2008年02月05日
ハードボイルド7
【 ハードボイルド研究ノート7 】
《 ハードボイルドの歴史は3千年 》
「ハードボイルド小説はもう古いですねぇ」
…というのは、既に20年ぐらい前から、小説雑誌の編集者たちからは当たり前のようにささやかれていたことらしい。
たぶん、そういう人たちはハードボイルドを、小説の 「ジャンル」 と勘違いしていたのだろう。

ハードボイルドは、この連載の冒頭で述べたように、あくまでも 「文体」 のことであって、小説のジャンルを意味するものではない。
だから、ハードボイルドタッチというのは、純文学にも、SFにも、恋愛小説にもある。
どこにでもあるし、大昔からある。
古くは、ホメロスの 『イリアス』 と 『オデッセイア』 。
あれなんか、見事にハードボイルドであった。
ホメロスは、勇壮なタッチで、古代ギリシャの英雄たちの行動を詳細に描いた。筋肉の力動感を、飛び散る汗を、青銅の武具の輝きを。
しかし、彼は英雄たちの内面は描かなかった。

この時代、登場人物の内面を描くという近代的手法がなかったから当たり前のことかもしれないが、まさに、あれらの作品は、作者のポジションを 「カメラ・アイ」 に徹した位置に据えたという意味で、奇しくも20世紀に生まれたハードボイルドと同じ効果をもたらしていた。
純文学では、どう考えてもハードボイルドとしてしか読めないようなものがある。
アルベール・カミュの 『異邦人』 だ。

「今日、ママンが死んだ。もしかしたら、きのうかもしれない。“ハハ、シンダ” というだけの病院からの通知では、いつのことか分からない」 (うろ覚えだから正確ではない)。
…という有名な書き出しで始まる 『異邦人』 という小説は、チャンドラーやパーカー以上に、ハードボイルドの見本のような作品だった。
主人公ムルソーには哲学はあるが、「内面」 はない。
あの小説が衝撃的だったのは、実存主義のせいでも、不条理のせいでもなく、ものの見事にハードボイルドだったからである。
SF小説では、堀晃氏の 『太陽風光点』 が、まぁ、あっぱれなハードボイルドだった。
主人公はしがない惑星探索員。人の気配の絶えた惑星から惑星へと、ただ探索して回ることだけを仕事としている。

話し相手は、ロボットのような (というより宇宙生物の) トリニティだけ。
しかし、そのトリニティには内面があるのかないのか分からないので、人間同士のような会話が成り立たない。
主人公が、荒涼とした惑星を探索機で調査していく描写は、マーロウがオールズモービルに乗って、砂漠のようなロサンゼルスを、独りつぶやきながら周遊している感じに似ている。
その、作品全体に漂う空漠たる寂寥感は、まさにチャンドラーのマーロウが味わう孤独感にきわめて近いものがあった。
恋愛小説では、初期の吉行淳之介氏などの作品は、一種のハードボイルドといってもいいのではなかろうか。
もちろん男と女の心理の綾が、彼の小説の主要テーマであることは間違いない。
しかし、それが本当の心理描写なのか? というと、そうではない。
そこに描かれる女というのは、実は、ただの男の自意識で捉えた女にすぎず、相手の女が、どう考えているのか、何を感じているのかは、まったく男の 「カメラ・アイ」 でとらえた映像でしかない。

吉行淳之介は、男と女の心の絡みを丹念に描く作家だと思われがちだが、実はそうではなく、女 …あるいは主人公以外の男も含め…、「他者の不可解性」 を描いた作家である。
この人も、「恋愛ハードボイルド」 というジャンルがあったなら、その筆頭にあげていい人ではなかろうか。
評論・文芸批評のジャンルでもハードボイルドはある。
柄谷行人氏だ。
「簡潔、明瞭、削りに削って、なお強靭な文体」 というのが、ハードボイルドの特徴ならば、それをそっくり評論の世界で実践しているのが柄谷行人氏だ。
初期の 『畏怖する人間』 、『意味という病』 の頃は、タイトルからも察せられるように、実に美文調であり、叙情性があったが、『マルクスその可能性の中心』 から 『隠喩としての建築』 に至る過程で、どんどん叙情性を削り、『探求Ⅰ~Ⅱ』 ぐらいの頃になると、もう、完璧にハードボイルド。
それでいて、ますます切れ味の鋭い日本刀のような凄みを持った。

