2008年05月18日
退屈って素敵だ
入院していると、退屈だった。
だけど、「退屈」ってのは、決して悪いことではない。
とても贅沢なものだと思う。
元気に働いているときは、つまらないことを考える時間がない。
しかし、退屈だと、つまらないことを深く考える。
「日本の国語教育はこれでいいのか?」
…なんて、まぁ、忙しい時はそんな問題意識そのものが浮かんでこないが、退屈だと、そんなことをダラダラと考え込んで、とても気持ちがよい。
病院の売店で買った 『文藝春秋』 6月号をベッドの上でパラパラと開いていたら、「言葉をめぐる憂国鼎談」 という記事が載っていた。
国語学者の大野晋氏、作家の丸谷才一氏、井上ひさし氏の3人が、日本の国語教育について語っていた。

ふだん、あまりこういうものは読まない。
この世代の人たちが集まると、だいたい、「最近の日本語は乱れている」 というような話に終始することが多い。そういう話は、ともすれば教養人の懐古趣味で終わることが多く、言葉が生成する現場の感覚からズレてしまったりする。
だから、普段だったら敬して遠ざけたりするのだが、退屈だから、いそいそと読んだ。
確かに、「最近の日本語は乱れている」 というような流れには変わりなかったけれど、外国の国語教育の話が出ていて面白かった。
たとえば、日本の国語教育では、よく 「これを書いたときの作者はどういう気持ちだったでしょうか。次の三つの中から選びなさい」 …風の設問設定が使われるけれど、イギリスの英語教育などでは、そんな “幼稚な” ことはしないのだという。
生徒にシェークスピアの 『マクベス』 をしっかり読ませ、「マクベスの王様殺しが起こった翌日のロンドン・タイムスを作りなさい」 というような問題が出るらしい。
すると、
「どうしてイギリスでは、王様殺しをした人間が王朝を継続できるのか」 と社説風に真面目に論じる生徒がいると思えば、小さなベタ記事にして、「後任にマクベス氏有力」 とすっぱ抜き風の記事を書く生徒もいるという。
へぇ~…と思った。
なんか楽しそうだ。
あるいは、トーマス・マンの 『魔の山』 を読ませて、自分の考えや感想を入れず、とにかく作品を短くまとめさせるというようなことをやらせるらしい。
日本では、まず作品に対する感想を述べることが優先される。
しかし、本の後書きに出てくる解説を書き直したような 「感想文」 を書くことよりも、要約することの方が、よほど国語力を高めることになるらしい。
要約するためには、物語としての起承転結をきちんと把握しなければならない。
しかも、「短く」 という制限が設けられているので、物語の中の何を残し、何を切り捨てるかという自分なりの選択基準が確立されていなければならない。
こういう訓練を繰り返すことによって、たとえば、将来商品開発などをするときに、商品にまつわるストーリーを消費者に訴える力が付いたりするとか。
ほぉ…なるほどな。
自分の仕事にも関係しそうな話で、とっても面白かった。
昔、別の本で、「好きな映画のテーマを説明すること」 が、一番手っ取り早い文章訓練になるというのを読んだことがあった。
感想ではない。
テーマ。
つまり、「好き嫌い」 を超えて、その映画の客観的な面白さを、いかに第三者に伝えるか。
映画の構成要素は非常に複雑だ。
監督の演出に重きを置くか。
俳優の演技に視点を合わせるか。
映像処理に注目するか。
音楽に注意を払うか。
観た人間の関心の持ち方で、テーマの捉え方が微妙に異なる。
それを意識的に追求していくことが、けっこう文章修行になるらしい。
ま、そんなことをつらつら考えながら、眠くなったらそのまま目をつぶる。
「病院で退屈する」 って、ホントに素晴らしい。
だけど、「退屈」ってのは、決して悪いことではない。
とても贅沢なものだと思う。
元気に働いているときは、つまらないことを考える時間がない。
しかし、退屈だと、つまらないことを深く考える。
「日本の国語教育はこれでいいのか?」
…なんて、まぁ、忙しい時はそんな問題意識そのものが浮かんでこないが、退屈だと、そんなことをダラダラと考え込んで、とても気持ちがよい。
病院の売店で買った 『文藝春秋』 6月号をベッドの上でパラパラと開いていたら、「言葉をめぐる憂国鼎談」 という記事が載っていた。
国語学者の大野晋氏、作家の丸谷才一氏、井上ひさし氏の3人が、日本の国語教育について語っていた。
ふだん、あまりこういうものは読まない。
