2008年07月09日
実は平家が好き
「負け組」 が好き。
歴史に興味があるので、日本史・西洋史問わず、いろんな国家や文明の興廃や英雄たちの生き死に眺めてきたが、自分には一貫した性癖がある。
「負け組」 が好き。
…といっても、別に、奇をてらった嗜好を強調するつもりはない。
項羽と劉邦だったら、項羽。
ハンニバルとスピキオだったら、ハンニバル。
新撰組と薩長浪士だったら、新撰組。
零戦とグラマンだったら、零戦。
まぁ、上のようなサンプリングなら、ある程度は一般的な共感を得られるのではなかろうか。
華々しくて、悲壮感があって、徹底的に勝ちまくっていながら、最後は残念…というやつ。
このような、時として主役を食ってしまう 「負け組」 のなかでも、ひときわ燦然 (さんぜん) と輝いているのが、あの源平合戦に敗れた平家だ。
老熟した貴族文化と若々しい武家文化が、まさに入れ替わろうとしたあの時代。地中からマグマのように噴き出した平家一門は、巨大な花火となって夜空に舞い上がり、ビッグバンのように弾け飛んで宇宙を埋め尽くした。
そして、人々の網膜にまばゆい光りの渦を残したまま、夜空の暗黒に消えた。
ため息が出るほど華麗で、憎々しいほど勇壮で、涙がちょちょ切れるほどセンチメンタル。
そんな 「ゴージャスな負け組」 といえば、もう平家をおいて他にない。

▲ この手のゲームはお任せ! KOEIの「源平合戦」
特に、後世 「大悪人」 のレッテルを貼られることになった清盛入道のカッコいいこと。
源平時代を描いた物語では常に 「悪者」 だった平清盛を、今ではスケールの大きな 「改革者」 として再評価する声は多い。
しかし、清盛に続く子供たちに英傑が出なかったため、平家一門はドミノ倒しのように東から西へ追いやられ、最後は壇ノ浦で源氏勢力にノックアウトされる。

▲ NHK大河の 「新平家物語」 で清盛を演じた仲代さん。
でも、ちょっとカッコよ過ぎ。
下は、肖像画として残る清盛。こっちは少しブス気味。

清盛の遺志を継げなかった意気地なしの平家一門。
それが、歴史上の平家に対する一般的なイメージではなかろうか。
だが、その 「意気地なし」 の部分にこそ、むしろ平家の未来と可能性があった。
《 平家を見直す好著 》
そんなことを真正面から採り上げた本がある。
『実は平家が好き』 (三猿舎編) だ。

もう3前に出版されたもので、当時NHKで放映された大河ドラマ 『義経』 を当て込んだ企画モノであることはミエミエの本だった。
しかし、便乗商法の企画本としては、実にレベルの高い良書だった。
この本が、それまでの歴史本とは根本的に違っていたのは、ポップな体裁にしながらも、アカデミズムと両立させたところにある。
イラストや写真が多用され、各ページに隙間なくコラムが散りばめられたページ組みは、一見すると雑誌風・ムック風であり、ゲームの攻略本のようにも見える。
実際に、
「もし義経が平家方の武将として登場していたら、歴史はどうなっていたか?」
などというゲーム的な発想に基づく企画があったりして、エンターティメントの要素もたっぷり。
それでいて、平家が目指していた政治機構や経済体制はどんなものであったか。
彼らが歴史の上で果たした役割とは何であったか。
そんなことを生真面目に論じたレポートもあり、硬派の歴史書に鍛えられた中高年の嗜好もがっちりつかんでいる。
『平家物語』 と照らし合わせながら、源平時代を描いた現代作家の著作やコミックなども紹介され、平家に興味を抱いた人たちへのフォローも万全だった。
ゲーム感覚に満ちた本ながら、この本が真面目に読者に伝えたい訴求ポイントは三つある。
① 平家には、日宗貿易に着眼するような、豊かな国際感覚があった。
② 一門の結束が固く、美しい家族愛・同胞愛で結ばれていた
③ 彼らは、みな洗練された美意識を持ち、文化を生み育てる力があった。
上の3項目に対し、少し自分なりの意見を入れて補足したい。
《 坂本龍馬のアイデアを600年前に企画した清盛 》
平清盛が進めようとしていた日宗貿易は、それまで300年続いた平安時代の鎖国状態を打破しようという画期的なものだった。
清盛は、この海外貿易を日本の経済基盤の根幹に据えようとして、大型の貿易船が発着できる福原 (神戸) に都を移そうと考えた。
このあたり、瀬戸内水軍を掌握して、強力な海軍力を擁するようになった平家の体質が見えてくる。
キャラクター的に平家は、海軍体質なのだ。
一方の源氏は、東国の広大な農村地帯に根を張った陸軍体質の集団だった。
源平の戦いというのは、地中海の支配権をかけて戦ったカルタゴ (海洋国家) とローマ (陸軍国家) のポエニ戦役を思い出させる。
