芸評論家の福田和也氏は、「デフレの彼方に見えるもの」 という論文で、次のようなことを書いている。
「リストラや賃金カットで労働者の購買力が低下したため、需要はさらに縮小し、物が売れない状況に悲鳴をあげた各企業は、労働者の賃金カットやリストラを促進した。その結果、需要はさらに縮小し、物の価格の持続的下落が始まり、“収縮の連鎖”ができあがった」
これは2008年暮れの現在のことを述べた記事ではない。
1990年代の半ばにバブル経済が弾け、「失われた10年」 が始まろうとした状況を述べた記事だ。

▲ 福田和也氏
福田氏は、このような状況を 「デフレスパイラル」 という言葉で説明し、次のようにいう。
「デフレーションというのは、市場や経済が収縮することである。供給が需要を上回り、モノの価値が減価し、不況が深刻化することをいう」
そして、それが怖いのは、次々と連鎖反応を呼び、渦巻きのようにすべてを巻き込んで、止まることを知らない状態になってしまうことだという。
そして、氏は、「古来デフレというのは、歴史を振り返るかぎり戦争への突入や大災害の発生といった事象にしか脱却の道が見出せない」 …と不吉な予言を立てている。
この1998年当時の日本を襲った大不況の嵐が、きわめて2008年の現在と酷似していることは明白であるが、ただ一点異なることは、当時の日本の全面的経済崩壊を食い止めるのに力のあった 「円安」 の力が失われ、現在は 「円高」 という危機がさらにのしかかっていることだ。
当時、消費減退の手詰まり感が蔓延する中で、「円安」 は、輸出産業の増収益を確保することにつながり、デフレ傾向を打開する特効薬のように作用した。その時代、1円の円安でトヨタは100億円。ソニーは50億円という収益が見込まれたという。
ところが、今はまったく逆の現象が起こっている。アメリカのドルの信用下落が生んだ 「円高」 は、日本を支えていた輸出産業に壊滅的な打撃を与えてしまった。
その一点だけ取り出せば、1998年当時と今の状況はまったく異なる様相を示しているようにも見える。
しかし、現在日本を覆っている 「日本経済崩壊」 のシナリオは、実はこの 「円安」 時代に、輸出産業の隆盛が生んだものともいえるのだ。
輸出に活路を見出した日本の主要産業は、その生産性を向上させるために、徹底した合理化を促進することにひたすら邁進した。
ところが、このような 「生産性の向上」 が、実は経済の収縮を生み、世界経済を崩壊に追い込む危険性を高めることになると、福田氏はいう。
彼は、アメリカの文明批評家ジェレミー・リフキンという人が書いた 『ザ・エンド・オブ・ワーク』 (大失業時代) という本を引用し、その仕組みを次のように解明する。
生産性の向上というのは、今までと同じ投資や時間内により多くの物が大量に作られることを意味する。
当然、市場にはたくさんの商品が溢れるようになる。ところが、たいていの場合、それは 「供給の過剰」 につながる。視点を変えれば 「需要の縮小」 が起こってしまう。
また、生産性の向上により、新しい設備や生産法などが導入されてくると、その帰結として労働力の省力化が図られ、労働者のリストラが始まる。
どんな職場でも固定費の縮小が至上命題だから、固定費のもっともかさむ人件費を減らすことが一番の収益率につながる。
このような省力化を1990年代の情報化産業の急激な隆盛が支えた。
情報化産業の目指すものは、人の仕事をコンピューターに代行させようということだから、それによって人の仕事がどんどん奪われることになっていく。
アメリカでは、その頃からホワイトカラー、中産階級といわれていた層の仕事が激減し、それまで聖域といわれている専門職、たとえば医師、弁護士、教師などという職業が情報化の進展にともない余剰となり、中産階級の凋落が進行していた。
ところが、当時のアメリカでは、このような雇用の縮小が、失業率の上昇という形では現れなかった。新しい雇用も積極的につくられていたからだ。