この世代の人たちが集まると、だいたい、「最近の日本語は乱れている」 というような話に終始することが多い。そういう話は、ともすれば教養人の懐古趣味で終わることが多く、言葉が生成する現場の感覚からズレてしまったりする。
だから、普段だったら敬して遠ざけたりするのだが、退屈だから、いそいそと読んだ。
確かに、「最近の日本語は乱れている」 というような流れには変わりなかったけれど、外国の国語教育の話が出ていて面白かった。
たとえば、日本の国語教育では、よく 「これを書いたときの作者はどういう気持ちだったでしょうか。次の三つの中から選びなさい」 …風の設問設定が使われるけれど、イギリスの英語教育などでは、そんな “幼稚な” ことはしないのだという。
生徒にシェークスピアの 『マクベス』 をしっかり読ませ、「マクベスの王様殺しが起こった翌日のロンドン・タイムスを作りなさい」 というような問題が出るらしい。
すると、
「どうしてイギリスでは、王様殺しをした人間が王朝を継続できるのか」 と社説風に真面目に論じる生徒がいると思えば、小さなベタ記事にして、「後任にマクベス氏有力」 とすっぱ抜き風の記事を書く生徒もいるという。
へぇ~…と思った。
なんか楽しそうだ。
あるいは、トーマス・マンの 『魔の山』 を読ませて、自分の考えや感想を入れず、とにかく作品を短くまとめさせるというようなことをやらせるらしい。
日本では、まず作品に対する感想を述べることが優先される。
しかし、本の後書きに出てくる解説を書き直したような 「感想文」 を書くことよりも、要約することの方が、よほど国語力を高めることになるらしい。
要約するためには、物語としての起承転結をきちんと把握しなければならない。
しかも、「短く」 という制限が設けられているので、物語の中の何を残し、何を切り捨てるかという自分なりの選択基準が確立されていなければならない。
こういう訓練を繰り返すことによって、たとえば、将来商品開発などをするときに、商品にまつわるストーリーを消費者に訴える力が付いたりするとか。
ほぉ…なるほどな。
自分の仕事にも関係しそうな話で、とっても面白かった。
昔、別の本で、「好きな映画のテーマを説明すること」 が、一番手っ取り早い文章訓練になるというのを読んだことがあった。
感想ではない。
テーマ。
つまり、「好き嫌い」 を超えて、その映画の客観的な面白さを、いかに第三者に伝えるか。
映画の構成要素は非常に複雑だ。
監督の演出に重きを置くか。
俳優の演技に視点を合わせるか。
映像処理に注目するか。
音楽に注意を払うか。
観た人間の関心の持ち方で、テーマの捉え方が微妙に異なる。
それを意識的に追求していくことが、けっこう文章修行になるらしい。
ま、そんなことをつらつら考えながら、眠くなったらそのまま目をつぶる。
「病院で退屈する」 って、ホントに素晴らしい。

自分も忙しかったので、久々にブログを見てびっくりしました。退屈を楽しんでお大事になさってください。
今回のテーマはおもしろかったです。
この記事を自分も読んで、生徒達にも話したいと思いました。
ベッドの上だから見える視点で、お体の許す限りでかまわないので、自分達の感性を刺激してください。
一日も早い退院をお祈りしています。
>「ベッドの上だから見える視点」!
あいかわらずブタイチさんらしい目の付け所ですね。
シェークスピアの 「マクベス」 をテーマに新聞記事を書かせるなんて、さすがイギリスの英語教育は粋ですよね。
日本でも、漱石の 「坊ちゃん」 を、敵役の赤シャツや野太鼓の立場に立って、「坊ちゃん」の困ったところを述べよ…なんて国語のテストが出たら面白いと思います。
お気遣いありがとうございます。今は退院して、月曜から出社しています。
「体を動かさずに欲しいものが手に入る時代になったことで、人間は体の感覚を忘れてしまったのではないでしょうか。身体性を伴わない言葉と、伴っている言葉では、何かが違う気がします。」
そういう井上ひさしの言葉が目にとまりました。
そういうこと言うのは簡単だけど…どれだけの差があるのか?だせるのか?
実体験からでる言葉の重みを意識して、旅の風景を書いていきたいと思いました。
そう書き込もうとしたら…
町田さんがいよいよ渡米だとか…
楽しみです!
実体験から出る 「言葉の重み」 。
それって、絶対あるように思います。
おそらく、実体験から出た言葉というのは、多くの説明が省かれた、単純なワードで構成されたものになっているような気がします。ブタイチさんのフォトストーリーに添えられたシンプルなキャプションのように。