清盛は、長い時間をかけて福原 (神戸) を国際貿易都市に育てていくという計画を練っていたが、源氏の挙兵を知って、あわてて遷都を実行に移す。
これに、京を離れることなった貴族たちが猛反発した。
「何を好んで、魚臭い漁港に都を移さねばならないのか?」
そういう貴族たちの恨みを買った清盛は、結局、都を京に戻さざるを得なくなる。
清盛のビッグプロジェクトが、当時の貴族たちに理解されなかったのも無理からぬことであった。
京都盆地の中からほとんど出たことのない貴族たちにとって、唐・天竺 (から・てんじく) などどいう国々は 「御伽草子」 の中にしか存在しない。
彼らには、異国の巨大な貿易船が、瀬戸内海を航行する姿など思い浮かべることができなかったろうし、福原が、唐・天竺 (中国・インド) などと結ばれる国際都市になるなどという想像力を働かせることもできなかった。
都の貴族たちと同じように、百姓上がりの坂東武者たちにとっても、清盛の脳裏に浮かんでいた未来図などは理解の及ばない夢物語だったろう。
この清盛の 「貿易立国構想」 は、その300年後に登場した織田信長や、さらに600年後に登場した坂本龍馬らよって、ようやく理解されたり、実現されることになる。
《 平家一門の美しきファミリー愛 》
一族の結束が固いというのも、今まで誤解ばかりされてきた。
特に 「平家にあらずんば人にあらず」 という平時忠の発言が 「驕れる (おごれる) 平氏」 というイメージを広めるきっかけになってしまった。

▲平家の紋章 「揚羽蝶」
しかし、時忠の発言は、一門の傍流だった時忠が、「自分も平氏の中心にいるぞ!」 という気持ちを必死にアピールせんがための言葉だったという (この本で知った) 。
おそらく心優しい平氏の人々は、そういう時忠の発言を、「困ったお人だ…」 と苦笑いしながら聞いていたのだろう。
一族が仲良く助け合った平氏と違い、源氏は一族同士で殺し合った。
親兄弟が、それぞれ自分の利を主張しあって敵味方に分かれ、勝った方が、負けた方をむごたらしく殺した。
そのため権力を手にした源氏の棟梁 (とうりょう) は、常に自分のファミリーに対する猜疑心を解くことができず、頼朝と義経のような兄弟・親族争いが絶えなかった。
武家による輝かしい権力機構として誕生した鎌倉幕府は、実は陰謀と暗殺が横行する恐怖体制であったといっていい。
現に、源氏の血統は、陰謀と暗殺によって3代で絶える。
その後を襲った北条氏も、数々の陰謀を企てて、鎌倉幕府擁立に功あったライバルの三浦一族、比企一族を抹殺していく。
「陰謀」 は武力を持たない貴族のもの…と相場は決まっていたが、このへんの武家方の陰謀には、鬼気迫るものがある。
それに比べると、平家一門はみな和気あいあいとしており、しかも一族以外の人間をないがしろにすることもなかった。
タイムマシンに乗ってあの時代に行ったとき、はたして源平どちらのファミリーと仲良くなりたいかは、いうまでもないだろう。
《 アートとカルチャーの創造者たち 》
平氏一門が、みな歌舞音曲や文芸に秀でていたということも、今までは 「意気地なし」 を象徴する話として使われていた。
「武士としての鍛錬を忘れ、歌やダンスにうつつを抜かしていたから平家は負けたのだ」 というのが定説だった。
しかし、最終的な戦い (壇ノ浦) で破れたとはいえ、平家のなかには立派に源氏方を打ち破って名を轟かした豪の者がいっぱいいた。
木曽義仲にも連敗したという印象が強いのだが、海戦では木曽義仲に勝っている。
ところが、そういう平家が勝った時の話はあまり一般的に広まらない。
平家一門には、笛や琵琶の修練を積んで、美しい演奏を披露したり、戦場にもお化粧 (お歯黒・白粉) をして臨んだ者が多かった。
「だから負けたんだよ」 という前に、そういう心意気を 「小粋だ」 と評価する視点はないものだろうか。
粗野で残虐な源氏武者を、「質実剛健」 という美質で粉飾するのは、貴族文化の華麗さをねたむ貧民のルサンチマン (怨念) でしかないように思えてならない。
もし、源平の戦いで平家が勝っていたら、
「平家はみやびさを失わず、しかも戦いにも強かった理想の武士たち」
として絶賛されていたはずである。
また、平家は厳島神社のような新しいアイデアに基づく建築物をつくり、平家納経のような洗練された文化財をつくった。

オリジナルカルチャーを生みだそうという意欲に関しては、源氏や当時の貴族たちよりもはるかに上だった。
平家の政権が長く続いていたならば、東アジアにおける日本の国際的地位はもっと上がっていたかもしれない。
《 平家政権なら蒙古襲来はなかった? 》
もし、平家政権が維持されていたときに、大陸から元の使者が訪日してきたらどうだったろう。
やはり元寇はあったのだろうか?
