2007年12月01日
時間の止まる空間
本来 「人がいるべき場所」 に、誰もいないとき、私たちは不思議な気分にとらわれることがある。
たとえば、都会の駅のホームで人影が絶えたとき。
遊園地の観覧車が、人を乗せずに回っているとき。
そういう光景に接したとき、私たちは 「淋しい、怖い、空虚だ」 …という気持ち以外に、何か別の世界の気配を感じることがある。

私は、何もない、時間が止まったような場所が好きだ。
「地上のもの」 が姿を消した空間というのは、言葉を返せば、「地上でないもの」 が密かに降りてきている空間だと思えるからだ。
もう、20年ぐらい前。
出張で伊勢の方を回ったついでに、有名な伊勢神宮を参拝したことがある。
あそこでは、20年ごとに社殿や鳥居を別の場所に移す遷宮が行われる。
遷宮が予定されているという候補地を見た。
木々に囲まれただけの、見事なほどに何もない広場だった。
午後の木漏れ日を映した大地の上を、風だけが舞っていた。
そのとき、私は勝手に日本神道の本質を理解したような気分になった。
十字架や仏像のように、コアになるものをシンボライズせずにはいられないキリスト教や仏教と違って、神道の中心にあるものは 「無」 だった。
そこには、初めから神々などというものも、いなかったのだ。
「無」 であるからこそ、吹き渡る風が清々しかった。
その何もない空間は、紛れもなく 「この世とは異なる空間」 だったように思う。
いつ頃から、そんな風景に惹かれるようになったか分からない。
たぶん、エドワード・ホッパーという画家の絵を見るようになってからだと思う。
下の絵は、いずれもホッパーの作品。

温かい太陽光描かれているのに、どうしてこの二つの絵は、存在論的な不安感を見る者に抱かせるのだろう。
それは、「不在の空間」 が、とりもなおさず、人の住む世界とは異なる空気に満たされているということを、伝えてくるからだ。
その 「空気」 の正体が分からない。
いつの間にか、そんな風景が気になって、自分でも写真を撮るようになった。

▲ ビルに映る建物の影。
ただそれだけのことなのに、影が生きているように思える。

▲ どこにでもあるような、トンネル。
しかし、クルマも人影も、ふと途絶えたとき、その出口は別の世界につながる回路となる。

▲ 過去の遺物となった赤いポスト。
現在は、公園の中で、観光客サービスの景観としてのみ機能している。しかし、観光客たちの影がなくなると、ポストは、この世の手紙をあの世に送り始める。
高速道路のサービスエリアのような、利用目的があいまいなものをことさら排除しようとする合理的な空間においても、「無の空間」 がときどきヌッと顔を出すことがある。
中央道・談合坂のくだりSA。

▲ 周囲を壁に囲まれた、ひっそりとしたベンチ。
取り残されたベンチが、なぜか私に 「人の不在」 を強く語りかけたきた。
それを見たとき、「誰か」 ではなく、「何か」 が座っているように思えた。
淋しい風景とは何か。
それは、人影の見えない大自然などではない。
人のために供された空間に、人の不在を見つけたとき、「淋しい風景」 は生まれる。
しかし、そのとき、そこには必ず 「人」 以外の、何かが降りてきている。
たとえば、都会の駅のホームで人影が絶えたとき。
遊園地の観覧車が、人を乗せずに回っているとき。
そういう光景に接したとき、私たちは 「淋しい、怖い、空虚だ」 …という気持ち以外に、何か別の世界の気配を感じることがある。
私は、何もない、時間が止まったような場所が好きだ。
「地上のもの」 が姿を消した空間というのは、言葉を返せば、「地上でないもの」 が密かに降りてきている空間だと思えるからだ。
もう、20年ぐらい前。
出張で伊勢の方を回ったついでに、有名な伊勢神宮を参拝したことがある。
あそこでは、20年ごとに社殿や鳥居を別の場所に移す遷宮が行われる。
遷宮が予定されているという候補地を見た。
木々に囲まれただけの、見事なほどに何もない広場だった。
午後の木漏れ日を映した大地の上を、風だけが舞っていた。
そのとき、私は勝手に日本神道の本質を理解したような気分になった。
十字架や仏像のように、コアになるものをシンボライズせずにはいられないキリスト教や仏教と違って、神道の中心にあるものは 「無」 だった。
そこには、初めから神々などというものも、いなかったのだ。
「無」 であるからこそ、吹き渡る風が清々しかった。
その何もない空間は、紛れもなく 「この世とは異なる空間」 だったように思う。
いつ頃から、そんな風景に惹かれるようになったか分からない。
たぶん、エドワード・ホッパーという画家の絵を見るようになってからだと思う。
下の絵は、いずれもホッパーの作品。
温かい太陽光描かれているのに、どうしてこの二つの絵は、存在論的な不安感を見る者に抱かせるのだろう。
それは、「不在の空間」 が、とりもなおさず、人の住む世界とは異なる空気に満たされているということを、伝えてくるからだ。
その 「空気」 の正体が分からない。
いつの間にか、そんな風景が気になって、自分でも写真を撮るようになった。
▲ ビルに映る建物の影。
ただそれだけのことなのに、影が生きているように思える。
▲ どこにでもあるような、トンネル。
しかし、クルマも人影も、ふと途絶えたとき、その出口は別の世界につながる回路となる。