ただし、その雇用の3分の2は、賃金体系の最底辺に属する単純労働であり、結局は貧富の差を増大させただけのことだった。
このように考えると、アメリカという国はサブプライムローンの崩壊、リーマンブラザースの破綻によって大不況を招いたわけではないことが分かる。空前の好景気に沸いていた90年代から2000年代の初頭にかけて、すでにアメリカでは今の不況が到来するタネが宿されていたのだ。
アメリカ経済の内部崩壊が始まっていたのに、それが顕在化したかったのは理由がある。
ヘッジファンドに代表されるような、国際投資信託がアメリカの個人富裕層の資産運用として発展し、それが巨大な利益を次々と生み出していたからである。
ここから生まれた株式、債権、通貨、金利、為替、先物などのデリバティブ (金融派生商品) は、手持ちの資金の数倍から10倍以上の多額の取り引きを可能にした。
当時、年利回り20~30パーセントの運用実績を上げるヘッジファンドも多く、それに手を染めた人々を一夜にして“億万長者”にした。
これらの金融派生商品を大量に創出するために、アメリカでは 「ファイナンシャル・エンジニアリング (金融工学) 」 が未曾有の発展を遂げた。
この金融工学を進めたのは、最初のうちはNASAやアメリカの軍需産業を辞めたロケット技術者たちであったが、それでも追いつかなくなり、後に素粒子を学んだ特殊の人々すら関わるようになる。
ところが、このように肥大化した金融工学は、「35歳以上は理解不可能」 といわれるほど高度な数式を用いる難解な学問となり、やがて、それを統括的にコントロールするパースペクティブを持った人間が世界中に誰もいないといわれている時代を迎えることになった。つまり世界経済そのものが、先行き不透明な未曾有の混乱期に突入していったわけだ。
1日のうちにコンピューターのキーを数個押すだけで、何10億ドルという巨額な資金がバーチャルなサイバー空間を瞬時に駆け回るという金融社会が、どのように不安定なものであったかは、言うまでもないと思う。
サブプライムローンの崩壊、リーマンブラザースの破綻というのは、このような不安定な金融社会が、その負の素顔をさらしたということに過ぎない。
合理的に運用されていたかのように見えた金融工学というのは、実は、実体経済とは異なる非合理の世界を生み出していた。それは、実体経済を離れたヴァーチャルな幻想経済といってよかった。
80年代から頭角を現し、ヘッジファンドの代表的な投資家であり、かつ理論家と見なされるようになったジョージ・ソロスは、90年代になって次のように言う。
「市場とは、合理的な数学理論で把握できない世界なのだ。マーケットというのは論理的でも自然に均衡するものでもなく、極端な乱高下を繰り返す “混沌” に過ぎない。そして、その混沌の中心にあるのは理論ではなく、大衆の群集心理だ」
アメリカで進行していた金融社会崩壊の危機は、当時の日本には見えなかった。
むしろ、時のアメリカ政府が勧める “ビッグバン” (金融自由化政策) を受け入れ、規制緩和によって外国系金融機関が上陸することに備えて、国内の不良債権処理に邁進した。
それは、確かに国内経済の立て直しには貢献したが、その結果、日本の社会構造と日本人の精神構造に大きな変化をもたらすことになった。
ビッグバンとは、政府の規制なしに金融の徹底した自由化を推進するものであったため、激しい競争原理の世界に日本の金融業を巻き込んだ。日本の各金融機関は、自己資本率を上げるために、融資額を圧縮するようになり、同時に、貸し出し先を厳しく吟味 (貸し渋り) するようになった。
その結果、各企業は融資を受けるために、容赦のない合理化を徹底的に行ない、その流れの中で、「終身雇用」 といった日本的制度も崩壊して、「弱肉強食」 社会が誕生することになった。
このように考えると、現在の 「雇用危機」 や 「派遣切り」 「失業」 という社会問題は、実は、輸出産業が日本経済をけん引して、日本が不況を脱したと沸いていた時代に、すでに生まれていたということができる。