清盛の発案した大陸との貿易を続けていたとしたら、当然平家は、元の軍事力や経済力に関する情報も、鎌倉政権よりははるかにたくさん持っていたはず。
そうなれば、元の強さも、その目的も素早く理解しただろうから、その使者を切って、フビライを怒らせるようなこともなかったろう。
元の目的は、侵攻ではなく、通商と同盟だったといわれている。
当時まだ華南に勢力を張っていた 「南宋」 を牽制するために、元は日本と同盟を結びたかったのだろうというのが、最近の有力説だ。
交易を経済の中枢に置く政権ならば、そのあたりの呼吸を図るのはうまいはず。
平家ならば、「蒙古襲来」 を招くこともなく、日本の独立性を保ちながら元とも上手につきあっていたに違いない。
もちろんこういう 「if」 に、反論を唱える人はいるだろう。
「清盛の死後、清盛の遺志を継ぐような逸材が出てこなかったのだから、平家一門に日本国家を運営する力があったとは思えない」
そう思う人も多いはずだ。
果たしてそうだろうか。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続く戦いで、未来の可能性を試す場もなく死んでいった平家の若者は多かった。
これらの中に、未来の平家をリードしていく逸材がいなかったとは誰がいえよう。
歴史は常に勝者の手によって編まれる。
だから、敗者の実現しなかった 「可能性」 は、勝者の編んだ歴史が生まれるとともに、姿を消す。そして大地の底に横たわる化石となって、遠い未来の発掘者が訪れるまで、眠りにつく。
歴史に興味があるので、日本史・西洋史問わず、いろんな国家や文明の興廃や英雄たちの生き死に眺めてきたが、自分には一貫した性癖がある。
「負け組」 が好き。
…といっても、別に、奇をてらった嗜好を強調するつもりはない。
項羽と劉邦だったら、項羽。
ハンニバルとスピキオだったら、ハンニバル。
新撰組と薩長浪士だったら、新撰組。
零戦とグラマンだったら、零戦。
まぁ、上のようなサンプリングなら、ある程度は一般的な共感を得られるのではなかろうか。
華々しくて、悲壮感があって、徹底的に勝ちまくっていながら、最後は残念…というやつ。
このような、時として主役を食ってしまう 「負け組」 のなかでも、ひときわ燦然 (さんぜん) と輝いているのが、あの源平合戦に敗れた平家だ。
老熟した貴族文化と若々しい武家文化が、まさに入れ替わろうとしたあの時代。地中からマグマのように噴き出した平家一門は、巨大な花火となって夜空に舞い上がり、ビッグバンのように弾け飛んで宇宙を埋め尽くした。
そして、人々の網膜にまばゆい光りの渦を残したまま、夜空の暗黒に消えた。
ため息が出るほど華麗で、憎々しいほど勇壮で、涙がちょちょ切れるほどセンチメンタル。
そんな 「ゴージャスな負け組」 といえば、もう平家をおいて他にない。
▲ この手のゲームはお任せ! KOEIの「源平合戦」
特に、後世 「大悪人」 のレッテルを貼られることになった清盛入道のカッコいいこと。
源平時代を描いた物語では常に 「悪者」 だった平清盛を、今ではスケールの大きな 「改革者」 として再評価する声は多い。
しかし、清盛に続く子供たちに英傑が出なかったため、平家一門はドミノ倒しのように東から西へ追いやられ、最後は壇ノ浦で源氏勢力にノックアウトされる。
▲ NHK大河の 「新平家物語」 で清盛を演じた仲代さん。
でも、ちょっとカッコよ過ぎ。
下は、肖像画として残る清盛。こっちは少しブス気味。
清盛の遺志を継げなかった意気地なしの平家一門。
それが、歴史上の平家に対する一般的なイメージではなかろうか。
だが、その 「意気地なし」 の部分にこそ、むしろ平家の未来と可能性があった。
《 平家を見直す好著 》
そんなことを真正面から採り上げた本がある。
『実は平家が好き』 (三猿舎編) だ。
もう3前に出版されたもので、当時NHKで放映された大河ドラマ 『義経』 を当て込んだ企画モノであることはミエミエの本だった。
しかし、便乗商法の企画本としては、実にレベルの高い良書だった。
この本が、それまでの歴史本とは根本的に違っていたのは、ポップな体裁にしながらも、アカデミズムと両立させたところにある。
