2009年12月05日
カフカの不思議
どこか違う。
何かが違う。
しかし、どこが、どう違うのか分からず、いつの間にか悪夢の中にさまよい込んでしまって、出口の見つからない状態に陥る。
カフカの小説というのは、いつもそういう気分に襲われるような作品が多い。
「カフカ」 という言葉から、近年の読者は何を連想するのだろうか。
村上春樹の 『海辺のカフカ』 かもしれない。
あの小説で、なぜ 「カフカ」 という言葉が使われたのか、未読の私には分からないが、私がここでいおうとしている 「カフカ」 は、チェコ出身のユダヤ系ドイツ人作家フランツ・カフカのことだ。

彼の 『変身』 や 『審判』 を読んだのは、20代のとき。
70年代のサブカルチャー的熱狂の中で、彼の小説は、唐十郎的なおどろおどろしい幻想に彩られたミステリアスな小説という感じで流布していた。
しかし、読んだら、およそ熱狂的な雰囲気とは無縁の作品という印象だった。
むしろ、人間の心を、絶対零度の冷え冷えとした暗所に連れ込むような、静かな寂寥 (せきりょう) 感に満ちていた。
それは今まで読んだどの幻想小説や怪奇小説とも違っていて、恐怖や狂気よりも、乾いたユーモアのようなものすら感じさせた。
彼が生涯追い求めたテーマは何だったのか?
どの作品にも、いろいろな解釈が成り立ちそうだが、どのような解釈をも拒む孤絶感のようなものが作品全体に流れていたように思う。
最近のことだが、昔、途中まで読んで中断していた 『城』 を読み返してみた。

自分も歳をとったので、少しはカフカについて気の利いた感想がいえるのではないかと思っていたが、結局、相変わらずこの人の作品を説明できるようなうまい言葉が見当たらない。
なのに、面白いのだ。
区切りのよいところで本を閉じようとしても、なかなかそうさせてくれない。
この先はどうなるのか?
そういうエンターティメント的な力がこの小説にはある。
若い頃は、同じような情景が延々と続くこのストーリーテリングに間延びしたものを感じていたというのに、今はその延々と続く似たようなシチュエーションが妙に面白く感じられる。
それは、 「納得できないもの」 に接するときの驚きとか、ときめきのようなものかもしれない。
『城』 は、 「納得できない世界」 を描いた小説である。
有名な作品なので、それがどのような内容なのか、すでに知っている方も多かろう。
主人公の 「測量士」 が、ある村から測量の仕事の依頼を受けて、長い旅の果てにその村にたどり着くのだが、村の高台に 「城」 を構える依頼主と、どうしても接触を試みることができない。
城に住む “伯爵” から使わされる執事、代理人、村長などと交渉するのだが、いつも、さまざまな “偶然の” 出来事に邪魔されて、一向に仕事の交渉が始まらない。
自ら歩いて城に近づこうにも、いつの間にか道に迷ったり、夜が訪れたりして、城までたどり着けない。

そのため、村の居酒屋に寝起きを始めた主人公のもどかしい暮らしが、ある意味でドタバタ劇ともとれるような村人たちとの交渉の中に描かれることになる。
だが、そこから迫り出してくるのは、 「何かが違う」 という奇妙な感触だ。
それを、どのような奇妙さと表現すればいいのだろう。
たとえば、同じ言語を解し、同じ文化を共有する人々の住む場所に旅しただけなのに、そこで暮らす人々との会話が妙に噛み合わない。
そういう “もどかしさ” といえばいいのだろうか。
ひとつの単語に対する意味内容は、ほぼ100パーセント共有できるのに、それがつながった会話となると、隔絶的ともいえる 「断層」 が存在する。
それは、小さな、ほとんど気づかないような 「断層」 だが、もしかしたら、共有できた思える言語自体が、別の世界の、別の原理に貫かれた 「言語」 なのではなかろうか?
つまり、同じ 「人間」 のように見えるのに、もしかしたら、その村に暮す人々は、生存構造の異なる別種の生態系を生きる人々なのではなかろうか?