柄谷氏に関しては、「美学がない」 と批判する批評家もいたが、何よりもその文体が 「美」 であったように思う。
小難しい思想的なことになると、よく分からないことが多い人だが、少なくともその文体には酔える。
以上、ハードボイルドは、決してエンターティメントの領域だけではなく、その文体でなければ表現できない世界というものをあらゆるジャンルで創り出している。そういった意味で、きわめて普遍性を持った表現形式であるように思う。
《まとめ = やつらは大人なんだよ》
こういうレポートをまとめてつらつら思うに、ハードボイルドというのは、「大人の叙述形式」 だということ。
ハードボイルド小説の主人公たちが私立探偵だというのは、実に象徴的だ。
私立探偵というのは、依頼人の要請があって初めて仕事が始まる。
私立探偵を必要としているのは、警察にいえない事情があったり、人に隠しておかなければならない秘密を抱えたような人たちだ。
そういう人たちは、自分の力だけではどうしようもない、せっぱ詰まった状況に追い込まれている。
そういう人々の依頼を受けて、ハードボイルド小説の主人公たちは、黙って、ときには無愛想に、相手に救いの手を差し伸べる。
人生相談に乗るわけでもないし、説教するわけでもない。(説教する探偵もいることはいるけれど…)
そして多くは、事件が解決すれば、あっさりと事務的に引き下がる。
それは、ある意味で 「大人の態度」 そのものだ。
悩みを抱えた人を迎え、相談に乗ってやるだけが大人ではない。
一緒に嘆いてやるだけでも、大人ではない。
ましてや、カツを入れると称して、怒鳴って説教したりするなんてのは、全くもって、大人ではない。
大人は、他人の悩みでも、それを解決するのは本人でしかないというような問題には、最初から手を出さない。放っておく。無視する。
それは、大人の冷たさかもしれないし、いやらしさかもしれない。
しかし、他人の力がなければ解決できない悩みというものもある。
そういう悩みを抱えた相手が必死になって依頼してくれば、そのときは全身全霊を打ち込んで、相手の立場を救う。
時に、共倒れになることがあっても、それを覚悟で受けて立つ。
そのかわり、成功報酬はもらう。
このクールさを備えることが、ハードボイルド小説の主人公の条件となる。

