2009年02月07日
近田春夫に学ぶ
自分が文章を書くときのお手本としているものの一つに、音楽評論家の近田春夫さんのエッセイがある。
現在私が日常的に接しているのは 『週刊文春』 の連載コラム 「考えるヒット」 だけだが、これが毎回面白い。
内容はJポップのレビューなのだが、音楽に限らず一般的なエッセイ、コラムを書くときにも使えそうな表現の宝庫となっている。
たとえば、「シド」 というJポップバンドの新作CDを紹介する記事 (週刊文春 2009 2/12号) は、次のように始まっている。
「最近のバンドの傾向のひとつに “限りなくホストに近い職業意識” でもって音楽活動に臨むものが増えたことが挙げられるかもしれない」
「ホスト」 などというきわどい言葉が出てきて、さぁ、何が始まるのだろうと期待させるに十分な書き出しだ。
つかみはばっちりね、…というところだ。
次に、「シド」 に対する言及が出てくるのだが、彼はこう書く。
「ジャケットを見た限り全員、こりゃ女だったら貢ぎたくなるだろうという“イヤらしい男前” が揃っている。ビジュアル系と言えばそうなのだが、オーラがもう完璧に歌舞伎町!」

“イヤらしい” というネガティブな言葉を使いながら、この “イヤらしい” が、若い人たちの使う “やばい” と同じように、むしろ 「男前」 をポジティブに強調する効果が出ているところに注目。
「オーラが歌舞伎町!」 という表現が、暗にホストクラブを指しているところも面白い。
で、実際に音に接した印象を、彼はこう綴る。
「ルックスにふさわしく耽美なロック調あるいはシドと言うのだからパンクを思い浮かべていたら、ペナペナペナっと軽くさわやかなイントロが聞こえてきたのには驚いた。
何とシドは “シティポップス” のバンドだったのだ」
「シド」 からセックスピストルズのシド・ビシャスを連想できる人は、このくだりで、「へへへ…」 と笑える。
次の 「ペネペネペナ」 という小バカにしたような形容で、「さわやか」 を強調するアクロバティックなレトリックも、近田さんが使えば効果が出る。
この矛盾する表現が、読み手に、シドの音楽の “聞き方の多様性” を理解させる力となっている。
次に社会批評に飛ぶ。
「聴いているといつの間にか “バブリー” で “リゾート” な気分にさせられてしまった。
言ってみればこの曲、“右肩上がりの時代” の匂いを持っているのである」
この表現で、80年代Jポップになじんでいた人は、およそどのような音楽が追求されているのか見当がつく。
それにしても、「右肩上がりの時代の匂いを持つ曲」 という表現がうまい。
最後に結論。
「ひとついえるのは、彼らの音には洋楽の影響というものがまずほとんど感じられないことだ。
もはやJポップだけを聴いて育った世代というものが確実に我が国のシーンの中枢を担うようになってしまったんだなぁ、という妙な感慨を覚えてしまった」
ここで、近田さんが、この 「シド」 のみならず、今のJポップ全体を鳥瞰している様子が読みとれる。
視野がバァーっと広がっていって、こりゃ単なる1バンドの話ではないぞ、と読み手を緊張させるような締めくくりになっている。
軽く書かれているような文章だけど、その奧には、冷静に今の時代を洞察する鋭い “眼差し” が感じとれるレビューだ。
この1号前の 『週刊文春』 では、スチャダラバー×木村カエラのコラボレーションアルバムが採り上げられている。
その音の第一印象を、近田さんは次のように書く。
「一言で言うと “ダル可愛い” 。可愛いけどダルい感じ。やる気があるんだかないんだか、そうした “平和系” とでもいいたい魅力…」
やる気があるのかないのか分からないというニュアンスを 「平和系」 という言葉で表現するセンスに脱帽。

次のような表現は、まさに近田節。
「ラウンジっぽいサウンド (これがチープさを含めてホントに素晴らしい!) がラップと共に流れてくると、どこか切ない未来? の景色が、まるで過ぎ去った夏の日のように眼前に広がってゆき、悲しみとも希望ともつかない感情が湧き上がってくる。そのドライな哀愁がなんとも言えないのだ」