そんな、主人公の生きる土台が揺らぎだすような恐ろしさが、途中からどんどん迫り出してくるような小説なのだ。
主人公の測量士は、なかなか知的な男で、弁も立つ。
だから議論において、簡単に人に負かされるような人間ではないのだが、村人や小役人たちとの議論が始まり、その核心に触れようとすればするほど、暗黒のクレバスがとてつもなく広がっていく。
村人も、 “城” から遣わされる役人たちも、知的エリートではないにも拘わらず、みなしゃべることが実に合理的である。
彼らの話を聞いているかぎり、そこにはロジックの破綻も感じられず、終始一貫した整合性に貫かれている。
…なのに、彼らの合理性と、主人公の信じている合理性との間には、常に絶対的な乖離 (かいり) が生じる。
主人公が感じる村人たちの合理性は、狂気の中に生きている、いわゆる “病者の合理性” とは違う。
当たり前に考え、当たり前に暮らしている人間の持つきわめて平凡な合理性なのだ。
にもかかわらず、時として全く非合理であるという奇妙な感覚が、読者をいい知れぬ不安に誘い込む。
あまりにも 「リアル」 なものは、ある時、まったくそのまま 「アンリアル」 である。
まさに、カフカの描く小説は、そういう世界を表現している。
そこにさまざまな寓意性や象徴性を読みとることは可能だが、どんな寓意性や象徴性を当てはめようとも、常にそこから流れ出ていくものがある。
訳者の池内紀さんは、この作品をめぐって、 「さまざまな議論があり、文中の “城” が何をあらわしているのか、数かぎりない解釈がある」 という。
「城について世界中で書かれたものを集めると、それだけで一つの図書館ができるだろう」
と後書きの中で彼は書く。
数かぎりない解釈があるのは、その余地があるからだ。
つまり、読んだ人間が、必ず自分なりの解釈を述べてみたくなる作品なのだ。
だけど、この小説から何かしらの 「意味」 を取りだそうと思っても、それは徒労に終わるだろう。
たぶん、カフカの頭の中にも、 「意味」 は存在しなかったはずだ。
彼が感じていたのは、 「自分には、世界はこのように見える」 という “手応え” だけだったに違いない。
何かが違う。
しかし、どこが、どう違うのか分からず、いつの間にか悪夢の中にさまよい込んでしまって、出口の見つからない状態に陥る。
カフカの小説というのは、いつもそういう気分に襲われるような作品が多い。
「カフカ」 という言葉から、近年の読者は何を連想するのだろうか。
村上春樹の 『海辺のカフカ』 かもしれない。
あの小説で、なぜ 「カフカ」 という言葉が使われたのか、未読の私には分からないが、私がここでいおうとしている 「カフカ」 は、チェコ出身のユダヤ系ドイツ人作家フランツ・カフカのことだ。
彼の 『変身』 や 『審判』 を読んだのは、20代のとき。
70年代のサブカルチャー的熱狂の中で、彼の小説は、唐十郎的なおどろおどろしい幻想に彩られたミステリアスな小説という感じで流布していた。
しかし、読んだら、およそ熱狂的な雰囲気とは無縁の作品という印象だった。
むしろ、人間の心を、絶対零度の冷え冷えとした暗所に連れ込むような、静かな寂寥 (せきりょう) 感に満ちていた。
それは今まで読んだどの幻想小説や怪奇小説とも違っていて、恐怖や狂気よりも、乾いたユーモアのようなものすら感じさせた。
彼が生涯追い求めたテーマは何だったのか?
どの作品にも、いろいろな解釈が成り立ちそうだが、どのような解釈をも拒む孤絶感のようなものが作品全体に流れていたように思う。
最近のことだが、昔、途中まで読んで中断していた 『城』 を読み返してみた。
自分も歳をとったので、少しはカフカについて気の利いた感想がいえるのではないかと思っていたが、結局、相変わらずこの人の作品を説明できるようなうまい言葉が見当たらない。
なのに、面白いのだ。
区切りのよいところで本を閉じようとしても、なかなかそうさせてくれない。
この先はどうなるのか?