福田和也氏は、このような 「弱肉強食的」 な自由競争がイギリス、アメリカで容認されてきた背景には、彼らの根強いプロテスタント信仰の伝統があり、利潤追求の精神が強化されても、人心の荒廃を招かない文化的チェック機能が働いているからだという。しかし、それは他のアジア諸国には当てはまらないとも指摘する。
福田氏がこのような指摘を行っていた1990年代の後期、浅田彰氏は、柄谷行人氏との 『文學界』 における対談 (再びマルクスの可能性の中心を問う) で、グローバル・スタンダードがもたらす新しい市場世界が、実はマルクスの予言した古典的状況に似てきたことを指摘している。
「グローバルな電子情報網に支えられて巨大な資金が世界中を駆け回るようになった時代というのは、80年代のサッチャー=レーガン型の新自由主義を国家の側が認めてしまった結果としてもたらされたものだ。
世界の各企業は、このグローバルなメガ・コンペティションに勝ち抜くためには、弱者は切り捨てていくほかはないと割り切ることができるようになった。
これはいわば資本主義の野蛮な先祖返りである。
その結果、文字どおりの世界資本主義が成立し、一方における過剰資金の蓄積と、他方における窮乏化が同時に進行するという矛盾が世界規模で見えるようになった。
そういう意味で、マルクスの予言した古典的状況に似てきていると思う」
このような福田和也氏や浅田彰氏の分析が、1990年代後期にすでになされていたということは瞠目に値する。
なぜ、このような予言が拾い上げられることなく、日本は今の社会・経済状況に突入してしまったのだろう。
いま私たちは 「世界恐慌」 のトバ口に立ったような不安に怯えているが、昔からこのような問題を真剣に考えていいた人たちは存在していた。
人類がかつて経験したことのない未曾有の混乱期に入ったことは確かだが、そこから脱出するヒントは、過去に積み重ねられた英知の中に埋もれているかもしれない。
それらを見出す作業も、いま必要なことだと思う。
2008年の暮れは、このような言葉で覆われたまま終わろうとしている。
しかし、この光景は、今はじめて登場したものだろうか。
すでに、私たちはこのような光景を一度目にしているはずだ。
ちょうど10年前。
1998年に出された 『Voice』 (PHP研究所) という雑誌で、文芸評論家の福田和也氏は、「デフレの彼方に見えるもの」 という論文で、次のようなことを書いている。
「リストラや賃金カットで労働者の購買力が低下したため、需要はさらに縮小し、物が売れない状況に悲鳴をあげた各企業は、労働者の賃金カットやリストラを促進した。その結果、需要はさらに縮小し、物の価格の持続的下落が始まり、“収縮の連鎖”ができあがった」
これは2008年暮れの現在のことを述べた記事ではない。
1990年代の半ばにバブル経済が弾け、「失われた10年」 が始まろうとした状況を述べた記事だ。
▲ 福田和也氏
福田氏は、このような状況を 「デフレスパイラル」 という言葉で説明し、次のようにいう。
「デフレーションというのは、市場や経済が収縮することである。供給が需要を上回り、モノの価値が減価し、不況が深刻化することをいう」
そして、それが怖いのは、次々と連鎖反応を呼び、渦巻きのようにすべてを巻き込んで、止まることを知らない状態になってしまうことだという。
そして、氏は、「古来デフレというのは、歴史を振り返るかぎり戦争への突入や大災害の発生といった事象にしか脱却の道が見出せない」 …と不吉な予言を立てている。
この1998年当時の日本を襲った大不況の嵐が、きわめて2008年の現在と酷似していることは明白であるが、ただ一点異なることは、当時の日本の全面的経済崩壊を食い止めるのに力のあった 「円安」 の力が失われ、現在は 「円高」 という危機がさらにのしかかっていることだ。
