2009年12月04日
10年前の今日
実母の葬儀を執り行ってから、ちょうど10年になる。
今思うと、やはりそのときも仕事が忙しいときだった。
12月1日の早朝、入院させていた病院から様態が不安定だという連絡が入り、カミさんと長男を連れて、急いで病院に駆けつけた。
母親の目は開いていたが、雲がかかったように濁っており、すでに意識はなかった。
担当医の診断によると、
「もって今週の末。もう少し延びても、来週の末」
という話だった。
「まだ時間はあるな」
と思い、息子とカミさんを病院の外に連れ出して、近くのドトールに入り、コーヒーとトーストの朝食をとった。
約1時間後に病室に戻ると、すれ違った看護婦さんの顔に緊張した表情が浮かんでいたので、妙だな…と思った。
さっきまで開いていた病室のドアが閉ざされている。
入ると、母親の顔に白い布が掛かっていた。
思わず、 「あ……」 と息を呑んだ。
看護婦さんの話によると、われわれが退室した直後だったという。
われわれが去った後、急激に脈拍が低下し、わずか10分で息を引き取ったのだそうだ。
病院まで駆けつけながら、死に目に遭えないというのは、なんたる親不孝かとも思ったが、逆にいえば、われわれが駆けつけるまで、懸命に持ちこたという言い方もできるのかもしれない。
その前日の11月30日。
母親の92歳の誕生日を祝うために、一人で病院に見舞いに行った。
仕事のスケジュール上、早い退社の難しい時期だったが、母親の誕生日だということで、無理に7時には退社し、プレゼントンとして、クリスマスソングを奏でる釣鐘型のオルゴールを携えて病室に入った。
4人部屋の病棟に、入院患者は2人だけだった。
夜の病室は、うす暗い静けさに満たされていた。
病室の窓の外では、お堀端を行き交うクルマのヘッドライトが流れ、その向こうに、街のビルを覆うクリスマス・イルミネーションが見えた。
母親はこんこんと眠っており、頬を叩いても、手を握っても応答がなかった。
まぶたを無理やり開くと、目がドロンとしており、生気がない。
もうこれが最後の誕生日か…と思った。
ベルの形をしたオルゴールをそっと鳴らしてみたが、聞こえているのか、聞こえていないのか分らなかった。
魂に届いていることを信じて、手を握ったまま、30分ぐらいじっとしていた。
亡くなったのが、その翌日だから、最後の誕生日を祝ってもらうのを確認してから死んだことになる。
ちゃっかりした性格だったのかもしれない。
葬儀の前に、母親が好きだったスラヴァの 「アヴェ・マリア」 や、ビートルズの 「レット・イット・ビー」 などを収めた音楽テープを作り、当日は斎場にそれを持ち込んだ。
仏式の葬式には似合いそうもない曲ばかりだったが、故人の好みの音楽だから…という理由で、ためらいもなく流した。
母は明治の終わりに生まれ、大正デモクラシーの雰囲気の中で育った。
そして昭和初期のモダンボーイ、モダンガールといわれた先端風俗の中で自分の個性を伸ばしていったようだ。

私を生んでからも、奇抜なファッション、奇抜な髪型で街を闊歩 (かっぽ) し、周りの人が動転したり、目をそむけたりするのを、むしろ面白がって生きていたようなところがある。
老年になると、さらにその嗜好に拍車がかかり、近所に買い物に行くときですら、未開人のお祭りのような奇抜な衣装を身にまとい、周囲の人々からは、半ば呆れ顔で眺められていたような気がする。
まだビートルズが、単なる騒々しいロックバンドとしか思われなかったデビュー時代に、 「この音楽は、やがて20世紀を代表する音になるだろう。彼らは次の時代にはベートーベンやモーツァルトと同じ様な扱いを受けるだろう」 などと予言したりしていた。
今でこそ、この見解は驚くに値しないが、当時50歳か60歳ぐらいの年齢の人間が言ったにしては、奇異な感受性を感じさせる発言だったかもしれない。
自分がこの母親から受け継いだものはけっこう多いように思う。
本を読むのが好きな女だったので、家には、当時無名だった塩野七生の 「ルネッサンスの女たち」 とか、森茉莉の 「戀人たちの森」 、 柴田翔の 「されどわれらが日々」 、バートン版の 「千夜一夜物語」 などという小説のほかに、古典派やロマン派などの美術全集がゴロゴロしていた。
そんなものに手を触れながら、自然に読んだり、目を通していたことが、今の自分の嗜好を決定してしまったのかもしれない。
自分が母から受け継いだものは、そういう文化的な嗜好のほかに、図々しい楽天性だろう。
周りの人間がどう思おうと、自分の生きたい人生を生きるのが人間の一番の幸せなのだという、ある意味で唯我独尊、傍若無人というか、徹底した個人主義的な感受性を自分はそっくり受け継いだように思う。