明らかに褒めているのだけれど、甘かったり、辛かったり、苦かったりという複数のスパイスがふんだんに投げ込まれたエスニック料理の味わいがある文章だ。
彼が語る 「チープ」 は 「貧しさ」 ではなく、アーチストが意図して創りあげていく 「戦略」 であることがしっかり捉えられている。
2008 10/30月号の 『週刊文春』 では、倖田來末の 『TABOO』 を採り上げているが、そのサウンドの素晴らしさを認めつつも、辛口の苦言もはっきりと明示し、それをJポップの総論にまで発展させている。

「このアルバムでは、どうもいまいち “お話し” が耳に入ってこない。サウンドの工夫に比べると、どの歌詞も通り一遍に思えてしまう。
このところ、Jポップを聴いていると、『なんと見事な作詞か』 と瞠目させられたためしというものがほとんどない。
言い換えるなら、今のJポップにおいて “コトバ” が音を牽引して楽曲を輝かせているケースはどんどん減ってきているということなのだが、私には、そのことと、楽曲の風化がますます速くなってきていることの間に、何か相関的な関係があるような気がしてならないのだ」
これは、近田さんとほぼ同世代であるだろう私も同感である。
「楽曲の風化」 を 「歌詞の貧しさ」 に求める説は、また別に検証されなければならない問題だし、当然異論を持つ人もいるだろうけれど、誰もが考えなければならないテーマであると思う。
昨年の11/20号に掲載されたコブクロの 『時の足音』 評も面白かった。
「コブクロは 『ドラマチックではあるが本質的には予定調和』 という “安全の保証された興奮” の提供を目的に、実に上手に作り上げられているな、と思った。
善男善女をカタルシスへと導く “手菅” (が不味ければ“親切”) には脱帽するしかない」
うまい!
基本的に、近田さんがこのコブクロの曲を好きではないというスタンスを保っているのは分かるが、「上手に作り上げられている」 、 「脱帽するしかない」 などという言葉を挿入することによって、この曲がマーケット的に成功した秘密を見抜き、かつ音楽業界で食べていく人間として、そのことを正当に評価する視点を持ち合わせていることが伝わってくる。

このコブクロ評では、「予定調和」 という言葉がキータームとなっているのだが、その言葉の意味を分かりやすく伝えているのが、次のくだり。
「 『時の足音』 では、イントロが始まり第一声の 『別れの季節に揺れる……』 が聴こえてくるあたりでもう、どんな歌なのかまだ何も知らないというのに 『この先にはきっと感動が待っているのだろうなぁ』 という気持ちに早くもさせられてしまうのだ。
そして待っていたものが、決して期待を裏切らないと来ている」
もう読んでいると、本当に勉強になる表現ばかり。
採りようによっては、ものすごく皮肉の利いた文章である。
…で、ありながら、角度を変えて眺めてみると、正当な評価にもなっている。
つまり、リスナーの気持ち次第で、いかようにも感じとれるレビューなのだ。
言ってしまえば、リスナーを試している文章ともいえる。
音楽をこういうように “言葉” で語ることを嫌う人もいる。
特に、自分の技量に自信を持っているミュージシャンの中には、あからさまに音楽評論をバカにする人がいる。
だけど、「音楽」 と 「音楽評論」 は別ものだ。
私は 「音楽評論」 というのは、それ自体で完結した読み物だと思っている。
評論する人が、その主観で音楽の評価をねじ曲げようが、それ自体が面白い読み物になっていれば、それで使命を果たしている。
実際に、近田春夫さんのJポップレビューは、読んでいるうちに、本当にそのCDを買いたくなってしまうものが多いのだけれど、実際に買ってみると、自分の期待したものとは異なっていて、がっかりすることもある。
でも近田さんをうらんではいない。
読み物としてすでに十分楽しんだのだから、それでノープロブレム。
リスナーの好みの違いにまで、近田さんが責任を採る必要はないと思っている。