当時、消費減退の手詰まり感が蔓延する中で、「円安」 は、輸出産業の増収益を確保することにつながり、デフレ傾向を打開する特効薬のように作用した。その時代、1円の円安でトヨタは100億円。ソニーは50億円という収益が見込まれたという。
ところが、今はまったく逆の現象が起こっている。アメリカのドルの信用下落が生んだ 「円高」 は、日本を支えていた輸出産業に壊滅的な打撃を与えてしまった。
その一点だけ取り出せば、1998年当時と今の状況はまったく異なる様相を示しているようにも見える。
しかし、現在日本を覆っている 「日本経済崩壊」 のシナリオは、実はこの 「円安」 時代に、輸出産業の隆盛が生んだものともいえるのだ。
輸出に活路を見出した日本の主要産業は、その生産性を向上させるために、徹底した合理化を促進することにひたすら邁進した。
ところが、このような 「生産性の向上」 が、実は経済の収縮を生み、世界経済を崩壊に追い込む危険性を高めることになると、福田氏はいう。
彼は、アメリカの文明批評家ジェレミー・リフキンという人が書いた 『ザ・エンド・オブ・ワーク』 (大失業時代) という本を引用し、その仕組みを次のように解明する。
生産性の向上というのは、今までと同じ投資や時間内により多くの物が大量に作られることを意味する。
当然、市場にはたくさんの商品が溢れるようになる。ところが、たいていの場合、それは 「供給の過剰」 につながる。視点を変えれば 「需要の縮小」 が起こってしまう。
また、生産性の向上により、新しい設備や生産法などが導入されてくると、その帰結として労働力の省力化が図られ、労働者のリストラが始まる。
どんな職場でも固定費の縮小が至上命題だから、固定費のもっともかさむ人件費を減らすことが一番の収益率につながる。
このような省力化を1990年代の情報化産業の急激な隆盛が支えた。
情報化産業の目指すものは、人の仕事をコンピューターに代行させようということだから、それによって人の仕事がどんどん奪われることになっていく。
アメリカでは、その頃からホワイトカラー、中産階級といわれていた層の仕事が激減し、それまで聖域といわれている専門職、たとえば医師、弁護士、教師などという職業が情報化の進展にともない余剰となり、中産階級の凋落が進行していた。
ところが、当時のアメリカでは、このような雇用の縮小が、失業率の上昇という形では現れなかった。新しい雇用も積極的につくられていたからだ。
ただし、その雇用の3分の2は、賃金体系の最底辺に属する単純労働であり、結局は貧富の差を増大させただけのことだった。
このように考えると、アメリカという国はサブプライムローンの崩壊、リーマンブラザースの破綻によって大不況を招いたわけではないことが分かる。空前の好景気に沸いていた90年代から2000年代の初頭にかけて、すでにアメリカでは今の不況が到来するタネが宿されていたのだ。
アメリカ経済の内部崩壊が始まっていたのに、それが顕在化したかったのは理由がある。
ヘッジファンドに代表されるような、国際投資信託がアメリカの個人富裕層の資産運用として発展し、それが巨大な利益を次々と生み出していたからである。
ここから生まれた株式、債権、通貨、金利、為替、先物などのデリバティブ (金融派生商品) は、手持ちの資金の数倍から10倍以上の多額の取り引きを可能にした。
当時、年利回り20~30パーセントの運用実績を上げるヘッジファンドも多く、それに手を染めた人々を一夜にして“億万長者”にした。
これらの金融派生商品を大量に創出するために、アメリカでは 「ファイナンシャル・エンジニアリング (金融工学) 」 が未曾有の発展を遂げた。
この金融工学を進めたのは、最初のうちはNASAやアメリカの軍需産業を辞めたロケット技術者たちであったが、それでも追いつかなくなり、後に素粒子を学んだ特殊の人々すら関わるようになる。