そういった意味で、私は今もって 「母親の支配下」 にあるのかもしれない。
母の死後10年。
いまだ現役のマザコン男である。
この10年、必ずしも、毎年命日を思い出していたわけではない。
しかし、なぜか今年は、その亡くなったときの様子をはっきりと思い出す。
最後の誕生日を祝いに行った、あの静まりきった病室の窓から見えるヘッドライトの流れを思い出す。
今思うと、やはりそのときも仕事が忙しいときだった。
12月1日の早朝、入院させていた病院から様態が不安定だという連絡が入り、カミさんと長男を連れて、急いで病院に駆けつけた。
母親の目は開いていたが、雲がかかったように濁っており、すでに意識はなかった。
担当医の診断によると、
「もって今週の末。もう少し延びても、来週の末」
という話だった。
「まだ時間はあるな」
と思い、息子とカミさんを病院の外に連れ出して、近くのドトールに入り、コーヒーとトーストの朝食をとった。
約1時間後に病室に戻ると、すれ違った看護婦さんの顔に緊張した表情が浮かんでいたので、妙だな…と思った。
さっきまで開いていた病室のドアが閉ざされている。
入ると、母親の顔に白い布が掛かっていた。
思わず、 「あ……」 と息を呑んだ。
看護婦さんの話によると、われわれが退室した直後だったという。
われわれが去った後、急激に脈拍が低下し、わずか10分で息を引き取ったのだそうだ。
病院まで駆けつけながら、死に目に遭えないというのは、なんたる親不孝かとも思ったが、逆にいえば、われわれが駆けつけるまで、懸命に持ちこたという言い方もできるのかもしれない。
その前日の11月30日。
母親の92歳の誕生日を祝うために、一人で病院に見舞いに行った。
仕事のスケジュール上、早い退社の難しい時期だったが、母親の誕生日だということで、無理に7時には退社し、プレゼントンとして、クリスマスソングを奏でる釣鐘型のオルゴールを携えて病室に入った。
4人部屋の病棟に、入院患者は2人だけだった。
夜の病室は、うす暗い静けさに満たされていた。
病室の窓の外では、お堀端を行き交うクルマのヘッドライトが流れ、その向こうに、街のビルを覆うクリスマス・イルミネーションが見えた。
母親はこんこんと眠っており、頬を叩いても、手を握っても応答がなかった。
まぶたを無理やり開くと、目がドロンとしており、生気がない。
もうこれが最後の誕生日か…と思った。
ベルの形をしたオルゴールをそっと鳴らしてみたが、聞こえているのか、聞こえていないのか分らなかった。
魂に届いていることを信じて、手を握ったまま、30分ぐらいじっとしていた。
亡くなったのが、その翌日だから、最後の誕生日を祝ってもらうのを確認してから死んだことになる。
ちゃっかりした性格だったのかもしれない。
葬儀の前に、母親が好きだったスラヴァの 「アヴェ・マリア」 や、ビートルズの 「レット・イット・ビー」 などを収めた音楽テープを作り、当日は斎場にそれを持ち込んだ。
仏式の葬式には似合いそうもない曲ばかりだったが、故人の好みの音楽だから…という理由で、ためらいもなく流した。
母は明治の終わりに生まれ、大正デモクラシーの雰囲気の中で育った。
そして昭和初期のモダンボーイ、モダンガールといわれた先端風俗の中で自分の個性を伸ばしていったようだ。
私を生んでからも、奇抜なファッション、奇抜な髪型で街を闊歩 (かっぽ) し、周りの人が動転したり、目をそむけたりするのを、むしろ面白がって生きていたようなところがある。
老年になると、さらにその嗜好に拍車がかかり、近所に買い物に行くときですら、未開人のお祭りのような奇抜な衣装を身にまとい、周囲の人々からは、半ば呆れ顔で眺められていたような気がする。
まだビートルズが、単なる騒々しいロックバンドとしか思われなかったデビュー時代に、 「この音楽は、やがて20世紀を代表する音になるだろう。彼らは次の時代にはベートーベンやモーツァルトと同じ様な扱いを受けるだろう」 などと予言したりしていた。
今でこそ、この見解は驚くに値しないが、当時50歳か60歳ぐらいの年齢の人間が言ったにしては、奇異な感受性を感じさせる発言だったかもしれない。
自分がこの母親から受け継いだものはけっこう多いように思う。
本を読むのが好きな女だったので、家には、当時無名だった塩野七生の 「ルネッサンスの女たち」 とか、森茉莉の 「戀人たちの森」 、 柴田翔の 「されどわれらが日々」 、バートン版の 「千夜一夜物語」 などという小説のほかに、古典派やロマン派などの美術全集がゴロゴロしていた。
そんなものに手を触れながら、自然に読んだり、目を通していたことが、今の自分の嗜好を決定してしまったのかもしれない。
自分が母から受け継いだものは、そういう文化的な嗜好のほかに、図々しい楽天性だろう。
周りの人間がどう思おうと、自分の生きたい人生を生きるのが人間の一番の幸せなのだという、ある意味で唯我独尊、傍若無人というか、徹底した個人主義的な感受性を自分はそっくり受け継いだように思う。
そういった意味で、私は今もって 「母親の支配下」 にあるのかもしれない。
母の死後10年。
いまだ現役のマザコン男である。
この10年、必ずしも、毎年命日を思い出していたわけではない。
しかし、なぜか今年は、その亡くなったときの様子をはっきりと思い出す。
最後の誕生日を祝いに行った、あの静まりきった病室の窓から見えるヘッドライトの流れを思い出す。

今日の、お母様のファッションと生き方、素敵ですね。
はじめまして。
眉村卓のようなエンターティメントの大御所と比較されるのは恥かしさも感じますが、光栄のかぎりです。
とても、あの人のような壮大な想像力を持ち合わせていませんが、SFやホラー系の小説は好きなので、その手の文章タッチには、確かに、憧れています。
「古層」 に対して、どのような興味をもたれていらっしゃるのでしょうか。
私もまた少なからず関心を持っている一人なので、機会がありましたら、お教えください。