彼らは、最初から 「良い人」 として見られることをあきらめている。
「良い人」 は、自分が相手を救ってあげたことを自己満足に代えて、相手の感謝を、自己の快楽に変える。
ハードボイルド小説の主人公たちは、それをいさぎよしとしない。
彼らが、人間関係をビジネスと割りきるような 「私立探偵」 をやっているのは、実は、「他人を救ってやった」 という自己満足に恥ずかしさを覚えるからだ。
この 「恥」 の感覚を知るかどうかが、大人になるかどうかの別れ道。
ハードボイルド小説の主人公たちが、滑稽なまでのストイシズムを貫くのは、そのようなことで、人から安易なリスペクトを得ようとするさもしい自分を恥じ入る気持ちがあるからだ。
感謝されて (あるいは尊敬されて) ちやほやともてはやされれば、感謝された人間の 「自我」 は満足する。
でも、自我の充足を無邪気に喜ぶのは、子供でしかない。
ハードボイルド小説に流れるストイックな精神というのは、子供のような 「自我」 の肥大を無条件に肯定する近代社会への抵抗でもある。
そのことを自覚した大人の男たちが登場する、大人の表現形式。
それがハードボイルドだ。
…と、ひとまず結論じみたことを言ってお茶をにごしたところで、このレポートを終わりたい。
(終)
関連記事 「日本のハードボイルド野郎たち 6」
《 ハードボイルドの歴史は3千年 》
「ハードボイルド小説はもう古いですねぇ」
…というのは、既に20年ぐらい前から、小説雑誌の編集者たちからは当たり前のようにささやかれていたことらしい。
たぶん、そういう人たちはハードボイルドを、小説の 「ジャンル」 と勘違いしていたのだろう。
ハードボイルドは、この連載の冒頭で述べたように、あくまでも 「文体」 のことであって、小説のジャンルを意味するものではない。
だから、ハードボイルドタッチというのは、純文学にも、SFにも、恋愛小説にもある。
どこにでもあるし、大昔からある。
古くは、ホメロスの 『イリアス』 と 『オデッセイア』 。
あれなんか、見事にハードボイルドであった。
ホメロスは、勇壮なタッチで、古代ギリシャの英雄たちの行動を詳細に描いた。筋肉の力動感を、飛び散る汗を、青銅の武具の輝きを。
しかし、彼は英雄たちの内面は描かなかった。
この時代、登場人物の内面を描くという近代的手法がなかったから当たり前のことかもしれないが、まさに、あれらの作品は、作者のポジションを 「カメラ・アイ」 に徹した位置に据えたという意味で、奇しくも20世紀に生まれたハードボイルドと同じ効果をもたらしていた。
純文学では、どう考えてもハードボイルドとしてしか読めないようなものがある。
アルベール・カミュの 『異邦人』 だ。
「今日、ママンが死んだ。もしかしたら、きのうかもしれない。“ハハ、シンダ” というだけの病院からの通知では、いつのことか分からない」 (うろ覚えだから正確ではない)。
…という有名な書き出しで始まる 『異邦人』 という小説は、チャンドラーやパーカー以上に、ハードボイルドの見本のような作品だった。
主人公ムルソーには哲学はあるが、「内面」 はない。
あの小説が衝撃的だったのは、実存主義のせいでも、不条理のせいでもなく、ものの見事にハードボイルドだったからである。
SF小説では、堀晃氏の 『太陽風光点』 が、まぁ、あっぱれなハードボイルドだった。
主人公はしがない惑星探索員。人の気配の絶えた惑星から惑星へと、ただ探索して回ることだけを仕事としている。
話し相手は、ロボットのような (というより宇宙生物の) トリニティだけ。
しかし、そのトリニティには内面があるのかないのか分からないので、人間同士のような会話が成り立たない。
主人公が、荒涼とした惑星を探索機で調査していく描写は、マーロウがオールズモービルに乗って、砂漠のようなロサンゼルスを、独りつぶやきながら周遊している感じに似ている。
その、作品全体に漂う空漠たる寂寥感は、まさにチャンドラーのマーロウが味わう孤独感にきわめて近いものがあった。
恋愛小説では、初期の吉行淳之介氏などの作品は、一種のハードボイルドといってもいいのではなかろうか。
もちろん男と女の心理の綾が、彼の小説の主要テーマであることは間違いない。
しかし、それが本当の心理描写なのか? というと、そうではない。
そこに描かれる女というのは、実は、ただの男の自意識で捉えた女にすぎず、相手の女が、どう考えているのか、何を感じているのかは、まったく男の 「カメラ・アイ」 でとらえた映像でしかない。
吉行淳之介は、男と女の心の絡みを丹念に描く作家だと思われがちだが、実はそうではなく、女 …あるいは主人公以外の男も含め…、「他者の不可解性」 を描いた作家である。