ところが、このように肥大化した金融工学は、「35歳以上は理解不可能」 といわれるほど高度な数式を用いる難解な学問となり、やがて、それを統括的にコントロールするパースペクティブを持った人間が世界中に誰もいないといわれている時代を迎えることになった。つまり世界経済そのものが、先行き不透明な未曾有の混乱期に突入していったわけだ。
1日のうちにコンピューターのキーを数個押すだけで、何10億ドルという巨額な資金がバーチャルなサイバー空間を瞬時に駆け回るという金融社会が、どのように不安定なものであったかは、言うまでもないと思う。
サブプライムローンの崩壊、リーマンブラザースの破綻というのは、このような不安定な金融社会が、その負の素顔をさらしたということに過ぎない。
合理的に運用されていたかのように見えた金融工学というのは、実は、実体経済とは異なる非合理の世界を生み出していた。それは、実体経済を離れたヴァーチャルな幻想経済といってよかった。
80年代から頭角を現し、ヘッジファンドの代表的な投資家であり、かつ理論家と見なされるようになったジョージ・ソロスは、90年代になって次のように言う。
「市場とは、合理的な数学理論で把握できない世界なのだ。マーケットというのは論理的でも自然に均衡するものでもなく、極端な乱高下を繰り返す “混沌” に過ぎない。そして、その混沌の中心にあるのは理論ではなく、大衆の群集心理だ」
アメリカで進行していた金融社会崩壊の危機は、当時の日本には見えなかった。
むしろ、時のアメリカ政府が勧める “ビッグバン” (金融自由化政策) を受け入れ、規制緩和によって外国系金融機関が上陸することに備えて、国内の不良債権処理に邁進した。
それは、確かに国内経済の立て直しには貢献したが、その結果、日本の社会構造と日本人の精神構造に大きな変化をもたらすことになった。
ビッグバンとは、政府の規制なしに金融の徹底した自由化を推進するものであったため、激しい競争原理の世界に日本の金融業を巻き込んだ。日本の各金融機関は、自己資本率を上げるために、融資額を圧縮するようになり、同時に、貸し出し先を厳しく吟味 (貸し渋り) するようになった。
その結果、各企業は融資を受けるために、容赦のない合理化を徹底的に行ない、その流れの中で、「終身雇用」 といった日本的制度も崩壊して、「弱肉強食」 社会が誕生することになった。
このように考えると、現在の 「雇用危機」 や 「派遣切り」 「失業」 という社会問題は、実は、輸出産業が日本経済をけん引して、日本が不況を脱したと沸いていた時代に、すでに生まれていたということができる。
福田和也氏は、このような 「弱肉強食的」 な自由競争がイギリス、アメリカで容認されてきた背景には、彼らの根強いプロテスタント信仰の伝統があり、利潤追求の精神が強化されても、人心の荒廃を招かない文化的チェック機能が働いているからだという。しかし、それは他のアジア諸国には当てはまらないとも指摘する。
福田氏がこのような指摘を行っていた1990年代の後期、浅田彰氏は、柄谷行人氏との 『文學界』 における対談 (再びマルクスの可能性の中心を問う) で、グローバル・スタンダードがもたらす新しい市場世界が、実はマルクスの予言した古典的状況に似てきたことを指摘している。
「グローバルな電子情報網に支えられて巨大な資金が世界中を駆け回るようになった時代というのは、80年代のサッチャー=レーガン型の新自由主義を国家の側が認めてしまった結果としてもたらされたものだ。
世界の各企業は、このグローバルなメガ・コンペティションに勝ち抜くためには、弱者は切り捨てていくほかはないと割り切ることができるようになった。
これはいわば資本主義の野蛮な先祖返りである。
その結果、文字どおりの世界資本主義が成立し、一方における過剰資金の蓄積と、他方における窮乏化が同時に進行するという矛盾が世界規模で見えるようになった。
そういう意味で、マルクスの予言した古典的状況に似てきていると思う」
このような福田和也氏や浅田彰氏の分析が、1990年代後期にすでになされていたということは瞠目に値する。