イラストや写真が多用され、各ページに隙間なくコラムが散りばめられたページ組みは、一見すると雑誌風・ムック風であり、ゲームの攻略本のようにも見える。
実際に、
「もし義経が平家方の武将として登場していたら、歴史はどうなっていたか?」
などというゲーム的な発想に基づく企画があったりして、エンターティメントの要素もたっぷり。
それでいて、平家が目指していた政治機構や経済体制はどんなものであったか。
彼らが歴史の上で果たした役割とは何であったか。
そんなことを生真面目に論じたレポートもあり、硬派の歴史書に鍛えられた中高年の嗜好もがっちりつかんでいる。
『平家物語』 と照らし合わせながら、源平時代を描いた現代作家の著作やコミックなども紹介され、平家に興味を抱いた人たちへのフォローも万全だった。
ゲーム感覚に満ちた本ながら、この本が真面目に読者に伝えたい訴求ポイントは三つある。
① 平家には、日宗貿易に着眼するような、豊かな国際感覚があった。
② 一門の結束が固く、美しい家族愛・同胞愛で結ばれていた
③ 彼らは、みな洗練された美意識を持ち、文化を生み育てる力があった。
上の3項目に対し、少し自分なりの意見を入れて補足したい。
《 坂本龍馬のアイデアを600年前に企画した清盛 》
平清盛が進めようとしていた日宗貿易は、それまで300年続いた平安時代の鎖国状態を打破しようという画期的なものだった。
清盛は、この海外貿易を日本の経済基盤の根幹に据えようとして、大型の貿易船が発着できる福原 (神戸) に都を移そうと考えた。
このあたり、瀬戸内水軍を掌握して、強力な海軍力を擁するようになった平家の体質が見えてくる。
キャラクター的に平家は、海軍体質なのだ。
一方の源氏は、東国の広大な農村地帯に根を張った陸軍体質の集団だった。
源平の戦いというのは、地中海の支配権をかけて戦ったカルタゴ (海洋国家) とローマ (陸軍国家) のポエニ戦役を思い出させる。
清盛は、長い時間をかけて福原 (神戸) を国際貿易都市に育てていくという計画を練っていたが、源氏の挙兵を知って、あわてて遷都を実行に移す。
これに、京を離れることなった貴族たちが猛反発した。
「何を好んで、魚臭い漁港に都を移さねばならないのか?」
そういう貴族たちの恨みを買った清盛は、結局、都を京に戻さざるを得なくなる。
清盛のビッグプロジェクトが、当時の貴族たちに理解されなかったのも無理からぬことであった。
京都盆地の中からほとんど出たことのない貴族たちにとって、唐・天竺 (から・てんじく) などどいう国々は 「御伽草子」 の中にしか存在しない。
彼らには、異国の巨大な貿易船が、瀬戸内海を航行する姿など思い浮かべることができなかったろうし、福原が、唐・天竺 (中国・インド) などと結ばれる国際都市になるなどという想像力を働かせることもできなかった。
都の貴族たちと同じように、百姓上がりの坂東武者たちにとっても、清盛の脳裏に浮かんでいた未来図などは理解の及ばない夢物語だったろう。
この清盛の 「貿易立国構想」 は、その300年後に登場した織田信長や、さらに600年後に登場した坂本龍馬らよって、ようやく理解されたり、実現されることになる。
《 平家一門の美しきファミリー愛 》
一族の結束が固いというのも、今まで誤解ばかりされてきた。
特に 「平家にあらずんば人にあらず」 という平時忠の発言が 「驕れる (おごれる) 平氏」 というイメージを広めるきっかけになってしまった。
▲平家の紋章 「揚羽蝶」
しかし、時忠の発言は、一門の傍流だった時忠が、「自分も平氏の中心にいるぞ!」 という気持ちを必死にアピールせんがための言葉だったという (この本で知った) 。
おそらく心優しい平氏の人々は、そういう時忠の発言を、「困ったお人だ…」 と苦笑いしながら聞いていたのだろう。
一族が仲良く助け合った平氏と違い、源氏は一族同士で殺し合った。
親兄弟が、それぞれ自分の利を主張しあって敵味方に分かれ、勝った方が、負けた方をむごたらしく殺した。
そのため権力を手にした源氏の棟梁 (とうりょう) は、常に自分のファミリーに対する猜疑心を解くことができず、頼朝と義経のような兄弟・親族争いが絶えなかった。