現在私が日常的に接しているのは 『週刊文春』 の連載コラム 「考えるヒット」 だけだが、これが毎回面白い。
内容はJポップのレビューなのだが、音楽に限らず一般的なエッセイ、コラムを書くときにも使えそうな表現の宝庫となっている。
たとえば、「シド」 というJポップバンドの新作CDを紹介する記事 (週刊文春 2009 2/12号) は、次のように始まっている。
「最近のバンドの傾向のひとつに “限りなくホストに近い職業意識” でもって音楽活動に臨むものが増えたことが挙げられるかもしれない」
「ホスト」 などというきわどい言葉が出てきて、さぁ、何が始まるのだろうと期待させるに十分な書き出しだ。
つかみはばっちりね、…というところだ。
次に、「シド」 に対する言及が出てくるのだが、彼はこう書く。
「ジャケットを見た限り全員、こりゃ女だったら貢ぎたくなるだろうという“イヤらしい男前” が揃っている。ビジュアル系と言えばそうなのだが、オーラがもう完璧に歌舞伎町!」
“イヤらしい” というネガティブな言葉を使いながら、この “イヤらしい” が、若い人たちの使う “やばい” と同じように、むしろ 「男前」 をポジティブに強調する効果が出ているところに注目。
「オーラが歌舞伎町!」 という表現が、暗にホストクラブを指しているところも面白い。
で、実際に音に接した印象を、彼はこう綴る。
「ルックスにふさわしく耽美なロック調あるいはシドと言うのだからパンクを思い浮かべていたら、ペナペナペナっと軽くさわやかなイントロが聞こえてきたのには驚いた。
何とシドは “シティポップス” のバンドだったのだ」
「シド」 からセックスピストルズのシド・ビシャスを連想できる人は、このくだりで、「へへへ…」 と笑える。
次の 「ペネペネペナ」 という小バカにしたような形容で、「さわやか」 を強調するアクロバティックなレトリックも、近田さんが使えば効果が出る。
この矛盾する表現が、読み手に、シドの音楽の “聞き方の多様性” を理解させる力となっている。
次に社会批評に飛ぶ。
「聴いているといつの間にか “バブリー” で “リゾート” な気分にさせられてしまった。
言ってみればこの曲、“右肩上がりの時代” の匂いを持っているのである」
この表現で、80年代Jポップになじんでいた人は、およそどのような音楽が追求されているのか見当がつく。
それにしても、「右肩上がりの時代の匂いを持つ曲」 という表現がうまい。
最後に結論。
「ひとついえるのは、彼らの音には洋楽の影響というものがまずほとんど感じられないことだ。
もはやJポップだけを聴いて育った世代というものが確実に我が国のシーンの中枢を担うようになってしまったんだなぁ、という妙な感慨を覚えてしまった」
ここで、近田さんが、この 「シド」 のみならず、今のJポップ全体を鳥瞰している様子が読みとれる。
視野がバァーっと広がっていって、こりゃ単なる1バンドの話ではないぞ、と読み手を緊張させるような締めくくりになっている。
軽く書かれているような文章だけど、その奧には、冷静に今の時代を洞察する鋭い “眼差し” が感じとれるレビューだ。
この1号前の 『週刊文春』 では、スチャダラバー×木村カエラのコラボレーションアルバムが採り上げられている。
その音の第一印象を、近田さんは次のように書く。
「一言で言うと “ダル可愛い” 。可愛いけどダルい感じ。やる気があるんだかないんだか、そうした “平和系” とでもいいたい魅力…」
やる気があるのかないのか分からないというニュアンスを 「平和系」 という言葉で表現するセンスに脱帽。
次のような表現は、まさに近田節。
「ラウンジっぽいサウンド (これがチープさを含めてホントに素晴らしい!) がラップと共に流れてくると、どこか切ない未来? の景色が、まるで過ぎ去った夏の日のように眼前に広がってゆき、悲しみとも希望ともつかない感情が湧き上がってくる。そのドライな哀愁がなんとも言えないのだ」