そういうエンターティメント的な力がこの小説にはある。
若い頃は、同じような情景が延々と続くこのストーリーテリングに間延びしたものを感じていたというのに、今はその延々と続く似たようなシチュエーションが妙に面白く感じられる。
それは、 「納得できないもの」 に接するときの驚きとか、ときめきのようなものかもしれない。
『城』 は、 「納得できない世界」 を描いた小説である。
有名な作品なので、それがどのような内容なのか、すでに知っている方も多かろう。
主人公の 「測量士」 が、ある村から測量の仕事の依頼を受けて、長い旅の果てにその村にたどり着くのだが、村の高台に 「城」 を構える依頼主と、どうしても接触を試みることができない。
城に住む “伯爵” から使わされる執事、代理人、村長などと交渉するのだが、いつも、さまざまな “偶然の” 出来事に邪魔されて、一向に仕事の交渉が始まらない。
自ら歩いて城に近づこうにも、いつの間にか道に迷ったり、夜が訪れたりして、城までたどり着けない。
そのため、村の居酒屋に寝起きを始めた主人公のもどかしい暮らしが、ある意味でドタバタ劇ともとれるような村人たちとの交渉の中に描かれることになる。
だが、そこから迫り出してくるのは、 「何かが違う」 という奇妙な感触だ。
それを、どのような奇妙さと表現すればいいのだろう。
たとえば、同じ言語を解し、同じ文化を共有する人々の住む場所に旅しただけなのに、そこで暮らす人々との会話が妙に噛み合わない。
そういう “もどかしさ” といえばいいのだろうか。
ひとつの単語に対する意味内容は、ほぼ100パーセント共有できるのに、それがつながった会話となると、隔絶的ともいえる 「断層」 が存在する。
それは、小さな、ほとんど気づかないような 「断層」 だが、もしかしたら、共有できた思える言語自体が、別の世界の、別の原理に貫かれた 「言語」 なのではなかろうか?
つまり、同じ 「人間」 のように見えるのに、もしかしたら、その村に暮す人々は、生存構造の異なる別種の生態系を生きる人々なのではなかろうか?
そんな、主人公の生きる土台が揺らぎだすような恐ろしさが、途中からどんどん迫り出してくるような小説なのだ。
主人公の測量士は、なかなか知的な男で、弁も立つ。
だから議論において、簡単に人に負かされるような人間ではないのだが、村人や小役人たちとの議論が始まり、その核心に触れようとすればするほど、暗黒のクレバスがとてつもなく広がっていく。
村人も、 “城” から遣わされる役人たちも、知的エリートではないにも拘わらず、みなしゃべることが実に合理的である。
彼らの話を聞いているかぎり、そこにはロジックの破綻も感じられず、終始一貫した整合性に貫かれている。
…なのに、彼らの合理性と、主人公の信じている合理性との間には、常に絶対的な乖離 (かいり) が生じる。
主人公が感じる村人たちの合理性は、狂気の中に生きている、いわゆる “病者の合理性” とは違う。
当たり前に考え、当たり前に暮らしている人間の持つきわめて平凡な合理性なのだ。
にもかかわらず、時として全く非合理であるという奇妙な感覚が、読者をいい知れぬ不安に誘い込む。
あまりにも 「リアル」 なものは、ある時、まったくそのまま 「アンリアル」 である。
まさに、カフカの描く小説は、そういう世界を表現している。
そこにさまざまな寓意性や象徴性を読みとることは可能だが、どんな寓意性や象徴性を当てはめようとも、常にそこから流れ出ていくものがある。
訳者の池内紀さんは、この作品をめぐって、 「さまざまな議論があり、文中の “城” が何をあらわしているのか、数かぎりない解釈がある」 という。
「城について世界中で書かれたものを集めると、それだけで一つの図書館ができるだろう」
と後書きの中で彼は書く。
数かぎりない解釈があるのは、その余地があるからだ。
つまり、読んだ人間が、必ず自分なりの解釈を述べてみたくなる作品なのだ。
だけど、この小説から何かしらの 「意味」 を取りだそうと思っても、それは徒労に終わるだろう。
たぶん、カフカの頭の中にも、 「意味」 は存在しなかったはずだ。
彼が感じていたのは、 「自分には、世界はこのように見える」 という “手応え” だけだったに違いない。

先日町田さんの『夜の夕焼け』を読んで偶然「何だかカフカの『審判』や『城』を読んでいるような...」と感じたばかりでした。
私も若い頃に『審判』と『城』を読みました。 訳が解らないながらも、両方とも主人公が精神的に迷路にはまり、得体の知れないものに追い詰められるといった印象を受けたことだけを憶えています。
『城』は途中放棄しました。 私の場合は『審判』も『城』も二度と手に取る気が起こりません。 エラく頑張りましたから...