武家による輝かしい権力機構として誕生した鎌倉幕府は、実は陰謀と暗殺が横行する恐怖体制であったといっていい。
現に、源氏の血統は、陰謀と暗殺によって3代で絶える。
その後を襲った北条氏も、数々の陰謀を企てて、鎌倉幕府擁立に功あったライバルの三浦一族、比企一族を抹殺していく。
「陰謀」 は武力を持たない貴族のもの…と相場は決まっていたが、このへんの武家方の陰謀には、鬼気迫るものがある。
それに比べると、平家一門はみな和気あいあいとしており、しかも一族以外の人間をないがしろにすることもなかった。
タイムマシンに乗ってあの時代に行ったとき、はたして源平どちらのファミリーと仲良くなりたいかは、いうまでもないだろう。
《 アートとカルチャーの創造者たち 》
平氏一門が、みな歌舞音曲や文芸に秀でていたということも、今までは 「意気地なし」 を象徴する話として使われていた。
「武士としての鍛錬を忘れ、歌やダンスにうつつを抜かしていたから平家は負けたのだ」 というのが定説だった。
しかし、最終的な戦い (壇ノ浦) で破れたとはいえ、平家のなかには立派に源氏方を打ち破って名を轟かした豪の者がいっぱいいた。
木曽義仲にも連敗したという印象が強いのだが、海戦では木曽義仲に勝っている。
ところが、そういう平家が勝った時の話はあまり一般的に広まらない。
平家一門には、笛や琵琶の修練を積んで、美しい演奏を披露したり、戦場にもお化粧 (お歯黒・白粉) をして臨んだ者が多かった。
「だから負けたんだよ」 という前に、そういう心意気を 「小粋だ」 と評価する視点はないものだろうか。
粗野で残虐な源氏武者を、「質実剛健」 という美質で粉飾するのは、貴族文化の華麗さをねたむ貧民のルサンチマン (怨念) でしかないように思えてならない。
もし、源平の戦いで平家が勝っていたら、
「平家はみやびさを失わず、しかも戦いにも強かった理想の武士たち」
として絶賛されていたはずである。
また、平家は厳島神社のような新しいアイデアに基づく建築物をつくり、平家納経のような洗練された文化財をつくった。
オリジナルカルチャーを生みだそうという意欲に関しては、源氏や当時の貴族たちよりもはるかに上だった。
平家の政権が長く続いていたならば、東アジアにおける日本の国際的地位はもっと上がっていたかもしれない。
《 平家政権なら蒙古襲来はなかった? 》
もし、平家政権が維持されていたときに、大陸から元の使者が訪日してきたらどうだったろう。
やはり元寇はあったのだろうか?
清盛の発案した大陸との貿易を続けていたとしたら、当然平家は、元の軍事力や経済力に関する情報も、鎌倉政権よりははるかにたくさん持っていたはず。
そうなれば、元の強さも、その目的も素早く理解しただろうから、その使者を切って、フビライを怒らせるようなこともなかったろう。
元の目的は、侵攻ではなく、通商と同盟だったといわれている。
当時まだ華南に勢力を張っていた 「南宋」 を牽制するために、元は日本と同盟を結びたかったのだろうというのが、最近の有力説だ。
交易を経済の中枢に置く政権ならば、そのあたりの呼吸を図るのはうまいはず。
平家ならば、「蒙古襲来」 を招くこともなく、日本の独立性を保ちながら元とも上手につきあっていたに違いない。
もちろんこういう 「if」 に、反論を唱える人はいるだろう。
「清盛の死後、清盛の遺志を継ぐような逸材が出てこなかったのだから、平家一門に日本国家を運営する力があったとは思えない」
そう思う人も多いはずだ。
果たしてそうだろうか。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続く戦いで、未来の可能性を試す場もなく死んでいった平家の若者は多かった。
これらの中に、未来の平家をリードしていく逸材がいなかったとは誰がいえよう。
歴史は常に勝者の手によって編まれる。
だから、敗者の実現しなかった 「可能性」 は、勝者の編んだ歴史が生まれるとともに、姿を消す。そして大地の底に横たわる化石となって、遠い未来の発掘者が訪れるまで、眠りにつく。
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