明らかに褒めているのだけれど、甘かったり、辛かったり、苦かったりという複数のスパイスがふんだんに投げ込まれたエスニック料理の味わいがある文章だ。
彼が語る 「チープ」 は 「貧しさ」 ではなく、アーチストが意図して創りあげていく 「戦略」 であることがしっかり捉えられている。
2008 10/30月号の 『週刊文春』 では、倖田來末の 『TABOO』 を採り上げているが、そのサウンドの素晴らしさを認めつつも、辛口の苦言もはっきりと明示し、それをJポップの総論にまで発展させている。
「このアルバムでは、どうもいまいち “お話し” が耳に入ってこない。サウンドの工夫に比べると、どの歌詞も通り一遍に思えてしまう。
このところ、Jポップを聴いていると、『なんと見事な作詞か』 と瞠目させられたためしというものがほとんどない。
言い換えるなら、今のJポップにおいて “コトバ” が音を牽引して楽曲を輝かせているケースはどんどん減ってきているということなのだが、私には、そのことと、楽曲の風化がますます速くなってきていることの間に、何か相関的な関係があるような気がしてならないのだ」
これは、近田さんとほぼ同世代であるだろう私も同感である。
「楽曲の風化」 を 「歌詞の貧しさ」 に求める説は、また別に検証されなければならない問題だし、当然異論を持つ人もいるだろうけれど、誰もが考えなければならないテーマであると思う。
昨年の11/20号に掲載されたコブクロの 『時の足音』 評も面白かった。
「コブクロは 『ドラマチックではあるが本質的には予定調和』 という “安全の保証された興奮” の提供を目的に、実に上手に作り上げられているな、と思った。
善男善女をカタルシスへと導く “手菅” (が不味ければ“親切”) には脱帽するしかない」
うまい!
基本的に、近田さんがこのコブクロの曲を好きではないというスタンスを保っているのは分かるが、「上手に作り上げられている」 、 「脱帽するしかない」 などという言葉を挿入することによって、この曲がマーケット的に成功した秘密を見抜き、かつ音楽業界で食べていく人間として、そのことを正当に評価する視点を持ち合わせていることが伝わってくる。
このコブクロ評では、「予定調和」 という言葉がキータームとなっているのだが、その言葉の意味を分かりやすく伝えているのが、次のくだり。
「 『時の足音』 では、イントロが始まり第一声の 『別れの季節に揺れる……』 が聴こえてくるあたりでもう、どんな歌なのかまだ何も知らないというのに 『この先にはきっと感動が待っているのだろうなぁ』 という気持ちに早くもさせられてしまうのだ。
そして待っていたものが、決して期待を裏切らないと来ている」
もう読んでいると、本当に勉強になる表現ばかり。
採りようによっては、ものすごく皮肉の利いた文章である。
…で、ありながら、角度を変えて眺めてみると、正当な評価にもなっている。
つまり、リスナーの気持ち次第で、いかようにも感じとれるレビューなのだ。
言ってしまえば、リスナーを試している文章ともいえる。
音楽をこういうように “言葉” で語ることを嫌う人もいる。
特に、自分の技量に自信を持っているミュージシャンの中には、あからさまに音楽評論をバカにする人がいる。
だけど、「音楽」 と 「音楽評論」 は別ものだ。
私は 「音楽評論」 というのは、それ自体で完結した読み物だと思っている。
評論する人が、その主観で音楽の評価をねじ曲げようが、それ自体が面白い読み物になっていれば、それで使命を果たしている。
実際に、近田春夫さんのJポップレビューは、読んでいるうちに、本当にそのCDを買いたくなってしまうものが多いのだけれど、実際に買ってみると、自分の期待したものとは異なっていて、がっかりすることもある。
でも近田さんをうらんではいない。
読み物としてすでに十分楽しんだのだから、それでノープロブレム。
リスナーの好みの違いにまで、近田さんが責任を採る必要はないと思っている。
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