講座では、漱石の「それから」を解体したり、「蹴りたい背中」から場面を変えてストーリーを作る課題が出たり。
ブンガクを語る男性が回りに身近にいなかったもので、ここは新鮮です。必死で読んでいます。
『夜の夕焼け』 みたいな、ちょっと恥かしいレベルの小説を、カフカみたいなどと言われると、畏れ多い感じです。
でも、ありがとうございます。
『城』 は、確かに、後半部分はやや退屈になってしまいますね。少し煮つまってしまっている感じもあります。
それに比べると、 『審判』 の方が、完成度が高いのかもしれません。
カフカの小説を、よく 「夢のような」 と語る人は多いのですが、夢じみた小説の中でも、カフカの場合は突出していますよね。
あの 「夢のような」 の雰囲気は、いったいどうやったら生まれてくるのか。そこにとても興味を感じます。
大阪の学校の講座、とても面白そうですね。
漱石から綿矢りさまで研究されるわけですか。興味が湧きます。
私は法学部出身なので、クラスでもゼミでも、あまりブンガクを語る友達が周りにはいませんでした。
もっとも麻雀ばかりやっていたので、仮にそういう友人がいても、見過ごしていたのかもしれません。
今ようやく遅まきながら、ブンガクにも興味を持ち始めているところです。それこそ “60の手習い” みたいなものです。
こちらこそ、いろいろ教えてください。
町田さんの書評を読み直しましたら、また『審判』も『城』も読んでみようかしらという気になったのが不思議です。
『夜の夕焼け』を面白く読ませていただきましたが『水族館』もそれはそれは恐ろしい物語でした。 父親が水族館に行こうと思い立った朝には、すでに尋常なヒトではなかったのか、また幼い息子も水族館の入口を入った瞬間に、父の何か情念といったものに憑かれたのか、亡くした娘が魚となって現れたのは、深い悲しみの念が幻影を見せたのか、実際に娘の霊を呼び寄せたのか...色々思い巡らすと肌が粟立つようでした。
図々しいことではありますが次の怪奇小説を楽しみにしておりますので、町田さんがまた万事落ち着かれましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
昔のアーカイブなどまで丹念にフォローしていただき、何と申し上げていいのやら。
ただただ 「ありがとうございます」 というしかありません。
『水族館』 という短編は、結末も考えず、次々と頭に浮かんできたロケーションをそのまま書いたものに過ぎません。
ただ意識していたことは、けっして 「寓意性」 とか 「象徴性」 にとらわれない、 「意味」 を廃した物語にしたかったということだけでした。
だから、読んでくださった方が、主人公たちが 「幻影」 を見たのか、本当に 「霊」 が現れたのか、それとも、主人公たちが、すでに 「人」 ではなくなっているのか、それぞれ解釈してくださるようなものにしたいと思っていました。
いってしまえば 「不条理感」 というものが、ただ漂っていればいい…というようなもので、そういった意味で、晋太郎さんのように、ていねいに読んだ下った方がいらっしゃるということは、書き手冥利に尽きるといえるかもしれません。
カフカの小説の魅力というのも、ひと言でいえば 「不条理感」 というようなものなんでしょうね。
それは 「不条理の哲学」 でもなければ、「不条理の心理」 でもなく、ただの 「……感」 に過ぎません。
だからこそ、永遠に解けない 「謎」 を残しているわけで、小説の魅力というのは、その 「解けない謎」 にあるとしか言いようがないような気もします。
ていねいなご感想をいただき、感謝しております。