この人も、「恋愛ハードボイルド」 というジャンルがあったなら、その筆頭にあげていい人ではなかろうか。
評論・文芸批評のジャンルでもハードボイルドはある。
柄谷行人氏だ。
「簡潔、明瞭、削りに削って、なお強靭な文体」 というのが、ハードボイルドの特徴ならば、それをそっくり評論の世界で実践しているのが柄谷行人氏だ。
初期の 『畏怖する人間』 、『意味という病』 の頃は、タイトルからも察せられるように、実に美文調であり、叙情性があったが、『マルクスその可能性の中心』 から 『隠喩としての建築』 に至る過程で、どんどん叙情性を削り、『探求Ⅰ~Ⅱ』 ぐらいの頃になると、もう、完璧にハードボイルド。
それでいて、ますます切れ味の鋭い日本刀のような凄みを持った。
柄谷氏に関しては、「美学がない」 と批判する批評家もいたが、何よりもその文体が 「美」 であったように思う。
小難しい思想的なことになると、よく分からないことが多い人だが、少なくともその文体には酔える。
以上、ハードボイルドは、決してエンターティメントの領域だけではなく、その文体でなければ表現できない世界というものをあらゆるジャンルで創り出している。そういった意味で、きわめて普遍性を持った表現形式であるように思う。
《まとめ = やつらは大人なんだよ》
こういうレポートをまとめてつらつら思うに、ハードボイルドというのは、「大人の叙述形式」 だということ。
ハードボイルド小説の主人公たちが私立探偵だというのは、実に象徴的だ。
私立探偵というのは、依頼人の要請があって初めて仕事が始まる。
私立探偵を必要としているのは、警察にいえない事情があったり、人に隠しておかなければならない秘密を抱えたような人たちだ。
そういう人たちは、自分の力だけではどうしようもない、せっぱ詰まった状況に追い込まれている。
そういう人々の依頼を受けて、ハードボイルド小説の主人公たちは、黙って、ときには無愛想に、相手に救いの手を差し伸べる。
人生相談に乗るわけでもないし、説教するわけでもない。(説教する探偵もいることはいるけれど…)
そして多くは、事件が解決すれば、あっさりと事務的に引き下がる。
それは、ある意味で 「大人の態度」 そのものだ。
悩みを抱えた人を迎え、相談に乗ってやるだけが大人ではない。
一緒に嘆いてやるだけでも、大人ではない。
ましてや、カツを入れると称して、怒鳴って説教したりするなんてのは、全くもって、大人ではない。
大人は、他人の悩みでも、それを解決するのは本人でしかないというような問題には、最初から手を出さない。放っておく。無視する。
それは、大人の冷たさかもしれないし、いやらしさかもしれない。
しかし、他人の力がなければ解決できない悩みというものもある。
そういう悩みを抱えた相手が必死になって依頼してくれば、そのときは全身全霊を打ち込んで、相手の立場を救う。
時に、共倒れになることがあっても、それを覚悟で受けて立つ。
そのかわり、成功報酬はもらう。
このクールさを備えることが、ハードボイルド小説の主人公の条件となる。
彼らは、最初から 「良い人」 として見られることをあきらめている。
「良い人」 は、自分が相手を救ってあげたことを自己満足に代えて、相手の感謝を、自己の快楽に変える。
ハードボイルド小説の主人公たちは、それをいさぎよしとしない。
彼らが、人間関係をビジネスと割りきるような 「私立探偵」 をやっているのは、実は、「他人を救ってやった」 という自己満足に恥ずかしさを覚えるからだ。
この 「恥」 の感覚を知るかどうかが、大人になるかどうかの別れ道。
ハードボイルド小説の主人公たちが、滑稽なまでのストイシズムを貫くのは、そのようなことで、人から安易なリスペクトを得ようとするさもしい自分を恥じ入る気持ちがあるからだ。
感謝されて (あるいは尊敬されて) ちやほやともてはやされれば、感謝された人間の 「自我」 は満足する。
でも、自我の充足を無邪気に喜ぶのは、子供でしかない。
ハードボイルド小説に流れるストイックな精神というのは、子供のような 「自我」 の肥大を無条件に肯定する近代社会への抵抗でもある。
そのことを自覚した大人の男たちが登場する、大人の表現形式。
それがハードボイルドだ。
…と、ひとまず結論じみたことを言ってお茶をにごしたところで、このレポートを終わりたい。
(終)
関連記事 「日本のハードボイルド野郎たち 6」
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