▲ 過去の遺物となった赤いポスト。
現在は、公園の中で、観光客サービスの景観としてのみ機能している。しかし、観光客たちの影がなくなると、ポストは、この世の手紙をあの世に送り始める。
高速道路のサービスエリアのような、利用目的があいまいなものをことさら排除しようとする合理的な空間においても、「無の空間」 がときどきヌッと顔を出すことがある。
中央道・談合坂のくだりSA。
▲ 周囲を壁に囲まれた、ひっそりとしたベンチ。
取り残されたベンチが、なぜか私に 「人の不在」 を強く語りかけたきた。
それを見たとき、「誰か」 ではなく、「何か」 が座っているように思えた。
淋しい風景とは何か。
それは、人影の見えない大自然などではない。
人のために供された空間に、人の不在を見つけたとき、「淋しい風景」 は生まれる。
しかし、そのとき、そこには必ず 「人」 以外の、何かが降りてきている。

いや、哲学的かな?
私も先日、自宅の近所を散歩しているとき、ふと気がつくと回りに誰もいない事に気がつきました。クルマも猫も鳥さえもいない。建物だけが理路整然と並んでいる訳です。
そのとき、ふと不安な気持ちになり、別の世界、というキーワードがアタマに浮かびました。
別の世界?
私たちが暮らす世界の他に、同時に別の世界が同じ場所に存在する、と仮定する。ちょっと私のアタマをよぎったミステリーなのですが、こうした場面に遭遇したとき、私たちは不安と同時に何かの存在を意識せざるを得ないと思います。
それは時間の差異などというものではなく、やはりパラレル・ワールドに入り込んでしまった者を見下ろす、宇宙の意志みたいなものなのでしょうかね?
それにしてもホッパーの作品は魅力的ですよね!
時間が止まったような、静かな空間というのは、もしかしたら、太古の人類が当たり前のように暮らしていた空間なのかもしれませんね。
「タイムライン」という、中世のヨーロッパに時空飛行してしまった現代人を描いた小説があるのですが、それを書いたマイケル・クライトンという作家は、現代人が中世に飛んでいちばん感じるのは、「静寂の重み」であると表現していました。
「不在の空間」が異様に感じられるというのは、過去の世界に暮らしていた人々が共有していた「空間」が、現代の文明社会から抜け落ちているということだけなのかもしれません。
だから、現代社会に出現する「不在の空間」には、静寂の重みを感じながら生きてきた人類の記憶が詰まっているといえるのかも。
そういう場所を、私は「スピリチュアル」な空間だと感じている次第です。
さすが、色々なイベント会場をご存知のTJさんですね。
ピンポン! いちばん最初の写真は、ご指摘のとおり 「インテックス大阪」 です。イベント開催時はいつも大入満員の会場ですが、突然、このように時間が止まったような瞬間が訪れることがあります。ほんの一瞬だけでしたけれど…。
見慣れたはずの光景なのに、「時間と空間の歪み」 のようなものが訪れるという感覚は、人間にはみなあるわけなんですね。
不思議です。
それが宇宙人の仕業なら、そういう瞬間を与えてくれたことに感謝しなければなりませんね。やっぱり、そういう気分を味わうことで、人間は心をリフレッシュさせているようにも思えます。