なぜ、このような予言が拾い上げられることなく、日本は今の社会・経済状況に突入してしまったのだろう。
いま私たちは 「世界恐慌」 のトバ口に立ったような不安に怯えているが、昔からこのような問題を真剣に考えていいた人たちは存在していた。
人類がかつて経験したことのない未曾有の混乱期に入ったことは確かだが、そこから脱出するヒントは、過去に積み重ねられた英知の中に埋もれているかもしれない。
それらを見出す作業も、いま必要なことだと思う。
2008年12月23日
山のクリスマス
もう死んじゃったけど、俺のオフクロは無類にクリスマスが好きだった。
戦争を体験して、物資の少ない時代を知ってた人だから、モノを大切にしていた。
だから、なんかのときに手に入れた同じクリスマス用のきれいな赤い包装紙を毎年使って、クリスマスプレゼントってのを包んでくれたのよ。
「サンタさんはいつも違うプレゼントをくれるのに、なんで包装紙だけは同じなんだろう?」
なんて、俺もあまり突っ込んで考えたことがなかったけどね。
年を経るたびに、少しずつ包装紙がしわしわになっていくんだけど、味が出てきて悪いもんではなかった。
オモチャもあったけど、絵本なんてのが多かった。
布団を肩から羽織ったオフクロの膝の上に抱かれて、その絵本を読んでもらう。
体はポカポカ温かいし、本は面白い。
そいつが、小さかった頃のクリスマスの楽しみだったねぇ。
『山のクリスマス』 なんて本があった。
主人公の名前はハンス。…違ったかな。

ストーリーは忘れてしまったけど、絵が良かった。
町に住む男の子が、冬休みに、山に住んでいるお爺さんの家に行く話だったように思う。近所の子供たちが集まって、おばあさんがクッキーなど焼いて、子供たちに振舞って。
暖炉があって、火が燃えていて、ツリーは星の飾りで彩られてキラキラしていた。
子供心に、「外国のクリスマスって豊かなんだな…」と思った。
学生になって、さらに社会人になって、俺もクリスマスの日なんかに家に寄り付かなくなった。
で、たまに家に顔を出すと、家の一角が1年中 “クリスマスコーナー” になっていて。
そこに、手のひらに乗るぐらいの小さなクリスマスツリーとか、赤いキャンドルとか、天使の姿の陶器の小さな人形なんかが飾られている。
そして、ボロボロになった 『山のクリスマス』 の絵本なんかがそっと立てかけられていた。
おふくろは、家に寄り付かなくなった俺の、ガキの頃だけを思い出して、毎日独りでクリスマスを楽しんでいたのかもしれない。
その本はどこに行ってしまったのだろう。
オフクロが亡くなって、遺品を整理して、そのときにどこかの箱につめたまま倉庫に眠っているはずだ。
整理をしているときは、感傷的な気分など微塵もなかったのに、こうやってクリスマスが近づいてくると、無性にその本のことが気になる。
おーい、どこかのダンボールの底に眠っている 『山のクリスマス』 。
聞こえたら返事をせい。
戦争を体験して、物資の少ない時代を知ってた人だから、モノを大切にしていた。
だから、なんかのときに手に入れた同じクリスマス用のきれいな赤い包装紙を毎年使って、クリスマスプレゼントってのを包んでくれたのよ。
「サンタさんはいつも違うプレゼントをくれるのに、なんで包装紙だけは同じなんだろう?」
なんて、俺もあまり突っ込んで考えたことがなかったけどね。
年を経るたびに、少しずつ包装紙がしわしわになっていくんだけど、味が出てきて悪いもんではなかった。
オモチャもあったけど、絵本なんてのが多かった。
布団を肩から羽織ったオフクロの膝の上に抱かれて、その絵本を読んでもらう。
体はポカポカ温かいし、本は面白い。
そいつが、小さかった頃のクリスマスの楽しみだったねぇ。
『山のクリスマス』 なんて本があった。
主人公の名前はハンス。…違ったかな。
ストーリーは忘れてしまったけど、絵が良かった。
町に住む男の子が、冬休みに、山に住んでいるお爺さんの家に行く話だったように思う。近所の子供たちが集まって、おばあさんがクッキーなど焼いて、子供たちに振舞って。
暖炉があって、火が燃えていて、ツリーは星の飾りで彩られてキラキラしていた。
子供心に、「外国のクリスマスって豊かなんだな…」と思った。
学生になって、さらに社会人になって、俺もクリスマスの日なんかに家に寄り付かなくなった。
で、たまに家に顔を出すと、家の一角が1年中 “クリスマスコーナー” になっていて。
そこに、手のひらに乗るぐらいの小さなクリスマスツリーとか、赤いキャンドルとか、天使の姿の陶器の小さな人形なんかが飾られている。
そして、ボロボロになった 『山のクリスマス』 の絵本なんかがそっと立てかけられていた。
おふくろは、家に寄り付かなくなった俺の、ガキの頃だけを思い出して、毎日独りでクリスマスを楽しんでいたのかもしれない。
その本はどこに行ってしまったのだろう。
オフクロが亡くなって、遺品を整理して、そのときにどこかの箱につめたまま倉庫に眠っているはずだ。
整理をしているときは、感傷的な気分など微塵もなかったのに、こうやってクリスマスが近づいてくると、無性にその本のことが気になる。
おーい、どこかのダンボールの底に眠っている 『山のクリスマス』 。
聞こえたら返事をせい。
2008年12月21日
掌編小説・狐部隊
「狐部隊って知ってた?」
隣りに座った女は、そう言って私の方を振り向く。
「いいや。…何それ?」
私は、物憂く返事する。
深夜のパブだ。
とっくに電車は終わっている。
地下室の穴倉みたいなカウンターに座っている客は、もう私と女しかいない。
カウンターの中にはバーテンもいない。ウェイターもいない。
音楽も止まった。
時間が死んだようだ。
「狐部隊ってかわいそうなの。聞いたとき、泣いちゃった…」
女は、別に悲しそうにするふうでもなく、壁に向かって独り言のようにつぶやく。
「何だい? 狐部隊って…」
私は、もう一度同じ質問を繰り返す。
「満州での話なの。日本が満州で戦争をしていたころの話なのよ。あなた知ってた?」
「いや」
「あなたって、そういうこと知らない年なの?」
女がびっくりしたように尋ねる。
「おいおい、俺を80歳以上の老人にする気かい?」
「戦争って、そんな昔なの?」
女が怪訝そうな顔で、私を振り返った。
「そうだ。もう “戦後” という言葉すら、とっくの昔になくなった」
「それでね…」
女は、私の言葉など念頭にないように、話を続ける。
「日本が負けそうになって、ソ連軍が攻めてきたのに、日本軍は逃げてしまって、普通の人を守る兵隊がいなくなったの」
「それで?」
「男は小学生しかいなくなったんですって」
隣りに座った女は、そう言って私の方を振り向く。
「いいや。…何それ?」
私は、物憂く返事する。
深夜のパブだ。
とっくに電車は終わっている。
地下室の穴倉みたいなカウンターに座っている客は、もう私と女しかいない。
カウンターの中にはバーテンもいない。ウェイターもいない。
音楽も止まった。
時間が死んだようだ。
「狐部隊ってかわいそうなの。聞いたとき、泣いちゃった…」
女は、別に悲しそうにするふうでもなく、壁に向かって独り言のようにつぶやく。
「何だい? 狐部隊って…」
私は、もう一度同じ質問を繰り返す。
「満州での話なの。日本が満州で戦争をしていたころの話なのよ。あなた知ってた?」
「いや」
「あなたって、そういうこと知らない年なの?」
女がびっくりしたように尋ねる。
「おいおい、俺を80歳以上の老人にする気かい?」
「戦争って、そんな昔なの?」
女が怪訝そうな顔で、私を振り返った。
「そうだ。もう “戦後” という言葉すら、とっくの昔になくなった」
「それでね…」
女は、私の言葉など念頭にないように、話を続ける。
「日本が負けそうになって、ソ連軍が攻めてきたのに、日本軍は逃げてしまって、普通の人を守る兵隊がいなくなったの」
「それで?」
「男は小学生しかいなくなったんですって」
